榊家、休む
二十挺目の試し撃ちを終えた、その日の夕方だった。
善右衛門も帰り、工房では片付けが始まっていた。
二十枚の札は、まだ壁の右端に並んでいる。明日になれば外してもいいのだが、今日くらいは残しておきたかった。別に誰かに見せるわけでもない。ただ、あれだけ毎日睨み続けた札が全部同じところに並んでいるのを見ると、なんとなく外す気になれなかったのだ。
弥吉が鑢をしまい、五平が火床の灰を片付けている。佐吉は作業台の上に残った細かな金具を箱へ戻していた。
俺も自分の道具を片付けながら、明日から通常の仕事をどう戻すか考えていた。
この一か月、止めてはいないとはいえ、二十挺を優先するために順番を後ろへずらした仕事はいくつかある。材料の残りも確認したいし、今回取った記録も一度まとめておきたい。札の使い方だって、次にそのまま使えるとは限らない。
頭の中で明日の仕事を並べていると、親父が工房の真ん中で言った。
「明日、閉めるぞ」
手が止まった。
俺だけではない。弥吉も、五平も、佐吉も止まった。
「……何を?」
「工房や」
「なんで?」
「休むからや」
分かっている。
言葉の意味は分かっているのだ。
ただ、親父の口から出た意味が分からない。
「親父、熱あるんか?」
「虎松」
「はい」
「休み、やめよか?」
「ありがとうございます」
即答した。
横で弥吉が吹き出し、五平まで肩を揺らしている。親父は鼻を鳴らすと、それ以上説明することなく奥へ引っ込んだ。
「……ほんまに休み?」
佐吉が小声で聞いた。
「俺に聞くな。俺が一番驚いとる」
「雪でも降るんちゃうか」
五平が外を見た。
「夏やぞ」
「ほな槍でも降るんやろ」
「それは休みどころちゃうやろ」
ずっと張り詰めていたものが、ようやく切れた気がした。
*
ところが、話はそれだけではなかった。
夕餉の少し前、母屋の前へ工房の者が集められた。普段なら職人はそれぞれ家へ帰る者もいれば、榊屋で飯を食う者もいる。今日は全員残れと、お志乃が昼のうちから言っていたらしい。
庭には筵が敷かれ、酒の徳利と料理が並んでいた。魚、煮物、豆腐、それに普段より明らかに多い飯。豪勢な宴というほどではないが、十人を超える職人へ食わせるとなれば相当な量になる。
「母上、これ何なん?」
隣にいた宗次郎が聞いた。
「見たら分かるやろ。ご馳走や」
「そうではなくて」
「二十挺、ちゃんと納めたんやろ?」
「はい」
「ほな、その祝い」
宗次郎が俺を見た。
俺も宗次郎を見る。
「聞いとった?」
「いいえ」
「俺も」
「二人とも邪魔やから、運ぶんやったら運ぶ。食べるんやったら座る」
「はい」
「はい」
兄弟揃って追い払われた。
その時、母屋の中から小さな影が飛び出してきた。
「兄上!」
「うおっ」
腹へ突っ込んできたのは三男の新三郎だった。今年九つになる。
俺とは七つ違い、宗次郎とは三つ違いだが、こいつは昔から工房より店先や町へ出る方を好んだ。善右衛門が来ると、仕事の邪魔にならないぎりぎりのところをうろつき、どこから来た荷だの、船はどこへ行くだのと聞いている。
「善右衛門はん、もう帰ったん?」
「帰ったで」
「なんで止めてくれへんかったん!」
「知らんがな」
「聞きたいことあったのに」
「今度来たとき聞け」
「いつ?」
「俺が知るか」
不満そうな顔をしていると、その後ろから七つの妹が出てきた。
「新三郎、邪魔したらあかん言われたやろ」
長女のお千代である。
七歳にして、すでに新三郎より落ち着いている。お志乃の手伝いをすることが多く、今日も小さな盆を両手で抱えていた。
「邪魔してへん」
「兄上にぶつかっとったやん」
「話しとっただけや」
「腹から?」
「新三郎は腹で話すんやろ」
俺が言うと、お千代が笑った。
「虎松兄まで遊ばんといて。これ運んで」
「はい」
なんで俺は母にも妹にも使われているのだろう。
盆を受け取ったところで、今度は庭の向こうから声がした。
「俺も鉄砲作る!」
四男の吉松だった。四歳。
何をしているのかと思えば、落ちていた棒を火縄銃のつもりで肩へ担ぎ、職人たちの間を歩いている。
「吉松、それ置け」
「鉄砲や!」
「棒や」
「鉄砲!」
「ほな人に向けんな」
「なんで?」
「鉄砲やからや!」
鉄砲であることだけは認めることにした。
その吉松を五平がひょいと持ち上げた。
「お前が鉄砲作るんは、まだ早いわ」
「虎松兄は作っとる!」
「俺十六やぞ!」
「俺も!」
「お前四つや!」
「四つや!」
「知っとるわ!」
周囲から笑い声が上がった。
その騒ぎをまるで気にせず、お志乃の膝の上では末の妹が匙を握っていた。
まだ一つになったばかりのお小夜である。
兄弟の中で唯一、俺が十歳で目覚めた時にはまだいなかった。
当然だが、こいつだけは俺にとって「最初から知っていた家族」ではない。
生まれた時から見ている、俺の妹だった。
*
日が落ちるころには、工房の連中もすっかりくつろいでいた。
仕事中は必要なことしか話さない甚助まで酒を飲んでいる。四十を少し過ぎた古株で、木を扱わせれば工房で一番うまい。台木の仕事を任されることが多く、俺が子供のころから親父の横にいた男だ。
その隣では喜兵衛が佐吉と何か言い合っていた。
三十前の職人で、細かな金具や仕掛けを作るのが得意である。弥吉ほど何でもできるわけではないが、細工物になると妙にしつこい。俺が作った当て金にも早い段階から興味を示し、「これ、別の形にも使えるんちゃうか」と勝手に試したことがある。
さらにその横では、藤吉がもう顔を赤くしていた。佐吉より少し若い十九で、まだ仕事を一人で任せきれるほどではない。腕は悪くないが、とにかくよく喋る。
「若旦那、聞きました?」
「何を?」
「甚助さん、親方が若いころ知っとるらしいですよ」
「そら知っとるやろ」
「よう失敗しとったらしいです」
俺は甚助を見た。
「詳しく」
「虎松」
離れたところから親父の声が飛んできた。
「まだ何も聞いてへんやろ!」
「聞かんでええ」
「なんでや!」
甚助が杯を持ったまま笑っている。
「親方も昔はなあ」
「甚助」
「はい」
黙った。
「弱っ!」
「俺にも暮らしがあるんや」
もっともだった。
*
宴が始まってしばらくすると、親父が一度だけ席を立った。
何をするのかと思えば、職人を一人ずつ呼び、小さな包みを渡していく。
弥吉が受け取って中を見る。
「親方、ええんです?」
「働いた分や」
五平も包みを受け取った。
「多ないですか」
「いらんなら返せ」
「いただきます」
「早いな」
佐吉も、甚助も、喜兵衛も、藤吉も受け取った。
額は知らない。おそらく立場や働きに応じて多少違うのだろう。
俺は少し驚いた。
二十挺は利益の出る仕事だった。もちろん善右衛門へ渡す分もあり、材料代もある。だからといって、余った分を全部親父の懐へ入れるわけではないらしい。
「親父」
「なんや」
「前からこういうことしとったん?」
「儲かった仕事の時はな」
「知らんかった」
「お前が知らんだけや」
それはそうなのだが、少し悔しい。
俺はこの一か月、人をどう動かすか、仕事をどう流すかばかり考えていた。札を作り、詰まりを見つけ、作業を分け、材料を追いかけた。それで二十挺を完成させることはできた。
けれど工房は、工程だけで動いているわけではない。
働けば腹が減る。疲れれば休みたい。儲かれば少しくらい懐が温かくなってほしい。
そんな当たり前のことを、親父は俺よりずっと長く知っている。
「……まだまだやな」
「何がです?」
隣で宗次郎が聞いた。
「こっちの話」
「またですか」
「またや」
宗次郎は追及せず、魚へ箸を伸ばした。
*
酒が回るにつれ、普段は聞けない話も出てきた。
甚助は本当に親父の若いころを知っていた。
「親方も十七、八のころは気ぃ短うてな。鉄が言うこと聞かんかったら、鉄に怒っとった」
「鉄に?」
「『なんで曲がんねん!』言うて」
「親父!」
「昔の話や」
「俺と変わらんやん!」
「お前よりマシや」
「どこがや!」
弥吉が腹を抱えて笑っている。
「親方、若旦那に似とったんですね」
「似てへん」
「似とるなあ」
五平まで裏切った。
どうやら今日だけは親父の権威が少し弱い。
喜兵衛からは逆に、俺が十歳のころの話を聞かされた。
「若旦那、昔から急に変なこと言い出しましたからね」
「変なこと?」
「同じにせえとか、測れとか」
「六年前の話まだ覚えとんの?」
「そら覚えてますよ。十の子が工房入ってきて、弥吉捕まえて『なんで同じにせんの』言うてるんですから」
佐吉もうなずいた。
「俺、最初何言うてるか分からんかったです」
「今は?」
「半分くらい」
「六年かけて半分か」
「だいぶ増えましたね」
「お前、最近強なったな」
「弥吉さんに聞かんでもええこと増えましたから」
「そこまで俺の仕事減らしたかったん?」
弥吉が悲しそうな顔をした。
「探すの面倒なんです」
「理由そっち?」
また笑いが起こった。
五平も酒を飲みながら、壁のある方を顎で示した。
「札は残してええと思うで」
俺は少し驚いた。
「使うん?」
「ある方が楽や。次に何来るか分かるし」
「最初、いらん言うてへんかった?」
「使えるんなら使う言うたやろ」
「言うたな」
「使えた。それだけや」
いかにも五平らしい。
自分が考えた仕組みが認められたことより、その言い方の方が嬉しかった。
便利だから使う。
邪魔なら使わない。
それでいいのだ。
*
夜も深くなり、吉松は甚助の膝で寝ていた。
新三郎は善右衛門がどこから鉄を仕入れているか喜兵衛に聞いているし、お千代はお志乃と一緒に空いた皿を片付けている。
末のお小夜は、とっくに眠った。
そして、そのお小夜を抱いているのが親父だった。
「…………」
俺は見た。
宗次郎も見た。
工房では一分の歪みを見つけて「やり直せ」と言う男が、末娘を抱いて身体をゆっくり揺らしている。
「よーしよし。よう寝たなあ」
「…………」
「…………」
親父がこちらを見た。
「なんや」
「いや」
「何も」
俺と宗次郎は同時に目を逸らした。
「兄上」
「言うな」
「まだ何も言ってません」
「絶対言うな」
「親父、あんな声出せるんですね」
「言うな言うたやろ!」
親父に聞こえた。
「虎松」
「はい」
「明日休み、やめるぞ」
「申し訳ございませんでした」
宗次郎が横で笑っていた。
*
翌朝。
俺はいつもの時間に目を覚ました。
顔を洗い、飯を食い、気がつけば工房の前に立っていた。
戸は閉まっている。
誰もいない。
火床にも火は入っていない。当然、鑢の音もしない。
「…………」
休みである。
昨日、自分でもあれだけ喜んだ休みだ。
さて。
「何したらええんや……」
背後から笑い声がした。
振り返ると、お志乃がいた。
「虎松」
「はい」
「休みいうんはな」
「はい」
「仕事せん日や」
「それは分かっとる」
「ほな工房の前で何しとるん」
「……分からん」
母は呆れたように笑い、そのまま母屋へ戻っていった。
閉じた工房をもう一度見る。
二十挺を作るため、この一か月は毎日ここにいた。
弥吉がいて、五平がいて、佐吉がいて、甚助も喜兵衛も藤吉もいる。誰がどの仕事を嫌がるかも、誰に何を頼めば早いかも、いつの間にかだいぶ分かるようになった。
六年前、ここは俺にとって、五百年昔に突然現れた工場だった。
今は少し違う。
「……榊屋、か」
工場と言ったら親父に怒られそうなので、そういうことにしておく。
さて、本当に何をしよう。
十六歳になって初めて、俺は仕事より難しい問題にぶつかった。
休みの過ごし方である。




