また、二十挺
休みというものは、思っていたより難しかった。
朝から工房の前まで行ってお志乃に笑われた俺は、その後も何度か身体が勝手に仕事を探そうとするのを止めながら一日を過ごした。吉松に捕まって庭で遊び、新三郎から善右衛門の商売について質問攻めにされ、お千代に頼まれて水を運び、昼を食ったあとには珍しく昼寝までした。
何もしない一日は長いようで、終わってみれば妙に短かった。
そして翌朝、工房へ入った俺は少し安心した。
火床に火が入り、槌の音がして、鑢が鉄を削る音がする。二十挺のために張り詰めていた空気はなくなり、壁の右端に並んでいた札も外されていたが、いつもの榊屋がそこにあった。
「やっぱ仕事しとる方が落ち着くな」
「病気ちゃうか」
弥吉に言われた。
「お前に言われたないわ」
「俺、昨日ちゃんと休んだで」
「何しとった?」
「寝て、飯食うて、酒飲んで、また寝た」
「完璧やん……」
休むことに関しては、俺より弥吉の方が明らかに熟練工だった。
二十挺の仕事が終わっても、変わったものはいくつか残っていた。
札は全部なくしたわけではなく、五平が「ある方が楽や」と言ったので、納期の近い仕事だけ簡単に掛けている。佐吉は以前より弥吉を呼ばなくなり、どこまで自分で進め、どこから先を任せるかを考えて動くようになった。
一方で、すべてが劇的に変わったわけでもない。
弥吉は相変わらず忙しいし、五平は自分のやり方で仕事を進める。甚助は木を削り、喜兵衛は細かな金具を睨み、藤吉は一度に二つのことを聞いて佐吉に「一個ずつ聞け」と怒られていた。
二十挺を作ったからといって、翌日から別の工房になるわけではないらしい。
それでよかった。
俺も自分の仕事へ戻り、午前のうちに一つ金具を仕上げた。昼を過ぎたころには、このまま何日か普通の仕事をして、二十挺で取った記録を少しずつ整理しようと考えていた。
善右衛門が来たのは、その時だった。
「虎松」
「嫌や」
「まだ何も言うてへんぞ」
工房へ入ってきた善右衛門が足を止めた。
「その顔で分かる」
「俺、どんな顔しとんねん」
「仕事持ってきた顔」
「商人が仕事持ってきて何が悪い」
「昨日休んだばっかりやぞ」
「知らんがな」
善右衛門は呆れた顔をしながら、そのまま奥へ進んでいく。親父も気づいたらしく、作業台から顔を上げた。
「なんや」
「この前の二十挺な」
嫌な予感がした。
善右衛門は俺を見た。
「評判ええで」
「……へえ」
それは素直に嬉しかった。
前の二十挺は、納期に間に合わせることだけを考えて作ったわけではない。親父から何度も言われた通り、品質を落とさないことは最初から最後まで守った。途中で急げるところは急いだが、急いではいけないところでは止めた。
その結果が、買った相手にもちゃんと伝わったらしい。
「どこへ行ったんや、あれ」
「尾張方面や」
「尾張?」
「向こうの商人を通してな。誰が最後に使うとるかまでは俺も知らん。織田方の侍に流れとるんちゃうかとは聞いとるが」
尾張。
聞き覚えのある地名に、一瞬だけ頭の奥で何かが引っかかった。
織田。
さすがにその名前くらいは知っている。俺は歴史好きではなかったが、戦国時代の有名人まで知らないわけではない。ただ、今がその有名人の人生でいえばどの辺なのか、何をしている時期なのかまでは分からなかった。
それに、今の俺には尾張の情勢より目の前の善右衛門の方が重要だった。
「それでな」
「帰れ」
「まだ言うてへん!」
「分かっとるわ!」
善右衛門がとうとう笑った。
「もう二十挺や」
「帰れ!」
工房のあちこちから笑い声が上がった。
弥吉は完全に手を止めている。五平は笑いながら首を振り、佐吉は聞こえなかったことにしたいらしく、ものすごく真剣な顔で手元の金具を見ていた。
「佐吉」
「はい」
「目ぇ逸らすな」
「俺、何も聞いてません」
「聞いとったやろ!」
「俺は普通の仕事がありますんで」
「薄情者!」
「若旦那、音頭取りですし」
こいつ、本当に強くなった。
親父だけは笑っていなかった。善右衛門の話を聞きながら腕を組み、少し考えている。
「納期は」
「前と同じ。一月ほどや」
「値は」
「前より少しええ」
「材料は」
「こっちで揃えられる。前みたいに遅れんよう、早めに動かす」
前回の反省を善右衛門もしていたらしい。
商人というのは恐ろしい。こちらが一か月かけて必死に改善した結果を、次の商売へ使うまでが早すぎる。
親父が俺を見た。
「どうや」
「どうや、って」
「できるんか」
俺はすぐには答えなかった。
前回なら、この質問をされた時点で工房の生産能力すら分からなかった。何挺がどこにあり、誰のところで止まり、材料がどれだけ必要なのかも見えていなかったから、答えようがなかった。
今は違う。
工程は一度通している。どこで仕事が詰まりやすいかも知っている。弥吉へ集まりすぎていた仕事は一部を佐吉たちへ渡せるようになったし、途中の工程で仕事を切り替えすぎれば遅くなることも分かった。
材料の必要量も前より精度よく見積もれる。二十挺を一度に全部始めず、工房の流れを見ながら順に入れていけばいい。
「できる」
善右衛門が笑った。
「ほな決まりやな」
「待て」
「なんや」
「できるけど、これ毎月やるんはきついぞ」
善右衛門の顔から笑みが少し消えた。
「今回できるんやろ?」
「できる」
「ほなええやん」
「よくない」
「なんでや」
俺は工房を見渡した。
前回の二十挺は確かに成功した。
ただし、あれは今の榊屋が余裕を持って二十挺増やせるようになったという意味ではない。
途中で詰まりを見つけるたびに仕事のやり方を変えた。弥吉の仕事を分け、佐吉に新しいやり方を覚えてもらい、五平たちにも順番を変えてもらった。宗次郎には記録を取らせ、俺自身も自分の仕事をしながら工房全体を見続けた。
最後には職人たちも自分で札を見るようになったが、それでも一か月ずっと二十挺を意識して動いていたことに変わりはない。
「前の二十挺は、今までのやり方の無駄を削って作ったんや。でも、削れる無駄が毎回同じだけ残っとるわけちゃう。次も同じようにできるとは思うけど、それを毎月やれ言われたら、どっかで無理が出る」
「ほな、どうする」
「それを今から考えるんや」
善右衛門が眉を寄せた。
「またか」
「またや」
「お前、仕事取ってくるたびに考え事増えとらんか」
「誰のせいやと思っとる」
「俺のおかげやな」
「前向きやなあ!」
今度は親父まで笑った。
*
その日の夕方、俺は宗次郎を捕まえた。
「兄上。またですか」
「何が」
「その顔です」
「善右衛門と同じこと言うな」
「善右衛門はん、また何か持ってきたんです?」
「二十挺」
宗次郎が黙った。
「……また?」
「また」
「この前終わったばっかりですよね」
「俺もそう言うた」
「断らなかったんですか」
「親父が断らんかった」
「兄上も、できるって言ったんでしょう」
「なんで分かるん」
「兄上ですから」
弟というものは、兄に対する評価が妙に正確で困る。
俺たちは前回の記録を広げた。
宗次郎が付けた入出の印、材料の帳面、二十挺を作っている間に俺が書き残した木札や紙片。きれいに整理された生産記録などではないが、一度目にはなかったものが手元に残っている。
今回は最初から詰まりそうな場所が分かる。必要な鉄や炭の量もおおよそ読めるし、どの仕事を弥吉へ残し、どこまで佐吉へ任せられるかも決まっている。
前回より楽になる要素は多かった。
それでも、気になることがあった。
「宗次郎。この前、仕上げ合わせで止まったやつ、どれやった?」
「何挺かありましたよ。どれです?」
「部品の方。佐吉が見本通り作ったけど、相手に合わんかったやつ」
「ああ」
宗次郎が記録を探し始める。
前回、俺たちは部品を最後まで佐吉に仕上げさせるのではなく、弥吉へ渡せるところまで進める方法を作った。見本も使った。
しかし同じように作ったつもりでも、相手側の部品が違えば、そのままでは合わないことがあった。
その時は、それでいいと判断した。
全部を同じにする必要はない。個々の鉄には癖があり、歪みも違う。最後の合わせまで無理に統一しようとすれば、かえって品質を落とす。
だから普通の仕事は一定のところまで進め、最後は弥吉や親父の腕へ渡す。
その考え自体は、今も間違っていないと思う。
ただし、毎月二十挺となれば話が少し変わる。
「ありました。三番と七番、それから十二番にも似た記録があります」
「三つか」
「何を見るんです?」
「同じでええところまで違うんちゃうかと思ってな」
宗次郎が俺を見る。
「同じでええところ?」
「最後に合わせなあかんところは、別に違ってええ。でも、穴の位置とか金具の幅とか、毎回変える必要ないところまで違っとったら、その分だけ合わせる仕事が増えるやろ」
「前は、同じにせんでええって言ってませんでした?」
「何でも同じにせんでええ、や」
「面倒ですね」
「物作るんはだいたい面倒や」
宗次郎は納得したような、していないような顔で記録へ戻った。
*
翌朝、俺は佐吉のところへ行った。
「ちょっとええ?」
「嫌です」
「お前まで弥吉みたいになってきたな!」
「この前ので学びました」
「悪い方向に成長すんな」
文句を言いながらも、結局付き合ってくれた。
見たかったのは、前回も何度か手間を食った小さな金具だった。佐吉が作ったものだけでなく、五平が作ったもの、弥吉が作ったもの、以前から残っているものも並べる。
どれも使える。
だが、並べてみると少しずつ違う。
「これ、なんで幅違うん?」
「相手に合わせたからです」
「こっちは?」
「それもです」
「これは?」
「たぶん五平さんです」
五平を呼んだ。
「なんや」
「これ、なんでこの幅なん?」
「その幅で合うたからや」
「最初からこの幅狙った?」
「いや。削って合わせた」
理屈としては正しい。
必要なところまで削り、相手に合わせる。それでちゃんとした鉄砲になるなら、一挺を作る上では何の問題もない。
俺は三つの金具を手に取り、今度は取り付ける側を見比べた。
「これ、取り付ける前の穴の位置って決まっとる?」
「だいたいこの辺や」
五平が指を置いた。
「どの辺?」
「この辺」
「何分?」
「知らん」
「測らんの?」
「合わせて開けるからな」
そうなるよな。
六年前なら、ここで「全部同じ位置にしよう」と言っていたかもしれない。
今は、まず本当に同じにしていい場所なのかを考える。材料の違いを吸収するために変えているのか。前後の加工との兼ね合いがあるのか。それとも単純に、同じである必要がなかったから決めていないだけなのか。
最後のものなら、決める価値がある。
「佐吉。これ、前と同じように何個か見せて」
「また比べるんです?」
「うん」
「何個?」
「とりあえず五つ」
「五つ好きですね」
「分からん時にちょうどええんや」
「根拠ないんですね」
「うるさい」
そこへ弥吉が寄ってきた。
「今度は何始めたん?」
「同じでええところ探し」
「また同じにするん?」
「全部ちゃう。違わんでええところだけ」
弥吉が並んだ金具を見る。
「それやったら、ここは揃えてもええんちゃう」
「なんで?」
「ここは最後に触らんから。こっちとこっちは合わせるけど、ここは最初に決めたらそのままや」
俺は指された場所を見る。
それが欲しかった。
どこを同じにできるかは、俺一人で決めることではない。実際に作っている人間が、どこで材料の差を吸収し、どこを最後に合わせているのかを知らなければならない。
「じゃあ、そこだけ寸法決めてみるか」
俺が言うと、五平が眉を上げた。
「何寸にするん」
「今使っとるやつ測って、無理ないところに……」
言いながら、俺は近くにあった尺を取った。
金具へ当てる。
「……これ、五平の?」
「俺のや」
「佐吉、尺貸して」
「はい」
佐吉の尺を受け取り、同じところへ当てた。
俺は目を細めた。
もう一度、五平の尺を当てる。
佐吉の尺へ戻す。
念のため、二本を直接重ねてみた。
端を揃える。
目盛りを見る。
「……なあ」
「なんや」
「これ、同じ一寸やんな?」
「そら一寸やろ」
「違うで」
五平が覗き込み、佐吉も横から見る。弥吉が俺の手から二本を取って重ねた。
「ほんまやな」
「ちょっとやろ」
五平はそう言った。
確かに、ちょっとだった。
一挺の鉄砲を作るだけなら、その程度は何の問題にもならないのかもしれない。尺で大まかに取り、最後は相手へ合わせればいい。親父や弥吉や五平なら、その違いごと仕事の中で吸収してしまう。
でも、二十挺を作る。
また二十挺作る。
その先も作るかもしれない。
俺は二本の尺を見た。
部品の寸法を揃える話をする前に、もっと手前にあるものが揃っていなかった。
「弥吉」
「ん?」
「親父呼んで」
「なんで?」
「たぶん、また面倒な話になる」
弥吉は俺の手の中の二本の尺を見て、それから露骨に嫌そうな顔をした。
「善右衛門も呼ぶ?」
「なんでや」
「親方と喧嘩するとき、味方いるやろ」
「……呼ぼか」
二十挺をもう一度作る話をしていたはずだった。
どうやらその前に、俺たちは一寸がどれだけ長いのかを決めなければならないらしい。




