炉還りは東へ歩き始めます
王都の東門を出て半刻ほど歩くと、城壁の上に並んでいた旗はもう振り返らなければ見えなくなり、街道の左右には麦の若い緑と、冬のあいだ休ませていた黒い畑が交互に広がっていた。路肩に雪の白さはもう残らず、空には薄い雲が流れているものの雨の気配はなく、低い石垣の向こうでは農夫が二頭の牛をゆっくり畝へ入れている。
レオンは歩幅を落とさず、少し前を歩くキュウの尾が道端の杭へ当たらないことを確かめてから、ようやく王城を出るまでの光景を思い返した。
ルシアンは近衛へ命じ、私室から東側の小門まで人を遠ざけてくれていた。おかげで若竜を王の私室から連れ出したところを誰かに見られることはなかったが、人の消えた長い廊下をキュウが翼を畳んで歩き、その後ろをベラとロアンが荷を背負って続く姿は、秘密を守っているというより王宮を貸し切ってふざけているようにしか見えなかった。
「王様の私室から若竜が出てきた時点で十分おかしいけれど、近衛の人たちが全員真顔だったのが一番おかしかったね。僕まで笑ったら失礼だと思って、天井ばかり見て歩いてしまったよ」
「そのせいで柱へぶつかりそうになってたじゃないか。キュウの方がよっぽど行儀よく歩いてたから、王宮へ連れていくなら次からあんたに縄を付けた方がいいね」
「僕だけ扱いが罪人みたいになっているけれど、この先もちゃんと自分の足でついていくつもりだよ」
ベラが鼻で笑い、ロアンは肩から下げた精霊リュートの位置を直した。キュウは自分が褒められたところだけ拾ったように高い声を上げ、そのまま街道の先へ数歩駆けてから翼を開いた。
左右へ広げた翼は冬に生えたばかりの頃より明らかに長くなっており、数度強く羽ばたくと黄土色の身体が人の背丈を越えて浮かんだ。以前のように地面すれすれを真っ直ぐ滑るだけではなく、街道の上で緩く右へ弧を描き、畑の端まで出ると身体を傾けて戻ってくる。
「街道の先を見てくれ。ただし人家の真上には入るな。何か見つけたら、一度こっちへ戻って知らせろ」
「キュウが上を見てくれるなら、僕は横と後ろの音を拾うよ。空まで同時に気にして歩くより、その方が聞き逃しも減ると思う」
ロアンは耳へ手を当てるような大げさな仕草をせず、普段と同じ歩き方のまま周囲の音へ意識を向けた。街道には荷馬車の車輪と蹄の跡が重なっており、遠くからは鍬の当たる乾いた音と、用水路を流れる水の音が届いている。
最初の一日は、東方の道を自分たちの足で確かめるため徒歩で進むと決めていた。雪解けの水がどこまで残っているかは王都の地図だけでは細かく分からないため、馬や馬車を使う区間も実際の道を見てから選ぶつもりだった。
城壁が完全に見えなくなったところで、レオンは街道脇の石標へ寄り、肩掛け鞄から王都で写してもらった地図を取り出した。紙を石の平らな上へ広げると、ロアンとベラも左右から覗き込み、上空を回っていたキュウも一度降りてきて、地図ではなく三人の間へ鼻先を差し込んだ。
「先に全体だけ話しておく。俺たちは一番短い道を東へ抜けるんじゃなく、アルバが立ち寄ったと確認されている場所を順に追う。王都が宿の記録や関所の記録を照合して、確実なところには印を付けてくれている」
レオンは王都に近い丸印から東へ指を滑らせ、川の多い低地を越えた先の大きな町、さらに森林地帯の手前にある町へ順番に触れた。
「印のある町では、アルバが立ち寄った宿や役所へ行く。当時なにか変わったことがなかったか、その後に東から新しい情報が来ていないか、この先の道と魔物がどうなっているか。その三つを聞く」
「王都の人が一度調べた場所を、僕たちがもう一度たどるわけだね。宿の主人が思い出すこともあるし、東から来た旅人が続きを知っているかもしれないから、聞き直す意味はありそうだよ」
レオンは二人のやり取りをそのままにして、地図の北東寄りへ指を移した。王国の街道が大きな森林の外側へ近づくところには、エイルが前日に示した印も書き足してある。
「この森へ入った先にエイルとリュネの里がある。王都の調べではアルバもそこへ立ち寄っているから、近くまで来たら二人にも同行してもらう。里の者なら、街道沿いの役人が知らない森の話も持っているかもしれない」
「エイルたちの故郷に勇者が寄っているなら、そこは飛ばせないね。本人を覚えている人がいれば、紙の記録より細かいことを聞けるかもしれないよ」
「その先で森を抜ければ、大きな交易路へ出る。道が生きている区間では乗合の馬車を使って距離を稼いでもいいが、さらに東へ行けば街道が細くなって魔物も強くなるらしい。そこから先はまた徒歩だ」
ベラは地図の端から端まで眺めてから、東の山脈へ指先を置いた。
「何も起きず、道も聞いた通りに使えたとして、ドレヴァまでどのくらい見るんだい。毎晩帰れるなら食料の心配は少ないけど、行き先の遠さくらいは頭に入れておきたいよ」
「一月半くらいだ。途中で新しい足取りが出れば道を変えるし、森や湿地で迂回すればもっと延びる。今日みたいな道がずっと続くと思わない方がいい」
レオンが地図を畳み直すと、キュウはようやく鼻先を引き、待っていたように翼を広げた。地面を蹴って浮き上がった身体は街道の上を一度横切り、そのまま東の空へ高度を取っていく。
◇
昼が近づくにつれて街道は緩い下りへ入り、畑の間に細い水路と湿った草地が増えていった。石を敷いた中央は乾いているものの、荷車が避け合った路肩には深い轍が残り、その底には昨夜までの雨水が濁って溜まっている。
馬なら歩けないほどではないが、速度を出したい者には向かない道だった。二頭立ての馬車が前方から来ると、御者は轍へ車輪を落とさないよう中央を譲らず、レオンたちの方が石敷きから外れて草地へ寄る必要がある。
「この辺りで馬を何頭も借りても、結局こういう場所で一列になって歩くことになるね。あたしは馬の上で泥へ落ちるより、自分の足で避ける方が気楽だよ」
「ここはバルトを呼ばなくて正解だったな。乾いた街道へ出るまでは、このまま歩こう」
レオンが答えた直後、少し前を歩いていたロアンの足が止まった。顔は街道の先へ向けたままなのに、視線が上方をさまよっている。
「キュウの羽音とは別に、もう一つ大きな翼が鳴っているよ。北側から高く回って、こっちの上へ入ろうとしている」
レオンが空を見上げるより早く、東側を飛んでいたキュウが身体を翻した。青空を背にした黄土色の腹が一瞬見え、その向こうから灰色の大きな鳥影が雲の下へ滑り込んでくる。
翼を広げれば荷車の幅を越え、首から胸へ灰黒い羽が密生している。曲がった嘴と前へ突き出した鉤爪を見たところで、レオンには何の魔物か分かった。
「警戒しろ《灰鉤鷲》だ。地上へ降りてきたら俺とベラで落とすぞ」
レオンは剣へ手を掛け、ベラも短杖を抜いた。しかし灰鉤鷲は地上へ降りず、上空のキュウへ向きを変えて翼を畳み、斜め下から爪を突き上げるように速度を上げた。
キュウは逃げるように高度を取らず、翼を二度強く打って身体を横へずらした。すると胸の前に何もなかった空間へ黄褐色の粒が集まり、人の頭ほどある粗い石塊が一息で形を作った。
レオンがその石を認識した時には、もうキュウの前から消えていた。短い破裂音が空へ響き、一直線に飛んだ石塊が灰鉤鷲の胸と片翼の付け根をまとめて打ち抜く。
灰色の翼が途中で折れ、魔物は鳴き声を上げる間もなく回転しながら畑の外れへ落ちた。キュウは落下した相手を追って低く一周したが、地面へ降りて嘴を突くようなことはせず、レオンたちの真上へ戻って大きく旋回している。
「今の石、地面から拾ってないよね。何もなかったところへ急にできて、そのまま飛んでいったように見えたんだけど」
ロアンとベラへ返事をする前に、レオンは畑の畦を越えて灰鉤鷲の落ちた場所へ向かった。胸の羽は広く潰れ、片翼の骨まで折れているため、近づいても動く気配はない。
剣の柄で嘴を押して反応がないことを確かめたところで、耳の奥へミラの声が届いた。
「レオンさん、今キュウに新しい技能ができたと帰り火さんから知らせが来ました。《石礫 Lv1》という技能で、魔力から石を作って飛ばすものだそうです」
「こっちでも見た。魔力で作った石を飛ばして、《灰鉤鷲》をそのまま落とした。Lv1でこれなら、角狼でもまともに食らえば一発だぞ」
「帰ってきたら、キュウにもおめでとうと言いますね。それと皆さん、お昼はもう食べましたか。今日は東方組にも聞く約束でしたので、忘れていたら今から休んでください」
レオンがベラへミラの問いを伝えると、彼女は短杖を腰へ戻しながら当然のように頷いた。
「今から街道へ戻って食べさせるところだよ。ロアンも座らせてパンを口に押し込むから、ミラは五層へ行った連中の方も忘れず気にしてやりな」
「分かりました。こちらもあとで聞いてみますので、皆さんは慌てず休んでから進んでください」
レオンは灰鉤鷲の魔石を抜かず、死骸へ手を触れたまま《空間収納宝珠》へ収めた。上空のキュウへ手を振ると、若竜はようやく高度を落とし、畦を避けて街道脇の草地へ降りてくる。
着地したキュウは翼を畳むなりレオンへ頭を押しつけてきた。昔よりずっと高い位置から押されるため、レオンは片足を後ろへ引いて踏ん張り、首の鱗を乱すように強く撫でる。
「初めて使ったにしては上出来だった。次も味方がいる方向へ石を飛ばさないことだけは覚えてくれ」
「その顔じゃ、褒められたって分かってるね。昼の肉を増やせって言われてる気がするね」
ベラが笑いながら街道脇の乾いた場所へ布を広げると、レオンは《空間収納宝珠》から昼食を取り出した。朝にベラが焼いた肉と野菜はまだ温かく、蓋を開けた鍋から湯気が立つ。キュウの分だけ肉を多めによそい、人間三人も朝とほとんど変わらない温度の食事を囲んだ。
◇
午後は大きな魔物と出会わず、街道を東へ進むほど王都へ向かう荷車より、地方の町へ穀物や布を運ぶ荷車の方が多くなった。途中の小村にはアルバの確認記録がなかったため、井戸の場所と次の橋の状態を聞き、立ち止まる時間は長く取らなかった。
キュウは昼のあとも何度か飛び、午前より少し低い高さで一行の前後を往復した。灰鉤鷲を落とした時のような石は二度目には作らず、畑へ人がいる場所では街道の真上を避け、開けた牧草地へ出た時だけ大きく旋回する。
日が西へ傾くころには、王都から続いていた石敷きの幅も少し狭くなり、道の北側には低い雑木林が長く続くようになっていた。レオンは地図と周囲を見比べ、街道から少し外れた木立へ入り、半ば屋根の落ちた古い水番小屋を見つけた。石壁と床は残っているうえ、街道から直接は見えないため、今夜の前線点には都合がよかった。
「今日はここまでにする。最初の日から暗くなるまで距離を欲張る必要はない」
「今日はこのくらいでちょうどいいよ。毎日歩くなら最初から張り切って足を棒にするより、明日も同じ調子で動ける方が助かるからね」
ベラは靴紐を緩めながら答え、ロアンも水番小屋の石壁へ背を預けて脚を伸ばした。キュウにはまだ余力があるらしく、空き地の草を鼻先で分けながら何か食べられるものを探している。
レオンは水番小屋の石床へ立ち、王の私室に残している一つ目とは別の枠を選んで《仮帰還点》を登録した。石壁と街道までの向きを確かめてから全員を近くへ呼ぶ。
「この場所を前線の《仮帰還点》へ登録した。明日の朝に戻って来れば、今日歩いた分を毎晩やり直さずに済む」
「一月半の旅なのに、今夜の風呂と寝床はいつも通りっていうのは、やっぱり変な感じがするね。旅人としては贅沢すぎて、少し申し訳なくなるくらいだよ」
レオンは二人がまだ言い合える程度には疲れていないことを確かめ、キュウも呼び戻した。全員が近くへ集まったところで《最初の火》を帰還先に選ぶと、崩れた水番小屋の石壁が橙色の光へ沈み、次の瞬間には帰り火の熱が頬へ戻ってきた。
◇
洞窟へ戻った時には、第五層組の四人もすでに洗い場を出ていた。長卓の端ではリュネと王都の薬師が、蓋付きの容器を二つ並べて採取記録を整理していた。片方には銀色の葉脈が走る《銀脈草》の葉、もう片方には赤く透き通った《朱露実》が二つ、潰れないように収められている。どちらも特級薬の原料と確認されたもので、薬師は容器の封を開けず、採取場所や状態を帳面へ書き込んでいた。
少し離れた場所ではティルダとフレイが洗い場周辺の図を広げていた。朝にはなかった蓋付きの陶器や細長い瓶を横へ並べ、採取物を安全に開封するための作業場について、炭筆で寸法を取っている。
「レオンさん、お帰りなさい! こっちはすごい収穫だったよ。五層で特級薬の原料を二種類も見つけたんだから!」
リュネが声を弾ませると、レオンは並んだ容器を覗き込んだ。朱露実の赤い実は小指の先ほどしかなく、銀脈草の葉も手のひらに収まる大きさだ。
「その二つが特級品なのか。ずいぶん小さいな。エイルたちが持ち帰る荷物に困ってるって聞いたから、もっと大きな物を想像してたぞ」
「大きな素材もたくさんあったんだけど、それ以上に危ないものが多かったの。朱露実なんて、触れただけで身体が痺れる蔓に囲まれてたんだから。フレイが凍らせてくれなかったら採れなかったよ!」
隣の薬師も頷き、二つの容器をレオンたちへ向けた。
「銀脈草は特級解毒薬、朱露実は重度の麻痺を治療する薬に用いる原料です。王都でも入手が難しく、特にこれほど傷みの少ない朱露実が手に入る機会は滅多にありません。薬効の試験はこれからですが、原料の状態としては申し分ありません」
「重い麻痺まで治せるのか。それなら、王都の治療所でも欲しがるだろうな」
「ええ。通常の解毒薬や麻痺回復薬では治療が難しい患者にも、薬の調製次第では使える可能性があります。ただ、この量で作れる薬は限られます。安定して採取できるようになれば、治療できる患者も増やせるでしょう」
リュネは銀脈草の容器を指し、嬉しそうに笑った。
「これだけ毒だらけの場所なのに、解毒薬の材料まで生えてるんだよ。まだ調べたい植物もいっぱいあったし、明日はもっと採取道具を持っていきたいな」
「明日は植物に詳しい薬師を一人連れてくる予定です。私も採取記録を確認していますが、実際にどのような場所へ生えていたのか、専門の者に調べてもらいたいのです。次の探索では、その者も同行させていただけませんか」
薬師の頼みに、エイルは壁へ立て掛けていた弓へ目を向けてから頷いた。
「明日は俺が先頭を歩く。リュネが採る物を決めて、薬師には生えている場所を見てもらえばいい。今日通った道なら危ない株の位置も分かっているから、初めて入る人間を連れていくならその方が安全だ」
「私と姉ちゃんは明日は残るよ。洗い場の横に部屋作って、薬草と毒液を別々に扱える台を作りたいし、今日なくなった瓶と蓋付きの容器も数を増やさないと、また同じところで荷物がいっぱいになるからね」
「容器は形も分けよう。毒液用は倒れても漏れにくい細口、葉と根は取り出しやすい広口にして、胞子を持ち帰るなら蓋を二重にできる物を試したいよ」
ティルダが図の端へ三種類の口を書き足し、フレイはその横に必要数を記していく。
レオンも王都の地図を開き、今日登録した《仮帰還点》の位置へ印を足した。明朝はそこへ戻って東進を再開すると伝えると、ミラは東方組の欄へ同じ印を書き写した。
話を聞いていたミラがキュウの方へ歩き、首の下を両手で撫でた。
「《石礫》を覚えたんですね。突然帰り火さんから知らせが来たので驚きましたけど、怪我をしないで戻ってきてくれてよかったです」
キュウは喉を鳴らしながらミラの肩へ鼻先を寄せ、そのまま撫でる手へ身体を預けた。大きくなったせいで、ミラの方が少し押されて足をずらしている。レオンはその様子を見て、昼から引っかかっていたことを思い出した。
「そういえばキュウの技能って、今はどうなってるんだ。こいつは職業札がないんだから、帰り火に聞けば今の状態を教えてもらえるんじゃないか」
「では、帰り火さんに今のキュウを聞いてみますね。職業と技能をまとめて教えてください」
ミラはキュウの首へ片手を置いたまま帰り火へ顔を向け、しばらく白い文字を追ってから一つずつ読み上げた。
「今の職業は《若竜》で、技能は《愛嬌 Lv4》《飛翔 Lv3》《地響感知 Lv2》《石礫 Lv1》だそうです」
「《石礫》を覚えた日なのに、一番高いのが《愛嬌 Lv4》なのかい。あんた、身体も翼も大きくなったのに、そこだけは昔から伸び方が変わらないね」
ベラに言われたキュウは胸を張るように首を上げてから、今度はレオンの方へ歩いてきた。昼と同じ勢いで頭を押しつけられ、レオンは椅子の脚を鳴らしながら片足を後ろへ引き、黄土色の首を両手で受け止めた。




