百挺の榊家
第二部のスタートです。
「百挺、揃いました」
宗次郎がそう言った時、俺は思わず手を止めた。
「……百?」
「はい。百です」
「ほんまに?」
「兄上、今月だけで何回聞くんですか」
「いや、だってお前、百やぞ?」
「承知しています。私が数えましたから」
宗次郎は呆れたように答え、手元の帳面をこちらへ向けた。日付ごとに記された完成数の最後には、確かに百という数字がある。何度見直しても変わらないのだから、いい加減に信じればよさそうなものだが、俺はしばらくその数字から目を離せなかった。
永禄二年、春。
俺がこの世界に生まれ直してから、十九年ほどが経った。
榊屋が月に五十挺の鉄砲を安定して作れるようになってからは、およそ二年。ようやく、ここまで来た。
「全部、試射は?」
「済んでいます」
「検査は?」
「新八さんのところから、今朝、最後の分が上がってきました」
「手直しは?」
「必要だった三挺も、昨日までに再検査を終えています」
「……そうか」
「ですから、百挺です」
「分かったわ!」
分かっている。分かっているのだが、何度も確かめたくなる。
二年前の俺たちは、五十挺を作るだけで手一杯だった。地板を外注に出し、金具の粗加工も外へ任せ、ようやく工房に少し余裕が生まれたと思ったら、材料の数え違いで納期を落としたこともある。
あの時は、宗次郎一人に仕事を背負わせすぎていた。
それから二年、月に六十挺、七十挺と少しずつ数を増やした。八十挺を超えた頃には検査が追いつかなくなり、九十挺に届いた時には外注先から戻る部品の置き場が足りなくなった。何か一つ増やすたびに別のところが詰まり、そのたびに人を育て、仕事を分け、道具を直し、帳面を書き換えた。
先月は九十五挺。
そして今月、とうとう百挺に届いたのだ。
「虎松さん、最後の荷札を確認していただけますか?」
横から声をかけられ、振り向くと、お澪が荷札を数枚持って立っていた。
「おう。どれや?」
「こちらです。最後の便に積む十挺分になります」
札には送り先と数量、それに榊屋で管理している製作番号が記されている。俺が一枚ずつ目を通して返すと、お澪は控えの帳面と照らし合わせ、確認済みの札をまとめた。
「ありがとうございます。では、荷車へ回しますね」
「おう、頼むわ」
お澪は荷札を抱え、出荷を待つ荷車の方へ歩いていった。
二年前、彼女を榊屋へ呼んだ時には、一か月だけ手伝ってもらうつもりだった。ところが、一か月が過ぎる頃には、もう誰も彼女を返す気がなくなっていた。本人も仕事を続けたいと言ってくれたので、善右衛門と新兵衛さんに改めて話を通し、今ではすっかり榊屋の一員である。
宗次郎が立てた生産計画に合わせて、必要な材料が届いているかを確かめる。外注先へ渡した材料と、戻ってきた部品を別々に記録する。完成品が出荷されたら、その控えを残す。
どれも、やっていることだけ聞けば地味な仕事だ。だが、その地味な仕事が、今の榊屋を支えている。
「兄上」
「何や?」
「お澪さんに確認していただいた荷札、また私に聞きに来るつもりでしたね」
「……あかんかった?」
「いえ。確認すること自体は悪くありません。ただ、同じものを何度も確かめても、数は増えませんよ」
「信用してへんわけちゃうで?」
「分かっています。兄上が落ち着かないだけです」
宗次郎は帳面を閉じ、涼しい顔で立ち上がった。
昔は俺が何か言えば、まず頷いていた弟が、今では平気で仕事を突き返してくる。それが少し嬉しくもあり、兄としては少々複雑でもあった。
◇
最後の荷車が出る頃には、工房の前に何人かの職人が集まっていた。別に全員で見送ろうと決めていたわけではない。荷積みを手伝っていた者もいれば、たまたま仕事の区切りがついた者もいる。ただ、今日の出荷が何を意味するかは、みんな知っていた。
荷車には、鉄砲を収めた木箱が積まれている。
もちろん、今月作った百挺が全部ここにあるわけではない。完成したものから順に検査と試射を済ませ、何度かに分けて送り出している。今日の十挺が、今月最後の便だった。
「ほな、行ってくるで」
荷車を預かる男が手綱を取り、俺たちに声をかけた。
「おう。道中、気ぃ付けてな」
男は片手を上げ、馬を進ませた。車輪がゆっくりと回り始め、一台目が門を抜け、続いて二台目が動く。積み荷を確かめていた若い衆も後ろについて歩き出し、やがて荷車は通りの向こうへ消えていった。
「……行ったな」
「行きましたね」
隣に立っていた宗次郎が答える。
「百挺やぞ」
「はい」
「月に百挺」
「はい」
「……ようやったなあ」
宗次郎は、少しだけ笑った。
「兄上も」
「俺は最近、帳面もよう分からんけどな」
「それは前からです」
「おい」
言い返そうとしたところで、背後から聞き慣れた声がした。
「お疲れさん」
振り向くと、善次郎が立っていた。
相変わらず人のよさそうな顔をしているが、こいつも二年前に比べれば随分と商人らしくなった。扱う荷が増え、遠方へ出ることも多くなったせいか、以前より少し落ち着きが出てきた気もする。
気のせいかもしれない。
「おう、善次郎」
俺は笑って、こいつの方へ向き直った。
「約束果たしたぞ」
善次郎は、しばらく俺を見ていた。それから、ゆっくりと頷いた。
「……せやな。ようやった」
「……何や、今日はえらい素直やな」
「二年も待たされたからな」
「余計な一言がなければ感動的やったのに!」
「二年は二年やろ」
「お前なあ!」
善次郎は声を上げて笑ったが、その顔はどこか嬉しそうでもあった。
こいつはずっと、俺に百挺を作れと言い続けてきた。五十挺を作れるようになった時も、六十挺に届いた時も、八十挺を超えた時も、百挺作れるようになればもっと遠くへ売れる、まとまった注文を受けられると話していた。
俺はそのたびに無茶を言うなと返していたが、善次郎の方は、いつか百挺に届くと疑っていなかったのだと思う。
「兄上!」
善次郎の後ろから、元気な声が響いた。
「百挺ですよ! とうとう百挺です!」
「見とったわ!」
「すごいです! 善右衛門さんも、百挺揃ったらもっと遠くへ売れるって!」
「新三郎。お前、親父の話を何でも喋るな」
「えっ、内緒でした!?」
「今言うたら内緒ちゃうやろ!」
俺は思わず吹き出した。
新三郎。
榊家の三男で、今年十二歳になる弟だ。
少し前まで、善右衛門が榊屋へ来るたびに、その後ろをついて回っていた子供が、今ではその善右衛門の店で奉公している。本人たっての希望だった。
いや、希望というより、ほとんど執念だった。
善右衛門が商売の話を始めると、こいつは槌の音も聞こえなくなるほど夢中になった。荷がどこから来て、どこへ運ばれ、誰が買って、どうやって銭になるのか。俺が新しい機械の仕組みを考えている時と、だいたい同じ目をしていた。
そんな弟を見て、親父がある日、善右衛門に言ったのだ。
『新三郎を預かってくれんか』
『……本気か?』
『お澪の代わりっちゃなんだがな。本人も行きたい言うとる』
『十二やぞ。丁稚から始めさせるで』
『構わん。好きに鍛えたってくれ』
それを聞いた新三郎は、飛び上がらんばかりに喜んだ。
『ありがとうございます! 精一杯働きます!』
『……まだ何も教えとらんぞ』
『はい! 何でも教えてください!』
『……うるさいのが増えたな』
最後の台詞は善次郎だった。
その時、俺は思わず「お前が言うな」と突っ込んだのだが、今になってみると、こいつの言いたかったことも少し分かる。
「新三郎、お前、今日は店の仕事は?」
「善次郎さんと荷の確認です!」
「ほう」
「百挺の最後の便ですから!」
「そらそうやけど……」
「兄上! これで榊屋の鉄砲、もっと売れますね!」
「お、おう」
「善次郎さん、次はどこへ売るんです!?」
「まず今の荷をちゃんと届けるんや!」
善次郎が新三郎の頭を軽く小突いた。新三郎はまるで気にした様子もなく、荷車が消えた方を眺めている。
俺たちが二年かけて百挺を作れるようになった間に、こいつも自分の進む道を見つけたらしい。
何とも、賑やかなことである。
◇
百挺の出荷を終えたからといって、榊屋の仕事が終わるわけではない。工房へ戻ってみれば、いつも通り槌の音が響いていた。
火床の前では、親父が赤く熱した鉄を取り出している。向かいには五平が立ち、仕上がりを確かめながら次の材料を用意していた。
五平は、榊屋でも古参の鍛冶師だ。
弥吉がまだ若い職人だった頃から、親父と一緒に鉄を叩いてきた男である。腕は確かだし、仕事が安定している。弥吉のように、難しい加工を見ただけで妙なひらめきを見せることは少ないが、五平には長年の経験があった。
どの程度まで叩けばいいか。どこで火を入れ直すべきか。どんな音がしたら、無理をさせてはいけないか。そういうことを、身体で覚えている。
「虎松」
五平が俺に気付いた。
「百挺、出たんか?」
「おう。さっき最後の便が出たで」
「そうか。ようやったな」
「ありがとな」
「ほな、これ見てくれ」
「……早速仕事かい!」
五平が差し出したのは、加工途中の金具だった。寸法は大きく外れていないが、表面の一部にわずかな歪みが見える。
「これ、千吉が作ったんやけどな」
「ほう」
「寸法は合うとる。せやけど、ここの叩き方が少し強い」
五平は指先で歪んだ部分を示した。
「このまま仕上げても、使えるかもしれん。けど、次も同じ叩き方したら、もっと歪む」
「なるほどな」
「本人には、もう一度やらせるつもりや」
「ええと思うで」
俺が頷くと、五平は満足そうに金具を戻した。
最近、こういう相談が増えた。昔は俺が治具を作り、職人たちに使ってもらうことが多かったが、今は職人の方から「ここを変えたい」「この道具を直したい」と話が来る。しかも、ただ便利な物を欲しがるのではない。何が悪くて、どこを直したいのか、ちゃんと考えている。
「五平さん、千吉はどうや?」
「筋はええな。手順もよう覚える」
「ほう」
「せやけど、まだ鉄の機嫌までは分からん」
「そら、すぐには無理やろ」
「そういうことや」
五平は笑った。
その横で、親父が槌を置いた。
「百挺か」
「おう、親父」
「よう作れるようになったな」
「……親父にそう言われると、何か嬉しいわ」
「まだ揃わんもんもあるやろ」
「あるわ」
「ほな、まだ仕事はあるな」
「感動させてから仕事増やすん、やめてくれへん?」
親父は鼻で笑い、また火床へ向き直った。
相変わらずである。
俺がどれだけ工房を大きくしても、親父はまだ現役の鍛冶師だ。若い頃ほど無茶はしなくなったが、難しい加工が持ち込まれれば、今でも自分の槌を握る。
俺は、そんな親父の背中を見るのが好きだった。
◇
工房の奥では、弥吉が若い職人たちに囲まれていた。
「せやから、そこを先に削ったらあかん言うとるやろ」
「でも、こっちを先に仕上げた方が早いと思いまして……」
「早う終わっても、やり直しになったら意味ないやろ」
「……はい」
怒られているのは庄吉だ。
二年前、まだ何をするにもおっかなびっくりだった少年は、今では一通りの仕事を任せられるようになっている。ただし、どうにも確認が甘い。教えられたことは覚えるのだが、慣れてくると自分の判断で順番を変えたり、途中の確認を飛ばしたりする。
本人は早く仕事を終わらせたいのだろう。その気持ちは分かるが、製造業でそれをやると、だいたいろくなことにならない。
「庄吉、何やらかしたん?」
「虎松さん! やらかしてません!」
「ほな、何で怒られとるん?」
「……ちょっと、順番を」
「やらかしとるやん」
「まだ失敗してません!」
「失敗する前に止めてもろたんやろ!」
庄吉は口を尖らせた。
その隣で、もう一人の若い職人が笑いを堪えている。千吉だ。
まだ十六ほどの若い鍛冶師で、最近になって榊屋へ入った。年は庄吉より下だが、手順を覚えるのが早い。教えられたことをきちんと守り、分からないところは必ず聞く。
それだけなら真面目な新人というだけだが、こいつは手先も器用だった。最初に簡単な金具を任せた時、五平が仕上がりを見て少し驚いたほどである。
「千吉、お前はどうや?」
「はい。こちらは出来ました」
千吉が差し出した金具を、弥吉が手に取った。
「……うん。ええな」
「ありがとうございます!」
その横で、庄吉の顔が曇った。
「……何でお前、そんな早いねん」
「え?」
「何でもない!」
弥吉が笑った。
「庄吉、お前も最初は早かったで」
「ほんまですか!?」
「失敗するんが」
「弥吉さん!」
工房に笑い声が響く。
もっとも、庄吉も二年前のままではない。簡単な加工なら、もう一人で任せられる。失敗した時に何が悪かったかも、以前よりは自分で考えるようになった。ただ、千吉が来てからというもの、妙に張り合うようになっている。
競争心があるのは悪いことではない。問題は、張り合う方向である。
「庄吉」
「はい!」
「千吉より早う作ろうとせんでええから、まず間違えんように作れ」
「……はい」
俺が言うと、庄吉は少し不満そうに頷いた。
その様子を見て、弥吉がまた笑う。
こいつは相変わらず天才だった。難しい加工を任せると、俺が考えていたよりずっと簡単な方法を見つけることがある。新しい治具を作った時も、誰より早く使いこなす。
ただし、天才だからといって、教えるのが上手いとは限らない。昔の弥吉は、若手が困っていると、つい自分で加工して見せてしまっていた。最近は五平や親父に言われたこともあって、少しずつ教え方を変えている。
庄吉が失敗する前に手を止めさせ、何が悪いか考えさせる。それでも、我慢できずに手を出すことはあるが。
「弥吉、お前もよう教えるようになったな」
「……何や、急に」
「いや、昔やったら自分で作っとったやろ」
「そら、俺が作った方が早いからな」
「今は?」
「……俺が全部作っとったら、百挺なんか無理やろ」
弥吉は、当たり前のように言った。
俺は思わず笑った。
そうだ。
まさに、それなのだ。
◇
少し離れたところでは、佐吉と藤吉が金具の仕上げを進めていた。
「藤吉、そっち終わったか?」
「あと二つや」
「ほな、次の材料こっちへ回してくれ」
「分かった。こっちの仕上げ終わったら持ってくわ」
二人のやり取りには、妙な落ち着きがある。
佐吉は、榊屋の中では地味に古参の職人だ。五平や弥吉ほど目立つわけではないが、仕事は堅実で、任せたことをきちんと終わらせる。
藤吉も、二年前はまだ若手という印象が強かったが、今では立派な中堅だ。佐吉と組んで仕事をすることが多く、二人で加工の段取りを相談している姿をよく見る。
「佐吉、今月はどうやった?」
「どうって、百挺出たんやろ?」
「いや、現場の方や」
「忙しかったで。せやけど、前ほど無茶はせんで済んだな」
「ほう」
「前は一つ遅れたら、次もその次も詰まっとったやろ。今は途中で仕事を入れ替えられる」
佐吉は、仕上げ途中の金具を置いた。
「藤吉がこっち出来るようになったんも大きいし、外から戻る部品も前より揃っとる。おかげで、俺らが待つ時間が減ったわ」
「なるほどな」
「まあ、待たんでええ分、仕事は増えたけどな」
「……すまん」
「別に文句ちゃうで」
佐吉は笑い、再び道具を握った。
こういう職人がいるから、工房は回る。弥吉のような天才は確かに必要だが、毎日の仕事を安定して進める佐吉や藤吉がいなければ、百挺という数字は到底達成できない。
俺は二人の仕事を眺めながら、改めてそう思った。
◇
木工場へ行くと、甚助が台木を並べていた。以前より作業台が増え、材料を置く棚も整理されている。
その横では、まだ榊屋に来て日が浅い男が木を削っていた。
「松之助、そっちの台木、出来とるか?」
「はい。寸法は確認しました」
「ほな、こっちの金具を当ててみい」
松之助が、仕上げた台木に金具を合わせる。少し押し込んだところで、手が止まった。
「……あれ」
「どうや?」
「ここ、少し当たりますね」
「せやろ」
甚助は頷いた。
「寸法だけ見たら合うとる。せやけど、組んだ時に当たるところが残っとる」
「……なるほど」
「そこを直したら、もう一度見せてくれ」
「はい」
松之助は、元々大工をしていた男だ。木材の扱いには慣れているし、道具も使える。だが、鉄砲の台木は、家の柱や建具とは違う。銃身や金具が収まる場所には、見た目だけでは分からない精度が必要になる。
甚助は、そういうところを根気よく教えていた。
「どうや、松之助は?」
俺が聞くと、甚助は笑った。
「よう覚えるで。木のことは最初から分かっとるしな」
「ほう」
「ただ、まだ鉄砲の木は覚えとる途中や」
「そらそうやな」
「せやけど、標準の台木なら、もう一人で大体出来る」
甚助は、並べられた台木を指した。どれも形がよく揃っている。
もちろん、木は鉄と違って一本一本に癖がある。反りもあれば、木目の向きも違う。それでも、材料の選び方や加工の順番を決め、治具を使うことで、以前より安定して作れるようになった。
そして何より、甚助一人が全部を作らなくてもよくなった。
「甚助も、教える側になったなあ」
「前から教えとるわ」
「そうやったっけ?」
「お前、俺が何年ここで仕事しとると思っとるんや」
「……すんません」
最近、こういうことを言うと、だいたい怒られる。
俺が気付いていなかっただけで、職人たちはずっと誰かに仕事を教えていたのだ。
◇
水車の方へ回ると、規則正しい音が響いていた。水の流れる音に混じって軸が回り、歯車が噛み合い、機械が動く。
ここも、二年前とは随分変わった。
以前から使っていた旋盤もどきや穴あけの機械に加え、今では板材を切るための機械まで動いている。俺が勝手に「シャーもどき」と呼んでいる代物だ。
水車の回転を伝え、刃を上下させて薄い鉄板を切り分ける。現代のシャーリングマシンのような精度も力もないし、切れる厚みにも限界がある。切断面は後で仕上げる必要があり、刃の調整も欠かせない。
それでも、薄板を何枚も同じ幅に荒切りする仕事では、大きな助けになっていた。
「虎松!」
市兵衛がこちらに気付いた。
「百挺、出たんか?」
「おう。さっきな」
「ほな、ようやったな」
「ありがとな。機械の調子はどうや?」
「今日はええで。刃を替えたばっかりやからな」
その横で、若い男が材料を揃えていた。徳松だ。市兵衛の下で水車の機械を扱っている。
「虎松さん! よう切れますよ!」
「ほう、頼もしいな」
「このくらいの板なら、どんどん切れます!」
「徳松」
市兵衛が声をかけた。
「はい!」
「どんどん切る前に、刃を見ろ」
「……はい」
「さっきの材料と厚みが違うやろ」
「あっ」
徳松が慌てて材料を見比べると、市兵衛は呆れたように息を吐いた。
「機械は、動いとるから大丈夫いうもんちゃう。無理させたら壊れるんや」
「すんません」
「ほな、もう一度段取り見直せ」
「はい!」
徳松が材料を戻すと、市兵衛は俺に向き直った。
「虎松、お前もこいつに、もっと早う切れるようにせえとか言うなよ」
「言うてへんやろ!」
「顔に書いとる」
「お澪と同じこと言うな!」
市兵衛は笑った。
昔は機械に何か起きるたびに俺が呼ばれていた。軸が鳴る。刃が噛む。水車の回転が安定しない。そのたびに図面を広げ、現物を眺め、何とか直そうとしていた。
だが今では、市兵衛の方がよほど機械の癖を知っている。刃を替える時期も、軸に油を差す場所も、材料によって無理をさせてはいけない範囲も。
俺が考えて作った機械を、市兵衛が使いこなしている。そして今、その市兵衛が徳松を育てている。
これもまた、二年間の成果だった。
◇
工房へ戻る途中、門のところで見覚えのある女と鉢合わせた。
「お蓮!」
「何や、虎松。今日はこっちにおったんか」
「俺の工房やぞ!」
「そらそうやな」
お蓮は、相変わらずだった。
初めて会った頃は、父親の代わりに小さな鍛冶場を切り盛りしていた女職人だったが、今では榊屋にとって欠かせない外注先の一つになっている。地板の加工を中心に、いくつかの金具も任せるようになった。
ただし、お蓮の工房には榊屋以外の客もいる。俺たちが百挺作るからといって、何でもかんでも押し付けるわけにはいかない。
「今月の分、持ってきたで」
「おう、助かるわ」
「助かるんやったら、来月の数も早う決めてや」
「宗次郎に聞いてくれ」
「もう聞いたわ」
「……俺、要らんやん」
「今さら何言うとんねん」
お蓮は笑い、荷を下ろしていた若い衆に声をかけた。木箱が運び込まれ、お澪が受け取りに出てくる。
「お蓮さん、お疲れ様です」
「お澪さん、これが今日の分や。手直しした二枚は、こっちに分けとる」
「ありがとうございます。では、先に数を確かめますね」
「頼むわ」
二人は木箱を開けて部品を数え始めた。お澪が受取帳へ記し、お蓮が持ってきた控えと照らし合わせる。
俺が横から口を出す必要は、もうない。
以前は、外注先へ材料を渡しただけで、工房の中にある物と同じように数えてしまったことがあった。あの時、宗次郎は一人で何もかも抱えていた。
今では、どの材料が榊屋にあり、どの材料がお蓮のところにあり、どの部品が戻ってきたのか、きちんと分かる。帳面の数字と現物の数を合わせるという、当たり前のことを、俺たちは二年かけて当たり前にしたのだ。
「虎松」
お蓮が、数え終わった部品を見ながら言った。
「百挺、出来たんやって?」
「おう」
「そうか。ほな、うちの地板も役に立ったな」
「当たり前やろ。お蓮がおらんかったら、百なんか無理やったで」
「……そうか」
お蓮は、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ほな、来月も頼むわ」
「おう。こっちこそ」
最初に二十枚の地板を頼んだ時には、こんな付き合いになるとは思っていなかった。だが、今ではお蓮の工房も、榊屋の仕事を支える大事な仲間だ。
工房の中にいないからといって、榊屋の仕事に関わっていないわけではない。むしろ、工房の外に仕事を任せられるようになったからこそ、ここまで来られた。
◇
その日の昼過ぎには、嘉兵衛も顔を出した。
「虎松、今月のネジや」
「おう、嘉兵衛さん。いつも助かるわ」
「助かる言うんやったら、もっと早う注文寄越せ」
「……それ、宗次郎に」
「もう言うた」
「……」
お蓮と同じことを言われた。
嘉兵衛は、榊屋がまだ今ほど大きくなかった頃から、ネジの加工を引き受けてくれている職人だ。今では弟子や手伝いも使い、榊屋向けの仕事を継続してこなしている。
ネジというものは、小さいくせに厄介だ。寸法が合わなければ使えないし、同じように見えても、ねじ山の具合が違えば組み付けに支障が出る。
俺たちは、最初から何もかも工房の中で作ることを諦めたわけではない。むしろ、何を自分たちで作り、何を外へ任せるべきかを、少しずつ考えてきた。嘉兵衛のネジも、その一つだった。
「最近、ほかの鍛冶屋からもネジの話が来るんや」
嘉兵衛が何気なく言った。
「へえ。ええことやん」
「お前んとこの鉄砲見て、同じようなもん作りたい言うとる奴もおるで」
「……ほう?」
「まあ、簡単には出来んけどな」
嘉兵衛は、少し得意そうに笑った。
「同じ形に見えても、ちゃんと合うように作るんは別の話や」
「……せやな」
俺は頷いたが、その言葉が少しだけ頭に残った。
榊屋の鉄砲が広まれば、それを見て同じような物を作ろうとする職人も出てくる。考えてみれば、当たり前の話だ。俺たちだって、最初から何もないところで全てを思いついたわけではない。先人が作った物を見て、工夫し、直してきたのだから。
ただ、今はまだ、それ以上のことは考えなかった。
嘉兵衛から受け取ったネジは、お澪が数を確かめ、新八の検査へ回すことになった。外注先が増えた今では、こうした受け取りも珍しくない。
地板、ネジ、金具の粗加工、木材、材料の運搬。
榊屋の百挺は、工房の中だけで出来上がっているわけではなかった。
◇
「兄上、少しよろしいですか」
夕方近く、宗次郎に呼ばれた。
管理用の机には、いくつもの帳面が並んでいる。宗次郎がそのうちの一冊を開き、来月の予定を示した。
「……もう?」
「もう、ではありません。来月の材料は、今月のうちに手配しないと間に合いませんから」
「……せやな」
「お蓮さんのところは予定通りです。嘉兵衛さんのネジも、次の分は手配しています。ただ、金具の粗加工をお願いしているところが、一つ遅れています」
「どれくらい?」
「今のところ三日です」
「ほな、先に別の仕事を……」
「そのつもりで組み替えました」
「……早いな」
「兄上が考える前に、分かっていましたから」
宗次郎は、少し得意そうに言った。
その横で、お澪が別の帳面を開く。
「ただし、材料の受け渡しが一件あります」
「何や?」
「明日、お蓮さんのところへ渡す分です。向こうに残っている材料とは別に数えていますから、取り違えはありません」
「……おう」
「それと、嘉兵衛さんのところから戻るネジは、今日の分とは別に、明後日もう一便あります。新八さんの検査が終わるまでは、組み立てへ回さないようにしています」
「……おう」
二人の話を聞きながら、俺はしみじみと思った。
何というか、俺の出る幕がない。
「……俺、何かすることある?」
思わず聞くと、宗次郎とお澪が同時にこちらを見た。
「ありますよ」
「あります」
「……あるんかい」
宗次郎が、机の端に置いてあった紙を差し出した。
「五平さんから、治具の相談が来ています」
「……ああ、さっき見たわ」
「では、お願いします」
お澪も別の紙を差し出した。
「それと、善右衛門さんがお話ししたいそうです」
「何の話や?」
「百挺達成のお祝いと、今後のお商売のことだそうです」
「……何か嫌な予感するな」
「善次郎さんもいらっしゃるそうです」
「ますます嫌な予感するわ!」
お澪が笑い、宗次郎も口元を緩めた。
俺は二人を見比べ、それから机の上に並んだ帳面へ目を落とした。
二年前、ここには宗次郎一人しかいなかった。あいつは何もかも自分で数えようとしていたし、俺もそれを当たり前だと思っていた。
だが今では、宗次郎が計画を立て、お澪が現物と記録を確かめる。職人たちは自分の持ち場を知り、外注先も約束した仕事を進めてくれる。
俺がいなくても、榊屋は回る。
それが、こんなにも頼もしいことだとは思わなかった。
「……ほな、行ってくるわ」
「はい」
「兄上」
「何や?」
「五平さんの治具、出来る時期だけ教えてください」
「……まだ何も考えてへん!」
「では、考えてから教えてください」
「分かったわ!」
俺は紙を持って部屋を出た。背後では、もう次の仕事の相談が始まっていた。
◇
善右衛門の店は、相変わらず賑やかだった。いや、相変わらずというより、以前より人の出入りが増えている。
荷を運ぶ者、帳面を抱えて歩く者、客を迎える者、奥の蔵へ向かう者。その間を、見覚えのある小柄な影が走っていく。
「新三郎!」
「はいっ!」
「走るな!」
「はいっ!」
返事だけは立派だった。
俺が店へ入ると、新三郎がこちらに気付いた。
「兄上!」
「おう。仕事しとるか?」
「はい!」
「ほんまか?」
「もちろんです!」
そこへ善次郎が現れた。
「虎松、こいつに何か言うたってくれ」
「何や?」
「さっき荷札を読み間違えて、違う蔵へ運びかけたんや」
「……新三郎」
「すんません!」
「ちゃんと確かめなあかんで」
「はい!」
新三郎は元気よく頭を下げた。善次郎は、ため息をつく。
「元気なんはええんやけどな。元気だけで商売出来る思うとる」
「出来ません!」
「分かっとるなら、もうちょい落ち着け!」
俺は笑いながら、店の奥へ進んだ。
善右衛門は、帳面を眺めていた。
「おう、虎松。来たか」
「おう。百挺、出たで」
「聞いとる」
善右衛門は帳面を閉じた。
「ようやったな」
「ありがとな」
「二年かかったか」
「……親子で同じこと言うなや」
「何や、善次郎にも言われたんか?」
「言われたわ」
善右衛門は笑った。
こいつも、昔から変わらない。ただ、扱う商売の規模は随分大きくなった。
榊屋の鉄砲を売るだけではない。材料の仕入れ、外注先への支払い、遠方への運搬、代金の回収。工房が大きくなれば、商人の仕事も増える。
善右衛門の店がなければ、榊屋が月に百挺作れるようになっても、それを売り続けることは難しかっただろう。
「百挺作れるようになったんは、結構なことや」
「おう」
「せやけど、百挺作るのと、百挺売るのは別の話やで」
「……分かっとる」
「ほんまか?」
「……一応」
「一応かい」
善右衛門は呆れたように笑った。
「まあ、今月の分は売り先が決まっとる。来月の分も、ある程度は話がついとる。ただ、百挺作れるようになったからいうて、毎月百挺売れるとは限らん」
「……せやな」
「そこは、こっちの仕事や」
善右衛門は、そう言って帳面を軽く叩いた。
「お前らが作れるようになった分、わしらも売れるようにならなあかん」
俺は、その言葉に少し驚いた。
以前の善右衛門なら、もっと作れ、もっと早く作れと言っていた気がする。もちろん、今でもそういうことは言うが、こいつも二年間で変わったのだ。
百挺を作ることが、どれだけ大変か知っている。そして、百挺を売ることも、同じくらい大変なのだろう。
「……善右衛門」
「何や?」
「これからも頼むで」
善右衛門は、少しだけ目を細めた。
「当たり前やろ」
それから、にやりと笑った。
「せやけど、百挺で満足しとったらあかんで」
「……ほら来た!」
「今度は、もっと遠くへ売れるようになる」
「その前に、今の百挺を安定させなあかん!」
「分かっとる、分かっとる」
「絶対分かっとらんやろ!」
善次郎が横から口を挟んだ。
「まあ、親父の言うことも分かるで。百挺揃うようになったら、今まで受けられへんかった話も来るやろしな」
「……それはそうやけど」
「せやろ?」
「せやけど、百五十とか言い出すなよ」
「……まだ何も言うてへんやろ」
「顔に書いとる!」
善右衛門が声を上げて笑った。
その横で、新三郎が目を輝かせている。
「兄上! 百五十挺ですか!?」
「違うわ!」
「すごいです!」
「まだ作らへん言うとるやろ!」
「じゃあ、来年ですか!?」
「お前も善次郎と同じこと言うな!」
善次郎が、心底嫌そうな顔をした。
「……こいつ、誰に似たんやろな」
「お前やろ」
「何でやねん!」
俺は笑った。
新三郎は、きっといい商人になる。いや、今はまだ分からない。こいつはまだ十二歳で、荷札を読み間違えるし、掃除を忘れて善右衛門の話を聞きに行くし、商売の難しさなんてほとんど知らない。
それでも、何かを知りたくて仕方がないという顔をしている。
俺も昔は、こんな顔をしていたのだろうか。そう思うと、少しだけ可笑しかった。
◇
夕方、榊屋へ戻ると、工房にはまだ槌の音が響いていた。
百挺を出荷した日だというのに、誰も特別なことをしていない。いや、特別なことをしていないからこそ、百挺を作れるようになったのかもしれない。
親父は、まだ火床の前にいた。五平は千吉に金具の仕上がりを見せ、弥吉は庄吉に何かを説明している。庄吉は真剣な顔で頷いているが、弥吉の方は少し疑わしそうだ。
佐吉と藤吉は翌日の仕事の段取りを相談し、甚助と松之助は仕上げた台木を並べている。水車の方からは市兵衛と徳松の声が聞こえ、どうやら明日のために機械の手入れをしているらしい。
新八は、検査を終えた部品を帳面と照らし合わせていた。その奥では、宗次郎とお澪が外注先から戻る材料の予定を確認している。
お蓮の工房から届いた地板。嘉兵衛が作ったネジ。ほかの外注先から戻った金具。
それらが決められた場所に並び、必要な時に必要な工程へ渡されていく。誰か一人が全部を覚えているわけではないし、誰か一人が全部を作っているわけでもない。
それでも、仕事は進む。
二年前、俺は百挺を作れる工房を目指していた。百挺作れるようになれば、もっと大きな仕事が出来る。もっと遠くへ売れる。もっとたくさんの人に、同じように使える鉄砲を届けられる。
そう思っていた。
だが、百挺を作れるようになった今、俺が一番嬉しいのは、そこではなかった。
親父がまだ現役で槌を握り、五平が若手に仕事を教えている。弥吉は自分一人で作るより、ほかの職人を育てる方を選ぶようになった。佐吉と藤吉は当たり前のように仕事を回し、甚助や市兵衛はそれぞれの後輩を育てている。
宗次郎は一人で何もかも抱えなくなり、お澪はその隣で当たり前のように仕事をしている。工房の外にも、お蓮や嘉兵衛のように、一緒に仕事をしてくれる人たちがいる。
百挺という数字は、そういうものが積み重なった結果なのだ。
「虎松」
五平に呼ばれた。
「何や?」
「さっきの治具、考えたか?」
「……あ」
「忘れとったんか?」
「いや、今から考えるとこや!」
「ほな、こっち来い」
俺は笑いながら、五平の作業台へ向かった。金具を手に取り、どこが問題なのかを確かめる。
少しだけ角度を変えれば、加工しやすくなるかもしれない。いや、材料を押さえる位置を変えた方がいいか。
頭の中で、いくつかの形が浮かび始める。
「……これ、ちょっと木で作ってみてもええか?」
「ええで」
「甚助に頼んでくるわ」
「今からか?」
「今からや!」
俺が立ち上がると、五平が笑った。
工房の向こうでは、親父がこちらを見ていた。
「虎松」
「何や、親父」
「百挺、ようやったな」
「……おう」
「ほな、明日も頼むで」
「……結局、仕事かい!」
親父は笑い、また槌を握った。
俺も思わず笑った。
月に百挺。ようやく、ここまで来た。
けれど、榊屋の仕事は明日も続く。百挺作れるようになったからといって、何かが終わるわけではない。むしろ、今まで出来なかったことが、ようやく出来るようになったのだ。
俺は手元の金具をもう一度眺めた。
これを、もっと作りやすく出来ないだろうか。
そんなことを考えているうちに、いつの間にか百挺達成の余韻もどこかへ消えていた。
まあ、いい。
榊屋は、そういう工房なのだ。
明日もまた、鉄を叩く音がする。その音が、今では百挺分の仕事を支えている。
俺は金具を握り直し、甚助のいる木工場へ歩き出した。
五平とか新三郎とか忘れてた訳やないんや…
あと榊家にはまだ娘が2人います。




