誰が継ぐ
「何でや」
親父にそう聞かれて、俺はすぐには答えられなかった。
さっきまで工房の方へ目を向けていた親父が、今はまっすぐ俺を見ている。夕方の榊屋にはまだ仕事の音が残っていて、槌の音や、何かを削る乾いた音が途切れ途切れに聞こえていた。
「何でって」
「宗次郎に継いでほしいんやろ」
「うん」
「せやから、何でや」
そこまで聞かれて、改めて考える。
宗次郎の方が工房を見るのが上手いから。帳面にも強いし、人の動きもよく見ている。今の榊屋を日々回しているのは、間違いなく宗次郎だ。
理由はいくつも浮かぶ。でも、一番大きいのはそこではなかった。
「俺、榊屋だけやりたいわけちゃうねん」
親父の眉が、わずかに動いた。
「どういう意味や」
「榊屋が嫌やとか、そういう話ちゃうで」
「分かっとる」
「ならええけど」
「続けぇ」
俺は工房の方へ目を向けた。
水車の音がしている。火床にはまだ火が残り、何人かの職人が仕事を続けていた。ここは俺が生まれてからずっと見てきた場所で、前の世界の記憶を持ってからは、なおさら色々なものを詰め込んできた場所でもある。
「俺、日ノ本のものづくり変えたいんよ」
口にすると、我ながら大きな話だった。
けれど、思いつきで言ったわけではない。いつからか、ずっと胸の奥にあった。
「鉄砲だけちゃう。ねじでも、治具でも、水車でもええ。作る人がちょっと楽になるとか、同じもん作りやすくなるとか、失敗減らせるとか、そういうやり方をもっと広げたいんや」
親父は何も言わずに聞いている。
「榊屋だけ良うなったら終わり、とは思ってへん。お蓮んとこみたいに、別の工房でも使えるやり方はあるし、嘉兵衛みたいに一つの仕事を深うやる人もおる。国友には国友のやり方があった」
「それで?」
「もっと色んなとこ見たい」
尾張。国友。それ以外にも、この日ノ本には俺が知らない仕事場が山ほどあるはずだった。
前の世界なら、本を読んだり、誰かに聞いたり、図面や写真を見たりすれば知れたことでも、この時代では実際にそこへ行かなければ分からないことが多い。人の手つきも、仕事の流れも、どんな材料をどう使っているかも、目の前で見なければ見えてこない。
「これから尾張との話も増えるかもしれん。信長様が次に何言い出すかも分からんし」
「それは確かやな」
「やろ?」
「そこだけはよう分かる」
「そこだけなん?」
思わず返すと、親父は少し口元を緩めただけだった。
「せやから、俺が榊屋継いだら動きにくなる思っとるんよ」
親父はしばらく黙っていた。
それから、思っていたのとは違うことを聞いてきた。
「何でや」
「え?」
「何で親方になったら動かれへんのや」
「いや、親方やろ?」
「そうやな」
「店おらなあかんやん」
「誰が決めた」
そこで言葉に詰まった。
「親父、ずっとおるやん」
「俺はな」
「ほら」
「俺とお前が、同じ親方のやり方せなあかんのか?」
「……え?」
親父が顎で工房の方を示した。
「宗次郎が工房見とる。お澪が注文やら約束事やら整理しとる。市兵衛は水車回しとるし、甚助は木ぃ見とる。お蓮も嘉兵衛も、いちいち榊屋から言われんでも向こうで仕事進めるようになった」
「勝手言うたら怒られるで」
「いちいちこっちが口出さんでも、いう意味や」
「ああ」
「その形作ったん、誰や」
「みんな?」
「お前もやろ」
「まあ」
「自分がおらんでも仕事回るようにしといて、親方になったら離れられへん言うんは何や」
俺は口を閉じた。
言われてみれば、確かにおかしい。
「……確かに」
「お前、自分で何べんも言うてきたんちゃうんか。誰か一人おらんだけで止まる仕事は良うないって」
「言うた」
「ほな親方だけ別にすんな」
何というか、ものすごく正論で殴られている気がする。
しかも、俺がこれまで散々言ってきたことを、そのまま投げ返されている。
「でも」
「まだあるんか」
「ある」
ここで引き下がるには、俺にも俺なりの理由があった。
「俺がやりたいことと、榊屋にとってええことが、ずっと同じとは限らんやろ」
親父が黙る。
「例えば他の工房に、榊屋で使っとるやり方教えるかもしれん」
「もうやっとるな」
「そうやけど」
「続け」
「規格やって、榊屋だけで囲うた方が儲かる時あるかもしれん。でも広げた方が、日ノ本全体にはええかもしれん」
榊一番だってそうだ。
榊屋だけで使うねじなら、榊屋の都合だけ考えればいい。でも、もし他の工房でも使うようになるなら、考え方は変わる。寸法も作り方も、それを誰がどう使うかまで見なければならない。
「俺、榊屋のためだけに動けんかもしれん」
「せやから宗次郎か」
「うん」
宗次郎なら、榊屋そのものを見る。
少なくとも俺ほど急に新しいことを始めたり、どこかへ飛んで行ったりはしない。今ある工房を安定して動かすことなら、俺よりずっと向いていると思っていた。
「宗次郎はようやっとる」
親父が言った。
「やろ」
「人も見とる。仕事も見とる。帳面も、お前よりよっぽどちゃんとしとる」
「最後いらんやろ」
「事実や」
「まあ事実やけど」
「今の榊屋を回すだけやったら、あいつは上手い」
「ほな」
「せやけど、それだけで親方決めるわけちゃう」
俺は親父を見る。
「何が違うん?」
「どっちへ行くか決める奴が要る」
その言葉には聞き覚えがあった。
少し前、親父がおらんかったら何が困るのかと考えた時にも出てきた話だ。最後に決める。それが親父の仕事だった。
「宗次郎は、今ある仕事をよう回す」
「うん」
「お前は仕事そのもの変える」
「それ褒めとる?」
「半分な」
「半分かあ」
「面倒も増やすからな」
「そこは否定出来ん」
親父が少し笑った。
「水車入れたんもお前や。寸法揃え始めたんも、治具作ったんも、外へ仕事出す形変えたんもお前やろ」
「みんなでやったけどな」
「最初にそっち行く言うた奴の話しとるんや」
そう言われると、確かに俺だった。
「親方いうんは、一番鉄砲作る奴でも、一番帳面上手い奴でもない。最後に、こっちへ行くって決める奴や」
少し前なら、その言葉をそのまま受け取っていたかもしれない。
けれど今は、そこにも引っ掛かるものがあった。
「それやったら、余計俺あかんやろ」
「何でや」
「俺、榊屋だけ見て行き先決めへんぞ」
親父の顔を見る。
「さっき言うたやろ。日ノ本のものづくり変えたいって」
「ああ」
「榊屋が損してでも、そっちやった方がええ思うことあるかもしれん」
「そん時考えたらええ」
「軽ない?」
「軽うないから今話しとるんや」
「そうやけど」
「お前は先のことで勝手に困りすぎや」
「そんなん言われても」
前の世界でも、仕事を始める前に問題を洗い出すのは大事だった。起こりそうな不具合を考え、手を打てるなら先に打つ。それ自体は間違っていないと思う。
ただ親父に言わせれば、俺はまだ起きてもいないことまで抱え込み、そのせいで今決められることまで遠ざけようとしているらしい。
「そもそも」
親父が言った。
「宗次郎は継ぐ言うたんか」
「……」
「何や」
「まだ」
「まだ?」
「保留」
親父の顔が止まった。
「は?」
「前に話はした」
「俺に黙って?」
「別に隠してたわけちゃうで」
「俺の跡を誰が継ぐか、お前ら二人で先に話したんか」
「そう言われると、ちょっとあれやけど」
「どう言われてもそうやろ」
確かに。
「いや、まず本人がどう思っとるか聞かな、話進まんやろ」
「せやからって俺飛ばすな」
「すみません」
普通に怒られた。
◇
「宗次郎呼べ」
「今?」
「今や」
「仕事中やぞ」
「呼べ」
「はい」
親父強い。
少しして宗次郎がやって来た。
「何です?」
「宗次郎」
「はい」
「お前、虎松から榊屋継げ言われたんか」
宗次郎が一瞬だけ俺を見る。
その目が、少し冷たい。
「兄上」
「ごめん。話の流れで」
「何の流れです?」
「親父が俺に榊屋譲る言い出して」
宗次郎の表情が変わった。
「……兄上に?」
「うん」
親父が口を挟む。
「で、お前はどうなんや」
宗次郎は少し黙った。
「前にも兄上には言いましたけど」
「うん」
「まだ返事してません」
「何でや」
「簡単に決めることやないでしょう」
親父が頷く。
「そらそうや」
それから俺を見る。
「ほら」
「何がほらなん」
宗次郎は俺たちのやり取りには構わず、静かに続けた。
「俺が工房を回せるかどうかと、俺が榊屋の親方になりたいかどうかは、別の話やと思ってます」
俺は黙った。
前に話した時にも、似たようなことは言われている。
それでも改めて親父の前で言葉にされると、その意味が少し重くなった。
「兄上は、自分にはやりたいことがあるから、俺に榊屋を継いでほしいって言いました」
「ああ」
「兄上がやりたいことは分かります」
「うん」
「でも、それで俺が何するかまで決まるわけやないでしょう」
「……うん」
正しい。
今日二回目の正論だった。
しかも今度は弟からである。
「俺が宗次郎なら向いとる思っただけで」
「それはありがたいです」
「なら」
「向いとるのと、やりたいのは別です」
「はい」
何も言えない。
親父が俺を見ている。何か言いたそうではあったが、珍しく口を挟まなかった。
「それに」
宗次郎が俺を見る。
「兄上、榊屋の親方になったら、日ノ本のものづくり変えられへんのです?」
「親父にも同じこと言われた」
「俺も前から思ってました」
「言えや!」
「聞かれませんでしたから」
「そういうとこ親父に似てきたな」
「そうですか?」
「悪口やないやろな」
親父まで入ってきた。
「半分くらい」
「虎松」
「すみません」
今日はよく謝る日だった。
◇
「でも」
俺は宗次郎を見る。
「お前、俺が外行っても工房見てくれるやろ?」
「今も見てますよ」
「そうやんな」
「それと家を継ぐ話は別です」
「またそこ戻る?」
「戻ります」
宗次郎は思っていた以上に頑固だった。
親父が腕を組んだまま、俺たち二人を見比べる。
「分かった」
「何が?」
「今決めるんはやめや」
俺も宗次郎も親父を見る。
「ええの?」
「お前ら二人とも、まだ自分の話しかしてへん」
「自分の話?」
「虎松は日ノ本がどうとか言うとる。宗次郎は継ぎたいか分からん言うとる。どっちも自分の話や」
「そうやな」
「榊屋をどうしたいかは、どっちも言うてへん」
言われて、俺は止まった。
日ノ本のものづくりを変えたい。それはある。宗次郎に榊屋を継いでほしいという考えもある。
けれど、これから榊屋をどうしたいのか。
そう改めて聞かれると、すぐには言葉が出なかった。
「今の榊屋守りたいんか。もっと大きうしたいんか。鉄砲だけやるんか、他もやるんか。外へもっと広げるんか」
親父は一つずつ指を折るように挙げていく。
「誰が継ぐか考える前に、まずそこ考えぇ」
「親父は?」
「俺?」
「親父は榊屋どうしたいん?」
「それはそのうち話す」
「今言えや」
「今はお前らの話や」
「ずるい」
「親やからな」
何の特権なんだ。
「とにかく、すぐ決めんでええ。せやけど考えろ」
「はい」
宗次郎が答える。
俺も少し遅れて頷いた。
「分かった」
「あと」
「まだある?」
「勝手に俺の跡継ぎ会議すんな」
「そこまだ怒っとる?」
「怒っとる」
「すみませんでした」
今日三回目だった。
◇
親父が工房へ戻ったあと、俺と宗次郎だけがその場に残った。
仕事の音は変わらず続いているのに、こっちだけ妙に静かだった。さっきまで親父もいたせいか、二人になると急に話しづらい。
「……なあ」
「何です?」
「前の話、まだ保留?」
「保留です」
「そっか」
「そんなすぐ変わりませんよ」
「まあな」
俺は工房の方を見る。
榊屋をどうしたいか。
今まで考えていなかったわけではない。ただ、それはいつも目の前の仕事の延長だった。
今月何挺作る。次はどこを改善する。誰に何を任せる。どの仕事を外へ出す。どんな道具を作れば楽になる。
そういうことなら、いくらでも考えてきた。
でも十年後、二十年後、この工房がどうなっていてほしいのかと聞かれると、話は急に大きくなる。
「兄上」
「ん?」
「一個だけ聞いてええです?」
「何?」
「俺に榊屋継がせて、自分だけ好きなことするつもりやったんです?」
「言い方!」
宗次郎が笑った。
「違うん?」
「違う……とは言い切れんけど」
「ほら」
「でもお前、榊屋向いとるやん!」
「せやから、それとやりたいかは別です」
「分かったって」
さっきから何度も同じところを刺されている。
少し間が空いたあと、宗次郎が今度は穏やかな声で続けた。
「でも、兄上が親方になったら、今まで俺がやっとったこと全部兄上がやらなあかん、ってわけでもないでしょう」
「それも今日言われた」
「なら、そこも考えたらええんちゃいます?」
「簡単に言うなあ」
「兄上が俺には簡単に継げ言うたんでしょう」
「……それ言われると弱い」
宗次郎がまた笑った。
ものづくりなら、困っていることを分けて、一つずつ考えればいい。
寸法。材料。人。工程。
どこに問題があるかを見つけて、それぞれに手を入れていけば、少しずつ答えへ近付ける。国友へ行って、それでも全部を揃える必要はないと分かったが、問題を切り分けて考えるやり方そのものは、今でも俺の中に染みついている。
けれど、人が何をしたいかは、そう簡単には分けられないらしい。
誰が継ぐのか。
その前に、何を継ぐのか。
そして、継いだ先で何をしたいのか。
考えなければならないことが、また一つ増えた。




