次の榊家
国友から戻って、十日ほどが経った。
榊屋は、見た目にはそれほど変わっていない。
朝になれば火床に火が入り、槌の音が響く。水車は回り、木を削る音がして、出来上がった部品はいつもの場所へ集められる。宗次郎は相変わらず帳面を見ているし、お澪も注文や返事待ちの話を整理している。
それでも、よく見れば少しずつ変わっていた。
「徳松、それ一人でやったん?」
「はい」
水車設備の横で、徳松が少し緊張した顔をしていた。研ぎの仕事だった。
市兵衛は少し離れた場所で別の設備を触っている。
「市兵衛、見てへんかった?」
「途中までは」
市兵衛が答えた。
「最後はこいつにやらせた」
「どうやった?」
「普通のやつなら、もう任せてもええ」
徳松が少し嬉しそうな顔をする。
「変なん来たら?」
「俺呼ぶ」
「そこはまだ市兵衛なんやな」
「そらそうやろ」
「うん。それでええ」
何でも徳松に出来るようにする必要はない。
市兵衛にしか分からないことは、まだある。設備の音がおかしい時や、普段と違う加工をする時は、今でも市兵衛の判断が要る。
ただ、以前なら市兵衛がいないだけで止まっていた仕事が、一つ減った。
それで十分だった。
甚助のところでは、松之助が木材を手に取っている。
「これ、使えます?」
「どう思う」
「……ちょっと反りそうです」
「何で」
「木目がこっちへ寄ってるのと、持った感じが軽いです」
「なら削ったらどうなる」
「こっちへ動くかも」
甚助は少し考えてから頷いた。
「使うなら、先に荒く落として一晩置け」
「はい」
俺は少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
甚助が答えを言う前に、松之助へ考えさせている。これまでなら「見て覚えろ」で終わっていたことが、少しだけ言葉になっている。
それでも、全部ではない。
全部でなくていい。
そう思えるようになったことが、自分でも少し不思議だった。
◇
「兄上」
宗次郎に呼ばれた。
「何?」
「これ、どうします?」
帳面を見せられる。新しい注文だった。
以前の俺なら、その場で図を描いて、治具を考えて、誰にやらせるかまで口を出していたと思う。
でも今回は、少し考えた。
「これ、外形は今までの治具使えるやろ」
「使えます」
「穴だけ新しい?」
「はい」
「なら新八と弥吉に先見てもろて。今ある治具でいけるならそのまま。無理なら俺呼んで」
宗次郎が少し意外そうな顔をした。
「兄上が最初から見んでええんです?」
「最初から俺見る必要ないやろ」
宗次郎が少しだけ笑う。
「国友行って変わりましたね」
「そんな?」
「前なら、もう作業台に図描いてました」
「……それはあるかも」
否定出来ない。
「じゃあ、この件はこっちで進めます」
「頼む」
宗次郎が帳面を閉じると、その横からお澪が別の書き付けを差し出した。
「虎松さん、こっちは?」
「何?」
「お蓮さんのところからです」
見ると、地板の数が並んでいた。
今月分の予定。
お蓮の工房で作る分。
そこからさらに別の鍛冶へ回している分。
戻ってくる予定。
検査で見るところ。
「もうこんな振ってるんや」
「前からですよ」
お澪が言った。
「虎松さんが気にしてなかっただけです」
「ひどない?」
「でも、半分近くお蓮さんのところでしょう?」
「まあ、そうやけど」
榊屋で使う地板のかなりの数は、もうお蓮の工房で作っている。
しかも、お蓮のところだけで足りない時は、さらに別の鍛冶へ回している。榊屋からお蓮へ。お蓮から別の工房へ。そこで作られたものが、また戻ってくる。
最初は俺たちが一つずつ教えていた。
今は違う。
お蓮自身が、どこまで外へ振るか、どこを自分のところで見るかを判断している。
「これ、もう俺らより向こうの方が詳しいとこあるな」
「地板だけなら、そうかもしれませんね」
宗次郎が言った。
少し変な気分だった。
でも、嫌ではなかった。
◇
昼前、嘉兵衛のところから荷が届いた。
箱を開けると、小さなねじが並んでいる。
「榊一番、これで今月分やて」
善次郎が持ってきた。
「小ねじも?」
「入っとる」
俺は一つ摘んで見る。
榊一番。
榊屋で最初に本格的に決めた規格ねじだった。
最初は、自分たちで全部作るつもりだった。
でも今では、ねじに関しては嘉兵衛の方がずっと詳しい。榊一番だけではなく、鉄砲に使う小さなねじも、かなりの数を任せている。
「嘉兵衛、もう完全にねじ屋みたいやな」
「本人に言うたら怒るんちゃう?」
善次郎が笑う。
「刃物も農具も作っとるしな」
「でも榊屋向けは、ほぼねじやろ」
「そうやな」
嘉兵衛の工房には、榊一番を作るための道具も、やり方も揃っている。
榊屋で作るより早いし、安定もしている。
だから任せた。
それで困っていない。
「何や」
親父が箱を覗き込んだ。
「嘉兵衛から」
「そうか」
一本摘んで、ねじ山を見る。
「ええな」
「親父、それだけ?」
「悪けりゃ言う」
「まあそうやけど」
親父はねじを箱へ戻した。
「使える奴に作らせりゃええ」
「昔からそういう考えやった?」
「何で全部うちで作らなならん」
「いや、何となく」
「買わな作れんのと、作れるけど買うんは違うぞ」
前にも聞いた言葉だった。
今なら、前より少し分かる。
榊屋で作ろうと思えば作れる。
でも、嘉兵衛に任せた方がいい。
それは弱くなったということではない。
自分たちで出来ることまで、あえて外へ任せられる。
その分、榊屋でしか出来ない仕事へ人を使える。
国友とは違う。
でも、少し似ている。
工房の外に必要な腕があり、それを使うことで全体が強くなる。
◇
午後になって、お蓮が来た。
「これ」
そう言って、地板を何枚か作業台へ置く。
「何?」
「今度から、こっちで見るとこ変える」
「どこ?」
「この角」
お蓮が指差す。
「向こうに回した分、ここだけ少しばらついた」
「使えへん?」
「使える。でも手直し増える」
「なるほど」
「やから、外へ出す時にここだけ先に見せる」
「向こうの鍛冶に?」
「そう」
お蓮は当然のように言った。
「榊屋で見るのと同じ見方させても、向こうは全部分からんやろ。地板だけなら、ここ見ればええ」
俺は少し黙った。
「何?」
「いや」
「何やねん」
「ええなと思って」
「何が」
「それ」
「それ?」
「榊屋と同じこと全部やらせてへんやろ」
「当たり前やろ」
お蓮が変な顔をした。
「向こうに頼んどるん、地板だけやぞ。何で全部榊屋と同じこと覚えさせなあかんねん」
「……ほんまそれ」
「国友行って頭悪なったん?」
「逆やと思いたい」
お蓮が笑った。
でも、その言葉は妙に残った。
必要なところだけ揃える。
必要なところだけ見る。
それ以外は、その工房に任せる。
俺が国友でようやく考え始めたことを、お蓮はもう普通にやっていた。
たぶん本人は、別に新しいことをしているつもりすらない。
必要だから、そうしているだけだ。
◇
工房へ戻ってから、宗次郎と少し話した。
「なあ」
「何です?」
「榊屋って、どこまでが榊屋なんやろ」
宗次郎が帳面から顔を上げる。
「急ですね」
「いや、お蓮んとこ見てたら思って」
「工房の中だけではないでしょうね」
「やっぱそう思う?」
「地板の半分近くはお蓮さんでしょう。ねじは嘉兵衛さん。材料も外から来るし、加工も外に出す。善右衛門さんもおりますし」
「善右衛門入れる?」
「入れんかったら怒るでしょう」
「怒るやろな」
想像出来る。
宗次郎が続けた。
「榊屋が注文を受けて、榊屋の決めた形で作って、最後に榊屋が責任取るなら、外で作っとっても榊屋の仕事なんちゃいます?」
俺は少し考えた。
「なるほどな」
「何です?」
「国友で、村一つが工房みたいやと思ったんよ」
「聞きました」
「榊屋も、もうこの建物だけちゃうんやな」
宗次郎が頷く。
「前からそうやったんちゃいます?」
「たぶん。俺が気付いてへんかっただけ」
お蓮。
嘉兵衛。
善右衛門。
材料を持ってくる人。
外へ頼んでいる職人。
榊屋の中で働く人間。
それぞれ別の場所にいて、別の仕事をしている。
でも、それが繋がって一挺の鉄砲になる。
国友とは違う。
国友には国友の繋がり方がある。
榊屋には榊屋の繋がり方がある。
どちらが正しいかではない。
何を作りたいか。
どう作りたいか。
その違いだった。
◇
試射の方も、続いていた。
まだ試験と呼べるほど立派なものではない。
距離を揃える。
火薬量をなるべく揃える。
弾を揃える。
何発か撃つ。
不具合も記録する。
そこまで決めただけだ。
それでも、以前よりは少し比べられるようになった。
「国友の方、やっぱりまとまりええのあるな」
新八が帳面を見る。
「でも、こっちは榊屋の方が安定してます」
「どれ?」
「これです。十発撃って、動き悪くなってへん」
「ほんまや」
「こっちは国友の方がよく当たる。でも火挟み一回重くなってます」
「なるほど」
比べれば比べるほど、どちらが上なのかは分からなくなる。
でも、それでいい。
「これ、面白いな」
善次郎が言った。
「何が?」
「前なら、ええ鉄砲か悪い鉄砲かだけやったやろ」
「うん」
「今は、何がええか言える」
「まだ言えるほどでもないやろ」
「そのうちな」
善次郎が笑う。
お澪は横で帳面を整理していた。
「まだ人に見せるには分かりにくいです」
「ですよね」
「もっと揃えんと」
「増えるなあ」
「虎松さんが始めたんでしょう」
「それ何回言うん」
新八が楽しそうに笑った。
たぶん、しばらく終わらない。
◇
鉄砲そのものだって、全部を同じには出来ない。
榊屋では寸法を揃え、治具を使い、なるべく同じところを狙って作っている。けれど、銃身と尾栓まで、どれを持ってきてもそのまま組めるほどには出来なかった。
そこはもう諦めている。
今の道具と加工の精度では、無理にそこまで揃えようとする方が危ない。
銃身は銃身で基準へ近付ける。
尾栓も同じように作る。
それでも最後は一本ずつ合わせ、締まりを見る。当たりを見る。必要なら削る。
そこは職人の仕事だ。
以前は、それが少し悔しかった。
もっと揃えたい。
もっと同じにしたい。
そう思っていた。
今は少し違う。
揃えられるところまで揃える。
その先は人に任せる。
それでいい。
無理に同じにすることが、ものづくりを良くするわけではない。
◇
その日の夕方。
工房の仕事が一段落した頃、俺は作業台の上に置かれた部品を何となく見ていた。
嘉兵衛のねじ。
お蓮の地板。
榊屋で作った銃身。
外から来た材料。
別々の場所で作られたものが、ここへ集まっている。
その向こうでは宗次郎が帳面を見て、お澪が注文を整理している。市兵衛は徳松へ何か教え、甚助の横には松之助がいる。弥吉と佐吉は、銃身を見ながら何やら話し込んでいた。
少し前まで、榊屋を強くすることばかり考えていた。
もっと作る。
もっと揃える。
もっと早くする。
でも今は、少し違う。
榊屋だけが強くなればいいわけではない。
お蓮の工房が強くなる。
嘉兵衛がねじをもっと上手く作れるようになる。
別の工房も、それぞれ自分たちに合うやり方を見つける。
そういうものが繋がれば、もっと大きなことが出来る。
日ノ本のものづくりを変えたい。
そのために必要なのは、榊屋を一軒だけ大きくすることではないのかもしれない。
それぞれの工房が、自分たちなりに良くなっていく。
その間を規格や商売や人の繋がりで結ぶ。
一つの巨大な工房に全部を押し込まなくても、離れた場所の仕事を繋げることは出来る。
もしそれが広がっていけば、俺が昔から考えていたものに、少し近付く気がした。
◇
「虎松」
親父に呼ばれた。
「何?」
「ちょっと来い」
工房の奥だった。
別に深刻そうな顔をしているわけではない。親父はいつものように腕を組み、工房の方を見ながら立っていた。
「最近、俺が決めること減ったな」
「そう?」
「前よりな」
「ええことちゃう?」
「ああ」
親父は普通に頷いた。
「宗次郎が見るようになった。お澪もおる。職人も前より自分で動く」
「うん」
「外もそうだ。お蓮も嘉兵衛も、もう一からこっちが言わんでもやるだろ」
「やるな」
「ならええ」
親父の言い方は、いつもと変わらなかった。
何かを寂しがっているわけでもなければ、自分の居場所がなくなったと思っている様子もない。単に、榊屋の仕事が以前より多くの人間へ渡っていることを見て、それでいいと思っているだけだった。
「何の話?」
「榊屋の話だ」
「それは分かる」
「お前、最近ようやく工房の外まで見るようになったな」
「前から見てたつもりやったけど」
「つもりだったんだろ」
「親父に言われると腹立つな」
「知らん」
親父は少し笑った。
それから、何でもないことを決めるような調子で言った。
「虎松」
「ん?」
「そろそろ榊屋、お前に譲ってもええと思っとる」
俺は親父を見た。
「……え?」
「聞こえただろ」
「いや、聞こえたけど」
頭の中で、話が一度止まった。
榊屋。
当主。
親父。
俺。
そこまで考えたところで、別の顔が浮かぶ。
宗次郎だった。
以前、あいつに話したことがある。
俺は、日ノ本のものづくりを変えたい。
だから榊屋は、お前に継いでほしい。
宗次郎は、まだ答えを出していない。
保留のままだ。
それでも俺の中では、いつかそうするつもりでいた。
「親父」
「何だ」
「俺は、宗次郎に継いでほしいと思ってる」
親父が少しだけ眉を上げた。
「何でだ」
俺は口を開きかけた。
たぶん、話は長くなる。
しかも、かなり面倒なやつだ。
尾張から始まり、国友まで行って、ようやく榊屋へ帰ってきた。
そこで待っていたのは、新しい鉄砲でも治具でもなかった。
次の榊屋を、誰が背負うのか。
今度は、そっちの話だった。




