商会員は男爵になります
エルネは食堂の端に帳面を広げ、朝にラトスへ出した荷と、夕方までに戻るはずの空樽の数を照らし合わせていた。林檎の収穫がまた増えたせいで、空けたばかりの籠まで畑へ回り、帳面の余白にはロアンが持ち出した樽の番号が二つ増えている。
厨房ではベラが昼の煮込みをかき混ぜ、外からは双子が板を削る音と、キュウが土を掻く重い音が交互に届いていた。レオンが王都へ出てから何日か慌ただしい知らせは続いたが、洞窟の仕事そのものは止まらず、今日も朝からそれぞれが自分の持ち場を動かしている。
「エルネさん、昨日の空樽はこっちへ入れておけばいいですか。ロアンさんが三本使いたいそうです」
「三本なら酒蔵の奥へ回してくれ。手前の二本はラトスへ出す分だから、混ぜるとあとでおらが泣くことになるべ」
籠を抱えたミラが頷いて外へ戻り、エルネは帳面の数字へ視線を落とした。王都では城まで魔物に襲われ、レオンが大怪我をしたと聞いた翌日でも、洞窟では樽と籠の置き場所を決めなければならない。
その当たり前さが、エルネにはずいぶん気に入っていた。
次の数字へ墨を入れようとしたところで、窪地の方からキュウの短い鳴き声が響き、続いて馬の蹄が土を踏む音がした。普段なら馬房から聞こえる音なのに、今日は食堂の正面から近づいてくる。
椅子を引いて外へ出ると、窪地の中央に橙色の光が薄く残り、その中でバルトが首を振っていた。隣には外套を着たレオンが立ち、肩へ掛けた荷のほかに、腰へ重そうな革袋を結んでいる。
キュウはエルネより先に駆け寄り、大きな頭をレオンの胸へ押しつけていた。
「分かったから少し離れろ。昨日まで怪我人だったところへ、その頭で押してくるな」
そう言いながらレオンは笑っており、キュウの首を両手で何度も撫でている。馬房の方からエッダとネラも顔を出し、バルトの姿を見つけると低く鼻を鳴らした。
ミラが空樽を置いたまま走ってきて、レオンの肩と脚を順に見たあと、ようやく息を吐いた。
「本当に普通に歩けていますね。通信では聞いていましたけど、顔を見るまでは少し心配でした」
「王城の治療師にも何度も確認された。もう痛いところはないし、走れと言われてもたぶん走れるぞ」
その声を聞きつけ、厨房からベラが濡れた手を前掛けで拭きながら出てきた。ロアンは酒蔵の戸から顔を出し、工房からはティルダとフレイが木屑を付けたまま歩いてくる。
ベラはレオンの腕や顔色を確かめるように見てから、濡れた手をもう一度前掛けで拭った。
「王城まで行って大広間ですごいの倒して、次の日には普通に帰ってくるなんて、治療した人もずいぶん無茶するね」
レオンは肩を回してみせながら、ベラへ苦笑を返した。
「無茶したのは俺じゃなくて、襲ってきた魔物の方だ」
その横から、ロアンがもう続きを待てないように身を乗り出した。
「そこは後で詳しく聞かせてよ。王城の広間を壊した魔物と一人で戦った話なんて、歌にする材料としては上等すぎるからね」
ロアンがもう歌の筋を考えていそうな顔をしたので、レオンは眉を寄せた。
「俺が広間を壊したみたいに歌うなよ。柱も天井も、先にあいつがだいぶ壊してたからな」
ロアンの後ろからエイルとリュネも出てきたため、いつの間にか窪地には普段の食事前と同じくらい人が集まっていた。誰も号令を掛けていないのに、レオンとバルトの周りだけ自然に輪ができている。
ティルダは挨拶より先にレオンの胸当てへ目を向け、表面に残った焼け跡を指で示した。
「身体が治ったなら次はこっちを見せてよ。その跡、白魔鋼の留め具まで熱が通ったでしょう」
「やっぱり最初に防具を見るんだな。王城の治療師にも、二人の胸当てがかなり受け止めたと言われたぞ」
姉の横から胸当てを覗き込んだフレイは、焼け跡を見たまま口元を上げた。
「それなら帰ってきたの、半分くらいうちらの手柄にしてもいいんじゃない?」
「半分かは分らんが…礼を言う。あれがなかったら本当に帰るのが遅れてたらしい」
フレイが満足そうにティルダと顔を見合わせる横で、ベラはレオンの背を軽く叩いた。エイルも離れたところから一度だけ頷き、リュネはバルトの脚に傷がないかを確かめている。
ベラは厨房の方へ顎を向け、昼の献立をその場で変えることにしたらしい。
「今日はレオンの分だけ肉を厚く切るよ。王都を守って帰ってきた日に、いつもと同じ皿じゃ格好がつかないからね」
それを聞いたロアンは、待っていましたとばかりに酒蔵を振り返った。
「僕は酒を一本開けてもいいと思うな。大広間の話を聞くなら、せめて杯くらい用意しておきたいよ」
レオンは二人を順に見てから、苦笑しながら首を振った。
「俺の話もしっかり聞いてくれよ。それに王都を守ったのは、俺一人じゃなくて騎士や冒険者も一緒だ」
それでも自分の帰還を喜ばれていることまでは否定しきれず、レオンはキュウの頭をもう一度撫でてから笑った。大怪我をして王城で一夜を越した男の凱旋としては、肉と酒と防具の点検が先に出てくるあたりが、この洞窟にはよく似合っている。
エルネは輪の外からその様子を見ていたが、レオンが手ぶらで帰ってきたわけがないことには早くから気づいていた。
「無事に帰ってきたのは分かったべ。だけんど、王様はレオンを手ぶらで返したわけじゃないべ? そろそろ景気のいい話も聞かせてくれねえか」
「最初からエルネに渡すつもりで持ってきた。王城で受け取った金だから、先に全員へ話してから帳簿へ入れてくれ」
食堂へ戻ると、レオンは長卓の中央へ革袋を置いた。紐をほどいて金貨が見えた時だけは、さっきまで装備を見ていた双子まで揃って身を乗り出した。
金貨二十枚は、王城で倒した異常個体の魔石と素材を王国へ預ける代金だった。領地の話、三つ火を正式な家紋にする話、王城へ商売や技術相談を直接持ち込める窓口の話まで、レオンは王から聞いた順に大まかに説明していった。
エルネは金貨を数えながら聞き、二十枚目を積んだところで帳面の新しい頁を開いた。
「金額は大きいけど、おらなら王城の窓口の方がすげえと思うな。白魔鋼も第五層の防護も、相手を探すところから省けるなら手間が全く違うべ」
「王にも似たようなことを言った。金貨よりそっちの方が助かると言ったら、少し損した顔をしてたぞ」
「王様相手でも、商売の便利さは別勘定だべ。で、その領地の話は、誰が責任者になることになったんだ?」
金貨を並べていた手を止めると、レオンは自分の前にあった木杯を少し遠ざけた。
「そこが決まってない。俺は男爵位を断って、洞窟へ帰ってから本人の同意を取って決めることになった」
「ずいぶん大きいところを持ち帰ってきたな。金貨二十枚より先に相談する話だったんじゃねえのか、それ」
「だから今から相談する。王国との書類と税、それにラトスや周りの村との調整ができる人間が望ましいそうだ」
その条件を聞いた途端、長卓の周りにいた者たちの姿勢が少しずつ変わった。
ベラは厨房の方へ目を向け、ロアンは手にしていた酒杯を静かに卓へ戻した。ティルダとフレイは互いの顔を見たあと、どちらからともなく工房側へ視線を逃がしている。
最初に逃げ道を作ったのはベラで、厨房の方へ向けた顔を戻すと両手を卓へ置いた。
「先に言っておくけど、あたしは厨房と保存食だけで十分だからね。税の帳面まで増やされたら、飯の時間が遅くなるよ」
ロアンもすぐに杯を置き、ベラの主張へ便乗した。
「僕も王都へ行って歌うくらいなら喜んでやるけど、領主の書類を毎日読む役は向いてないと思うな」
ティルダは隣のフレイと目を合わせてから、二人分まとめるように工房の方へ親指を向けた。
「うちらは工房から出る仕事が増えたら困るよね。役人と話すより、壊れた物を持ってきてもらう方がいい」
エイルとリュネまで、話の流れが自分たちへ来ないことを確認するように黙っていた。外へ出れば誰より長く森を歩く男と、薬草の配合なら何刻でも考える女が、王都の役所仕事だけは積極的に欲しがらないらしい。
そんな中で、ミラだけがしばらく考えたあと、素直に手を上げた。
「それなら、私が男爵になりましょうか。必要な役なら、誰かがやった方がいいんですよね」
長卓の周りにいた誰も、すぐにはミラへ答えを返さなかった。
レオンは木杯へ伸ばしかけた手を止め、ベラは一度だけ口を開いてから何も言わず閉じた。ロアンまで妙に真面目な顔でミラを見ており、双子は先ほどまで逸らしていた視線を今度は互いへ向けている。
長く帳場で人を見てきたエルネには、その沈黙の意味がよく分かった。
最初に口を開いたレオンは、普段より少しだけ慎重な言い方を選んでいた。
「ミ、ミラは炉守りの仕事があるだろう。王都の書類まで抱える必要はないし、洞窟を空ける用事も増える」
ベラもすぐに続いたが、いつもの勢いで断言する代わりに、言葉を一つずつ確かめるように話した。
「そうだよ。畑も帰り火も見てるんだから、これ以上仕事を増やさない方がいいと思うよ」
ロアンは二人の言葉を聞いてから、ミラへ向けて穏やかに付け足した。
「王都の役人と話すなら、外の商売や制度に慣れている人へ任せた方が、たぶんミラも楽だよ」
三人とも嘘は言っていないし、言葉もずいぶん選んでいた。それでも誰一人として「ミラなら大丈夫」とは言わないあたりに、全員の本音がきれいに揃っている。
「そうなんですね。それなら、もっと向いている人にお願いした方がよさそうです」
ミラは特に傷ついた様子もなく頷き、今度は皆と一緒に候補を探す顔になった。
それから食堂がもう一度静かになり、最初にレオンがエルネの方へ視線を向けた。少し遅れてベラもこちらへ顔を向け、逃げ道を塞ぐように口元を緩めた。
ロアン、ティルダ、フレイ、エイル、リュネまで順番に視線を寄越し、最後にはミラも期待するようにエルネの方へ身体を向けた。
「なんで今度は、全員そろっておらを見るんだべ。さっきまであれだけ目を逸らしてたくせに」
レオンは最初から決めていたように、指を折ることもなく条件を並べた。
「王国との書類が読めて、税の話ができて、ラトスの連中とも話せる。俺がいない間も商売を回してたし、条件だけなら一番合ってる」
ベラも厨房へ逃げていた視線を戻し、今度はエルネを正面から見た。
「昔から商会で地方を回ってたんだろう。役人相手に話したことだって、あたしたちよりずっと多いじゃないか」
ミラは二人の話を聞きながら何度も頷き、自分が教わった時のことまで思い出したらしい。
「エルネさんなら、分からないことを分からないままにしませんよね。私も何度も教えてもらいました」
そこまで揃って言われると、エルネも黙って受け取るわけにはいかなかった。
「待て待て、おめら急に褒め始めても駄目だべ。おらは商会の帳場にいた男で、貴族なんぞやったことねえんだぞ」
ティルダはその抵抗を聞いても引かず、むしろ別の攻め口を見つけたようにエルネの上着を眺めた。
「それなら全員やったことないよ。でも、エルネなら服も似合いそうじゃない?」
ティルダの声色が変わったところで、エルネは嫌な予感がした。
隣のフレイも姉と同じ顔をしており、以前、工房で初対面の中年男へ何のためらいもなく「可愛い」と言った時と、よく似た顔だった。
フレイもすぐ姉の意図を理解し、エルネの丸い肩から顔までを改めて眺めた。
「そうだね。かわいい男爵って新鮮じゃない? ちょっと丸くて話しかけやすい領主なら、村の人も怖くないよ」
エルネは嫌な方向へ話が進み始めたのを感じ、二人まとめて止めようとした。
「男爵にかわいさなんて要らねえべ。おめら、仕事の適性から急に何の話へ飛んでるんだ」
ティルダはエルネの口元を見て、姉妹の攻め方が効いていることを先に見抜いた。
「でも今、ちょっと嬉しそうだったよ。エルネ、前に可愛いって言った時も同じ顔してたじゃん」
ティルダに指摘され、エルネは口元へ力を入れた。
効いていない顔を作ったつもりだったが、向かいのベラまで笑い始めたところを見ると、たぶん遅かった。
フレイはそこで畳み掛けることにしたらしく、両手を卓へついて身を乗り出した。
「っていうか、かわいさだけなら王様じゃない? 控えめに言っても侯爵くらいはあると思うよ」
「王様から侯爵へ下げても控えめになってねえべ。爵位を何だと思ってるんだ、おめらは」
ロアンまで面白がって口を挟み、エルネへ最後のひと押しを加えた。
「ほら、爵位の順番もちゃんと分かってる。やっぱりエルネが向いてるよ」
話の輪がさらに狭まったため、エルネは返す言葉を探して長卓を見回した。
レオンは笑いを堪えているし、ミラは双子の理屈をどこまで本気にしていいのか迷っているような顔をしている。エイルは巻き込まれない位置を守っているくせに、口元だけはわずかに緩んでいた。
「おめらなあ。そうやって向いてる向いてるって簡単に言うけどな、帳面が読めて役人と話せりゃ領主ができるなら、商会の支店長はみんな名君になってるべ」
エルネがそう言って帳面から手を離した時、レオンは少しだけ姿勢を直した。
この言い出し方には覚えがある。昔の商会の話が始まる時のエルネだった。普段なら途中で結論を聞くところだが、今日は誰も口を挟まなかった。
「おらが昔いた地方支店にな、本店から新しい支店長が来たことがあってな。頭のいい人だったぞ。帳面は読むのが早えし、足し算も間違えねえ。来て三日で、荷を受ける日を月に二回へ揃えるって決めたんだ。毎日ばらばらに荷が来るより、倉庫番も帳場も楽になる。紙の上じゃ、その通りだった」
ティルダとフレイはさっきまでの笑い顔を残したまま聞いていたが、エルネは二人の反応を待たずに続けた。
「ところが、その辺じゃ麦を持ってくる村と、油を持ってくる村と、炭を焼いてる連中で動ける日が違った。雨が続けば荷車は遅れるし、畑の忙しい日に荷を出せって言われても人がいねえ。それでも支店長は、決めた日に持ってくれば高く買う、遅れたら値を下げるってやった。帳面だけ見りゃ、約束を守ったやつを得にしただけだ」
ベラが腕を組み直した。ロアンも酒杯を持ったまま口を挟まない。
「最初の月は上手くいったんだ。荷受けの日が決まって、倉庫もきれいになった。本店からも褒められた。二月目になったら、遠い村の荷が減った。三月目には、いつも炭を持ってきてた爺さんが来なくなった。支店長は、他に高く買う店を見つけたんだろうって言った。でも違った。荷を出す日に合わせるために人を雇って、二回赤字を出して、もう商会まで運ぶのをやめてたんだ」
エルネはそこで木杯を取り、一口だけ飲んだ。話が長くなる時は、たいていここで別の昔話が枝分かれする。レオンはそれも知っていた。
「その爺さんの話を始めると、また長くなるんだけどな。息子が三人いて、一人は町へ出て、一人は――」
エルネはそこまで言ってから、長卓の周りを見た。誰も止めなかった。
「……今日はけっこう聞いてくれるな?」
「聞くよ。今はあんたが男爵をやるかどうかの話だからね」
ベラが答えると、エルネは少しだけ目を丸くしたあと、鼻の下を擦った。
「そうか。じゃあ続けるぞ。真ん中の息子は荷車を持っててな――」
本当に続いた。
炭焼きの家の息子が荷運びを始めた話から、商会の荷受け日を元へ戻すまでに二月かかった話、その支店長が最後には自分で村まで出向いた話まで辿り着いた頃には、ティルダは頬杖をつき、フレイは途中で一度水を飲み、ロアンの杯は空になっていた。
それでも誰も話を切らなかった。
「別に、その支店長が悪いやつだったって話じゃねえんだ。むしろ仕事はできた。間違えたと分かったら村まで頭を下げに行ったし、そのあと何年も支店を立て直した。ただ、自分の決めた一日が、向こうじゃ何人もの一日を動かすってことを知らなかったんだべ」
エルネは長卓の上の金貨へ目を落とした。
「男爵なんて、それよりずっとでかい話だろ。税をいつ取るか、道をどこへ通すか、誰が何を決めていいか。紙の上で一行変えただけでも、ラトスじゃ誰かの畑や商売が変わるかもしれねえ。洞窟だって同じだ。おらが爵位をもらったからって、誰を住ませるか、何を作るかまで勝手に決め始めたら、ここは今までと別の場所になる」
さっきまで面白がっていた双子も、もう笑っていなかった。ミラはエルネを見たまま、いつも通り何度か小さく頷いている。
「だから、おらが向いてるって言われても、はいそうですかとは言えねえんだ。帳面を読むのと、人の暮らしを預かるのは別だべ。商会なら間違った値段を書いたら直せる。樽を一本数え間違えたなら、次の日に倉庫を数え直しゃ済む。でも領主が間違えた時に、同じように帳面を直して終わりになるとは限らねえ」
そこまで言ってから、エルネはようやく息を吐いた。
レオンは急かさず待った。
「ただな」
エルネが今度はミラを見て、それからベラ、ロアン、双子、エイル、リュネへ順に目を向けた。
「ここなら、おらが変なことを始めたら止めるやつがこれだけいる。ラトスのことはラトスの連中に聞けばいい。洞窟のことはここで話せばいい。おらが全部決めるんじゃなくて、ここで決まったことや、村で困ってることを王都まで持っていく役なら、商会でやってきた仕事とそこまで遠くねえ」
レオンはそこで初めて口を開いた。
「王も、洞窟の暮らしを王都の形に変えるための領主が欲しいとは言ってない。外から勝手に触られないよう、王国側の責任者が必要だと言っていた」
「なら、そこは最初に言えよ。おら、炭焼きの爺さんの息子三人分まで話したべ」
「止めなかっただろ」
「今日は止めちゃいけない話だと思ったんだよ」
ベラが言うと、エルネはしばらく黙った。
長話のあとで黙るエルネを、レオンはあまり見たことがなかった。
やがてエルネは金貨の脇に置かれた帳面を自分の方へ引き寄せた。
「……分かった。王都の役人と帳面を広げて、ラトスと洞窟の話を向こうにつなぐ役なら、おらがやる。ただし、領主になったからってここで一番偉くなったことにはすんなよ。洞窟のことは今まで通り皆で決める。ラトスのことは村の連中と話す。それが条件だ」
ミラが嬉しそうに頷き、双子も顔を見合わせた。
「じゃあ、かわいい男爵で決まりだね」
ティルダが言う。
「そこは条件に一つも入ってねえべ! あと、太ったおじさんつかまえて、何度もかわいいっていうな。こっぱずかしいべ」
レオンは待っていた返事を聞くなり頷いた。
「じゃあ、本人の同意は取れたな。王にはエルネで話を進めていいと返しておく」
エルネは思わず卓を指先で叩いた。
「おめえ、今のおらの話を全部聞いて、拾うのがそこだけか! 炭焼きの爺さんから何刻かかったと思ってるんだ!」
長卓の周りで笑いが広がり、キュウまで何事かと入口から首を差し込んだ。
エルネはまだ何か言いたそうにしていたが、最後には自分でも笑いながら帳面を開いた。金貨二十枚の横へ新しい頁を作り、まだ存在しない男爵領のために、まず何を確認するべきかを書き始めた。
◇
エルネが男爵位を引き受けると答えてから、半年が過ぎた。
その半年で王都は崩れた家々を直し、道路から瓦礫を運び出し、王城では屋根の大半を失った正面大広間まで再建された。洞窟とラトスの側でも領境の測量が入り、税の扱い、裁判をどこまで領内で処理するか、周辺領との境界をどう引き直すかについて、王都との書類が何度も往復した。
王城の私室近くに最初の《仮帰還点》が置かれてから、レオンと一緒なら王都までの移動時間そのものはほとんど消えた。それでも、役所へ出した書類が翌日に返ってくるようになるわけではなく、エルネは半年の間に王城の担当官と顔を合わせる回数だけを着実に増やしていった。
ラトスでも村の代表と何度も話し、いきなり税や暮らし方が変わるわけではないことを一つずつ確認した。洞窟側では、誰を迎えるか、何を作るか、誰がどこで働くかを男爵が勝手に決める仕組みにはしないと最初から伝えてある。
そうして必要な紙がようやく揃った日、エルネは王城正面大広間の扉の前に立っていた。
半年前には天井の三分の二が崩れ、柱と大吊灯の残骸が積み重なっていた場所である。今は新しい屋根が渡され、床も磨き直されていたが、取り替えられた石柱は古い柱より色が明るく、補修した場所までは隠されていない。
その新しい柱を見上げているうちに、襟元がまた苦しく感じられた。
今日のために仕立てられた上着は商会時代の服より厚く、胸には正式な図案へ整えられた三つ火の紋が縫い取られている。礼法を教えた王城の係官から、襟へ指を入れて直すなと今朝も念を押されたばかりだった。
「ここまで来て襟を引っ張ったら、半年分の練習が最初からやり直しになりますからね」
隣で待っていた係官に先回りされ、エルネは上げかけた右手をそのまま下ろした。
「分かってるべ。商会の客先でも服くらい着てたけどな、こんなに首を締める服で帳面を読めとは言われなかったぞ」
抗議もむなしく、扉の向こうから名前を呼ぶ声が届き、係官が一歩だけ横へ退いた。
大きな扉が開くと、広間の左右には貴族と王国の高官たちが列を作っていた。商会で働いていた頃なら、遠くから家紋を見ただけで道を譲ったような家の者まで、今日は自分が歩く中央を空けて立っている。
その列の中に、王都へ通う半年の間に顔を覚えたヴァレーヌ侯爵もいた。
王都襲撃のあと、侯爵の周辺では多くの者が距離を取り、長く右腕だったレイヴァン伯爵は捕縛対象となったまま姿を消している。それでも侯爵家の旗が焼かれたわけでも、今日の広間から締め出されたわけでもない。
ヴァレーヌは他の貴族と同じ正装で列に加わり、エルネが近くを通った時には、ほんのわずかに頭を下げた。
エルネも教えられた通りに礼を返し、そのまま前へ進んだ。
表面だけを見れば、半年前と同じ王国の貴族たちが、同じ王の前へ並んでいる。けれど政治に詳しくないエルネでも、王都との折衝を半年続ければ、誰の名を出した時に役人の顔色が変わるかくらいは分かるようになった。
ヴァレーヌ侯爵の意向を気にして書類を止める役人は月を追うごとに減り、今では王の地方再編案を前提に話が進んでいる。役所も議会も形の上では以前と同じように動いていたが、侯爵の意向だけで書類が止まることはもうほとんどなかった。
広間の奥にはルシアン三世が立ち、その右側にセドリックが控えていた。少し離れた招待客の列にはレオンとミラもおり、レオンはいつもの旅装より整った上着を着ている。
ミラと目が合うと、彼女は声を出さずに小さく頷いた。それだけで、半年かけて覚えた作法がなんとか記憶に戻ってきた。
エルネは定められた位置まで進み、王の前で片膝をついた。
書記官が新設される領地の範囲と、ラトスおよび帰り火の洞窟周辺を王国法の下で一つの領として扱うことを読み上げた。税、司法、周辺領との境界について半年かけて詰めた内容が、長い文書の中では驚くほど整然と並んでいる。
最後に、書記官がエルネの名だけを読み上げて口を閉じた。
生まれてから今日まで、エルネの名はただのエルネだった。王族と貴族を除けば家名を持たないこの国で、商会の荷札にも契約書にも、それ以上の名を書く必要はなかった。
ルシアンが一段低い場所まで下りてきて、エルネの正面で足を止めた。
「エルネ。王家の名において、今日よりフォコラーレの姓を授ける。あわせて男爵位を授け、ラトスと帰り火の洞窟を含む新領を王国に対して代表する責を任せる」
「エルネ・フォコラーレ、その役目をお引き受けします。おらにできる限り、あの土地の暮らしを守ります」
練習では何度も言い直した返答が、本番では一度も詰まらずに出た。
ルシアンから封印の入った文書を受け取り、エルネが立ち上がると、広間の左右から拍手が起こった。最初は揃っていなかった音が少しずつ重なり、やがて新しい屋根の下へ大きく響いた。
その音が収まるのを待って、ルシアンは列席者全体へ身体を向けた。
「半年前、この広間には屋根の大半がなく、柱は折れ、ここへ人を集めることさえできなかった。今日こうして同じ場所へ立てるのは、石工が石を積み、木工が梁を渡し、商人が材を運び、名を残さない多くの人々が毎日仕事を続けたからだ」
エルネは指先へ力が入りすぎないよう気をつけながら、手にした文書を静かに持ち直した。
「王都が襲われた日も同じだった。騎士と兵士だけではなく、冒険者が戦い、市民が怪我人を運び、治療師が場所を選ばず傷を塞いだ。王の命令が届く前から、それぞれが自分の場所で必要なことを始めていた」
列の中にいるヴァレーヌ侯爵は、顔を上げたまま王の言葉を聞いている。ルシアンも侯爵の方だけを見ることはなく、広間全体へ同じ声で続けた。
「私は、その強さを王都だけへ集めたいとは思わない。遠くの町にも村にも、森にも山にも、そこに暮らす者にしか分からないことがある。王国が強くあるために必要なのは、すべてを王が決めることではなく、それぞれが自分の場所で動けることだと考えている」
半年の間、エルネは領地を作るための書類を何度も読んだ。境界線を一本動かすにも理由が要り、税の扱いを一つ変えるにも複数の役所が確認した。王が話していることは、そのどの書類より分かりやすかった。
「ラトスと帰り火の洞窟も、今日ここで私が作った場所ではない。王がその存在を知る前から、そこでは人が暮らし、働き、食べ、必要な物を作り、困った時には互いを助けていた」
エルネの視界の端では、列席者の中にいるミラが顔を伏せていた。
「今日の爵位は、その暮らしを王のものにするために与えるのではない。すでにそこにある暮らしが、遠くの都合で勝手に形を変えられないよう、王国の制度の中へ席を作るために与える」
手の中の文書が、さっきより重く感じられた。商会の地方支店で帳面を付け、若い者が同じ失敗をしないよう昔話をしていただけの自分が、今は洞窟と王国をつなぐ席を預かっている。
半年前、双子にかわいい男爵と囃し立てられ、少し鼻の下を伸ばして引き受けた時には、こんな場所へ立つとは考えていなかった。
広間全体へ向けていたルシアンの視線が、最後にエルネのところへ戻ってきた。
「エルネ・フォコラーレ男爵。あなたに望むのは、あの洞窟を王都の形へ変えることではない。あの場所があの場所のまま、自分たちの言葉で王国と話せるよう、その席に座ってほしい」
エルネは胸の奥へ広がる熱を押さえず、王の言葉を正面から受け取った。
「そして帰ったら、皆へ伝えてくれ。王国は今日、あの火のそばにある暮らしを、この国を形づくる暮らしの一つとして正式に迎えた、と」
これにて五章は終了です。
申し訳ありませんが、六章は投稿頻度を落とし、週9回更新といたします。
毎日21:10の投稿に加え、火曜と土曜は12:10に投稿します。
かわいい男爵ともどもお待ちしております。




