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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
王冠と三つ火

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64/85

炉還りは春の街道を走ります

 ベルクを出た翌朝、街道から荷車の音が少なくなるころには、王都へ向かう道の両側へ春の畑が広がっていた。


 春の雨を吸った土はまだところどころ柔らかく、轍の底には薄く水が残っている。それでも道そのものはよく踏み固められていた。冬の間に剥げた路肩からは新しい草が伸び、林の枝にも、遠目に分かるほど淡い緑が増えている。


 バルトは朝から機嫌よく歩いていた。鞍の後ろに括られているのは、小さな革袋が一つだけだ。水筒と布、それに少しの干し肉。旅糧も着替えも、王都へ持っていく白魔鋼の試作品も《空間収納宝珠》へ入っている。


 以前なら、ベルクを出る前に左右の荷を量り、宿を出るたび腹帯を締め直し、道が荒れれば積み方まで変えた。今朝も腹帯は確かめたが、それは荷が重いからではない。バルトの背に載っているのは、ほとんどレオン自身だけだった。


「荷が軽い方が、お前も楽だろ。俺も今回はその方がいい」


 耳が片方だけ後ろへ向き、返事の代わりにバルトは少し歩幅を広げた。レオンは急がせなかった。王都でやることは決まっているが、急いで進まなければならない理由はない。昼には水を取らせ、草のある場所で鞍を緩める。暗くなる前に宿か野営場所を決めればいい。


 冬の地下では、次の足場、次の敵、次に使う縄の長さまで考え続けていた。商売へ出れば、今度は荷と値段と帰りの仕入れが頭を埋めた。


 今は、前から吹いてくる風が少し冷たいことと、バルトの蹄が乾いた場所を選んでいることくらいしか、すぐに考えることがなかった。それで困ることもない。


 林が切れた先で、遠くの畑が明るく見えた。黒い土へ細い緑の列が並び、その向こうを二頭の牛が鋤を引いている。レオンは手綱を少し緩めた。


 その時、耳元でも背後でもないところから声が届いた。


「レオンさん、聞こえますか?」


 レオンは一度だけ周囲を見てから、ベルクへ着く手前で突然ミラの声が届いたときのことを思い出した。


「ミラか。使えるようになったら、さっそく呼んでくるな」


「何もありません。今、話しても大丈夫ですか?」


 初めて声が届いたときと違い、何かあったわけではないと先に言うことは覚えたらしい。


「大丈夫だ。今はバルトを歩かせてる。周りにも人はいない」


「よかったです。では、少しだけ話してもいいですか」


 そこで会話が終わる気配はなかった。


「今日の朝、ロアンさんが樽を一つ開けたんですけど、まだ早かったそうです。匂いはいいのに、味が少し尖っていると言っていました」


「また味見したのか。昨日もだろ」


「今日は一回だけです。私が見ていました。ベラさんも同じことを言っていました」


「ミラが見てたなら、一回ということにしておく」


「それで、キュウが朝から燻製小屋の前にいます。自分の分はもう食べたのに、まだ動きません」


「置いておけ。腹が減ったら勝手に戻る」


「たぶん、お腹は減っていないと思います。朝からもう二回食べています」


「じゃあ余計に放っておけ。三回目を出したら、あいつは食うぞ」


 向こうから小さな笑い声が返った。


「レオンさんは、何か食べましたか?」


「ベルクで買ったパンとチーズ。昼はまだだ」


「ちゃんと食べてくださいね。帰ってからベラさんに聞かれて、食べていませんでしたでは困ります」


「ミラに食事を忘れるなと言われる日が来るとは思わなかった」


「最近は前ほど忘れていません。朝も自分で食べました」


「今度は昼を二回食べるかもしれん」


 今度は向こうで、はっきり笑う声がした。用件らしい用件は最後までなく、通信が切れると、街道にはまた蹄の音と風の音だけが残った。


 レオンはしばらくそのまま進み、昼前に小川のそばでバルトを止めた。腹帯を緩めて水を飲ませ、自分もパンを半分食べる。残りを布へ包み直したところで、バルトが水から顔を上げた。耳が前を向いている。


 レオンはパンを持ったまま動きを止めた。


 街道の先は緩く右へ曲がり、その外側へ雑木林が続いている。風は正面から来ている。獣の匂いまでは届かないが、林の縁に生えた若木が一本、途中から折れていた。


 折れ口は新しく、その下では土が大きく掘り返され、黒い塊が道の中央近くまで飛んでいる。レオンは残りのパンを食べずに包みへ戻した。


「バルト、少し下がるぞ。ここから先は俺が見る」


 手綱を引くと、バルトは素直に小川から離れた。街道脇の低い石垣を越え、太い木が二本並ぶところまで連れていく。手綱は幹へ強く結ばず、一巻きだけ掛けた。昔から変えていないやり方だった。


「ここにいろ。こっちへ来たら、手綱を外して逃げていい」


 バルトが鼻を鳴らした。レオンは街道へ戻ると右手で剣の柄を握り、折れた若木の先を見る。泥の縁には蹄ではない跡があった。丸く深く、前側だけが大きく抉れている。一つ一つがレオンの掌より広い。道端の岩にも新しい擦り傷がついていた。低い位置に二本、並んでいる。


「この跡なら岩牙大猪だな。しかも小さくはない」


 ベルクから王都へ向かう街道では、珍しい魔物ではない。ただし、弱いという意味ではなかった。成獣一頭でも、C級冒険者が一人で相手をするなら強敵に数えられる。厚い皮と岩のように硬くなる頭部を持ち、角狼の群れのように役割を分ける必要もなく、正面から人も馬もまとめて跳ね飛ばすうえ、土の魔力で近づく前から石まで飛ばす。


 林の中で枝が折れた。 レオンは腰の《飛刃剣》を抜いた。冬の間にティルダとフレイが仕上げた、青魔鉄を主体に白魔鋼の魔力経路を組み込んだ複合剣だ。さらにリュネの精霊付与を受けた今の主武器は、それまで使っていた青魔鉄の剣とは構造もできることも変わっている。


 以前より厚くなった胸当てが、肩を動かしてもほとんど邪魔をしない。青魔鉄を芯に残し、白魔鋼を魔力の通り道へ使い、革と金属の継ぎ目にはリュネが風の精霊を寄せた。見た目だけなら冬までの装備より明らかに重いのに、着ている本人には、その重さがほとんど残らなかった。


 薄く息を吐き、腹と背、肩、腕、脚へ魔力を回す。冬の初めには、脚だけを強くしすぎて敵の懐へ飛び込み、自分で間合いを潰していた。今は全身へ薄く魔力を通したまま、必要な場所へ足せる。


 林の縁が爆ぜた。


 最初に見えたのは牙だった。左右へ大きく張り出した牙の間から、黒褐色の鼻面が突き出す。続いて現れた肩は、街道を通る小さな荷車より高かった。背中には泥と砂を固めたような灰褐色の板が何枚も重なり、四本の脚が土を踏むたび、路肩の水が跳ねた。


 岩牙大猪は立ち止まらず、前脚で一度強く地面を掻いた。街道の土が盛り上がっても、レオンは横へ走らず、その場で待った。


 土の塊が三つ、地面から剥がれるように浮き上がり、空中で石となって固まった。拳より大きな岩弾が、胸と腹へ向かって飛んでくる。


 一つ目が胸当てへ当たり、硬い衝撃を覚悟した瞬間、金属の表面で淡い光が広がった。岩は割れるのではなく、形を保っていた魔力からほどけるように乾いた砂へ変わり、胸元から流れ落ちる。二つ目も肩当てへ触れたところで同じように崩れ、三つ目だけが脇を抜けて街道へ落ちた。


 レオンは胸当てを一度見た。へこみはない。


「魔法を受けた時の加護も、ちゃんと働いてるな」


 確認する間を待たず、岩牙大猪が走り出した。短い距離ならバルトが全力で走るのと大きく変わらない速さで、前脚が地面を叩く間隔が一気に詰まり、灰褐色の背が上下する。正面から見れば、岩壁そのものが道を走ってくるようだった。まともに受ければ、人間の身体どころか馬車でも無事では済まない。


 レオンは剣を右へ下げた。距離が十歩を切り、さらに五歩まで詰まる。岩牙大猪が頭を低くした。左右の牙が腹の高さへ来る。


 レオンは右脚へ少しだけ魔力を足し、一歩だけ横へ出た。身体が軽く、重いはずの防具も遅れてこない。


 重い胸当ても肩当ても、その動きについてくる。冬の地下で何度も止まる練習をした通り、二歩目を出す必要すらなかった。


 大猪の牙が外套の端をかすめる前に、レオンの身体は突進の線から外れていた。それでも岩牙大猪の突進は終わらない。通り過ぎざまに太い首が跳ね上がり、人を腹から持ち上げて後ろへ放る軌道で牙が来る。


 レオンは半歩だけ今度は後ろへ引いた。牙の先が目の前を通ったが、近いだけだった。


 レオンは《飛刃剣》へ魔力を流した。白魔鋼を通った光が刃の縁へ薄く集まり、そのまま横へ振る。刃そのものは岩牙大猪へ届いていない。


 振り抜いた先の空気に細い線が走った。


 次の瞬間、大猪の右肩を覆っていた岩板が斜めに割れた。遅れて、その下の皮膚から血が噴く。岩牙大猪が吠え、前脚を滑らせながら身体を回した。


 レオンは追った。逃げる相手を追う速さではない。向き直る前に、もう首の横へいる。


 全身へ回していた魔力を右脚と腰へ寄せ、地面を一度踏む。《飛刃剣》は上段まで大きく振り上げず、岩板の割れた肩から首へ続く柔らかいところだけを選んで刃を走らせた。


 手応えは軽かった。巨体が二歩進み、前脚から崩れた。街道の端へ肩を打ちつけ、土を大きく削る。牙が地面へ刺さり、後脚が空を蹴った。


 レオンはすぐには剣を下げず、猪の首から脚、呼吸を順に見た。もう動かない。林の中から逃げる小動物の音が遠ざかり、やがて風の音だけになる。剣についた血を草で拭っても、息は乱れていなかった。


 岩牙大猪の脇へしゃがみ、割れた岩板の下へ指を入れて皮の厚みを確かめる。牙は左右とも欠けていない。肉も腹もほとんど傷つけずに済んでいた。


「この肉なら、ベラはたぶん売らずに焼いて食いたがるな」


 岩牙大猪の肉はうまい。売っても値がつくが、これだけの量なら洞窟へ持ち帰っても当分食える。土の魔石も大きいはずだった。


 以前なら、ここからの方が長かった。六頭の角狼を倒した時は、魔石を抜き、角と牙を外し、傷の少ない毛皮を選んだだろう。肉は諦め、日が傾くまで脂を削り、最後には青魔鉄と素材をバルトの左右へ積み直した。


 今は腰袋から黒い宝珠を出すだけだった。レオンが《空間収納宝珠》へ魔力を流して岩牙大猪を意識すると、小さな荷車ほどもある巨体が音もなく消え、街道には削れた土と少しの血が残った。


「……こういうところは、本当に楽になったな」


 戦いのことではなかった。レオンは砂を払った胸当てをもう一度確かめ、バルトのところへ戻ると、木の陰から鼻先を出した馬が血の匂いのする方へ首を伸ばした。


「終わった。丸ごと入れたから、お前の荷は一つも増えない」


 バルトは、そんなことは最初から心配していないように草を噛んでいた。


     ◇


 午後は何も起きず、日が傾くまでバルトの蹄が一定の間隔で続いた。


 道が乾いているところでは速歩にし、道が荒れれば歩かせる。春の風が正面から来るたび外套の裾が揺れたが、冬のように指が痛む冷たさはない。途中で追い越した荷車の御者と短く挨拶を交わし、夕方には街道沿いの小さな宿でバルトへ飼葉を頼んだ。


 夕食の煮込みを食べている途中で、また声がした。


「レオンさん」


 レオンは匙を止めた。


「……また来たな。先に聞くが、何かあったのか」


「何もありません。今、話しても大丈夫ですか?」


 順番まできちんと守るらしい。


「宿で飯を食ってる。そのまま話せ」


「では食べながらでお願いします。邪魔ならあとにします」


「昨日から何度も話してるだろう。邪魔じゃない、続けろ」


 向かいの席にいた旅人が一度こちらを見たので、レオンは少し声を落とした。相手から見れば、一人で煮込みを食いながら誰もいないところへ返事をしているようにしか見えない。


「今日は何かありましたか? 街道は何もありませんでしたか?」


「岩牙大猪が一頭出た。もう片づいた」


「レオンさんは怪我していませんか。バルトさんも?」


「どっちも無事だ。バルトは戦う前に離した」


 少し間が空いた。


「大きい猪ですよね。前に図鑑で見た気がします」


「ああ。丸ごと宝珠へ入れたから、帰ったら見られる」


「ではベラさんに言ってもいいですか? きっと喜びます」


「いいが、まだ帰らんぞ。今日の夕飯には出ない」


「分かっています。でも、たぶん喜びます………ちょうどベラさんが厨房へ来たので、言ってきてもいいですか?」


「今ここで言うのか。まだ王都にも着いてないぞ」


「でも、後にすると忘れてしまいます。少しだけ待っていてください」


 返事をする前にミラの声が途切れ、少しして戻ってきた。レオンはその間に煮込みを一口食べた。塩が少し強かった。


「レオンさん。帰ったら、ベラさんが部位を見たいそうです」


「好きにさせろ。魔石だけ先に外すかもしれん」


「はい。魔石を先に外すかもしれない、と伝えておきます」


 まだ何か話しそうだったが、宿の主人が追加のパンを持ってきたので、そこで通信を切った。


 翌朝にも一度、昼にも一度、ミラの声を聞いた。朝は精霊樹の若枝をどこまで切るかリュネと相談した話で、昼はキュウがフレイの的を咥えて逃げ、訓練が一度止まったという話だった。どちらもレオンが知らなくても困らない。


 その日は川沿いの宿で一泊し、バルトの脚を洗って飼葉を多めに頼んだ。さらに翌朝、鞍を載せているところへまたミラの声が来た。今度はベラが岩牙大猪に合う香草を二つ選んだ、という報告だった。


 何度目かの通信では、ミラが話し始める前に、小さく息を吸う音や唾を飲み込む音が聞こえることもあった。通信がつながってから、何を話そうか考えているらしい。レオンはその音だけでミラからだと分かり、バルトを歩かせるか、周囲に人がいない場所まで少し待ってから返事をした。急ぐ話は一つもなかった。


     ◇


 王都へ続く街道の景色に、見覚えのある広場が現れたのは、さらにその日の午後だった。


 道の左に低い石造りの井戸があり、その向こうに大きな納屋がある。前に通った時は広場へ長机が並び、焼いた羊肉と酒の匂いが道まで流れていた。染料商も穀物商も荷車を止め、ロアンは頼まれて何曲も弾き、最後には村人から麦刈り歌を教わっていた。


 今日は長机も飾り布もない。代わりに、広場の先の畑へ人が並んでいた。


 牛に鋤を引かせる者、その後ろで土を砕く者、腰へ種袋を下げて畝を歩く者。冬を越した草の匂いに、掘り返された湿った土の匂いが混じっている。


 前に麦束が積まれていた場所には、空の荷車が一台止まっていた。レオンはバルトの速度を落とした。


「この井戸と納屋…前に祭りで止まった村だな」


 バルトが井戸の方へ首を向けた。前にもここで水を飲ませたことを覚えているのかもしれない。井戸のそばまで寄り、桶を借りる。バルトが水を飲んでいる間、レオンは畑の方を見た。


 前回は刈り終えた麦束が積まれていた広場の先で、今はこれから播く種を手に人が畝を歩いていた。そのうちの老人が、バルトの装具を見て声を掛けてきた。


「その装備で東へ行くなら、王都まで行くのか」


「ああ。今日中に王都の壁が見えるところまで行けるか?」


「その馬なら見えるだろうよ。荷車なら明日の朝に回す方が楽だがな。道も乾いてきた」


 老人はそう言って、また種袋へ手を入れた。レオンが礼を言って井戸桶を元へ戻したところで、また声が来た。


「レオンさん、今は大丈夫ですか?」


「今度も何もないんだろ。井戸でバルトに水を飲ませてる」


「はい。何もありません。少し話したくなっただけです」


 迷いのない返事だった。


「今、前に祭りをやってた村にいる。広場も井戸も同じだ」


「あの、ロアンさんが歌を覚えたところですか?」


「今は祭りの時期じゃなく、畑を起こしてる最中だ」


「何を植えているんでしょう。前に麦刈りのお祭りをしていたなら、また麦でしょうか」


「たぶん麦だろうが、ここからじゃ種袋の中までは見えん」


 少し間が空いた。


「こっちも、林檎の花がまた増えました」


「そっちは一年中、植える時期と採る時期が混ざってるだろ」


「そうなんです。普通の畑を見ると、少し変な感じがします」


「季節ごとに植えて採る方が普通だ。洞窟の林檎が変なんだ」


「分かっています。でも、今は洞窟の方に慣れてしまいました」


 その声が少し笑っていた。


 バルトが水を飲み終え、鼻先でレオンの肩を押した。


「そろそろ出る。バルトも水を飲み終えた」


「はい。気をつけてください。王都が見えたら教えてください」


「王都が見えたか聞くためだけに、また繋ぐ気か」


「それだけでは、駄目ですか?」


 レオンは鐙へ足を掛けた。


「好きにしろ。どうせ止めても一度は試すだろ」


「はい。では、見えそうな頃にまた話します」


 返事が妙に早かった。通信が切れたあと、レオンがバルトを街道へ戻すと、畑の土を踏む鋤の音が少しずつ遠ざかっていく。午後の光はまだ高く、王都までの道は乾いていた。


     ◇


 灰白色の城壁が見えた時、レオンはミラを呼ばなかった。


 先に向こうから来た。


「レオンさん。そろそろ王都は見えましたか?」


「見えたぞ。ちょうど丘を越えたところだ」


 一拍遅れて、ミラが笑った。


「そろそろかって思ってました。見えたんですね」


「ああ、いい勘だ。前と同じ城壁だ」


「人も、前に皆さんで行った時と同じくらい多いですか?」


 レオンは眩しい陽光に手をかざして丘の先を見た。長い城壁の上に塔が並び、その向こうから何本もの煙が上がっている。門へ近づくにつれて荷車と旅人が増え、二列だった街道が自然に太くなっていく。前に来た時と同じだった。


「人も多い。荷車も増えてきたし、門前まで前と変わらん」


「今日は中へ入ったら、もう休むんですか?」


「宿を取って、バルトを預ける。店を回るのは明日からだ」


「分かりました。では、今日はもう邪魔しません」


「今日は、もう繋がないつもりではあるんだな」


「明日は分かりません。王都の話も聞きたいですから」


 通信が切れると、レオンは門へ続く列の最後へバルトを入れた。半刻も待つうちに、城壁は頭上を塞ぐほど近くなった。


 前回は十二台の荷車で並んだ。酒樽と加工肉の数を門衛に書かれ、販売見本の胸当てを見られた。今回は荷車も商品樽もない。鞍の後ろに小さな革袋が一つあるだけで、確認はすぐ済むはずだった。


 順番が来る。


「連れはその馬だけか。今日は一人で入るのか?」


 門衛はレオンとバルトを見て言った。


「ああ。ベルクから来た。今回は一人だ」


「王都では何をする。商売か、それとも依頼か?」


「仕入れと商談。宿はまだ決めてない」


 レオンは商人組合の札と冒険者札を出した。門衛は二枚を順に確かめ、帳面へ名前を書き込む。隣の机では別の係官が、入城者の職業札を薄い石板の上へ順に置かせていた。前の旅人も、その前の荷運び人も、数呼吸で札を返されて先へ進んでいる。


「商人札と冒険者札は問題ありません。職業札もお願いします」


 レオンは首から札を外した。職名の欄は、今も読めない。《炉還り》になってから、普通の札では文字が崩れたままだ。ベルクでも、既に持っている商人札や冒険者札を使う仕事なら、それで済んでいた。


 係官は札を受け取り、石板の中央へ置いた。淡い白い光が一度走ったところで、その手が止まる。レオンも石板へ目を向けた。


 白い文字が二行ほど浮かび、その下へ、見慣れない細い印が出ていた。係官は何も言わず、札を持ち上げた。


「反応を確認したいので、もう一度札を置かせてもらえますか」


「ああ。必要なら何度でもやり直してくれ」


 係官が札を置き直すと、同じ光が走り、同じ印が出た。今度こそ係官は顔を上げた。


「結果を照会しますので、少々そのままお待ちください」


「今の表示は何だ。通常と違う反応が出たのか」


「確認します。ここでは判断できません」


 声は落ち着いていた。係官は隣の門衛へ小さく声を掛け、奥の詰所へ入っていく。レオンの職業札は持っていかなかった。石板から外し、机の上へ置いたままだ。


 後ろの列が動けず、荷車の御者が何事かと前を覗いた。別の門衛がすぐ隣の通路を開けた。


「後ろの方はこちらへ。検札を続けます」


 レオンだけが列から外され、バルトと一緒に壁際の待機場所へ案内された。


「どれくらい待てばいい。宿を取る前なんだ」


「分かりません。照会先から返答が来るまでです」


「どこへ照会している。門だけでは分からない内容か」


「王立職能監理院です。職能照会はこちらから回します」


 レオンは壁際の石柱へ背を預けず、バルトの手綱を持ったまま立った。


 職能監理院。職業札や技能登録、職能上の異常を扱う王国の役所だ。商人として名前くらいは知っているが、用事を作ったことはない。


 しばらくして、最初の係官ではなく、濃紺の上着を着た年嵩の男が詰所から出てきた。後ろには門衛が二人いる。誰も武器へ手を掛けてはいない。


「確認します。レオン殿ご本人で間違いありませんね」


「ああ。商人札も冒険者札も、さっき出した通りだ」


「確認しています。ベルク商人組合登録、冒険者登録はC級。本人確認も一致しています」


「そこまでは、いつもの札で分かるはずだ。止めた理由は別か」


「はい。身元確認には問題ありません。止めた理由は別です」


 男は手にした紙へ一度目を落とした。


「職能照会で、中央台帳に登録のない識別反応が確認されました。同じ照会を二度行い、結果は一致しています」


「登録のない職業が出ている、という意味か。それとも札の故障か」


「現時点で、こちらから職名を確認することはできません。ですので、その確認を含めて王立職能監理院で事情を伺います」


 レオンは男の顔を見た。脅している様子はない。困っているようにも見えない。手順の中にあることを、そのまま説明している顔だった。


「事情は分かった。だが、ここで断って普通に入ることはできるのか」


「照会対象者については、確認が終わるまで身柄を確保する規定です。申し訳ありませんが、自由入城には切り替えられません」


「つまり、俺は何かの犯罪を疑われているのか」


「いいえ。少なくとも、この検札で犯罪が確認されたわけではありません」


 答えは早かった。


 レオンは門の外を見た。列はもう動いている。荷車が一台入り、次の旅人が札を出していた。誰も騒いでいない。自分だけ手続きが止まっただけだ。


 逃げようと思えば、《帰還》を使って少なくともこの門から消えることはできる。だが、王都で何もしていない男が、職業札を調べたいと言われただけで消えれば、その瞬間から説明するものが一つ増える。


「分かった。そこまでなら、監理院で話をする」


 年嵩の男は小さく頷いた。


「ありがとうございます。武器と魔道具は、監理院へ到着するまで一時お預かりします。受領札をお渡しします」


「この《空間収納宝珠》も、監理院へ着くまで預けるのか」


「はい」


「扱いには気をつけてくれ。かなり高い物だ」


「承知しています」


 係官は布を敷いた小箱へ剣と宝珠を入れ、レオンの目の前で紐を掛けた。受領札には剣一本、黒色宝珠一個と記された。レオンは文字を読み、札を受け取った。


「バルトはどうなる。こいつまで監理院へ連れていくのか」


「門の預かり厩へ移します。水と飼葉はこちらで用意します。監理院から移送の指示が出た場合は、そちらへ一緒に送ります」


 レオンはバルトの鼻面を一度撫で、腹帯の状態を見た。


「なら鞍は外して休ませてくれ。朝から乗っている。水だけじゃなく飼葉も頼む」


「分かりました。預かり厩にも同じ内容で伝えておきます」


 厩番が手綱を受け取る。バルトは二歩進んだところで一度振り返った。


「行ってこい。終わったら迎えに行く」


 耳が前へ戻り、栗毛の身体が門の脇へ消えていった。年嵩の男が、城壁の内側へ続く通路を示した。


「レオン殿、準備ができました。こちらの通路へお願いします」


 左右に門衛がついた。剣も宝珠もバルトの手綱も、もう手にはない。レオンは一度だけ外の街道を振り返った。春の陽はまだ高かった。


 それから王立職能監理院へ向かう通路へ入り、後ろで門の内扉が閉じた。

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