↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
勇者の帰る場所

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
81/84

炉守りは春の一日を歩きます

 レオンが王都で魔物を討ってから一年が過ぎ、エルネが男爵になってからも半年が経った。


 朝食の皿を厨房へ戻して外へ出ようとしたところで、ミラは洞窟の入口から三歩ほど手前で足を止めた。


 向こうから長い木材が二本、肩ほどの高さで入ってきたからだった。前を持つ若い男がミラに気づいて少し右へ寄り、後ろを持つ男も同じように身体をずらす。二人とも以前から顔を覚えており、片方は外の宿舎の床板を直している木工、もう片方は倉庫の荷棚を増やす手伝いに来ている男だった。


「ミラさん、おはようございます。長いのを通すので、そこだけ少し空けてもらえますか」


「おはようございます。私は急いでいませんから、お先にどうぞ」


 ミラが石壁へ背を寄せると、二人は礼を言って木材を運び込んだ。その後ろから今度は空の薬瓶を入れた木箱を抱えた女が来て、さらに外へ出ようとする三人と入口で譲り合いになった。


 一年前なら、朝の洞窟口で人とすれ違うこと自体が珍しかった。今は食事を終える時刻になると、荷を運ぶ者、外の作業へ向かう者、洞窟の中で仕事をする者が同じ入口を使うので、何人か続くこともある。


 ミラは最後の一人が通るまで待ってから外へ出た。


 春の陽はもう窪地の奥まで届いており、夜露の残った草と湿った土が白く光っている。馬房の前では二人が干し草を運び、倉庫では荷車から樽を下ろしていた。少し離れた工房からは金属を打つ音が続き、その手前を板を抱えた男が横切っていく。


 道の脇には紫や白の小さな花がまとまって咲いていた。


 食堂の席から眺められる平たい石の脇へ最初に蒔いた紫色の花は、種を取れるようになるたび少しずつ場所を増やしてきた。近くで採った野の花も、畑にも道にも使わない隙間へ植えているうちに、今では窪地のあちこちへ色が散っている。


 ミラは白い花の一株へしゃがみ込み、昨日まで閉じていた蕾が二つ開いているのに気づいた。その隣では細い茎が通路の方へ倒れかけていたので、土を指で寄せて根元を軽く押さえる。


「ミラさん、その花は昨日も咲いていたんですか? 朝はまだ閉じていたように見えましたけど」


 荷車から樽を下ろしていた男が、荷を抱えたまま声を掛けてきた。


「昨日はまだ蕾でした。今朝になって二つ開いたので、少し気になりました」


「俺には白い花が増えたくらいしか分かりませんけど、毎日見てると違うものなんですね」


「気づいてもらえたなら、植えた甲斐があります。もう少し増えたら食堂からも見えると思いますよ」


 男は樽を抱えたまま花の方へ顎を向け、それから笑って倉庫へ歩いていった。


 ミラも立ち上がったところで、馬房の方から乾いた板が倒れる音がした。


 猫族の少女リゼが木桶を抱えたまま片足を上げ、足元へ転がった薄板を避けている。その向かいでは犬族の少年ロルフが干し草の束を抱え、困ったように耳を横へ伏せていた。二人ともまだ若く、リゼの前掛けにも、袖を肘までまくったロルフの作業着にも、乾いた飼葉が細かく付いている。


「だから、その板をそこへ立てると倒れるって昨日も言ったじゃん。馬が蹴らなくても危ないよ」


「壁へ寄せたつもりだったんだよ。リゼが桶を下ろす時に当てたんじゃないかって言っただけだろ」


「当てたなら私だって音で分かるって。猫族の耳を何だと思ってるのさ」


 言い合いながらも、リゼは木桶をいったん地面へ下ろし、ロルフは干し草を抱えたまま倒れた板を足で避けており、どちらも本気で怒っているようには感じられなかった。


 ミラは二人のところまで歩き、地面へ倒れた板を拾った。


「この板、下の角が少し丸くなっていますね。壁へ立て掛けるより、横に寝かせた方が倒れなくてよさそうです」


「ほら、やっぱり立てる場所が悪かったじゃん。ミラさんも寝かせた方がいいって言ってるよ」


「その言い方じゃ俺が全部悪みたいだろ。リゼは都合のいいところだけ拾うなよ」


 二人がまた言い合いを始めたので、ミラは板の削れた角を指で撫でた。何度か倒れた跡らしく、木目が少し潰れている。


「誰が悪かったかより、次から倒れない場所が決まれば大丈夫だと思います。柱と水桶の間なら、通る人にも当たりませんよ」


 ロルフが板を柱の脇へ寝かせ直し、リゼも木桶を抱え直したところで、奥の馬房から鼻を鳴らす音がした。


 ミラはその声に誘われるまま、奥の柵まで歩いていった。


「エッダさん、今日はもう朝の分を食べましたか? 昨日はネラさんより少し遅かったですよね」


「今日はエッダの方が先でしたよ。リゼが飼葉を入れたら、待ちきれないみたいに顔を突っ込んできました」


 ロルフが答えながら馬房へ入り、干し草を端の棚へ載せる。ミラも柵の前へ寄ると、栗毛のエッダがゆっくり首を伸ばしてきた。


 腹は冬の初めよりはっきり丸くなっており、横からだと胴の下側が大きく張り出している。隣のネラも同じように腹が重そうだったが、こちらは飼葉よりミラの袖へ鼻先を寄せる方を選んだ。


「ネラさん、今日は服を食べても何も出ませんよ。花の種もまだ持っていませんからね」


 袖口を鼻で押されながら話すと、リゼが木桶を抱えたまま吹き出した。


「ミラさん、馬にもちゃんと敬語なんだ。バルトだけ特別なのかと思ってました」


「名前を知っている相手なので、呼び捨てにする理由もありませんよ」


「じゃあ仔馬が生まれて名前が決まったら、その子たちにも敬語で話すんですか?」


「名前を教えてもらえたら、たぶんそうします。生まれたばかりなら、最初は返事をしてもらえないでしょうけど」


 ロルフが声を立てて笑い、リゼも尾を振りながらネラの水桶を運び始めた。


 馬房の外側では、バルトが柵越しに三人の方へ顔を向けていた。


 父親になることを分かっているのかはミラにも判断できなかったが、最近はエッダとネラの馬房へ近づいても前ほど鼻を鳴らさなくなった。ミラが柵の向こうへ手を伸ばすと、バルトは一度匂いを嗅いでから額を寄せてくる。


「バルトさんも朝ごはんは終わったんですね。今日はレオンさんと出かけない日だと聞いています」


 額を撫でている間に、リゼとロルフの言い合いは飼葉の量の話へ移っていた。二人とも昨日の残りと今朝の分を別々に覚えており、最後には棚へ掛けた木札の数字まで突き合わせている。


 ミラはエッダの腹の張り方をもう一度確かめ、ネラの水桶が満ちたところまで付き合ってから馬房を離れた。


 十歩ほど進んだところで、何をしようとして外へ出たのか分からなくなった。


 立ち止まって腰の小袋を開くと、小さな木札が三枚入っている。朝食のあとに書いたのは、薬草棚の札、林檎の若葉、洗った布の乾き具合だった。


「最初は、薬草棚の札が乾いているか確かめに行くつもりでした」


 声に出してから、ミラは薬草を干している小屋の方へ歩き直した。


     ◇


 薬草小屋の前では、リュネが長い乾燥棚の一段を引き出し、葉を一枚ずつ広げていた。


 向かいには王都から来ている薬師が二人おり、片方は細い瓶へ乾いた葉を詰め、もう片方は木札へ名前と日付を書いている。以前はリュネとミラが使うだけだった棚も、今は高さの違う板が何段も増え、屋根の下には束ねた薬草が列になって吊られていた。


「ミラ、ちょうどよかった。昨日洗ってもらった札、まだ端が少し湿ってるみたいなの」


 リュネが木札の束を持ち上げると、文字を書く面は乾いているが、紐を通す穴の近くには水気が残っていた。このまま重ねれば、裏側へ湿り気が移りそうだった。


「では、少し広げますね。熱くしすぎると木が反るので、離して当てます」


 ミラは棚の空いている一段へ札を並べ、両手を少し離して向けた。《温風》で起こした弱い風が木札の上を抜け、吊るした薬草の葉先をわずかに揺らす。


 王都の薬師の一人が手を止め、乾き始めた木札へ指先を近づけた。


「そのくらいの風なら、乾燥棚でも使えそうですね。薬草そのものへ当てる時は、もう少し弱くできますか?」


「冷たい風にはできませんが、もっと弱くすることはできます。ただ、たくさん乾かすなら普通の風の方が楽だと思います」


「なるほど。急ぎの札や布には便利ですが、朝から人の魔力を乾燥棚代わりにするほどではないですね」


「私はこのくらいなら平気ですよ。でも、風がある日は使わない方が簡単だと思います」


 薬師が頷き、リュネは乾き始めた札を指先で一枚ずつずらした。


「王都の人は何でも仕事に使えないか考えるから、棚一つでも話が長くなるんだよね」


「リュネさんも昨日、葉の絞り方を三種類試していましたよね。あれも同じではないですか?」


「私は薬師だからいいの。そこを否定されたら、たぶん仕事の半分くらいなくなるもの」


 向かいの薬師まで笑い、ミラも木札の端へ指を当てた。もう重ねても湿り気が移らない程度まで乾いている。


「棚はこっちで戻すよ。今日は三人いるんだから、ミラがそこまで持っていくより、洗濯物と林檎を先に片づけてきちゃったら?」


 リュネは乾いた札を受け取り、そのまま向かいの薬師へ半分を渡した。二人がすぐ棚へ戻し始めたので、ミラも礼を言って薬草小屋を出た。


 洗い場へ向かう道の途中では、外の倉庫へ荷を運ぶ人と二度すれ違った。新しく建った宿舎の前では窓を開けて寝具を干しており、二階から長い布が一枚垂れ、下を通る男が手を上げて端を避けている。


 その向こうの荷捌き場には、朝に着いたらしい荷車が三台並んでいた。


 一本の道を塞がないよう斜めに止めてあるが、最後の一台だけ後輪が花の近くまで寄っている。ミラは御者へ声を掛けようとして、その前に車輪の脇へしゃがんだ。


 紫色の花は踏まれていなかったものの、土が少し沈んで茎が外側へ倒れている。


「ミラさん、そこに何か落ちていましたか? 荷を動かすなら、今のうちに馬を付け直しますよ」


「落とし物ではありません。この花が少し倒れただけなので、荷車はそのままで大丈夫です」


「そりゃいけない。次からもう少し端へ寄せるようにしますね」


「ここは荷車も使うので、花の方を少し動かします。通る人が毎回避ける方が大変ですから」


 ミラは倒れた茎を起こし、根を切らないよう周囲の土ごと少し奥へ移した。御者も荷台から降りてきて、車輪と花の間へしゃがみ込む。


「これなら踏まなそうですね。半年で荷車も増えたし、花の方も道に合わせてもらわないと駄目か」


「花は少し動かしても大丈夫です。道の方が毎日たくさん使いますからね」


 二人が立ち上がったところへ、倉庫の方からエルネが歩いてきた。


 春物の上着は商会にいた頃と大きく変わらないが、胸元には小さな三つ火の留め具が付いている。その後ろから若い書記が二人ついてきており、一人は抱えた紙束を何度も持ち直していた。


「朝から花の引っ越しか。そこの道は来月もう一台荷車を増やす予定だから、その辺りまで空いてると助かるべ」


「それなら、もう少し奥へ動かした方がよさそうですね。根が落ち着いたら、今度は道から離して増やします」


「頼むぞ。爵位をもらって半年、書類と荷物ばかり増えて…ミラの育てる花はおらの数少ない楽しみだべ」


 後ろの書記が小さく笑い、エルネは荷台の樽へ向き直った。


「その三樽は醸造小屋へ持っていってくれ。倉庫へ入れるのは箱の方だけで、札が付いてねえ荷は勝手に積まねえよう頼むぞ」


「分かりました。樽は醸造小屋、箱は札を確かめてから倉庫へ運びます」


 御者が復唱すると、書記の一人が紙へ書き込み、エルネは次の荷車へ歩いていった。


 ミラは移した花へもう一度土を寄せてから、洗い場へ向かった。


     ◇


 洗い場まで来ると、朝から干していた布は半分以上がもう乾いていた。


 共同の物干しには大きな布から細い手拭いまで間を空けて掛けられ、その端ではベラが白い布を一枚ずつ外し、乾いている物だけ籠へ収めている。


「ちょうどいいところへ来たね。日陰側だけまだ湿ってるから、そっちは午後まで残すよ」


「私も触ってみます。厚いところだけ水気が残っているかもしれません」


 ミラは籠へ入る前の布を一枚取り、端から指を滑らせた。中央は乾いているが、折り返した縁だけ冷たさが残っている。


「これはもう少しですね。さっき《温風》を使ったので、ここでは風に任せます」


「それでいいよ。何でも魔法で片づけたら、便利になる前に人の方がくたびれるからね」


 ベラは縁だけ湿っている布をもう一度竿へ掛け直した。


 その時、工房の方から金槌でも鋸でもない低く長い音が響き、弦の振動が腹の奥を揺らした。ベラが音のした方へ首を巡らせ、手にしていた布を籠の縁へ掛ける。


「また双子があれをいじってるね。今夜使うなら、昼のうちに音だけ決めといてほしいもんだよ」


「昨日はフレイさんが、低い音が途中で揺れると言っていました。まだ直しているのかもしれません」


「仕事の槌を置いたと思ったら今度は楽器だから、あの二人は工房から出る気がないね。まあ、楽しそうだからいいけどさ」


 もう一度、今度は少し短い低音が工房の壁を越えて響いた。少しあとにティルダの声とフレイの笑い声が重なり、すぐ金属を削る音へ戻る。


 ベラは残った布を指で数え、それから果樹園の方へ顎を向けた。


「林檎の葉も見るなら先に行っといで。昼は肉を煮てるから、冷めないうちに戻ってきな」


「では、先に果樹園へ行ってきます。戻る時に花の種も少し採ってきますね」


「種は逃げないから、昼飯は抜くんじゃないよ。採るなら鐘が鳴ってからにしな」


 ミラは笑って洗い場を離れ、果樹園へ向かった。窪地の外側へ広がった果樹園には、最初の一本を探すだけならもう目印が要るほど木が増えていた。林檎だけではなく、梨に似た実をつける木や、王都から試しに持ち帰った小さな果樹も混じり、若木の間には野菜を植えない草地を残してある。最初の林檎は幹が太くなり、ミラが両手を回しても指先が届かなくなっていた。


 朝から気になっていた若葉は南側の枝にまとまっており、そのうち数枚だけ縁が丸まり、裏側には小さな白い粒が付いている。ミラは枝を折らないよう手のひらへ葉を載せ、丸まった縁を指先でそっと開いた。


「虫の卵でしょうか。それとも葉の方が先に弱ったのでしょうか」


 答える相手はいなかったので、自分だけで決めず、小袋から白い紐を出して枝へ軽く結んだ。あとでリュネか、畑の世話をしている者にも見てもらえばいい。


 そのまま隣の木へ移ろうとしたところで、背後から重い足音がした。振り向くより先に、大きな黄土色の頭がミラの肩越しから林檎の枝へ伸びてくる。


「キュウ、それはまだ食べるところではありません。葉の裏を調べているので少し待ってください」


 若竜は以前なら食卓の下へ入れた身体を大きく育て、今では立っているだけでもミラの肩より頭が高い。翼を畳んでも背中の幅があり、果樹の間を歩く時には尾で枝を払わないよう自分から少し身体を曲げるようになっていた。


 ミラが枝の前へ身体を入れると、キュウは鼻先を下げ、代わりにミラの髪を嗅いだ。


「私は林檎ではありませんよ。朝ごはんは二回食べたと聞いています」


 低い声で鳴きながら、キュウは鼻先をミラの肩へ押しつけた。身体が大きくなった分だけ力も増しており、ミラは二歩ほど横へ押されてから、首の下を両手で撫でる。キュウは鼻先を離し、今度は額だけをそっとミラの肩へ当てた。


「はい。そのくらいなら大丈夫です」


 首の下を両手で撫でると、キュウは満足したように低く喉を鳴らした。


 近くで果樹の枝を剪定していた男が、その様子を脚立の上から見て笑った。


「大きくなっても、ミラさんには甘えるんですね」


「前よりずっと重くなりましたけど、言えば加減してくれますよ」


 ミラはもう一度首を撫でてから、白い紐を結んだ枝へ戻った。今度はキュウも葉へ鼻を伸ばさず、少し離れた草地へ腹をつけた。大きな身体が横になると、果樹園の一角だけ黄土色の低い丘ができたように膨らむ。


 ミラは白い粒の付いた葉を一枚だけ摘んで小袋へ収めたところで、洞窟の方から昼の鐘が鳴った。


     ◇


 食堂へ戻ると、長卓の半分以上がすでに埋まっていた。洞窟で暮らす者だけではなく、外の宿舎から来た者や王都から仕事で来ている者もいるので、昼は席が足りなければ外の長椅子まで使う。今日は天気がよく、入口近くでは何人かが皿を持ったまま外へ出ていた。


 ミラが空いている席を探す前に、レオンが自分の隣の椅子を足で少し引いた。


「ミラ、ここなら空いてる。朝から外を歩いてたなら、ゆっくり座って食べた方がいいぞ」


「ありがとうございます。果樹園でキュウに二歩ほど押されましたけど、葉もちゃんと持って帰れました」


「二歩で済んだなら加減はしてるんだろうな。明日は防護具を着けるから、あいつの大きさを見誤ると大変だ」


 レオンはそう言いながら、自分の皿の脇にあったパン籠をミラの方へ滑らせた。


 向かいではロアンがまだ眠そうな顔でスープを飲んでおり、その横に座ったベラが自分のパンをちぎりながら彼の皿へ目をやっている。


「ロアン、朝もほとんど食べてないんだから、そのスープだけで昼を終わらせる気はないだろうね」


「終わらせる気はないよ。今ちょうど、パンへ手を伸ばそうと思っていたところだからね」


「思ってるだけじゃ腹には入らないよ。今夜弾くなら、昼のうちにちゃんと食べときな」


 ロアンは苦笑しながらパンを一つ取り、今度はミラへ顔を向けた。


「ミラも今夜はリュートを頼むよ。双子の低音を入れると、僕一人だと上が少し薄くなるんだ」


「では、勇者側の高い方を弾けばいいですか? 昨日合わせたところなら覚えています」


「そこを頼みたいんだ。レオンの魔王が低すぎるから、上まで濁らせると勇者が本当に負けそうになる」


「おい、俺の声を勝敗の基準にするな。俺を魔王にしたのはロアンだろ」


「適役を見つけた責任なら認めるよ。だから今日も逃げないで最後まで歌ってほしいな」


 近くの席から笑いが起こり、レオンは嫌そうな顔をしながらもパンをちぎった。


 長卓の少し離れた場所では、エイルが王立工房の技師と矢羽の向きについて話していた。卓上には同じ長さの矢が二本並び、その横には炭で《五層用》と書かれた細長い木箱が置かれている。


 リュネは王都の薬師たちと小瓶の数を突き合わせ、ティルダとフレイは工房からまだ戻っていなかった。


 レオンが矢の方を一度見てから、食卓へ届く程度の声で言った。


「明日は王都から技師がもう二人来る。五層へ持っていく物を全部並べて、そこで支度を終わらせるから、工房を使う連中は朝のうちに場所を空けておいてくれ」


「低音楽器は今夜までに片づけさせるよ。あの二人、放っておいたら防護具の横で弦を張り始めるからね」


 ベラが工房の方を見ながら答えると、ロアンは自分も共犯だと言いたげに目を逸らした。


 食堂の端では、エルネが書記と紙を広げていたが、ベラが鍋を持って近づくと素直に書類を畳んだ。


「男爵様でも、昼飯の間くらい帳面を閉じるようになったんですね」


 近くにいた王都の若い書記が冗談めかして言うと、エルネは椅子へ腰を下ろしながら眉を上げた。


「おらが閉じたんじゃなくて、ベラに鍋を載せる場所を空けさせられたんだべ。爵位で長卓が広くなるわけじゃねえぞ」


「エルネさん、昨日は書類をどける前に鍋が来て、端が少し濡れていましたよね」


 ミラが思い出して言うと、エルネは一度だけ天井を仰いだ。


「ミラ、それは今言わなくてもよかった話だべ。書記がまた帳面へ布を敷けって言い始めるぞ」


 若い書記が笑い、ベラも鍋を長卓へ据えながら肩を揺らした。


 少し遅れて工房から双子が入ってくると、ティルダは頬へ黒い煤を一本付け、フレイは両手へ細かな木屑を残していた。


「姉ちゃん、先に手を洗おう。さっきの弦を触った手でパン持つのは嫌だよ」


「分かってるって。今夜の音だけ決めたら、明日はちゃんと五層の方へ戻るから心配しなくていいってば」


 二人はそのまま洗い場へ向かい、空いていた席もほどなく埋まった。ミラはスープへ匙を入れながら、食堂の端に置かれた帳面へ目を留めた。


 朝の記録を書いていない。


 薬草棚の札は乾かし、洗った布は縁の湿り気を確かめ、林檎の若葉からは白い粒の付いた一枚を採ってきた。帳面は食べ終わってからでも間に合う。


 ミラは小袋の札を一枚裏返し、帳面と書いてから、先に温かいスープを口へ運んだ。


     ◇


 午後、ミラは朝の記録を書き終えたあと、果樹園で採った葉をリュネへ渡し、外の斜面で花の種を少し集めた。


 途中で倉庫の棚へ貼る札を一枚頼まれ、場所を書き間違えた男と一緒に貼り直し、帰りにはリゼから馬房の水桶の底を指差されて呼び止められた。細いひびから水が滲んでいたので、桶を抱えて双子の工房へ向かう。


 工房の奥には《五層用》と炭で書かれた木箱が二つ積まれ、その横へ弓の替え弦、革紐、留め具を入れた浅い箱が並んでいた。一年前にはなかった物が増えているのに、ティルダとフレイはその手前で、今夜使う低音楽器の弦を張る位置についてロアンと話している。


 ミラは木箱の中へ手を入れて弦の振動を掌で受け、どちらの位置がいいか聞かれたものの、響き方の違いは分かっても理由までは説明できなかった。


「私は左の方が胸の近くまで響く感じがします。でも、どちらがいい音なのかはロアンさんに聞いた方が確かです」


「そういう答えが欲しかったんだよ。ミラは上手く説明できなくていいから、身体で違うかだけ教えてくれれば十分だよ」


 ロアンが言うと、フレイは弦の位置へ炭で小さな印を付け、ティルダはもう片方の金具を外し始めた。


 ミラは抱えてきた桶を作業台の空いた端へ置いた。


「フレイさん、こちらの水桶もお願いします。細いひびなので急ぎませんけど、ネラさんの分だから夕方までだと助かります」


「分かったよ。弦を一回張り直したら先に塞ぐね。五層の箱は明日の朝まで開けないから、今日はまだ場所も使えるし」


「じゃあ今夜は楽器を仕上げて、明日からまた物騒な方か。工房って忙しいねえ」


 ロアンが楽しそうに言うと、ティルダは外した金具を指で回した。


「物騒なのも楽器も、作る方からすれば似たようなもんだよ。ちゃんと動いて、使う奴が困らなきゃいいんだからさ」


 工房を出る頃には、春の陽が窪地の反対側へ傾いていた。朝に根元へ土を寄せた白い花の茎はまだ立っており、荷車のそばから移した紫の花にも土が落ち着いている。宿舎の窓からは干していた寝具が取り込まれ、倉庫前に並んでいた三台の荷車も二台まで減っていた。


 ミラは最後に、平たい石の脇へ咲く紫色の花から乾いた種を少しだけ採った。


 食堂の席から眺められる場所へ最初に蒔いた花で、今では同じ色が馬房の柵の外にも、宿舎へ続く道の角にも、薬草小屋の壁際にもある。誰かが通る場所へ出すぎれば植え替え、邪魔にならない場所ならそのまま増やしてきた。


 種を小さな紙へ包んでいると、洞窟の入口からベラが顔を出した。


「ミラ、そろそろ中へ戻りな。夕飯のあとすぐ始めるって、ロアンがリュートを抱えて待ってるよ」


「今ちょうど終わりました。紙へ包んだら、手を洗って戻りますね」


「今日は指も使うんだから、冷たい水に突っ込んだまま長話するんじゃないよ。弾けなくなったらロアンが困るからね」


 ミラはこくりと頷き、種の包みを小袋へ収めて洞窟へ戻った。


     ◇


 夕食が終わっても、食堂から人はあまり減らなかった。皿と鍋が厨房へ下げられ、長卓は壁際へ寄せられている。洞窟で暮らす者だけなら十分だった食堂も、今夜は外から来た者まで残っているので、入口近くには椅子が足りず、木箱へ腰を下ろしている者までいた。


 ミラがお古のリュートを抱えて席を探す前に、ロアンが自分の左側を指した。


「ミラ、そこを使って。新しい低音が入ると僕だけじゃ上が薄いから、今夜は最初から最後まで頼りにしてるよ」


「分かりました。勇者側の音なら、昼に話したところをそのまま弾けば大丈夫ですよね」


「それで大丈夫。魔王の方は勝手に低いから、こっちは明るい音を残しておこう」


 その並びの中で、レオンだけは楽器を持たず、壁際で酒を飲んでいた。ロアンがそちらへ顔を向けると、レオンは諦めたように杯を棚へ戻す。


「今日は人が多いけど、途中で笑った奴がいても俺のせいにはするなよ。最初にやろうと言ったのはロアンだからな」


「今の役なら笑うところじゃないよ。普通に歌おうとするから大変なことになるだけで、魔王はその声の方がいいんだ」


「それを褒め言葉として受け取っていいのか、今でも俺にはよく分からん」


「少なくとも僕は本気で褒めてるよ。勇者より魔王の声が弱かったら、最後の勝負が盛り上がらないからね」


 近くで聞いていた者たちが笑ったが、レオンも嫌そうな顔をしただけで逃げはしなかった。


 ベラは小さな太鼓と木の打楽器を足元へ並べ、エイルとリュネはそれぞれ細い笛を持っている。


 工房から運び込まれた双子の低音楽器は、横長の木箱へ何本もの太い弦を張り、その手前に低い鍵盤を並べた形をしていた。鍵を押すと内部の木組みが動いて弦を鳴らす仕組みで、ティルダとフレイは箱の前へ肩を並べ、それぞれ半分ずつ受け持つように指を置いた。


 ロアンが演奏の輪へ視線を巡らせて指を一度上げると、最初は彼のリュート一本だけで演奏が始まった。


 明るい旋律の上で、ロアンが旅立つ勇者を歌う。故郷を出て、まだ知らない土地へ向かい、道の先で仲間と出会う物語で、ミラは細い伴奏を重ね、リュネとエイルの笛がその上へ伸びた。


 勇者が最後の城へ近づくところで、双子の低い弦が鳴った。食堂の床を足の裏から震わせるような低音へベラの太鼓が重なり、勇者が魔王へ名乗り終えると、レオンがゆっくり息を吸う。


 低い音の上へ喉の奥を震わせる濁った声が重なった瞬間、入口近くにいた王都の若い職人が目を丸くした。


 リゼは知っていたらしく楽しそうに尾を揺らし、ロルフは太鼓の拍へ合わせて膝を動かしている。少し離れた長卓では、エルネが隣の書記から腕を引かれ、最初は嫌がっていたはずなのに、いつの間にか二人で拍へ合わせて足を動かしていた。


 朝からエルネについて歩いていた王都の若い書記が、驚いた顔でミラの方へ身を寄せる。


「あの、踊っている方って、本当にエルネ・フォコラーレ男爵で合っていますよね?」


「合っていますよ。昼は帳面を広げていますけど、音楽が始まると踊ることがあります」


「昼はずっと荷と書類の話をしていた方ですよね。男爵でも、ここでは普通に踊るんですか?」


「今は書類の時間ではありませんから、踊っていても大丈夫だと思います」


 書記はしばらく踊るエルネへ目を留めたあと、声を立てて笑った。その笑いにつられたのか、近くにいた王都の職人も手拍子を始める。リゼは座っていた木箱から立ち、ロルフの腕を引いて人の空いた場所へ出た。


 若竜が演奏の輪へ鼻先を差し込もうとしたので、ミラはリュートを弾いたまま足を少し伸ばした。


「キュウ、今そこへ入るとベラさんの太鼓にぶつかりますから、もう少し後ろで聞いてくださいね」


 キュウは不満そうに喉を鳴らしたものの、ミラの足先へ鼻を一度押しつけてから、その場へ腹を下ろした。


 ミラはずれた指を戻し、ロアンの旋律へもう一度音を重ねる。


 朝から何度、自分の名前を呼ばれただろう。花のことを聞かれ、馬のところへ寄り、薬草棚を手伝い、林檎の葉を見つけた。工房では音の違いを聞かれ、今はロアンの隣で、自分の音が要ると言われている。


 途中で最初の用事を忘れたし、一人で最後までやらなかった仕事もある。それでも、頼まれたことも、見つけたことも、今日一日のあちこちに残っていた。


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。


 私、役に立ってる。だから、もう追い出されない。その考えが浮かぶと、ミラが弾く弦に少しだけ力が入った。


 曲の最後に勇者が魔王を討つと、ベラの太鼓が大きく一度鳴り、レオンの低い声が途切れた。残った二本のリュートと笛が明るい終わりの旋律を重ね、最後の音が消える前から拍手が起こる。


 エルネは踊った勢いのまま書記と肩を組み、王都から来た職人たちまで立ち上がっていた。


 ロアンが次の軽い曲へ移るよう弦を鳴らし、ミラへ笑いかける。


「次はミラも最初から入ってくれない? 今度は魔王も出ないから、もう少し気楽に弾けるよ」


「分かりました。次は最初から最後まで一緒に弾きますね」


 レオンが酒の入った杯を取りに壁際へ戻る横で、ミラは最初の音へ指を合わせた。食堂の奥ではまた別の笑い声が上がり、春の夜の洞窟へ、次の曲がそのまま続いていった。

お読みいただきありがとうございます。ここから六章です。

六章は少し長めです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。