炉守りは湯気の向こうの声を聞きます
キュウの舌がミラの頬を下から上へ舐め、くすぐったくて顔をそむけても、湿った鼻先は追いかけてくる。ミラは石床へ仰向けになったまま首へ回した腕をほどけず、ようやく空いた片手で、すっかり大きくなった翼の付け根を撫でた。
「キュウ、嬉しいのは分かりますけど、私の顔を全部舐めなくても大丈夫ですよ。ちゃんとここにいますから」
返事をするように喉を鳴らしたキュウが身体を預けてきたので、ミラの息が詰まった。幼竜だったころにも、同じように飛びついてきたことがある。そのときは抱き上げて向きを変えられたのに、今では押しつぶされないように腕を突っ張るだけで精いっぱいだった。
「こら、キュウ! 十五日も待たせたんだから、もうちょっとミラを大事にしておやり。せっかく帰ってきたのに、今度はあんたが潰す気かい」
ベラの声に誰かの大きな笑い声が重なり、レオンがキュウの胸の横へ手を入れ、ベラが脇腹を押すと、ようやく黄色い身体が離れる。起き上がったミラの外套には灰色の砂がびっしりついていたが、払うより先に、短い角の間へもう一度手を伸ばした。
翼の端には細い擦り傷が幾つもあり、腹にも乾いた泥が残っている。けれど鱗の下は温かく、掌を添えたところで確かな呼吸が続いていた。ずっと探してもらっていたキュウが、本当に洞窟の床に座っている。それを確かめたくて、ミラは額から首へ何度も手を滑らせた。
「おかえりなさい。傷も汚れも、あとでちゃんと洗いましょうね。今日は何度でも撫でてあげます」
キュウは鼻先を押しつけ、またミラの頬を舐めようとした。
周りでは、皆がようやく荷物を下ろし始めていた。ティルダは槌を握ったまま欠伸をし、フレイに肩を揺すられて壁際へ運ぶ。ロアンも食卓に腰を下ろすなり両腕を投げ出し、エイルは弓を外すと背中を大きく伸ばした。十五日ぶりに揃った顔を見渡して、ミラは一人ずつにお礼を言いたくなったが、膝へ寄りかかってくるキュウの頭を放せなかった。
エルネが厨房から大鍋を運んできて、食卓のそばでキュウと目が合うと、鍋を置く手が止まり、湯気の向こうで何度も鼻を啜った。
「エルネさん、お鍋は私が置きますから、先にキュウを撫でてあげてください」
「おら、鍋ぐらい置けるべ。……どうも今日は湯気が目に沁みるだよ。キュウの顔をちゃんと見ようとしても、ぼやけちまうべな」
そう言って袖で目元を拭ったエルネに、キュウが鼻先を突っ込んだ。大鍋が卓に収まると、エルネは両腕で黄色い頭を抱きしめ、泣きながら笑った。
◇
翌朝、キュウの背を二度すすいだだけで、洗い場の最初の水桶はすっかり灰色になった。
ミラとリュネが左右から翼を広げ、ベラが濡らしたブラシを鱗の筋へ沿わせる。キュウは背中へ水が流れるたびに首をすくめたが、昨夜からずっと撫でてもらっているのが嬉しいらしく、翼を畳もうとはしなかった。
「翼の端は擦れてるけど、腫れてはいないみたい。キュウ、飛んだときに痛かったら、ちゃんと私たちにも教えてね」
「しばらくは地下に行かずに、ここで休みましょうね。食べるものも寝る場所も、ちゃんと用意してありますから」
ミラが傷の周りの砂を落としたところで、キュウが全身を震わせた。翼から飛んだ水がミラの髪へ降りかかり、ベラの前掛けまで濡らす。ベラはブラシを持ったまま大笑いし、キュウも褒められたと思ったのか、尾で空の桶を叩いた。
結局、着替えが必要になったのはキュウではなくミラだった。服を替えて食堂へ戻ると、厨房では《氷殻大蜥蜴》の腿肉が焼けており、キュウはもう火床の前へ陣取っていた。
「まだ焼けていませんよ。岩蟹の殻と違って、ベラさんのお肉は熱いうちに丸呑みしたら大変です」
「その通りだよ。あんたは十五日間も好きなものばっかり食べてたんだろうけど、帰ってきたならここの順番を思い出しな」
ところが、一枚目を食べ終えるとキュウは空の皿を鼻先で押し、二枚目が焼けるまでベラの手元から目を離さなかった。ミラはその横へしゃがみ込み、丸くなった腹を撫でているうちに、何度も笑ってしまった。
初めてこの洞窟で出会ったころは、キュウへ分ける食事を残すのにも苦労した。今は大きな肉が次々に焼かれ、食卓では皆が何枚食べたか数えることさえやめている。ベラが五枚目を焼き始めると、ロアンは隣の椅子から「自分の昼の分も残してくれ」と訴えたが、キュウはその声を聞いても振り返らなかった。
十五日間の探索を終えた仲間たちは、食事のあと順々に眠りに戻った。ティルダなどパンを握ったまま欠伸をし、フレイに取り上げられてようやく席を立ったのに、キュウだけは肉を食べ終わっても元気だった。
ようやく満足すると、長卓の下へ腹をつけ、ミラの足首へ顎を預けた。彼が眠り始めたのを確かめてから、ミラも椅子へ深く座り直した。
「明日もちゃんと食べられますから、今日はゆっくりお休みしましょう。もう毎日、ここで一緒にいられますよ」
目を閉じたキュウの尾が、石床をゆっくり叩いた。
◇
その日の夕食で、レオンが第一層の入口近くに新しく現れた小部屋の話を持ち出した。キュウを連れて帰る途中、以前は岩壁だった場所に見覚えのない横道が開いていたという。レオンがそう話すと、ティルダも思い出したように頷いた。奥を調べたかったらしいが、昨日は誰も足を止めなかったそうだ。
「キュウをミラに会わせるのが先だったからな。あの部屋を調べる気にはならなかったが、一晩寝たらやっぱり気になってきた」
「俺も見に行きたい。十五日も通った地下に、知らない部屋が増えてたんだからな」
エイルが答えると、レオンは嬉しそうに頷いた。ティルダとフレイまで身を乗り出したが、二人は疲れた腕をまださすっており、レオンに明日は二人で足りると言われると、すぐに工房で何を作るかという相談へ戻った。
ミラの足元では、キュウが肉の匂いに顔を上げたところだった。昨日まで生きて帰ってくるかどうか分からなかったのに、今日は誰よりも堂々とおかわりを待っている。ミラは皿へ一切れ取り分け、熱くないことを指で確かめてから渡した。
翌日、レオンとエイルが戻ってきたのは昼食が始まる前だった。二人は食堂へ入るなり、いつもの地下帰りとは違う勢いでしゃべり始めた。
「第一層の入口近くに、今までなかった横道ができてたんだ。あの先にも石室があってな、台へ乗って魔力を流したら、いきなり第五層の入口へ着いた!」
「戻る方も同じだったぞ。あの橋と昇降台を十五日もかけて造ったのに、今度は第一層から一息で行って帰ってこられる。あれは本当に驚いたな」
エイルは笑いながら腰を下ろし、レオンも何度も頷いた。工房から駆けつけた双子は、石台の形や床に刻まれた図について次々に質問している。ティルダなど椅子へ座ることも忘れ、どうやら明日にでも確かめに行きたいらしかった。
「第五層って、そんなに近くなったんですか。皆さんがあんなに長く歩いていった場所なのに、不思議ですね」
「近くなったのは間違いないよ。あの大亀のところへも階段を上がるだけだし、残してきた素材を取りに行くのがずいぶん楽になる」
レオンの返事に、フレイが嬉しそうな声を上げた。ミラは食堂の壁に刻まれた最深到達階層の表示へ目を向けた。あれほど遠かった第四層が、急に手の届く場所になった気がした。
ところが、レオンとエイルの話は石台の発見だけでは終わらなかった。
「ついでに第五層の奥の扉も開けてみたんだが、あそこは厄介だぞ。通路の先まで草が詰まってて、俺が知ってる毒草や痺れ草が一か所に集まってた」
エイルがそう言うと、リュネは持っていた匙を卓へ置いた。
「兄さんの知っている草だったの? ほかにも見たことのないものが混じっていたなら、どんな葉だったか教えてほしいな」
「黄色い花の周りから細かな粉が流れてきた。知らない蔓も絡んでいてな。入れば足の踏み場に困りそうだったから、今日は扉のところで戻ってきた」
「奥へ進んだらどうなるかは、まだ分からん。それでもあそこに道が続いてるのは見えたんだ。次はもう少し確かめたいな」
レオンがそう言ったときの顔を見て、ミラは夕べ、石台の話をしていたときと同じだと思った。疲れが取れたばかりなのに、もう次に見たい場所があるらしい。自分には無い感情だが、レオンのそんな表情がミラにはいつも眩しく思える。
知らない草が身体に悪いものだと聞くと、ミラも少し怖くなった。けれど二人は無事に戻ってきて、もう何を持っていけばいいか話し始めている。リュネが薬草の名前を聞き出そうとすると、エイルはテーブルの上へ指で葉の形を描き、二人であれこれ言い合っていた。
◇
その翌日から工房の槌音が増え、食堂へも双子の話し声がひっきりなしに届くようになった。
《断崖甲亀》が落とした宝箱には、《荷重石》という灰色の魔道具が入っていたらしい。リュネが水晶玉で調べたと聞いたとき、ミラにはそれが何に使えるものなのか、よく分からなかった。
ティルダとフレイは話を聞いただけで、食事中にも「これなら持ち上げられる」「あっちへも使える」と話しては、パンを食べ終わる前に工房へ戻ろうとする。レオンに今夜は休めと言われても、二人とも夕食までに形を確かめたいのだと譲らなかった。
「石を持っていくより、使う場所へ合わせて付け替えられる方がいいんだよ。姉ちゃん、今日はあの枠まで仕上げようよ」
「分かってるってば! でもその前に、この石を入れるところの寸法を測り直したいんだから、フレイも手を貸してよ」
ミラが工房へ夕食を呼びに行くと、二人は作業台いっぱいに図を描き、肩を寄せて言い合っていた。何の線がどの部品になるのかミラにはチンプンカンプンだったが、二人がこういうときに困った顔をしないことは、もうよく知っていた。
キュウも工房の入口へついてきたが、槌の音を二度聞くと満足したように腹を伏せた。ミラが角を撫でている間に、双子はようやく工具を置き、食堂へ向かった。
次の日には、レオンたちが《断崖甲亀》を持ち帰ると聞かされた。第一層の新しい石室から第五層入口へ渡り、そこから階段を上がるのだという。ミラは石扉の前でキュウの首を抱き、翼の傷が治るまでは一緒に留守番だと話して聞かせた。
夕方、先に聞こえたのはティルダの笑い声だった。
石扉から入ってきた一行の後ろで、レオンが《空間収納宝珠》から大きな灰黒い甲羅板を取り出す。洗い場の石床へ置かれたそれは、ミラが両腕を広げても端から端まで届きそうになかった。
「これが、その亀の甲羅なんですか。こんな大きなものを全部持ち帰ってしまったんですね」
「まだ全部じゃないよ。これでも切り分けたうちの一枚なんだから! ほかの皮も骨も、使えるところは持って帰りたいね」
ティルダは甲羅板を見下ろしながら、もう別の道具の話をしていた。フレイも同じくらい楽しそうで、硬い皮を何に使うか、工房へ入る前から相談が始まっている。
それから何度か、地下へ行った仲間たちが宝珠いっぱいに荷物を持ち帰った。工房には甲羅と皮が並び、骨は別の場所へ運ばれ、ベラが食べられると判断した肉だけが冷蔵室へ入った。洗い場に大きなものが増えるたび、キュウは匂いを嗅ぎに来て、ミラに呼び戻されていた。
ある晩、食卓には見慣れない煮込みが出された。匙で崩れるほど柔らかな肉もあれば、よく噛まなければ飲み込めない部分もある。ベラは鍋を卓へ置くと、いつもより得意そうに腕を組んだ。
「さあ、食べてみな。あれだけあたしたちを困らせた亀だからね。食べられるところを残したままにはしてやらないよ」
レオンが笑い、ティルダは最初の一匙を口へ運ぶなりおかわりを要求した。ロアンは酒を取りに立ち、エルネは硬いところを噛みながら、魔物の肉でこんなにうまい料理ができるとは思わなかったと感心している。
キュウにも味つけをしない肉が一切れ用意された。ミラが皿を床へ置くと、キュウは前脚で肉を押さえ、いつもより大きく顎を動かして噛み始める。
「キュウ、あんたの上でふんぞり返ってた亀まで食べちゃうんだね。よく食べる子だよ、まったく」
ベラがそう言って笑うと、キュウは空になった皿を鼻先で押し返した。もう一枚焼こうと厨房へ向かう背中を、皆の笑い声が追いかけた。
ミラはキュウの首を撫でながら、工房の方から聞こえてくる話にも耳を傾けた。洞窟の外で何が起きたのかは、仲間が話してくれるまで分からない。でも、持ち帰られたものが毎日の暮らしを変えていくところなら、ミラも一緒に見られる。
◇
精霊樹の林では、幹に結んだ麻紐を毎朝ずらさずに済むようになった。
冬の初めには、昨日の位置より木が伸びているのが当たり前だった。今は幹へ手を当てても、次の日に同じ場所を触れられる。リュネによれば、使えるほど大きくなった木が十本ほどあり、まだ枝を広げたい木もあるのだという。
「こちらの木は寝台にしてもいいって。隣の木は、もう少しここで育ちたいみたいだから、布を間違えないように結ぼうね」
ミラが白い布札を受け取ると、キュウは紐の端を面白そうに嗅いだ。高い枝に結び直すとき、キュウが背中に乗れという仕草をした。その通り乗ってみたら意外と安定していて、一緒に作業しているようで嬉しかった。
切り出した材が工房へ運ばれ始めると、食堂に置いてあるミラの椅子が変わった。ある朝、いつものように座ろうとすると、背の位置が少し手前になり、両脇に磨いた木の肘掛けが付いていた。立ち上がるときに掌を預ければ、石床へ身体を乗り出さずに済む。フレイが向かいの席から立ち上がり、どうだとばかりに目を輝かせた。
「前よりずっと立ちやすいです。私が手を置くところを、ちゃんと作ってくれたんですね」
「いつも椅子の横を掴んで立ってたでしょう。座ってるときに背へ届きにくそうだったから、そこも直したんだよ」
ミラが何度も座っては立つと、フレイは嬉しそうに笑った。ティルダも台所から顔を出し、今度は厨房の腰掛けも直したいと言い出す。ベラは「まず朝ごはんを食べてからにしな」と二人を呼び戻したが、自分の椅子まで変わると聞いてまんざらでもなさそうだった。
風呂場の石縁にも木の板が付き、湯に入るときに冷たい角へ腿を当てずに済むようになった。背を預けると木の柔らかな匂いが湯気に混じり、ベラは肩まで沈んだまま、これなら長く浸かっていられると喜んだ。
寝台が運び込まれた夜には、ミラの部屋まで木の匂いがした。精霊樹の低い枠に《樹冠大猿》の背毛皮を重ねた寝具が収まり、横になれば腰と肩の下へ柔らかな厚みができる。以前は石の床から身体を離せるだけで十分嬉しかったのに、今夜は寝返りを打っても肘が硬いところへ当たらなかった。
キュウは新しい枠をひとしきり嗅ぐと、自分も上がろうとして前脚を掛けた。木がみしりと鳴ったので、ミラは慌てて大きな頭を抱いた。
「待ってください。キュウが一緒に寝たら、私より先に寝台が潰れてしまいますよ。お顔だけならここに載せてもいいですから」
キュウは不満そうに喉を鳴らしたものの、顎だけを縁へ預けてきた。ミラは背毛皮の上から短い角の間へ手を伸ばし、明日も一緒に朝ごはんを食べようと話しかけた。
工房からはその間も槌音が響き、甲羅から何を作るかという相談が終わらないうちに、今度は探索組の装備も使いやすく直されていく。双子が腕まくりして声を上げ、レオンやエイルが仕上がったものを身につけて笑っているのを、ミラは食事を運びながら何度も見かけた。
作ったものが増えるほど皆の仕事まで増えているのに、洞窟は前よりずっと賑やかだった。
◇
キュウが醸造所の入口を覚えたのは、ロアンとベラがそこへ行くたび、どちらかが食べ物を持っているからだった。
圧搾機の横には新しい大きな仕込み槽が据えられ、壁際へは洗い終えた空樽が積まれている。次に林檎がたくさん採れたら、果汁をいったん大きな槽に集めて、味を揃えてから樽へ分けるのだと、ロアンは嬉しそうに説明していた。
キュウはその話を聞かず、ロアンの袖へ鼻先を押しつける。
「今日は肉を持ってないって。キュウ、僕の袖を何度嗅いでも林檎酒しか出てこないんだから、ベラのところへ行きなよ」
「ベラさんにはもうもらったでしょう。キュウ、ロアンさんのお仕事が終わるまで、私とこっちで待ちましょうね」
ミラが呼ぶとキュウはロアンから離れたが、諦めきれないらしく醸造所の入口へ尾を伸ばしたまま座り、ロアンは樽の間を歩くたびにその尾をまたぐことになった。
冬のあいだ仕込んでいた一本の樽を開けたとき、ロアンは味見用の匙を持ったまま動かなくなった。もう一杯すくおうとすると、ベラがすぐ手を伸ばして止める。
「さっきので味は分かったんだろう。これから蒸留する分まで飲んだら、仕込んだ意味がなくなっちまうよ」
「分かったから、もう少し飲みたいんだって。これは蒸留する前の酒としても、とびきりいい出来なんだよ」
リュネは二人の話より、樽の上に集まっているものへ気を取られていた。ミラには見えないけれど、彼女は目を輝かせ、祭壇へ酒を一杯持っていく。水皿に寄った細かな波を眺めてから、リュネは嬉しそうに笑った。
「精霊たち、このお酒が好きなんだね。今の香りと味を保つお手伝いがしたいって。きっといいお酒になるよ」
ロアンはその樽へ両手を添え、全部を蒸留せずに飲む分も残そうと頼んだ。ベラは少し呆れた顔をしたが、結局、蒸留釜へ回したのは酒の一部だった。
銅釜と冷却管を大きく作り直したおかげで、以前より多くの蒸留酒を取れるようになったらしい。ミラが見に行くと、ベラは火加減を見ながら汗を拭い、フレイは冷却水の桶を替え、ロアンは瓶へ落ちてくる透明な酒の香りを確かめていた。
その酒をリュネが欲しがったのは、第五層の草の話を聞いてからだった。
「兄さんが見た毒草と痺れ草、知らないものも多かったでしょう。治す薬があれば助けになると思うの。蒸留酒に薬材を合わせて、精霊にも手伝ってもらいたいな」
リュネは薬棚から根と葉と小さな実を取り出し、精霊樹の樹液と一緒に祭壇へ運んだ。ミラも頼まれて瓶を洗い、出来上がったものへ結ぶ色糸を揃える。何日か経つと、祭壇から戻った小瓶が三種類、棚へ並ぶようになった。
「緑は傷を塞ぐため、青は毒を抜くため、黄色は痺れを和らげるためのお酒だよ。飲んだあとの症状には効くけど、先に飲んでおけば草が平気になるわけじゃないんだ」
「では、青い糸と黄色い糸は、間違えないように結び目も揃えておきますね。レオンさんとエイルさんにも見てもらいましょう」
ミラは三色の瓶を並べ、青と黄を手に取ったまま、あの扉の向こうで二人が具合を悪くしても帰ってくる助けになるものができたのだと思い、少しだけ胸が軽くなった。
食堂の方でキュウが皿を押す音がしたので、ミラは糸の端を切って瓶を棚へ戻し、今日のおやつはもう食べたはずだと声を掛けながら、足早に厨房へ向かった。
キュウが帰ってきてから、ひと月が経とうとしていた。
◇
レオンとエイルがもう一度第五層へ行く日の朝、ミラはキュウの腹の下へ入り込んだ毛布を引っぱり出していた。
身体が大きくなったキュウは、寝返りを打つたびに毛布を巻き込んでしまう。ようやく引き出して畳み直したところへ、装備を整えた二人が食堂から出てきた。
リュネが小瓶を腰袋へ入れながら、色糸を一つずつ指さしている。
「青は毒、黄色は痺れだからね。前に話したとおり、症状が出てから使って。薬があるからって、毒草の中を平気で歩けるわけじゃないんだから」
「分かってるよ。今日はあの先に何があるのか、もう少し見てきたいんだ。あんな場所は、ほかでは見たことがないからな」
レオンが答えると、エイルは弓の肩紐を直しながら笑った。
「見たことのない葉もあったしな。どこまで続いてるのか分かったら、帰ってリュネにも話してやれる。昼飯には戻るつもりだ」
ミラは二人の装備からぶら下がる小瓶を見ながら、危ない草があると聞いたときには、誰も五層へ進めないのではないかと思った。けれど二人は行けるようになったことを喜び、互いに先に見つけたいものを話している。
「帰ってきたら、何を見たのか聞かせてくださいね。ベラさんにもお昼ごはんを用意してもらっておきますから」
「帰ったら話すよ。キュウには俺の肉まで食べないように頼んでおいてくれ」
レオンの言葉にミラが笑うと、キュウは名前を呼ばれたと思ったらしく、毛布を踏んだまま顔を上げた。エイルが鼻先を撫で、二人は石扉の向こうへ出ていった。
閉じた扉をキュウがしばらく見つめていたので、ミラはその首へ手を掛けた。翼の傷はもうすっかり治っていたが、キュウはついていこうとはせず、ミラが畳んだ毛布の上へ戻ってきた。
午前中、ミラはキュウと精霊樹の林へ行き、戻ってから厨房でベラの手伝いをした。小瓶を渡したリュネは、使った分をすぐ補えるよう薬材を並べ直している。食堂の椅子へ腰を下ろすと、新しい肘掛けが掌へ気持ちよく収まり、足元ではキュウが鼻先を預けてきた。
昼には戻ると言っていた二人のことが、時々気になった。けれどキュウが首を持ち上げるたび、ミラの手は自然と角の間へ戻った。
◇
ミラがまだ昼食の皿を並べていないうちに、石扉の重い音が洞窟へ響いた。
ミラが顔を上げると、レオンとエイルが並んで入ってきた。二人とも自分の足で歩いていたが、外套の裾には黄色い粉がつき、手袋には潰れた葉が貼りついている。キュウが駆け寄ろうとすると、レオンが片手を上げて止めた。
「キュウ、こっちへ来るなよ。妙な粉をたくさんつけて帰ってきたから、洗うまでは触らせてやれないんだ」
その声がいつもと変わらなかったので、ミラはキュウの首を抱いたまま、二人が洗い場へ向かうのを見送った。エイルが留め具を外そうとして、一度で指を掛けられなかったのが気になった。
「兄さん、まだ痺れてるの? 青いお酒と黄色いお酒は、ちゃんと役に立ったんでしょうね」
「役に立ったぞ。おかげでこうして帰ってきたんだが、どうも足元まで少し面白いことになってるらしい」
エイルが笑うとリュネは首を傾げ、同じように頬を赤くしているレオンと兄の顔を見比べたが、二人の息からは蒸留酒の匂いがはっきり漂っていた。
ベラが厨房から駆けてきて、外套を見るなり壁の水口を開いた。フレイとティルダは長い木鉤を持ってきて、汚れた装備を受け取っている。
「そのまま食堂へ入るんじゃないよ。外套も手袋もこっちで洗うから、まず二人とも身体についたものを落としておいで」
水が流れ始めると、黄色い筋と緑の汁が石床の溝へ走った。ミラはキュウが近づかないように抱き留め、少し離れたところからレオンへ声を掛けた。
「お怪我はありませんか。お昼ごはんはもうすぐですし、食べる前に少し休めそうですか」
「怪我はないよ。草のせいで喉が痛くなったが、リュネの薬がよく効いた。今日は奥へ行くのを諦めて、早めに帰ってきたんだ」
「俺も指が動きにくくなったが、今はもうずいぶん戻ったぞ。詳しい話は身体を洗ってからにしよう。あの黄色い粉を食卓へ持ち込みたくないからな」
ミラは頷き、キュウの鼻先をもう一度自分の方へ向けた。毒も痺れも怖かったけれど、目の前にいる二人は話す声まで元気だった。
リュネが腰袋から空瓶を出すと、青と黄の糸がいくつも重なっていた。洗い場に立っているミラのところまで、蒸留酒の強い匂いが漂ってきた。
「二人とも、ずいぶんたくさん飲んだね。薬が効くのは嬉しいけど、兄さん、足元はちゃんとしてる?」
「まっすぐ歩いてるつもりなんだが、さっきから石床の方が俺を避けていくんだ。どうしてそんな顔で見てるんだよ」
エイルの返事にレオンが吹き出し、笑いながら手袋を外そうとして、今度はレオンまで留め具を取り落とす。ティルダが笑い、フレイも木鉤を持ったまま肩を揺らした。
「だったら二人とも着替えて風呂へ行っておいで。装備はこっちで洗うから、報告の続きは身体が温まってからでいいよ」
ベラの声にレオンは頷き、エイルも素直に外套を預けた。二人は互いの顔を見合わせると、何がおかしいのかまた笑い出し、肩を揺らしながら浴室へ向かった。
◇
最初の笑い声が風呂から聞こえたとき、ミラは洗い場で空瓶をすすいでいた。
浴室へ行く途中、エイルは一度だけ物置の方へ曲がりかけ、リュネに呼び戻されていた。レオンはそのことが面白かったらしく、廊下でも何度か笑っていたが、湯へ入ってからも声が小さくなる様子はない。
「あの扉の向こう、道が右に曲がってたよな。三歩も進めなかったのに、あそこだけは妙にはっきり見えたんだ」
「よく見てたな。俺は足元の蔓ばかり見てたよ。でもレオン、三歩目はちゃんと踏んでないから、二歩半じゃないのか?」
「三歩目へ足を出したんだから三歩でいいだろう。次はあの足を下ろせるところまで行ってみたいんだよ」
エイルが笑い出し、湯をかき回す音が大きく響いた。ミラは瓶の水を切りながら、二人の話を聞いていた。昼前に帰ってきたのだから、それほど奥へは行けなかったのだろう。それでも二人の声には、まるで面白いものをたくさん見つけてきたような弾みがあった。
「レオンが黄色い花に近づいた途端、あの粉がふわっと来ただろう。喉を押さえてるのを引っぱろうとしたら、俺の指まで動かなくなったんだからな」
「エイルもずいぶん慌ててたじゃないか。でも、青い方を飲んだら喉が楽になったし、そっちも黄色いのが効いてたろう?」
「効いたとも。だからもう一度行ったんだが、今度はさっきより早く指が痺れた。あれだけ草が詰まってたら、同じ場所を通るだけでも一苦労だぞ」
「それでも、次はあの花の向こうまで見たいな。奥に青い葉があっただろう。あんな色の草、俺は初めて見たよ」
「青い葉なんてあったのか。俺は粉が流れてきた方しか見てなかったから、そこまでは気づかなかったな」
男湯から、今度は二人一緒の笑い声が聞こえた。ミラは空瓶を棚へ並べる手を止め、浴室の方を見た。出かける前からあんなに楽しそうだった二人が、途中で喉を痛めたり指を痺れさせたりしたのだと、ようやく分かってきた。
「もう一回薬を飲んだら、草の毒より先に酒が回ってきたのが参ったな。石台の上で、あんなに足がずれるとは思わなかったよ」
「こっちだってレオンを担いで帰るのはごめんだったんだぞ。なのに自分も、何も持ってない手で弓を握ろうとしてたんだからな」
「それは見てたよ。空っぽの手を一生懸命握ってるんだから、笑わずにいられなかったな。でも次は、薬を飲まずに奥まで行ける方法を考えたいよ」
「それができたら、今度こそ青い葉を見に行こう。ん?…青かったかな? まぁ、青い葉としておこう。何が生えてるのか分からないまま帰ってくるのは、やっぱり悔しいよ」
二人はまた声を揃えて笑い、もう次に行く日の話を始めていた。
ベラが洗い終えた外套を干し、リュネも最後の小瓶を棚へ戻した。男湯から大きな笑い声が聞こえるたび、ベラは口元を緩め、リュネも兄の声へ耳を傾けていた。ミラは二人の顔を見てから、自分の手がいつの間にか濡れた布を握りしめていたことに気づき、布を広げて掛け直した。
洗い場の長椅子で眠っていたキュウの角の間へミラが手を入れると、温かな頭が掌を押し返し、満足そうな鼻息が返ってきた。
男湯ではまだ、レオンとエイルが三歩目の先に何があったかを言い合っていた。ミラには二人の何がそこまでおかしいのか分からなかったけれど、帰ってきたときよりもずっと大きな笑い声を聞いているうちに、自分まで嬉しくなって、キュウの額を何度も撫でていた。




