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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
雪下の冒険

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炉火継ぎは怒ります

 岩棚の下から聞こえた鳴き声に、ベラは短杖を構えたまま振り返った。風が岩の縁を抜けていく。その音が止まるより先に、もう一度、聞き慣れた声がした。


「きゅう!」


 縁の下から黄色い頭が覗いた。短い角の間に砂がこびりつき、鼻先の鱗も汚れている。頭が引っ込んだかと思うと翼が大きく広がり、岩壁を蹴る爪の音が続いた。二度、三度と翼を打ち、キュウは前脚を岩棚の縁へ掛けた。後脚を引き上げる際に腹を擦ったが、最後は自分の脚で立ち、五人を見回した。


 ベラは短杖を持つ手を下ろせなかった。眠る前にも起きたときにも、耳の奥で何度も聞いた声だった。夢の中では返事をするのに、目を開ければキュウはいない。その声が、今は岩棚の上で鳴っている。


「キュウ、あんた本当にキュウなのかい! こっちへおいで、顔をちゃんと見せておくれ!」


 キュウは嬉しそうに尾を振った。翼の端には擦り傷があり、脚の鱗にも砂が入っているが、四本とも自分の体重を支えていた。少なくとも、目の前にいるキュウは歩けるし、鳴けるし、ベラの声を聞いている。


 ティルダが槌を放り出しかけ、フレイが姉の腕をつかんだ。レオンは剣を握ったまま、キュウの方へ一歩踏み出した。


「キュウ、俺だ! 俺が分かるか、ずっと捜していたんだぞ! お前、いったいどこにいたんだ!」


「きゅう!」


 キュウが答えた直後、地面が揺れた。《断崖甲亀》が頭を上げ、前脚を踏み出したのだ。大きく開いた口がキュウの方へ向く。レオンが全力で駆け込み、二つの間へ身を滑らせた。


「キュウ、そこを動くな! 今度こそ俺の目の届くところにいてくれ、頼むから!」


 青魔鉄の剣が下顎を受けた。硬い皮へ刃が弾かれ、腕の骨まで響く衝撃が走る。レオンが身体ごと横へ逃れると、大亀の口はさっきまで彼の肩があった空間を噛み潰した。


 エイルの矢が目元へ飛ぶ。大亀は首をすくめて矢を厚い眉の皮で受けたが、次に放たれた矢は前脚の付け根へ食い込んだ。足を止めたところへフレイが重弩を構え、レオンが横へ抜けるのを待って太矢を放つ。矢は皺の深い首へ刺さったものの、巨体はほとんど揺れなかった。


「首も脚も、外側の皮が厚すぎるよ! このまま撃っていたら、こっちの矢箱が先になくなっちゃう!」


 フレイが歯を食いしばって次の太矢を装填する。キュウはベラの足へ鼻先を寄せ、大亀と仲間たちを交互に眺めていた。


 ベラはその額に触れようとした。短い角へ指先が届くまで、あとわずかだった。


 大亀が首を伸ばし、再びレオンへ噛みつく。ベラの手は空を掴んだ。


 あの子へ食べさせるつもりで鍋をいっぱいにして、冷めた料理を捨てた。夜中に何度も目を覚まして、水と干し肉の数を確かめた。さっきはとうとう、骨の欠片でも連れて帰りたいと言ってしまった。そんな自分の目の前にキュウが戻ってきたというのに、この亀がまだ邪魔をする。


「レオン、あんたはキュウを連れて下がりな! その亀は、あたしの料理にするから!」


 返事を待たず、ベラは《魔力増幅の短杖》を両手で握りしめた。杖先に集まった炎は、橙色から眩い白へと変わり、その中心に青白い光を宿した。ベラが注ぎ込んだ魔力に応じて火塊はさらに膨れ上がり、岩棚を照らす光が凄まじい熱を帯びていく。巨大な甲羅を炎が照らし、レオンがキュウを庇って飛び退いたのを見届けると、ベラは短杖へ注いだ魔力を一気に解き放った。


「《爆炎》! あんたのせいで、あの子をもう二度と抱けないと思ったんだよ! その分まで焼かれておくれ!」


 火塊が大亀の首元へ激突した瞬間、凄まじい轟音とともに爆炎が膨れ上がった。灰黒い巨体が炎に呑まれ、吹き荒れる熱風が岩棚の砂を根こそぎ巻き上げる。甲羅に守られていない首と前脚の皮が焼け、大亀は首を引っ込めることもできず、前脚を突っ張って激しく身をよじった。


 ベラはさらに短杖を突き出した。まだ燃えている大亀へ向かって炎を浴びせ、逃げようとする頭を追い立てる。甲羅そのものは耐えていたが、首を引っ込めれば炎が顔へまとわりつき、前へ伸ばせば焼けただれた皮が引きつれた。


「何であんたがそこで寝てんだよ! 十五日も返事のないキュウの真上で、のうのうと寝てたんだい!」


 レオンは亀にそんなことを言っても仕方がないと口を開きかけたが、ベラの顔を見て黙った。彼女は涙をぼろぼろこぼしながら、真っ赤に染まった頬も拭わず、燃え盛る大亀を睨みつけていた。


「ベラ、魔力を一度に使いすぎるな! あいつを倒したあとにも、キュウを連れて帰る仕事が残ってる!」


「そんなこと分かってるよ! だからさっさと倒して、あの子に腹いっぱい食わせてやるんじゃないか!」


 大亀が後ずさった。熱から逃れようと頭を振り、伸ばした首を岩へ擦りつける。その姿を見つめていたティルダが、握り直した槌の柄へ目を落とした。


「……あ、怒っていいんだ。あたしだって、あの日からずっと腹が立ってるんだから!」


 胸元の赤い宝珠へ手を触れる。フレイが姉の動きに気づいて声を上げた。


「姉ちゃん、加速を使うなら射線から出て! あたしも今度は絶対に仕留めるつもりなんだから!」


「ベラ! ちょっと火弱めて。私もぶっ叩く! この亀野郎!!」


 ベラが火力を弱めたのを見たティルダは、一度目の赤い光で間合いを詰めた。炎から逃れようとして伸びきった大亀の首は、今までより長く外へ出ている。二度目の光が足元を走り、ティルダが槌を後ろへ引いた。


「毎晩、あの子を呼んだんだよ! 叩いた岩までつながってなかったっていうのに、どうしてあたしらが謝らなきゃいけないんだい!」


 三度目の光が走った。槌の頭が大亀のこめかみにめり込み、巨体の首を真横へ跳ね飛ばした。頭が岩床へ叩きつけられると、硬い音が足裏まで響き、ティルダは勢いを殺すために転がって立ち上がった。


「姉ちゃん、首を上げさせないで! 甲羅から出たままなら、今度はあたしの矢が届くんだから!」


 フレイの重弩が鳴った。火をまとった太矢が首の付け根へ突き立ち、ベラの《爆炎》で熱せられた隙間へさらに炎を送り込む。大亀が前脚を持ち上げようとすると、エイルの矢が関節の内側を射抜き、踏み替えるための足を止めた。


 レオンはキュウの前に立ち、青魔鉄の剣で大亀の噛みつきを牽制した。すぐ背後ではキュウが顔を上げ、レオンの動きを追っている。大亀が首を左右へ振るたび、レオンはキュウの方へ一歩も寄せまいと踏み込み、硬い下顎へ何度も剣を当てた。


 ティルダが大亀の前脚へ槌を打ち込む。厚い爪の一本が折れて転がり、重心を失った巨体が大きく傾いた。フレイは姉が射線を空けるのを待つと、続けざまに太矢を放ち、撃ち尽くした矢箱を抜いて次のものを取りつけた。


「フレイ、まだ撃つつもりなのか! 首はもう上がらなくなってるし、十分に効いているはずだぞ!」


 エイルが尋ねると、フレイは矢箱の留め金を乱暴に押し込んだ。


「だから撃つんだよ! もうこの亀に起き上がってほしくないし、あたしはまだ全然気が済んでない!」


 太矢が再び飛び、ひびの入った皮の奥へ刺さる。ティルダも宝珠の光が消えた脚で走り、前脚の関節へもう一撃を叩き込んだ。


「姉ちゃん、そこから離れて! もう一発撃ったら、次はベラが焼くところなんだから!」


「分かってるって! あたしも、最後はベラにやらせたいと思ってたところだよ!」


 ティルダが飛び退くのを見届けると、ベラは短杖を両手で握り直した。甲羅の中で燃えていた炎を、首と四肢の付け根へ一気に押し広げる。熱に追われて大亀が身体を起こそうとしたところへ、フレイの最後の太矢が飛び込み、支えていた前脚の内側を貫いた。


「さっさと倒れな! あたしは、キュウを抱きしめなきゃならないんだよ!」


 甲羅の四方から火が噴き出した。《断崖甲亀》の脚が崩れ、巨大な腹が岩床へ落ちる。石柱の先端から砂がぱらぱらと落ちてきたが、ベラは動かない亀をなおも睨みつけたままだった。


《第四層階層主の討伐を確認》

《地下探索領域 第四層踏破》

《最深到達階層――第四層》


 エイルは弓に矢を番えた姿勢で立ち尽くしていた。レオンも剣を下ろすのを忘れ、ティルダがもう一度槌を振りかぶらないか気にしていた。上の岩棚から響いていたロアンのリュートまで、いつの間にか止まっている。


「ベラ、もう動かないぞ! キュウも無事だし、今度こそそいつから手を離してやってくれ!」


 エイルがようやく声を掛けた。ベラは大亀の首が動かないことを見届けると、短杖を下ろし、全力でキュウの方へ駆け出した。


     ◇


 キュウは、ベラが両腕を広げて走ってくるのを見て、嬉しそうに前脚を上げた。ところが、その直後にティルダとフレイまで駆けてきたため、伸ばされた手の間で首を右へ左へ動かし、三人を見回して尾を振った。


「キュウ、あんたが生きてるなんて! こっちへ顔を向けておくれ、翼も脚も全部見せてもらうからね!」


 ベラが黄色い頬を両手で挟む。キュウが鼻先を押しつけると、今度はティルダが首へ抱きつき、フレイが反対側から翼の付け根を撫で始めた。


「あんた、いったいどこにいたんだい! あたし、もうあんたに会えないかと思って、毎晩本当に怖かったんだからね!」


 ティルダは怒鳴るように言いながら、キュウの首へ汗だくの額を押し当てた。厚い鱗があまりに温かくて、顔を離した途端に涙がこぼれる。フレイは姉の肩越しにキュウの翼を広げ、先端の擦り傷を見つけると、そこへ指先を滑らせた。


「ちゃんと飛べるようになったんだね。翼もこんなに大きくなったんだから、傷がないか私にも見せてよ」


「きゅう!」


 キュウは声を張り上げ、撫でている手に身体を預けた。三人とも離そうとしない。ベラが腹を触ろうとするとティルダの腕が邪魔になり、フレイが翼を畳ませようとすると今度はベラの肩がぶつかった。誰も譲らないくせに、ぶつかるたび嬉しそうに笑っていた。


 レオンも剣を鞘へ納めて近づいた。まず短い角の間へ手を伸ばしたのだが、ベラがキュウの頭を引き寄せたため、指先は空を撫でた。


「ちょっとこっちを向きな、キュウ。あんた、目に砂が入ってないかい? ベラがちゃんと見てやるからね!」


 レオンは腕を下ろした。今度はキュウの背を撫でようと横へ回ったが、ティルダが両腕を広げて抱きつくものだから、立つ場所さえなくなってしまう。


「キュウ、あたしのこと覚えてるよね! あの岩棚で一緒に蟹を追いかけたの、忘れたなんて言わせないよ!」


「きゅう!」


 返事をしたキュウの翼が広がり、レオンは顔をはたかれそうになって一歩退いた。次はフレイが翼端を撫でるために身体を入れ替え、とうとうレオンの前には尻尾しか残らない。


 せめて尻尾でも、と手を伸ばしかけたところで、キュウがベラの方へ回り込んでしまった。レオンは中途半端に上げた掌を見下ろし、行き場をなくしたまま立っていた。


 エイルが隣へ来た。自分もキュウの無事を確かめたい様子だったが、三人の勢いを見て、まずはレオンの顔を眺めた。


「お前、さっきまで誰より先に斬りかかりそうだったのに、今はずいぶん遠慮がちじゃないか」


「遠慮してるんじゃない。あいつに触ろうとするたび、誰かが目の前へ割り込んでくるんだ!」


 レオンが抗議すると、エイルはしばらく堪えてから声を上げて笑った。


「だったら言えばいいだろう! 今ならキュウもちゃんと返事してくれるんだからさ!」


 レオンは三人の背中を見た。ベラはキュウの頬を挟んで何か言っている。ティルダは首の鱗を一枚ずつ撫で、フレイはもう片方の翼に怪我がないか調べている。皆の顔が幸せそうで、そこへ割って入るのはどうにも気が引けた。


 寝る前も槌を振っている間も、レオンは一度でいいからこの頭を撫でたかった。そのためにここまで道を造ったのだ。


「おい、お前ら! 俺にも撫でさせろ! 十五日も探したんだから、一回くらい俺の番を作ってくれ!」


 ベラが振り返った。ティルダは目を丸くし、フレイはキュウの翼を持ったまま口を開けた。それから三人が一斉に笑い出す。


「何だい、レオン! あんたも撫でたかったんなら、もっと早く言えばよかったじゃないか!」


「レオン、そこにいたんだ! さっきから見えてたけど、キュウのことで頭がいっぱいになっちゃってさ!」


「姉ちゃん、見えてたなら少し空けてあげなよ! ほらレオン、今度こそ正面からおいで!」


 三人が左右へ退くと、キュウがレオンを見つけて耳を動かした。レオンはようやく黄色い頭へ両手を伸ばし、短い角の間へ指を埋めた。触れた鱗は温かく、汗ばんだ掌の下でキュウの呼吸が上下する。


「キュウ、お前……よく生きていてくれたな。もう一度撫でられるなら、俺は本当に何をされても構わんぞ」


「きゅう!」


 キュウは鼻先をレオンの胸へ突っ込んだ。勢いを受け止めきれずに膝をつくと、今度は大きく開いた口が彼の手へ寄ってくる。レオンの指が黄色い歯の間に挟まれた。


「痛っ、おい、そこは噛むところじゃない! ……いや、いいか。お前になら、いくらでも噛まれてやるよ」


 キュウは軽く歯を当てただけで放し、今度は濡れた鼻先をレオンの頬へ押しつけた。レオンは声を上げて笑った。置いて帰ったあの日から、もう一度この顔を見たら何を言おうかと、何度も考えてきた。それなのに、今はうまく話せない。両腕で首を抱きしめると、キュウは自分の身体をすっかり預けてきた。


「重くなったな、お前! まったく、どうやってあんなに長く生きていたんだか、帰ったらミラに全部話してやりたいくらいだ!」


 その言葉を聞いて、ベラがキュウの腹へ目を向けた。抱きしめたときから気になっていたのだが、長い間行方知れずだったわりに、腹のあたりが妙に丸い。キュウはレオンの肩を押し、空腹を訴えるようにベラの荷袋へ鼻先を伸ばしている。


「待ちな、あんた。ずっとひとりでいたのに、どうしてそんなに腹が丸いんだい? 何を食べてたんだよ」


 ベラが顎の下へ手を入れると、口の端の鱗に黒褐色の欠片が挟まっていた。摘み取った薄い殻は、端が硬く曲がり、裏側が赤茶色をしている。見覚えのある色だった。


「……まさか、これ岩蟹の殻じゃないかい? あんた、あの岩蟹をずっと食べてたのかい!」


「きゅう!」


 キュウが得意そうに尾を振った。ベラは殻を掌へ載せたまま、丸い腹と、嬉しそうな顔を見比べた。


「こっちは食べられないんじゃないかって心配してたのに! あんた、十五日間も大好物ばっかり食べてたっていうのかい!」


 ティルダが吹き出した。フレイも笑い始め、レオンはキュウの首を抱えたまま肩を揺らしている。ベラは泣き笑いの顔でキュウの頬を両手で包み、鼻先を自分の額へ押し当てた。


「よかったよ、本当によかった。食べててくれたんだね。あたしの料理じゃなくたって、あんたが腹いっぱいならそれでいいんだよ」


 キュウが鼻を鳴らすと、ベラは堪えきれずに笑い声を上げた。あれから自分が作ってきた料理も、空の皿を見て怒鳴ったことも、いっぺんに思い出してしまった。


 ベラが干し肉を取り出すと、キュウは早速鼻先を寄せてきた。ティルダとフレイも荷袋へ手を伸ばしたので、三本の肉が同時に突き出される。


「ちょっと、あんたたち! 三人で出したらキュウが困るだろ。ほら、一人ずつ渡しなさいってば!」


「あたしのを先にあげたいな。久しぶりなんだから、誰が最初でもいいじゃないか!」


「姉ちゃん、キュウが選べばいいよ。私は次の分を出すから、ベラの分まで取らないでね!」


 キュウは迷わずベラの肉を受け取り、噛みながらティルダの方へ首を伸ばした。三人がその順番に大騒ぎするものだから、レオンはまたキュウから押し出されそうになった。


「おい、今度は俺の場所まで取るなよ! もう一度撫でさせてもらうまで、絶対にここを動かんからな!」


 上の岩棚から、ずっと待っていたロアンの大声が降ってきた。仲間の笑い声だけ聞かされて、我慢ができなくなったらしい。


「君たち、僕のことを忘れてないかい! キュウに会えたのは分かったけど、僕だけまだ一度も撫でてないんだよ!」


 ロアンだった。巻き上げ機の横から身を乗り出し、両手を振っている。レオンが見上げると、彼は怒ったような顔を作ったが、すぐに崩れてしまった。


「生きてるんだね、本当に! こっちからも黄色い頭が見えるよ。早く上がってきて、僕にも顔を見せてくれないかな!」


「待ってろ、ロアン! 今度は皆で一緒に帰るからな。あいつもちゃんとお前のところへ連れていく!」


     ◇


 その約束を聞いたかのように、倒れた亀の向こうから重い石の擦れる音がした。エイルが弓を構え直したが、《断崖甲亀》の脚は動いていない。音は岩床の内側から響いていた。


 砂が左右へ押しやられ、低い石箱がせり上がってくる。さらにその奥では、岩床の継ぎ目が四角く沈み、地下へ続く階段が姿を現した。さっきまで戦っていた場所が、みるみるうちに別の景色へ変わっていく。


「やっと次の階層へ進めるんだね。あの階段、ここまでずっと下へ来たのに、また下へ続いてるよ!」


 ティルダは目を輝かせたが、槌を担いで階段へ駆け寄ることはしなかった。キュウの首から片腕を離せずにいるらしい。レオンも石箱と階段を見比べ、宝珠を手にした。


「宝箱だけ開けて持ち帰ろう。次の階層の調査は、全員が十分眠ってから改めてやればいい」


 エイルが箱の周囲を調べ、フレイが蓋の縁へ指を掛けた。床との間に怪しい仕掛けがないと分かると、レオンが蓋を開ける。中には灰色で滑らかな石が一つ、布に包まれて収まっていた。


「四層の階層主の宝箱が石一個とはね。何に使うか分からないけど、帰ったら工房へ持ってきてよ!」


「名前も使い道も、今日は調べないぞ。石は宝珠へしまって、キュウをミラのところへ連れて帰ろう」


 レオンが灰色の石を収納すると、フレイは階段の入口から下を覗いた。十段ほど先に小さな石室が見え、奥には扉が一枚、その手前には文字と図形を刻んだ石台が据えられている。壁にも同じような模様が続いていた。


「レオン、階段の下に変わった石台があるよ。壁にも模様が刻まれてるけど、何のためのものだろう?」


 ティルダが妹の肩越しに石室を覗き込んだ。二人にとっては、見たことのない設備を調べる機会だった。フレイは石台の周囲をもっと近くで見たそうにしていたが、ティルダの腕はまだキュウの首に回ったままだった。


 レオンも階段の下を覗いたが、石台の用途を考える気にはならなかった。宝珠には、ミラが用意した大きな毛布が入ったままだ。怪我をしたキュウを包むつもりで持ってきたのに、一度も広げずに済んだ。


「石台も階段の先も、次に来たときに調べればいい。今はキュウをミラのところへ連れて帰ろう。あいつがずっと待ってるんだ」


「……そうだね、私もミラの顔を見たいよ。帰ったら、キュウが何を食べてたかも話してやらなくちゃね!」


 ティルダがそう言ってキュウの頭を撫でると、ベラはまた泣きそうな顔で笑った。レオンは亀の巨体を振り返ったが、解体道具を出す気にはならなかった。これほどの甲羅なら双子が喜ぶだろうし、魔物の素材としても価値がある。それでも今日は、重い亀をどう運ぶか考えるより、キュウを連れて帰る方が何倍も嬉しかった。


 上の岩棚へ向かってロアンに合図を送り、空の昇降台を下ろしてもらう。キュウは木枠の上へ乗る前に翼を広げかけたが、ベラとティルダとフレイがそろって声を張った。


「キュウ、飛ばなくていいんだよ! あんたのために造った道なんだから、今日はちゃんと使って帰ろうね!」


 キュウは三人の顔を見回し、翼を畳んだ。フレイが案内索を確かめ、エイルは岩棚の縁で風が緩むのを待つ。若竜になったキュウは荷を運ぶための木枠へ身体を収めると、いかにも窮屈そうに尾を丸めた。


「大丈夫だ。今度はお前を置いて帰らん。俺たちの造った道で、最後まで一緒に戻ろうな」


 レオンが頭を撫でると、キュウは一度だけ鼻先を押しつけた。ロアンが巻き上げ機の制動具を操作し、何日もかけて据え付けた主索がゆっくりと張る。木枠が岩棚を離れ、キュウは揺れに驚いて前脚を踏ん張ったが、上から響くロアンの声に顔を向けた。


「キュウ、ちゃんと乗ってるね! もうちょっとだから、そのままこっちまで来てくれたら嬉しいな!」


 やがて木枠が上の岩棚へ着き、ロアンは巻き上げ機を止めた。急いで安全索を留め直すと、キュウのところへ駆け寄り、黄色い頭へ両腕を回した。


「おかえり、キュウ! もう一度君の顔を見られるなんて、今朝はまだ怖くて考えられなかったよ!」


「きゅう!」


 キュウが顔を擦りつけ、ロアンのリュートの胴へ鼻先が当たった。彼は慌てて楽器を背中へ回したが、今度は笑いながらキュウの顎を撫でた。下からレオンたちが順に上がってくる間、ロアンはずっと話しかけ、キュウはそのたびに返事をしていた。


 五人が揃うと、安全索を結び直して帰り道へ向かった。岩棚から岩棚へ渡した橋も、石柱の脇を抜ける昇降台も、何度も試した手摺も、全部キュウを捜すために造ったものだ。今、その真ん中をキュウ自身が歩いている。


 途中で風が強くなり、一行は岩陰へ寄って待った。キュウは橋の向こう側を眺め、翼を開いて近道したそうに首を伸ばしたが、レオンが呼ぶと足元へ戻ってきた。ベラはその度に頭を撫で、ティルダは「キュウ、今日はちゃんと言うことを聞けたね」と褒め、フレイは褒めすぎだと笑った。


 石段の野営地へ着くと、荷物をまとめる間にもキュウは皆の間を歩き回った。あれほど寂しく響いていた足音が、今日はやかましい。ベラは鍋をしまう手を何度も止め、キュウへ話しかけては鼻先で押されていた。


「もう料理の心配をしなくていいんだね。帰ったら温かい肉を焼くから、まずはミラに顔を見せておいでよ」


 レオンは最後の荷を宝珠へ収め、皆を促して三層側の石段を上がった。十五日間、帰るたびに聞こえたのは自分たちの疲れた足音だけだった。今日はその列の真ん中で、キュウの爪が石を打っている。レオンは何度も振り返り、目が合うと、その度に大きく手を振った。


     ◇


 洞窟では、ミラが食堂の長卓に帳面を広げていた。水袋の数は合っている。今夜の分の干し肉も、厨房の棚に十分ある。それなのに帳面を閉じられず、同じ数字の上を指で何度もなぞってしまう。


 レオンが補給に戻ってくるたび、キュウの返事を聞けたかと尋ねてきた。昨日はとうとう、その先を聞くのが怖くなった。十五日目の今日は、帰還する時刻をとうに過ぎても石扉の向こうから足音が聞こえず、ミラは窓のない食堂で幾度も入口を見ていた。


 エルネが水瓶を抱えて厨房から戻り、帳面の横へそっと置いた。いつもなら商売の話を始める彼も、今日は顔を覗き込むだけで、椅子を引かなかった。


「ミラ、何か腹に入れた方がいいべ。おら、ベラの煮込みを温め直しておいたから、冷める前に食べてほしいだよ」


「ありがとうございます、エルネさん。レオンさんたちが帰ってきたら、一緒に食べられるようにしておきたいんです」


 言い終えたところで石扉が鳴った。廊下の奥から、幾人もの靴音が近づいてくる。ミラが椅子から立ち上がると、リュネも水皿を持ったまま厨房から顔を出した。


「みんな戻ってきたのかな。ミラ、待って、私も入口まで一緒に迎えに行くからね!」


 ミラは帳面を閉じることも忘れ、石扉の方へ歩き出した。扉が開くと、最初にレオンの顔が見えた。その後ろにエイルとロアン、ティルダ、フレイ、ベラが続く。いつもの顔ぶれが、皆おかしなほどに笑っていた。


 その一行の足元から、黄色い頭がひょっこり現れた。ミラには、その顔が誰なのか、考えるまでもなかった。


 ミラは立ち止まった。目の前にいるのは、自分が毎朝額を撫で、毎晩寝床へ送り出していたキュウだ。出かけたときより身体が大きい。翼の端に傷があり、鱗には砂がついている。だが、見慣れた短い角も、尻尾を振る癖も、間違いなくキュウだった。


「キュウ、戻ってきたんですね! ずっと待っていたんです、早くこっちへ来てください!」


「きゅう!」


 キュウが走り出した。幼竜の頃から、ミラを見つけると勢いよく飛びついてくる。今も同じつもりなのだろう。ミラが両腕を広げたところへ、すっかり大きくなった胸と前脚が飛び込んできた。


 身体が後ろへ傾いた。椅子を避けようと片足を引いたが、もう間に合わず、ミラはキュウを抱きしめたまま石床へ倒れ込んだ。衝撃で息が詰まったところへ、黄色い鼻先が頬を押してくる。


「ミラ、大丈夫かい! キュウ、嬉しいのは分かるけど、もうその身体で抱きついたら倒れちゃうんだからね!」


 ベラが駆け寄ろうとすると、ミラは首を横へ振った。キュウの身体は重い。腕の中には鱗の硬さがあり、首に触れた掌の下では温かい血が巡っている。もう二度と触れられないかもしれないと思っていた身体が、自分の胸へ全力で甘えている。


「いいんです、ベラさん。今はこのままでいいんです。こんなに重くなって、ちゃんと大きくなったんですね!」


 キュウは褒められたと思ったのか、尾で石床を何度も叩いた。ミラの目から涙がこぼれ、キュウの鼻先へ落ちる。拭おうとした手をキュウが追いかけ、また頬へ押しつけたので、ミラは泣きながら声を立てて笑ってしまった。


「十五日も心配したんですよ。ごはんも眠る場所も用意して、帰ってきたら何を話そうか、毎日考えていたんですからね!」


「きゅう!」


 その返事を聞くと、もう言葉が続かなかった。ミラはキュウの首へ顔を埋め、短い角の間へ指を通した。ずっと探していた温かさを、今度は両腕いっぱいに抱いている。


 少し離れた場所で、リュネが両手を口元へ当てて泣いていた。エルネは水瓶を長卓へ置き直し、何度も鼻を啜りながら、ミラたちのところへ行こうとしては足を止めている。ティルダはフレイの肩へ腕を回し、二人とも笑っていた。ロアンはリュートを下ろしてキュウの鳴き声に似た短い旋律を弾き、ベラは涙で濡れた頬を拭いもせず、厨房へ戻って肉を焼くための鍋を探し始めた。


 レオンはミラの傍らへしゃがんだ。キュウが相変わらず彼女を押し倒しているので、今度は遠慮なく黄色い背へ手を載せた。


「ミラ、待たせたな。あいつ、ちゃんと帰ってきたぞ。俺も今度こそ、一緒に連れて帰れたんだ」


 ミラが顔を上げると、レオンは泣きそうな顔をしたまま笑っていた。ミラは頷き、またキュウの首へ頬を押し当てた。


「おかえりなさい、キュウ。帰ってきてくれて、本当にありがとうございます!」


「きゅう!」

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