百挺の、その先へ
今月最後の十挺が、工房の奥に並んでいた。
これを出せば、今月の百挺がすべて終わる。
少し前の俺なら、百挺という数字だけで胸がいっぱいになっていたと思う。五十挺を作るだけでも工房中がひっくり返りそうになっていた頃から考えれば、その倍を毎月作るなんて冗談みたいな話だった。それが今では、十挺ずつ並んだ鉄砲を見ても、まず数より先に出来具合が気になる。
「新八」
「何や」
「どう?」
「何が」
「最後の十挺」
「見たやろ」
「見たけど」
「撃ったやろ」
「撃ったな」
「どう?」
「しつこいな、お前」
新八はそう言いながらも、一挺を手に取った。火蓋を動かし、金具の具合を確かめ、銃身と台木の合わせを見る。試射はすでに終わっている。十挺とも問題なく撃てたし、途中で細かな手直しが出たものもあったが、それも直してもう一度確かめた。
「普通や」
「普通?」
「普通にええ」
「……そうか」
「何や。不満なんか」
「いや」
不満どころか、むしろ少し困っていた。
この十挺は、これまでの百挺とは少し違う。
銃身と尾栓以外、榊屋では作っていない。
地板はお蓮のところへ頼んだ。ネジは嘉兵衛。鋲や軸も外で作ってもらい、ばねもこのところ試している別の鍛冶屋から買った。台木まで、甚助が見つけてきた木工の職人に頼んである。
もちろん、これを来月から百挺全部でやるつもりはない。
今の榊屋が、どこまで外で作ったものを使えるのか。それを知るために、最後の十挺だけで試した。
榊屋で作ったのは銃身と尾栓。それ以外は、別々の場所で、別々の職人が作ったものだった。
ただし、届いたものをそのまま組んだわけではない。
受け取った時に見た。
寸法を測った。
見本とも比べた。
そのまま使えるものと、直せば使えるものと、使わないものに分けた。誰が作ったものなのかも残したし、悪いものがあれば、どこが悪かったのかも書いた。
それから組んだ。
合わせた。
動かした。
撃った。
そして最後に、もう一度榊屋で見た。
そこまでやって、初めてこの十挺には榊の印が入った。
少し前の俺なら、もっと簡単に考えていたかもしれない。外で作れるなら外へ出せばいい。安く作れるなら買えばいい。その分、榊屋では別の仕事をすればいい。
それ自体は、今でも間違っていたとは思わない。
だが、それだけでは足りなかった。
外で作ってもらうなら、榊屋はそれを見られなければならない。悪いものを悪いと言えなければならないし、何が悪いのか説明出来なければならない。必要なら自分たちでも直せなければならないし、同じ問題が続くなら、作った職人へどう直してほしいのか伝えられなければならない。
買えば済むようになったから、知らなくてもよくなるわけではなかった。
むしろ逆だった。
自分たちで作らないものほど、自分たちが何を買っているのか分かっていなければならない。作った人間が違う部品を一つの鉄砲にまとめ、最後に榊屋の名前で出すのなら、なおさらだった。
「なあ、新八」
「まだ何かあるんか」
「この十挺、いつものと比べてどう?」
「せやから、普通にええ言うとるやろ」
「どれが一番ええ?」
「何でや」
「ええから」
新八は面倒そうにしながらも、並んだ鉄砲を順番に見ていった。一挺、二挺と手に取り、途中で一つの動きをもう一度確かめると、それを俺へ差し出した。
「これちゃうか」
「それ?」
「俺はな」
「何で?」
「地板の動きええし、合わせもええ。台木もきれいや」
「……それな」
「何や」
「俺もそれが一番ええと思っとった」
「ほなええやろ」
「いや」
俺はその鉄砲を受け取った。
動きが滑らかだった。台木の仕上がりもいい。銃身との合わせもきれいに収まっている。
「なんか、普段より出来ええな」
「……せやな」
「俺ら、銃身しか作ってへんぞ」
「尾栓もやろ」
「そこちゃうねん」
新八は少し考えてから、何でもないことのように言った。
「腕ええ奴に頼んだんやろ」
「……せやった」
「何を落ち込んどるんや」
「落ち込んでへん」
「顔が落ち込んどる」
「ちょっと複雑なだけや!」
新八が笑った。
だが、考えてみれば当然だった。
榊屋が、何もかも一番上手く作れる必要なんてない。
地板を作るのが上手い人間が外にいる。ネジを作るのが上手い人間もいる。木を扱わせれば甚助より上手い人間だって、探せばいるのかもしれない。
なら、その腕を借りればいい。
榊屋より下手な人間を探して、自分たちの方が上だと安心することに意味はない。良いものを作れる人間を探し、何を作ってほしいのか伝え、出来たものを見て、それぞれ別の場所で作られたものを一挺の鉄砲にまとめる。
そして最後に、自分たちの名前で出せるかを決める。
その方が、俺たちだけで何もかも抱えるより良い鉄砲になることだってある。
「……何笑っとるんや」
後ろから声がした。
振り向くと、親父が立っていた。
「笑ってへん」
「笑っとったぞ」
「ちょっとな」
親父は並んだ十挺を見ると、何も言わずに一挺を手に取った。俺と新八がさっき見ていたやつだった。
火蓋を動かす。
金具を見る。
構える。
下ろす。
「これ、地板どこのや」
「お蓮んとこ」
「ネジは?」
「嘉兵衛」
「ばね」
「外。前に持ってきてもらったところ」
「台木は」
「甚助が見つけた木工屋」
親父はもう一度、手の中の鉄砲を見る。
「……銃身だけか」
「尾栓もうちや」
「ほとんど作っとらんな」
「うん」
少し前なら、その言葉を聞いただけで身構えていたと思う。
だが今日は違った。
親父も、俺も。
「撃ったんやろ」
「全部」
「どうやった」
「問題なし。二挺ちょっと直した」
「何を」
「一挺はばね。もう一挺は地板の合わせ」
「誰が直した」
「ばねは佐吉。地板は千吉にやらせて、五平が見た」
「千吉が?」
「うん。五平が横におったけどな」
「そうか」
親父は火縄を挟む金具をもう一度動かした。それから銃口を少し上げ、何かを確かめるように構えてから、静かに元の場所へ戻した。
「鉄砲にはなっとるな」
「うん」
親父はそこで終わらなかった。
十挺を順番に眺め、最後にさっきの一挺へもう一度目を向けた。
「榊屋の鉄砲にもなっとる」
俺は親父を見た。
「……うん」
それだけだった。
親父が間違っていたわけではない。
俺が正しかったわけでもない。
買えばいい。
作らなくていい。
そんな簡単な話ではなかった。
作らなくてもいい仕事と、作れなくなってはいけない仕事は違う。外に任せてもいい仕事と、外に任せたからこそ中で分かっていなければならない仕事もある。
その境目は、部品の名前だけでは決められない。
誰が作れるのか。
誰が見られるのか。
誰が直せるのか。
誰が教えられるのか。
それを分かった上で外へ出す。
その上で榊屋が最後まで見て、組んで、合わせて、撃って、これなら出せると決める。
そうして初めて、よそで作った部品も榊屋の鉄砲の一部になる。
親父が言っていたことも、ようやく分かった。
『買わな作れんのと、作れるけど買うんは違うぞ』
その違いは、どこで部品を作ったかだけではなかった。
榊屋がその仕事を理解したままなのか。
何かあった時に、自分たちで考えられるのか。
最後に自分たちの名前で責任を持てるのか。
たぶん親父が怖かったのは、それだったのだ。
◇
昼を少し過ぎた頃、最後の十挺を載せた荷車が出た。
工房の前で、俺と宗次郎はそれを見送った。
「十」
「はい」
「これで?」
「百です」
「ほんまに?」
「九十まで何度も確認したでしょう」
「いや、そうなんやけど」
荷車が遠ざかっていく。
今月、最初に出した鉄砲。
途中で出した鉄砲。
部品だけ出したもの。
直しに戻ってきたもの。
予備として作った部品。
外へ頼んだ部品。
百挺という数字の裏には、もう百挺分だけの仕事があるわけではなかった。
それでも最後には百挺出た。
「……行ったな」
「行きましたね」
「百挺」
「はい」
「なんかもっとこう、あると思ってた」
「何がです?」
「感動とか」
「先月も百挺作ったでしょう」
「そうなんやけど!」
宗次郎が笑った。
そうだった。
百挺は、もう一度だけ起きた奇跡ではない。
先月作った。
今月も作った。
来月も作る。
もちろん、いつでも同じようにいくとは限らない。材料が来ないかもしれない。外の工房で問題が起きるかもしれない。誰かが怪我をすることもあるし、注文そのものが変わることだってある。
それでも、百挺という数字を聞いただけで「無理だ」と思う人間は、もう榊屋にはいなかった。
百挺を作る方法を知っている人間が増えた。
百挺を作るために、何をいつ用意しなければならないのか知っている人間も増えた。
俺が全部指図しなくても、宗次郎は次の材料を見ている。佐吉は人を動かし、新八は出来たものを見る。甚助は松之助へ仕事を教え、五平は若い連中の手元を見る。
外では、お蓮や嘉兵衛たちが榊屋へ持ってくるものを作っている。その先には、お蓮から仕事を受ける別の工房や、嘉兵衛から仕事を教わる人間までいる。
百挺は、榊屋の中だけで作っているのではない。
俺一人が百挺を作れるようになったわけでもない。
榊屋と、榊屋に繋がる人たちが、百挺を作れるようになったのだ。
「兄上」
「何?」
「帰らなくていいんですか」
「何で?」
「今日は早く帰ってこいと母上が」
「あ」
「忘れてましたね」
「忘れてへん」
「では何の日です?」
「…………」
「兄上」
「宗次郎」
「はい」
「誕生日おめでとう」
「今思い出しましたね」
「思い出しとった!」
「日本語がおかしいですよ」
◇
その晩の飯は、いつもより少し豪華だった。
魚があり、煮物があり、普段より皿の数が多い。母ちゃんが朝から何かしているのは知っていたが、宗次郎の誕生日のためだったらしい。
新三郎も帰ってきていた。
「兄ちゃん!」
「うるさ」
「久しぶりに帰ってきた弟に最初に言うことがそれ!?」
「元気そうやな」
「元気やで!」
「知っとる」
善右衛門が「今日くらい帰ったれ」と言ってくれたらしい。
新三郎は飯を食いながら、向こうで覚えたことをずっと喋っていた。値段の付け方がどうだ、荷を運ぶのに誰へ頼むのがどうだ、帳面を一つ間違えて善次郎に怒られただの、その後で善右衛門にはもっと怒られただの。
「お前、怒られてばっかりやな」
「覚えたこともある!」
「何や」
「間違えたら怒られる!」
「そこかい」
吉松が笑い、お小夜も意味が分かっているのか分かっていないのか一緒になって笑う。お千代は呆れながら、新三郎の空いた椀へ飯を足してやっていた。
親父はいつもより少し酒を飲んでいた。
母ちゃんも機嫌がいい。
今日、百挺目を出したことを話すと、母ちゃんは「そうか」と笑った。
それだけだった。
「もっと何かないん?」
「何が?」
「百挺やで?」
「先月も作ったんやろ?」
「母ちゃんまで!」
「今日は宗次郎の日や」
「はい」
正論だった。
宗次郎が珍しく少し得意そうな顔をした。
「兄上、今日は私の日だそうです」
「お前まで言うんか」
「母上が言いましたので」
「腹立つなあ」
家族が笑った。
九年前、この家にはもっと静かな夜もあった。
俺が十歳で、宗次郎はまだ小さく、新三郎はもっと小さかった。吉松も、お千代も、お小夜も今よりずっと幼く、親父の工房も小さかった。
そこから人が増えた。
仕事が増えた。
五十挺を作り、百挺を作るようになった。
新三郎は商人のところへ修業に出た。
宗次郎は俺よりよほど上手く、工房の一月先、二月先を考えるようになった。
気付けば、みんな少しずつ違うところへ進み始めている。
俺も、そうなのかもしれない。
◇
「宗次郎」
飯が終わって少ししてから、俺は弟を呼んだ。
「何です?」
「ちょっと来て」
「どこへ?」
「工房」
「今からですか?」
「ちょっとだけ」
宗次郎は不思議そうな顔をしたが、ついてきた。
夜の工房は静かだった。昼間なら槌の音がして、誰かが喋って、木を削る音がして、水車から伝わる音まで混じっているのに、今は何もない。今日まで鉄砲が並んでいた場所も空いていて、最後の十挺がなくなった分だけ妙に広く見えた。
「何です?」
「うん」
「何か忘れ物ですか」
「ちゃう」
「では?」
言おうとして、少し困った。
昨日から考えていた。
いや、昨日初めて考えたわけではないのかもしれない。もっと前から、どこかにあったのだと思う。ただ、それまで俺自身が気付いていなかったものに、昨日ようやく形が付いた。
「宗次郎」
「はい」
「俺な」
「はい」
「お前に、この家を継いでほしいと思っとる」
宗次郎が黙った。
予想していなかったらしい。目を少し見開いたまま、俺を見ている。
「……何です?」
「聞こえたやろ」
「聞こえましたけど」
「ほな何や」
「兄上がいるでしょう」
「おるな」
「では、何で私なんです」
「お前の方が向いとるから」
「何にです?」
「この家を継ぐんに」
宗次郎はしばらく何も言わなかった。
「父上には?」
「言ってへん」
「母上には?」
「言ってへん」
「私が最初ですか?」
「うん」
「……何でです?」
「お前に継いでほしい話やから、まずお前に言わなあかんやろ」
「そういうものですか」
「知らん」
「兄上」
「俺かて初めて家継いでくれって頼んどるんや!」
「普通は何度も頼まないでしょう」
「そうやな」
宗次郎が少し笑った。
それで俺も、少しだけ肩の力が抜けた。
「別に今決めろって話ちゃうで。親父もまだ元気やし、そもそも俺が勝手に決められる話でもない」
「それなら、どうして今?」
そこは、ちゃんと答えたかった。
「昨日、お前言うたやろ」
「何をです?」
「俺の仕事は誰に残すんです、って」
「ああ」
「考えた」
宗次郎が黙って待つ。
「俺な。別に鉄砲作る腕が一番ええわけちゃう」
「そうですね」
「即答すんな」
「事実でしょう」
「親父にも五平にも弥吉にも負ける。甚助みたいに木を扱えるわけでもないし、新八みたいにずっと細かいとこ見とるんも得意ちゃう」
「はい」
「頭かて、お前の方がええと思う時あるし」
「時々ですか」
「そこ拾うな!」
宗次郎がまた笑った。
別に、自分を駄目だと言いたいわけではない。
俺に出来ることもある。
俺だから気付いたことだってある。
九年間、この工房で散々失敗しながら、それでも百挺まで持ってきたことを何でもないとは思っていない。
ただ、それと当主に向いているかどうかは別の話だった。
「人の仕事見て、誰をどこへ置くか考えるんも、お前の方が上手い。来月何がいるとか、いつ何が足りなくなるとか、そういうんもお前の方が早い」
「兄上にも出来るでしょう」
「出来る。でも俺、途中で変なもん見つけたらそっち行くやん」
「行きますね」
「即答すんなって!」
「それも事実です」
何も言い返せなかった。
「俺は、何かおかしいもん見つけたら気になってしゃあない。直せそうなら触りたくなる。今までなかったもん思いついたら試したくなる。たぶんこれからも変わらん」
「でしょうね」
「お前は俺より、今あるもん全部見て、どう動かしたらええか考えられる。人も、材料も、銭も、先の仕事もな」
宗次郎は何も言わなかった。
「たぶん俺より、お前の方が家をちゃんと見られる」
「……兄上」
「別に俺が榊屋辞めるとか、そういう話ちゃうで」
「では、兄上は何をするんです?」
そこだった。
俺は一度、息を吐いた。
「昨日の答えな」
「はい」
「たぶん俺の仕事って、誰か一人に引き継ぐもんちゃうねん」
宗次郎が俺を見る。
「考え方みたいなもんや」
「考え方?」
「寸法揃えたり、治具作ったり、仕事分けたりするやろ。悪いもん出来たら、誰が悪いって怒る前に、何でそうなったんか考える。上手い奴しか出来んことがあったら、他の奴でも出来るようにする」
「はい」
「俺がやっとるんって、たぶんそういうことや」
口にしてみると、妙な感じだった。
俺自身、今まで自分の仕事を一言で考えたことなんてなかった。
鉄砲鍛冶。
それは間違っていない。
榊屋の長男。
それもそうだ。
だが、俺が九年間やってきたことを並べると、それだけでは少し足りない。
俺は鉄砲を作るより、鉄砲を作る仕事そのものをいじってきた。
一人でしか出来ないなら、他の人間でも出来る方法を考えた。
毎回違うなら、揃える方法を考えた。
失敗するなら、失敗しにくい形を考えた。
数が足りないなら、工房の外まで使う方法を考えた。
その結果、俺一人では絶対に作れない百挺を、榊屋は作れるようになった。
「それ、俺しか出来ん仕事にしたらあかんと思う」
「……はい」
「榊屋だけが出来る仕事でも、たぶんあかん」
宗次郎の表情が少し変わった。
ほんの少しだった。
でも分かった。
こいつは今、俺が榊屋の外の話をしていることに気付いた。
「兄上」
「何?」
「どこまで考えてるんです?」
「……笑うなよ」
「笑いません」
「まだ何も言うてへんやろ」
「兄上がそう言う時は、大体おかしなことを言いますから」
「お前な!」
「聞きます」
逃げられなくなった。
昨日は頭に浮かんだだけで、自分でも何様だと思った。今日になっても消えなかったどころか、昼に最後の十挺を見送ってから、余計にはっきりしていた。
榊屋だけで作っていない鉄砲。
それでも榊屋の鉄砲になった。
外の職人が榊家寸で部品を作り、それを榊屋で見て、組んで、合わせて、撃った。お蓮も嘉兵衛も、最初から今のやり方をしていたわけではない。榊屋と仕事をする中で、少しずつ仕事の仕方まで変わってきた。
九年前にはなかった形だった。
なら、その先があってもいい。
「俺な」
「はい」
「日ノ本のものづくりを、変えてみたい」
言った。
言ってしまった。
宗次郎は笑わなかった。
それが逆に恥ずかしい。
「いや、全部とか無理やで?」
「まだ何も言ってません」
「分かっとる。分かっとるけどな。鉄砲だけでもええねん。鍛冶でもええ。寸法揃えたり、治具使ったり、仕事分けたり、そういうんが普通になったら」
昨日考えたことを、今度は人に伝えるために言葉にする。
「今は、榊屋で俺が言い出さんと始まらんことがあるやろ」
「ありますね」
「それが嫌やねん」
「嫌?」
「俺がおらんかったら止まるやろ」
宗次郎は答えなかった。
「榊屋だけでもそうや。俺が考えんでも、佐吉が工程考える。新八が寸法を見る。甚助が治具を考える。お前が先の数を見る。誰かが変なことに気付いたら、自分で考えて直す。そうなった方がええ」
「はい」
「それが榊屋の外でも同じになったら、もっとええと思う」
堺の別の鍛冶屋が、当たり前に寸法を揃える。
誰かが治具を使う。
悪いものが出来たら、作った人間を怒鳴って終わるのではなく、なぜそうなったのか考える。
上手い職人がいたら、その人間に全部やらせるのではなく、どうして上手く出来るのかを調べ、他の人間にも出来るところは出来るようにする。
そんなやり方が榊屋だけの工夫でも、虎松という一人の人間の工夫でもなくなったら。
「俺の名前なんか知らん奴が、俺と同じようなことを当たり前にやるようになったら、一番ええんちゃうかなって」
「……兄上の名前を知らなくても?」
「うん」
「それでいいんですか?」
「ええやろ」
俺は少し考えてから、笑った。
「その頃には、俺の後継ぎなんかいらんやん」
宗次郎は黙っていた。
俺がいなくなっても残る人間を作る。
昨日までは、そう考えていた。
だが、考え方そのものが当たり前になれば、俺の代わりになる人間を一人作る必要すらない。誰か一人が虎松の仕事を全部背負うのではなく、それぞれの場所で、それぞれの人間が必要な部分を使えばいい。
その方が、ずっと遠くまで残る。
「だからな」
俺は続けた。
「俺は、そっちをやってみたい」
「日ノ本のものづくりを変える方を?」
「言い直すな。恥ずかしい」
「兄上が言ったんでしょう」
「分かっとる!」
「随分大きな話ですね」
「せやから笑うな言うたやろ」
「笑ってませんよ」
本当に笑っていなかった。
宗次郎は少し困ったような顔をして、それから工房の中を見た。
「それで、家は私に?」
「うん」
「随分勝手ですね」
「……ごめん」
「兄上が外で好きなことをするから、私は家を守れと」
「そう言われると最低やな!」
宗次郎が吹き出した。
「笑うな!」
「すみません」
「こっちは真面目に話しとるんやぞ!」
「私も真面目です」
笑いながら言われても説得力がない。
だが、しばらくすると宗次郎の顔から笑いが消えた。
「今は、返事出来ません」
「うん」
「私は、もっと鉄砲を覚えたいです。帳面の仕事もありますし、父上が何を考えているのかも知りません。母上も、新三郎も、吉松たちもいます」
「うん」
「それに、兄上が何をしようとしているのかも、まだ全部分かりません」
「俺も分かってへん」
「それでよく日ノ本を変えるとか言えますね」
「笑うな言うたやろ!」
「笑ってません」
「今ちょっと笑った!」
「少しだけです」
宗次郎はまた工房を見た。
今日まで百挺目の鉄砲が並んでいた場所。
今は空いている。
「でも」
「何?」
「兄上が、この家を嫌になったから言っているんじゃないことは分かりました」
俺は少し驚いた。
「嫌なわけないやろ」
「分かっています」
「ほな何で言うたん」
「確認です」
「何の?」
「私が継ぐなら、大事なことでしょう」
そう言われると、何も返せなかった。
宗次郎はやっぱり俺より向いているのかもしれない。
「……考えといて」
「はい」
「急がんでええから」
「はい」
「親父にはまだ言うなよ」
「何でです?」
「俺から言う」
「喧嘩しませんか」
「せえへんわ!」
「昨日しましたよ」
「昨日のはもう終わった!」
「では、母上には?」
「……まだ言うな」
「怖いんですか?」
「違う」
「では言います?」
「もうちょい待って」
「怖いんですね」
「宗次郎!」
弟が笑った。
俺も結局、笑った。
◇
九年前、榊屋は親父を中心に鉄砲を作る小さな工房だった。
一挺ずつ作った。
職人が自分の腕で合わせた。
同じ鉄砲でも、少しずつ違った。
そこへ俺が、同じにしたいと言い出した。
物差しを作った。
治具を作った。
仕事を分けた。
失敗した。
また直した。
五十挺を作った。
百挺を作った。
人が増えた。
外の工房へ仕事を頼むようになった。
榊家寸で作る職人まで現れた。
そして今日、今月百挺目までの最後の十挺は、銃身と尾栓以外を榊屋の外で作った部品で組み上がった。
それでも鉄砲になった。
榊屋の鉄砲になった。
百挺を作ることが目標だった。
けれど、百挺を作れるようになったら、その先が見えた。
もっと作ることだけではない。
誰が作るのか。何を自分たちで作るのか。何を外へ頼むのか。外へ頼んでも何を自分たちの中に残さなければならないのか。誰へ技術を渡し、どうやって判断を残すのか。
そして、自分たちは何者なのか。
百挺という数を越えようとしたせいで、そんなことまで考える羽目になった。
面倒だった。
親父とは喧嘩した。
善右衛門には銭の話をされた。
外の職人とは何度もやり直した。
宗次郎には痛いところばかり突かれた。
それでも、悪くなかったと思う。
俺は隣にいる弟を見た。
宗次郎はまだ返事をしていない。
それでいい。
こいつにはこいつの人生がある。俺が外へ出たいからといって、弟の人生まで勝手に決めていいはずがない。
俺だって、自分がこれから何をするのか、まだ分かっていない。
日ノ本のものづくりを変える。
口にしてしまうと、やっぱり馬鹿みたいに大きな話だった。
何をすればそんなことが出来るのかも分からない。堺の外にどれだけの職人がいて、どんな作り方をしているのかすら、俺はほとんど知らない。
それでも、一度口にした。
昨日までは俺の頭の中にしかなかったものを、今日、初めて誰かに渡した。
考え方は、そうやって残るのかもしれない。
教える相手を一人決めることだけが、残すことではない。
誰かへ話す。
そいつが使う。
また別の誰かが、それを見て使う。
そのうち、最初に誰が言い出したのかなんて誰も知らなくなる。
それでも残っているなら、それでいい。
俺は空になった工房を見た。
百挺目は、もうここにはない。
全部、外へ出ていった。
百挺を作るために始めたことも、少しずつ榊屋の外へ出始めている。
なら俺も、いつかはここから先へ行ってみたい。
百挺の、その先へ。




