お澪を寄越せ
四十四挺を納めた翌朝も、榊屋の仕事は止まらなかった。
新八は戻ってきた地板を検査台へ載せ、弥吉は組み付ける部品を揃えている。親父は試射の順番を組み直し、残り六挺を仕上げるための段取りを確かめていた。納期を遅らせてしまったからといって、作りかけの鉄砲が勝手に完成してくれるわけではない。むしろ、ここから先こそ余計な間違いは許されなかった。
宗次郎も、いつも通り机の前に座っている。ただ、帳面を開くたび、以前より少し長く数字を確かめるようになっていた。昨日の夜、あれだけ悔しがっていたのだから、すぐに元通りとはいかないだろう。
「宗次郎」
「はい」
「今日は新しい帳面、増やさんでええからな」
宗次郎が顔を上げた。
「……何か変えるんですか?」
「ちょっと考えとる」
「何を?」
「お前の仕事のこと」
宗次郎の表情が、わずかに硬くなった。言い方を間違えたと思ったが、もう遅い。昨日の今日で、こいつが何を気にしているかくらい、俺にも分かる。
「仕事取り上げる話ちゃうで。昨日言うたやろ。一人で全部やらんでええようにしたいんや」
「……はい」
「せやから、ちょっと善右衛門のとこ行ってくる」
「材料の件ですか?」
「いや、人の件」
「……人?」
宗次郎が首を傾げた。
「帰ってきたら、ちゃんと話すわ。残り六挺の段取りは、今まで通り頼む」
「分かりました」
宗次郎は頷いたが、俺が工房を出るまで、帳面を開かなかった。
◇
善右衛門の店は、朝から忙しかった。
荷を担いだ男が出入りし、店先では手代が品物の数を確かめている。奥からは商談の声が聞こえ、帳面を抱えた若い男が小走りで廊下を横切っていった。
いつ来ても、よく回っている店だと思う。榊屋より遥かに多くの品物を扱い、何人もの奉公人が働いている。それでも、誰か一人がすべての仕事を抱えているようには見えない。品物を受け取る者、数を確かめる者、帳面を付ける者、客と話す者。それぞれが自分の仕事をしていた。
昨日までなら、単に大きな商家だからだと思っていただろう。今は、その仕事の分け方が気になった。
「虎松さん、旦那様に御用ですか?」
顔見知りの手代が声を掛けてきた。
「うん。ちょっと話したいことあって」
「ただいまお客様がお見えですので、少々お待ちいただけますか」
「ええよ」
店の端で待ちながら、持ってきた紙を膝に置いた。宗次郎の帳面から、外へ渡した材料と戻ってきた品物の記録を写したものだった。元の帳面を持ち出せば宗次郎の仕事が止まるので、昨夜のうちに必要なところだけ書き写してきた。
我ながら、珍しく準備がいい。
もっとも、紙を用意したからといって、善右衛門が素直に頷くとは限らない。今日は材料でも銭でもなく、店で働く人間を貸してほしいと頼みに来たのだ。
「おう、虎松」
しばらくして、善次郎が奥から出てきた。
「何や、こんな朝から」
「親父さんおる?」
「おるけど、客やで」
「待っとる」
「急ぎか?」
「まあ、急ぎやな」
「何の話?」
「人」
善次郎が眉を上げた。
「……職人?」
「ちゃう」
「ほな何や?」
「宗次郎の横に座るやつ」
「ああ、昨日の話か」
「そう」
善次郎は頷きかけ、ふと俺の顔を見た。
「……誰か、あてあるんか?」
「ある」
「誰?」
「お澪」
善次郎の動きが止まった。
「……は?」
「お澪」
「いや、聞こえたけど」
「何やねん」
「お前、親父に何て言うつもりや?」
「お澪貸してくれって」
「……もうちょっと考えてから言えよ」
「考えた結果やぞ」
善次郎は何とも言えない顔で俺を見たあと、奥へ引っ込んでいった。
何やねん。
◇
ようやく通された部屋で、善右衛門は茶を飲んでいた。商談を終えたばかりらしく、傍らには閉じた帳面が置かれている。
「何や、えらい急ぎの用らしいな」
「うん」
「材料の件か?」
「ちゃう」
「ほな、何や?」
俺は膝の上の紙を置き、善右衛門を見た。
「お澪寄越せ」
善右衛門の手が止まった。
「…………は?」
「せやから、お澪や」
「名前は聞こえとるわ!」
善右衛門が湯呑みを置いた。
「お前、朝から何言うとんねん」
「ちょっと仕事手伝ってほしいんや」
「それを先に言え!」
横に座っていた善次郎が、額を押さえている。
「ほら見い」
「何がや」
「順番や、順番」
「今説明するやろ!」
善右衛門は俺と善次郎を交互に見てから、大きく息を吐いた。
「……で、何でうちのお澪なんや?」
声が少し低くなった。さっきまでの冗談を引っ込め、商人の顔に戻ったらしい。
俺は持ってきた紙を広げた。
「今、榊屋は外へ仕事出しとるやろ」
「知っとる」
「地板はお蓮んとこ。金具の荒加工は別の工房。材料も渡すし、出来た物も戻ってくる」
「そらそうやな」
「その出入りを、宗次郎が全部見とる」
善右衛門が紙へ目を落とした。
俺は先日の材料不足について説明した。榊屋にある材料と、外へ渡した材料。元の帳面では分けていたのに、買い入れの数を決める時に一緒に数えてしまったこと。そのせいで、月五十挺のうち六挺が遅れたことも隠さなかった。
「……あの件か」
善右衛門が言った。
「善次郎から聞いとる。四十四挺を先に納めて、六挺が後になったんやな」
「うん」
「宗次郎が間違えたんか」
「間違えた」
「ほな、お前は何を間違えた?」
俺は少し黙った。善右衛門は紙を見たまま、続きを待っている。
「……あいつ一人に任せとったことや」
善右衛門が顔を上げた。
「ほう」
「材料が増えたら帳面増やして、外へ仕事出したら帳面増やして、バネを作り置きしたら、また帳面増やして。俺が仕事増やすたびに、宗次郎が全部数えとった」
「うん」
「そんで間違えたら、宗次郎の間違いや。そらそうやけど……それだけで終わらせたら、また同じことになる」
善右衛門はしばらく黙っていた。
「ほな、新しい手代でも雇えばええやろ」
「うちらは職人や。あてがあるわけないやろ」
「……そら、そうやな」
善次郎が横で笑った。
「せやから親父のとこ来たんやろ」
「そういうこと」
「で、お澪なんか」
「うん」
俺は紙の一つを指した。
「宗次郎には、これからも仕事の段取り考えてもらいたい。何をいつまでに何個作るか、どの工房にどれだけ頼むか。そういうのは、あいつが一番よう分かっとる」
「ほう」
「でも、材料が入ってきた時に数えるとか、外へ渡した時に控え取るとか、戻ってきた物を確かめるとか。そういう仕事まで、全部あいつがやらんでもええやろ」
「つまり、物の出入りを見張る人間が欲しいんやな」
「そう」
善右衛門が頷いた。
「それなら話は分かる」
俺は少しだけ肩の力を抜いたが、善右衛門はそこで話を終わらせなかった。
「で、何でお澪なんや?」
「……まだそこ?」
「そこが一番大事やろ」
◇
「前に、新しい工房の図面描いとった時のこと、覚えとる?」
俺が聞くと、善右衛門は頷いた。
「お澪が手伝うたんやろ」
「そう。あん時、俺は材料の入口と、出来た鉄砲を出す場所を考えとった。荷車がどこ通って、職人がどこで加工して、どこに品物置くか。そういうのを紙に描いとったんや」
あの日の紙屋を思い出す。紙を買いに行っただけのはずが、店の端で工房の図面を広げ、お澪と長いこと話し込んだ。
材料の置き場所も、加工の順番も、荷車の通り道も考えていた。ところが、お澪はその紙を見て、俺がまったく考えていなかったことを聞いたのだ。
「人はどこから入るんです?」
善右衛門が眉を上げた。
「人?」
「そう。職人はどこから入るんか。注文に来た客はどこで話すんか。研ぎ物持ってきた人は誰に渡すんか。材料持ってきた人は、誰に声掛けるんか」
俺は苦笑した。
「全部、同じ入口にしとった」
「……そら混むな」
「混むどころか、誰が受け取るかも決めてへんかった」
善次郎が笑い出した。
「お前らしいわ」
「うるさい」
「物の流れは考えとって、人は勝手に動くと思うとったんやな」
「それ、お澪にも言われたわ!」
善右衛門が声を上げて笑った。俺も少し笑ったが、すぐに紙へ目を戻した。
「そん時、お澪は言うたんよ。誰が受け取るんですか、誰が確かめるんですかって」
「うん」
「今、榊屋で困っとること、あの時から言われとったんや」
善右衛門の笑みが、少し薄くなった。
「……なるほどな」
「新居の方も手伝ってもろた。母ちゃんが家の中で何しとるか、どこへ物取りに行って、何で手が止まるか。そういうのを見てから家を考えようって話になったんや」
「聞いとる」
「俺は、建物作ることばっかり考えとった。お澪は、そこで暮らす人間が何するか考えとった」
新居の図面を描いていた時も、俺は部屋の広さや柱の位置ばかり気にしていた。母ちゃんが台所から井戸まで何度も往復していることも、子供の世話をしながら家事をしていることも、聞こうとするまでまともに考えていなかった。
お澪は家を建てたことなどない。それでも、実際に使う人間の話を聞かなければ分からないと言った。
「ネジの検査手伝ってもろた時もそうや。渡した数と戻した数、ちゃんと確かめとった。分からんことは、勝手に分かったことにせん」
善右衛門が腕を組む。
「……それが、お澪を欲しい理由か」
「うん」
「お澪は鉄砲作れるわけちゃうぞ」
「知っとる」
「帳面付けるだけなら、他にもおるやろ」
「せやけど、俺らの仕事を見て、何が抜けとるか聞いてくれたんは、お澪や」
俺は善右衛門を見た。
「前に、お澪が言うたんよ。分からんまま返事する方が嫌やって」
善右衛門が小さく頷いた。
「言いそうやな」
「今の榊屋には、そういう人間が要る」
宗次郎は、仕事を知りすぎている。材料がどこにあり、いつ戻り、何に使うかを全部知っているから、俺たちは説明を省いてしまう。宗次郎も、聞かれたことに答えられるから、一人で抱えてしまう。
お澪は、工房の仕事をまったく知らないわけではない。新しい工房を考えた時、材料がどこから入り、どの工程を通って、どこから出ていくのかを一緒に見ている。だが、日々の材料の出入りや、外の工房への手配までは知らない。
だからこそ、確認できることがある。
何を渡したのか。誰が受け取ったのか。戻ってきた物は、受け取っただけなのか、それとも使える物なのか。
その確認を、宗次郎とは別の目でしてもらいたかった。
「……話は分かった」
善右衛門が言った。
「せやけど、お澪はうちの奉公人やぞ」
「知っとる」
「お前が欲しい言うたら、ほいほい渡せるもんちゃう」
「……せやな」
「お澪が抜けたら、うちの仕事は誰がやるんや?」
俺は口を閉じた。榊屋の仕事を回すために、善右衛門の店を止めるわけにはいかない。人を増やしたいからといって、他所の仕事を勝手に減らしていいはずもなかった。
「……最初から全部こっち来てもらわんでもええ。何日か手伝ってもろて、どのくらい仕事あるか見てもらいたい」
「ほう」
「その間に、店の方も誰かに仕事渡せるか考えてほしい。もちろん、ただでとは言わん」
「当たり前や」
善右衛門は少し笑った。それから、意外なことを聞いてきた。
「で、お澪には聞いたんか?」
「……まだ」
「ほな、まず本人やろ」
俺は口を閉じた。
言われてみれば、その通りだった。俺はお澪なら出来ると思っている。以前の仕事ぶりも知っている。だが、本人が榊屋で働きたいかどうかは、まだ聞いていない。
「……せやな」
「お前、物作る時は相手に何遍も確かめるくせに、人のことになると雑やな」
「耳が痛いわ」
「耳だけで済んでよかったな」
善次郎が笑った。
「うるさい」
善右衛門は手代を呼び、お澪を連れてくるように言った。
◇
しばらくして、お澪が部屋へ入ってきた。
「お呼びでしょうか」
善右衛門が頷く。
「虎松がお前を寄越せ言うとる」
「……はい?」
「ちょっと待って。言い方!」
俺が慌てて口を挟むと、善右衛門がにやりと笑った。
「言うたやろ」
「言うたけど!」
「ほな、間違ってへんやん」
「間違ってへんけど!」
お澪は俺と善右衛門を交互に見ていた。善次郎は既に笑っている。
……何やねん、この親子。
「すまん、お澪。ちゃんと説明するわ」
「はい」
「榊屋で、ちょっと仕事手伝ってほしいんや」
「お仕事、ですか?」
「うん。帳面と、物の出入りを見てもらいたい」
俺は先日の材料不足について説明した。榊屋で作っている鉄砲の数、外へ頼んでいる地板と金具、材料を渡して加工してもらい、戻ってきた物を検査して使うこと。その全部を宗次郎が管理していたことと、今回、材料の手配を間違えたことも話した。
お澪は途中で口を挟まずに聞いていたが、話し終えると紙を覗き込んだ。
「……その二十枚は、どこにあったんですか?」
「お蓮んとこ」
「渡した時の控えはありますか?」
「宗次郎の帳面にある」
「お蓮さんのところにも?」
「……あると思う」
「思う、ですか?」
俺は少し黙った。
「いや、渡した数は向こうでも数えとる。せやけど、同じように帳面付けとるかまでは……」
「では、数が合わなかった時は、どう確かめるんです?」
「向こうに聞く」
「向こうも帳面を間違えていたら?」
「……現物を数える」
「その現物が、もう加工されていたら?」
お澪は責めるような口調ではなかった。ただ、分からないことを順番に聞いている。
俺は紙を見た。榊屋から材料を渡したことは記録しているし、お蓮も受け取った数を確認しているはずだ。だが、どの材料をいつ渡し、何枚分が加工中で、何枚分が戻ってきたのか。その記録が、双方で同じように残っているとは限らない。
「……受け渡しの控え、両方に要るな」
俺が言うと、お澪が頷いた。
「はい。紙に書いて、渡した方と受け取った方で同じ数を持っていれば、後で確かめられます」
「……なるほど」
「それと、戻ってきた物は、受け取った数と、使える数を分けて書いた方がよいと思います」
「それは分けとる」
「では、その数を誰が確かめるんですか?」
「今は宗次郎」
「……それも、宗次郎さんが?」
「うん」
お澪は少し考え込んだ。
「ずいぶん、たくさんのお仕事をなさっているんですね」
「せやねん」
俺は思わず頷いた。
善右衛門が横で楽しそうに笑っている。
「な?」
「……何が?」
「うちの奉公人や」
「知っとるわ!」
お澪は困ったように笑った。
◇
「それで、お澪」
俺は改めて向き直った。
「榊屋へ来て、手伝ってもらえへんやろか」
お澪はすぐには答えなかった。
「……宗次郎さんは、何とおっしゃってるんですか?」
「昨日、一人で全部やらんでええようにしようとは話した」
「私が行くことも?」
「……それは、まだ」
お澪は少し眉を寄せた。
「でしたら、先に宗次郎さんにもお話しした方がよいのでは?」
「……せやな」
また順番を間違えたらしい。
善次郎が横で肩を震わせている。
「笑うな」
「笑ってへん」
「笑っとるやろ」
「ちょっとだけや」
お澪は俺たちのやり取りを見て、ようやく少し笑った。
「でも、お仕事のことは、興味があります」
「ほんま?」
「はい。前に工房の図面を見せていただいたでしょう」
「うん」
「その時、誰が材料を受け取るのか、誰が出来た物を渡すのか、いろいろお話ししましたよね」
「したな」
「実際には、どうなったんです?」
俺は一瞬、答えに詰まった。
「……だいたい、考えた通りにはなっとる」
「だいたい?」
「入口も分けたし、材料置く場所も決めた。研ぎ物と鉄砲も混ざらんようにしとる」
「受け取る人は?」
「……宗次郎」
「全部?」
「……だいたい」
お澪が俺を見た。
「虎松さん」
「はい」
「前に、誰が受け取るんですかって聞きましたよね」
「……聞かれました」
「決めたんですか?」
「決めた」
「宗次郎さんに?」
「……はい」
お澪は少し黙った。それから、困ったように笑った。
「それ、あまり変わっていないのでは?」
俺は返す言葉がなかった。
工房の入口を分け、材料の置き場所を決め、仕事の流れを整えた。だが、最後に誰が受け取るのかと聞かれれば、宗次郎だった。新しい工房になっても、そこだけは昔のままだったのだ。
「……せやな」
「でしたら、少し見てみたいです」
「何を?」
「今の榊屋を」
お澪は紙へ目を落とした。
「前に図面で考えたことが、実際にどうなったのか。それを見て、私に出来ることがあるなら、お手伝いしたいです」
俺は頷いた。
「もちろん」
「ただ、鉄砲の部品は、まだ全部は分かりません」
「そこは教える」
「帳面も、こちらのお店と同じようにはいかないでしょうし」
「うん。宗次郎と相談してほしい」
「それなら、まずはお手伝いからでもよろしければ」
「十分や」
お澪が頷いた。
「では、やってみたいです」
俺は思わず笑った。
「助かるわ」
「まだ何もしていませんよ」
「……せやな」
お澪も笑った。
◇
「ほな、話は早い」
善右衛門が口を開いた。
「ただし、銭は要るで」
「……やっぱり」
「当たり前や。うちの奉公人を使うんやぞ」
「分かっとる」
善右衛門は指を折りながら条件を並べた。
当面、お澪は善右衛門の店に籍を置いたまま、榊屋へ手伝いに出る。最初の一月は試しとし、その間にどの程度の仕事があるのかを確かめる。お澪の手当と、店で抜けた分の仕事を補うための費用は榊屋が負担する。続けるかどうかは、一月経ってから改めて話す。
そして、榊屋と善右衛門の店との間で動く材料や品物についても、受け渡しの記録を揃えることになった。
「お前らが材料足らん言うてから走り回るんは、もう御免や」
「……ごもっともで」
「そもそも、五十挺作る言うて、四十四しか出来へんかったら、こっちも困るんやぞ」
「分かっとる」
「分かっとるなら、次からちゃんとせえ」
「はい」
善右衛門が笑った。
「よろしい」
俺はようやく肩の力を抜いた。
「それと、もう一つや」
「……まだあるん?」
「新兵衛さんには、お前から話しとけ」
「あ」
「何や、その顔」
「いや、忘れとったわけちゃうで」
「忘れとったやろ」
「ちょっとだけ」
善次郎が横で笑い出した。お澪は呆れたように俺を見た。
「父にも、ちゃんとお話ししてくださいね」
「はい」
前に新居のことで半日手伝ってもらった時も、新兵衛さんには話を通した。今度は半日ではない。まず一月、善右衛門の店から榊屋へ通ってもらうことになる。本人がいいと言ってくれたから、それで終わりではなかった。
「今日、紙屋にも寄るわ」
「お願いします」
善右衛門が頷いた。
「それと、宗次郎にもちゃんと話しとけよ」
「……分かっとる」
「自分の仕事、取り上げられると思うかもしれんやろ」
俺は顔を上げた。
「昨日、あいつは失敗したんやろ」
「うん」
「ほな、余計にな」
善右衛門は湯呑みを手に取った。
「お前がどう思っとるかと、あいつがどう受け取るかは別や」
俺は頷いた。
人を増やせば解決する。そう簡単に考えていたわけではないが、どこかで、宗次郎も喜んでくれるだろうと思っていた。だが、昨日の宗次郎は、自分の仕事を間違えたことを誰より悔しがっていた。
その翌日に、別の人間を連れてきたらどう思うか。善右衛門に言われるまで、俺はそこを十分に考えていなかった。
「……ちゃんと話すわ」
「そうせえ」
◇
紙屋へ寄ると、新兵衛さんは店先で紙を揃えていた。
「おう、虎松」
「こんにちは」
「また紙か?」
「今日は紙ちゃいます」
「ほな何や?」
「お澪のことで、お願いがありまして」
新兵衛さんの手が止まった。
「……お澪?」
「はい」
「何や、改まって」
「しばらく、榊屋の仕事を手伝ってもらえへんかと思いまして」
新兵衛さんが俺を見た。
「……仕事?」
「はい。帳面と、材料の出入りを見てもらいたいんです」
「善右衛門さんは?」
「話してきました。まず一月、試しに手伝ってもらうことで」
「お澪は?」
「本人も、やってみたいと言ってくれました」
新兵衛さんは少し黙った。それから、ふっと笑った。
「……そうか」
「はい」
「前は家の図面やったな」
「そうです」
「今度は工房の帳面か」
「はい」
新兵衛さんは紙を揃え直した。
「お前、ようお澪に頼むな」
「……助かっとるんで」
「ほう」
何や、その顔。
「いや、ほんまに。前も工房の図面で、俺が見落としとったこと教えてもろたし、新居の方も、母ちゃんが何しとるか見てから考えようって話になったし。今回も、宗次郎の仕事を分けるなら、お澪がええと思って」
「なるほどなあ」
新兵衛さんは妙に楽しそうだった。
「……何です?」
「いや、別に」
「何か言いたそうですけど」
「よう見とるなあと思って」
「仕事の話ですよ?」
「分かっとる、分かっとる」
絶対、分かっとらんやろ。
新兵衛さんは笑いを収め、少し真面目な顔になった。
「お澪がやりたい言うとるなら、わしから止めることはない。善右衛門さんの店のこともあるし、そこはちゃんと話が付いとるんやろ?」
「はい」
「ほな、ええんちゃうか」
「ありがとうございます」
「ただし、無理はさせんといてな」
「もちろんです」
「お前ら、仕事増やすの好きそうやからな」
「……耳が痛いです」
「宗次郎も大変やろ」
俺は少し驚いた。
「……知っとるんですか?」
「紙、よう買いに来るやろ。あの子、何に使うか聞いたら、毎回違うこと言うとるで」
「……ああ」
「仕事増えとるんやろなとは思っとった」
新兵衛さんは紙を一束持ち上げた。
「紙が増えたら、書くことも増えとるいうことや」
なるほど。紙屋には紙屋の見え方があるらしい。
「……せやな」
「ほな、頑張りや」
「はい」
俺が頭を下げると、新兵衛さんはまた笑った。
「しかし、お澪を寄越せ、か」
「……何で知っとるんです?」
「善次郎が先に来た」
「アイツ!」
新兵衛さんは声を上げて笑った。
「言い方、もうちょっと考ええよ」
「今日それ何回言われるんや!」
◇
榊屋へ戻る道で、善次郎が追いついてきた。
「おう、虎松」
「お前なあ!」
「何や?」
「新兵衛さんに何言うた!」
「お前が言うたこと、そのまま」
「余計なことすんな!」
「何でや。ちゃんと話通しといたんやぞ」
「通し方!」
善次郎が笑う。
「えらい大仕事したな」
「何が?」
「うちの人、引っ張ってった」
「まだ試しや」
「それでもや」
善次郎は少し笑った。
「職人増やす話やったら、何遍もしたけどな」
「うん」
「帳面付ける人間欲しい言うたん、初めてちゃう?」
「……せやな」
言われてみれば、そうだった。
これまで俺が人を増やしたいと思った時、頭に浮かぶのはいつも職人だった。銃身を作る人間、台木を削る人間、金具を仕上げる人間、検査をする人間。工房を大きくするというのは、そういう人間を増やすことだと思っていた。
だが、作る仕事が増えれば、その前後の仕事も増える。材料を買い、受け取り、数え、外へ渡す。戻ってきた物を確かめ、使った数を記録する。職人が何人いても、材料がなければ作れないし、完成した物が何個あるのか分からなければ、次に何個作ればいいのかも決められない。
宗次郎は、その全部を一人で引き受けていた。
「で、宗次郎には何て言うん?」
善次郎が聞いた。
「……考え中」
「一番大事なとこやろ」
「分かっとるわ!」
善次郎が笑う。俺も笑い返したが、頭の中では、昨日の宗次郎の顔が浮かんでいた。
◇
榊屋へ戻ると、宗次郎は机の前で帳面を付けていた。残り六挺の材料は揃いつつある。新八が仕上げた地板の数を確認し、明日の組立に必要な物を書き出しているところだった。
「宗次郎」
「はい」
「ちょっとええか」
「何でしょう」
宗次郎が筆を置いた。俺は向かいに座り、善右衛門の店へ持っていった紙を広げた。
「お前の横に、人入れることにした」
宗次郎の表情が止まった。
「……はい?」
「帳面と、材料の出入りを見てもらう人や」
「……私の仕事を、ですか?」
「全部ちゃう」
宗次郎は黙って俺を見ている。
「お前には、これからも仕事の段取り考えてもらう。何をいつまでに何個作るか、どの工房へどれだけ頼むか。それは、お前が一番よう分かっとる」
「……はい」
「でも、材料が入ってきた時に数えるとか、外へ渡した時に控え取るとか、戻ってきた物を確かめるとか。そういうのまで、全部お前がやらんでもええやろ」
宗次郎は紙へ目を落とした。
「材料が入ってきたら、別の人が数える。外へ渡したら、控えを取る。戻ってきたら、受け取った数を確かめる。その数字を使って、お前が次の仕事を考える。そんで、数字がおかしかったら、二人で確かめる」
宗次郎はしばらく黙っていた。それから、小さく聞いた。
「……私では、足りませんか?」
胸の奥が、少し痛んだ。
宗次郎は、まだ昨日のことを引きずっている。当然だ。自分の仕事を間違えた翌日に、兄が別の人間を連れてくると言い出したのだから。
俺は一度息を吸った。
「足りへん」
宗次郎が顔を伏せた。
「……はい」
「お前の腕が足りへんのちゃう。仕事の量が、一人分ちゃうんや」
宗次郎は顔を上げなかった。
「俺、昨日あの帳面付けてみたんよ」
「……兄上が?」
「うん。お前が帰ったあと」
「……どうでしたか」
「全然あかんかった」
宗次郎が少しだけ顔を上げた。
「何がどこに書いてあるかは、見たら分かる。でも、何か一つ変わった時に、どの帳面を直せばええんか分からへん。お前ならすぐ答えることを、俺は何冊も開いて考えなあかんかった」
「……慣れれば、分かります」
「そうかもしれん。でもな、慣れた人間が一人おるだけやったら、その人間が間違えた時に誰も気付かへんやろ」
宗次郎は黙っていた。
「昨日の二十枚も、誰かがもう一遍確かめとったら、気付けたかもしれん」
「……はい」
「せやから、数える人と、数を使って段取り考える人を分けたいんや」
俺は紙を宗次郎の方へ押した。
「お前の仕事、なくすつもりはない。むしろ、これからもっと頼みたい」
「……もっと、ですか」
「うん。今度は、一人で抱えんでええ仕事をな」
宗次郎が紙を見た。しばらくして、少しだけ口元が緩んだ。
「兄上は、また仕事を増やすおつもりなんですね」
「……まあ、そうなるな」
「善次郎さんみたいです」
「それは言いすぎやろ!」
宗次郎が小さく笑った。昨日の夜には見られなかった顔だった。ただ、笑ったあとも、紙を見つめる目は真剣だった。
「……どなたが来るんですか?」
「お澪」
「……善右衛門様のところの?」
「うん」
「新しい工房の図面を、一緒に考えてくださった方ですね」
「そう。新居の方も手伝ってもろたし、ネジの検査もしてもろた」
「……なるほど」
宗次郎は少し考え込んだ。
「お澪さんは、引き受けてくださったんですか?」
「まずは一月、試しにな」
「善右衛門様も?」
「話は付けた。新兵衛さんにも」
宗次郎が俺を見た。
「兄上」
「ん?」
「勝手に決めたんですか?」
「本人には聞いたで」
「私には?」
「……今、聞いとる」
宗次郎はしばらく黙っていた。それから、深く息を吐いた。
「順番が逆です」
「……せやな」
「先に私に話してくだされば、何をお願いしたいか、一緒に考えられたのに」
「……ほんまやな」
俺は頭を掻いた。
宗次郎はもう一度紙を見た。
「ですが……」
「うん?」
「物の出入りを見てくださる方がいるのは、助かります」
俺は宗次郎を見た。
「ほんま?」
「はい。私も、今のままでよいとは思っていませんでした」
宗次郎は少しだけ笑った。
「昨日、兄上に言われてから、考えていたんです」
「何を?」
「どうすれば、同じ間違いをしないで済むか」
宗次郎は帳面を開いた。そこには、いつもの数字の横に、新しい印がいくつか書き込まれていた。
「外へ渡した材料は、別の人にも数を確かめてもらう。戻ってきた時も同じです。それから、材料を買う数を決める時は、必ず手元の数を見直す」
「……うん」
「でも、誰にお願いすればよいか分からなくて」
宗次郎が顔を上げた。
「兄上が、人を探してくださったんですね」
「……まあ、そういうことや」
「ありがとうございます」
俺は少し困った。礼を言われるようなことではないと思った。そもそも、宗次郎に仕事を集めすぎたのは俺なのだ。もっと早く気付くべきだった。
だが、宗次郎は俺の返事を待たず、紙へ目を戻していた。
「では、お澪さんが来る前に、帳面を少し整理しておきます」
「……おい」
「はい?」
「また一人で全部やろうとしとらん?」
宗次郎の手が止まった。
「……あ」
「そこからやぞ」
俺が言うと、宗次郎は一瞬きょとんとした。それから、今度は声を出して笑った。
「……そうですね」
「せやろ」
「では、兄上にも手伝っていただきます」
「えっ」
「お澪さんに何をお願いするか、一緒に考えるんでしょう?」
「……せやな」
宗次郎が紙を二枚取り出した。
「では、まず今の帳面を全部並べましょう」
「全部?」
「はい。どの数字を誰が確かめるのか、決めないといけませんから」
俺は机の横に積まれた帳面を見た。昨日の夜、俺を散々悩ませた山である。
「……結構あるで?」
「知っています」
「今日中に終わる?」
「兄上が逃げなければ」
「信用ないなあ!」
宗次郎が笑いながら帳面を一冊差し出した。俺はそれを受け取り、机へ置いた。
昨日まで、宗次郎はこの帳面を一人で開いていた。今日は、俺も隣に座っている。明日からは、もう一人増える。
まだ何も解決していない。帳面の数が減ったわけでも、残り六挺の仕事が終わったわけでもない。それでも、少しだけ変わったことがある。
宗次郎が、全部を一人で数えなくてもよくなる。
そのための仕事を、今度は俺たち二人で始めるのだった。




