榊家でなくなる
「お前、榊屋を何にする気や」
何を聞かれたのか、その時の俺には本当に分からなかった。
「……何って、鉄砲屋やろ」
答えると、親父の眉がわずかに動いた。
「鉄砲屋か」
「そうやろ」
「鉄砲作らんのにか?」
「作るやん」
「よそで作ったもん集めてか?」
そこでようやく、親父が何を言いたいのか少しだけ見えた。同時に、腹も立った。
「それの何があかんねん」
「あかんとは言うてへん」
「ほな何やねん」
声が少し大きくなった。
周りで動いていた手が、一瞬だけ鈍る。佐吉がこちらを見た。千吉も見た。庄吉に至っては完全に手を止めていたので、佐吉に小突かれて慌てて作業へ戻った。
聞いていないふりをしている。
全員、聞いている。
「お蓮の地板、使っとるやろ」
「使っとる」
「嘉兵衛のネジも」
「使っとる」
「他所で作らせた鋲も軸も、使えるやつは使っとる」
「せやな」
「ほな何があかんねん!」
「せやから、あかんとは言うてへんやろ!」
「さっきからそればっかりやんけ!」
親父の声も大きくなった。
ここまで来ると、もう誰も聞いていないふりが出来ていない。弥吉なんか堂々とこっちを見ている。
「弥吉!」
「何や」
「仕事せえ!」
「しとるわ」
見れば、本当に手だけは動いていた。
器用な奴はこういう時まで腹が立つ。
親父が大きく息を吐いた。
「俺かて、お蓮に頼むなとは言うてへん。嘉兵衛のネジ使うなとも言うてへん」
「ほな同じやろ」
「違う」
「何が」
「……それが俺にも、まだ上手いこと言えん」
「は?」
思わず声が出た。
「分からんのに怒っとんの?」
「分からんから考えとるんや!」
「考えてから怒れや!」
「お前が先に腹立つこと言うからやろ!」
「何で俺のせいやねん!」
完全に親子喧嘩だった。
十九にもなって親父と工房の真ん中で怒鳴り合うとは思っていなかったが、腹が立つものは仕方がない。それに俺は、少なくとも今までやってきたことについては間違っていないと思っていた。
お蓮に地板を頼んだことで、榊屋の中だけでは足りなかった数を揃えられるようになった。嘉兵衛はネジを作り、その仕事を弟子へ分け始めている。外から来た部品を何でもそのまま使っているわけでもなく、新八たちが確認し、使えないものは弾いている。
その結果、工房の中では別の仕事へ手を回せるようになった。
百挺を作れるようになったのも、その積み重ねがあったからだ。
「外で作った方がええもんは外で作ったらええやろ。ちゃんと使えるもんが来るなら、それ使って何が悪い」
「ちゃんと使えるって、誰が決めるんや」
「俺らやろ」
「誰や」
「誰って……新八もおる。俺も見る。親父も五平もおるやろ」
「何見て決めるんや」
「寸法見て、仕上がり見て、組んでみて……必要なら撃って」
「何で、それで分かるんや」
「何でって」
言い返そうとして、少し止まった。
親父は俺を見ている。
「お前、何で分かるんや」
「そら……」
寸法を知っているから。
どこが大事か知っているから。
今まで何度も組んできたから。
失敗したものも見てきたから。
合わない部品が、どう合わないのか知っているから。
地板の穴がずれれば何が起こるのか。ネジが悪ければどこに無理が掛かるのか。火ばさみの動きが悪ければどこを見るべきなのか。鉄砲一挺を作る中で、それぞれの部品が何をしているのか、少なくとも何も知らない人間よりは分かる。
「……作ってきたからやろ」
親父が言った。
俺は黙った。
「自分で作ったことあるから、どこ見たらええか分かるんやろ」
「それだけちゃうやろ。寸法もあるし、見本もある」
「せやな」
「治具もある」
「せやな」
「ほな」
「それ、誰が作った?」
また止まった。
「物差し作ったん誰や。見本決めたん誰や。どこ測らなあかんか決めたん誰や。何をもって使える言うか決めたん誰や」
「……俺らや」
「何も知らんかった頃のお前が、一人で決めたんか?」
「ちゃう」
「俺もおった。五平もおった。弥吉も、新八も、佐吉もおった。失敗した鉄砲も山ほどあったやろ」
腹が立っていた。
それでも、その言葉は無視出来なかった。
榊家寸は、ある日突然、俺の頭から完成した形で出てきたわけではない。最初に同じ寸法で作ろうと言い出したのは俺だが、どこを揃えるのか、どこまで揃えればいいのか、どこは最後に合わせるしかないのか、その答えは実際に作り、組み、撃ち、壊し、失敗するたびに変わってきた。
寸法だけではない。
治具もそうだった。検査もそうだった。
俺が前の人生から持ち込んだ考え方はあっても、それをこの時代の鉄と木と職人の手で使える形にしたのは、榊屋で積み重ねてきた仕事だった。
俺一人で作ったものではない。
「今はええ」
親父が言った。
「お前がおる。新八がおる。五平がおる。弥吉も佐吉もおる。百挺なら見れる」
「今も見とる」
「二百挺になったら?」
「……人増やす」
「五百挺になったら?」
「増やすしかないやろ」
「その増やした奴は、何見て良し悪し決めるんや」
「教える」
「誰が?」
「俺らが」
「何を?」
「せやから、寸法とか、見るところとか」
「それで全部分かるんか?」
答えられなかった。
全部は分からない。
そんなことは、俺自身が一番よく知っている。
図面に寸法を書けば、同じものへ近づける。治具を使えば、人による違いを減らせる。検査する場所を決めれば、見落としも減らせるし、良し悪しを同じ基準で話しやすくなる。
だから規格を作ってきた。
だから測るようにしてきた。
それまで職人の頭と手の中にしかなかったものを、少しでも他の人間が使える形にしたかった。
それでも、数字に書けばすべて終わるわけではない。
同じ寸法でも、使ってみれば違うものがある。組んだ時のわずかな引っ掛かりや、鉄の癖、削り方によって残った弱いところ。数字では拾い切れないものが、最後まで残ることがある。
だから五平がいる。
だから新八がいる。
だから弥吉がいる。
俺自身、名人を要らなくしたいのではない。名人が百個の同じ部品を作り続けなくても済むようにして、名人にしか出来ない判断へ、その腕を使ってほしいと思ってきた。
親父が言っていることは、その考えと反対ではなかった。
むしろ、その先にある話だった。
「お前が見られんようになった時」
親父が言った。
「その榊の印、誰が守るんや」
昨日までなら、意味が分からなかったかもしれない。
今は分かった。
印を打つ人間の話ではない。
榊屋が見た。
榊屋が使えると判断した。
榊屋が自分の名前で出した。
そういう意味を持たせたばかりの印だ。
俺が五百挺を一挺ずつ見ることは出来ない。新八だって無理だ。五平や親父を十人に増やすことも出来ない。
なら、誰かに任せるしかない。
その誰かが、何をもって「これは榊屋の名前で出していい」と判断するのか。何を教えれば、その判断を任せられるのか。そもそも、教えられる形になっていない技をどう残すのか。
そこまで俺は考えていなかった。
「……でも」
それでも、引く気にはなれなかった。
「ほな全部うちで作り続けるんか?」
「そんなこと言うてへん」
「百挺になった時点で無理やったやろ。お蓮がおらんかったら地板足りんかった。嘉兵衛がおらんかったらネジで詰まっとる。外へ仕事出したから百挺まで来れたんや」
「分かっとる」
「それだけちゃう。五平が鋲作るために一日使うより、外でちゃんと作れる奴がおるなら、そっちに任せた方がええやろ。五平には五平にしか出来ん仕事してもらった方がええ。若い奴かて、小物ばっかり作らせるより覚えさせたいことあるやろ」
「分かっとる!」
「分かっとるなら何でや!」
「お前が、作らんことを先に考え始めとるからや!」
工房が静かになった。
槌の音が一つ消えた。
今度は弥吉だった。
「弥吉」
「いや、今のは止まるやろ」
「止まんな!」
「無茶言うな!」
「お前ら!」
親父が怒鳴った。
「はい」
俺と弥吉が同時に返事をした。
何で俺まで。
だが、そのせいで一度だけ空気が緩んだ。親父も息を吐き、俺も少しだけ肩の力が抜けた。
「虎松」
「何や」
「嘉兵衛がええ仕事しとるんは、俺も知っとる。お蓮もそうや。あいつらに頼むな言うてるんちゃう」
「うん」
「外でええもん作っとるなら買えばええ。それは分かる。榊屋で作るより早いなら、頼めばええ。数が足らんなら、助けてもらえばええ」
親父はそこで一度言葉を切った。
「せやけどな。買わな作れんのと、作れるけど買うんは違うぞ」
何も言えなかった。
言っている意味は分かる。
分かるからこそ、すぐには言い返せなかった。
「お前、ネジはもう作らんでええ言うたな」
「……言うた」
「十年作らんかったら?」
「何が?」
「十年、榊屋で誰もネジ作らんかったら、十一年目に作れ言われて作れるんか?」
「それは……」
「地板は?」
「……」
「軸は?」
「……」
「銃身は?」
「それは外に出すなんて言うてへんやろ!」
「今はな!」
また声が大きくなった。
「今はネジや。次は鋲や。地板や。軸や。お前が言うとることが間違いやとは言わん。俺かて、外で作れるもん全部うちで抱えろとは思わん。せやけど、お前、その先どこまで行く気や」
「必要なとこまでや!」
「その必要なとこがどこか聞いとるんや!」
「今考えとる!」
「今考え始めたんやろ!」
「そうや!」
そこは認めるしかなかった。
親父が黙る。
俺も黙った。
正直に言えば、俺は「外へ出せるもの」を探すことばかり考えていた。工房の中で詰まっている仕事を見つけ、他で出来るなら他へ出す。その分だけ中の手が空き、もっと重要な仕事へ回せる。
前の人生でも、それ自体は珍しい考え方ではなかった。
全部を一つの会社、一つの工場で作る必要はない。得意なところから買えばいい。必要な品質、数量、納期を満たせるなら、その方が全体として強くなることもある。
だが、それは「何を自分たちで作れる状態にしておくか」という話と、本来は一緒に考えなければならない。
俺は片方しか見ていなかった。
「……うるさいわ」
奥から声がした。
五平だった。
「鉄の音聞こえへん」
「鉄の音は聞こえるやろ」
俺が言うと、五平に睨まれた。
「例えや」
「例えなん?」
「お前ほんま腹立つな」
五平が槌を置いた。
「源兵衛」
「何や」
「俺に振るなよ」
「まだ何も言うてへん」
「その顔は振る顔や」
「……お前どう思う」
「ほら見ろ!」
五平が本気で嫌そうな顔をした。周りから小さく笑いが漏れ、張り詰めていた工房の空気がほんの少しだけ緩む。
「知らんわ。親子で勝手にやれ」
「五平」
「何や」
「逃げんな」
「面倒くさい親子やなあ!」
五平は頭を掻き、それから作業台に置かれていた鋲を摘まんだ。
「俺かてな、一日中これ百本作れ言われたら嫌やぞ」
「ほら」
「黙っとけ」
「はい」
「ネジもそうや。嘉兵衛がええもん作って持ってくるんやったら、それ使ったらええ。お蓮の地板も出来ええやろ。何でもかんでも俺らで作る必要はない。そこは虎松の言う通りやと思う」
今度こそ「ほら」と言いたかったが、さっき怒られたので我慢した。
「せやけどな」
五平は続けた。
「俺、作り方知らん奴に『これ悪いで』言われても、たぶん信用せんわ」
「……何で?」
「何で悪いか分かっとんのか、分からんからや」
五平は今度は机の上にあったネジを一本持ち上げた。
「寸法違います。そら分かる。入らん。そら分かる。でも、何でこうなったんや。どこ直したらええんや。次どうしたら出んようになるんや。そこまで分からん奴に検査だけさせても、俺は怖いな」
少し離れたところで、新八が頷いた。
検査をしている本人が頷くのだから、重い。
「作る奴と見る奴を分けるんはええ。今もそうしとるし、それで前より良うなった。作った本人が自分で全部良しにするより、別の目で見た方が気付くこともある」
五平はネジを元の場所へ置いた。
「せやけど、見る奴が作ること何も知らんでええ、とは俺は思わんな。作ること知っとる奴と、作ったこともない奴が同じ物差し持ったからって、同じもん見えるとは限らんやろ」
それは、俺がやってきたことを否定する言葉ではなかった。
むしろ逆だった。
物差しがあるから、同じところを見られる。
寸法があるから、違いを言葉に出来る。
だが、その数字が何を意味するのかまで、物差しが教えてくれるわけではない。
「……作らんでええんと」
五平が言った。
「作れんでええんは、ちゃうんちゃうか」
親父は何も言わなかった。
俺も言えなかった。
◇
「木でも似たようなもんやぞ」
今度は甚助だった。
「お前も入るん?」
「入れたんお前らやろ。工房中で喧嘩しやがって」
「すんません」
甚助は呆れながら、作りかけの台木を持ち上げた。
「これ、今は松之助にもやらせとる」
「うん」
「俺が全部やった方が早い時もある」
「あるな」
「でも、それやったら松之助はいつまで経っても出来ん」
「それは分かる」
「逆も一緒や」
「逆?」
「何年も触らんかったら、出来んようになる」
甚助は台木の表面を指でなぞった。
「手ぇが忘れることもある。勘が鈍ることもある。道具の使い方一つでも、知っとるだけと毎日やっとるんは違う。もっと怖いんは、そのまま何年も経って、若い奴に教えよう思った時や。教えられる奴がおらんようになったら、そこで切れる」
「……うん」
「外に出すなとは言わん。俺かて、木ぃ全部自分で切り出しとるわけちゃうしな。鋸も鑿も自分で作っとらん。それでも、どの木が使えて、どこまで削ってよくて、どこ削ったらあかんかは知らな仕事にならん」
甚助はそう言って笑った。
「何でも自分でやる必要はない。でも、自分でやらんことと、自分では分からんことは一緒にせん方がええ」
そして、手にしていた台木を軽く叩いた。
「何を外へ出すか決めるなら、何を中へ残すかも決めた方がええんちゃうか」
親父を見るでもなく、俺を見るでもなく、甚助は言った。
「削るんはすぐや。削ったもん、元に戻すんは難しいぞ」
誰も何も言わなかった。
◇
その後、仕事には戻った。
親父も戻ったし、俺も戻った。喧嘩が終わったわけではないし、何か答えが出たわけでもない。ただ、仕事をしている間ずっと、頭の中には五平の言葉と甚助の言葉、それに親父が言ったことが残り続けた。
作らんでええ。
作れんでええ。
似ている。
だが、同じではない。
俺が今まで考えてきたのは、どうすれば作れるかだった。
どうすれば同じに出来るか。どうすれば早く作れるか。どうすれば一人の名人に頼らず、工房全体で同じところまで持っていけるか。どうすれば五十挺を百挺に出来るか。
そのために仕事を分けた。
治具を作り、寸法を揃え、検査を分けた。職人の頭の中にしかなかったものを、少しずつ他の人間にも分かる形へ移し、榊屋の外にいる職人にも仕事を頼めるようにした。
そして百挺まで来た。
次に俺が考え始めたのは、何を作らなくてもいいかだった。
外で作れるなら外で作る。その分だけ榊屋の中の手を別の仕事へ使う。単純な部品を五平が百個作るより、五平にしか判断出来ないところを見てもらう。嘉兵衛が良いネジを必要なだけ揃えられるなら、それを買い、その時間で榊屋はもっと鉄砲を作る。
理屈は間違っていないと思う。
今でも、そこは変わらない。
だが、親父が聞いたのは、その先だった。
作らなくなった仕事を、十年後にも作れるのか。外から来たものが悪かった時、なぜ悪いのか分かるのか。もっと良くしてくれと言う時、何をどう変えてほしいのか伝えられるのか。そして榊の印を打つ時、本当に自分たちの名前で出していいものなのか判断出来るのか。
外へ仕事を出すということは、その仕事がなくなることではない。
榊屋の外へ移るだけだ。
なら、外へ移した後も、その仕事を理解する力まで一緒に手放していいのか。
俺はそこまで考えていなかった。
だからといって、全部を榊屋で作り続けるという答えにも納得出来ない。
それでは、また人が足りなくなる。
百挺を作るために百挺分の仕事を全部抱え、修理の部品まで全部抱え、さらに増えた注文まで全部抱える。外に任せられる仕事まで内側へ抱え込めば、五平や弥吉の腕まで数を揃えるために使うことになる。
そんなことをすれば、どこかが詰まる。
それも、もう経験した。
親父が間違っているとは思えない。
俺が間違っているとも思えない。
それが一番面倒だった。
◇
日が落ちる頃、仕事を終えた。
親父とは、それからほとんど話していない。向こうも何も言わなかったし、俺も何を言えばいいのか分からなかった。
工房を出る時、宗次郎が隣に来た。
「兄上」
「何?」
「帰らないんですか?」
「帰るよ」
「父上も帰りますよ」
「知っとる」
「同じ家に」
「知っとるわ!」
宗次郎が少し笑った。
「何がおもろいねん」
「いえ」
「言え」
「工房であれだけ喧嘩したのに、帰る家が同じなのが」
「俺も今それ考えとったわ!」
忘れていた。
いや、忘れていたわけではない。
ただ、工房で親父と喧嘩をしている間は、親父は榊屋の親方で、俺はその息子であり、そこで働く職人の一人でもあった。
仕事が終われば、親父は親父だ。
俺は息子だ。
しかも同じ屋根の下で飯を食う。
「……今日、外で食って帰ろかな」
「母上に怒られますよ」
「せやな」
「父上もです」
「何で親父まで」
「知りません」
宗次郎は先に歩き出した。
少し先では、親父も家へ向かっている。
俺はその背中を見た。
さっきまで、あれほど腹が立っていた。今も納得したわけではないし、親父だって同じだろう。
それでも帰るところは一緒だった。
工房では、榊屋を何にするのかで喧嘩した。
家へ帰れば、その榊屋の家族が待っている。
考えてみれば、親父が守ろうとしている「榊屋」が工房だけの話なのか、それとも俺たち家族まで含めた話なのか、それすら俺は聞いていなかった。
少し先を歩く親父の背中は、いつもと変わらない。
その向こうに家が見えてきた。
今日はお志乃もいる。宗次郎もいる。吉松も、お千代も、お小夜もいる。
そしてたぶん、親父と俺は同じ食卓につく。
工房から家までの道が、今日は妙に短く感じた。
出来れば、もう少し長くてもよかった。




