今川義元
尾張への百挺は、止めなかった。
善次郎が「このままでは尾張が危ない」と言ってきてから何週間か経ったが、榊屋では今までと変わらず鉄砲を作っている。お蓮のところから地板が届き、嘉兵衛のところからネジが届く。工房では銃身を作り、外から届いた部品を見て、組み上げ、調整し、撃って、出来たものから順に出していく。
ただし、本当に何も変わらなかったわけではない。
尾張へ行くものについては、宗次郎が今までより細かく見るようになった。
「前の荷の銭は?」
「入っています」
「次は?」
「善右衛門さんから聞いています。今のところ予定通りです」
「受け取る人も?」
「変わっていません」
「ほらな」
「何がです?」
「大丈夫やん」
「まだ何も起きてませんよ」
「せやけど、普通に銭入っとるやろ?」
「入っています」
「注文も止まってへん」
「止まっていません」
「なら大丈夫や」
「兄上が何をもって大丈夫と言っているのか、私はまだ知りません」
「……勘」
「それは知っています」
宗次郎は帳面から顔も上げなかった。
尾張が今川に呑まれるかもしれない。
善次郎からその話を聞いた時には、俺も一瞬驚いた。だが、今川義元、尾張、織田信長と並べてみれば、俺にも心当たりがある。
桶狭間だ。
たぶん。
前の世界にいた頃、戦国時代について詳しかったわけではない。年号なんてほとんど覚えていなかったし、戦の経過を説明しろと言われても無理だ。それでも桶狭間くらいは知っている。
今川義元が大軍で尾張へ攻め込み、兵の少ない織田信長がそれを破る。今川義元は討ち取られ、それから信長が大きくなっていく。
大筋は間違っていない。
たぶん。
前に善次郎へ大丈夫だと言った後、一人になってから急に不安になったが、数日経つとまた大丈夫な気がしてきた。尾張からの注文は止まっていないし、銭も入っている。荷も届いている。川尻からも、今のところ取引を変えるような知らせはない。
何より、俺が知っている歴史では信長はここで死なない。
なら大丈夫だろう。
そう思っていた。
◇
「虎松」
その日の昼過ぎ、善次郎がまた来た。
「何?」
「やっぱり来るぞ」
「誰が?」
「今川や」
「……来るかあ」
「何や、その言い方」
「いや」
善次郎は前に来た時よりも険しい顔をしていた。
「尾張の方から入ってくる話が増えとる。今川が兵集めとるんは間違いないらしい。三河の方も動いとる。街道の荷も、そろそろ嫌がる奴が出てきた」
「荷が?」
「戦になりそうなところへ好き好んで入る商人がおるか。道が塞がる前に抜けたい奴もおるし、逆に様子見るために荷止めとる奴もおる」
「ふーん」
「またそれか」
「何が?」
「前も『ふーん』言うとったやろ」
「そうやった?」
「言うとった」
善次郎は俺の顔をじっと見た。
「……お前、前より元気ないな」
「そんなことない」
「前はもっと自信満々で『大丈夫や』言うとったやん」
「今も大丈夫や」
「勘で?」
「勘で」
「なんか声小さなってへん?」
「なってへん!」
なっていない。
たぶん。
ただ、今川が本当に動いていると聞くと、少し話が違ってくる。
俺が知っている桶狭間は、もう終わった出来事だった。
今川義元が攻めた。
織田信長が勝った。
義元が死んだ。
結果だけを知っているから、その途中にどれだけ危ない瞬間があったのかなんて考えたこともない。信長が勝ったと知った上で、信長がどう勝ったのかを読んでいた。
だが、今はまだ結果が出ていない。
今川が動いている。
織田はまだ勝っていない。
俺が知っている歴史の途中に、今の俺たちはいる。
「それで、今川はどこまで来とるん?」
「まだ尾張へ入ったって話やない。せやけど、もう来るやろって皆見とる」
「ふーん」
「また言うた」
「ええやろ別に」
「それとな」
「何?」
「義元本人も出てくるらしい」
「…………誰?」
「誰って何や」
「今、誰言うた?」
「今川義元」
「本人?」
「本人や」
俺は善次郎を見た。
「ほんまに?」
「何でそこ食いつくんや」
「義元本人が来るん?」
「せやから、そう言うとるやろ。今川が尾張へ攻めるなら、義元本人が出てきてもおかしないやろ」
「…………」
永禄三年。
尾張。
今川軍。
そして、今川義元本人。
揃った。
かなり揃った。
「ほな大丈夫や」
「何が!?」
善次郎が声を上げた。
「いや、大丈夫やわ」
「何で今川の大将本人が来るって聞いて安心するんや!」
「何となく」
「お前さっきまで不安そうやったやないか!」
「今、大丈夫になった」
「何でや!」
「勘が強くなった」
「勘に強い弱いがあるんか!」
「あるんちゃう?」
「聞くな!」
善次郎には分からないだろうが、俺としてはかなり大きい。
今川が尾張へ攻めるというだけなら、俺の知らない小競り合いかもしれない。桶狭間の前にも、尾張と今川が何度も争っていた可能性はある。俺はそこまで詳しくない。
だが、永禄三年に今川義元本人が大きな軍勢を率いて尾張へ来る。
ここまで揃えば、さすがに桶狭間だろう。
「善次郎」
「何や」
「次の百挺、そのままでええ」
「さっきからそう言うとるやろ」
「今はもっと大丈夫や」
「俺は今の話聞いて、もっと不安になったわ!」
「大丈夫やって」
「その根拠を言え!」
「勘」
「もうええ!」
善次郎が頭を抱えた。
俺は少し笑った。
これなら大丈夫だ。
俺の知っている歴史なら、織田信長が勝つ。今川義元はここで死に、尾張が今川に呑まれることはない。
少なくとも善次郎が心配しているように、今まで築いてきた商売が、今川の勝利で丸ごと消えてしまうことはないはずだ。
そう思った。
「……ただな」
善次郎が言った。
「何?」
「向こうから来る話、だんだん物騒になっとるぞ」
声の調子が変わった。
「尾張からこっちへ来る荷も、道選ぶようになっとる。戦になりそうなところ避けたり、早めに出たりな。家族を別のところへ逃がし始めとる奴がおるって話もある」
「……そうなん?」
「そらそうやろ。勝つか負けるか分からんのやから」
俺は黙った。
善次郎にとっては当たり前の話だった。
戦になる。
なら、そこに住んでいる人間は逃げる。荷を運ぶ人間は道を変え、商人は銭や品物を守ろうとする。兵として集められる人間もいるし、家や畑を残して逃げる人間もいる。
そして、死ぬ人間もいる。
前の世界で桶狭間と聞けば、まず思い浮かぶのは織田信長と今川義元だった。何人対何人だったとか、奇襲だったとか、違ったとか、雨が降ったとか。歴史として残った出来事ばかりを見ていた。
だが当然、その土地にはその日も人が暮らしていた。
俺が知っている歴史では、織田信長が勝つ。
でも、川尻が無事だったかなんて知らない。
俺たちから鉄砲を買った人間がどうなったかも知らない。
荷を運んでくれた商人が無事だったかも知らない。
尾張が今川に呑まれないことと、俺たちの客が全員無事であることは同じではない。
織田が勝つことと、今まで通り商売が続けられることも同じではない。
「……虎松?」
「ん?」
「どうした」
「いや」
俺は少し考えてから、首を振った。
「何でもない」
「ほんまか?」
「うん」
善次郎が前から言っていたことが、ようやく少し分かった気がした。
こいつが怖がっていたのは、歴史に載るような勝ち負けだけではない。
その途中で、今まで積み上げてきたものが壊れることだった。
◇
それから数日後、川尻から知らせが来た。
善右衛門のところを経由して届いたもので、いつもの注文の確認に比べれば短い。宗次郎と一緒に内容を確認すると、まず今まで頼んでいる鉄砲については予定通り受け取ると書いてあった。
「鉄砲も?」
「はい。今のところ、数を減らす話はありません」
「ほら」
「まだ言います?」
「いや、確認」
続きを見る。
道の状況が今後悪くなる可能性があるため、送れるものはなるべく早く送ってほしい。
そこまでは分かる。
問題は、その次だった。
「……鉄砲は、出来るだけ多く欲しい」
「そう書いてありますね」
俺はもう一度見た。
「減らすんやなくて?」
「増やせるなら欲しい、ということでしょう」
「戦になるから?」
「それ以外にありますか?」
「……ないな」
今まで、百挺という数字は注文だった。
作れるか。
間に合うか。
材料はあるか。
外へ何を頼むか。
銭はいくら掛かるか。
俺たちはずっと、そういう目で百挺という数字を見てきた。
だが、その百挺を欲しがっている側には、別の理由がある。
戦うためだ。
当たり前だ。
鉄砲なのだから。
何を今更と思う。
それでも、紙に書かれた「出来るだけ多く」という言葉を見ていると、今までの注文とは少し違って見えた。
「兄上」
「何?」
「まだあります」
「何が?」
「部品です」
宗次郎が続きを示した。
「地板。ばね。ネジ……」
「交換用?」
「そうみたいです。普段より多めに欲しいと」
「鉄砲も増やして、部品も?」
「はい」
俺はしばらく黙った。
少し前まで、鉄砲の部品だけ欲しいと言われるたびに、どうやって供給するか考えていた。
余分に作れば、百挺分が足りなくなる。
なら、どれだけ予備を持つのか。
どの部品を完成品で持つのか。
半製品で持つのか。
注文が来てから作るのか。
古い鉄砲にも合うのか。
誰が作った部品なのか。
榊屋の名前をどこまで付けるのか。
部品を売るというだけの話から、俺たちは随分遠くまで考えることになった。
その答えの一つが、今、尾張から求められている。
「現地で直す気なんやな」
「でしょうね」
「壊れるたびに堺まで戻してられへんもんな」
「戦の最中なら、なおさらでしょう」
「そらそうや」
鉄砲が壊れる。
地板を替える。
ばねを替える。
ネジを替える。
調整して、また使う。
俺たちが考えてきた「直せる鉄砲」が、本当に必要とされる場所が見えた。
百挺を作るために部品を揃え始め、同じように作るからこそ交換出来るものが増え、交換出来るなら予備を持とうと考えた。最初から戦場での補修を目指して始めたわけではない。
それでも、作る側で積み重ねてきた工夫が、使う側では別の価値になる。
「……役に立っとるんやな」
「何がです?」
「部品出すようにしたん」
「そうですね」
少し嬉しかった。
自分たちが考えて、失敗して、在庫まで持って始めたことが、実際に必要とされている。
ただ、何に役立つのかと言われれば、人を撃つ鉄砲を直して、また使うためだ。
「…………」
「兄上?」
「いや」
今更だった。
俺は鉄砲鍛冶だ。
十年間、鉄砲を作ってきた。
何百挺作ったのか、もう数える気にもならない。
それが何に使われるものなのか、知らなかったわけではない。作ることばかり考えていたから、その先を毎日意識せずに済んでいただけだ。
なら今さら、そこだけ見ないふりをしても仕方がない。
「宗次郎」
「はい」
「予備、どれくらい出せる?」
「今ある分ですか?」
「うん。ただし、こっちの修理用まで全部出すんはあかん」
「分かっています」
「次の百挺分も食わんようにな」
「分かっています」
「あと、嘉兵衛とお蓮にも聞いて」
「どれくらい増やせるか?」
「うん。無理に急がせて悪いもん増えたら意味ないから、今の仕事崩さん範囲で」
「分かりました」
宗次郎が帳面へ書き込んでいく。
俺はその横で、川尻から届いた知らせをもう一度見た。
鉄砲を出来るだけ多く。
交換部品も多めに。
桶狭間が近い。
その言葉が、急に重くなった。
◇
出せる部品は、予定より早く尾張へ送った。
地板。
ばね。
ネジ。
ほかにも、現地で交換しやすいものをいくつかまとめた。何が入っているのか分かるように分け、どの頃に作った鉄砲へ使いやすいのかも添えた。榊屋で見て出したものには、いつものように印を付けてある。
ただ部品を箱へ放り込んで送るのではない。
向こうで榊屋の人間が見るわけではないのだから、受け取った人間が迷わないようにする必要がある。どれをどの鉄砲へ使えるのか分からなければ、予備をいくら送っても意味がない。
今まで散々考えてきたことを、いつも通りやった。
それでも、荷車が動き始めると少し違って見えた。
地板も、ばねも、ネジも、ここに置いてある間はただの部品だった。
それが尾張へ着けば、壊れた鉄砲をもう一度使えるようにする。
いつもと同じ荷が、戦になるかもしれない場所へ向かっていく。
荷車が見えなくなってからも、俺はしばらくその方向を見ていた。
◇
数日経った。
何も来ない。
工房は普通に動いている。朝になれば水車が回り、槌の音がする。材料が届き、出来たものを見て、鉄砲を組む。
だが、尾張から知らせが来ない。
「善次郎来た?」
「来てません」
「善右衛門さんからは?」
「今日は何も」
「川尻は?」
「ありません」
「……そう」
次の日もなかった。
その次の日も。
考えてみれば、当たり前だった。
前の世界なら、何か起きればその日のうちに知ることが出来た。遠くで戦が起きても、画面を見ればいい。誰が勝った。誰が負けた。どこで何が起きた。下手をすれば、起きている最中から分かる。
だが、ここにはそんなものはない。
尾張で何かが起きても、誰かがそれを知り、その誰かが堺まで来るか、書状を持った人間が走ってこなければ、俺には分からない。道が危なくなれば、その人間すらいつ来るか分からなくなる。
今川はもう尾張へ入ったのか。
まだなのか。
織田は動いたのか。
まだ何もしていないのか。
俺たちが送った部品は着いたのか。
それすら分からない。
結果を知っているはずなのに、途中が何も見えない。
未来の出来事を一つ知っていることと、今何が起きているのかを知っていることは、まったく別だった。
妙な感覚だった。
「兄上」
「何?」
「仕事してください」
「しとるわ」
「さっきから入口ばかり見ています」
「……見てへん」
「見ています」
「ちょっとだけや」
「何か来るんですか?」
「知らん」
「では仕事してください」
「はい」
宗次郎が冷たい。
いや、正しい。
俺が入口を見ていたところで、尾張から人が早く来るわけではない。
だから仕事をした。
新しい治具の寸法を見て、新八と話をして、お蓮から届いた地板を何枚か確認した。それでも人が工房へ入ってくるたび、どうしても顔を上げてしまう。
善次郎ではない。
次も違う。
その次も。
夕方になった。
「……今日は来んか」
誰に言ったわけでもない。
その時だった。
「虎松!」
入口から声がした。
善次郎だった。
走ってきたらしい。肩で息をしながら工房へ入ってきた善次郎を見て、俺はすぐに立ち上がった。
「何や」
「今川が」
善次郎が一度、大きく息を吸った。
「今川が、尾張へ入った」
工房の音は止まらなかった。
槌の音がする。
水車も回っている。
誰かが木を削っている。
その中で、俺だけが一瞬止まった。
「……義元は?」
「おる」
「本人?」
「本人や。義元本人が来とる」
来た。
間違いない。
俺の知っている歴史なら、この先に桶狭間がある。
今川義元が死ぬ。
織田信長が勝つ。
そうなる。
そうなるはずだ。
善次郎が俺を見た。
「虎松」
「何?」
「……ほんまに大丈夫なんやろな」
前なら、すぐに答えたと思う。
大丈夫や。
信長が勝つ。
何も心配いらん。
もちろん、そんなことは言えないにしても、少なくとも自分の中では迷わずそう思えた。
だが今は違う。
尾張には川尻がいる。
俺たちの客がいる。
榊屋の鉄砲を持っている人間がいる。
ついこの前送った交換部品も、もう届いているかもしれない。
信長が勝つことは知っている。
その途中で誰が死ぬのかは知らない。
俺が作った鉄砲が何を変えるのかも知らない。
それでも、ここまで来たら信じるしかない。
「大丈夫や」
俺は言った。
善次郎に言ったのか。
自分に言ったのか。
たぶん、両方だった。
◇
その日の仕事が終わってから、俺は尾張へ送る次の荷を見た。
地板、ばね、ネジ。鉄砲を直すための部品が、種類ごとに分けられて箱の中に収まっている。
これが向こうへ着く頃には、もう戦は終わっているかもしれない。
あるいは、真っ最中かもしれない。
分からない。
前の世界で桶狭間について調べれば、答えは最初から書いてあった。
何年何月何日。
今川義元が尾張へ侵攻。
織田信長がこれを破る。
今川義元、討死。
結果を知ってから、その途中を読むことが出来た。
今は違う。
俺は答えだけ知っている。
その答えへ本当に辿り着くのかを、確かめることが出来ない。
それに、歴史に残る答えが同じでも、その途中にいる一人一人まで同じとは限らない。
俺の知らないところで誰かが戦い、誰かが逃げ、誰かが死ぬ。
その中には、俺の知っている人間がいるかもしれない。
俺の作った鉄砲を持っている人間もいる。
十年前には、桶狭間なんて教科書の中の出来事だった。
今は、その中へ俺の仕事が入り込んでいる。
歴史の教科書なら、次の行に答えが書いてあった。
ここには、まだ書いていない。
「……頼むで、信長」
会ったこともない男に、俺は頼むしかなかった。




