尾張へ来い
翌朝、目を覚ました時には少し頭が重かった。
飲み過ぎて動けないほどではない。昨夜は勝家様が随分と酒を勧めてきたが、さすがに清洲まで来て潰れるわけにもいかず、それなりに加減はしていた。それでも普段より飲んだのは間違いなく、顔を洗っても頭の奥に薄い膜が一枚残っているような感じがする。
隣を見ると、善次郎はもう起きていた。
「おはよう」
「遅い」
「頭痛い」
「飲みすぎや」
「お前も飲んどったやろ」
「俺は商人やぞ。ああいう席で潰れるわけにいかん」
「腹立つなあ」
善次郎は平然と荷物を整理している。
昨日あれだけ信長様や勝家様たちを相手にしていたくせに、こういうところは妙に強い。考えてみれば、こいつは普段から商人相手の宴席にも出ている。酒を飲みながら相手の話を聞き、翌朝になったら何を話したか忘れているようでは商売にならないのだろう。
俺も荷物を確認した。
今日はもう一度、信長様に呼ばれている。
昨夜、酒宴の途中で外へ連れ出された時に言われた。
明日、もう一度来い。
お前の話だ。
「……俺の話って何やろな」
「知らん」
「何か心当たりない?」
「あるやろ」
「あるん?」
善次郎が手を止めた。
「仕官ちゃうか」
「まさか」
「……」
「何その顔」
「いや」
「何やねん」
「別に」
妙に含みのある顔をしている。
「鉄砲百挺以上揃えられる鍛冶屋呼びつけて、昨日あんだけ話して、その後わざわざ二人で話しとったんやろ」
「うん」
「ほんで今日また呼ばれとる」
「うん」
「俺なら考えるけどな」
「……まさか」
「知らんけど」
善次郎はまた荷物の整理へ戻った。
あり得ない。
いや、ないとは言えないけれど、俺は堺の鉄砲鍛冶だ。信長様に鉄砲を納めているとはいえ、織田家の家臣でもない。
そもそも榊屋がある。親父もいる。お澪もいる。宗次郎もいる。職人たちもいる。俺一人だけ尾張へ来いと言われたところで、そう簡単に動けるものではない。
「まあ、行けば分かるか」
考えても仕方ない。
とりあえず今日聞きたいことでも整理しておこうと思い、荷物から帳面を取り出した。
開く。
いつもの場所へ手を伸ばす。
「…………」
「どうした」
「鉛筆ない」
善次郎が俺を見た。
「今気付いたんか」
「いや、取られたんは覚えてるよ」
「なら何で探した」
「癖や」
帳面を開けば、そのまま横へ手が伸びる。
いつも鉛筆を入れていたところには何もなかった。
本当にない。
昨日、信長様が持っていった。
一本しかなかったのに。
「ほんまに持ってかれた……」
「昨日からずっと言うとるやろ」
「いや、分かってたけどさ」
帳面だけあっても書けない。
仕方なく宿の者に筆と硯を借りた。硯に水を落とし、墨を磨って、それからようやく筆を取る。
「……面倒くせえ」
「お前、たまに筆にものすごい敵意向けるよな」
「鉛筆が便利すぎるんや」
筆が悪いわけではない。
文字を書く道具としては優秀だし、俺も十年使っているから普通に書ける。手紙も書くし、帳面だって筆で付けられる。
ただ、俺が帳面に求めているのは綺麗な文字を書くことだけではない。思いついたことをその場で書く。寸法の横に数字を足す。形を簡単に描く。線を引き直す。現物を見ながら気付いたことを次々と余白へ書き込んでいく。そういう使い方になると、硯も墨も要らず、取り出してすぐ書ける鉛筆との差は大きかった。
「善次郎」
「何や」
「黒鉛、早めに見つけて」
「昨日頼まれたばっかりや!」
◇
信長様のところへ向かう途中も、善次郎は仕官だと言い張っていた。
「絶対そうやって」
「何でお前がそんな自信あんねん」
「商人の勘や」
「便利な言葉やな、それ」
「当たったら何か奢れよ」
「外れたら?」
「知らん」
「ずるいやろ」
そんな話をしていたが、部屋の前まで来たところで善次郎は止められた。
「虎松殿だけを、と」
俺と善次郎が顔を見合わせる。
「ほら」
善次郎が小声で言った。
「まだ分からんやろ」
「行ってこい」
「何かあったら助けてな」
「織田様相手に俺が何を助けるんや」
それもそうだった。
俺だけ中へ入る。
昨日とは違って、部屋にはほとんど人がいなかった。
信長様と一益様。
それだけだった。
「来たか」
「はい」
「座れ」
言われた通りに座る。
昨日の酒宴のような賑やかさはない。ただ、最初に会った時ほど緊張もしなかった。まだ二日しか経っていないのに、この人と話すこと自体には随分慣れてしまったらしい。
「昨日の話だ」
「はい」
信長様が俺を見る。
「虎松」
「はい」
「尾張へ来い」
「……遊びにですか?」
「住めと言っておる」
「はい?」
善次郎。
当たったぞ。
俺はしばらく信長様の顔を見ていた。
冗談を言っているようには見えない。
「えっと……俺が、ですか?」
「他に誰がおる」
「いや、そうなんですけど」
まさか本当に仕官の話だとは思わなかった。
「榊屋ごとです?」
「それでも構わん」
「いやいやいや」
「何だ」
「そんな簡単に動かせませんよ」
「なら、お前だけでもよい」
「もっと無理です」
信長様が眉を上げた。
「何故だ」
「俺、榊屋の人間ですよ」
「だから何だ」
話が通じない。
いや、たぶんこの人にはこの人の理屈がある。
「工房が要るなら用意する」
「はい?」
「人も集める。道具も要るのであろう。必要なものを言え」
俺は黙った。
信長様は続ける。
「銭も出す」
その一言が、一番効いた。
土地。
工房。
人。
道具。
銭。
全部用意すると言っている。
俺は思わず一益様を見たが、一益様は何も言わなかった。止める気も、信長様の言葉を補足する気もないらしい。本当にその条件で俺を尾張へ置くつもりなのだろう。
「百挺で足りぬなら二百挺作ればよい」
「昨日、簡単に増やせんって説明しましたよね」
「だから必要なものを言え」
「そういう問題でも……」
「なら、どういう問題だ」
言葉に詰まった。
正直に言えば、欲しい。
ものすごく欲しい。
前世でこんな話をされたら、たぶん泣いていた。
工場を増やしたい。人が足りない。設備が足りない。材料が足りない。外注先の能力が足りない。検査する人が足りない。倉が足りない。そして何より銭が足りない。
そんな話をするたびに、普通なら何を諦めるかという話になる。
全部揃えることなど出来ないから、限られた人と銭と設備の中で何を優先するかを決める。設備を入れるなら人を増やすのは後にする。倉を建てるなら別の投資を待つ。売上が増えるまで我慢する。先に銭を使って、本当に後から仕事が増えるのかを考える。
ものづくりは、作りたいものだけを考えていれば出来る仕事ではない。
目の前の男は、その前提を丸ごとひっくり返している。
足りないなら用意する。
必要なら集める。
場所がないなら作る。
俺が十年かけて一つずつ増やしてきたものを、この人なら本当に短い時間で揃えてしまうかもしれない。
しかも、作った鉄砲を買う相手まで最初からいる。百挺作っても売れなかったらどうする、という心配までほとんどない。
こんなに条件のいい話はない。
「……ええなあ」
「何だ」
「いや、条件だけ聞いたらめちゃくちゃええなって」
一益様が咳払いした。
「すみません」
でも、本当にそうなのだ。
だからこそ、すぐに頷けなかった。
昨日までの俺なら、もしかすると飛びついていたかもしれない。
堺にいたまま信長様からこの話を聞いていたら、少なくとも今よりずっと迷ったと思う。
でも俺は、尾張まで来てしまった。
「信長様」
「何だ」
「……今は、無理です」
信長様の顔は変わらなかった。
一益様だけが、ほんの少しこちらを見た。
「何故だ」
怒ってはいない。
ただ、理由を聞いている。
「俺、知らんことが多すぎます」
「何を知らぬ」
「鉄砲のことです」
「十年作っておるのだろう」
「作ることは、です」
俺は少し考えた。
「堺におった時は、ちゃんとした鉄砲を作って、数を揃えて、部品も用意して、それでだいぶ出来るようになったと思ってました」
「違ったか」
「違いました」
尾張へ来るまで、俺は自分が鉄砲をかなり分かっているつもりだった。
少なくとも、作ることについては。
「作った後、船に載せますよね」
「うむ」
「荷を下ろして、倉に入れる。そこから兵のところまで運ぶ。雨も降る。泥にも落ちる。使う人が変わる。壊れる。知らん人が直す。どこで作ったか分からん部品が付くこともある」
与助の顔を思い出した。
あの人は、榊屋の記録のために鉄砲を直しているわけではない。どの部品がいつ壊れ、どこの職人が作ったものへ交換したかを、俺たちのために残しているわけでもない。
今、使えるようにするために直している。
俺たちが知りたいことと、現場で必要なことは違った。
「俺、そういうのほとんど知らんかったんです」
「だから尾張へ来ればよい。ここなら見られる」
「俺も最初そう思いました」
「違うのか」
「それだけでもないんです」
昨日の酒宴を思い出す。
勝家様が言っていた。
国友の上物はよく当たる。
腕の立つ者は、ああいうものを好む。
「国友ってありますよね」
「ある」
「俺、あそこの鉄砲、ちゃんと見たことないんです」
信長様が黙った。
「撃ったこともないです。どうやって作ってるかも知らん。どんな職人がおるのかも、どうやって仕事分けてるのかも知らん。材料をどう集めてるかも知らんし、出来た鉄砲を誰が売ってるのかも知らん」
口に出してみると、自分でも呆れるくらい知らなかった。
俺は十年、鉄砲を作ってきた。
榊屋の作り方なら、かなり分かる。どうすれば数を増やせるかも考えてきたし、どうすれば出来のばらつきを減らせるか、どこまで外へ出せるか、どの技を中へ残すべきかも考えてきた。
でも、それは榊屋の中で考えてきた答えだ。
「鉄砲作って十年になるのに、俺、堺と榊屋のやり方しか知らんのです」
「それが問題か」
「問題やと思います」
信長様がくれると言っているものは大きい。
だからこそ怖い。
「今ここででっかい工房もろても、俺、榊屋をでかくすることしか出来ん気がします」
人を増やす。
設備を増やす。
外注先を増やす。
倉を増やす。
検査する人を増やす。
榊屋でやってきたことを、もっと大きな規模でやる。それなら出来るかもしれない。
でも、それが一番いいやり方なのかは分からない。
「国友には、国友のやり方があるはずです。俺らよりええところもあると思います。逆に、榊屋の方がええところもあるかもしれん。でも、今の俺には比べることすら出来ません」
信長様はしばらく何も言わなかった。
俺は少し不安になった。
織田信長から直々に誘われて、知らないことが多いから無理ですと言った。
改めて考えると、なかなか恐ろしいことをしている。
「国友を見たいのか」
「はい」
「見たことがない」
「ないです」
「なら見てこい」
「……はい?」
話が一瞬で進んだ。
信長様が一益様を見る。
「一益」
「は」
「国友へ連れていけ」
一益様が止まった。
「……私がですか」
「お主がこやつを連れてきたのであろう」
「それとこれとは別の話かと」
「同じだ」
「違うと思いますが」
俺も違うと思う。
「帰りに近江を通ればよい」
「通れぬことはありませんが」
「なら決まりだ」
「いや、ちょっと待ってください」
一益様ではなく、俺が止めた。
「何だ」
「国友って、そんな簡単に見せてもらえるんです?」
「話はつける」
「誰が?」
「俺が」
「……殿様って便利やな」
一益様が咳払いした。
「すみません」
昨日から何度目だろう。
「見てこい」
「はい」
「その上で考えろ」
「何をです?」
「尾張へ来るかどうかだ」
「まだその話、生きてるんですか」
「俺は取り下げたとは言っておらん」
そういうことらしい。
知らないから決められないと言ったら、なら知ってこいと返された。
断ったつもりだったのに、いつの間にか返事を先延ばしにしただけになっている。
この人、やっぱり話が速い。
「虎松」
「はい」
「国友で何を見る」
「鉄砲の作り方……ですかね」
「それだけか」
言われて、考えた。
以前の俺なら、それだけだったかもしれない。
銃身をどう作る。穴をどう開ける。尾栓をどう作る。ばねをどう作る。寸法はどう取る。治具はあるのか。どんな道具を使うのか。
目の前にある鉄砲をどう作ったのか、それだけを追いかけていたと思う。
でも、尾張へ来た今なら、それだけでは足りないと分かる。
「誰が作ってるか」
「うむ」
「誰が材料を持ってくるか。誰が仕事を分けてるか。出来た鉄砲を誰が集めて、誰が売ってるか」
「他には」
「どうやって技を教えてるか。腕のええ職人が何してるか。どこまで同じにして、どこから職人に任せてるか」
考え始めると、次々出てきた。
「あと、直す時どうしてるか。部品だけ作ってる人がおるのか。注文受けてから作るのか、先に作って置いとくのか。誰が出来を見てるのか。腕のええ職人と、まだ慣れてない職人で仕事をどう分けてるのかも見たいです」
鉄砲そのものだけではない。
その鉄砲が生まれるまでに、誰と誰が繋がっているのか。
そこまで見なければ、榊屋との違いは分からない。
「榊屋と何が違うのか、見たいです」
信長様が頷いた。
「なら、それを見てこい」
「はい」
「戻ったら俺に教えろ」
「何をです?」
「榊屋と国友、どちらが良い」
「それ、たぶんそんな簡単に決められんと思いますよ」
「何故だ」
「目的が違ったら、ええところも変わるでしょう。昨日の鉄砲の話と同じです。一番よう当たる鉄砲と、百挺揃えやすい鉄砲で、良さが違うかもしれんし」
信長様が少し笑った。
「なら、それも含めて教えろ」
「……はい」
「何が違い、何故違うのかを見てこい」
宿題まで出された。
でも、悪くない。
俺自身、それを知りたい。
国友が榊屋より優れているのかを確かめたいわけではない。榊屋のやり方が正しいと証明したいわけでもない。
同じ鉄砲を作っているのに、別の土地で、別の職人たちが、どういう答えに辿り着いたのか。
それが知りたい。
「一益」
「は」
「頼んだぞ」
一益様は小さく息を吐いた。
「……承知いたしました」
俺は何となく申し訳なくなった。
◇
部屋を出たところで、一益様に呼び止められた。
「虎松」
「はい」
「何故、俺まで国友へ行くことになった」
「俺に言われても」
「お前が国友を見たいと言ったからだろう」
「連れていけ言うたん信長様ですよ」
「元を辿ればお前だ」
「でも一益様、詳しそうやし」
「勝手に決めるな」
「すみません」
また謝った。
廊下を進むと、善次郎が待っていた。
「どうやった?」
「お前の勝ち」
「何が」
「尾張に住め言われた」
善次郎が止まった。
「……ほんまに?」
「うん」
「織田様から?」
「他に誰がおんねん」
「何て答えた」
「断った」
「はあ!?」
今日一番大きな声だった。
「声でかい!」
「お前、何しとんねん!」
「今は無理って言っただけや!」
「同じや!」
「だって俺、知らんこと多すぎるし」
「だからって織田様直々の話を!」
「ほんで国友行くことになった」
「何で!?」
善次郎の顔が面白いくらい変わる。
「国友見てから考えろって」
「何を?」
「尾張に来るか」
「断れてへんやないか!」
「……言われてみれば」
「何してきたんや、お前!」
俺も分からない。
仕官を断りに行ったら、国友見学が決まって帰ってきた。一益様まで付いてくる。
どうしてこうなった。
「まあ、ええやん。国友行ってみたかったし」
「俺も行くんか?」
「来んの?」
「お前なあ……」
善次郎が額を押さえた。
でも、本気で嫌がっているようには見えない。
商人のこいつにとっても、国友は無関係な場所ではないだろう。鉄砲を作る土地へ誰が材料を運び、誰が出来た鉄砲を買い、どこへ売っているのか。俺が職人や加工の仕組みを見る横で、善次郎には善次郎なりに見えるものがあるはずだ。
部屋へ戻ると、俺はさっそく帳面を出した。
国友で見るものを整理しておきたい。
職人。材料。分業。寸法。道具。検査。販売。修理。
さっき信長様の前で話したことだけでも、確かめたいものはいくらでもある。実際に現地へ行けば、さらに増えるだろう。
帳面を開く。
いつもの場所へ手を伸ばす。
「…………」
善次郎が俺を見る。
「何や」
「鉛筆ない」
「まだ言うとんのか!」
「いや、これ国友で困るぞ」
今度は朝より切実だった。
鉄砲を見ながら寸法を書く。形を簡単に描く。職人の話を聞きながら気付いたことを横へ書き足す。工房の中を移動しながら何度も帳面を開く。
その度に硯を置いて墨を磨っているわけにはいかない。
「善次郎」
「何や」
「黒鉛、早めに見つけて」
「だから昨日頼まれたばっかりや!」
「急ぎで」
「仕入れ先すら決まっとらんわ!」
先に国友行きが決まってしまった。
何を見るかも決まった。
案内する人間まで、勝手に決まった。
俺は帳面と筆を見比べた。
「……これ持って歩くんか」
「皆そうしとるわ!」
国友へ着く前から、一つだけ問題が増えた。




