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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
王冠と三つ火

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炉守りは王を迎えます

 朝食の片づけが終わったあとから、ミラは同じ挨拶を何度も練習していた。


 食堂の長卓には洗い終えた木杯が伏せてあり、その端でエルネが帳面を閉じている。窪地では朝から風が出ていたので、ミラは寝具の布や肌着を洗って干してから戻り、エルネの前へもう一度立った。


「セルディア国王陛下、洞窟まで来てくださってありがとうございます。ミラと申します。そのあとに、何を言うんでしたっけ」


「そこで止まると、挨拶が試験みてえになるべ。最後に皆も待ってたって入れればいい。おめえが普段しゃべる通りでいいから、王様じゃなく国王陛下だけ忘れんな」


 エルネは朝から三度、同じところを直していた。頭を下げる深さまで決めようとはせず、名乗ることと、来訪を歓迎していることが伝われば十分だと言う。


 頭を下げる深さや手の位置まで決められるより、言うことが三つに絞られている方がミラにはずっと助かった。


「では、もう一度やります。途中で違っていたら、最後まで言ってから教えてください」


「そうしろ。途中で止めると、おらまで本番で口出ししたくなるからな」


 ミラが息を吸い直したところで、食堂の外からベラの声が聞こえた。昼に使う鍋をどちらにするか、客の人数が分からないうちから決めても仕方ないと分かっているのに、朝から二度も鍋の棚を開け直している。


 王が来ると決まってから、洞窟の中では普段と同じ仕事の合間に、客を迎えるための準備が進められた。


 ベラは食器の数を確かめ、エルネはミラへ挨拶を教える。工房ではフレイが通路へ出ていた材料箱を壁際へ寄せ、ティルダは白魔鋼の切り粉だけは踏まれないよう掃いていた。


「途中の部品まで片づけたら、どれがどれか分からなくなるからね。王様が見るなら、作ってる途中も見ればいいよ」


「姉ちゃん、床の長板だけは壁へ立てよう。踏まれて割れたら、王様でも材料は戻してくれないでしょ」


 二人とも普段の作業着のままで、王を迎えるために工房を見栄えよく飾る気はないらしかった。


 祭壇ではリュネが水皿を替えたあと、薬草の小皿を一つずつ元の位置へ戻していた。


「普段使ってる物まで隠したら、何をする場所か分からなくなるよね。水をこぼしそうな物だけ端へ寄せておく」


 エイルは窪地の入口に積んであった射撃訓練の縄と木片を片づけていた。王が何人の護衛を連れてくるか分からない以上、入口の近くに余計な物を置かない方が歩きやすいという。


 人間の王が来ると聞いても、兄妹はそれ以上に慌ててはいなかった。


 ロアンも普段の歩き方を変えるほどには慌てず、酒蔵と食堂を二往復していた。最初は林檎酒の小瓶を持ってきて、次には蒸留酒まで抱えて戻り、ベラから昼前に酒瓶を並べるなと追い返されている。


「夜までいるなら、何か飲みたいかもしれないでしょう。王様が酒を飲まない人なら、僕たちで飲めば無駄にもならないしね」


「飲むかどうかを聞いてから出しな。客が来る前から酒だけ並べてる家だと思われるだろう」


「それはそれで、うちらしい気もするけどなあ」


 ベラはその返事を聞くと呆れたように眉を上げ、言い返す代わりに厨房の戸を閉めた。


 ティルダとフレイも、エイルとリュネも、人間の王そのものより、自分たちの仕事場へ客が入ることの方を先に考えているようだった。その一方で、エルネは朝から襟元を何度も直している。いつもの上着なのに布が少し歪み、本人も気づいて直しては、しばらくするとまた指がそこへ戻った。


「エルネさんも、今日は緊張していますか。さっきから襟を何度も直しています」


「するに決まってるべ。おら、商会長に呼ばれた時だって前の晩から腹痛くなったんだぞ。それが今日は国王陛下だ。比べる相手が悪すぎる」


 そう言いながらも、ミラの挨拶を聞く時だけは声が普段へ戻る。


 今日の何刻に着くのかは、まだ聞いていなかった。だからミラは、洗濯物が乾くまでにはもう一度《炉縁者通信》を使い、到着時刻と人数を確かめようと思っていた。


 けれど、昼まで待ってこちらから呼びかける必要は、思っていたより早くなくなった。


「ミラ、今から帰るぞ。王とセドリック、それに護衛が五人いるから、窪地の真ん中を空けておいてくれ」


 レオンの声が届いた瞬間、ミラは今度こそ最後まで言えるはずだった挨拶を忘れた。


「今からなんですか。昨日、一刻前には教えてくださいとお願いしましたよね」


 返事を聞きながら食堂を飛び出すと、風に膨らんだ布が干し縄を引き、白い肌着の袖が隣の布へ絡んでいた。


 王も護衛も、すでに向こうで全員揃っているらしい。


「分かりました。洗濯物を取り込んで、皆さんにも今すぐ伝えてきます。バルトさんも一緒ですよね」


 バルトも一緒だと聞いて通信を切ると、レオンがすぐ《帰還》を使うと言っていたことを思い出した。


 ミラは干し縄から大きな寝具を二枚続けて外し、腕の中で畳む余裕もないまま籠へ押し込んだ。


「王様とセドリックさん、それに護衛の方が五人で、もう帰ってきます!」


 窪地へ声を飛ばすと、厨房で鍋の蓋が鳴った。工房から双子が顔を出し、エイルは入口の方へ振り返る。


 その知らせに最初に身体を動かしたのはキュウで、レオンが帰ると分かったらしく、黄土色の背がミラの横を抜けて洞窟の入口へ走っていった。


 入口へ向かうキュウを見たエイルも、射撃用の縄をその場へ置いてすぐ後を追った。


 ミラは二人を追う代わりに干し縄へ向き直り、まだ残っている次の布を急いで外した。


 背後ではベラが大鍋の方へ火を移し、双子が最後の長板を壁へ立て、リュネが祭壇の水皿を置き直している。ロアンは食堂に置いたままだった酒瓶を一本抱え、今度こそ酒蔵へ戻していた。


 食堂から出てきたエルネも、籠を抱えたまま動くミラの横まで足早にやってきた。


「ミラ、挨拶はさっきのでいい。急いで別の言葉を足すなよ。おらも横にいるから、あとは普通に話せばいいべ」


「分かりました。残りを入れたら、すぐ入口へ行きます」


 干し縄には、あと数枚しか残っていなかった。ミラは大きな布から順に外して籠の上へ重ね、最後に目へ入った上着を引き抜いた。


 洞窟の入口側からキュウの爪が土を蹴る音が届き、続いて聞き慣れない複数の靴音が同じ方向へ素早く動いた。


 ミラは籠を抱え直して食堂まで走り、入口脇へ置くと、集まってきたベラやエルネたちと一緒にすぐ外へ出直した。


     ◇


 窪地へ出た時には、キュウはレオンの脇まで来ていた。


 その少し向こうで、同じ軽鎧を着た五人が王を囲む形から離れ始めている。誰も剣を抜いておらず、レオンも普段と変わらない顔でバルトの手綱を持っていた。


 中央にいる濃紺の外套の男は、五人の近衛が真っ先に囲ったことから見ても国王ルシアン三世なのだろう。その隣には旅装の男が立ち、さらに後ろでは四人の近衛と隊長らしい男が窪地を見回していた。


 ミラは皺の寄った前掛けを両手で伸ばすと、エルネに教わった順番を頭の中で一度だけ辿り、ルシアンへ向き直る。


「セルディア国王陛下、洞窟まで来てくださってありがとうございます。ミラと申します。皆さんもお待ちしていました」


 朝から何度も練習した言葉は、途中で詰まることなく最後までそのまま口から出た。エルネの方を見たい気持ちを我慢したところで、ルシアンの肩越しに白いものが揺れた。


 白く揺れていたものは、さっき全部見たつもりでいた干し縄のいちばん端に残っていた。さっき外した上着の陰に隠れていた白い肌着が一枚、風にそよいでいた。


「すみません、ひとつだけ取り込み忘れていました。すぐ戻りますので、ここで少し待っていてください」


 頭を下げてから、ミラはもう一度干し場まで走った。肌着を外して戻ると、ルシアンはキュウの鼻先と、抱えてきた洗濯物を順に見ていた。その隣ではセドリックが口元へ手を当て、ミラと干し場の間へ視線を往復させていた。


「お待たせしました。今度は全部取り込みましたので、中へご案内します」


 中へ入る前に、レオンが隣の旅装の男をセドリック、その後ろの隊長をマティアス・グレンだとミラへ紹介し、残る四人も同じ近衛隊の護衛だと教えた。


「こちらこそ急に来た。昨日一刻前に知らせてほしいと言われたそうだな」


「はい。ですが、挨拶は朝から練習していたので間に合いました。洗濯物の方が一枚だけ間に合いませんでした」


 ルシアンはそこで初めて、朝から見せていた落ち着いた顔のまま口元だけを少し緩めた。


「では、私も朝から楽しみにしていたことを始めよう。まずは君たちが普段いる場所を見せてほしい」


 ミラが食堂の入口を開けると、主洞の中央で金色の火が普段と変わらず揺れていた。


     ◇


 ルシアンが最初に長く足を止めたのは、その帰り火の前だった。


 主洞へ入れば誰でも目にする場所なので、ミラにはどこから説明すればよいか分からない。薪を置く場所もない炉を、王は正面だけでなく横からも見た。


「この火は、何かの細工をしているわけではないんだな。薪が見当たらない」


「私がここへ来た時から消えていません。薪も炭も入れたことはなくて、料理に使う火とは別です」


 そこから先の確認は、食堂の長卓で行われた。ミラは自分の職業札を首から外し、職名の欄だけを見せるよう意識した。普段なら自分にだけ読めるはずの札に、崩れた文字が並んでいる。隣に座ったベラも自分の札を開き、職名の欄だけを王へ見える状態にして卓の上へ置いた。


「私の職は《炉守り》です。でも普通の札だと、ここは読めないままです」


「あたしは《炉火継ぎ》だよ。前は《爆炎術師》だったけど、今は同じように職名だけ読めないね」


 ルシアンは二枚の札を順に見比べ、どちらの職名欄にも読める文字がないことをしばらく確かめていた。


 王都ではレオンの札から、王国に登録されていない職能識別が実際に検出されている。さらにルシアン自身も《帰還》の随伴対象となり、王都から洞窟まで一瞬で運ばれたばかりでもある。新しい職が生まれる瞬間を今ここで再現することはできないと、ミラは隠さずそのまま話した。


 それから昼前まで、ルシアンはいくつか質問をした。質問は、ミラが最初に洞窟へ来た時から、キュウが炉縁者になり、ベラの職が変わり、レオンが《旅商人》から《炉還り》を選ぶまでを順番に辿っていった。その経緯を全部ミラ一人が答えたわけではなく、本人が見ていない場面では自然に別の者へ話が渡った。


 自分が見た場面は自分で話し、見ていない場面ではその場にいた者が話した。ベラは自分の職が変わった時のことを説明し、ロアンや双子も、覚えている範囲だけを補った。分からないことは分からないまま残り、帰り火を誰が作ったのか、なぜ職業を変えられるのかを答えられる者はいなかった。


 ルシアンは最後に、卓の上へ置かれたミラとベラの札をもう一度見た。


「この国では、一度授かった職は生涯変わらない。誰もがそう教えられて育ち、役所も軍も、そのつもりで人を扱っている」


 ルシアンは二枚の職業札を見比べ、持ち主の前へ返した。


「ところが、君たちはその常識を覆した。……正直に言えば、国王としては頭の痛い話だ。王都へ持ち帰れば、仕組みが分かるまで君たちを調べたいと言い出す者もいるだろう」


 ルシアンは帰り火の方へ目を向けた。


「だが、私はそうしたくない。何が起きているのかを知るために、君たちの暮らしを壊すような真似はな。今日は職業札だけでなく、ここでどんな仕事をして、どう暮らしているのかも見せてほしい」


 ミラは何か答えようとして、隣でベラが立ち上がる方へ先に目が動いた。


「それなら、話の続きは昼飯を食べながらにしな。七人増えるって聞いてから、鍋がずっと待ってるんだよ」


「ベラさん、陛下に向かって昼飯でいいんでしょうか」


「食べる物は昼飯だろう。王様だからって昼だけ別の名前にはならないよ」


 ルシアンが先に笑い、セドリックも椅子を引いた。朝から続いていた確認は、そこでいったん終わった。


     ◇


 昼食のあと、ルシアンたちは洞窟の中を歩いた。王を案内すると考えると、ミラは何か特別な順番を作るべきかと思っていた。実際には、食堂から近いところを順に回る方が分かりやすかった。あたりまえだった。


 厨房と冷蔵室を見たあと、一行は槌の音が止まったばかりの工房へそのまま入った。ティルダとフレイは作業台だけ空けていたが、壁際の棚も床の材料箱も普段のままだった。青魔鉄の棒材、白魔鋼を外した古い武具、精霊樹の板、魔物革、失敗した留め具が、それぞれ札を付けて並んでいる。


「白い方が、レオンが王都へ持ってきた金属か」


 ルシアンが尋ねると、ティルダは作業台から薄い板を一枚持ち上げた。


「白魔鋼。軽いし魔力を通しやすいけど、何でもこれだけで作ればいい金属じゃないよ。力を受ける芯なら青魔鉄の方が使いやすい」


「この留め具は両方使ってる。白魔鋼を魔力の通り道にして、荷重を受ける方は青魔鉄。分けた方が薄くできるところもあるの」


 フレイが別の部品を裏返し、接合部を見せた。


 ルシアンは二人の説明を聞いたあと、今度は作業台の端に置かれた精霊樹の薄片へ目を向けた。


 そこへリュネが来て、昨日から祭壇で反応を見ていた部品を一つ戻した。ティルダは受け取るとすぐ光へ透かし、フレイが横から留め穴の位置を確かめる。


 ルシアンはその三人の手元を、しばらく何も聞かずに見ていた。ミラには、どこが気になったのか分からなかった。


「その作業は、誰か一人に命令されてやっているわけではないんだな」


「精霊に何をしてほしいか決めるのは、使う人や双子とも相談するよ。私は相性を見るけど、金属の形まで決められないから」


「精霊が嫌がる素材なら戻してもらうし、寄りやすいなら、その前提で形を変える。作ってから全部リュネに任せるわけじゃないよ」


 フレイがそう答えると、ルシアンは一度だけ頷いた。


 工房を出たあとに案内した祭壇でも、ルシアンは先ほどと同じように長く足を止めた。水皿の前には薬草や小さな部品が並び、壁際には色糸を結んだ薬瓶が置かれている。リュネにしか見えない精霊について説明を受けても、ルシアンは見えないものを見ようとはせず、水面が細かく揺れるところや、祭壇から戻された部品を確かめていた。


 次に外へ出ると、精霊樹の林、畑、馬房を回った。エイルがエッダとネラの馬具を確認している横で、ティルダが荷車の金具について話し始める。リュネは畑から薬草を一束抜き、ミラへ根の色を見せてから洗い場へ持っていった。


 窪地の中を回っているあいだ、ルシアンは説明を求めるでもなく、ときどき同じ場所で足を止めた。ドワーフの双子とエルフの兄妹が一緒に作業している時に、その回数が少し増える。


 ミラは最初、何か失礼なことをしているのかと思った。しかしルシアンは注意するでも質問するでもなく、少し見てから次へ歩く。その理由は、最後までミラにはよく分からなかった。


 地下については奥まで案内せず、重い石扉を開けて第一層の冷気が届く入口側を少し歩くところまでにした。食堂の壁にある最深到達階層の表示は、今は第五層になっている。ルシアンはその数字と石扉を見比べたが、奥へ進みたいとは言わなかった。


 石扉の向こうへ入ると、第一層の冷えた空気が足元を抜けた。以前なら一つずつ持ち帰る量を考えていた素材も、今は収納宝珠や第五層へつながる中継石室を使える範囲が増えている。


 ミラは、どこで魔石を拾い、どの層から白魔鋼を回収し、三層の樹液や薬草をどう持ち帰るかを話した。話しながら、自分たちが地下へ入る理由が、いつの間にか敵を倒すことだけではなくなっていることに気づく。


 冷蔵室の魔石も、工房の金属も、祭壇の素材も、食卓へ出る肉も、地下から持ち帰った物が多い。


「ここは、冒険者が一度宝を取りに入る場所というより、採って、戻って、また使う場所になっているんだな」


 ルシアンの言葉に、ミラは少し考えてから頷いた。


「はい。なくなった物を取りに行くこともありますし、新しい物を見つけたら、帰ってから使い道を考えます」


 ルシアンはその返事を聞くと次の質問を重ねず、地下についてはそれ以上の説明を求めなかった。


     ◇


 食堂へ戻ると、セドリックだけは工房や地下より、エルネの帳面の前で長く動かなくなった。


 エルネは最初、王の補佐官へ何から見せればよいか迷ったらしく、三冊並べた帳面を一度閉じた。それから直近の定期荷と、ベルク・ラトスの受取をまとめた一冊だけを開いた。


「こっちは売った物と入った銭。こっちは次に出す荷と、石交換や修理で戻ってくる分だ。全部を一つにすると、まだ売ってねえ材料まで儲けに見えるから分けてる」


「冷蔵箱は今、二十台が外で使われているのか。待っている注文が十二台で、修理はラトス側でも回せる」


「そうだべ。軽い修理なら向こうで直せるし、交換用の小氷魔石も定期荷へ混ぜてる。酒と肉も同じ荷へ載せる時がある」


 セドリックは頁を何枚か戻し、別の欄を指で追った。


「これだけ売っているのに、仕入れの金額が増え方ほど伸びていないのは、材料の多くをここで得ているからか」


「青魔鉄も、魔物素材も、酒の林檎もそうだな。ただし、だから丸ごと儲けって話じゃねえぞ。採る人間、加工する人間、運ぶ人間の時間まで銭に書いてないだけだ」


「そこまで分けているなら話が早い。私は現金だけでなく、何人の手がどこへ取られているかも知りたかった」


 セドリックは支出の頁と売上の頁をもう一度見比べた。


「食料や道具を買い、外の運び手も雇って、それでも現金は残っている。しかも、生産しているのはほとんどここにいる者か」


「外へ運ぶところは商人や荷運びにも頼んでる。でも酒を仕込むのも、箱を作るのも、肉を加工するのも、元はだいたいここだな」


 その二人は、そこからしばらくミラには追えない速さで帳面をめくった。-何樽をどこへ出したか、冷蔵箱の交換石を何個回したか、ベルクで売る物と王都まで送る物をどう分けたか。エルネは数字だけで答えず、誰が作り、誰が運び、どこで作業が詰まるかまで話している。


 数字と荷の話が長くなるにつれ、ルシアンも立ったまま聞くのをやめ、途中から二人の横へ椅子を引いて座った。


 ミラは水を足しながら聞いていたが、セドリックが帳面から顔を上げたのは、現在の売り物を一通り確認したあとだった。


「さっき工房で見た白魔鋼の加工品は、この帳面にはまだないな」


「王都で値を見てもらう前だからな。売り物にしてねえ」


「祭壇で付与した装備も、精霊樹の家具も、あの薬瓶も?」


「自分らで使ってるだけだ。薬なんか、今は地下へ入る連中の分を作る方が先だべ」


 そこで初めて、帳面の頁を追い続けていたセドリックの指が同じ行の上でしばらく止まった。


「蒸留酒は売っているのか。醸造所に、普通の林檎酒とは別の樽があっただろう」


 ちょうど酒蔵から戻ってきたロアンが、その質問だけは聞き逃さなかった。


「まだ売ってないよ。蒸留した酒を小さい焦がし樽で休ませてるところ。味が決まってから値段を考えたいからね」


 セドリックは帳面を閉じ、工房と祭壇のある方へ一度視線を向けた。


「陛下。帰ってから検討する仕事が、思っていたより増えそうです。困ったことに、少し楽しみになってきました」


「白魔鋼も薬も、お前に任せる。だが酒まで仕事に数えるなよ。そっちは私も飲む」


 ルシアンが答えると、エルネは閉じた帳面を胸へ抱えたまま、ようやく椅子の背へ身体を預けた。その時、厨房から焼けた肉の匂いが流れてきた。


     ◇


 夕食には、レオンが王都へ行く途中で倒した《岩牙大猪》の肉が出た。


 昼のうちにベラが収納宝珠から必要な部位だけ出させ、厚く切った肉へ香草と塩を擦り込み、表面を強く焼いてから火を落として中まで通してある。


 大皿へ載せられた肉は縁が濃く焼け、切ると中から透明な汁が流れた。根菜の焼き物とチーズ、昼から煮ていた豆のスープも並び、客の分だけ増えた木杯が長卓の端まで続いている。


 近衛の五人にも別卓は用意されず、長卓の空いていた席へ洞窟の住人と混じって座った。


 マティアスはルシアンから少し離れた席へ座り、ほかの四人も空いている場所へ分かれた。食事が始まれば、ベラは王と近衛で皿の大きさを変えず、足りなくなった皿へ順番に肉を足した。


「陛下だからって遠慮して残すくらいなら、先に少なく取ってください。足りなければ何度でも出しますから」


「それなら二度目を頼む。昼から匂いを嗅いでいた分、最初の皿だけでは足りそうにない」


 ルシアンが皿を差し出すと、ベラは満足そうに一枚厚い肉を追加した。


 食事の途中から、午前中のような質問は減っていた。ティルダが王都の工房で白魔鋼を見た者はいるのかと聞き、セドリックが専門の職人なら古い記録を持つかもしれないと答える。フレイは王都の服飾店に軽い金具を持ち込めないかと言い始め、ロアンはその話より先に酒を出す時間を気にしていた。


 やがて大皿の肉が半分ほど減ったところで、ロアンが朝に選んでいた小瓶を持ってきた。


「これはまだ売り物じゃないから、味見したい人だけにするよ。普通の林檎酒よりずっと強いし、煙みたいな香りがかなり残ってる」


 小さな杯へ注がれた酒は、淡い琥珀色をしていた。ルシアンはまず香りを確かめ、ほんの少し口へ含んだ。すぐには飲み込まず、舌の上で転がしてから杯を置く。


「林檎の甘い香りより先に、焼いた木の匂いが来るな。あとから果実が戻ってくる。これは面白い味だ」


「焦がした小樽へ入れたらこうなったんだ。まだ樽ごとの差があるから、売るならもう少し揃えてからかな」


「揃う前の方が口に合う可能性もある。あとで、もう半分だけもらえるか」


 ロアンの顔が分かりやすく明るくなり、ベラが先に小瓶を自分の近くへ引き寄せた。


「半分なら後であたしが注ぐよ。作った本人に瓶を持たせたままだと、味見の回数まで増えるからね」


「信用がないなあ。今日はちゃんと客の分を残してるでしょう」


 ベラとロアンのやり取りを聞いて、長卓のあちこちから重なるように笑い声が起きた。ミラも笑いながら、昼間ずっと王の後ろにいた近衛の一人が、ティルダから工房の槌について聞かれて困った顔をしているのを見た。別の一人はリュネに勧められたチーズを二切れ目まで取っている。


 王が洞窟へ来ると聞いた時、ミラは食堂まで緊張した場になるのだと思っていた。実際には椅子が増え、知らない顔が七人増えただけで、ベラは皿を足し、ロアンは酒を勧め、キュウは肉が落ちないか卓の下を見ている。


 食後の皿が片づき始めても、誰もすぐ席を立たなかった。やがてロアンが壁際から新しいリュートを持ってきて、空いた椅子を一つ自分の方へ引き寄せた。


 精霊樹の胴と棹、キュウの抜け角から作った部品、三層の蜘蛛糸を撚った弦でできた、今の洞窟では見慣れた楽器だった。


 ロアンは最初に、街道の宿でよく歌っていた明るい旅の歌を一曲弾き語りした。近衛の一人が途中から杯を指先で叩いて拍を取り、曲が終わるとティルダがもう一曲と声を掛ける。


 ロアンは笑って次の音を探しかけたが、そこで今夜の客へ顔を向けた。


「せっかく泊まるなら、次は陛下の好みに合わせますよ。どんな曲が聞きたいです?」


 ルシアンは杯へ残っていた蒸留酒を飲み切らず、しばらく考えた。


「静かな曲がいい。今日はもう、難しい話を考えなくて済むようなものが聞きたい」


 ロアンがリュネを見ると、リュネは兄の方へ顔を向けた。


「それなら、前に吹いた森の歌が合うと思う。兄さんも今日は一緒にやるでしょう」


「国王陛下が来ているんだ。ここは見せ場だと分かってるよ。あの低い笛が残っているなら、一緒にやろうか」


 フレイが工房から持ってきた試作笛は、今も食堂の棚に置いてあった。リュネは自分の木笛を取り、エイルが低い旋律を担うことになった。ロアンは弦を一つずつ確かめてから、リュートの胴へ手を添えた。


 リュネも楽器へ指先で触れ、宿っている精霊へ、今夜は静かな曲へ合わせる程度でいいと伝える。


 最初に食堂へ伸びたのは、リュネが吹く細く澄んだ木笛の音だった。細く澄んだ旋律が石壁に反響し、少し遅れてエイルの低い笛が低音を支える。前に同じ曲を吹いた時はリュネ一人だったが、今夜は同じ旋律の下へもう一本の音が重なる。


 ロアンは二小節ほど聞いてから、弦を鳴らした。精霊樹の胴から出た音は、以前のリュートより深く響く。高く跳ねる曲ではないので、祭壇の水皿も大きくは揺れず、細かな波が何度か縁へ寄せた。


 ミラは自分の肩から、少しずつ力が抜けていくのを感じた。以前の宴会のように踊りたいとは思わず、何かを急いで片づけようという気持ちも起こらなかった。


 ベラは洗い物へ立たず、椅子へ座ったまま聞いている。エルネも帳面を開かず、双子は工房の話を止めていた。キュウは食卓の端へ顎を載せ、笛の高い音が伸びるたび耳だけを動かしている。


 近衛たちの話し声も、いつの間にか消えていた。ルシアンは朝から何度も見たように、また食堂の中を見ていた。今度は何を確かめているのか、ミラは考えなかった。


 曲が終わるまで、誰も次の話を始めなかった。弦が奏でた最後の音が石壁へ吸い込まれ、エイルとリュネが笛を膝へ下ろす。


 ルシアンは少し間を置いてから、二人へ顔を向けた。


「今のはどんな曲なんだ? 言葉はなかったが、二人とも昔から知っている曲なんだろう」


「家族が幸せに暮らせることを、森へ感謝する歌です。私たちも昔から知っています」


 リュネが答えると、エイルも低い笛を手にしたまま頷いた。ルシアンは帰り火の方を見て、それから長卓の周りへゆっくり視線を戻した。


「そうか。いい曲だな。今夜はこれを聞けてよかった」

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