吟遊詩人は勇者の噂を集めます
王都を出てから数日が過ぎたころ、ロアンは街の屋根を見るよりも、荷車の車輪と金槌と鐘の音を聞いた。
東へ延びる街道は朝から乾いていたが、道端の低い畑にはまだ雪解けの水が残り、車輪の深い轍が黒く湿っている。前を歩くレオンの外套にも、ベラの裾にも、ここ数日で乾いては落ちた泥の跡が薄く残っていた。
遠征を始めてから、朝は洞窟で食べ、前日の《仮帰還点》へ戻って続きを歩き、夕方になると新しい地点を登録して洞窟へ帰る日が続いていた。昼にはベラが朝に作った料理を《空間収納宝珠》から出すので、街道の脇でも湯気の立つものが食べられる。夜は風呂へ入り、自分の寝台で眠れるため、旅をしているのに野営だけが抜け落ちたような妙な日々だった。
五層の方も止まっておらず、夕食の席ではリュネと王都の薬師が持ち帰った葉や根を並べ、エイルが翌日の採取場所を地図へ書き足していた。洗い場の横に増えた処理室では、双子が据えた薬草用と毒液用の作業台が離され、蓋付きの陶器や瓶も棚ごとに分けて置かれるようになっている。
「町へ入る前に、キュウは洞窟で待ってもらおう。あの翼で門をくぐったら、今日は勇者よりキュウの話しか集まらなくなる」
レオンが街道脇の木立へ入り、人目のない場所を探しながら言った。
「それはたぶん正しいね。僕だって、自分の町に若竜が歩いてきたら、去年泊まった勇者よりそっちしか気にならないよ」
ロアンが答えると、頭上を低く旋回していたキュウが降り、土を蹴って三人のそばへ寄ってきた。飛ぶ姿は初日よりさらに落ち着いて見えるが、着地したあとの鼻先はいつも通り食べ物を探している。
レオンは前日の前進点を消して木立の奥へ《仮帰還点》を登録し直し、四人まとめて洞窟へ戻った。キュウをミラへ預けてから、レオン、ロアン、ベラの三人だけでもう一度同じ木立へ移る。
戻った時には、キュウがいないだけで街道が急に静かになったように感じられた。
◇
街道町ラヴィエは、王都から東へ向かう商人が最初に体を休ませる町だった。
石壁こそ王都ほど高くないが、東西の門を結ぶ大通りには二階建ての宿と倉庫が並び、荷車が二台すれ違ってもまだ人が歩ける幅がある。広場では穀物袋の口を開けて量り売りする商人の横で、鍋から湯気を上げる屋台が客を呼び込み、その向こうでは三弦の小さな楽器を抱えた男が、足で板を踏みながら速い曲を弾いていた。
ロアンは門を入って十歩も進まないうちに、その三弦へ耳を取られ、肩から下げた精霊リュートの棹へ指を添えた。高い二本が旋律を追い、一番低い弦だけが同じ音を何度も返している。足元の板は踵で踏むたび乾いた音を出し、弦の低音とずれる寸前でまた重なった。
「ロアン、今日調べるのは楽器じゃないぞ。宿は広場の向こうだから、歩きながら聞ける分だけにしろ」
「分かってるよ。ただ、あの人は低い弦をほとんど動かさないんだ。夜にもう一度通れたら、どうやって踊りの拍を合わせてるか聞いてみたいね」
「夜まで覚えてたらにしな。聞き込みを始めたら、あんたは別の話を十個くらい抱えて戻ってくるんだから」
ベラに言われ、ロアンは楽師の方をもう一度だけ振り返ってから歩いた。
王都から渡された記録では、アルバは一年あまり前、この町で一泊している。泊まった宿も分かっており、三人は広場に面した《白穂亭》へ入った。
昼前の食堂にはまだ空席が多く、宿の主人は帳場で麻紐を束ねていた。レオンが一年あまり前の勇者アルバについて旅程を確かめていると説明し、その名を出すと、主人はすぐに顔を上げた。
「勇者様なら覚えてますよ。あれだけ立派な装備の人が泊まれば、一年やそこらじゃ忘れません。もっと偉そうな人かと思ってましたけど、自分で泥を落としてから入ってきたのが意外でしたね」
「本人と話したなら、その時に東へ行く理由も聞いていますか。王都の記録では、魔族について調べる任務だったそうですが」
ロアンが尋ねると、主人は紐を帳場へ戻し、少しだけ考えた。
「詳しい話までは聞いてませんが、東の魔族と街道の様子を調べると言ってましたよ。こっちが、見つけたら勇者様が退治してくれるんでしょうって聞いたら、危険なら対処しますって普通に答えてました」
危険なら対処するという返事にも、ロアンは妙なところを感じなかった。魔族は人間の敵で、勇者は人間を守る側にいる。ロアン自身、子どものころからそう聞いて育った。魔族を見たことはなくても、東へ行くほど魔物が強くなるという話は旅の途中で何度も聞いており、そのさらに向こうに魔族の土地があることも、疑うような知識ではなかった。
「食事や酒で、何か覚えていることはありますか。本人の癖みたいなものでも、どうでもよさそうなことでも構いません」
「どうでもいいことなら、夕飯の豆煮込みを二杯食べましたね。酒は麦酒を一杯だけで、酔って騒ぐような人じゃなかった。朝は卵とパンを食べて、代金も普通に払ってます」
「靴を買い替えたって話を聞いたんだけど、それはこの宿でしたか?」
「それは知りませんね。うちへ来た時の靴は……覚えてないな。誰か別の旅人と混ざってるんじゃないですか」
最初の半刻で分かったのは、アルバが豆をよく食べ、酒は一杯で止め、宿代を踏み倒さなかったということだった。
レオンは宿帳の該当日を見せてもらい、宿泊した日と翌朝に東門から出たことを確かめた。筆跡を見てもロアンには何も分からず、主人も、勇者本人が名前を書いたのか従業員が代筆したのかまでは覚えていなかった。
宿を出ると、広場の楽師はまだ同じ曲を弾いていた。今度は低い弦が半音ほど上がっており、ロアンは足を止めかけたが、ベラが向かいの屋台を見たので、そちらへ意識が移った。
鉄板の上では薄い生地に刻んだ根菜と肉を載せ、端から折って焼いている。焦げた粉と脂の匂いに、酸味のある香草の匂いが混じっていた。
「ベラ、あれは洞窟で作ったことないよね。生地を先に焼かずに、具を包んでから両面を焼いてるみたいだよ」
「あたしも見てたよ。あの薄さなら火が通るのが早そうだね。昼に一枚買って、包み方だけ勉強してみようか」
「聞き込みの途中に食べ物を調べるのは、ちゃんと仕事の範囲に入るのかな」
「昼飯を抜かないのは仕事以前の話だよ。あんたは人の話を聞き始めると、時間を忘れるんだからね」
ベラはそう言いながら屋台へ寄り、焼き上がったものを三枚買った。紙に包まれた一枚をロアンへ渡し、もう一枚をレオンへ押しつける。
ロアンは受け取った包みの温かさを手のひらで感じながら、ベラの横顔を見た。ロアンはベラが好きだったし、そのことはもう自分でもはっきり分かっていたが、いつからそうなったのかまでは思い出せなかった。
それでも、ベラが自分を好きだとは思っていない。食事を忘れれば食べろと言い、酒を飲みすぎれば止め、寝坊すれば起こす。ベラはそういう世話を必要とする相手を放っておけない人で、ロアン自身も、自分がその中でもかなり手の掛かる問題児だと分かっていた。
自分にはまだ、ベラへ好きだと伝えて同じ気持ちを求める資格はないとロアンは思っていた。せめて、世話を焼かせてばかりの男ではなくなってからでなければ、付き合ってほしいとは言えない。
「何を止まってるんだい。冷める前に食べて、次の店へ行くよ。あたしはこの包み方を覚えたいんだから、端からこぼすんじゃないよ」
「ちゃんと食べてるよ。今日はベラに昼を思い出させてもらう前に、もう腹も減ってたからね」
「それなら少しは進歩してるじゃないか。味まで覚えて帰れたら、夕飯がおいしくなるよ」
ロアンは言われた通り包みの端を押さえ、熱い肉汁を落とさないように食べた。
◇
午後は、話を聞く相手の数だけ情報が増えたのに、アルバについて分かることはほとんど増えなかった。
広場の雑貨屋は、勇者が紙を買ったと隣の店から聞いたと言った。隣の店へ行くと、買ったのは紙ではなく封蝋だった気がすると言われ、その店主自身はアルバの顔を見ていない。
鍛冶屋では、勇者が剣を研ぎに出したという話を聞いたが、親方は「うちで研いだ剣じゃないよ。誰か別の店と混ざってるんじゃないか」と否定した。弟子の一人は立派な剣を見た覚えがあると言ったものの、その日は王都から騎士も二人泊まっており、誰の剣だったかは自信がないらしい。
市場の果物売りは、アルバが子どもへ林檎を買ってやったと断言した。ところが隣の乾物屋は梨だったと言い、さらに向かいの女は「勇者じゃなくて、連れの商人が買ってやったんだと思うよ」と話した。王都の記録ではアルバに商人の同行者はいないので、その話は早々に脇へ置いた。
その一方で、広場の食堂にいた年配の女は、夕食時に母親と子どもが一つの皿を分けているのをアルバが見つけ、店へ二人分の代金を置いたところを自分で見たと話した。本人は名乗りもせず、追加の料理が届く前に席へ戻ったため、母親の方は最後まで誰が払ったか知らなかったらしい。
「一年も前の話を聞けば、こうなるよね。僕だって去年の今日に何杯飲んだか聞かれたら、たぶん自信を持って間違えるよ」
「そこは今でも間違えるだろうけど、証言が混ざるって話自体はその通りだね。見た本人と、人から聞いた話を分けて書いときな」
ベラに言われ、ロアンは帳面の端へ小さな印を二種類付けた。本人が見た話には丸、人づての話には短い線を引く。線の方があっという間に増え、丸はなかなか増えない。
酒場を三軒回るころには、アルバが酒豪だったという話と、酒をまったく飲まなかったという話まで両方出た。《白穂亭》の主人が本人へ麦酒を一杯出したという証言があるので、少なくとも後者は正しくない。
三軒目の酒場の壁際では、老人が「勇者は金髪の女と一緒だったよ。俺はここで二人を見たんだ」と妙に自信たっぷりに話したが、その女について聞いていくと、最後には「隣町から来た薬売りだったかもしれない」と声が小さくなった。
ロアンはその話を帳面へ書かず、代わりに酒場の隅で鳴っている笛へ耳を向けた。広場の三弦とは違い、こちらは同じ四音を何度も繰り返し、飲み客が知っているところだけ勝手に声を重ねている。誰も最初から最後まで同じ歌詞を歌わず、二番へ入るころには別の歌まで混ざっていた。
「この町の歌、ずいぶん自由だね。さっきから三人とも別の続きを歌ってるのに、笛だけは気にせず同じところへ戻ってるよ」
「ロアン、その話は帰ってから聞くから、今は勇者の話に戻りな。あそこの御者が、街道で本人を見たって言ってるよ」
ベラが顎で示した先に、日に焼けた男が一人で酒を飲んでいた。話を聞くと、その男は一年あまり前、町から半日ほど西の街道でアルバを見ていた。荷車を三台連ねた隊商の後ろを走っていた時、畑から大きな魔物が飛び出したという。
「組合ならB級冒険者を呼ぶような大猪型の魔物だったよ。俺たちは荷車を寄せるだけで精いっぱいだったのに、勇者様は一人で前へ出たんだ」
「そこはあなた自身が見たんですね。人から聞いた話じゃなく、アルバが戦ったところまで見ていますか?」
「見たとも。剣を抜いたと思った時にはもう横へ回ってて、猪が向きを変える前に首の下へ一発入れた。それで終わりだったよ。俺たちは武器を出す暇もなかった」
男は杯を置き、自分の腕へ残った古い擦り傷を見せた。魔物そのものにやられた傷ではなく、荷車から転げ落ちた時についたものらしい。
「倒したあと、勇者様は何をしていました? 魔石を取ったとか、報酬の話をしたとか、覚えていることがあれば何でもいいんです」
「まず横倒しになった荷車の下を見てたよ。子どもが一人挟まれかけてたから、そいつを出して、次に馬の脚を見てた。礼を言ったら、怪我人がいないならそれでいいって笑ってたな。素材は隊商の護衛に任せて、何も持っていかなかった」
「そんな相手を一瞬で倒したのに、自分の手柄を話したりはしなかったのかい?」
ベラが尋ねると、御者は笑いながら首を横へ振ってから杯を置いた。
「こっちは勇者様だって騒いだけど、本人は困った顔してたくらいだよ。町まで一緒に来るかって聞いたら、歩く方が気楽だって先へ行っちまった」
御者の話は、今日聞いた中では珍しく最初から最後まで本人が見たものだったので、ロアンは帳面の丸印を一つ増やし、その横へ《街道・本人確認》と書き足した。
◇
夕方になると、広場では十人ほどの子どもたちが木の棒を剣にして走り回り、一人が勇者役、三人が魔物役をしていた。少し離れたところでは角の代わりに枝を頭へ載せた子が腕を組み、魔物役へ向かって何か命令している。
「魔族なら後ろで見てないで、もっと魔物を出さないと勇者に負けるだろ!」
「三匹も出したんだから、次は勇者が負ける番だよ。ずっと勇者が勝つのはずるいじゃん!」
言い合いながら、次の瞬間には全員で勇者役を追いかけ始めた。
ロアンにも、似たような遊びをした記憶があった。魔族役は魔物を連れてくる側で、勇者に倒される役だった。その決まりを誰が最初に教えたのかまでは覚えていないし、考えたこともなかった。
「東の方じゃ、子どもの遊びまで少し物騒だね。王都の近くなら魔物役だけで終わりそうなのに、もう魔族まで出てくるんだ」
「この辺でも東の話はよく入るんだろ。兵にいた頃は、魔族が出たって知らせが来るだけで、魔物一匹の時とは警戒の人数が変わったよ。あたしも実物を見たことはないけど、見つけたら近づかず兵へ知らせろって教わったね」
ベラは子どもたちを眺めながら言い、そのまま屋台で買った香草の包みを鼻へ近づけた。昼の薄焼きに使われていたものと同じ香りだったらしく、夕飯で試してみるつもりだという。ロアンはその包みを見て、昼に自分も気にしていたことを思い出した。
「それ、少しだけ刻んで肉へ混ぜたらどうかな。昼のは生地より具の脂に香りが移ってた気がするよ」
「帰ったら一緒に試してみようか。今日は歩き回ったんだから、あんたも包丁持つくらいは手伝いな」
「喜んで手伝うよ。食べる方だけ参加したら、また世話を焼かせることになるからね」
「当たり前だろ。手伝うなら帰ってから玉葱を刻みな。あたしは香草を調節したいからね」
ベラは香草の包みを畳んで買い物袋へ入れた。
ロアンは帳面を開き、丸印の少なさを指で追った。朝から町を歩き回っても、アルバ本人を見た者の話は数えるほどしかなかった。
「ここにいた頃のアルバは、ずいぶん品行方正な勇者だったみたいだね。こんな人が一年以上も戻らず、山域で足取りが消えるなんて、どこで何があったんだろう」
「王都の記録と食い違うところもない。次の町でも同じように、見た本人の話を優先して拾っていこう」
レオンはそう言い、帳面の余白へ次の町の名を書いた。ロアンはその文字の下へ線を引き、今日聞いた噂のうち確かめられなかったものを別の頁へ移した。広場では、さっきの子どもたちが役を入れ替えたらしく、今度は別の子が勇者役になって木の棒を振り回している。
広場の笛がまた同じ四音へ戻り、役を入れ替えた子どもたちの木剣が乾いた音を立てた。




