1人で回さない
お澪が榊屋へ来たのは、翌朝のことだった。
朝の仕事が始まって間もなく、工房の入口から見覚えのある顔が覗いた。手には小さな風呂敷包みを持ち、いつものようにきちんと頭を下げている。
「おはようございます」
「おう。よう来てくれたな」
「まずは一月、よろしくお願いします」
「こちらこそ。ほな、早速……」
「虎松さん」
「ん?」
「私、どこで仕事するんです?」
俺は工房の奥を見た。
「……宗次郎の横?」
「机は?」
「……」
「紙と筆は?」
「ある」
「私の分も?」
「……」
お澪が風呂敷包みを持ち直した。
「まだ何も始まっていませんよ?」
「いや、待って。机くらい今から……」
「兄上、こちらです」
奥から宗次郎が顔を出した。
いつも宗次郎が帳面を広げている机の横に、もう一つ小さな机が置かれていた。紙と筆、墨を入れる道具まで揃っている。工房の仕事を邪魔しない場所で、材料置場と出入口の両方へ行きやすい位置だった。
「……お前、いつの間に?」
「昨日、兄上が帳面を並べている間に」
「言うてくれたら手伝ったのに」
「兄上は帳面を並べる仕事がありましたから」
「……せやな」
お澪が俺を見てから、宗次郎へ向き直った。
「宗次郎さん、ありがとうございます」
「いえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
二人が頭を下げ合う。
俺はその横で、まだ何もしていなかった。
「……ほな、始めよか」
「兄上」
「何?」
「まず、何をお願いするか決めるところからです」
「……せやな」
どうやら、俺が口を出す前に仕事は始まっていたらしい。
◇
宗次郎の帳面は、並べてみると結構な数になった。
材料を買った記録、工房にある材料の数、外へ渡した材料、戻ってきた加工品、検査で使えると分かった数、外注先への支払い、貸し出した型や検査台の所在。これに月ごとの製作予定と、日々の進み具合を書いた帳面が加わる。
俺も昨日、一緒に整理したはずなのだが、改めて見るとよくこれだけ管理していたものだと思う。しかも、ただ数を書いているわけではない。材料の買い入れを決める時には手元にある数を見て、外注先へ頼む時には戻り予定を確かめ、職人へ仕事を渡す時には前の工程がどこまで進んでいるかを調べる。宗次郎は、それらを一人でつなげていた。
「これが材料の帳面です」
宗次郎がお澪に一冊を開いて見せた。
「買った数と、今ある数を書いています。こちらは外へ渡した材料で、どの工房に何枚あるかを分けています」
「同じ材料でも、帳面が違うんですね」
「はい。榊屋にある物と、外にある物を一緒には出来ませんから」
「こちらは?」
「作る予定です。外へ渡した物がいつ戻るかも、ここに書いています」
お澪は三冊の帳面を見比べた。
「……地板の材料を二十枚渡したら、三つとも書き直すんですか?」
「はい。榊屋にある材料が二十枚減って、外にある材料が二十枚増えます。それから、戻る予定の日を書きます」
「全部、宗次郎さんが?」
「……はい」
「一つ書き忘れたら?」
宗次郎の筆が止まった。
「……数が合わなくなります」
「それを、どうやって確かめるんです?」
「帳面を見比べます」
「どの帳面が正しいかは?」
宗次郎は少し考え、別の帳面を開いた。
「渡した時の記録を見ます。こちらに、誰へ何枚渡したかを書いてありますから」
「では、その記録も宗次郎さんが?」
「……はい」
お澪は頷いた。宗次郎の帳面に何が書かれているのかは、これで分かったらしい。
問題は、記録がないことではなかった。実際に材料を渡した人間も、帳面に書く人間も、後から数字を確かめる人間も、ほとんど宗次郎だったことだ。
「……最初に物が動いた時の記録を、別の人にも残してもらった方がええな」
俺が言うと、お澪が頷いた。
「はい。何を、いくつ、誰から誰へ渡したのか。渡した方と受け取った方で同じ数を確かめておけば、後から帳面を見直せます」
「でも、紙が増えますよ」
宗次郎が言った。
「それに、受け渡しのたびに書いていたら、時間もかかります」
「そうですね」
お澪は少し考えた。
「では、最初は外へ渡す材料だけにしませんか?」
「外へ?」
「はい。榊屋の中なら、数が違ってもその場で確かめられます。でも、外へ渡した物は、すぐには数えられませんから」
宗次郎が頷いた。
「……それなら、今の帳面を全部変えなくても済みますね」
「はい。まずは、地板の材料から」
俺は二人の顔を見た。仕事を分けるために人を増やしたのに、初日から帳面を全部作り直すことになったら本末転倒だ。お澪の提案なら、今ある仕組みを残したまま、間違えやすいところから手を入れられる。
「ほな、それでやってみよか」
「はい」
「分かりました」
二人が頷き、宗次郎は帳面を閉じた。
「では、今日渡す材料で試しましょう」
「今日?」
「お蓮さんのところへ、次の地板用材料を渡します」
「……もう用意しとるん?」
「昨日、兄上と確認したでしょう」
「……したな」
した。
確かにした。
どうも、宗次郎の横に人が増える前に、俺の記憶の方を何とかした方がいい気がしてきた。
◇
材料置場には、地板用の板材が揃えられていた。
今回お蓮へ渡すのは、次の製作分として手配した二十枚だ。先日の不足を埋めるための材料とは別に数えてあり、残り六挺に使う物も既に確保している。前と同じ間違いを繰り返すわけにはいかなかった。
「これが二十枚です」
宗次郎が板材を指した。
お澪は風呂敷から小さな紙を取り出し、数を確かめ始めた。一枚ずつ端を持ち上げ、声に出さずに数えていく。
やがて、眉を寄せた。
「……十九枚です」
「二十枚ありますよ」
「でも、十九枚しか……」
宗次郎が一番下の板を持ち上げた。
「ここ、二枚重なっています」
「あ」
薄い板材が、ぴたりと重なっていた。上から見ただけでは、一枚に見える。
お澪は少し悔しそうな顔をした。
「……もう一度、数えます」
「ええよ」
俺が言うと、お澪がこちらを見た。
「最初から間違えてしまいました」
「せやから二人で数えるんやろ。一人で全部合うなら、最初から人増やさんでもええ」
お澪は少し考え、頷いた。
「……そうですね」
今度は宗次郎が板の端を少しずつずらし、お澪が一枚ずつ数えた。二十枚あることを確認すると、二人はその場で控えを書き始めた。
日付、品名、数量、渡す相手。宗次郎が必要な数と戻り予定を確認し、お澪が実際に渡す数を書き込む。
「受け取った人の名前も要るな」
俺が言った。
「書きます」
「それから、戻ってくる日も……」
「宗次郎さんに確認しました」
「ほな、材料の厚さは……」
「それも書いてあります」
俺は紙を覗き込んだ。確かに、全部書いてあった。
「……仕事早いな」
「兄上」
宗次郎が顔を上げた。
「何?」
「少し離れていただけますか」
「何でや!」
「紙が見えません」
お澪が横で笑った。
どうやら、俺が一番邪魔らしい。
◇
昼前、材料を積んだ荷車と一緒に、お蓮の工房へ向かった。
お澪も同行することになった。紙だけ渡しても、どのように使うのか分からなければ困るだろうし、実際に材料を受け取る相手の仕事も見てもらいたかった。
お蓮の工房では、七人の職人がそれぞれの仕事をしていた。槌の音が響く中、お蓮は作業台の前で地板を確かめている。
「おう、虎松。今日は何や、えらい人数やな」
「材料持ってきた。あと、紹介したい人おるんよ」
「人?」
「お澪。善右衛門のとこで働いとる」
お澪が頭を下げた。
「お澪と申します。今日から、榊屋の材料の出入りをお手伝いすることになりました」
「へえ。うちはお蓮や。よろしくな」
「よろしくお願いします」
お蓮はお澪の手にある紙へ目を向けた。
「で、それ何や?」
「材料を渡した時の控えです」
「控え?」
お澪は二枚の紙を広げた。
「今日お渡しする材料が二十枚あります。こちらで数を確かめて、同じ内容の控えを榊屋とこちらに一枚ずつ残したいんです」
「何や、紙増えたん?」
「増えた」
俺が答えると、お蓮が笑った。
「また面倒なこと始めたな」
「今回はちゃんと意味あるぞ」
「前もそう言うとったやろ」
「……言うたか?」
「何遍も聞いたわ」
お澪は二人のやり取りを聞きながら、紙を作業台へ置いた。
「材料を受け取った数と、加工して戻していただく数を、後で確かめられるようにしたいんです。榊屋だけでなく、こちらにも同じ記録があれば、数が違った時に確認できます」
お蓮は紙を覗き込んだ。
「……ほな、こっちも数が分かるんやな」
「はい」
「今まで、榊屋に何枚渡したか聞かな分からん時もあったからな」
「それも、こちらに書いておけば確かめられます」
お蓮は頷いた。自分の工房で七人を動かしている人間だから、材料の数が分からなければ困るのはこちらだけではないと、すぐに理解したらしい。
ただし、紙を見ながら一つだけ顔をしかめた。
「せやけど、毎回これ書くん?」
「毎回です」
「……めんどくさ」
「間違えたら、もっと面倒ですよ」
お蓮が顔を上げた。お澪も、まっすぐ見返している。
少しの間があって、お蓮が笑った。
「……そらそうやな」
どうやら、気が合うらしい。
材料を数え直し、二十枚あることを双方で確認した。お蓮は受け取った印を付け、控えを一枚手元へ残した。
「ほな、加工が終わったら、出来た数を書いたらええんやな」
「はい。出来た物と、手直しが必要な物も分けていただけると助かります」
「そこは今まで通りやな」
「はい。今までの数え方を、紙にも残していただきたいんです」
お蓮が頷いた。
「分かった。ほな、やってみよか」
俺は二人のやり取りを見ながら、少し感心していた。新しい決まりを増やす時、俺はつい、何のために必要なのかを長々と説明してしまう。お澪は、相手が何に困っているのかを聞き、その仕事に合わせて話していた。
工房の図面を一緒に見た時と、同じだった。
◇
榊屋へ戻ると、別の外注先から荒加工した金具が届いていた。
荷を受けたのは藤吉だった。以前は、届いた物を置いてから誰かに声を掛けるだけで精一杯だったが、今は品物を作業台へ並べ、数を確かめるところまで自分で進めている。
「虎松、金具戻ってきたで。三十個ある」
「おう。宗次郎には?」
「まだや。今から持っていく」
藤吉は荷を抱え直しかけたが、横からお澪が声を掛けた。
「藤吉さん、こちらで数を確かめてもよろしいですか?」
「ええで。……あんた、今日から来た人やな」
「お澪です。よろしくお願いします」
「藤吉や。よろしく」
藤吉は作業台へ品物を戻し、お澪が数える間、横で一緒に確かめた。三十個あることを確認すると、お澪は受け取った数を控えに書き、宗次郎へ知らせた。
「三十個、受け取りました」
「ありがとうございます。では、検査に回しましょう」
宗次郎が帳面を開く。
そこへ俺が口を挟んだ。
「前の帳面には二十八って書いてなかったか?」
「それは前回の合格数です、兄上」
「あ、そうやったか」
「今回戻る予定は三十です。こちらに書いてあります」
宗次郎が別の欄を指した。
なるほど。前回使えると確認した二十八個と、今回受け取った三十個は、そもそも別の数字だった。
お澪が紙を見比べる。
「受け取った数と、使える数は別に書くんですね」
「はい。今までも分けていますが、受け取りの記録をお願いするなら、検査が終わるまでは使える数に入れないようにしましょう」
「分かりました」
宗次郎は新八を呼び、戻ってきた金具を渡した。
新八は図面と見本を確かめながら検査を始めた。寸法を見るだけでなく、仕上げ代が残っているか、次の加工で使う面に傷がないかも確認する。
途中で佐吉が寄ってきた。
「新八、それ、仕上げは俺がやる分か?」
「せや。まだ検査中やから、ちょい待ってな」
「分かった。使える数が決まったら教えてくれ」
佐吉はそう言って、自分の作業台へ戻っていった。以前なら、誰かに言われてから次の仕事を取りに来ることも多かったが、今は前の工程がどこまで進んでいるかを自分で確かめ、手が空く前に段取りを考えるようになっている。
中堅になった職人は、目の前の仕事を仕上げるだけでは済まない。次に何が来るのかを考え、若い職人が困っていれば手を貸す。佐吉も、いつの間にかそういう役回りになっていた。
しばらくして、新八の検査が終わった。
「二十七はこのまま使える。二つは手直しやな。一つはあかん」
「分かりました」
お澪が紙へ書き込む。
受け取った数、三十。
使える数、二十七。
手直し、二。
使えない物、一。
宗次郎は、そのうち二十七を次の製作予定に入れた。手直しの二つは、直って検査を通るまでは数に入れない。
新八は検査を終えた品物を分け、佐吉を呼んだ。
「佐吉、二十七使えるで。残り二つは、こっちで直してから渡す」
「おう。ほな、先に二十七から進めるわ」
佐吉は必要な分だけを受け取り、作業台へ戻っていった。
藤吉も、いつの間にかその横へ来ていた。
「佐吉さん、これ運びましょか?」
「頼むわ。せやけど、こっちの二つはまだ持っていくなよ」
「手直しの分やろ。分かっとる」
「ほな、ええ」
藤吉が品物を運んでいく。
俺はその後ろ姿を見ながら、少し感慨深くなった。前は、言われた物を運ぶだけでも精一杯だったのに、今は何を運んでよくて、何をまだ運んではいけないのかを考えている。
誰か一人が急に何でも出来るようになったわけではない。毎日同じ仕事を繰り返し、失敗したところを直し、少しずつ覚えてきた結果だった。
「……こういうことか」
俺が呟くと、お澪が顔を上げた。
「何がです?」
「いや、何でもない」
「また何か考えてます?」
「ちょっとな」
「でしたら、後で聞きます」
「……ほどほどにな」
「嫌です」
前にも聞いた返事だった。
◇
午後になって、宗次郎がお蓮の次の納期を確かめに出掛けた。
これまでは、宗次郎が席を離れると困ることがあった。材料が何枚残っているのか、外へ渡した物がいつ戻るのか。誰かに聞かれても、帳面を開かなければ分からないし、その帳面を正しく読めるのは宗次郎だけだった。
ところが、今日はお澪が机に座っている。
「宗次郎おる?」
弥吉が顔を出した。
「お蓮さんのところへ行かれました」
「ほな、地板の材料、何枚残っとるか分からん?」
「少々お待ちください」
お澪は帳面を開き、朝の控えと見比べた。
「榊屋にある材料は十二枚です。お蓮さんへ渡した二十枚は、別にあります」
「ほな、十二枚使えるんやな」
「材料としてはあります。ただ、どの仕事に使うかは宗次郎さんに確認してください」
「……ああ、そういうことか」
弥吉が頷いた。
「ほな、戻ってから聞くわ」
「はい。何枚必要か、先に教えていただけますか?」
「二枚。庄吉に次の仕事教えたいんや」
「分かりました。宗次郎さんに伝えておきます」
弥吉は礼を言って戻っていった。
俺は少し離れたところから、その様子を見ていた。
宗次郎がいないのに、材料の数が分かった。それだけなら、帳面の場所を教えれば済む話かもしれない。だが、お澪は榊屋にある材料と、外へ渡した材料を分けて答えたうえで、その十二枚を勝手に使っていいとは言わなかった。
現物の数を確かめる仕事と、何に使うかを決める仕事。その境目を、きちんと守っている。
しばらくして宗次郎が戻ると、お澪は弥吉の用件を伝えた。
「弥吉さんが、地板の材料を二枚使いたいそうです。庄吉さんに次の仕事を教えるためだそうで」
「分かりました。来月の予定を見てから返事をします」
「はい」
宗次郎は帳面を開き、必要な数を確かめた。お澪はその横で、今日受け取った金具の控えを整理している。
以前なら、宗次郎が戻るまで誰も答えられなかった。今は、宗次郎がいなくても分かることがあり、戻ってきた宗次郎は、判断が必要なところから仕事を始められる。
たったそれだけの違いだった。
だが、たったそれだけのために、昨日は六挺の納期を遅らせてしまったのだ。
◇
数日後、残り六挺の鉄砲が完成した。
親父と新八が最終確認を行い、試射も終えている。遅れた分だからといって、検査を省くわけにはいかない。最後の一挺まで確かめ、ようやく納められる状態になった。
善次郎が受け取りに来た。
「これで五十やな」
「……やっとな」
「次は最初から五十頼むで」
「分かっとるわ」
善次郎は完成した鉄砲を見回し、一本を手に取った。
「しかし、揃うようになったもんやな」
「何が?」
「前は一本ずつ、職人の腕頼みやったやろ。今は地板も金具も、外で作った物が入っとる」
「全部やないけどな」
「それでもや。最初は、お前が外へ仕事出す言うた時、どうなるかと思うたで」
「……お前、最初から増やせ増やせ言うとったやろ」
「言うた」
「心配しとったんか?」
「売る物が出来へんかったら困るやろ」
「そこかい!」
善次郎が笑った。
俺も笑ったが、すぐに完成品へ目を戻した。
五十挺は揃った。だが、今月は五十挺を約束通りに納められなかった。最後の六挺を届けて、ようやく遅れを取り戻しただけだ。
「……来月は、最初から五十揃える」
俺が言うと、善次郎は頷いた。
「せやな」
珍しく、すぐに話が終わった。
と思ったら、善次郎が顔を上げた。
「で、六十はいつからや?」
「今その話すんな!」
「いや、五十が揃うようになったら、次は六十やろ」
「まず五十を、ちゃんと五十で納めるんや!」
「分かっとる、分かっとる」
絶対、分かっとらん。
◇
それからしばらくして、榊屋の仕事の進め方は少しずつ変わっていった。
お澪は最初からすべての帳面を任されたわけではない。外へ渡す材料と、戻ってきた品物の数を確かめるところから始めた。受け渡しの控えを作り、相手の工房にも同じ記録を残してもらう。新八が検査した結果は、受け取った数と分けて記録する。
宗次郎は、それを使って次の仕事を考える。材料をいつ買い、どの工房へ何を頼み、いつ戻ってくるのか。予定を組み直す必要があれば、お澪の控えと照らし合わせてから決める。
最初は、二人で同じ帳面を開いて考えることも多かった。
「宗次郎さん、これ、外へ渡した数は二十で合っていますか?」
「はい。ただ、戻ってくるのは十八の予定です」
「残り二つは?」
「手直しになっています」
「では、まだお蓮さんのところにあるんですね」
「そうです」
分からないことがあれば、お澪は聞いた。宗次郎も、以前のように自分だけで確かめようとはしなくなった。外へ渡した数が合わなければ、お澪の控えを見る。戻ってきた物の数が違えば、受け取った時の記録を確かめる。
何度か書き方を変え、控えを置く場所も決めた。紙を増やしすぎないように、使わなくなった記録も少しずつ整理していった。
もちろん、最初から何もかもうまくいったわけではない。お澪が受け取った物を、宗次郎がまだ予定に入れていなかったこともあった。逆に、宗次郎が戻る予定だと思っていた物が、外注先の都合で遅れていることもあった。
そのたびに二人で帳面を開き、どこまで分かっていて、何を確かめなければならないのかを話した。
俺も時々、横から口を出した。
大抵、もう二人で考えていることだった。
「兄上、そこは分かっています」
「……せやな」
「虎松さん、今は宗次郎さんと確認しているところです」
「……はい」
何やろう。
俺が作った工房なのに、最近ちょっと居場所がない。
◇
月末、俺は工房を見回していた。
弥吉は庄吉に作業を教えている。以前なら自分で仕上げた方が早いと言っていた仕事も、今は相手にやらせ、出来上がった物を確かめるようになった。
新八は検査台で部品を見ている。合格した物は次の工程へ送り、手直しが必要な物は、どこを直すのかを書いて戻す。誰が見ても分かるようにするという仕事は、いつの間にか新八自身が工夫するようになっていた。
佐吉は金具の仕上げを進めながら、藤吉が運んできた品物を確かめている。手直しが必要な物を間違って混ぜていないか、次に使う道具は揃っているか。自分の手を動かすだけでなく、周りの仕事にも目を配る姿は、もう駆け出しの職人ではなかった。
藤吉も、以前のように何をすればいいか分からず立ち尽くすことは減った。運ぶ物の数を確かめ、次に必要な材料を聞き、手が空けば自分から仕事を探している。まだ覚えることは山ほどあるが、少なくとも、誰かが一から十まで指示しなければ動けないということはなくなっていた。
甚助は台木の加工を進め、市兵衛は金具の仕上げに使う道具を整えている。親父は組み上がった鉄砲の動きを確かめながら、ときどき職人へ声を掛けていた。
お蓮の工房からは地板が届き、別の工房からは荒加工した金具が戻ってくる。それぞれの工房にはそれぞれの仕事があり、榊屋の注文だけを待っているわけではない。それでも、決めた数を決めた時期に戻せるよう、互いに予定を確かめながら仕事を進めていた。
工房の隅では、宗次郎とお澪が帳面を開いている。
「兄上、来月の予定です」
宗次郎が声を掛けてきた。
「おう」
「地板はお蓮さんのところへ二十枚。金具の荒加工は三十個。バネの予備は、今の数を見てから決めます」
「材料は?」
俺が聞くと、お澪が別の帳面を開いた。
「榊屋にある分と、外へ渡している分を分けてあります。こちらです」
俺は二人の帳面を見比べた。
宗次郎の帳面には、これから作る数がある。お澪の帳面には、今どこに何があるかが書かれている。
どちらか一冊だけでは、次の仕事は決められない。作る予定があっても材料がなければ困るし、材料があっても、何に使うか決まっていなければ仕事にならない。
以前は、その両方を宗次郎が一人で考えていた。
「……ええな」
俺が言うと、宗次郎が顔を上げた。
「何がです?」
「ちゃんと分かる」
「分かるように書いていますから」
「前もそう言うとったな」
「前も、分かるようには書いていました」
宗次郎が少し笑った。
「ただ、私にしか分からないところが多すぎました」
お澪が頷いた。
「最初は私も、どの帳面を見ればいいのか分かりませんでした」
「今は?」
「全部ではありませんけど、材料がどこにあるかは分かります」
「宗次郎がおらんでも?」
「はい。ただ、何に使うかは宗次郎さんに聞きます」
宗次郎が続けた。
「私も、材料の数はお澪さんに確かめてもらっています。自分で数えることもありますが、二人で確かめた方が間違いに気付きやすいですから」
俺は頷いた。
仕事を分けたからといって、誰かが何もしなくてよくなったわけではない。宗次郎は今まで通り忙しいし、お澪も覚えることが山ほどある。
それでも、以前とは違う。
宗次郎が一人で抱えていた仕事を、二人で確かめられるようになった。俺が何かを尋ねた時、宗次郎がいなければ分からないということも、少しずつ減っている。
「……ほな、次は何やろな」
俺が呟くと、宗次郎が眉を上げた。
「兄上?」
「いや、何でもない」
「また何か作るんですか?」
「まだ考えとるだけや」
宗次郎は少し疑わしそうな顔をした。
お澪も、なぜか同じ顔をしている。
「……何や、その顔」
「いえ」
「まだ何も言うてへんやろ」
「そうですね」
「そうですよ」
二人が揃って頷いた。
何やねん。
◇
百挺を作るために建てた工房で、俺たちはまだ五十挺を作っている。
建物を大きくすれば、それだけで百挺作れると思っていたわけではない。職人を育てるには時間がかかるし、外へ仕事を頼むにしても、相手の工房が同じように作れるとは限らない。
最初は、同じ物を作りたかった。
寸法を揃え、治具を作り、誰が作っても同じところに収まるようにしたかった。そこから、作り方を分け、人を育て、外へ仕事を頼むようになった。
そして今は、作る人間だけでなく、作るための仕事を支える人間も増えた。
お蓮は自分の工房で地板を作り、新八は戻ってきた部品を確かめ、宗次郎は次の仕事を組み、お澪はそのための材料がどこにあるのかを記録している。弥吉は庄吉に仕事を教え、佐吉は周りの進み具合を見ながら金具を仕上げ、藤吉は自分で考えて材料を運ぶようになった。
俺が全部を覚えていなくても、仕事は進む。
それは、俺が何もしなくてよくなったという意味ではない。俺にしか出来ないことを、考える時間が出来たということだ。
次は、何を作ろうか。
「なあ、虎松」
声がして振り返ると、善次郎が立っていた。
「何や」
「五十がちゃんと回るようになったら、次は百やな」
「……お前、まだ言うとるんか」
「言うで。新しい工房、百挺作るつもりで建てたんやろ?」
「……せやな」
俺は工房を見回した。
百挺作れる建物は、もうある。
だが、百挺作れる人間と仕組みは、まだ揃っていない。それを今度は、一人で何とかしようとは思わなかった。
「まあ、まずは五十をちゃんと……」
「で、百になったら、次は百五十やな」
「待て」
「何や?」
「お前、百の次まで考えとるんか?」
「そら考えるやろ」
「まだ百も出来てへんぞ!」
「せやから、今から考えるんや」
善次郎は当然のように言った。
俺はしばらくその顔を見てから、深く息を吐いた。
……せめて、もう少し余韻に浸らせてくれ。
第1部完!!
みたいな感じです。
もちろんまだ終わらないよ。




