待たない
二十日目の朝、鉄は来なかった。
分かっていたことなので驚きはしない。善右衛門から一日か二日遅れるかもしれないと聞いている以上、今日届かなくても予定の範囲ではある。
それでも工房へ入って最初に入口を見てしまったあたり、俺も期待はしていたらしい。
「来てませんよ」
宗次郎が言った。
「見たら分かる」
「待ってたんです?」
「確認しただけや」
「何を?」
「鉄が来とらんことを」
「それ、待ってたって言うんじゃないです?」
「朝からうるさいな」
壁を見る。
完成は五挺。六から八は後半へ入り、九と十もその後ろまで来ている。十一から十四までが前半を進み、十五は今日から始める予定だった。
十六から二十は、まだ動かせない。
「十五、予定通り入れるで」
「鉄は足ります?」
「十五まではな」
「その後は?」
「来てから考える」
「来なかったら?」
「来んかった時に考える」
「昨日は崩れた時のために計画があるって」
「宗次郎」
「はい」
「十二歳が昨日の発言引用して詰めてくるんやめてくれへん?」
宗次郎は少し笑って帳面を開いた。
◇
鉄が来ないからといって、工房の仕事まで止まるわけではない。
むしろ今は、やることが多かった。
六番の最終合わせを佐吉が準備し、弥吉へ渡す。七番はその手前まで来ていて、八番も後ろから追いついている。前半では十一から十四が動いており、五平たちが順番に仕事を進めていた。
十五番まで入れれば、工房の中では未完成の十挺が同時に動くことになる。
少し前なら、それだけで怖かった。
今は壁を見れば、どこを進め、どこを止め、どこへ人を回すべきか考えられる。
「五平」
「何や」
「十四、今日はどこまで行けそう?」
「昼から別の仕事あるで」
「知っとる。午前だけで」
「ここまでちゃう?」
五平が札の位置を指した。
「ほなそれでええ。昼からそっちやって」
「急がんでええん?」
「六から八を先に出したい」
「十四止まるで」
「止める」
五平が俺を見た。
「前やったら嫌がったやろ」
「今も嫌や」
「ほな動かしたら?」
「全部動かしたら人足りんやろ」
「やっと分かったんか」
「最初から分かっとるわ!」
「ほんま?」
「ほんまや!」
五平は笑いながら仕事へ戻った。
腹は立つが、言っていることは正しい。
今は十四を一日早く進めることより、完成に近い六、七、八を出口へ流す方が大事だった。
◇
六番は昼前に弥吉へ渡った。
佐吉が事前の確認を済ませ、明らかな問題がないところまでは整えてある。弥吉は受け取るとすぐに合わせへ入り、途中で一度だけ源兵衛を呼んだ。
「親方、これ」
「どこや」
「ここ」
源兵衛が手に取り、動かしてから仕掛けを外す。しばらく見たあと、弥吉へ返した。
「まだ触るな」
「やっぱり?」
「ああ」
俺も覗き込む。
「何?」
「こっち先合わせろ」
「なんで?」
「そっち削ったら戻らん」
聞けば分かる。
だが、自分一人で同じ判断ができたかと言われれば怪しい。
佐吉が横から見ていた。
「俺、そこまで触らんでよかったですね」
「せやな」
「もし触ってたら?」
「親父が怖い」
「そこです?」
「六番も怖い」
「順番逆ちゃいます?」
源兵衛がこっちを見た。
「聞こえとるぞ」
「仕事します」
佐吉と二人で離れた。
こういう判断は、まだ渡さなくていい。
今の仕組みが効いているのは、佐吉が何でもできるようになったからではない。どこで止まるかを決めたからだ。
◇
午後、六番が試し撃ちへ回り、問題なく通った。
完成六挺。
夕方には七番が弥吉のところへ入り、八番も準備へ入っている。壁の右側に札が集まり始めたが、以前のようにただ待っているわけではない。佐吉が前準備を済ませ、弥吉が合わせ、必要な時だけ源兵衛が見る。
一挺ずつではあるが、出口から鉄砲が出るようになっていた。
「兄上」
「何?」
「明日、七と八が出たら八挺ですね」
「せやな」
「九も近いですよ」
「うん」
「十もその後ろ」
「分かっとる」
「じゃあ結構いけるんじゃないです?」
俺は壁を見る。
「そう思うやろ?」
「違うんです?」
「俺もそう思っとる」
「じゃあいいじゃないですか」
「こういう時が怖いねん」
「何が?」
「知らん」
「知らんのに怖いんです?」
「順調やと思って気ぃ抜いた時に限って、なんか起きる気がするんや」
宗次郎が不思議そうな顔をした。
「兄上、心配性ですね」
「最近なったんや」
「いつからです?」
「……いつからやろな」
誤魔化して壁へ目を戻した。
材料が来ない。道具が壊れる。人が足りない。順調だと思ったところへ、予定になかった仕事が飛び込んでくる。
前の人生では、そんなことを何度も経験した。
工場というのは、そういう場所だった。
◇
二十一日目。
やはり鉄は来なかった。
「二日目です」
宗次郎が言う。
「数えるな」
「善右衛門さんが一日か二日って」
「今日いっぱいは二日のうちや」
「明日来たら三日ですよ」
「知っとる」
十五番までの仕事は動いている。だが、十六から二十は手を付けられない。
残り十日を切ろうとしている。
ここで焦っても仕方がないと分かっていても、壁の左端に残る五枚はどうしても目に付いた。
「虎松」
弥吉が呼ぶ。
「何?」
「七、撃つで」
「行く」
「壁見んでええん?」
「札は逃げへん!」
試し撃ちへ向かった。
七番は通った。
八番も午後に通った。
完成八挺。
九番は翌朝には最終合わせへ入れそうで、十番も大きく遅れてはいない。十一から十五までの前半も、今のところ新しい詰まりは出ていなかった。
仕事は流れている。
鉄だけが来ない。
◇
二十二日目の昼前、工房の外が騒がしくなった。
俺は反射的に入口を見た。
「虎松!」
聞き覚えのある声だった。
「来た!」
「何が?」
弥吉が顔を上げる。
「鉄!」
「善右衛門ちゃうん?」
「鉄持ってくる善右衛門や!」
「本人はどうでもええんか」
外へ出ると、善右衛門が呆れた顔で立っていた。
「人の顔見て鉄言うな」
「鉄は?」
「挨拶せえ」
「おはよう。鉄は?」
「昼やぞ」
「こんにちは。鉄は?」
「お前ほんま商人向いてへんな」
「知っとる。鉄は?」
「あるわ!」
荷を指され、ようやく息を吐いた。
予定より二日遅れ。最初の予定からなら三日近い。
それでも来た。
「全部?」
「頼まれた分はな」
「助かった」
「誰のせいやと思っとる顔やな」
「船」
「分かっとるやないか」
「善右衛門のせいにしても鉄早よならんからな」
「ちょっとは賢なったな」
「六年かかった」
「それ好きやな、お前」
最近便利なので使っている。
◇
鉄が来たからといって、すぐ十六から二十まで全部を火床へ突っ込むわけにはいかない。
まず源兵衛たちが状態を見る。
最初の荷と同じように一本ずつ確認していくと、途中で親父の手が止まった。
「これ避けとけ」
「使えへん?」
「使える」
「また?」
「またや」
弥吉が笑う。
俺も横から見る。
「硬い?」
「ちょい癖ある」
「どんな?」
「叩いたら分かる」
「それやめろ言うてるやろ」
「俺は言われてへん」
そうだった。
源兵衛は数本を脇へ避け、使いやすい物から順に分けていく。
十六から二十までに必要な分は確保できた。
「全部いける?」
「いける」
「よし」
俺は壁へ向かった。
十六、十七、十八、十九、二十。
五枚の札が残っている。
「今日十六と十七」
弥吉が聞く。
「明日は?」
「十八、十九」
「二十は?」
「その次」
「五挺一気ちゃうんや」
「鉄来たからって工房広なってへんやろ」
「人も増えてへんな」
「せやろ」
遅れを取り戻そうとして全部を入れれば、今までやったことを自分で壊す。
急いでいる時ほど、仕事を増やしたくなる。
だが、仕掛品を増やすことと完成品を増やすことは違う。
「十六、十七。流すで」
札を動かした。
◇
二十三日目、九番が完成し、十八番と十九番を入れた。
二十四日目には十番が完成し、二十番を始める。
これで二十枚すべての札が、左端から離れた。
「兄上」
「何?」
「全部動きましたね」
「動いたな」
「最初、五挺入れるのも怖がってたのに」
「慎重やったんや」
「今は?」
「急いどる」
「それは見たら分かります」
「弥吉みたいなこと言うな」
完成十挺。
残り十挺。
納期まで一週間ほど。
数字だけ見れば、ちょうど半分だった。
だが、残り十挺のうち五挺はかなり先まで進んでいる。十一から十五までが前半から中ほどを抜けつつあり、十六から二十も後ろから追い始めた。
最初の十挺に二十四日掛かったからといって、残り十挺にも二十四日掛かるわけではない。
工程の中には、すでに十挺が入っている。
ここから必要なのは、余計なことをしないことだった。
◇
二十五日目。
十一番が完成し、十二番も午後に試し撃ちを通った。
十三番は最終合わせへ入り、十四と十五も後ろへ近づいている。十六から二十はまだ前半だが、最初の頃より明らかに流れが速かった。
職人たちが仕事に慣れたこともある。同じような作業をまとめられるところはまとめ、佐吉が判断できるところは止まらず進む。
札も、もう俺が言わなくても動く。
「十三、動かしといたで」
五平が言った。
「見た」
「十四、明日こっち来る」
「場所空いとる?」
「空けた」
「十五は?」
「その後やろ」
「うん」
「十六らへんは?」
「まだええ」
会話が早い。
最初の頃なら、一つずつ現物を見て、人を探して、どこまで進んでいるか聞いていた。それが今は、壁を見ながら次の仕事の話ができる。
たった二十五日。
それでも工房の動きは、確かに変わっていた。
◇
二十六日目の夕方。
完成した札は十三枚になっていた。
十四と十五は最終側。十六と十七が中ほどを越え、十八から二十がその後ろを追っている。
「あと七挺」
宗次郎が言った。
「数えんでも分かる」
「あと四日くらいです」
「それは数えな分からんかった」
「間に合います?」
いつもの質問だった。
俺は壁を見る。
今度は、すぐ答えられた。
「間に合う」
「たぶん?」
「いや」
十三枚の完成札を見る。残る七枚の位置を見る。
弥吉のところには溜まりすぎていない。佐吉の準備も追いついている。材料もある。既存の仕事にも、今のところ大きな遅れはない。
俺はもう一度言った。
「間に合う」
宗次郎が少し笑った。
「珍しいですね」
「何が?」
「たぶんって言わないの」
「今は分かるからな」
最初は分からなかった。
何挺作れるのかも、どこで止まるのかも、誰に仕事が集まるのかも分からなかった。だから怖かった。
今は、残り七挺がどこにいるか分かる。何を待っているかも、誰が次に触るかも大体分かる。
だから言える。
「あと七挺や」
壁の右端には十三枚。
残る札は、もう左端には一枚もなかった。
二十挺すべてが工房の中を流れている。
あとは、出すだけだった。




