詰まった
六日目の朝、俺は九番と十番を始めなかった。
「やらんの?」
弥吉が聞いてきた。
「まだ」
「昨日も言うてたやん」
「今日決める言うたんや」
「今日やで」
「朝からうるさいな」
俺は壁の札を見る。一から八までが横へ伸び、そのうち昨日から気になっていた札が、まだ近いところに固まっている。一番前の札は進んでいる。その後ろに二枚、さらに一枚。止まっているわけではない。ただ、進んでいるはずなのに札同士の距離が妙に縮まっていた。
「何見とるん?」
「ここ」
「札?」
「四枚近いやろ」
「せやな」
「昨日は三枚やった」
「増えたな」
「うん」
「それが?」
弥吉には、まだ問題に見えないらしい。俺にも断言はできないが、札の並びが何を示しているのかは確かめる必要がある。
「ちょっと現物見てくる」
「仕事は?」
「する!」
「最近よう歩くな」
「誰のせいやと思っとんねん」
言った時には、弥吉はもう自分の仕事へ戻っていた。
◇
札の場所に対応する仕事を見に行くと、そこには途中まで進んだ部品が並んでいた。昨日より明らかに増えている。
一挺目の分、二挺目、三挺目。まだ山というほどではないが、前の工程から来た物が次へ進むまで、ここで待っているのは間違いなかった。
「これ、いつから?」
近くにいた佐吉へ聞いた。
「どれです?」
「一番下」
「昨日の昼くらいです」
「こっちは?」
「昨日の夕方」
「これは?」
「今朝です」
「なんで進んでへん?」
「順番待ちです」
「何の?」
佐吉が奥を指した。
見ると、職人が一人、作業している。別に遊んでいるわけではない。むしろずっと手を動かしていて、その前に仕事が並んでいるだけだった。
「昨日からずっと?」
「二十挺のだけちゃいますよ」
言われて気づいた。
そこにあるのは今回の仕事だけではない。以前から受けている仕事も混ざっている。親父との約束通り、既存の仕事は止めていないのだから、二十挺の仕事はその間へ入らなければならない。
「これ、どれくらい掛かる?」
「一つなら、そんな掛からんと思いますけど」
「一つなら?」
「はい」
もう嫌な答えだった。
◇
午前中、俺はその仕事を見ていた。
一つ終わると次へ入り、また一つ終わる。作業そのものは遅くない。むしろ普通だ。
ところが、その間にも前から新しい仕事が来る。一つ出る間に一つ入り、時には二つ入る。そうして列は少しも減らなかった。
「なるほどな」
俺が呟くと、五平が横を通った。
「何が?」
「ここ、遅いんちゃう」
「普通やで」
「普通?」
「前からこんなもんや」
それが一番困る。
人が遅いわけでも、失敗しているわけでもない。ただ、入ってくる量に対して出ていく量が少ない。
「今まで困らんかった?」
「別に」
「溜まっとるやん」
「そのうちやるやろ」
五平にとっては、それで済んでいた。
普段なら仕事の入り方がばらける。銃身が遅れる日もあれば、金具が遅れる日もある。材料待ちになることだってあるから、ここへ一度に仕事が集まりにくかった。
今は違う。
俺たちが前を流している。弥吉への途中確認を減らし、佐吉たちも止まりにくくした。その結果、前の工程が速くなり、今までより多くの仕事がここまで届くようになった。
「……俺らが送っとるんか」
「何を?」
「いや、こっちの話」
詰まった場所だけ見ていても分からない。その手前が前より流れるようになったから、今度はここが詰まり始めたのだ。
◇
昼、宗次郎を呼んだ。
「兄上、飯は?」
「後」
「母上に怒られますよ」
「それは困る」
「じゃあ飯にしましょう」
「その前にこれ」
「母上より強い話です?」
「……飯行こか」
母には勝てない。
飯を食ってから戻り、宗次郎に壁を見せた。
「昨日ここ三枚やったやろ」
「はい」
「今日四枚」
「はい」
「現物も四つ待っとる」
「札と合ってますね」
「そこは喜んでええ」
少なくとも札は嘘をついていない。
「で、これから後ろの札も来る」
「六と七ですか?」
「そのうち」
「じゃあ増えますね」
「増えるな」
「どうするんです?」
「まだ決めてへん」
宗次郎が札を見た。
「九と十は?」
「止めとく」
「始めないんです?」
「今入れたら、何日か後にここの列へ来る」
「でも始めないと終わらないですよ」
「せやねん」
そこが嫌なところだった。
始めなければ二十挺は完成しない。始めれば途中の仕事が増える。しかも納期は止まってくれない。
「兄上」
「何」
「あと何日です?」
「言うな」
「二十四日くらいです」
「言うな言うたやろ!」
「聞いたから答えたんです」
「聞いてへん!」
宗次郎は首を傾げた。
十二歳は容赦がない。
◇
七日目。
四枚だった札が五枚になった。
「増えたな」
弥吉が言った。
「見たら分かる」
「昨日お前それ俺に言うたで」
「覚えんでええことだけ覚えとるな」
現物も増えている。置いていた板の上には収まらなくなり、横へ別の板を置いたところで、ようやく他の職人たちも気づき始めた。
「邪魔やな、これ」
五平だった。
「昨日まで気にしてへんかったやん」
「昨日はここまで出てへんかった」
「札より現物の方が強いな」
「そらそうやろ」
ごもっともだった。
仕事が溜まれば置き場所がいる。置けば通路が狭くなり、別の仕事と混ざらないようにする手間も増える。
仕掛品は、ただ待っているだけではない。場所を食い、探す手間を増やし、扱う人間まで必要にする。
作りかけというのは、意外とうるさい。
「虎松」
佐吉が来た。
「これどこ置きます?」
また一つだった。
「……そこ」
「もう置けません」
「詰めたら?」
「傷付きますよ」
「せやな」
俺は工房を見回した。
空いているところを探す。ない。いや、あるにはあるが、そこには別の仕事が置いてある。
「こっち寄せるか」
「それ五平さんのです」
「五平」
「嫌や」
「まだ何も言うてへん!」
「俺の動かす気やろ」
「ちょっとだけ」
「嫌や」
職人という生き物は、どうしてこう勘がいいのだろう。
◇
俺は一度、全員の手を止めることも考えたが、まだそこまでではない。
問題は見えている。なら、まず数字を取ればいい。
数字と言っても大したものではない。一日にここへ何個来て、何個出ていくのか。それだけだ。
「宗次郎」
「はい」
「明日から、ここへ来た数と出た数だけ覚えといて」
「帳面に書きます?」
「いや、最初は板でええ。来たら一本、出たら一本」
「印ですか」
「うん」
「兄上が数えればいいでしょう」
「俺も仕事あるんや」
「僕もありますけど」
「知っとる」
「最近増えてます」
「知っとる」
「誰のせいです?」
「親父」
「兄上ですよ」
即答された。
◇
八日目から、朝から数を取った。
最初の日は午前中に二つ入って一つ出た。午後は一つ入り、二つ出たので、その日は差し引き増えなかった。
「ほら」
五平が言った。
「減ってへんけど増えてもへんやろ」
「一日だけや」
「気にしすぎちゃう?」
「かもしれん」
本当にそうかもしれない。
だから翌日も数えた。入った数は四、出た数は二で、二つ増えた。次の日は三つ入って二つ出て、一つ増えた。
「……あかんな」
宗次郎が板の印を見る。
「増えてますね」
「うん」
「一日に一つか二つ?」
「今のところ」
「じゃあ十日で」
「計算せんでええ」
「十から二十くらい増えます」
「計算すんな言うたやろ」
「兄上が数字見ろって」
「都合悪い数字まで見せろとは言うてへん」
「それ意味ないでしょう」
その通りだった。
◇
十日目の夕方。
九番と十番は、まだ始めていなかった。十一から二十は当然手付かずだ。
壁には一から八までの札が並んでいる。まだ八挺しか流していないのに、その途中ではすでに札が溜まり始めていた。
このまま九、十、その先まで入れればどうなるか。想像するのは難しくない。
「虎松」
源兵衛が来た。
「何」
「進んどるか」
「進んどる」
「何挺?」
「八挺動いとる」
「十日で八?」
「まだ完成はしてへん」
「知っとる」
親父が壁を見る。
「残り十二、まだ触ってへんのか」
「うん」
「間に合うんか」
痛いところを突く。
「間に合わせる」
「どうやって?」
答えられなかった。
源兵衛はそれ以上聞かなかった。
「決まったら言え」
「……うん」
そのまま去っていく。
怒られたわけではない。
だから余計に重い。
◇
仕事が終わったあと、俺は壁の前に残った。
最初は弥吉が問題だった。正確には、弥吉へ仕事が集まりすぎていた。
そこを少し崩し、佐吉たちが自分で進められる範囲を増やしたことで、前より仕事は流れるようになった。
結果、次が詰まった。
「兄上」
「まだおったん?」
「兄上もでしょう」
宗次郎が隣へ立つ。
「これ、どうするんです?」
「考えとる」
「人増やします?」
「簡単に言うな」
「じゃあ仕事減らします?」
「二十挺作るんやぞ」
「じゃあ速くします?」
「それができたら苦労せん」
「じゃあ」
「待て」
俺は問題の場所、その前、その後ろへと順に札を見る。
人だけを見るな。仕事を見る。
「……まず、なんでここに時間掛かっとるか見る」
「遅いからじゃないんです?」
「それは結果や」
「同じでは?」
「違う」
作業そのものに時間が掛かるのか。段取りに時間が掛かるのか。待っている時間があるのか。やり直しがあるのか。他の仕事と取り合っているのか。それとも、本当に一人では足りないのか。
まだ分からない。
「明日、一日ここ見る」
「また見てるんですか」
「見る」
「兄上、自分の仕事は?」
「……する」
「いつ?」
「するって!」
宗次郎が笑った。
俺は笑えなかった。
壁には、まだ動いていない札が十二枚ある。動き始めたのは八枚。そのうち何枚かが、一か所へ固まっている。
弥吉を軽くしたら終わりではなかった。仕事が流れるようになったからこそ、今度は流れの細い場所へ集まり始めた。
明日から九番を始めるつもりだった。
やめた。
まず、この詰まりを解く。
二十挺を作り始めて十日。
俺たちはまだ、一挺も完成させていなかった。




