炉還りは報告だけのつもりでした
王国が用意した宿の部屋は、一人で使うには広すぎた。なにより、レオンには落ち着けなかった。
壁際には長椅子と大きな衣装箱があり、窓辺の卓には水差しと果物まで置かれている。剣も《空間収納宝珠》も返され、厩へ行けばバルトが何事もなかったように飼葉を噛んでいたので、拘束そのものは確かに終わっていた。
ただ、朝も王国の施設で話を聞かれていたせいか、荷を置いて椅子へ腰を下ろしても、まだ旅の途中へ戻った感じがしない。王都を出るならセドリックへ知らせてほしいとは言われているが、外出まで止められているわけではなく、窓の外では商人も職人も普段通りに街を歩いている。
「そういや、あれが残ってたな」
昼を過ぎた時刻から何か大きな仕事を始める気にもならず、レオンは卓へ置いた宝珠を眺めているうち、王都へ来る途中で倒した《岩牙大猪》を思い出した。
あれだけ大きな魔物が街道脇へ出たなら、同じ辺りを通る商人のためにも出現地点は組合へ知らせておくべきだろう。素材を売る気はないが、危険報告なら今日のうちに終わる。
ようやく行き先が決まり、レオンは剣を腰へ戻して宿を出た。
◇
王都の冒険者組合は、地方の出張所をそのまま何倍かに広げたような建物だった。
二階まで吹き抜けた受付には十を超える窓口が並び、その奥を職員が帳面や木札を抱えて絶えず行き来している。壁一面の依頼板には王都内の雑用から近郊街道の護衛、遠方の討伐まで色の違う札が何段にも掛けられ、入口近くには王都を中心とした街道図が掲げられていた。
レオンはベルク方面へ伸びる道を地図で確かめ、空いている窓口で《岩牙大猪》を見つけた場所と周囲の地形を伝えた。
「遠目に見ただけではなく、近くで確認したんですか?」
「向こうから突っ込んできた。倒してあるから、同じ個体がまだいる心配はない」
職員はそこで筆を止め、討伐人数を聞いたあと、レオンが一人だったと答えると隣の窓口から年上の職員を呼んだ。討伐済みとして危険報告へ記録するなら確認できる部位が欲しいと言われ、レオンが死骸を丸ごと持っていると答えたため、話は裏手の解体場へ移った。
大型魔物を吊るす梁と滑車の下で《空間収納宝珠》へ魔力を通すと、《岩牙大猪》の巨体が石床へ横倒しになって現れた。鼻先から尾まで人の背丈を軽く超え、太い牙には街道の土が付いたままで、呼ばれてきた鑑定役は傷口と魔石の位置を確かめてから、改めてレオンを見た。
「間違いなく《岩牙大猪》だな。これを本当に一人で仕留めたのか?」
「さっきからそう言ってる」
「確認してるだけだ。肉も牙も皮も値が付くが、買い取りへ回す気はないのか?」
「ない。持って帰る」
ベラなら肉の匂いと色が良ければ、煮る部位、焼く部位、干す部位まで分け始めるだろうし、キュウまで横で待っていれば骨も長くは残らない。売れば金になるとしても、今の洞窟では大きな獲物そのものにも十分な価値があった。
「食い切る量じゃないと思うがな」
「人数はいるし、食うやつもいる。確認が済んだなら戻すぞ」
鑑定役は惜しそうに牙を見たものの、確認印を帳面へ押すと、それ以上売却を勧めなかった。
レオンとしては、それで危険報告も終わるつもりだった。
ところが討伐記録へ付けるため冒険者証を渡し、しばらく待っていると、鑑定役は別の帳面まで抱えて戻ってきた。
「レオン、今もC級で間違いないな。いつからその等級だ?」
「かなり前だ。それがどうした?」
男は帳面へ並んだ記録を指で追った。街道護衛、討伐、採取、危険報告。依頼放棄も重大な違反もなく、角狼の群れと群れ長を単独で倒した記録まで確認したところで、今回の《岩牙大猪》へ指を移す。
「ここまで積んで、どうしてB級を受けてない?」
「上げる必要がなかったからな。C級で受けられる仕事で困ってないから、そのままにしてる」
「本人が困ってなくても、記録を見る側が困るんだよ。C級だと思って仕事を振ったら、実際には《岩牙大猪》を一人で持って帰ってくるんじゃ、札と中身が合ってない」
「倒せたなら仕事は終わるだろ」
「そういう問題じゃないから、ちょっと奥へ来い」
額を押さえた鑑定役に連れられ、レオンは受付の奥へ入った。
◇
B級への昇格は、実績だけでは決まらないらしい。
C級までは達成した依頼や討伐記録、護衛実績、違反の有無を積み上げれば昇格条件を満たせるが、B級から先は、それに加えて実技での確認が入る。危険度の高い依頼では単に強いだけでなく、護衛対象や同行者を抱えたまま判断する場面が増えるため、実際の現場で何を優先するかまで見られるという。
「つまり、俺は実績の方は足りてるのに、その試験を受けてなかっただけか」
奥の机にいた職員は、記録をもう一度確かめながら頷いた。
「今日の《岩牙大猪》を入れなくても条件は満たしています。ちょうど今日は昇級試験の日で、午後の枠が一つ空いていますから、今なら試験官も三人揃っていますよ」
「俺は街道の報告に来ただけなんだが」
「その報告は、もう終わっています」
今日を逃せば、次にいつ王都へ来るか分からない。実技のためだけに大きな街へ出直すよりは、時間が空いている今の方がましだと考え、レオンはそのまま試験を受けることにした。
◇
組合裏の訓練場には、砂袋と木箱を積んだ荷車が一台置かれ、その横に非戦闘員役の組合員が立っていた。
試験官は三人いる。主任を務めるローディックは四十前後の大男で、A級冒険者。セラと名乗った三十前後の女性はB級の弓手で、先端に赤い布玉を付けた試験用の矢を腰へ差している。もう一人のオスカーもB級で、両手首へ細い金属輪を巻いた土術師だった。
「条件は単純だ。砂時計が落ちきるまで荷と依頼人役を守れ。俺たちは荷車へ手を掛けるか、依頼人役へ有効打を入れれば勝ちだが、お前は俺たちを倒す必要はない」
ローディックの説明を聞きながら、レオンは三人の立ち位置を見た。正面で剣を合わせるだけの試験ではなく、初めから別方向へ散って荷へ触るつもりなのだろう。
試験開始を告げる砂時計が返されると、レオンは身体へ薄く魔力を流した。《身体強化》は全身へ通して力や速さを底上げすることもできれば、踏み込みや跳躍の瞬間だけ脚へ厚く寄せることもできる。最近はエイルから、強くすることそのものより、必要な時に使い方を変える訓練を受けていた。
ローディックが正面から距離を詰めるのと同時に、セラは右、オスカーは左へ大きく開いた。
最初の矢は荷車の車輪へ向かい、レオンが剣の腹でそれを弾いたところへ長剣が滑り込んでくる。受けた刃から腕へ重さが伝わった。反撃より先にローディックが剣を引き、その隙を狙ってオスカーが足元へ低い隆起を走らせたため、レオンは大きく避けず一歩だけ外へずらして土を踏み越え、そのまま荷車との間を戻した。
二射目は依頼人役へ向かってきた。
身体を割り込ませて矢を払うと、ローディックが今度はレオン自身を外へ追い出す角度で剣を入れてくる。一合目を受け、二合目を流し、三合目で右へ抜けようとしたところまで相手の剣先が先回りしたことで、真正面から剣技だけを比べれば自分より格が上だと分かった。
それが、思ったより嬉しかった。
街道で盗賊に襲われた時も、地下で階層主と向き合った時も、相手の技量を面白がる余裕などなかった。剣を抜くのは、生きるためか、誰かを守るためか、倒したものを持ち帰るためで、失敗した時に何を失うかを考える方が先だった。
今は相手に腕があり、それでもこちらを殺す気はない。自分も斬り殺す必要はなく、荷と依頼人さえ守り続ければ、その途中でどんな動きを試しても構わない。
右へ抜けるよう肩を落とすとローディックの剣先が追ってきたので、踏み出す直前に重心を左へ移し、相手がそこまで追ったところで足を止めて右へ返す。さらに三度目にはどちらへも行かず一歩下がると、さすがにローディックが笑った。
「お前、今の二回は必要だったか?」
「引っかかるか見たかった」
「試験で遊び始める奴は珍しいな」
長剣は鈍らず、次の一撃では先ほどより深く踏み込んでくる。その圧力を流して荷車側へ戻ったところで、オスカーが進路を塞ぐように土壁をせり上げた。
視界を遮る壁の向こうで、二人分の足音が別々の方向へ動いている。迂回すれば時間がかかり、壊せばその間にどちらかが荷へ入るだろうが、斜めに立ち上がった土の表面を見た瞬間、レオンには別の使い方が見えた。
速度を落とさず壁へ走り、最後の一歩だけ身体強化で脚力を増強して斜面へ足を掛けると、崩れかけた土を蹴り抜く勢いで身体を上へ飛ばした。人二人分の高さを越えてなお上昇する。三人分ほどの高さに達したところで、壁の向こうの試験官達と荷車が一度に見える。
セラは荷車の後ろへ回ろうとしており、オスカーは反対側から依頼人役へ近づき、ローディックだけが着地点を読むため顔を上げていた。
こんな景色を戦いの途中で見るのは初めてで、レオンは空中で思わず笑った。
《飛刃剣》へ魔力を流しながら身体をひねり、刃先から飛ばした斬撃をセラ本人ではなく一歩先の地面へ落とす。土が細く裂けたことで進路を切られたセラが足を止め、その隙に身体を返して荷車との間へ降りると、着地の直前には体幹を強化して衝撃を受け流し、そのまま次の一歩へ繋げた。
「今のは聞いてないぞ!」
自分の土壁を踏み台にされたオスカーが声を上げたので、レオンは荷車の横へ戻りながら肩越しに答えた。
「俺も今やってみたところだ。壁が使いやすかったぞ」
「褒められても嬉しくない。次から壁は出さん」
オスカーは本当に戦い方を変え、今度は高い壁を作らず、地面へ低い隆起と浅い窪みをいくつも走らせた。セラも上空への射線を意識し始め、レオンが膝を深く沈めただけで弓を持ち上げる。
その反応を見た瞬間、今度は跳ばない方が面白いと思った。
大きく踏み切る姿勢だけを見せてセラの狙いを上へ引きつけると、レオンは低い隆起の横を抜け、オスカーが空中を狙って動かした土塊の下を走った。赤い布玉の矢が頭上を通り、着地点を潰すはずだった土が何もない場所で盛り上がる。
「一回見せたら、次も飛ぶと思うだろ」
レオンが笑いながら言うと、セラは弓を引き直しながら細く息を吐いた。
「思うから腹が立つのよ。さっきから、わざと跳ぶ振りを混ぜてるでしょう」
「気づいたなら次は変える」
返しながら荷車側へ戻ると、待っていたローディックが今度は肩も足も簡単には追わず、剣先だけで進路を狭めてきた。同じフェイントへ二度乗らない相手を前にすると、もっと試したくなる。
レオンは正面から踏み込み、全身へ流していた身体強化を一瞬だけ蹴り足へ厚く寄せた。速さが一段上がったところへローディックも剣を合わせたが、レオンは刃を当てに行かず、届く直前で身体を外へ滑らせて脇を抜ける。
背後ではセラが依頼人役へ狙いを付けており、射線へ割り込んで矢を払ったところへ、今度はオスカーの土塊が横から飛んできた。
避ければ荷車へ当たる角度だったので、レオンは左肩を前へ出してそのまま受けた。固くまとめられていた土塊は肩当てへ触れた瞬間、魔力で保っていた形を失い、砂と小石になって胸元を流れ落ちる。
「今の、俺の術を消したのか?」
「防具だ。魔力で形を保ってる攻撃なら、触れたところから崩せる」
「そんな物を着てるなら、先に言えよ」
「普段の装備でいいって言ったのはそっちだ」
オスカーが言い返す前にローディックの長剣が横から入り、レオンを荷車から外へ押し始めた。受けたまま二歩ほど下がったところで、レオンは相手の肩越しにセラとオスカー、依頼人役の位置を確かめ、あえてもう一歩だけ外へ出る。
ローディックが追ってきたところで身体強化を脚へ回して急に切り返すと、今まで自分を押していた相手が逆に荷車から遠ざかり、レオン自身はその内側を抜けて守る位置へ戻った。
「お前、今のもわざとか」
「途中からな。押してくれるなら、もう少し離れてもらおうと思った」
自分でも分かるくらい、ずっと笑っていた。
剣を振ることそのものより、自分が考えた動きを相手が読み、その読みをさらに利用して別の動きへ繋げることが面白い。ローディックは同じフェイントへ二度乗らず、セラは一度見た跳躍を次から狙い、オスカーは足場を使われたと分かればすぐ地形の作り方を変えるので、相手が賢いほどこちらも次を考えられる。
しかも、次を考えて失敗したとしても、その瞬間に誰かの命が消えるわけではない。こんなふうに戦える場所があるとは、これまで考えたこともなかった。
最後の数分になると、三人の方も明らかに試す内容を変えた。ローディックは倒すためではなく進路を限定するよう剣を振るい、セラはレオンへ直接当てるより荷車の左右を交互に狙い、オスカーは足元の高低差で戻る道を走り難くしてくる。
レオンも、それを一つずつ壊すのではなく、使えるものは使った。低い土の隆起へ片足を掛けて方向を変え、矢を避けた勢いのまま荷車の反対側へ回り、ローディックの剣を受ける時にはわざと車輪の側へ押されて、そこから依頼人役の前へ戻る。
必要以上に大きく動いているようでも、どこへ出れば次の二人を同時に見られるかだけは外さなかった。
やがて訓練場の端で鐘が鳴り、砂時計の砂がすべて落ちきった。
レオンは剣を下ろし、全身へ流していた身体強化をゆっくり解いた。呼吸はかなり上がっていたが怪我はなく、依頼人役の胸当てにも荷車にも赤い印は一つも付いていない。
「途中から完全に遊んでただろ、お前」
長剣を鞘へ戻しながら、ローディックが呆れたように言った。
「少しはな。ああいう動き、実戦じゃ試す気にならない」
「俺の土壁を踏み台にして、人の背丈三つ分も跳び上がったのを『少し』で済ませるな。俺は足止めするために立てたんだぞ」
オスカーが自分の土壁を見上げる横で、セラは弓を肩へ掛け、訓練場の中央へ歩いていった。最初に矢を落とされた場所、レオンが土壁から降りた着地点、最後にローディックを外へ誘った辺りを順に見てから、彼女はしゃがんで土へ一本の線を引いた。
「これ、全部そうじゃない?」
自分がいた位置から荷車へ向かう線、その次はオスカーの位置から依頼人役へ向かう線を引き、訓練場に残った足跡を見比べる。
「レオン、一度も私たちと荷車の位置関係を外してない。外へ出たように見えた時も、その次に誰かが荷へ入る線へ戻ってる」
「土壁から飛んだ時もか?」
ローディックに聞かれ、セラは着地点を指した。
「あの時、私が荷車の後ろへ回ってた。だからレオンは私と荷車の間へ落ちたんでしょう」
「そこへ降りれば、セラと荷車を一緒に見られたからな。別の場所へ降りるのではダメだ」
レオンには特別なことをした感覚がなかった。旅商人や護衛として長く街道を歩けば、荷車の車輪がどちらを向いているか、依頼人がどこへ逃げられるか、馬が怯えていないか、敵が何人どこにいるかを同時に見る癖がつく。守るものがある戦いで、敵だけ見て動けば周りが死ぬ。
ローディックはしばらく足跡と荷車を見比べてから、レオンへ向き直った。
「遊んでたくせに、仕事だけは外してねえのか」
「試験の条件だっただろ。そこを外したら、何のために三人相手にしてるのか分からん」
その答えを聞いたローディックが声を上げて笑い、戦えること自体は最初の数分で分かったが、B級で見たいのはむしろ今の方だと言って合格を告げた。セラにも異論はなく、オスカーも反対する代わりに、次に同じ試験をするなら壁の角度を変えると言い始めている。
手続きの場所を聞いたレオンに対し、ローディックは答えるより先に肩へ腕を回した。
「その前に飲むぞ。久しぶりに面白い試験だったし、今日はもう仕事って時間でもないだろ」
「宿へ戻るつもりだったんだが、王国から連絡が来た時に困る」
「だったら宿へ一報入れればいい。組合にいれば伝言も回せるし、今夜くらいは付き合え」
王国が用意した宿へ何も言わず帰らないのはまずいので、レオンがそれだけは先に伝えさせろと言うと、ローディックは近くの組合員へ宿名を聞かせ、その場で伝言を頼んだ。
セラも当然のように弓を片付け、オスカーまで土壁の件は酒を飲みながら聞くと言い出したため、レオンも一杯飲みながら語り合いたくなっていた。
◇
連れていかれたのは、組合から二本裏へ入った通りにある酒場だった。
扉を開けた瞬間に焼いた肉と香草の匂いが流れ、奥では冒険者らしい客が何組も大声で話している。ローディックが顔を見せただけで店主は四人分の卓を空け、最初の注文を聞く前から大きな杯を並べ始めた。
「今日は俺が払う。試験官が受験者を飲みに連れてきて割り勘じゃ、あとで組合長に笑われる」
B級になったことをもっと喜べと言われても、レオンとしてはC級のままで困っていなかったため、そのまま答えると、ローディックは本気で昇級させる相手を間違えたかもしれないという顔をした。
そこから先は、もはや口頭試験のようだった。
オスカーは、最初の跳躍を本当にその場で思いついたのかと何度も聞き、レオンが壁を見て踏めそうだと思っただけだと答えるたび、自分の土術は足場を提供するためのものではないと悔しがった。セラは四回目のフェイントで自分の射線まで見ていたことを確かめ、気づいていたなら撃つ場所を変えろと言われると、変えればレオンも次を変えるから腹が立つと返した。
ローディックが興味を持ったのは、剣で勝てないと判断したあと、レオンが剣そのものの勝負をすぐ捨てたことだった。
「普通は、相手の方が上手いと分かると意地になる。お前は途中から俺を倒す気がなくなっただろ」
「最初から倒す試験じゃなかったからな。あんたを抜ければ、それで足りた」
「そういうところが上級なんだよ。強い奴は珍しくないが、何を守る仕事だったか忘れる奴は結構いる」
褒められているらしいと分かったが、レオンはどう返していいか分からず、とりあえず杯へ口を付けた。
酒は洞窟のものより苦みが強く、麦の匂いがはっきりしている。二杯目を頼む頃には焼いた鶏と根菜の皿も増え、ローディックは昔の昇級試験で受験者に荷車ごと池へ突っ込まれた話を始め、セラは何度も聞いた話らしく途中から店主と一緒に笑っていた。
オスカーだけは土壁を足場に使われたことをまだ根に持っており、次に同じ試験をするなら絶対に垂直の壁にすると宣言したが、レオンが「だったら横を使う」と返したせいで、今度は壁の幅をどこまで広げれば走って回れなくなるかという話になった。
考えてみれば、王都へ来てからずっと、誰に何をどこまで話していいかを考えていた。監理院では仲間の名前を出さないよう気を付け、王の前では聞かれたことへ答えながら、洞窟にいる者たちの情報を勝手に渡さないよう線を引いていた。
今夜は、その必要がほとんどない。三人が聞きたいのは、どこに住んでいるかでも、新しい職業が何をするかでもなく、あの時なぜ右へ行かなかったのか、土壁から何が見えたのか、どこでフェイントを思いついたのかという話ばかりだった。
実際の修羅場なら、終わったあとには怪我の手当てか、解体か、次の危険を考える。今日は戦ったことそのものが酒の肴になり、誰も死なず、誰も怪我をせず、自分が思いついた動きを相手がどう読んでいたのかまで聞ける。
それが、レオンには思った以上に楽しかった。杯が何度か空になり、店の客が一組、また一組と帰り始めた頃には、セラが卓の豆を矢に見立てて午後の射線を再現し、オスカーは皿の縁を土壁に見立てて「ここなら絶対に踏めない」と主張していた。
ローディックは二人を眺めながら三杯目を半分ほど飲んだところで、急に眉を寄せた。
「……待て。俺、今日ひとつ仕事を忘れてるな」
セラが豆を置き、オスカーも皿から手を離したため、レオンも杯を持ったまま続きを待った。しばらく考えていたローディックは、やがて額を叩いた。
「レオンが合格したってこと、組合にまだ伝えてねえ」
セラが顔をしかめ、主任試験官の仕事だと指摘すると、オスカーも当然ローディックが済ませたと思っていたと続けた。それでも本人は悪びれる様子もなく、残っていた酒を飲み干してから笑う。
「明日やっとく。合格した事実は変わらん」
レオンはしばらく主任試験官の顔を見たあと、自分の杯へ残っていた酒を飲んだ。
「お前は…不合格だな」
セラが吹き出し、オスカーも肩を震わせると、ローディックだけが何を笑われているのか分からない顔で次の酒を頼もうとした。




