尾張があかん
年が変わった。
永禄三年。
俺も二十歳になった。
十歳でこの時代に来てから、ちょうど十年になる。
そう考えると何か感慨深いものがありそうな気もするが、朝から俺が眺めていたのは、新しく出来た蔵だった。
「……ええな」
「何がです?」
「余っとる」
隣にいた宗次郎が、蔵ではなく俺を見た。
「余っているのがいいんですか」
「ええねん」
新しい蔵の中には、棚が並んでいる。材料、外から入ってきた部品、検査を終えた部品、交換用として持っておく部品、出荷を待つもの。それぞれ置く場所を決めて収めても、まだ棚には空きがあり、奥にも余裕があった。
前の榊屋なら、空いている場所を見つければ何か置きたくなった。というより、置く場所がないから、空いているところを見つけたら何でも置いていた。
銃身の横に地板がある。その横には材料が積まれ、奥にはいつ置いたのか分からない木箱がある。誰かに中身を聞けば、「それ何でしたっけ」と返ってくる。
そんな状態だった。
今は違う。
この場所へ移ると決めた時、俺はかなり広めに土地を取った。
工房を建てる時も、その時にいた人数や、その時に作っていた数だけでは考えなかった。作業する場所と物を置く場所を分け、材料が入ってくる側と完成した鉄砲を出す側にも余裕を取った。人が増えれば作業台を足せるようにし、物が増えれば蔵を建てられる場所も最初から残した。
今すぐ必要なものを、今ある場所へ隙間なく詰め込む。それだけなら簡単だし、土地も建物も少なくて済む。
だが、一度ぎりぎりまで詰め込んでしまうと、何か一つ増えただけで全部を動かさなければならなくなる。
人を一人増やしたいのに作業台を置けない。
新しい道具を入れたいのに場所がない。
材料を多めに持ちたいのに置けない。
そのたびに工房の仕事を止めて、あれをこっちへ、これを向こうへと動かしていたら、空いている場所を残しておくよりよほど面倒だ。
前の世界では、そういう余裕を冗長性なんて呼ぶこともあった。
今すぐ使わないから無駄なのではない。
何かが変わった時に使える余白があるから、変化に耐えられる。
親父には「何もないところに銭払うんか」と言われたし、善右衛門には「使わん土地から鉄砲は出てこんぞ」と言われた。
だが、空いている場所は無駄ではない。
変えられる場所だ。
そして今、それが効いていた。
「ここ、次に棚もう二つ増やせるな」
「増やせますね」
「向こうもまだ空いとるし」
「空いています」
「やっぱ広くしといて正解やったやろ」
「はい」
「もっと褒めてええで」
「誰も反対してませんでしたよ」
「親父めっちゃ言うてたやん」
「父上は建物を大きくしすぎるなと言ったんです。土地まで狭くしろとは言ってません」
「……そうやった?」
「はい」
最近、宗次郎が親父の言ったことまで正確に覚えているので困る。
「でも、ほんまに助かったな」
「それはそうですね」
宗次郎も蔵の中を見渡した。
「これを前の工房でやっていたら、置くところがなかったと思います」
「やろ?」
「人もです」
「うん」
「今の人数を前の工房へ入れたら、仕事する前に喧嘩になります」
「絶対なるな」
たぶん五平と弥吉あたりから怒り出す。
半年。
宗次郎へ、この家を継いでほしいと話してから、それくらい経った。
あれから家督の話が大きく進んだわけではない。俺も急いで答えを求めていないし、宗次郎もまだ何も決めていない。親父にも、まだきちんとは話していなかった。
だが、その間も榊屋は止まらなかった。
むしろ少しずつ大きくなっている。
善右衛門のところから来るまとまった注文は、相変わらず月に百挺ほど。それとは別に、十挺、五挺、多くても二十挺ほどの小口の注文が入るようになった。
月によって多少違うが、全部合わせれば百二十から百三十挺ほどになる。
もちろん、鉄砲だけではない。
地板が欲しい。
ばねが欲しい。
ネジを送ってほしい。
以前買った鉄砲の部品を交換したい。
そんな注文も増えた。
百挺を作れるようになった頃には、百挺をどう作るかばかり考えていた。
今は違う。
百挺を作りながら交換部品を出し、小口の注文も受け、修理に戻ってきた鉄砲を見る。外へ頼む部品も増えれば、届いたものを見る仕事も増える。
だから、百二十挺作っているからといって、仕事が百挺の頃より二割増えただけという話でもない。
作るものの種類が増えた。
持っておかなければならないものも増えた。
どこから何が入ってきて、どこへ何を出すのか、その組み合わせも増えた。
工房が大きくなるというのは、単に同じ鉄砲をたくさん作ることではなかった。数が増えるほど、その周りにある仕事の種類まで増えていく。
だから蔵を建てた。
それでも場所は余っている。
実に素晴らしい。
「兄上」
「何?」
「顔が気持ち悪いです」
「何でや!」
「空いている蔵を見て、ずっと笑ってます」
「ええやろ! 余裕あるんやぞ!」
「普通は物が入っている方を喜ぶのでは?」
「分かってへんなあ。今すぐ使わん場所があるから、急に何か増えても困らんのや」
「それは分かっています」
「なら何で気持ち悪い言うた」
「顔の話です」
「お前、最近俺に遠慮なくなったよな」
「昔からです」
そうかもしれない。
◇
工房の方も、半年前とは少し変わっていた。
何か一つ、とてつもなく新しいものが増えたわけではない。水車は今日も回っているし、槌の音もする。弥吉は相変わらず感覚で仕事をするし、新八は相変わらず細かいところを見つける。五平は若い連中の手元を見ながら、自分の仕事もしている。
だが、俺が見なくても決まることが増えた。
これが大きかった。
朝、誰が何をするのか。今日入ってくるものは何か。明日までにどれを終わらせるのか。何が足りなくて、どれを先に回すのか。
前なら俺が途中で口を出していたようなことを、佐吉や宗次郎が先に決めていることが増えた。
新八も、何か見つけるたびに俺を呼ぶわけではない。お蓮のところから来た部品に問題があれば、まず何が悪いのかを見る。嘉兵衛のところから来たネジも同じで、使えるのか、直せるのか、戻した方がいいのか、自分たちで考えるようになった。
すぐ俺のところへ持ってきて、「どうする?」とは聞かなくなった。
もちろん、俺の仕事がなくなったわけではない。
新しい治具を考える。工程を変える。外へ頼む仕事を増やす。問題が何度も続けば、なぜ続くのかを一緒に考える。新しい部品や新しい作り方を試すなら、その結果も見なければならない。
俺にしか分からないことも、まだ残っている。
それでも、俺を通らずに流れる仕事は明らかに増えた。
この前なんて、一日中お蓮のところへ行って戻ってきたら、普通に十挺組み上がっていた。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
俺がずっとやりたかったことだ。
ただ、いざ本当にそうなってみると、少しだけ寂しい。
「……俺、いらんくなってへん?」
「では、明日から兄上に全部戻しますか」
「ごめんなさい」
宗次郎に相談したら、一瞬で終わった。
やっぱり必要とされすぎるのも嫌だった。
我ながら勝手である。
そんなことを考えながら工房を歩いていると、入口の方から聞き慣れた声がした。
「虎松おるか」
「おるで」
善次郎だった。
珍しく大声ではない。
いつもなら、入ってきた瞬間から何かを売れだの増やせだの言い始める男が、今日は少し違った。
「虎松」
「何?」
「ちょっと話ええか」
「ええけど」
顔も、いつもの善次郎ではない。
「何かあったん?」
「……このままやと、尾張があかんかもしれん」
「尾張?」
「今川が動いとる」
俺は少しだけ眉を寄せた。
今川。
その名前はもちろん知っている。
この時代に来て十年も経つのだ。今川義元が東海道に大きな勢力を持っていることくらい、もう前の世界の知識に頼らなくても知っている。
善次郎は工房の中を気にしてから、声を少し落とした。
「このままやと、尾張へ大きく入ってくるかもしれん」
「へえ」
「へえ、ちゃうねん」
「何や」
「お前、今うちが毎月持っていっとる百挺、どこへ流れとるか知っとるか」
「尾張やろ」
「分かっとるやないか!」
「そら分かっとるわ!」
全部が一か所へ行っているわけではないが、善右衛門がまとめて扱っている百挺の多くは尾張筋へ流れている。
最初は、一度きりの大きな商いになるかもしれないと思っていた。
ところが違った。
向こうは次も買った。
その次も買った。
鉄砲だけではなく、交換用の部品も欲しがった。
何より、銭の話が早かった。
これは善次郎にとって非常に大事らしい。
「数買う。話早い。金払いもええ。次の話も向こうから来る。こんなええ客、そうおらんぞ」
「まあ、そうやな」
「せっかくここまで育てた客やぞ」
「客を畑みたいに言うな」
「育てたんや! 俺が!」
「鉄砲作ったん俺らやぞ」
「売ったん俺や!」
「はいはい」
「はいはいちゃうわ!」
いつもの善次郎が少し戻った。
だが、すぐに顔が真面目になる。
「ほんまに笑い事ちゃうぞ。尾張が今川に呑まれたら、今まで通りにはいかん」
「今川に売ったらええんちゃうん?」
「お前、ほんまに商売知らんな」
「何でや」
「今まで話しとった相手が、そのまま残ると思うんか。戦やぞ」
言われてみればそうだった。
「誰が残るか分からん。誰が逃げるかも分からん。城が落ちたら、今まで銭払っとった奴がおらんようになることだってある。注文出した奴と銭払う奴が別になるかもしれんし、途中の商人が逃げるかもしれん」
「……なるほど」
「今川が勝った翌日に、はい今日から今川様へ売ります、で済むなら誰も困らんわ」
「確かに」
「それにな」
善次郎が指を一本立てた。
「尾張の連中は、もう榊屋の鉄砲知っとる」
「ああ」
「部品も買う。次も買う。向こうで使った奴から話も回っとる。そこまで出来た相手が全部なくなったら、また一からやぞ」
それは大きい。
鉄砲百挺という注文だけを見れば、次に百挺買う相手を探せばいいように思える。
だが商売は、注文一つだけで出来ているわけではない。
誰に話を持っていけばいいのか。
誰なら銭を払うのか。
どれくらい買うのか。
どんな鉄砲を欲しがるのか。
榊屋の鉄砲を知っているのか。
交換部品を持っておく意味まで分かっているのか。
そういうものを一つずつ積み上げた結果、今の百挺がある。
善次郎が「育てた」と言うのも、あながち間違いではないのかもしれない。
「それでな、今のうちに次の百挺をどうするか考えときたい」
「どうするって?」
「尾張へそのまま持っていくんか、少し止めるんか、他へ回せる分は回すんか。親父の善右衛門とも話しとる」
「ふーん」
「お前も考えとけよ。作る方にも関わるやろ」
「まあな」
俺は頷いた。
そして、そこでようやく引っ掛かった。
今川。
尾張。
大きく攻めてくる。
今川義元。
織田。
「…………あれ?」
「何や」
「いや」
頭の中で、ずっと昔に覚えたものが繋がった。
俺は別に歴史が得意だったわけではない。戦国時代が嫌いだったわけでもないが、年号を片っ端から覚えていたような人間でもない。
それでも知っている。
今川義元。
織田信長。
桶狭間。
大軍を率いて尾張へ攻め込んだ今川義元を、兵の少ない織田信長が破る。
そして今川義元が死ぬ。
俺でも知っているくらい有名な戦だ。
「……今年やったん?」
「何が?」
「いや、何でもない」
「何やねん」
善次郎が怪訝な顔をする。
待て。
永禄三年。
今川が尾張へ来る。
たぶん合っている。
いや、合っているはずだ。
桶狭間って永禄三年だったよな。時期は初夏くらいだったか。雨が降っていた気がするし、信長が少ない兵で今川の本陣へ奇襲した、という話だったはずだ。
……いや、待てよ。
前の世界で、実は奇襲ではなかったとか、正面から攻めたとか、そんな話を見た気もする。
そもそも何で俺は、そんな中途半端なところだけ覚えているんだ。
いや、そこはどうでもいい。
大事なのは結果だ。
織田信長は、ここでは死なない。
今川義元が死ぬ。
それは知っている。
その後、織田信長がどうなるかも、大体知っている。
なら。
「まあ、大丈夫ちゃう?」
「何が?」
「尾張」
「…………何で?」
「いや、たぶん大丈夫やろ」
「何を根拠に?」
「…………」
「虎松?」
「あー」
未来の歴史を知っています。
そんなことを言えるわけがない。
「勘」
「帰るぞ」
「待て待て待て!」
善次郎が本当に立ち上がった。
「お前な! 毎月百挺やぞ!」
「分かっとる」
「百挺でいくら動いとると思っとる!」
「分かっとるって!」
「こっちは朝から親父の善右衛門とも、尾張への次の荷どうするか話しとるんや! それをお前、勘で大丈夫って何や!」
「いや、俺の勘、割と当たるで」
「百挺の商売をお前の勘に預けられるか!」
「大丈夫やって」
「何でそんな自信あるんや!」
「…………勘や」
「二回言うたら強くなると思うなよ!」
困った。
説明出来ない。
だが、ここで尾張向けの生産を止める方が勿体ない。
織田が勝つなら、むしろ今は鉄砲が必要になる時だ。桶狭間が終わったからといって、その瞬間に尾張が平和になるわけでもない。俺の知っている歴史がそのままなら、信長はこの先も戦い続ける。
なら、客が消えるどころか、もっと買う可能性だってある。
「善次郎」
「何や」
「とにかく、慌てん方がええ」
「だから何でや」
「次の百挺も、今まで通りでええと思う。向こうから止めてくれって言われたなら別やけど、こっちから慌てて止めんでええ」
「……ほんまか?」
「うん」
「外したらどうすんねん」
「その時考える」
「一番言うたらあかん奴や!」
「でも今から他の客探して、急に百挺売れるん?」
「……それは無理や」
「やろ? なら今は作っとこうや。尾張の様子は今までより細かく見てもらって、何か変わったらその時考えたらええ」
善次郎は腕を組んだまま、しばらく考えていた。
「……親父の善右衛門には話しとく」
「うん」
「お前が勘で大丈夫言うたって」
「そこは言わんでええ」
「言う」
「やめろ」
「絶対言う」
「何でや!」
「俺だけ怒られるん嫌やからや!」
こいつ。
善次郎は帰り際にも、何度か振り返った。
「ほんまに大丈夫なんやろな」
「大丈夫大丈夫」
「その言い方が一番不安やねん」
「心配性やなあ」
「お前が心配せなさすぎなんや!」
そう言い残して帰っていった。
俺はその背中を見送りながら、少し笑った。
桶狭間。
いよいよか。
十年前、この時代に来たばかりの俺なら、もっと興奮したかもしれない。歴史の教科書に載っていた出来事が、今まさに起ころうとしている。
だが今は、それより先に思うことがある。
うちの百挺、大丈夫かな。
俺も随分、この時代の人間になったらしい。
◇
「兄上」
「うわっ」
「何で驚くんです」
「いつからおったん」
「途中からです」
「どこから?」
「百挺の商売を勘に預けられるか、の辺りです」
「ほぼ全部やん」
宗次郎が俺を見ていた。
「何で大丈夫なんです?」
「お前も聞くん?」
「聞きますよ」
「勘」
「では、外れた場合は?」
「…………」
「兄上」
「大丈夫やって」
「答えになってません」
善次郎より厄介だった。
宗次郎は感情で怒らない。
数字で逃げ道を塞いでくる。
「今月分はもうかなり進んでいます。次の材料も一部は押さえています。尾張向けを止めるなら、早い方が損は少ないです」
「うん」
「続けるなら続けるで、向こうの状況を確認する必要があります」
「うん」
「兄上は続ける方がいいと思っている」
「うん」
「理由は勘」
「うん」
「……本当に?」
少しだけ詰まった。
宗次郎は俺を見ている。
こいつ、妙なところで鋭い。
「……何となく、今川が勝つ気せえへんねん」
「今川が?」
「うん」
「ずいぶん大きな勢力でしょう」
「そうなんやけど」
「織田が勝つと?」
「たぶん」
「何でです?」
「それ以上聞くな」
「怪しいですね」
「俺にも色々あんねん!」
「では聞きません」
「聞かんの?」
「兄上が言えないなら」
意外だった。
宗次郎は少し考えてから、手にしていた帳面を開いた。
「では、今まで通り進めます」
「ええん?」
「ただし、尾張からの入金は今までより細かく確認します。次の注文も、話だけではなく、いつ、誰が、どれだけ受け取るのか善右衛門さんに確認してもらいます」
「おお」
「それと、尾張向けが止まった場合に、他へ回せるものがどれくらいあるかも見ておきます。完成してからでは遅いですから、今のうちに他でも使えるものと、尾張向けでなければ困るものを分けておきます」
「……おお」
「何です?」
「いや」
こいつ、やっぱり当主向いてるわ。
俺が未来を知っているから大丈夫だと言っても、宗次郎にはそんなものはない。
だから、当たるか外れるかを考えるだけではなく、外れた時に困らないようにする。
止めるのでも、何も考えずに突っ込むのでもない。
今まで通り進めながら、入ってくる銭と向こうの状況をよく見て、駄目だった時に逃げられる道も作っておく。
俺には、その発想が抜けていた。
「宗次郎」
「はい」
「やっぱお前すごいな」
「急に何です?」
「いや、何でもない」
「気持ち悪いですよ」
「兄に対してその言い方やめへん?」
◇
その晩、俺は一人で帳面を見ていた。
善次郎には大丈夫と言った。
宗次郎にも大丈夫と言った。
次の百挺も、そのまま進めることになった。
だが、静かになってから改めて考えてみると、昼間には気にならなかったことが一つずつ頭に浮かんできた。
今川義元。
尾張。
織田信長。
永禄三年。
ここまで揃っている。
桶狭間だ。
たぶん。
俺の知っている歴史では、織田信長が勝つ。それはかなり自信がある。今川義元が討たれ、この戦をきっかけに信長がさらに大きくなっていく。
だが、細かいことは何も覚えていない。
いつ今川が動くのか。
どこを通るのか。
どれくらいの兵がいるのか。
信長がどうやって勝つのか。
俺が覚えているのは、今川義元が討たれ、織田信長が勝つという結果くらいだった。
それだけなら、まだいい。
もっと根本的な問題がある。
ここは本当に、俺がいた世界と同じように進むのか。
俺はこの十年で、何百挺もの鉄砲を作った。
そのうちかなりの数が尾張へ行っている。
前の世界には、榊屋なんて工房はなかったはずだ。少なくとも俺は知らない。
その榊屋が作った鉄砲を、今の尾張の誰かが持っている。
鉄砲だけではない。
交換部品まで送った。
壊れた鉄砲を直して使えるようにする仕組みまで作った。
俺が何もしなかった世界と、今の世界が完全に同じだと言い切れる理由は、どこにもない。
俺は歴史を変えたいと思った。
日ノ本のものづくりを変えてみたいと、半年前に宗次郎へ言った。
なのに、自分が何かを変えれば、知っている歴史の方まで変わるかもしれないという当たり前のことを、都合よく考えていなかった。
もし、俺が尾張へ送った鉄砲のせいで何かが変わったら。
織田が史実より有利になるなら、まだいい。
逆は?
どこかで一つ歯車が変わって、俺の知らない結果になったら?
昼間、善次郎へ言った「大丈夫」が、急に重くなった。
あれは雑談ではない。
その言葉で、百挺分の仕事を動かした。
材料を買う。
外へ仕事を頼む。
人が働く。
善右衛門は商いを続ける。
宗次郎は次の手配をする。
俺が未来を知っているつもりで言った一言に、何人もの仕事と銭が繋がっている。
帳面に並んだ数字を見ながら、俺はようやくそれを実感した。
「…………」
今川義元。
尾張。
織田信長。
永禄三年。
どう考えても桶狭間だ。
織田信長は勝つ。
今川義元は死ぬ。
大丈夫。
知っている。
知っているはずだ。
「……大丈夫やんな?」
当然、誰も答えなかった。
俺はしばらく帳面を眺めた。
それから本気で、善次郎を呼び戻した方がいいんじゃないかと考え始めた。




