役者は王として旅をします
王都を発つ日の朝、エティエンヌ・デュ・マレは鏡の前へ座り、自分の顔が少しずつ国王ルシアン三世へ近づいていく様子を確かめていた。
王宮の奥にある支度部屋には窓が一つしかなく、朝の光は薄い布越しに入っている。卓の上には濃紺の上着、金糸を控えめに使った外套、革手袋、王家の印を刻んだ帯金具が順番に並べられていた。
侍従が髪へ櫛を入れ、分け目を少し右へ寄せながら鏡越しに生え際を確かめる。
「陛下は昨日、前髪をいつもより短く整えられています。今日はこの辺りを少し上げた方が近いでしょう」
「分かりました。左の生え際は隠しすぎないでください。最近はそこを出しておられますから、そのままでお願いします」
自分の髪について話しているような言い方になったが、侍従も訂正せず、櫛を止めることなく細かな位置を合わせていった。
エティエンヌは今年で五十二歳になり、ルシアンより二歳上だった。若い頃はほとんど同じだった肩幅も、今では剣術を好む王の方がわずかに広く、服の仕立てだけでは誤魔化せない差が出ている。
その差を埋めるため、三年前から週に三度は近衛の訓練へ混ざり、苦手な剣を若い兵士たちと同じように振っていた。足を踏み込めば膝が痛み、受け損なえば翌朝まで腕が痺れることもあるが、王が剣を続ける以上、自分だけ腕や肩を細くするわけにはいかなかった。
「帯を一つ内側へお願いします。先月より少し落としましたので、そのままだと腰回りが余って見えます」
「また体重を合わせられたのですか。陛下は春から少し絞られましたから、大変だったでしょう」
「二月で三斤ほどです。冬は逆に増やしましたから、戻したと言った方が近いですね。今度は急に増やされないことを願っています」
侍従が笑いながら帯を締め、エティエンヌも鏡の中で口元を緩めた。
今日は、以前から予定されていた西方巡察の初日だった。公式には国王ルシアン三世が王都を出て、街道沿いの村や町へ立ち寄りながら六日か七日をかけてベルクへ向かうことになっているが、本物のルシアンは巡察隊とは別の場所から秘密裏にどこかへ向かう。
その事情を知る者は、この支度部屋の中でもごく限られていた。
エティエンヌは鏡の前で立ち上がり、王家の意匠が入った剣帯を腰へ回した。鞘の長さも柄の位置もルシアンが普段使うものと揃えてあり、刃そのものは儀礼用でも、腰へ佩いた時の重さは実剣と大きく変わらない。
左足を半歩前へ出して肩を開き、右肩だけをほんの少し後ろへ引く。王が少年時代から続けている立ち方で、肖像画には描かれない程度の癖だった。
鏡の中に下級貴族の三男はおらず、国王ルシアン三世その人が立っていた。
「声も確認しておきます。朝は普段より少し低めに出されることが多いので、今の時間ならその辺りが自然でしょう」
侍従へ頷いてから一度だけ喉を鳴らし、朝のルシアンが使う高さへ声を寄せた。
「今日の最初の立ち寄りは、昼前のエマール村だったな。村長の挨拶のあと、共同井戸を見る予定だったはずだ」
さっきまでより少し低く、息を前へ出しすぎず、語尾だけは遠くまで届くよう明瞭に切る。
侍従は目を閉じて最後まで聞き終えると、満足そうに一度だけ頷いた。
「今朝の陛下なら、そのくらいでしょう。昼を過ぎれば、もう少し声が前へ出ると思います」
「では、その頃に少し上げます。一日中同じ声の方が不自然ですから、時間に合わせて変えた方がよいでしょう」
職業札へ《役者》と出たのは、まだ将来を何も決めていなかった十二歳の時だった。行政官を多く出してきた下級貴族の家に生まれ、兄たちと同じように地方官か王宮の書記へ進むものと思われていた。演劇の盛んな家でもなく、身内に役者もいなかったので、父が札を見てしばらく困った顔をしていたのを今でも覚えている。
最初は祭礼の余興で台詞を読まされ、その次には王宮の祝宴で若い貴族たちと短い芝居を演じた。成人する頃には、職業より先に別の特徴を周囲から指摘されるようになっていた。
王太子ルシアンと、顔立ちも背丈もよく似ていた。二十二歳の時に初めて呼ばれ、王太子の代わりとして馬車の窓辺へ座ってから、すでに三十年が経っている。
その間には縁談もいくつか持ち込まれたが、いつ何日姿を消すのか説明できず、王と同じ体格を保つために生活まで合わせ、妻となる相手にも仕事の中身を話せない。二度ほど話が進んだところで、エティエンヌの方から断った。
惜しくなかったわけではないが、《役者》として自分にしかできない仕事があり、その相手が心から仕えたいと思える王だった。三十年続けてきた理由として、エティエンヌにはそれで足りていた。
「陛下、王車を出す準備が整いました。西門までの先導も配置済みですので、いつでも出発できます」
扉の外から準備完了を知らせる声が届くと、エティエンヌは鏡の中の姿を最後にもう一度だけ確かめた。
◇
王都の西門を出て半日ほど進むと、沿道の家が減り、麦畑の間を抜ける街道が視界の先まで伸びていた。
王車の窓は薄い幕で覆われ、外から中を覗き込めない。村へ近づく時だけ幕を上げ、国王が乗っていることを沿道から確認できるようにする。
最初の立ち寄り先であるエマール村では、王旗が見えた途端に街道沿いへ人が集まり、農作業の途中らしい泥のついた靴のまま頭を下げている者も多かった。
王車が止まり、侍従が踏み台を置き終えるまで、エティエンヌは一呼吸だけ待ってから立った。右足から地面へ下り、外套の裾へ自分では触れず、そのまま一歩進んで村長へ顔を向ける。
本物のルシアンなら、侍従が踏み台を置き終える前に足を出し、また注意されていたかもしれない。しかし地方の人々が待っているのは、目の前の予定を急ぐ男ではなく、落ち着いて自分たちを訪ねてくれた国王だった。
「国王陛下、本日はこのような小さな村までお越しくださり、村人一同、これ以上ない名誉と感じております」
村長の挨拶は、用意してきた言葉を一つも落としたくないらしく、かなり長く続いた。エティエンヌは途中で遮らず、穏やかな顔のまま最後まで聞いた。本物なら三つ目の修辞が出る前に今年の麦か井戸の水量を尋ねていただろうが、その先に何を聞き、何を決めるかまで代わりに始めるつもりはなかった。
「出迎えに感謝する。忙しい時期に長く手を止めさせるつもりはない。今日は共同井戸と街道の様子を見せてもらいたい」
離れた村人にも届く程度まで声を通し、演説のように張り上げないところで音量を止める。村長が深く頭を下げたところで、人垣の端から小さな女の子が一人だけ前へ出てきた。両手には白い野花を束ねたものを持っており、母親らしい女が慌てて腕を伸ばしたが、子どもの方が先にエティエンヌの前まで来てしまった。
「へいかに、あげます。おかあさんといっしょに、あさにとりました」
列を守っていた衛兵が一歩だけ身体を動かしたので、エティエンヌは片手を下げてその動きを止めた。
こういう時にルシアンがどうするかは、三十年見ていれば迷う余地がない。片膝をわずかに曲げ、子どもの目の高さまで身体を下げる。
「ありがとう。きれいに摘めているな。白い花は、君が選んだのか」
「しろいのが、いちばんきれいだから、それをいっぱいにしました」
「それなら、帰るまで持っていこう。朝から摘んだなら、途中で水も飲ませないとな」
花束を受け取ると、子どもの母親が青ざめた顔で何度も頭を下げた。
共同井戸の確認を終え、再び王車へ乗る直前には、村長まで感極まった顔で深く頭を下げた。
「陛下がこれほど近くで村の者へ声を掛けてくださるとは、一生忘れません。以前より、さらにお優しくなられたように思います」
エティエンヌは笑顔を崩さず、その言葉を国王として受け取った。
王車へ戻ると、向かいに座った随行官が行程表を開きながら小声で話しかけてきた。
「今日の陛下は、いつにも増して威厳がおありになりますな。村長もすっかり緊張していました」
「それは何よりだ。予定が遅れていないなら、次へ進もう」
随行官が次の立ち寄り時刻へ視線を戻したあと、エティエンヌは窓辺へ置いた白い花束を見た。朝に摘まれた花が萎れないよう、次の宿で水へ挿してもらうことにした。
◇
二日目の午後、巡察隊が街道沿いの小さな町へ近づいたところで、エティエンヌは王車の窓から川沿いへ目を止めた。
石積みの水路が一部崩れ、木板で仮に押さえられている。春の水量はまだ多くないが、崩れた場所の下では泥が広がり、畑の端まで細い水筋が伸びていた。
あれを見つけた本物のルシアンなら、王車を止めて自分の足で近くまで行く。
「次の予定まで、どのくらい余裕がある。町で確認する予定は宿駅だけだったな」
向かいに座る随行官が膝の上で行程表を開いた。
「半刻ほどございます。陛下が昼食を短くされるなら、もう少し取れます」
「水路の補修について、町から報告は上がっているか確認してくれ。私はここでは降りない」
随行官が行程表から顔を上げ、窓の外へ見えている崩落箇所を確かめた。
「ご覧にならなくてよろしいのですか。あそこまで崩れているなら、近くで見た方が早いかもしれません」
「今ここで私が見ても、補修費を決められる担当者が揃っているわけではない。いつ崩れ、誰が仮補修をしたのかだけ記録へ入れてくれ」
部下が記録を取りに向かい、王車そのものは止まらないまま町へ入った。
若い頃のエティエンヌは、この線を一度だけ越えたことがある。声も歩き方も十分に似せられるようになった頃、地方の役人から予定外の訴えを受け、ルシアンならこう答えるだろうと考えて、その場で返事をした。
王都に帰った後に報告すると、ルシアンは怒鳴らず、長い間黙ってから一つだけ言った。
「お前が私をよく見ていることと、お前が私の判断することは別だ。そこは混ぜないでくれ。判断とは…時に辛いこともあるからな」
それ以来、エティエンヌは王の癖と同じくらい、自分が越えてはいけない一線も覚えている。
午後に町を出る頃には、水路が崩れた時期と仮補修をした者の名前まで記録へ入り、王都で確認する案件の一つとして整理されていた。
◇
三日目から五日目にかけて、巡察隊はさらに三つの村と一つの宿場へ立ち寄ったが、行程を組み直すほど大きな問題は起きなかった。
麦の作柄が前年より落ちている村では、徴税の軽減をその場で求める者がいた。エティエンヌは収穫量と倉の残りを記録させ、返答は王都へ戻ってからとした。
別の村では、前年に直した橋が無事に冬を越していたので、工事を担当した職人へ国王として礼を伝えた。
宿場では、料理人が緊張しすぎて塩を入れ忘れた羊肉が出た。ルシアンなら料理人を責めず笑って食べると分かっていたので、エティエンヌも顔色を変えず最後まで食べ、夜になってから侍従と二人で干し肉を齧った。
巡察の途中に泊まった町では、王用の浴室に置かれていた秤で体重も確かめた。王都を出た朝より半斤ほど減っていたため、その日の夕食ではパンを一つ多く食べ、ベルクで本物と並んだ時に頬や肩の線がずれないよう調整した。
食べる量、座る時の姿勢、杯を持つ位置、馬車から降りる速さ、疲れた時に右肩を回す癖まで、六日間の巡察では顔以外にも合わせるものがいくらでもあった。
◇
六日目の夕方になると、ベルクの城壁が街道の先へようやく見えてきた。街道の両側には出迎えの者が増え、王都を出た日のように、王旗を見ようと人が集まっている。
ベルクへ入ると、城門から領主館までの道にも住民が並び、子どもが旗を振り、商人たちは店先へ出て頭を下げていた。エティエンヌは王車の窓から外へ顔を見せ、決めていた場所で一度だけ手を上げる。
「国王陛下、万歳! ルシアン陛下、ようこそベルクへお越しくださいました!」
街路から上がる歓声の中に、当然ながらエティエンヌという名前は一度も混じらない。
領主館へ入って歓迎の挨拶を受け、明日からの視察予定まで確認したあと、長旅の疲れを理由に王用の私室へ早めに下がった。扉の内側で待っていた侍従が無言で奥の小部屋を示したので、そのまま入る。
そこには旅用の濃紺の外套を着た、本物のルシアンが立っていた。王衣ではなく、裾には街道の土が薄く残っている。頬には六日前より少し色が付き、髪も王都を出た朝ほどきれいには揃っていない。やはり、立った時の右肩はわずかに後ろへ引かれていた。
同じ部屋に、よく似た顔と体格の男が二人、互いの姿を確かめるように並んだ。セドリックが壁際から二人を見比べ、先に息を吐いた。
「並ぶと、余計にややこしいな。外では絶対にやらないでくれ。説明できる気がしない」
「私も同感だ。エティエンヌ、長い道を任せたな。予定より早く着いて助かった」
ルシアンが六日ぶりに、本来の名前でエティエンヌを呼んだ。長い旅程をこなすと、時々自分の名前が他人の名のように聞こえることがある。
「予定されていた行程は、すべて終えています。判断を求められた案件は随行官へ記録させましたし、大きな遅れもありません」
「途中で何かあったか。書類に流れる前に、気になったものを先に聞かせてくれ」
「二日目に宿駅の手前で水路の崩落を見ました。仮補修はされており、王都へ帰った後の確認案件へ入れています。エマール村では共同井戸に問題はありません。三日目の宿泊地では、麦の作柄が前年より少し落ちているという話が複数ありました」
水路の話まで聞いたところで、ルシアンの目が少し細くなった。
「水路を見に降りなかったのか。私なら降りていたと思うが、よく我慢したな」
「陛下なら降りられたと思います。ですが、私がその場で新しい話を始めれば、その場で止める者がいません」
「そうだな。私より私を扱うのが上手い」
ルシアンは王衣を着たエティエンヌを上から下まで見てから、少し呆れたように笑った。
「それにしても、本当に私より王らしく見えるな。地方官が畏まる姿が目に浮かぶ」
「そう見えなければ、三十年も続けておりません」
エティエンヌが平然と答える横で、セドリックが小さく笑った。
「陛下は予定表の外へ出ますからな。エティエンヌ殿の方が、地方官にとってはずっと扱いやすい国王でしょう」
「それは褒められているのか。私は予定表を守るために地方へ出ているわけではないぞ」
「今回は予定を乱さないことが必要だった、という意味です。明日からはご自分でお好きになさってください」
「言われなくてもそうする。道中の記録は全部読ませてもらう」
ルシアンはそこで、エティエンヌの腰にある自分と同じ意匠の剣へ目を向けた。
「剣の稽古も続けているそうだな。無理に私へ合わせなくてもいいと言ったはずだが、まだやっているのか」
「肩の形が変わると、外套の上からでも分かります。陛下が剣をやめられない以上、私だけ細くなるわけにはいきません」
「私は好きでやっているんだが、君は昔から剣が苦手だっただろう」
「存じています。私は仕事でやっていますので、好き嫌いは別の話です」
その返事を聞いたルシアンは、堪えきれないように遠慮なく声を出して笑った。その笑い方は、エティエンヌが六日間の巡察中、一度も人前で真似しなかったものだった。
◇
表で歓迎の宴が始まるより前に、本物と影武者の交代を済ませた。王衣を脱いだエティエンヌは、首元を締めていた飾り帯を外し、王家の意匠が入った剣帯を侍従へ渡した。三十年近く何度も佩いてきた位置から重さが消えると、剣がない腰の方に一瞬だけ違和感が残った。
侍従が用意していたのは、くすんだ灰色の上着と、地方官の随行員なら誰でも着ていそうな茶色の外套だった。着替えたあと、エティエンヌは再び鏡の前へ座る。
今度の支度では、朝とは反対に、身体に残ったルシアンを消していく。髪の分け目を朝とは反対へ変え、額へ少し垂らして顔の印象を崩していく。眉の端へ薄い色を足して形を崩し、短く整えていた髭にも灰色を混ぜる。
最後に小さな布包みを開くと、柔らかく丸めた綿がいくつか入っていた。右の頬の内側へ一つ入れ、舌で位置を押して奥へ寄せる。左には少し小さいものを入れ、正面から見た時に輪郭が左右対称にならないよう調整した。
綿を入れ終えると、侍従が横へ回り、正面と横顔を続けて見比べた。
「もう少し右を膨らませますか。正面から見ると、まだ頬骨が陛下に似ています」
「これ以上入れると発音が崩れます。髪の方を少し下げてください。その方が口を動かしやすいです」
髪を直してもらったあと、エティエンヌは一度だけ喉を鳴らした。
「帰りの隊列は南側の門から出る予定でしたね。途中の宿では、私は書記官付きの随行員という扱いでお願いします」
さっきまで国王として使っていた張りのある声とは違い、息を少し多く混ぜた低い声にはわずかな掠れがある。頬へ入れた綿で口の中の形も変わっているため、同じ言葉を話しても響きまで丸くなった。
侍従は目を閉じて聞き終えると、鏡越しに頷いた。
「その声なら、近くで聞いても陛下とは思わないでしょう。頬の輪郭も十分変わっています」
「それなら、あとは歩き方だけ変えれば十分でしょう。王都まで保てればいい変装ですから、朝ほど作り込む必要はありません」
椅子から立ち上がると肩を少し内側へ入れ、王として歩く時より歩幅を狭くした。視線も少し下げ、人と正面から目を合わせ続けないようにすると、鏡の前を三歩往復しただけでも立ち姿の印象が大きく変わる。
少し頬の丸い、疲れた顔の下級貴族が鏡の中へ立っていた。扉の近くで待っていたルシアンが、その姿を見て眉を上げる。
「毎回思うが、私になった時より別人になる方が早いな。さっきまで同じ顔だったとは思えない」
「陛下になる支度は、人前へ出ても崩れないよう作ります。こちらは王都へ戻るまで保てば足りますので、手数が違います」
「なるほど。エティエンヌ、今回も本当に助かった」
変装を終えた男へ、ルシアンはもう一度その名前を向けた。
「ご苦労だった。ベルクまで無事に私を連れてきてくれた」
「予定どおりです、陛下。明日からは本物にお返ししますので、視察の続きはご自分でお願いいたします」
「好きに歩き回るなと言われているように聞こえるな」
「そのような意味は含めておりません。少なくとも、声には出していないつもりです」
「今の声で言われると、本当に別人と話している気がする」
エティエンヌは頬の綿をずらさない程度に、口元を少しだけ緩めた。
◇
日が落ちる前、王都へ戻る小さな一団がベルクの南側の門を出た。
往路に掲げていた大きな王旗はなく、騎馬が数人と、記録や荷を積んだ馬車が二台だけで街道へ向かう。西方巡察の途中で王都へ戻す書類と人員という扱いなので、城門で見送る者も多くなかった。
エティエンヌは一台目の馬車の後ろを、自分の馬で進んでいた。灰色の上着と茶色の外套をまとい、頬まで少し丸くなった姿には王家の意匠が一つも残っていない。背筋は王車から降りた時より少し曲げ、手綱を持つ位置も低くしていた。
門番は札を確認したが、顔を二度見ることなく次の騎馬へ視線を移した。
街道へ出ると、後ろでベルクの城壁が少しずつ遠くなっていく。ほんの一刻ほど前まで、あの城壁の中では大勢の人間がエティエンヌへ頭を下げ、ルシアン陛下と呼び、国王の到着を喜んでいた。
前を行く随行官が速度を落とし、馬を横へ少し寄せる。
「デュ・マレ卿、次の宿まで二刻ほどです。日が落ちる前には着けるでしょう」
王都を出てから一度も使われなかった自分の家名を、エティエンヌは六日ぶりに聞いた。
「分かりました。このまま進みましょう。途中で私のために止める必要はありませんので、皆と同じ行程でお願いします」
少し掠れた声で返すと、随行官は頷いて前の位置へ戻っていった。
街道が大きく曲がる手前で一度だけ後ろへ顔を向けると、夕方の光を受けたベルクの城壁の上に王旗が小さく見えた。
エティエンヌは丸めた背中のまま前へ向き直り、馬の歩幅を先を行く随行員へ合わせながら、王都へ戻る列の中へ紛れていった。




