炉還りは王を連れ帰ります
目を覚ました時、昨夜の酒は口の中へ少し苦みを残していたが、頭まで重くなるほどではなかった。
王国が用意した宿の寝台は、洞窟の自分の寝台より柔らかすぎる。目が覚めてからもしばらく背中が沈む感覚に慣れず、レオンは身体を起こすと、窓を開けて朝の空気を入れた。
卓の端には、昨日までと同じ冒険者札が置いてある。ただし等級の欄がCからBへ変わっていた。
札を見直しても、剣が軽くなったわけでも、朝の喉が渇かなくなったわけでもない。
レオンは水差しから杯へ水を注ぎ、半分ほど飲んだところで《炉縁者通信》の気配に気づいた。
「レオンさん、もう起きていますか。今朝は話しても大丈夫でしょうか」
「起きてるし、部屋には俺しかいない。昨日の酒も残ってないから、そのまま話していいぞ」
返事をしたが、ミラの声が少し弾んでいるのが分かった。動きながら話しているのかもしれないとレオンは思った。
「よかったです。今日は風があるので、朝から洗濯物を外へ出しています。昼には乾きそうです」
「そっちは朝からいつもどおりだな。こっちは昨日の試験が通って、今日からB級になった」
返事までに少しだけ間が空いた。洗濯物に気をとられているようだった。
「本当にB級になったんですね。さすがレオンさんです。おめでとうございます」
「俺も岩牙大猪の報告だけのつもりだった。実績が足りてると言われて、そのまま試験になった」
「私も嬉しいですよ。レオンさんが今までやってきたことを、外の人にもちゃんと認めてもらえたんですね」
そう言われて、レオンは昨日の訓練場で荷車を守った時間を思い出した。ローディックにフェイントを利かせ、オスカーの土壁を踏み台にし、セラの矢を荷車の前で何度も払った。合格を言われた時より、その後の酒場で三人と動きを言い合っていた時間の方が強く印象に残っている。
「評価は荷車と依頼人を守れてるかどうかだ。途中から試験官の土壁を勝手に使って遊んでたのは笑われた」
「遊んでいたんですか。試験なのに、レオンさんがそんなことをするのは少し意外です」
「殺し合いじゃなかったからな。相手も強かったし、次に何をしてくるか考えるのが面白かった」
「では、B級になったことより、強い人と戦えたことの方が嬉しかったんですね」
「そう言われると否定しづらいな。まあ、札の等級が上がった分は、仕事を受ける時に使わせてもらう」
向こうでミラが笑ったらしく、息の音が少しだけ弾んだ。
そのあとも会話はすぐには終わらず、朝の洞窟と昨夜の酒場の話がしばらく続いた。ミラはキュウが朝食のあとも厨房の前へ座っていることを話し、レオンは昨夜オスカーが最後まで土壁の使い方に納得していなかったことを話した。
用件がなくても話すことに、もう互いに理由を付けなくなっている。
レオンは二杯目の水へ手を伸ばしたところで、昨日より前から残していた話を思い出した。
「そうだ、ミラ。昨日の試験とは別に、みんなへ相談すると約束してた話が一つ残ってる」
「王都で何かあったんですか」
「この前話した王が、洞窟を自分で見たいと言ってる。俺は勝手に決められないと答えたから、来てもいいか皆に聞いてほしい」
「王様が、洞窟まで来るんですか。見たいというのは、帰り火や工房も含めてでしょうか」
「たぶん全部だ。新しい職が出た場所も、白魔鋼を加工してる工房も、自分の目で確認したいらしい。話した範囲以上を勝手に見せるつもりはない」
「分かりました。皆さんにも聞きますので、少しそのまま待っていてください」
ミラが事情を説明し、返答に対して相槌を打つ声が聞える。
レオンは窓辺へ移り、宿の二階から朝の通りをゆっくり見下ろした。荷車が二台続いて通り、向かいの店では若い店員が庇を出している。王都の朝は、国王が洞窟へ行きたがっていることとは関係なく始まっていた。
しばらくすると、先ほどより少し息を弾ませたミラの声が通信へ戻ってきた。
「最初にベラさんへ話したら、王様が何人で来るのか、何を食べるのか、食べられない物があるのかを聞いてほしいそうです。今は食器棚を開けています」
「来るかどうかを聞いただけなのに、もう飯の方へ行ったのか。ベラなら、そのうち鍋まで数え始めそうだな」
「さっき大きい鍋を二つ出していました。たぶん、もう数えていると思います」
レオンは水を飲みながら、洞窟の厨房を思い浮かべた。
「ロアンはどうしてる。あいつまで王だからって急に畏まるとは思えないが」
「ロアンさんは、王様でもお腹は空くだろうから、お客さんが一人増えるのと大きくは違わないと言っています。それから、どのお酒を出すか選んでくるそうです」
「そっちは予想どおりだな。飲ませすぎないようにベラへ見張らせておけ」
「ティルダさんとフレイさんは、工房へ入るなら道具に触る前に聞いてほしいそうです。リュネさんも祭壇へ勝手に触らないなら構わないと言っています」
ベラが食器と鍋を数えている一方で、双子とリュネが気にしたのは、自分たちの道具を勝手に触られないことだった。
「エイルさんは、場所を知る人が増えるなら、誰が来るのかだけ先に知りたいそうです。エルネさんは、王様を食堂へ通して本当にいいのか私に聞いています」
「視察したいのは洞窟そのものなんだから、外で立たせても仕方ないだろ。人数はまだ聞いてないから、分かったら連絡する」
「それなら、皆さん来ても大丈夫だと言っています。私も、レオンさんが一緒なら来てもらって大丈夫です」
そこでミラは、まだ続きがあるらしく一度言葉を切ってから息を整えた。
「ただ、洞窟に着く一刻前には教えてください。洗濯物を干したまま王様を迎えるのは、さすがに恥ずかしいです」
「そこが一番気になるのか。分かった、一刻前までには連絡するようにする」
「一番ではありませんけど、今すぐ片づけられることなので、先に気になっただけです」
その答えまで聞いたところで、レオンの部屋の扉が三度叩かれた。宿の者なら二度で済ませることが多いため、レオンは杯を置いて扉の方へ身体を向けた。
「ミラ、こっちに誰か来た。人数が分かったらまた話すから、今日はここで切るぞ」
「分かりました。ベラさんには、まだ鍋を増やさなくていいと伝えておきます」
通信を切って扉を開けると、廊下にはセドリックが一人で立っていた。昨日の監理院で見た時と同じ、派手さのない濃茶の上着を着ている。ただし今日は書類箱ではなく、細く丸めた地図を片手に持っていた。
「朝から悪いな。昨日話した洞窟の件で、もう皆の返事は聞けたか?」
「今ちょうど聞いたところです。来ること自体は構わないが、人数は先に教えてほしいと言われました」
「それなら話が早い。陛下と私、それに近衛から五人を連れていく。予定も決まったので、明日の朝には王都を出るぞ」
レオンは扉を開けたまま、セドリックの顔を見た。
「昨日は返事を急がないと言ってなかったか。まだ一晩しか経ってないぞ」
「陛下にとっては、返事を急がせないことと、返事が来たあと急いで動くことは別らしい。私も今朝、その違いを知った」
セドリックは部屋へ入り、卓の上へ地図を広げた。
王都から西へ伸びた街道の先にベルクがあり、そのさらに西側に、レオンが洞窟の位置をぼかして伝えた一帯がある。
「もともと西方の地方巡察は予定に入っていた。陛下が地方へ権限を移す話を進めているのは知っているな。あの人は、その話になるほど現地を自分の目で見たがる」
「王が地方を歩き回ってるって話なら、何度か聞いたことがある」
「今回も、その西方巡察を前へ詰めた。王都で書類だけ読んで地方へ任せる範囲を決める方が危ない、というのが陛下の考えだ。地方へ出すぎだと嫌う貴族もいるが、本人は気にしていない」
セドリックの指は王都からベルクへゆっくり動いたが、洞窟の位置までは伸びなかった。
「それで陛下本人は、巡察隊と途中まで一緒に行くんですか?」
「いや。陛下は明日、君の《帰還》で直接洞窟へ行くつもりだ。そのために君にも同行してもらう」
レオンは地図の上で、王都とベルクの距離を目で追った。
「王が突然そこまで飛んで、巡察の途中を全部抜いたらまずいだろ。立ち寄った町にも宿にも記録が残るはずだ」
「そこはアリバイ用の影武者を用意した。ベルクまでの立ち寄りは歓待を受けるだけに組み直し、王車と巡察隊は予定どおり西へ進ませる。本人は洞窟から陸路で戻して、ベルクで入れ替える」
セドリックの声は、明日の朝食をどこで取るか説明するような調子だった。
「ベルクまでなら六日か七日か。洞窟からは馬車で四日だから、一晩くらいなら洞窟にいても追いつけるな」
「陛下は余裕があると言った。私は、一泊してすぐ出るくらいが限度だと答えたところだ」
同じ日数でも、王は洞窟に使える時間として数え、セドリックは街道で遅れた時に取り戻す時間として数えていた。
「帰りの馬車は洞窟にある。前に奴隷商から回収した二頭立てが使えるし、俺もベルクまで同行する」
「それなら帰路は問題ない。明日は荷物を減らしておけ。洞窟から戻る間に必要な物は、こちらでも最低限持っていく」
セドリックは話すべきことを終えたらしく、卓に広げていた地図を細く巻き直した。
「近衛の五人には、洞窟の正確な位置も中の事情もまだ伝えていない。陛下の警護に必要な範囲だけ説明して、明日の集合場所で君と合流させる」
「それでいい。こっちも、誰に何を見せるかは着いてから決める」
「君がそう言うと思ったから、人数だけ先に決めた。隊長はマティアス・グレンという男だ。近衛の中でも現場慣れした方だから、余計な騒ぎは起こさない」
レオンは明日会えば分かると思い、近衛隊長の名前だけを頭へ入れた。
王が来ると聞いて食器棚を開けたベラへ、今から七人増えると伝えれば、次は本当に鍋の数まで増えるだろう。
◇
翌朝、王都の西へ向かう大通りには、日が上がりきる前から人が集まっていた。王旗を掲げた騎馬が先へ出て、その後ろを護衛と官吏の馬車が続く。中央にある王車は窓へ薄い幕が下りており、沿道から中の顔までは見えない。それでも王都を出る巡察隊としては見慣れた形らしく、店先から頭を下げる者も、子どもを抱き上げて旗を見せる者もいた。
レオンは一本裏の通りでバルトを歩かせながら、その旗が建物の隙間を通っていくのを見た。公式の記録では、ルシアン三世は今、あの王車に乗って西へ向かっている。セドリックから聞いた段取りでは、本物のルシアンは巡察隊より少し早く別の門から王宮を出ている。
合流場所に指定されたのは、西門から離れた王家の小さな厩舎だった。普段は伝令馬の交換に使うらしく、石壁で囲まれた中庭には馬房と井戸しかなく、通りから中を覗ける窓もない。
レオンがバルトを引いて入ると、すでに七人が待っていた。
ルシアンは昨日までより飾りの少ない濃紺の外套を着ている。セドリックも旅装へ替え、残る五人は同じ意匠の軽鎧を着けていた。王都の儀礼用ではなく、長く歩いても肩や腰を邪魔しない作りに見える。
同じ軽鎧を着た五人の中央から、四十前後に見える男が一歩だけ前へ出た。
「近衛隊のマティアス・グレンだ。今回の護衛五名は私が預かる。陛下から《帰還》の概要は聞いている」
「レオンだ。俺の近くにいれば、人も馬も荷も一緒に帰せる。ただ、この人数をまとめて運ぶのは初めてだ」
マティアスはバルトと、ほかの四人が背負っている荷を順に見た。
「二頭立ての馬車を運んだ実績があるとも聞いた。それでも、人間七人と馬一頭を同時に試した実績はないということだな」
「使える感触はあるが、初めてなのはその通りだ」
マティアスがルシアンへ視線を移すと、王の方が先に頷いた。
「成功例しかない技能を、成功例が少ないから使わないと言えば何も確かめられない。全員で行こう」
「陛下を試験荷物のように扱うつもりはありません。発動前に、こちらでできる確認だけはさせていただきます」
「分かった。マティアスが納得したら始めてくれ」
マティアスはそれ以上反対せず、四人へ立ち位置を指示した。誰も大きな声を出さないまま、王を中央で守り、荷を身体へ寄せ、バルトが蹴っても巻き込まれない間隔を残す。動きに迷いがないので、五人全員が相当な実戦経験を持つという説明には納得できた。
レオンはバルトの手綱を短く持ち直し、全員が自分の近くへ収まったことを確かめた。
「始める前に、洞窟へ連絡を入れる。向こうは昨日から待ってるが、到着の前にもう一度知らせる約束なんだ」
「あの奇妙な通信か。昨日見せてもらったものと同じなら、そのまま使ってくれ」
ルシアンが言ったので、レオンは《炉縁者通信》へ意識を向けた。
呼ぶ相手はミラで、朝の仕事をしているはずなのに返事はすぐに届いた。
「レオンさん、もう王様と一緒なんですか。こちらは朝から皆さんが落ち着きません」
「ミラ、今から帰るぞ。王とセドリック、それに護衛が五人いるから、窪地の真ん中を空けておいてくれ」
返事が来るまでの間は、昨日の通信より明らかに長く感じられた。
「今からなんですか。昨日、一刻前には教えてくださいとお願いしましたよね」
「俺も昨日の朝には、今日帰ると思ってなかった。悪いが、もう全員ここに揃ってる」
「分かりました。洗濯物を取り込んで、皆さんにも今すぐ伝えてきます。バルトさんも一緒ですよね」
「バルトもいる。そっちで馬車を出せるようにする話は、着いてから相談しよう」
「では、窪地を空けて待っています。今度こそ、本当にすぐなんですね」
「すぐだ。通信を切ったら、そのまま《帰還》を使う」
ミラの返事を最後まで聞いてから、レオンは《炉縁者通信》を切った。
レオンは一度全員の位置を見回し、バルトの肩へ手を当てる。橙色の光が靴の下から広がり、七人の足元とバルトの蹄、まとめられた荷まで意識の中で一つの輪へ包んでいった。バルトが耳を伏せかけたので、レオンは首筋を軽く叩いた。
「前にもやっただろ。すぐ終わるから、今日はそのまま立っていてくれ」
橙色の光が濃くなり、石壁と馬房の輪郭がほどけていった。
◇
王都の乾いた石の匂いが消え、湿った土と若い葉、それに洞窟から流れてくる温かな空気が戻ってきた。春の草が伸び始めた窪地の土をバルトの蹄が四本とも踏んでいる。
人数を確かめるより先に、洞窟の入口から留守番していたキュウが大きな影となって飛び出してきた。 冬の初めより大きくなった身体を低くして、短い翼を半分開いたまま、真っ直ぐレオンとバルトへ向かってくる。
その瞬間、レオンの左右にいた近衛五人が、一言も交わさず同時に動いた。二人がルシアンの前へ入り、一人は右へ開き、残る二人も互いの邪魔をしない位置まで下がる。剣を抜いた者はいないが、全員の手が同時に武器へ掛かっていた。
「キュウ、そこで止まれ。今日は知らない客を何人も連れてきてる」
レオンが掌を向けると、キュウは土を二度掻いて速度を落とし、数歩を残したところで身体を止めた。頭を伸ばし、見慣れない五人とルシアンを順に見てから、最後にレオンへ鼻先を向ける。マティアスもキュウから目を外さないまま、右手を剣の柄から少し離した。
「若い地竜がいるとは聞いていたが、王都で聞くのと正面から見るのでは、ずいぶん違うな」
「こいつがキュウだ。人にいきなり噛みつくようなことはしないが、初対面で頭を触るのはやめた方がいい」
キュウは「きゅう」と低く鳴いてから、ようやくレオンの脇へ寄った。バルトも鼻先を伸ばし、近づいてきた頭の匂いを確かめている。
近衛の陣形が解けるのとほぼ同時に、洞窟の入口から人が出てきた。先頭はミラで、その後ろにベラとエルネが並び、少し遅れてロアンたちも続いている。普段の作業着のままの者もいるが、顔に煤や土を残したまま出てきた者はいなかった。
ベラはいつもの料理着の上へ新しい前掛けを重ねている。エルネは背筋を普段より伸ばし、ロアンの髪はいつもより丁寧に結び直していた。双子は工房から出てきたのか、指先へまだ薄く黒い跡が残っている。エイルとリュネは二人とも普段の服で、王の前だからと特別に着替えた様子はなかった。
ミラはレオンとバルトを一度見てから、その隣に立つルシアンへ向き直った。
「セルディア国王陛下、洞窟まで来てくださってありがとうございます。ミラと申します。皆さんもお待ちしていました」
昨日まで話でしか聞かせていなかった相手と、これで初めて顔を合わせたことになる。ルシアンが一歩前へ出ようとしたところで、ミラの視線がその肩を越えた。
窪地の端にある干し場で、白い肌着が一枚だけ風を受けて揺れていた。ミラの肩がわずかに上がり、王へ向けていた顔がもう一度だけ干し場へ動いた。
「すみません、ひとつだけ取り込み忘れていました。すぐ戻りますので、ここで少し待っていてください」
ミラは頭を下げると、王の返事を待つより先に干し場へ小走りで向かった。
ルシアンは小走りで干し場へ向かうミラと、風に揺れている最後の一枚を交互に見た。セドリックは口元へ手を当てて笑いをこらえている。
近衛の五人は最後まで誰一人として表情を崩さなかった。まさに歴戦の強者である。




