尾張へ
尾張へ行くことが決まった。
織田信長に会う。
改めて考えると、とんでもない話だった。前の世界で歴史の教科書に載っていた人間に会う。それも遠くから眺めるとかではなく、向こうが俺に会いたいと言っている。
普通なら、もう少し緊張してもいいと思う。
だが今の俺には、それより先に気になることがあった。
「宗次郎」
「はい」
「お蓮のところから来る地板、次の分は」
「昨日聞きました」
「……そうやった?」
「はい。予定通りです。受け入れは新八さんにも話してあります」
「嘉兵衛さんのネジは?」
「それも昨日聞きました」
「ばねは?」
「今朝聞きました」
「小口の修理が来たら」
「それは先ほど聞きました」
「…………」
宗次郎が帳面から顔を上げた。
「兄上」
「何?」
「尾張へ行きたくないんですか?」
「行きたいよ」
「なら、行ってください」
「まだ行かんわ。明日や」
「明日になったら、もう一度全部聞くつもりでしょう」
「念のためや」
「それも昨日聞きました」
何でも覚えてやがる。
俺は工房を見回した。五平は若い職人の仕事を見ている。弥吉はいつも通り鉄を叩いているし、新八は出来上がった部品を検査している。佐吉は次に回す仕事を確認し、甚助のところでも木を削る音がしていた。
誰も困っていない。
俺が尾張へ行くことは、もう皆に伝えてある。数日で戻れるのか、もっと掛かるのかは分からない。それでも、だからといって仕事を止めるわけにはいかないし、止める必要もない。
俺がいない間も百挺を作る仕事は続く。小口の注文もあるし、修理も来る。外から部品が届けば受け入れて、見て、使えるものと直すものを分けなければならない。足りなくなりそうなものがあれば早めに手配するし、何かおかしければ原因を調べる。
いつもと同じだ。
そのいつもを、俺がいなくても続ける。
それをずっと目指してきたはずなのに、いざ自分が本当にいなくなるとなると、気になるものは気になる。
「何かあったらどうする?」
「何かとは?」
「何かや」
「分かりません」
「そこは考えようや」
「何が起きるか分からないのに、どう考えるんです?」
「それはそうやけど」
「父上もいます。五平さんもいます。新八さんも佐吉さんもいます。私もいます」
「うん」
「兄上でなければ決められないことが起きたら、帰ってから決めてください」
「急ぐやつやったら?」
「その時は、その場にいる人で決めます」
「…………」
「何です?」
「頼もしくなったなと思って」
「兄上が仕事を置いていくからでしょう」
「俺のせい?」
「かなり」
宗次郎は何でもないことのように帳面へ目を戻した。
こいつに家を継いでほしい。
この前、自分から言ったことを思い出す。まだ返事はもらっていないし、宗次郎自身も、もっと鉄砲作りを知ってから考えたいと言っている。
それでも、こういう時の宗次郎を見ていると、やっぱり向いていると思う。
俺なら「何かあった時のために」と、起きてもいない問題を考えて、余計な仕事を三つくらい増やしかねない。宗次郎は必要なものを準備した上で、起きてから考えればいいものまで先回りしようとはしない。
工房を回す人間としては、たぶんそっちの方が正しい。
◇
「行ってこい」
親父にも同じことを言われた。
「いや、行くけど」
「ほな行け」
「明日やって」
「知っとる」
親父は鉄砲を見たまま答えた。
「俺おらん間」
「何や」
「なんかあったら」
「お前おらんでも鉄砲くらい作れるわ」
「…………」
「何やその顔」
「いや」
「俺ら、お前が生まれる前から鉄砲作っとんねんぞ」
「それはそうなんやけど」
「五平もおる。佐吉も新八もおる。宗次郎もおる。何や、止まってほしいんか」
「そんなこと言うてへんやん」
「ほなええやろ」
親父が笑った。
分かっている。むしろ、そうなってほしかった。
俺がいなければ作れない工房なんて困る。俺一人の頭の中にしかないことを減らして、誰か一人がいなくても仕事が続くようにしてきた。昔なら俺に聞かなければ分からなかった寸法も、今は物差しや見本に残っている。俺が決めていた仕事の順番も、宗次郎や佐吉たちが考えられる。
それが出来つつあるから、俺は尾張へ行ける。
「……もうちょい寂しがってもええんちゃう?」
「何言うとんねん」
親父に笑われた。
◇
尾張へ持っていく荷物は、それほど多くない。
俺は戦をしに行くわけではないし、鉄砲を売りに行くわけでもない。一益様と善次郎と一緒に船で津島まで行き、そこから尾張の中へ入る予定になっている。向こうでは川尻とも合流し、津島から先については一益様の方で護衛を付けてくれるらしい。
だから俺が用意するものなんて、着替えと身の回りのものくらいだ。
そう思っていた。
「虎松さん」
「ん?」
「着替え、入れました?」
「入れた」
「何日分です?」
「……何日やろ」
お澪が俺を見た。
「何日分入れたんです?」
「二、三日?」
「何日で帰ってくるんですか?」
「分からん」
「なら、もう少し持っていった方がいいんじゃないですか」
「船やし、荷物増やしたくないんやけど」
「着替えくらい増やしても船は沈みません」
「それはそうやけど」
お澪は俺の荷物を見て、今度は別のものを確認し始めた。
「薬は?」
「薬?」
「何かあった時の」
「善次郎が持っとるんちゃう?」
「虎松さんの分ですよ」
「俺、病気ちゃうで」
「旅先で病気にならないと決まってるんですか?」
「……持っていきます」
「雨具は?」
「ある」
「本当に?」
「あるって」
「見せてください」
「何で!?」
「確認します」
「俺、二十歳やぞ」
「知ってます」
「子供ちゃうぞ」
「知ってます」
「ほな信用して」
「嫌です」
「何でや!」
近くで帳面を見ていた宗次郎が顔を上げ、俺とお澪を交互に見た。それから何も言わずに、また帳面へ目を戻す。
「宗次郎」
「何です?」
「なんか言えや」
「何をです?」
「お澪、今日ちょっと細かすぎへん?」
「そうですか?」
「そうやろ」
「いつも通りでは?」
「絶対嘘やろ」
「兄上の気のせいじゃないですか」
こいつ。
何か知ってる顔しやがって。
「ほら、雨具」
俺は荷物の中から出した。
お澪が見て、ようやく頷く。
「ありますね」
「ある言うたやん」
「確認しただけです」
「信用ないなあ」
「虎松さん、前に出掛けた時も忘れ物したでしょう」
「いつ?」
「春です」
「……何忘れたっけ」
「ほら」
「覚えてへんだけや」
「それを忘れたって言うんです」
宗次郎が少し笑った。
「宗次郎、お前どっちの味方や」
「どちらでもありません」
「絶対お澪側やろ」
「兄上が忘れ物をする側なのは事実です」
「敵しかおらん」
そんなことを言いながら荷物を詰め直した。着替えが一組増え、薬も入った。雨具は最初から入っていたし、手拭いやら何やらも、お澪に言われるまま確認していく。
考えてみれば、お澪が榊屋に来てからもう随分経った。
最初は善右衛門から一月だけ借りるはずだったのに、そのまま榊屋にいる。今では材料や在庫のことなら俺より詳しい時もあるし、外から届く荷についても、誰から何が来るのか大体分かっている。
俺が何を忘れやすいのかまで覚えられているのは、少し納得がいかないが。
「お澪」
「何です?」
「なんか今日、ほんまに細かない?」
お澪の手が止まった。
「……そうですか?」
「うん」
「旅ですから」
「前にも出掛けたことあるやん」
「今回は尾張でしょう」
「尾張やけど」
「まだ戦が終わったばかりなんでしょう」
「ああ」
なるほど。
そこか。
「大丈夫やって。一益様も一緒やし、戦しに行くわけちゃうから」
「そういうこと言ってるんじゃありません」
少し強い声だった。
俺はお澪を見た。お澪も俺を見ていたが、怒っているわけではない。ただ、仕事で荷物の確認をしている時とは少し違う顔をしている。
「……何?」
「別に」
「いや、別にって」
「ちゃんと帰ってきてくださいって言ってるんです」
「帰ってくるよ」
「ならいいです」
お澪はそう言って、荷物の紐を結び直した。
俺は宗次郎を見た。
宗次郎は帳面を見ている。
「宗次郎」
「何です?」
「なんなん?」
「何がです?」
「いや……」
何だろう。
分からん。
でも、何か俺だけ分かっていない気がする。
「とにかく」
お澪が言った。
「向こうで無茶しないでください」
「せえへんよ」
「珍しいものがあっても、勝手にどこかへ行かない」
「子供ちゃうって」
「面白そうな工房があっても?」
「…………」
「ほら」
「いや、見るくらいはええやろ」
「一人で行かない」
「はい」
「知らない人についていかない」
「ほんまに子供扱いやん!」
お澪が笑った。
俺も笑った。
宗次郎だけが、俺たちを見て小さく息を吐いていた。
◇
翌朝、俺はいつもより早く起き、旅支度を背負って家を出た。
家族はもう起きていた。親父も、お袋も、宗次郎もいる。吉松も、お千代も、お小夜も顔を出している。新三郎は善右衛門のところにいるから、昨日のうちに顔を見せに来ていた。
「ちゃんと食べるんやで」
お袋が言った。
「分かっとる」
「分かっとる言う奴が一番怪しい」
「なんで皆俺を信用せえへんの」
「日頃や」
親父が言った。
「お前まで言うん?」
「一益様に迷惑掛けんなよ」
「掛けへんよ」
「善次郎にもや」
「それは別にええやろ」
「よくないわ」
善次郎がいたら怒りそうだ。
家を出て工房の前へ行くと、何人かがもう来ていた。全員が俺を見送るために集まったわけではない。朝の仕事を始めるために来て、ついでに声を掛けているだけだ。
それくらいでいい。
「若旦那、土産頼みますわ」
千吉が言った。
「何がええ?」
「尾張のうまいもん」
「知らんわ」
「調べてきてください」
「俺何しに行くんや」
五平は笑いながらも、言うことは仕事の話だった。
「向こうの鉄砲、よう見てこい」
「はい」
「使っとる奴の話もな」
「それ聞きに行くようなもんです」
「ほな、ちょうどええ」
新八には、
「帰ってきたら、壊れた話全部聞かせろ」
と言われた。
「やっぱそこ気になるよな」
「当たり前や」
「一益様に聞いた分は書いとるで」
「現物見れるなら見てこい」
「見る」
「勝手に分解すんなよ」
「せえへんわ」
「ほんまか?」
「なんで誰も信用せえへんの!」
笑いが起きた。
その中に、お澪もいた。
今日は昨日みたいに、あれを持ったか、これを忘れていないかとは言わない。いつも通りの顔で、他の皆と一緒に立っている。
「行ってらっしゃい」
「うん」
「気を付けて」
「分かっとる」
「……ちゃんと帰ってきてくださいね」
昨日と同じことを言った。
「帰ってくるって」
「ならいいです」
お澪が笑った。
俺も笑った。
その横で、宗次郎が何とも言えない顔をしている。
「何や」
「何でもありません」
「絶対なんかあるやろ」
「ありませんよ」
「お前、昨日からそればっかやな」
「兄上も同じことばかり聞いています」
「……行ってくるわ」
「はい。行ってらっしゃい」
結局、何も教えてくれなかった。
◇
港には、一益様と善次郎が先に来ていた。
「遅い」
善次郎が言った。
「遅れてへんやろ」
「俺より後や」
「お前より早く来る決まりないやろ」
「俺は待った」
「知らんがな」
一益様が呆れた顔で俺たちを見る。
「お主らは、いつもこうなのか」
「こいつが絡んでくるんです」
「虎松が絡んでくるんです」
「何で同時に言うねん」
「お前もや!」
船に荷物を積む。
俺たち三人と荷を運ぶには十分な船だった。ここから海路で尾張へ向かい、津島へ入る予定になっている。
津島では現地の商人が待っている。
松葉屋清兵衛。
善次郎とは以前から付き合いがあり、俺も一度会ったことがある。あの時は向こうが堺へ来た。今度は俺が向こうへ行く。
津島から先は一益様の手配した護衛も付く。そして川尻とも合流し、その先には織田信長がいる。
昨日までは仕事の引き継ぎばかり考えていたせいか、ようやく自分がどこへ行こうとしているのか実感が湧いてきた。
「虎松」
一益様が船から呼んだ。
「何をしておる」
「今行きます!」
俺は船へ乗った。
綱が解かれ、船がゆっくりと岸から離れる。善次郎は早くも船頭と何か話していて、一益様は慣れているのか、特に珍しそうな顔もしない。
俺は岸を見た。
見送りに来ていた人たちが少しずつ小さくなっていく。親父、お袋、宗次郎、工房の連中、お澪。やがて誰が誰なのか分からなくなり、その後ろにある堺の町も少しずつ遠ざかっていった。
俺はこれまでだって、榊屋から出たことがないわけではない。材料を見に行ったこともあるし、客のところへ行ったこともある。善右衛門について動いたことだってある。
今回も、ただ遠くへ出掛けるというだけなら、それと大して変わらない。
違うのは、行く先だった。
堺で鉄砲を作る。
善右衛門たちが売る。
船や人が運ぶ。
清兵衛や川尻たちの手を通り、尾張へ届く。
今まで俺は、その流れの入口にいた。出来上がった鉄砲を送り出し、向こうから注文や修理の話が戻ってくるのを待っていた。
今度は、自分でその先へ行く。
「何見とるんや」
善次郎が横へ来た。
「堺」
「見たら分かるわ」
「遠なるなと思って」
「そら船出たんやからな」
「お前、情緒ないな」
「お前に言われたないわ」
善次郎は笑った。
「それより、津島着いたら清兵衛さんにちゃんと挨拶せえよ」
「するわ」
「覚えとる?」
「覚えとるって。松葉屋清兵衛さんやろ」
「お、偉いやん」
「俺を何やと思っとるん」
「忘れとったらどうしようかと思っとった」
「覚えとるわ!」
俺たちが騒いでいると、一益様が振り返った。
「元気だな、お主らは」
「善次郎がうるさいんです」
「虎松がうるさいんです」
「だから何で同時に言うねん!」
船はそのまま進んでいく。
この先で何を見ることになるのかは、まだ分からない。
尾張で俺たちの鉄砲がどう扱われているのか。
堺とは違う場所で、職人や商人がどう仕事をしているのか。
そして、織田信長が俺に何を聞こうとしているのか。
分からないなら、行って見ればいい。
まずは津島だ。




