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虎松〜元エンジニアの戦国ものづくり革新録〜  作者: 真部 朝樹
百挺のその先へ編

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親父の鉄砲


 昨日作った紙は、一晩経って見ると随分と雑だった。


『誰が、何を出来るか』


 大きく書いたその下に、銃身、地板、ばね、ネジ、台木、組立、調整、検査と仕事を並べ、それぞれ出来る人間の名前を書いてある。


 親父。


 五平。


 弥吉。


 佐吉。


 新八。


 甚助。


 俺。


 若い連中の名前もある。


 昨日はこれを見て随分分かった気になっていたのだが、朝になって改めて眺めてみると、「出来る」の一言では随分と幅があることに気付いた。


 俺だって銃身は作れる。


 だが、親父と同じように作れるかと言われれば違う。


 庄吉だって出来る仕事は増えた。しかし、一人で任せていい仕事と、誰かが横についていれば出来る仕事は違う。


 弥吉に至っては、大抵のものを作れるくせに、人に教えられるかとなると急に怪しくなる。


 なら、それも分けた方がいい。


 昨日の紙に印を増やしてみた。


 一人で出来る。


 手伝いがあれば出来る。


 良し悪しを見られる。


 人に教えられる。


「……何やこれ」


 後ろから紙を覗いた佐吉が言った。


「昨日の続き」


「増えとるやん」


「出来るにも色々あるやろ」


「まあ、そらそうやけど」


「佐吉、地板は一人で作れる?」


「作れる」


「教えられる?」


「まあ」


「悪いやつ見分けられる?」


「それくらい出来るわ」


「ほな三つ」


「何で俺、朝から試されとるん?」


「大事なことや」


「昨日からお前、みんなに同じこと聞いとるぞ」


「大事なことや!」


「便利な言葉やな、それ」


 佐吉が呆れながら離れていった。


 俺はまた紙へ向き直った。


 面倒だ。


 だが、面白い。


 今まで「五平なら出来る」「佐吉なら分かる」で済ませていたものが、少しずつ形になっていく。誰が作れるのか、誰が見られるのか、誰が教えられるのか。そして、誰がいなくなると困るのか。


 工房にいる人間の頭の中を、紙の上へ少しずつ引っ張り出しているような気分だった。


「兄上」


「何?」


「兄上は、どこまで出来るんです?」


 筆が止まった。


 宗次郎が俺の横から紙を見ていた。


「……俺?」


「はい」


「書いてあるやろ」


「かなり印が付いてますね」


「出来るからな」


「銃身も?」


「作れる」


「地板も?」


「作れる」


「ばねも?」


「作れる」


「台木も?」


「……作れる」


「一挺、最初から最後まで一人で?」


「作れるで」


 そこまでは言えた。


 宗次郎が少し考える。


「父上と同じものを?」


「…………」


「兄上?」


「お前、嫌な聞き方するな」


「違うんですか?」


「違うわ!」


 認めるしかない。


 俺は鉄砲を作れる。


 十歳から九年、この工房にいるのだ。途中から工程だの治具だの寸法だのばかり考えていたとはいえ、職人の息子として普通に鉄を叩いてきた。銃身も作った。地板も削った。ばねも焼いた。ネジも切った。台木だって甚助ほどではないが形には出来る。


 ただ、親父や五平と同じかと言われれば違う。


「兄上、自分には甘いですね」


「うるさい!」


     ◇


 その日の昼前、親父が珍しいことをしていた。


 銃身を自分で鍛えていた。


 それ自体は珍しくない。


 親父は今でも職人だ。工房が大きくなったからといって、帳場に座って偉そうに指図だけするようになったわけではない。


 ただ、その日は銃身だけではなかった。


 地板も自分で見ていた。


 金具も自分で合わせている。


「親父」


「何や」


「それ、一挺作るん?」


「そうや」


「一人で?」


「全部やない。台木は甚助に頼んどる」


「何で?」


「何でって、頼まれたからや」


 注文の中に一挺、少し細かな指定のあるものがあったらしい。いつもの流れへ乗せて若い連中に回すより、自分で見た方が早いと判断したようだった。


 俺はしばらく、その仕事を見ていた。


「……何や」


「いや」


「昨日も甚助に同じこと言われとったな、お前」


「何で知っとるん」


「狭い工房で騒いどったら聞こえるわ」


 親父は銃身を見た。


 少し転がす。


 光にかざす。


 それから、また手を入れる。


「親父」


「何や」


「今、何見た?」


「銃身」


「それは分かっとる」


「ほな何や」


「何で今止まったん?」


「ちょっと気になったからや」


「何が?」


「こっち」


 親父が指を置く。


 俺も見る。


「……何が?」


「ちょっとおかしいやろ」


「分からん」


「見たら分かるやろ」


「分からんから聞いとんねん!」


 親父が面倒そうな顔をした。


「貸せ」


 渡された。


 転がして見る。


 測る。


 もう一度見る。


「あ」


「分かったか」


「ほんのちょっとやん」


「そのほんのちょっと残して、後で困るん嫌やろ」


 確かにそうだ。


 寸法から大きく外れているわけではない。これだけを見れば使える範囲に収まっている。


 だが親父は、その先を見ていた。


 この後、仕上げる。


 合わせる。


 撃つ。


 その途中で、今の「ほんのちょっと」がどちらへ転ぶか。


 そこまで見て、今直している。


 俺は親父の手元を見た。


 昔なら、親父は上手い、で終わっていたと思う。


 十歳の俺には、それしか分からなかった。


 だが今は違う。


 親父が何を見ているのか、全部ではないが少し分かる。


 途中で何度も確認している。


 形。


 曲がり。


 手触り。


 音。


 火に入れた時の色。


 叩いた時の返り。


 部品を合わせた時の抵抗。


 一つ一つは、本人にとって当たり前すぎて「見ている」とすら思っていないのかもしれない。


 だが、俺から見れば違った。


 親父は、作りながらずっと検査している。


 最後に完成品だけを見るのではない。途中で何度も良し悪しを判断し、悪くなりそうなら、その場で戻している。


 しかも、その判断の多くは帳面に書かれていない。


 物差しにも刻まれていない。


 親父の目と耳と指の中にある。


「親父」


「何や」


「今の、教えられる?」


「何を?」


「さっき見たやつ」


「見せたらええやろ」


「弥吉と同じこと言うな!」


「何であいつと一緒にされなあかんねん!」


「じゃあ言葉で説明して」


「ここ見てな」


「うん」


「こうなっとったら直す」


「こうって何!?」


「こうや!」


「それを言葉にしてくれ!」


「面倒くさい奴やな!」


 駄目だ。


 親父も相当危険だった。


     ◇


「宗次郎!」


 少し離れたところで帳面を見ていた弟を呼んだ。


「何です?」


「こっち来い!」


「今、来月の材料を」


「親父が鉄砲作っとる!」


「いつも作ってるでしょう」


「一挺通してや!」


 宗次郎が顔を上げた。


「……それは珍しいですね」


「見よう」


「見世物ちゃうぞ」


 親父が言った。


「昨日、技術残せ言うたん親父やろ!」


「見てるだけで残るか!」


「ほなやらせろ!」


「何でそうなるんや!」


 結局、宗次郎も仕事を少し手伝うことになった。


 以前にも現場へ入っていたので、道具の扱いから教え直す必要はない。宗次郎自身がやりたいと言って始めたことだし、簡単な作業なら経験もある。


 ただ、久しぶりだ。


「覚えとるか?」


 親父が聞いた。


「一応」


「一応が一番怖いわ」


「では見ていてください」


「そうする」


 宗次郎は慎重だった。


 俺みたいに、とりあえずやってみて失敗したら考える、という動きはしない。


 見て。


 確かめて。


 やる。


 また見る。


「遅いな」


 俺が言った。


「久しぶりなんですから黙っててください」


「はい」


 しばらくして宗次郎が止まった。


「父上」


「何や」


「これは、どこまでやればいいんです?」


「そこまで」


「……どこです?」


「ここや」


「ですから、その『ここ』を聞いています」


「見たら分かるやろ」


「分からないから聞いています」


「親父、それ俺もさっきやった」


「お前ら兄弟ほんま面倒やな!」


 俺は笑った。


 だが、宗次郎は笑わなかった。


 親父の手元を見る。


 自分の手元を見る。


 それから聞いた。


「父上」


「今度は何や」


「父上が出来ることを、全部私たちが出来るようになる必要はあるんですか?」


 親父の手が止まった。


 俺も宗次郎を見る。


「どういう意味や」


「昨日、兄上と誰が何を出来るか書いたでしょう」


「うん」


「父上や五平さんのところは、ほとんど何でも出来るようになっています」


「せやな」


「それを全部、私たちも出来るようになるんですか?」


 宗次郎は少し考えながら続けた。


「私は帳面の仕事があります。兄上には兄上の仕事があります。新三郎は商いを覚えています。甚助さんには甚助さんの仕事があって、新八さんにもあります」


「うん」


「父上と同じ職人が四人出来ても、それはそれで困るんじゃないですか?」


「何でや」


「全員が同じことをしていたら、他の仕事をする人がいなくなるでしょう」


 当たり前だった。


 だが、昨日から「技術を残す」ことばかり考えていた俺は、危うく全員へ全部を覚えさせる方向へ進みかけていた。


 親父の持っているものを、そのまま次の人間へ。


 五平の持っているものも、そのまま次へ。


 それが一番確実だと思っていた。


 だが、工房には工房の仕事がある。


 宗次郎を親父と同じ職人にしたら、今宗次郎がやっている仕事を誰がする。


 新三郎を呼び戻して鉄を叩かせたら、商いを覚えさせている意味がない。


 全員を同じ職人にする必要はない。


「……なるほど」


「何がです?」


「いや、お前やっぱ頭ええなと思って」


「今さらですか」


「腹立つな」


 親父が俺を見た。


「お前は何やろな」


「何が?」


「宗次郎は帳面やろ。新三郎は商いやろ」


「うん」


「お前は何や」


「長男やぞ!」


「知っとるわ」


「鉄砲屋や!」


「それも知っとる」


「じゃあ何やねん!」


 宗次郎が横から言った。


「兄上は兄上でいいんじゃないですか」


「一番雑!」


「でも、兄上と同じことをしている人はいないでしょう」


 俺は止まった。


「……そう?」


「そうでしょう」


「治具なら甚助も作るぞ」


「兄上が言っているのは、それだけではないでしょう」


「寸法決めるのは新八もやる」


「それも一つです」


「工程なら佐吉も考える」


「それもです」


 宗次郎は俺を見た。


「それを全部一緒にやっているのが兄上なんじゃないですか?」


 言われて、少し困った。


     ◇


 昼を過ぎても、親父は鉄砲を作っていた。


 俺は自分の仕事へ戻ったり、また親父のところへ来たりした。


 途中で一度、親父から銃身を渡された。


「やってみろ」


「何を?」


「ここ」


「またここか」


「今度は分かるやろ」


「たぶん」


 やってみる。


 出来る。


 出来るが、遅い。


 途中で一度、親父に止められた。


「そこ、やりすぎるぞ」


「まだいけるやろ」


「いけるけど、後が面倒になる」


 手を止めた。


 自分で見た。


 しばらく考えてから、分かった。


「ああ」


「分かったか」


「うん」


 悔しい。


 でも、少し嬉しかった。


 十歳の頃なら、何を言われているのかすら分からなかった。


 今なら、言われれば分かる。


 自分で気付くには、まだ少し遅い。


 それだけだ。


 九年やった。


 それでも親父には追いついていない。


 考えてみれば当たり前だった。


 俺が生まれる前から、この人は鉄を叩いている。


 転生したからといって、何十年分もの腕まで一緒に持ってきたわけではない。


 俺が持ってきたのは、別のものだ。


 寸法を揃えるという考え。


 治具を使うこと。


 仕事を分けること。


 検査すること。


 記録すること。


 不良を一人の失敗で終わらせず、なぜ起きたのか考えること。


 親父の腕とは違う。


「親父」


「何や」


「俺、一挺作れるで」


「知っとる」


「でも親父と同じようには無理や」


「今さら何や」


「いや」


 少し迷った。


「俺、親父と同じにならんでもええよな」


 親父は手を止めなかった。


「何で俺と同じにならなあかんねん」


「……そう言うと思った」


「俺がお前くらいの時は、親父と違うことしたくて鉄砲作り始めたんやぞ」


「ああ、そうやった」


「同じになれ言うたら、俺が一番格好悪いやろ」


 昨日、母ちゃんに昔の話をばらされた親父が言うと、妙に説得力があった。


「せやな」


「お前はお前でええ」


「うん」


「ただし」


「何?」


「鉄砲屋名乗るなら、鉄砲くらい分かっとけ」


「分かっとるわ!」


「ならええ」


 雑だ。


 だが、それくらいでいいのかもしれない。


     ◇


 夕方。


 親父が作っていた鉄砲は、まだ完成していなかった。


 一日で全部終わるわけではない。


 俺は朝から使っていた紙をもう一度広げた。


『誰が、何を出来るか』


 その下へ、新しく書く。


『誰に、何を残すか』


 全部を全員に教える必要はない。


 だが、一人しか知らないものを、そのままにしてはいけない。


 親父しか出来ないことがあるなら、誰かが覚える。


 五平しか判断出来ないことがあるなら、佐吉や新八にも見せる。


 甚助の技は松之助へ渡す。


 弥吉の「見たら分かる」は、出来るだけ見本や寸法へ変える。それでも残るものは、弟子に何度も見せる。


 宗次郎には、帳面を捨てさせる必要はない。ただ、鉄砲一挺がどう作られるのか、自分の手でもう少し知ってもらう。


 それぞれ違うものを持ちながら、必要なところだけ重ねる。


 そうすれば、一人いなくなっただけで榊屋の何かが消えることは減らせる。


「兄上」


「何?」


 宗次郎がまた紙を覗いた。


「父上は?」


「俺と五平。あと佐吉にももうちょい覚えてもらう」


「甚助さんは?」


「松之助」


「新八さんは?」


「佐吉と……千吉もええかもしれんな」


「弥吉さんは?」


「……あいつはまず人に教える練習からや」


「そうですね」


「お前も笑うな」


 宗次郎が紙を指した。


「では、兄上は?」


「俺?」


「はい」


「俺が何?」


「兄上の仕事は、誰に残すんです?」


 筆が止まった。


「……俺の仕事?」


「さっき話したでしょう」


 治具を考える。


 寸法を決める。


 工程を分ける。


 問題が起きれば、どこで起きたのか調べる。


 職人の仕事を見て、別の人間でも出来るようにする。


 外の職人まで含めて、どうすればもっと作れるか考える。


 言われてみれば、それをまとめてやっている人間は俺しかいない。


「……甚助?」


「全部は出来ないでしょう」


「新八」


「全部は出来ません」


「佐吉」


「同じです」


「親父」


「兄上が父上に教えるんですか?」


「……嫌やな」


「何でです?」


「絶対喧嘩する」


「でしょうね」


 困った。


 人の属人化を偉そうに並べていたら、一番面倒なところが自分だった。


「兄上」


「何?」


「誰に教えるんです?」


 俺は答えようとした。


 その時だった。


 一瞬だけ。


 本当に、一瞬だけ。


 とんでもないことを考えた。


 誰か一人に教える?


 違う。


 そもそも、どうして一人の後継ぎを決めなければならない。


 俺が死んだ後、俺の代わりになる人間を一人用意する。


 それでは、親父や五平の技を一人の弟子へ渡すのと、結局は同じではないのか。


 俺がやってきたことは、榊屋の秘伝にしたいものではない。


 寸法を揃える。


 同じものを作れるようにする。


 治具を使う。


 仕事を分ける。


 出来上がったものを検査する。


 記録を残す。


 失敗したら、職人を怒鳴って終わるのではなく、なぜ失敗したのかを調べる。


 名人の腕を、名人一人の腕の中だけに置かない。


 それらは全部、特別な虎松という人間がいなければ出来ない仕事にするために始めたことではない。


 むしろ逆だ。


 俺がいなくても出来るようにするための考え方だった。


 だったら。


 俺の後継者なんて、本当は必要なくなるところまで広げるべきなんじゃないか。


 榊屋で治具を使うのが当たり前になる。


 榊屋で寸法を揃えるのが当たり前になる。


 それだけではない。


 堺の鉄砲鍛冶がそうする。


 別の町の鍛冶屋もそうする。


 鉄砲だけではなく、刃物でも、農具でも、道具でも、何かを作る時には寸法を揃え、見本を置き、仕事を分け、悪いものが出たら理由を調べる。


 親方が弟子へ教える時も、「見て覚えろ」だけではなく、教えられるものは言葉や形にして残す。


 そんなやり方が、誰かの特別な工夫ではなくなる。


 当たり前になる。


 そうなれば、俺が誰に教えるかなんて考える必要すらなくなる。


 俺の名前を知らない職人が、俺と同じようなことを当たり前にやる。


 その職人から教わった弟子は、誰が最初に始めたのかすら知らない。


 それでも同じように寸法を測り、治具を使い、記録を残す。


 さらに、その弟子が次へ教える。


 そうやって広がれば。


 俺という人間を継ぐ必要はない。


 やり方だけが残る。


 俺は。


 俺のやり方を日ノ本に広めて、この国のものづくりを根本から変えたい。


「…………」


 そこまで考えて。


 我に返った。


「……やばい」


「何がです?」


 宗次郎が俺を見ている。


「いや」


「何です?」


「今、俺ものすごい思い上がったこと考えた」


「いつものことでは?」


「そこまで普段から酷くないわ!」


 誤魔化した。


 口には出せなかった。


 出せるわけがない。


 堺の鉄砲鍛冶の息子が、日ノ本のものづくりを変える?


 何様だ。


 百挺作れるようになったくらいで。


 たった一つの工房を少し変えただけで。


 しかも、その百挺だって親父や五平や弥吉、宗次郎、お蓮、嘉兵衛、善右衛門、ほかにも大勢の人間がいたから出来た。


 俺一人で何かを変えたわけではない。


 俺の考えだって、前の世界では俺一人が考え出したものではない。数え切れないほどの人間が長い時間を掛けて積み上げてきたものを、俺は覚えているだけだ。


 それを自分のやり方みたいに考えている時点で、相当思い上がっている。


 なのに。


 頭に浮かんでしまった。


 榊家寸で作る職人が外に現れた。


 榊屋のやり方を見て、自分の仕事を変える職人も出てきた。


 お蓮は、自分一人で地板を作るだけではなく、ほかの工房へ仕事を振るようになった。


 嘉兵衛も、自分だけで全部を抱える必要はないと考え始めた。


 誰かに命令したわけではない。


 榊屋の秘密を教え込んだわけでもない。


 仕事を一緒にする中で、必要だから伝わった。


 便利だから使われた。


 使えるから残った。


 ほんの少しずつだが、榊屋の外まで何かが動き始めている。


 なら。


 その先は?


「兄上?」


「……何でもない」


 俺は紙へ目を落とした。


『誰に、何を残すか』


 その文字が、さっきまでとは少し違って見えた。


 誰に残すのか。


 榊屋の誰か。


 それだけで、本当にいいのだろうか。


 技術を一人から一人へ渡す。


 それも大事だ。


 だが、やり方そのものが大勢の当たり前になれば、誰か一人が背負う必要はなくなる。


 親父がいなくなれば消える技術。


 五平がいなくなれば分からなくなる判断。


 俺がいなくなれば止まる仕組み。


 俺たちは、それをなくそうとしている。


 なら最後には、虎松がいなくなれば消える考え方だって、なくした方がいい。


 そこまで行けたなら。


 俺の後継者なんて、いらない。


 俺は慌てて、その考えを頭の隅へ押し込んだ。


 今考えることではない。


 まずは百挺。


 今の榊屋。


 目の前の仕事。


 親父に言ったら、また何を言われるか分からない。


 宗次郎にも言わない。


 絶対に言わない。


「兄上」


「何や!」


「まだ何も言ってません」


「……ごめん」


 宗次郎が怪訝そうな顔をしている。


 俺はもう一度、紙を見た。


 誰が、何を出来るか。


 誰に、何を残すか。


 その二つだけ考えればいい。


 今は。


 そう思った。


 そう思ったのに。


 一度浮かんでしまったものは、なかなか消えてくれなかった。


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