勝ったぞ!
今川義元が尾張へ入ったと聞いてから、何日か経った。
何日か。
それだけしか経っていないのに、妙に長い。
工房では今日も水車が回り、槌の音が響いている。お蓮のところから届いた地板を新八が見て、五平は若い連中の仕事を確認し、弥吉はいつも通り何を考えているのかよく分からない顔で鉄を叩いている。
榊屋は普通に動いていた。
俺以外は。
「虎松」
「ん?」
「それ、さっき見たぞ」
新八が言った。
「何が?」
「その地板」
「……そうやった?」
「三回目や」
「念入りな検査や」
「嘘つけ」
ばれた。
俺は持っていた地板を置いた。
別に仕事が手につかないわけではない。ちゃんと仕事はしている。ただ、人が入口を通るたびに少し気になるだけだ。物音がすれば見る。知らない声がすれば見る。外で誰かが走れば見る。
その程度だ。
「兄上」
「何?」
「さっきから入口ばかり見ています」
「お前まで言うん?」
「見ていますから」
「仕事もしとる」
「同じ地板を三回見る仕事ですか」
「新八、告げ口すんなや!」
「俺に言うな」
宗次郎は呆れた顔をして帳面へ戻った。
俺だって分かっている。俺が入口を見たところで、尾張の結果が早く届くわけではない。
今川義元が尾張へ入った。
俺の知っている歴史なら、この先に桶狭間がある。織田信長が勝ち、今川義元が討たれる。
それは知っている。
知っているはずだ。
だが、まだ誰も教えてくれない。
前の世界なら、調べればすぐに答えが出ることを、俺は何日も待っていた。
「……遅いな」
「何がです?」
「何でもない」
宗次郎に言ったところで仕方がない。
俺は今度こそ別の地板を取った。
その時だった。
「虎松!!」
入口から声がした。
俺は地板を置いた。
善次郎だ。走ってきたのか、息を切らしている。
「どっちや!?」
善次郎が止まった。
「……何が?」
「勝ったんか負けたんか!」
「え?」
「尾張や!」
「あ、ああ」
善次郎が息を整えた。
「勝った!」
「どっちが!?」
「織田や!!」
「っしゃああああ!!」
思わず両手を握った。
周りの職人が一斉にこっちを見る。
知らん。
今は知らん。
「ほんまに!?」
「ほんまや! 織田が勝った!」
「義元は!?」
「討たれたらしい!」
「よっしゃ!!」
「今川義元が討たれたぞ!」
「せやろ!」
「何でお前が威張るんや!」
善次郎も興奮している。俺も興奮している。何日も胸の奥に引っ掛かっていたものが、一気に取れた。
織田が勝った。
今川義元が死んだ。
桶狭間だ。
俺の知っている歴史と同じだ。
「ほらな!」
「何がほらなや!」
「大丈夫言うたやろ!」
「お前何もしてへんやろ!」
「信じとった!」
「何を!?」
「織田を!」
「お前、織田の誰ともまともに話したことないやろ!」
「せやけど勝ったやん!」
「意味分からんわ!」
工房の連中が、何事かと集まってきた。
尾張へ鉄砲を送っていることは皆知っている。今川が攻めてきたことも聞いていたから、織田が勝ったと分かると、あちこちから声が上がった。
「ほな、尾張は大丈夫なんか?」
「今川は引いたんか?」
「知らん! そこまではまだ分からん!」
善次郎が答える。
俺も聞いた。
「どうやって勝ったん?」
「知らん!」
「義元どこで討たれた?」
「知らん!」
「織田の兵どれくらいやった?」
「知らん!」
「何知っとるん?」
「織田が勝って義元が死んだことや!」
「それだけ!?」
「それだけでも大事やろが!」
それはそうだった。
善次郎が持ってきた話は、驚くほど大雑把だった。今川が尾張へ入った。織田が動いた。どこかで大きな戦になった。今川義元が討たれた。そして今川方が崩れた。
今のところ確からしいのは、その程度だった。
「雨の中で襲った言う奴もおるし、雨が止んでからや言う奴もおる。今川が休んどるところへ急に来たって話もあれば、最初から織田が向かっとったって話もある」
「……もう話バラバラなん?」
「当たり前やろ。戦場におった奴から直接聞いたわけちゃうぞ。尾張から来た奴が聞いた話を、また別の奴から聞いとるんや」
「そらそうか」
少し妙な感じがした。
俺が前の世界で知っていた桶狭間には、最初から筋書きがあった。何年何月何日、誰がどこへ動き、何が起き、誰が勝ったのか。後になって違う説が出ることはあっても、少なくとも一つの出来事として整理されていた。
今、目の前にある桶狭間は違う。
誰も全体を知らない。
善次郎も知らない。尾張から来た商人も、自分が見聞きした範囲しか知らない。たぶん戦った本人たちだって、自分の見えた範囲しか知らず、戦場の反対側で何が起きていたのかまで全部分かっていたわけではない。
今起きたばかりの出来事には、まだ筋書きがない。
これから何人もの人間が話し、書き残し、誰かがまとめ、その中の一部が後の世まで残る。俺が前の世界で知っていた桶狭間は、そうやって何百年もかけて形になったものだったのかもしれない。
歴史というものは、起きた瞬間から歴史の形をしているわけではないらしい。
「……なんや?」
善次郎が俺を見た。
「いや」
「また変なこと考えとるやろ」
「歴史って、後から出来るんやなと思って」
「何言うとるんや?」
「何でもない」
これは説明しても仕方がない。
それより、聞かなければならないことがある。
「川尻は?」
「ん?」
「川尻や。無事なん?」
「……そこまでは分からん」
さっきまでの喜びが、少しだけ引いた。
「分からん?」
「俺が聞いたのは勝ったって話だけや。川尻さんがどこにおったかも知らん」
「そうか」
織田は勝った。
今川義元は討たれた。
歴史は、俺の知っている方へ進んだ。
でも、川尻が生きているとは限らない。
前に自分で考えたことが、そのまま返ってきた。
「まあ、勝ったんや。尾張全部取られたって話やない。もう少し待てば向こうから何か来るやろ」
「……せやな」
「お前、今度は急に暗なるな」
「しゃあないやろ」
「忙しい奴やな」
善次郎に言われたくない。
◇
それから二日後、川尻から知らせが来た。
俺は宗次郎から聞いた瞬間、仕事を置いてそっちへ行った。
「どこ?」
「これです」
「無事?」
「読んでください」
「先に言えや!」
「無事みたいですよ」
「先にそれ言え!」
宗次郎から書状を取った。
短い。
戦が終わったこと。川尻自身は無事であること。尾張との取引について、すぐに止める必要はないこと。
まずそこまで読んで、息を吐いた。
「……よかった」
「ですね」
自分でも思っていたより安心した。
川尻とは商売の付き合いだ。親友というわけでもない。それでも何度もやり取りした人間が戦に巻き込まれ、その生死が分からないというのは気分のいいものではなかった。
続きを読んだ。
「……ん?」
「何です?」
「うちの鉄砲のこと書いとる」
宗次郎も横から見る。
榊屋から送られた鉄砲が使われたこと。すべてが同じ場所で使われたわけではないこと。そして、先に送っていた交換用の部品も役に立ったこと。
「ほんまに使ったんや」
「そのようですね」
俺は書状を近くへ寄せた。
「どれ?」
「何がです?」
「どの部品使ったん?」
「書いてありますよ」
ばね。
ネジ。
それから、いくつかの小さな金具。
破損したものだけではない。緩んだもの、なくしたもの、調子が悪くなって取り替えたもの。送っておいた予備から使えるものを選び、鉄砲を直したらしい。
「……ほんまに直して使ったんやな」
「そのために送ったんでしょう?」
「そうなんやけど」
「何です?」
「いや」
分かっていた。
前の知らせを見た時から、現地で直すために欲しがっているのだろうと思っていた。それでも、「使うだろう」と考えるのと、「使った」と聞くのは違った。
俺たちが堺で箱へ詰めたばねが尾張へ行った。向こうで誰かが箱を開け、壊れた鉄砲から古いばねを外し、合うものを探し、新しいばねを入れて調整する。そして、また使う。
ネジも同じだ。
俺たちが作った仕組みが、榊屋の外で動いた。
「兄上?」
「……役に立ったんやな」
「はい」
「ほんまに」
「そう書いてあります」
「いや、そうなんやけど」
うまく言えなかった。
百挺作ることだけ考えていた頃には、完成した鉄砲を渡せば、それで仕事は終わりだと思っていた。作る。検査する。撃つ。渡す。そこまでが榊屋の仕事だと思っていた。
でも違った。
渡した鉄砲は、その後も使われる。使えば汚れ、緩み、部品をなくし、いつか壊れる。壊れたら直す。直したら、また使う。
鉄砲は、売った瞬間に消えるわけではない。
むしろ、そこから先の方が長い。
百挺を作れるようにした時、俺たちは作り方を変えた。部品だけ欲しいと言われた時には予備を持つようにし、同じような寸法で作り、どの頃に作った鉄砲に合うのかを分け、何が入っているのか分かるようにして送った。
最初から、戦場で壊れた鉄砲を直しやすくするために全部を始めたわけではない。
同じものを作りやすくしたい。
間違えたくない。
部品を足りなくしたくない。
注文された時に困りたくない。
作る側の事情から、一つずつ始めたことだった。
だが、使う側から見れば意味が違う。
壊れても直せる。
堺まで戻さなくてもいい。
予備の部品があれば、もう一度使える。
作る側で積み重ねた工夫が、使う側では別の価値になっていた。
「ただな」
俺は書状を見ながら言った。
「これで勝ったとか、そういう話ではないよな」
「当然でしょう」
「やんな」
川尻の書状にも、そんなことは一言も書いていない。
榊屋の鉄砲が今川義元を討ったわけではない。榊屋が百挺作ったから織田が勝ったわけでもない。実際、百挺すべてが同じ戦場に並んでいたわけですらない。
大勢の人間が動く戦の中で、榊屋の鉄砲なんて一部にすぎない。
でも、その一部は確かに使われた。
壊れたものは直された。
また使われた。
それで十分だった。
「……見てみたいな」
「何をです?」
「向こうで、うちの鉄砲がどう使われとるか」
宗次郎が俺を見た。
「尾張で?」
「うん」
作っているだけでは分からないことがある。
どこを持つのか。どう運ぶのか。雨の時はどうするのか。泥が付いたらどうなるのか。何が壊れるのか。どの部品をなくすのか。直す時、何が困るのか。
工房では当たり前に出来ることが、外では出来ないかもしれない。逆に、俺たちが心配していることを、使う側はまったく気にしていないかもしれない。
今までも客から話を聞くことはあった。壊れた鉄砲が戻ってくれば、どこが悪いのかも見てきた。
でも、それは全部、使った後に堺へ戻ってきたものだ。
実際にどう運ばれ、どう置かれ、どう手入れされ、何を予備として持ち、壊れた時に誰がどう直しているのか。
そこまでは見たことがない。
「一回、実際に使っとるところ見た方がええ気がする」
「戦場へ行くんですか?」
「それは嫌や」
「でしょうね」
「戦終わってからでええ」
「都合がいいですね」
「死にたないもん」
「私も兄上に戦場へ行ってほしくありません」
「やろ?」
「鉄砲を見るために戦場へ行って死んだら、父上に何と言えばいいのか分かりません」
「そこ?」
「母上でも困ります」
「俺が死ぬこと自体を心配して?」
「それもあります」
「それも!?」
宗次郎が少し笑った。
こいつ、ほんまに遠慮なくなったな。
◇
桶狭間の戦が終わってから、尾張から入ってくる話は少しずつ増えた。
ただ、聞くたびに内容が少し違った。
織田がどこから動いた。
今川がどこにいた。
雨がどうだった。
誰が最初に義元へ斬りかかった。
どれが本当なのか分からない。
善次郎も途中から諦めた。
「もう勝ったんやからええやろ」
「雑やな」
「商人に戦の絵図描かせる気か」
「でも気になるやん」
「お前だけや」
俺としては、前の世界で知っていた話と比べてみたかったのだが、どうやら無理そうだった。
ただ、商売については思ったより早く動き始めた。尾張向けの注文は止まらず、それどころか善次郎のところへは次の話まで来ているらしい。
「ほらな」
「何が?」
「俺の勘」
「まだ言うか」
「当たったやろ」
「お前、外れた時どうする気やったんや」
「その時考える」
「ほんま商売任せたらあかん奴やな」
そんなことを言いながら、善次郎も機嫌がいい。あれだけ心配していた尾張の商いが残ったのだから当然だろう。
その善次郎が、数日後、また工房へやってきた。
今度は走っていない。
むしろ、妙ににやにやしている。
「虎松」
「何?」
「客や」
「誰?」
「尾張から」
俺は手を止めた。
「川尻?」
「ちゃう」
「誰?」
「滝川一益様や」
「……一益様?」
「せや」
その名前なら、もちろん知っている。
前の世界で名前を知っていたから、というだけではない。
一益様は以前、一度この榊屋まで来ている。
あの時は、尾張から鉄砲の話を持ってきた客であり、俺たちがどうやって鉄砲を作っているのかを見る人だった。工房を見て、治具を見て、職人たちが仕事を分けているところを見て、俺とも話をした。
その一益様が、今度は桶狭間の後に来る。
「何で?」
「此度の戦の礼も兼ねて、榊屋へ話があるらしい」
「親父に?」
「榊屋にもやろな」
善次郎はそこで一度言葉を切り、にやりと笑った。
「ただ、お前とも話がしたい言うとる」
「俺と?」
「前に来た時から、お前のことは覚えとるやろ」
「……まあ、そらそうか」
前に一益様が来た時、俺は今よりもっと工房の中のことしか見ていなかった。
どう作るか。
どう同じようにするか。
どう数を増やすか。
あの人が見たのも、そんな榊屋だった。
それから俺たちは百挺を作れるようになった。
部品だけでも売るようになった。
外で作ってもらうものが増え、榊屋の中に何を残すのかまで考えるようになった。
そして、その鉄砲と部品が尾張へ行き、本当に使われた。
前に会った時とは、俺たちの方も少し変わっている。
「いつ来るん?」
「近いうちや。親父の善右衛門には話しとく。源兵衛さんにも先に伝えといた方がええやろな」
「そらそうやな」
「よかったやん」
「何が?」
「さっき言うとったやろ。向こうで鉄砲がどう使われとるか見たいって」
「お前、聞いとったん?」
「宗次郎からな」
「あいつ」
「一益様なら、俺らよりよっぽど詳しい話知っとるんちゃうか?」
確かにそうだった。
今まで尾張から入ってきた話は、商人から商人へ、人から人へ伝わったものばかりだ。
だが、一益様は違う。
尾張の内側にいる。
しかも、榊屋の鉄砲を以前から知っている。
俺たちが何を作っているのかも知っている。
その人が、戦の後にもう一度榊屋へ来る。
「……聞きたいこと、いっぱいあるな」
「礼を言いに来る人を質問攻めにすんなよ」
「まだ何も言うてへんやろ」
「顔に書いとる」
「どこに?」
「全部や」
善次郎が呆れた顔をした。
俺はもう、一益様が来たら何を聞くか考え始めていた。
どこが壊れた。
何がなくなった。
どの部品が足りなかった。
雨の中ではどうだった。
運ぶ時に困ったことはなかったか。
修理は誰がした。
送った部品は、そのまま使えたのか。
調整に何が必要だったのか。
「……虎松」
「何?」
「もう始まっとるやろ」
「何が?」
「質問考えるん」
「…………」
「ほどほどにせえよ」
無理かもしれない。
桶狭間は終わった。
俺が知っていた歴史は、ひとまず俺の知っている通りに進んだ。
でも、その戦で使われた鉄砲は、教科書の中のものではない。
俺たちが作った鉄砲だ。
その答えを持っている人が、もう一度榊屋へやって来る。




