炉守りは遠くの声を聞きます
岩壁の北側に残っていた雪が、朝ごとに細くなっていった。
窪地の土はまだ冷たかったが、畑の端では冬葉物の間から新しい芽が出て、林檎の枝には白い花がまとまって開いていた。朝の水やりを終えたミラは、去年より枝の高いところまで花がついているのを見つけ、指を折って数え直していた。
その頭上を大きな影が横切り、花のついた枝が翼の風で揺れた。
「キュウ、林檎の枝を折らないように飛んでくださいね。もう花がたくさん咲いているんですから」
キュウは返事をするように鳴き、林檎の木を越えた。冬の初めには長く飛ぶと着地で腹を擦ることがあったが、今は一度身体を浮かせたまま向きを変え、岩の上へ前脚から降りる。翼の端にあった擦り傷も、どこだったか探さなければ分からない。
ただし、春になって変わったのは飛び方だけではなかった。
「キュウ、朝ご飯はもう食べたでしょう。ベラさんのお肉は、お昼にもちゃんとありますよ」
ミラが呼びかけると、キュウは岩から降りて鼻を鳴らし、そのまま厨房へ向かっていった。昨日も同じようにしてベラから肉をもらったので、今朝も期待しているのだろう。
「キュウ、こっちを見てもお肉は増えませんよ。ミラの言うことをちゃんと聞いておくれ」
厨房からベラの声が飛び、ミラが追いついたころには、キュウの鼻先がもう戸口から覗いていた。
「そいつに食べ物の話で言い聞かせようとしても無駄だよ。昼の分まで今やったら、昼にも同じ顔するんだからね」
それでもキュウが入口へ顔を入れると、ベラは切り分けていた肉の端を一度見た。すぐ横には燻製へ回す分が塩と香辛料を擦り込まれて並んでいる。
「そっちは売り物だよ。あんたの分なら、ちゃんとこっちへ分けてあるからね」
別の皿へ厚い一切れを載せると、キュウは迷わずそちらを取った。
「キュウの分も、ちゃんと最初から分けてあるんですね」
「分けとかないと、どっちが商品か分からなくなる量を食うからね。大きくなったのはいいけど、腹まで一緒に育つとは聞いてないよ」
ベラはそう言いながら、燻製用の肉へもう一度塩を擦り込んだ。
それからほどなく、窪地の林檎は去年と同じ不思議な実り方を始めた。
白い花が散ると青い実が膨らみ、その実がまだ枝に残っているうちに、別の場所へ新しい花芽がつく。一つの木に花と青い実と赤くなり始めた実が並ぶようになるまで、それほどかからなかった。ミラは実を摘む手を止めるたび、さっき数えた花がもう別の枝にもあることに気づき、籠を下ろしては見上げた。
去年は採れた林檎を前に、籠が足りなくなることや、絞った果汁をどの樽へ入れるかでベラと何度も相談した。今年は、採った林檎を運び込む先から違っていた。
◇
最初のまとまった収穫の日、圧搾機の脇には大きな仕込み槽が口を開けていた。
ミラとベラが籠から傷んだ実を外し、ロアンが洗った林檎を割る。フレイが圧搾機の受けへ布を敷き、果肉を詰めたところでレバーを下ろした。
木と金具が軋み、薄い金色の果汁が溝を伝って桶へ流れ始める。
「去年は、この袋の端をベラさんと二人で捻っていました」
ミラが言うと、ベラは別の籠を抱えたまま腕をさすった。
「覚えてるよ。翌朝まで肩が痛かった。あれを今の量でやれって言われたら、林檎の木の方を殴りたくなるね」
「林檎の木を殴っちゃ駄目だよ。来年の仕込みで僕らが困るんだから」
ロアンは割った実を次の桶へ入れながら答えた。
「だから殴らないんだよ。あんたは黙って種のところまで割りな」
「分かったよ。でも今年は、去年よりずっと楽に果汁が取れるね」
ミラも受け桶を替えながら、果汁が薄い金色の筋になって流れ続けるのを見ていた。去年は布袋を両手でねじり、何度も握り直してやっと一桶だったのに、今年はフレイがレバーを下ろすたび、次の桶を取りに行く方が忙しい。
圧搾した果汁は、そのまま樽へは入れなかった。いったん大きな仕込み槽へ集め、甘さと酸味のばらつきを均してから、ロアンが樽ごとの量を決める。壁際には冬のうちに増やした空樽が並び、洗い終えたものから順番に木札が掛かっていった。ミラが仕込み日を書いた札を樽へ掛けると、ロアンは同じ槽から分けた樽にも同じ日付を付けておこうと言い、残りの札を受け取ってくれた。
最初の仕込みが樽へ分かれたころには、林檎の枝でもう次の花が開いていた。
春の仕事は、それから何度も同じ場所を通った。
朝に林檎を採り、昼までに傷と熟し方を分ける。圧搾機が動き、果汁が仕込み槽へ溜まり、ロアンが匂いと味を見て樽へ分ける。数日後には別の枝の実が赤くなり、その横ではまた白い花が揺れている。
二回目の収穫では、最初の樽から泡の細かな音がしていた。三回目のころには、ロアンが樽の側面へ手を当てる前から、発酵の速いものと遅いものを置く場所が決まっていた。
「この二樽は奥。こっちはまだ温かいから入口側へ出さないで。あと、この仕込みは昨日のより酸味が弱い」
「ロアンさん、味見はまず一回でお願いします。まだ次の樽も残っていますから」
ミラが木杯を受け取ると、ロアンは不服そうに眉を上げた。
「僕が酒を飲みたいから言ってると思ってない?」
「半分くらいは、そう思っています。でも味を見るのも大切なお仕事ですよね」
「そこまで信用を失った覚えはないなあ」
ベラは蒸留釜の火を調整していた手を止め、火口から顔を出してロアンへ声を掛けた。
「半分で済ませてもらえてるうちに働きな」
ロアンは笑いながら次の樽へ耳を当て、その横でミラは空になった木杯を洗い場へ運んだ。
酒を仕込む合間にも、窪地のあちこちで仕事が続いていた。燻製小屋では商品用の肉が吊られ、キュウは匂いにつられて来るたび、自分の皿が別にあることを先に確かめるようになった。第二層からは白魔鋼を含む古い武具を回収し、三層からは樹液や薬草、蔓を持ち帰る。地下へ入ることは、攻略だけでなく、食卓や薬棚や工房で減ったものを補う仕事にもなっていた。
冬の終わりに作り直した探索装備も使われ続けている。レオンが戻れば脇の革に新しい擦れ跡が増え、エイルの肩金具は弓弦を邪魔せず、ベラの腰袋も短杖を振る腕へ触れない。工房へ戻るのは、使って初めて出た傷みや、もう少し直せそうな部分だった。
ある日、ミラが工房へ包帯を届けると、フレイはレオンの装備を作業台に広げ、革紐の通る留め具を取り替えていた。冬に直した箇所へまた擦り跡ができたらしく、レオンが身につけて腕を動かすたび、双子は留め具を一つずつ替えては笑い合った。リュネは仕上がった部分へ精霊を寄せてみて、「ここなら来てくれるね」と、精霊が集まる場所を指さした。ミラは古い革紐を受け取り、新しい紐と混ざらないよう端を結んでまとめた。
◇
春の午後、ミラが畑から摘んだ薬草を籠へ収めていると、窪地の端では太矢が土へ突き立つ音が続いていた。キュウがその音へ首を伸ばしたので、ミラも籠を抱えて訓練の様子を見に行った。
フレイは大型重弩を肩へ当て、三十歩ほど先を走る木片を追っていた。冬に使っていた板切れより小さく、今は縄を二方向から引くため、途中で急に向きが変わる。
最初の一矢が木片の後ろへ刺さると、エイルはその跡と動く的を交互に指した。
「的を追いすぎてる。今いたところを狙っても、矢が着くころにはもう動いてるぞ」
「分かってるよ。今いた場所じゃなくて、次に来るところを狙うんでしょう?」
「分かってるなら、照準を動かし続けるな。相手が来る場所を予測しろ」
フレイはレバーを下げて弦を掛け直した。二本目が溝へ落ちる。身体を少し左へずらし、今度は木片そのものではなく、縄が引かれる先へ照準を置いた。
太矢が飛び、木片の前端を大きく跳ね上げた。ミラが歓声を上げるより早く、フレイが弩を下ろしてエイルへ顔を向ける。
「今度はちゃんと当たったでしょう! さっきより先で待てたんだから」
「端に当たったな。次は中心を狙ってみろ。今の位置取りなら届くはずだ」
「先に褒めてくれたっていいじゃない。今日初めて当たったんだからさ」
「当て方が分かったなら、次もできるところを見せてくれ。そこまで見たいんだよ」
フレイは口を尖らせたが、重弩を下ろさなかった。
次の射撃では、的を引いていたティルダが縄を拾うため射線へ近づいた。フレイはすぐに指を引き金から外し、重弩の先を土へ向ける。
エイルは的を戻しながら頷き、その手が動くのを見ていたミラは、ようやくフレイが弦から指を離した理由を理解した。
「それでいい。命中より先に、撃たない判断ができなくなるな」
「そこは忘れない。姉ちゃんに当てたら、あとで私が装備を直すことになるし」
「フレイ、あんたが心配してるの、そっちの修理代なの?」
縄を拾い終えたティルダが振り返り、フレイの重弩と自分の腕を交互に見比べた。
「姉ちゃんが怪我するのが一番嫌。その次に、自分で壊した装備を自分で直すのが嫌」
「あたしの怪我が一番ならいいや。あたしだって怪我したくないしね」
「それで納得するのか。まあ、分かったなら次の一本を始めよう」
エイルが次の縄を取り直すと、ティルダはまた的の方へ歩いていき、フレイも笑いながら重弩を構えた。
訓練が終わるころには、フレイの肩は少し落ちていた。それでも照準柱は最初と同じ高さに戻り、最後の四本は続けて木片へ当たった。
食堂へ戻ったフレイは、水を一杯飲んでから職業札を開いた。
「ミラ、見てよ。今日の訓練が終わったら、また一つ上がってたんだよ!」
フレイが差し出した職業札を、ミラは隣から覗き込んだ。
《弩術 Lv3》
「前に見せてもらった時はLv1でした」
「冬の戦いのあと一になって、そのあと二になって、今日見たら三。エイルの的、動かし方が毎回違うんだもん」
「同じ動きだけ覚えても地下では使えない」
エイルは自分の弓弦を拭きながら言ったが、フレイが札を閉じるまで何度かそちらを見ていた。
その晩、職業札の話を食卓へ持ち帰ると、ロアンも自分の札を開いて、樽を世話しているうちに《発酵管理》がLv3へ上がっていたと見せてくれた。ミラも久しぶりに自分の札を開いたところ、《野草知識》がLv4になっている。薬棚へ運んだ根や葉の名前を毎日札に書きつけてきたが、いつ数字が変わったのかは気づかなかった。
「ミラも上がってるじゃないか。何日も同じ草を触ってるんだから、そりゃ詳しくもなるよね」
ロアンに言われ、ミラは自分が結んだ薬草の木札と職業札を見比べた。文字を覚えていられなくて書き始めた札が、いつの間にか棚いっぱいに増えていた。
林檎の花を最初に見つけた朝から、二月あまりが過ぎていた。初めは水仕事のたび指が冷えたのに、今は昼の圧搾で袖をまく日が増えている。最初の収穫を仕込んだ樽の横へ次の果汁が運ばれ、その木ではさらに次の花が開いた。工房の槌音、燻製小屋の煙、弩の弦、ラトスへ出る荷車の車輪が、日によって順番を変えながら窪地へ重なった。
リュネは祭壇と薬棚を往復し、エイルが射撃訓練をしている午後には、その近くで素材へ精霊の反応を確かめた。兄の姿が見える場所を選んでいても、手元の仕事は止まらない。
ティルダは翌朝も朝食より先に工房へ入り、フレイは寸法が合わない留め具を前に半日も作業台から動こうとしなかった。ロアンは樽の泡を聞くと仕事を始めるのに、洗い場へ運ぶ空桶が増えるころには、いつの間にかリュートを持って食堂へ逃げ込んでいる。ミラがその桶を数えてベラへ伝えると、厨房からロアンを呼ぶ声が上がり、少しして本人が笑いながら桶を取りに戻ってきた。
◇
春も終わりへ近づくころ、ラトスへ出す定期荷はレオンがいなくても動くようになっていた。
朝、エルネは倉庫の前で荷札を読み上げ、酒樽、燻製肉、冷蔵箱用の小氷魔石を順番に分けた。栗毛のエッダにつないだ荷車へ自分で積み場所を指示し、最後に帳面と荷を見比べる。
「その二樽はベルク回し。肉はラトスで一度受けてから向こうへ。石は交換分だから、売り物に混ぜねえでな」
荷台の縄を締め直していたエイルが、積み荷の位置を一つずつ見比べながら頷いた。
「了解した。荷札と帳面の順で積んであるから、途中でも取り違えないはずだ」
エルネが御者台へ上がり、エイルが護衛について荷車が窪地を出ていっても、レオンは見送りに来ず、工房でティルダと白魔鋼の部品を見ている。
ミラは窪地の入口で荷車が見えなくなるまで手を振り、それから食堂へ戻って帳面の上に残った荷札の控えを片づけた。エルネは出発前に、今日どの箱を受け渡すのか、帰りに何を積むのかを書き残している。ミラが分かるところには印もつけてくれていた。レオンは工房から出てこなかったが、夕方にはエルネとエイルがいつもの時間に戻り、ベラが煮込みを温め直すころには、受け取った注文の話が食卓で始まった。
その日の夕食後、レオンは長卓へ一枚の紙を広げた。
「第五層のことで、もう一度王都へ行ってこようと思う。みんなに頼みたいこともあるんだ」
ミラは皿を重ねる手を止め、第五層で必要になったものの話だろうかと顔を上げた。レオンは卓に広げた紙へ、青と黄の糸が結ばれた空瓶を置いた。
「五層の毒は、症状が出たあとなら薬酒が効く。だが入るたび飲んでたら、先に酒で判断が鈍る。次は毒や痺れを受ける前に防ぐ方法が要る」
リュネが紙を引き寄せ、エイルと二人で思い出した植物の名を指で数え始めた。
「王都なら、毒の本も魔道具も、専門に扱う店もベルクより多いと思うの。植物の粉を吸わない道具とか、肌へ触れない装備とか、そういう考え方があるかだけでも見てきてほしいな」
「王都の魔道具店と職人を回って、毒の粉を防ぐ道具と草に触れずに進める装備を探してくる。見つかれば持ち帰って、次の探索で使おう」
「うん。兄さんたちが奥まで進めるようになったら、あの先の植物も持って帰れるよね。私も見たことのない草を調べてみたいな」
レオンは頷き、次に工房から持ってきた小さな包みを開いた。
中には白魔鋼を使った留め具が二つと、青魔鉄の芯へ白魔鋼を組み合わせた短剣が一本入っている。どれも白魔鋼だけで作った物ではない。
「もう一つはこっちだ。王都で、白魔鋼を使った加工品にどれくらい値が付くか聞く。前に武具を見てもらった店と、魔道具を扱うところを回る」
ティルダが短剣を持ち上げ、刃と芯の境目を指でなぞった。
「値段だけじゃなくて、どこを見られたか聞いてきて。軽さなのか、魔力の通りなのか、加工精度なのかで次に作る形が変わる」
「ああ。どの部分を評価されたか、向こうの職人の言葉で聞いてこよう」
フレイも留め具を一つ裏返して、削った縁の角度をミラたちに見せながら言葉を継いだ。
「白魔鋼があるから高い、だけならあんまり面白くない。青魔鉄と組み合わせた方がいいって分かるなら、そっちも聞いて」
「青魔鉄との組み合わせなら、どんな品が売れるのかも探ってくる。次に作る品の狙いが決まれば、工房の仕事も面白くなるな」
エルネは一通り話を聞いてから、机の端に開いていた自分の帳面を閉じた。
「定期の荷はおらがやっておく。ラトスへ出す分も、戻ってくる注文も今の帳面で回る。王都へ持ってくなら、その三つで十分だべ」
レオンは試作品の包みを閉じ、二つの留め具と短剣が収まっていることを、包みの上から指で確かめた。
「今回は俺一人で行く。荷もこれだけだ。バルトでベルクまで出て、補給したらそのまま東へ抜ける」
食卓ではすぐに、留守の間の仕込みや荷車の話も始まった。リュネは王都で聞いてほしい項目を紙へ書き足し、双子は見せる試作品を包み直す。ベラはレオンの旅糧を整えながら、その袋へ鼻を寄せたキュウを追い払った。ミラが皿を集めて厨房へ運ぶと、キュウもその後ろをついてきたので、ベラは笑いながら新しい皿へ水を注いでやった。
◇
翌朝、ミラが馬房へ行くと、レオンはもうバルトに鞍を載せており、腹帯の締め具合を確かめていた。
旅糧も着替えも、白魔鋼を使った三つの試作品も、《空間収納宝珠》へ収めてある。鞍の後ろには、小さな革袋だけが括られていた。中身は水筒と布、それに少しの干し肉だ。何も持たずに街道を旅していれば、かえって目につく。
ミラは、その革袋を留めた紐を最後にもう一度引いた。きちんと締まっている。昨日も確認したはずなのに、指が勝手に確かめていた。
「昨日も見てくれたのに、まだ紐が気になるのか。ちゃんと結べてるぞ」
レオンが笑うと、ミラはもう一度だけ結び目を指でなぞった。
「はい。締まっているのは分かっています。でも、もう一回触っておきたかったんです」
ミラが手を離すと、レオンも結び目を一度だけ引いてから、バルトの鐙に足を掛けた。
バルトは早く出たいのか、前脚で一度地面を掻く。
「バルトさんも、気をつけてください」
バルトは鼻先をミラの肩へ寄せ、外套の袖を何度も嗅いだ。ミラが持ってきた干し林檎を差し出すと、バルトは嬉しそうに口を動かして食べ、もう一度袖へ鼻を寄せてきた。
工房からは、もう槌の音がしていた。醸造所ではロアンが樽を開け、厨房からは燻製用の肉を焼く匂いが流れてくる。エルネは今日ラトスから戻る荷の帳面を食卓へ広げていた。
ティルダが工房の戸口から片手を振り、フレイもその後ろで声を掛けた。ロアンは醸造所から出てきて何やら酒の注文を頼み、ベラは旅糧を食べ忘れるなと念を押している。見送りの人だかりにはならなかったが、各々の仕事場から次々に声が飛んできた。
「それじゃ行ってくる。戻るまで、こっちのことを頼むぞ、ミラ」
「はい。レオンさんもバルトさんも、どうかお気をつけて行ってらっしゃい」
ミラが答えると、レオンはバルトの手綱を引いて窪地を上がっていった。林の間へ姿が消えたあとも、槌の音は続いていた。
◇
翌朝、ラトス行きの荷車がいつもの時間に出ていき、エルネが残してくれた帳面の印をミラが一つ消した。
その次の日には、林檎をまた二籠収穫した。ロアンは仕込み槽の空きを一つ増やし、ベラは燻製肉の包みを数え直した。フレイは午後の訓練で動く的を三度続けて射抜き、エイルに「今のは先を読めてた」と言われると、その日の最後まで機嫌がよかった。
キュウは午前中に窪地の上へ飛び、昼になる前には戻ってきた。
「キュウ、今日はずいぶん早く戻ってきましたね。まだお昼にもなっていませんよ」
キュウはひと鳴きして、ミラの掌へ額を押しつけた。ミラが頭を撫でると、キュウはすぐ厨房へ顔を向けた。
「帰ってきたら、まず食べるんですね」
昼の仕込みの前にキュウが厨房へ寄ることも、窪地ではもう当たり前の光景になっていた。
レオンが出て四日目の夕方、ミラは食堂で薬草の束へ札を結んでいた。
予定どおりなら、そろそろベルクが近いころだった。レオンは四日目にはベルクの手前まで着くと言っていたが、ミラには今どの辺りを歩いているのか、見当がつかなかった。
ミラは最後の札へ紐を通しながら、レオンの水筒がもう空になっていないか、バルトがちゃんと餌を食べているか、次々に気になった。昨日の荷車の帳面なら確かめられるのに、遠くの道で二人がどうしているのかは分からない。
第四層でキュウが見えなくなった日、皆で何度も名前を呼んだという。呼んだあとは黙って、風の中から返事が来るのを待った。ミラも、ずっと心の中で無事を祈っていた。
あのときは何度待っても、呼びかけた声にキュウの返事は返ってこなかった。
ミラは薬草の束を棚へ戻し、帰り火の方を見た。
「帰り火さん、ちょっと聞いていただきたいことがあるんです」
金色の火は、いつもと同じ大きさで燃えている。
「離れていても、皆さんが無事かどうか知る方法ってありませんかね」
そんなことまで頼んでよいのだろうかと思い、ミラは火を見ながら次の言葉を探した。
「場所まで分からなくてもいいんです。声だけでも聞けたら、ちゃんと元気だと分かりますから」
キュウを探していた十五日間も、こうして名前を呼んだら声が届けばいいと思ったことがある。もう帰ってきたキュウは厨房の前で昼寝をしているのに、そのとき待っていた声のことを、ミラはまだよく覚えていた。
帰り火の上に白い文字が浮かび、ミラが続きを言おうとしていた口を思わず閉じた。
《炉守りの必要を確認しました》
ミラは手に持った札紐を机へ置き、火の上に現れた文字を一つずつ読み直した。
《帰り火「最初の火」 Lv2からLv3へ上昇しました》
「帰り火のレベルが上がったんですか? 何かできることが増えたのでしょうか」
《新機能《炉縁者通信》を解放しました》
ミラは知らない言葉のところで何度も目を止め、次に何ができるようになったのかを尋ねた。
「通信、というのは、離れている人と話せるのでしょうか」
《炉守りと登録炉縁者一名を音声で接続します》
「レオンさんとも話せますか? 今はずっと遠くへ出かけているんですけど」
《可能です》
ミラは木札を握ったまま、レオンへ何を話そうか考え始めた。昨日の荷車はちゃんと出たし、キュウは朝から二度もご飯を食べた。ところが一つ思い出すと次も話したくなり、肝心の声が届くかどうかをまだ確かめていないことに気づいた。
ベルクの近くまで聞こえるのだろうか。試す前から胸が弾む一方、旅の途中で急に話しかけたらレオンを驚かせるかもしれないとも思った。それでも本人の声を聞いてみたくて、ミラは金色の火へ向き直った。
「では、レオンさんと話してみたいです。今、声が届くか試してもらえますか」
《接続します》
文字が消えると、薪がはぜる音だけが戻ってきた。ミラは一度周囲を見回したが、誰も食堂におらず、キュウは厨房の前で眠っている。レオンの姿が見えるわけでもないので、どちらへ向いて話せばいいのか迷いながら、金色の火へ声を掛けた。
「レオンさん、そちらまで聞こえますか。ミラです、声が届いていますか?」
すぐに返事はなく、息を二つする間にミラは自分の声が大きすぎたかと考えた。もう一度呼ぼうと口を開いたところで、聞き慣れた低い声が、食堂のどこからともなく届いた。
「……ミラか? どうした、そっちで何かあったのか?」
ミラは勢いよく背を伸ばした。レオンが目の前にいないのに、ちゃんと自分を呼んでいる。それが嬉しくて思わず声を張ると、向こうもすぐ返してくれた。
「はい、ミラです! レオンさん、本当に聞こえるんですね。びっくりしました」
「こっちも驚いたぞ。突然ミラの声がしたから、何かあったのかと思ったじゃないか」
「何もありません。すみません、そういうお話ではないんです。今、帰り火で試していて……」
謝りながらも、ミラはまだ金色の火から目を離せなかった。返事が届くたび、声を出せば本当にレオンが答えてくれるのだと分かって、続きを早く伝えたくなる。
「実は、帰り火に新しい機能が追加されたんです。《炉縁者通信》というそうです」
説明を聞き終えたレオンから、すぐには返事がなかった。
「……その新しい機能を、今いきなり俺に試したということか?」
「はい。レオンさんに、いちばん最初に話してみたかったんです」
「そういうことなら、最初に言え。何か事故でも起きたのかと思うだろう」
「つながる前には言えませんよ。私も今、初めて声が届いたところなんですから」
しばらく返事がなくなり、ミラは聞こえなくなったのかと火を見上げたが、すぐにレオンの笑い声が返ってきた。
「それもそうか。まあ、声が届いてることは分かった。それで、ミラは何を聞きたかったんだ?」
ミラは帰り火の前へ椅子を引いて腰を下ろし、今度はずっと聞きたかったことを尋ねた。
「レオンさんは、今どこまで行ったんですか? バルトさんも一緒にお元気ですか?」
「今はベルクの近くだ。補給が済んだら王都へ向かう。バルトも元気に歩いてるぞ」
「お怪我はありませんか。昨日も今日も、道で何もありませんでしたか?」
「怪我はない。道も今のところ穏やかだし、二人ともちゃんと食ってるから心配するな」
「よかったです。バルトさんもご飯を食べているなら、安心しました」
レオンの声を聞いた途端、ミラが気になっていたことが一つずつ片づいていった。どの道を歩いているのか、そこに何が見えるのかまでは分からない。それでもレオンが自分の声で元気だと教えてくれたので、ミラは火の前で大きく息をついた。
「そっちはどうだ。俺が出てから、変わったことでもあったか?」
「今日も林檎を採りました。フレイさんは動く的に三回続けて当てました。キュウは昼前に帰ってきて、また食べています」
「そうか。そっちは今日も、みんないつもどおりなんだな」
「はい。今日もみんな、いつもどおりです。ロアンさんはさっきまで樽のそばにいましたよ」
ミラは金色の火を見ながら、今朝、出荷の荷札を片づけたことも、キュウがまたお肉を欲しがってベラに叱られたことも話したくなった。けれど厨房の方で何かが床をこする音がし、そろそろキュウが昼寝から起きるころだと分かった。
食堂の入口から爪の音が聞こえ、キュウが大きな頭を覗かせた。ミラが呼ぶと、キュウは駆け寄ってきて鼻先を膝へ載せる。明日も林檎を採るし、フレイはきっとまた動く的へ矢を放つ。レオンも遠くの道を進んでいく。そのレオンの声が今、帰り火のそばにいるミラへ届いている。
ミラはキュウの角の間を撫でながら、嬉しくて笑い声がこぼれるのを止められなかった。
「レオンさん、離れていても声が聞けるなら、これで安心です。どうか気をつけて行ってらっしゃい」
ここまでお読みいただきありがとうございます。これにて四章終了です。
キュウが無事に帰ってきシーンを指し絵にしてみました。
「こんな話を読んでみたい」といったご要望があれば、是非とも感想をお寄せください。
五章は一日二回更新(12:10、21:10)にいたします。




