うちの名前
榊の印を入れた部品を初めて客へ出したのは、それから三日後だった。
相手は以前から榊屋の鉄砲を扱っている商人で、注文は地板五枚と火蓋留めの鋲、それにネジがいくらか。どれも新しく鉄砲を作るためのものではなく、すでに売った鉄砲を直すための部品だった。
地板は一枚ずつ寸法と穴の位置を見て、仕上がりを確かめた後に榊の印を入れてある。鋲とネジは小さすぎて印を打てないので、確認済みのものだけを分けて包み、札を付けた。何をいくつ、誰へ出したかは、お澪が帳面に残すことになっている。
この前決めたことを、そのままやっただけだ。
「これが地板五枚。こっちは鋲で、こっちはネジや」
善次郎が机の上へ並べると、商人は最初に地板を手に取った。表を見て、裏を返し、端に小さく打たれた榊の字へ目を止める。
「これが言うとった印か」
「せや。榊屋で見たもんには、これを入れることにした」
「全部か?」
「入れられるもんはな。ネジや鋲にまで打ったら、使えんようになる」
「そらそうやな」
商人は笑い、今度は小さな包みを持ち上げた。
「ほな、こっちは?」
「その包みに入っとる分は、榊屋で見たやつや。誰に何本出したかも、こっちで残しとる」
「なるほどな」
説明はそれだけだった。
商人は特に驚きもせず、地板をもう一度眺めてから包みと一緒にしまった。俺としては、これは画期的だとか、榊屋もとうとうここまで来たかとか、何か一言くらいあってもいいと思っていたので、少しだけ拍子抜けした。
「何でお前が残念そうやねん」
善次郎に言われた。
「別に」
「褒めてもらえると思っとったんやろ」
「思ってへん」
「顔に書いとるぞ」
「うるさい」
商人はそんな俺たちを気にする様子もなく、代金の話を済ませると部品を持って帰っていった。
初めての榊印は、それで終わった。
少なくとも、その日はそう思っていた。
◇
五日後、その商人からまた注文が来た。
「地板を五枚」
たまたま善次郎が工房にいたので、俺も一緒に話を聞いた。
「またか。よう出るな」
「この前のうち二枚は使った。残りは持っとるが、もう少し置いときたい」
「分かった。五枚やな」
「ああ。榊の印があるやつで頼む」
「……全部そうやけど」
「ならええ」
商人はそれ以上、何も言わなかった。
善次郎が俺を見る。
俺も善次郎を見る。
「……何?」
「今、印指定されたぞ」
「うん」
「何で?」
「知らん」
本人が目の前にいるのだから、考えるより聞けばいい。
「何で印ある方がええん?」
俺が聞くと、今度は商人が不思議そうな顔をした。
「何でって、そっちの方が分かりやすいやろ」
「何が?」
「榊屋が見たもんやって」
「……まあ、そうやな」
「同じような地板、他でも出てきとるんやろ?」
「あるな」
「俺が一枚ずつ見て分かると思うか?」
今度は俺が黙った。
商人は鉄砲を扱っている。だから何も知らないわけではないし、寸法を測ることも、穴の位置を見ることも出来るだろう。だが、地板を作る職人ではない。
どこまでならそのまま使えるのか。どの程度なら少し手を入れれば済むのか。穴の位置がわずかに違う時、それが問題になるのか。仕上がりの違いが見た目だけのものなのか、動きにまで影響するものなのか。
その全部を、地板を作った職人と同じように判断出来るわけではない。
「榊の印があるなら、お前らが見たんやろ?」
「せや」
「ほな、それでええ」
あまりにも簡単だった。
俺たちが何日もかけて、印をいつ打つだの、小さい部品はどうするだの、誰が確認するだのと考えて決めたことを、客は一言で済ませてしまった。
榊屋が見た。
だから榊の印がある。
なら、それを買えばいい。
「……なるほどなあ」
「何や。お前が始めたんちゃうんか」
「始めたけど、そういう使われ方するんやなって」
「他に何に使うねん」
商人にまで呆れられた。
◇
「そら、そうなるやろ」
その日の夕方、善右衛門に話すと、驚きもしなかった。
「何でや」
「何でって、お前。客が全部分かるわけないやろ」
「それは分かるけど」
「分かっとらん顔しとるぞ」
善右衛門は呆れたように茶を飲んだ。隣では善次郎が、さっきから妙に楽しそうな顔をしている。
「同じ地板やぞ」
「同じちゃうやろ」
「寸法は同じや」
「誰がそう言うとる?」
「俺ら」
「ほな、それを買うとるんや」
「……ん?」
善右衛門は机を指で軽く叩いた。
「お前らが見て、これなら使える言うた。その話ごと買うとるんや。地板作る職人なら、見たら分かることもあるやろ。鉄砲鍛冶なら、もっと分かる。せやけど、買う奴が全員鉄砲鍛冶なわけない。商人ならなおさらや。扱っとる品を全部、自分で作れる奴なんかおらん」
言われてみれば当たり前だった。
善右衛門だって、自分で鉄砲を作れない。それでも榊屋から鉄砲を仕入れ、別の相手へ売っている。鉄の良し悪し、銃身の出来、火ばさみの動き、地板の寸法、ネジの具合。その全部を、自分で作った職人と同じところまで理解してから買っているわけではない。
分からないから何でもいい、ではない。
分からないからこそ、誰から買うかを見る。
「お前らは鉄を見とる。客は店を見とるんや」
「店?」
「榊屋が出したんやったら、榊屋が見たんやろ。何かあったら榊屋に持っていけるんやろ。そこまで込みで選んどる」
その言葉には覚えがあった。
売った後で壊れました。部品がありません。そっちで何とかしてください。
そんな売り方はしたくないと、自分で言った。
だから補修用の部品を作り始めた。交換出来るかを確かめ、古い鉄砲も直し、何がどこにあるかを記録するようになった。売った時だけ銭をもらって終わりではなく、その鉄砲が使われている間も、必要なら面倒を見られるようにしようとしてきた。
俺にとっては、それぞれ別の問題を一つずつ片付けてきただけだった。
客から見れば、全部まとめて榊屋の仕事だったらしい。
「……部品だけ見てるんちゃうんやな」
「当たり前や」
善右衛門は言った。
「誰が売っとるかも、立派な売りもんや」
「ほな親父」
善次郎が待ってましたとばかりに口を挟んだ。
「印付き、高う売れるんちゃう?」
「すぐ値ぇ上げる話にすんな」
「何でや! 向こうから印ある方がええ言うたんやぞ!」
「印打つたびに値ぇ上げてみい。誰もお前の話聞かんようになるぞ」
「でも、値打ちはあるんやろ?」
「値打ちがあることと、何でも銭取ってええことは別や」
善右衛門が善次郎の額を指で小突いた。
「そもそも、見て、分けて、帳面付けて、在庫持っとる分は、前に値段へ入れたやろ」
「あ」
「忘れんな」
俺も忘れかけていた。
印そのものに値段を付ける必要はない。
だが、印を付けられる状態にするには仕事がいる。作ったものを受け取り、寸法や仕上がりを見る。駄目なら直すか弾く。使えるものを分け、在庫として置いておく。注文が来れば必要な数を出し、誰へ何を出したのか帳面に残す。
榊という一文字を鉄へ打ち込むのは、一瞬で終わる。
その一文字を打てるところまで持っていく仕事は、一瞬では終わらない。
「……印が高いんちゃうんやな」
「そういうことや」
善右衛門が頷いた。
「その印を打てる仕事しとるから、銭取れるんや」
◇
さらに数日後、今度は善次郎が一枚の地板を持ってきた。
「虎松、これ見てみ」
「何?」
「例の鍛冶屋のや」
見覚えがある。
少し前、榊屋の鉄砲に合うよう地板を作っていた小さな鍛冶屋だ。俺が必要な寸法を教えた相手でもある。
新八にも見てもらうと、前に見たものより寸法が揃っていた。穴の位置も以前より良くなっているし、仕上げも悪くない。
「前よりええな」
「穴も合っとるで」
「ちゃんと作ったんやなあ」
俺は嬉しくなった。
「何でお前が喜ぶんや」
「ええやん。ちゃんと榊家寸で作れる奴増えたんやぞ」
「しかもうちより安い」
「ええやん」
「よくないやろ!」
善次郎が怒った。
「何でや」
「売るもん被っとるやろ!」
「でも、そいつが作った地板やってちゃんと言うとるんやろ?」
「そこは言うとる。『榊屋の鉄砲に合う地板』や」
「ほなええやん」
「安いぞ」
「安い方がええ客もおるやろ」
「お前ほんま商売する気ある?」
「あるわ!」
だが、俺には悪い話には思えなかった。
自分で少し合わせられる客なら、安い地板を買えばいい。近くに腕のある鍛冶屋がいるなら、そこで直してもらえばいい。わざわざ榊屋まで持ってこなくても、榊家寸に近い部品が手に入るなら、それは使う側にとって便利なはずだ。
何より、榊屋だけで全部の修理部品を作り、全部の鉄砲を直し続けることには限界がある。売った鉄砲が増えれば増えるほど、壊れる鉄砲も、部品を必要とする客も増える。榊屋の鉄砲に使える部品を作れる職人が外にもいることは、競争相手が増えるというだけの話ではなかった。
「でもな」
善次郎が言った。
「同じ商人が、榊印の方も買うたぞ」
「何で?」
「知らん。聞いてみた」
「何て?」
「自分で合わせられる客には安い方。よう分からん客には榊印の方出す言うとった」
「……なるほど」
そこで初めて、同じ寸法の部品が並んでいても、必ずどちらか一方だけが残るわけではないのだと分かった。
安い方がいい客もいる。自分で調整出来るから、多少手を入れる前提でも構わない客もいる。
一方で、多少高くても、榊屋が見たものを選びたい客もいる。自分では良し悪しを判断しきれないから、その判断まで榊屋に任せたい人間もいる。
同じ榊家寸でも、売っているものが完全に同じとは限らない。
片方は、地板そのものを売っている。
もう片方には、榊屋が確認したという話が付いている。
どちらが正しいという話ではない。
客が、自分に必要な方を選べばいい。
「競争相手増やして喜ぶ奴、初めて見たわ」
善次郎が言った。
「競争相手にもなるけど、仕事頼む相手にもなるやろ」
「またそれか」
「この前言うたやん」
「覚えとるわ。お前が怖い話した日やろ」
「怖くないわ」
「源兵衛さんには言うたんか?」
「…………まだ」
「ほら」
◇
その日の夕方、俺が工房へ戻ると、親父が一人で地板を見ていた。
今日、印を入れたばかりのものだった。
「親父」
「おう」
「何しとるん?」
「見とる」
「何を?」
「これや」
見れば分かる。
親父は地板を裏返し、榊の印を指でなぞった。
「善次郎から聞いたぞ」
「何を?」
「客が、これ付いとる方欲しがったんやて?」
「ああ」
「そうか」
それだけ言って、また地板を見る。
「ええことやろ?」
俺が聞くと、親父は少し間を置いてから頷いた。
「……せやな」
返事はした。
だが、いつもの親父なら、それで終わらない。
売れるならええやないかと言うか、調子に乗んなと言うか、印が曲がっとると笑うか、何か一つくらい余計なことを言う。
今日は何も言わなかった。
「何や?」
「いや」
「何かあるやろ」
「別にない」
親父は地板を机へ戻した。印の入った側を上にしたまま、ほんの少しだけそこへ目を残してから立ち上がる。
「仕事戻れ」
「……おう」
妙だった。
怒っているようには見えない。印を付けることに反対しているわけでもなさそうだった。客が榊屋の名前を選んだことを嫌がる理由もないはずだ。
それでも、親父の「せやな」は、いつもの「せやな」と少し違って聞こえた。
何が引っ掛かっているのかは、まだ分からなかった。
◇
それから間もなく、別の商人が地板を一枚持ってきた。
「これにも榊の印、入れてくれんか」
「ええよ」
俺は地板を受け取った。
「新八、これ見てもらえる?」
「いやいや」
商人が慌てて手を振った。
「見るんはええんや」
「え?」
「印だけ入れてくれたらええ」
俺は地板を持ったまま止まった。
「……何で?」
「榊の印があった方が売りやすいんや」
善次郎がこちらを見る。
俺も善次郎を見る。
一瞬だけ、善次郎の顔に何かが浮かんだ。
たぶん銭だ。
「いくらで」
「善次郎」
「まだ何も言うてへんやろ!」
「顔に書いとる」
俺は商人へ地板を返した。
「それはあかん」
「何でや。榊屋で作った言うつもりはないぞ」
「そういう話ちゃう」
「印だけや」
「その印が、俺らが見たって意味なんや」
商人が首を傾げた。
「でも、これも榊家寸やぞ。作った奴もそう言うとった」
「寸法が同じなんと、うちがええ言うたんは別や」
「使えると思うで」
「ほな、見せて」
「何を?」
「新八に見てもらう。使えるって分かったら、その後なら入れられる」
「そこまでせなあかんのか?」
「せなあかん」
自分でも驚くくらい、迷わず言えた。
決めたばかりのことだった。それでも、ここを曖昧にしたら駄目だということだけは分かった。
榊家寸で作るのは自由だ。
榊屋の鉄砲に合うと売るのも、本当に合うなら構わない。
同じ寸法を使う職人が増えることだって、俺は歓迎している。
だが、榊の印は違う。
その部品を作っていいという許しではない。
榊屋の仲間だという印でもない。
榊家寸で作ったことを示す印でもない。
榊屋が見て、榊屋が使えると判断し、榊屋が自分の名前で出した。
その意味を持たせると決めた。
なら、その途中を飛ばして印だけ打つことは出来ない。
「……面倒やな」
商人が言った。
「俺もそう思う」
「お前が始めたんやろ」
「せやから困っとる」
商人は笑った。
「ほな、見てもらうわ」
「新八」
「ええで」
新八が地板を受け取る。
善次郎が横から覗き込んだ。
「なあ虎松」
「何?」
「これ、見てええもんやったら、印入れるん?」
「入れるで」
「他所が作ったもんでも?」
「うん」
「ほな、それは榊屋の部品になるんか?」
少し考えた。
「……榊屋が見て、榊屋から出すならな」
「作ったんは他所やぞ」
「お蓮の地板もそうやろ」
「まあ、そうやけど」
「誰が作ったかは、帳面には残す。でも客に榊屋の部品として出すなら、俺らが責任持つ」
善次郎は、まだ何か考えている顔をしていた。
俺自身、口にしながら少し不思議な気分だった。
榊屋の部品なのに、榊屋で作っていない。
少し前までなら、妙な話に聞こえただろう。
だが、お蓮に地板を頼み、嘉兵衛にネジを頼み、外の工房へ仕事を分けるようになった今では、それほど妙でもない。
誰が作ったのかは大事だ。
だが、それだけでは決まらない。
誰が受け取り、誰が確かめ、誰が自分の名前で客へ渡すのか。
そちらも同じくらい大事になり始めていた。
◇
商人が帰った後も、善次郎は刻印を眺めていた。
「なあ虎松」
「今度は何?」
「これ、思っとったより値打ちあるんちゃうか」
「鉄の棒やぞ」
「ちゃう。その先の字や」
「…………」
俺も刻印を見た。
榊という字そのものに、何か特別な力があるわけではない。
鉄へ打ったところで、悪い地板が良くなるわけでもない。寸法が狂っていれば直らないし、穴の位置が違っていれば合わない。ネジに榊と書いたところで、回らないネジが回るようになるわけでもない。
それでも、人はその字を見て選び始めた。
榊屋が作った鉄砲。
壊れた時に持ち込まれた鉄砲。
交換するために用意した部品。
合うかどうか確かめた地板。
使えないものを弾き、使えるものを残した仕事。
頼まれた時に部品がないと言わなくて済むよう、銭を棚に並べるつもりで持ち始めた在庫。
俺たちが今まで一つずつやってきたことを、客は俺たちが思っていたより見ていたらしい。
その全部を長々と説明しなくても、小さな榊の字を見れば思い出してくれる。
印に価値があるのではない。
それまで榊屋がしてきた仕事に、印が付いただけなのだ。
「……善次郎」
「何や」
「これ、勝手に使われたら嫌やな」
「昨日まで寸法は好きに使え言うとった奴が?」
「寸法はええねん」
「ほな、何が違う?」
「うちの名前やからや」
言ってから、妙な感じがした。
榊屋の名前なんて、生まれた時からそこにあった。
少なくとも、虎松として生まれてからはずっとそうだった。
親父が使い、その前から続いてきた名前だ。
俺はそこへ、前の人生で覚えたことを山ほど持ち込んだ。同じ寸法で作れと言い、治具を使えと言い、物差しを揃え、検査を分け、外へ仕事を出し、ついには榊屋で作らなくてもいい部品があると言い始めている。
それでも俺は今、その印を指して、うちの名前、と言った。
ふと工房の奥を見ると、親父が仕事をしていた。
槌を振るう音は、いつもと変わらない。
鉄を熱し、自分の手で形を作り、一挺の鉄砲へしていく。
ずっとそうやって榊屋の名前を使ってきた人だった。
昼間に榊の印を見つめていた時の親父の顔が、なぜかもう一度頭に浮かんだ。
何が気に入らなかったのか。
いや。
気に入らない、という顔だったのかさえ、俺にはまだ分からない。
ただ、俺が「うちの名前」と呼んだものを、親父も同じ意味で見ているのか。
それだけが、少し気になった。




