炉還りは夜を預けます
翌日の昼前、三層から四層へ続く広い石段に着いたとき、レオンは背中の汗で衣服が張りつくのを感じた。《空間収納宝珠》に荷を入れられるとはいえ、一層から三層まで歩いて登り下りすれば脚は疲れる。だが、昨日の朝から待ち続けた身には、四層の乾いた風が流れ込んでくるだけで胸が騒いだ。
ティルダは石段を下りかけたところで足を止め、早く行こうと言いたげに振り向いた。フレイがその肩をつかんで引き戻し、先に野営の場所を決めると告げる。昨日から二人の会話は必要なことだけになっていたが、フレイが手を離すとティルダは黙って石段へ戻った。
レオンは寝具と救急用品を三層側の上段に置き、板材と縄、青魔鉄の杭を四層側へ出した。石段の中央には人がすれ違える道を残し、フレイが荷袋の位置を一つずつずらしていく。ベラは料理の入った器を並べようとするレオンを止め、まだ温かいまま食べられるのだから宝珠から出すのは食事のときでいいと言った。
「みんなの飯を作りすぎたのは承知してるよ。でも、現場で腹を空かせるわけにはいかないからね。レオン、宝珠を持って戻るときだけは、こっちへ食い物をちゃんと預けておくれよ」
レオンが頷くと、ベラは救急用品の上へ載っていた厚い毛布を見つけた。昨日、ミラが人数より一枚多く荷に添えたものだ。ベラは端へ触れかけた手を引っ込め、野営用の毛布とは別に畳み直して、袋の取り出しやすい場所へ移した。
「これだけは、ほかの寝具と混ぜないでおこう。あの子を見つけたとき、すぐ使えるようにしておきたいからさ」
エイルは四層側で風に顔を向け、石段を吹き抜ける流れと、入口から時折吹き込む横風の違いを説明した。ここなら休めるという彼の判断を聞き終わる前に、レオンは板材の束へ手を伸ばしていた。
「野営地が決まったなら、俺は先に下へ行って前の縄を確かめたい。この前は暗くて残したままだったからな」
「俺も行くが、まず全員の安全索を揃える。現場で足りないと言われても、俺は取りに戻らんぞ」
エイルに言われ、レオンは取り出しかけた板をいったん置いた。胸の奥ではすぐにでもキュウの名を叫びたかったが、縄を一本ずつ並べるフレイの指を急かす言葉は、もう喉まで上がってこなかった。
◇
四層で最初に向かったのは、キュウとロアンを横風が襲った、あの高低差のある岩棚だった。
前回張った主索が岩に残っていることを確かめ、レオンとティルダが別々の安全索を取って対岸へ渡る。向こう側で青魔鉄の杭を岩の割れ目へ打ち込み、二本の主索の間に横木を渡した。板を一枚ずつ並べると、宙に細い床が伸びていく。フレイは《掌革》を巻く場所を示し、杭と主索の間へ束ねた《大腱》を挟ませた。
板橋の両端へ石袋を吊るし、先に人の重さを掛けてみる。橋板は沈み、主索がきしんだが、杭は抜けなかった。ティルダは対岸から拳を上げ、フレイも思わず顔を輝かせた。
「姉ちゃん、ちゃんと荷重が掛かってるよ。あと一束《大腱》を太くすれば、揺れたときの引っ張りも受けられると思う」
「じゃあ今夜編むよ。あとは手摺を付ければ、あそこまで歩いて行けるんだね。キュウが落ちた場所まで戻れるよ!」
レオンも笑いかけた。初めての橋が形になり、胸を押しつぶしていたものが少し持ち上がった。もう一度あの岩棚へ行ける。今日は昨日より下へ進めるかもしれない。
そこへ石柱の間から乾いた音が近づいた。エイルが短く警告し、レオンはティルダを岩壁へ寄せた。横風が橋を殴ると、丈夫な杭も二本の主索も耐えたが、板の床が大きく横へ流れ、手摺用に張りかけた縄が鞭のように振られた。
フレイは顔色を変えて対岸の姉を探した。ティルダは岩壁に背を押しつけていて無事だったが、その足元で風に煽られた石袋が岩を打ち、鈍い音を立て続けた。
「こんな揺れ方をするなら、まだ人は通せないよ。板の下にも横揺れを止める索を張って、手摺をもっと内側へ寄せよう」
「杭はびくともしなかったんだから、風が止んだ今のうちに先へ進めないか。向こうへ着くだけなら俺はもう渡れる」
レオンの言葉に、フレイが対岸から睨み返した。
「レオンが渡れるかどうかを試してるんじゃないんだよ! 私たち全員が、帰るときにも同じ橋を渡れるように作ってるの!」
レオンは反論しかけたが、ティルダがこちらへ向かって両手を振っているのを見て口を閉じた。彼女を引き戻すためにも、まず安全な橋が要る。さっきまで嬉しかったはずの板橋が、まだ完成していないまま目の前に揺れている。
その日の終わりに、追加の索を張り終えた橋を、レオンとエイルは一人ずつ渡った。橋板に両足を置き、手摺を握ったまま対岸の岩棚へ辿り着く。ティルダとフレイも後に続き、ベラは最後に重い食料袋を担いで渡ってきた。
着いた途端、レオンは岩棚の奥へ進んだ。キュウが消えた石柱の陰を見下ろし、喉が痛くなるまで名を呼んだ。皆もそれぞれ別の岩陰へ声を掛け、エイルは顔を上げて耳を澄ませた。
橋を架けたときには皆で喜んだのに、渡って戻るときには誰もその話をしなかった。レオンは誰より遅くその場を離れ、橋へ足を掛ける前にもう一度振り返った。
◇
その晩、岩棚で狩った岩蟹が石段の食卓へ並んだ。
ベラは四層で岩蟹を見つけたとき、いつものように短杖を抜いて仲間の側面を守った。ただ、レオンが仕留めた蟹を《空間収納宝珠》へ収めようとすると、ほとんど聞こえない声で「落とさないでおくれ」と言った。レオンが顔を上げる前に、彼女は次の荷を拾いに行ってしまった。
茹でた脚を卓代わりの平たい石へ並べると、ティルダもフレイも黙々と殻を割った。皆が岩蟹を好むことは変わらないし、腹も減っていた。レオンも一本食べ終え、もう一本へ手を伸ばそうとして、足元の広い隙間に気づいた。
あいつがいたら、きっと食事が終わるまでベラの膝から離れなかっただろう。口元を白い身で汚し、空の皿を何度も差し出していたに違いない。
レオンは次の脚を取ったが、さっきほど旨いとは思えなかった。ベラは自分の皿へ取り分けた身を口へ運ばず、ほかの者の殻が減るたび、黙って大皿から補充していた。
食後、ティルダとフレイは石段の端で《大腱》を編み直し、翌朝使う板に穴を開け始めた。ベラが二人のそばまで来て、工具と毛布を交互に見た。
「まだやるつもりかい。明日、指が動かなくなったら橋どころじゃないだろう。寝る時間ぐらい自分たちで決めておくれよ」
「この一本ができたら終わるからさ。今夜のうちに済ませておけば、明日一つ下の岩棚まで手が届くかもしれないじゃないか」
ティルダの返事を聞いたベラは、しばらく口を開かなかった。それから作業台の脇へ灯りをもう一つ置き、灯油が減りすぎる前には寝るようにと言い残して去った。
レオンは夜警の前半を引き受け、エイルが後半に起きた。風が石段の入口で鳴るたび、二人とも四層側へ顔を向ける。物音がしてもキュウではないと分かるころには、眠る時間がずいぶん削られていた。
◇
三日目には橋が二本になった。最初の橋を渡ったときほど歓声は上がらなかったが、ティルダは対岸で両腕を広げ、ようやくそこへ来たフレイの肩を力いっぱい叩いた。二人とも笑ったのは久しぶりだった。
四日目、最初の昇降台が動いた。上の岩棚から人が立てる木の台を吊り、左右の案内索を張って石柱に沿わせる。重い石袋を載せて上げ下ろしを試したあと、レオンが乗って下りると、足の裏から岩の硬さが伝わってきた。縄へ体重を預けて宙を下りるのとは、怖さがまるで違った。
新しい岩棚には、水が染み出している割れ目があった。岩肌を伝った細い流れが窪みに溜まり、指先を濡らすだけの量でも絶えず滴っている。
「この水、キュウも見つけていたら飲めるだろうか。腹が減っていたって、水さえあれば何日かは持ちこたえられるかもしれない」
レオンが言うと、エイルは匂いを確かめ、口には含まずに滴り落ちる筋を見上げた。
「飲むなら煮た方がいい。だが、この辺りまで水が来てるのは確かだ。キュウなら匂いに気づく可能性はある」
レオンは割れ目の近くへしゃがみ、キュウの爪が岩を擦った跡を探した。乾いた岩にも濡れた岩にも、見慣れた大きな爪痕はなかった。もう一度下へ向けて名前を呼ぶと、水滴の音がやけに大きく耳へ届いた。
石段へ戻ったころには、ベラが煮込みを温めていた。昼のうちに刻んだ野菜が鍋の横へ残り、彼女の自分用の椀は、まだ空だった。レオンが食べないのかと尋ねると、ベラは鍋の火を弱める手を止めず、皆が先に食べてからでいいと答えた。
あれほど料理を詰めてきたのに、ベラ自身は少しずつ食べなくなっていた。
◇
五日目の昼、洞窟から補給を持って帰ると、フレイが巻き上げ機の留め具を持ったまま姉を責めていた。前夜に測った寸法と、今朝削った穴が半指ほど違っているらしい。
「姉ちゃん、穴を広げたら嵌まるっていう話じゃないよ。留め具を細くしたのか、穴が大きくなったのか、先に測り直さないと同じ失敗をするでしょ」
「昨日からずっと測ってるよ! もう一度削れば終わる仕事なのに、その間に日が暮れたらどうするんだい!」
フレイが反論せず、姉の手から留め具を受け取ろうとした。ティルダはしばらく渡そうとしなかったが、やがて手のひらを開く。レオンは二人の間に割って入るのをやめ、工房から運んできた加工済みの《大腱》を石段へ置いた。
エイルは風を読むために入口へ出たものの、戻ってからもしばらく壁へ肩を預けていた。昨夜も夜警の後半に起きたうえ、夜明けから魔物を追い払っている。横風が吹く時刻を尋ねると、一度口を開いてから言い直し、指で目元を押さえた。
ベラは配り終えた昼食のそばで座り込み、椀を手にしたまま眠りかけていた。レオンが肩を揺すると、彼女は自分の椀を見て、食べかけだったことを思い出したように匙を握り直す。
「食うならちゃんと食ってくれ。今夜は俺が長く見張るから、ベラは先に休んでいいんだぞ」
「そういうあんたこそ、洞窟との往復でふらふらじゃないか。人の飯を心配する暇があるなら、自分の脚を休ませなよ」
レオンは言い返せなかった。野営地の外へ目をやると、石柱の影は朝よりもずっと長い。今日もキュウの声を聞けていない。あと何日待てばいいのか、誰にも答えられない。
そのとき、三層側の階段から聞き覚えのある弦の音が降りてきた。
低い音が石壁に跳ね返り、途中でわざと拍子が乱れる。以前、三層で大蜘蛛の脚をもつれさせたときと似た旋律だが、今日は音の途中に息の乱れが混じっていた。
「ロアン、そこにいるのか! 一人で来たなら、まず明るいところまで降りて姿を見せてくれ!」
足音が近づき、乱れた栗色の髪が石段の上へ現れた。ロアンはリュートを胸に抱え、壁へ片手をついて立っている。歌の最後の音を弾き切ると、レオンへ水を求め、受け取った袋を両手で持って何度も飲んだ。
「思ってたより大仕事だったよ。一層の大蜥蜴は遠回りして、二層の墓守には少し踊ってもらった。三層の蜘蛛には、僕の演奏が気に入らなかったらしい」
指先の皮が擦り切れかけていた。レオンは驚きと腹立たしさの入り混じった気持ちで、ロアンの腕や脚へ怪我がないか確かめた。階層主の部屋を通り抜ける危険を、よく一人で引き受けたものだと思う。
「四層へ戻るのが怖いって言ってただろう。ここまで来られたからって、崖まで無理に近づくことはないんだぞ」
「分かってるよ。今だって四層の入口を見たら足がすくむと思う。でも、君が洞窟へ補給に来るたび、顔色が悪くなってたんだ。ベラの飯だけじゃ足りないくらい、みんな寝てないんだろう?」
ロアンは石段の広さを見渡し、三層側の壁の前へ荷袋を下ろした。そこなら四層の奈落は見えず、上下の足音はよく響く。
「僕が夜の見張りをするよ。音を聞くのは得意だし、歌うだけならここにいればいい。夜にみんなが眠ってくれた方が、明日の工事も進むでしょ」
ティルダは嬉しそうに身を乗り出したが、ベラの方が先にロアンへ近づいた。赤くなった指先をつまみ、袖をまくって傷を確かめる。ロアンが大丈夫だと笑っても、彼女は手を放さなかった。
「一人で何層も抜けてきたあんたが、今夜から徹夜なんてできるわけないだろ。まず食べて少し眠りな。見張りを替わるのはそれからだよ」
レオンも反対する気にはなれなかった。ロアンが引き受けられるのは石段の見張りまでで、崖の先はまだ怖いのだろう。それでも来てくれたことが嬉しかったし、何より、今夜は誰かがまとまって眠れるかもしれない。
◇
石段に寝具を敷くころ、ロアンはリュートを膝へ置き、最初の弦を静かに鳴らした。
戦いのときには仲間の足を前へ押すように響く曲が、今夜は優しく耳に響く。眠れと言われても、レオンの頭の中には翌朝の橋板の数や、使い切りかけた金具や、返事のない石柱が次々に浮かんだ。曲の拍子を数えているうち、途中まで考えていた金具の数が分からなくなる。それを思い出そうとする前に、次の低い音が耳へ入ってきた。
「ロアン、その曲は、疲れが取れる魔法か何かなのか。身体の方は今日もずいぶん重いんだが」
「そんな便利な曲が作れたら僕が先に使うよ。腕も脚も、寝なきゃ治らないさ。ただ、頭の中で明日の仕事を続けてるなら、今夜くらい演奏の方を聞いてもらいたくてね」
ティルダはまだ手を動かしていたが、やがて《大腱》の束を枕元へ置いた。フレイが横から図面を引き取ると、珍しく抗議をしない。ベラも鍋の蓋を閉じ、二人の寝床の間へ水袋を一つ置いてから、自分の毛布へ入った。
レオンはロアンと夜警を交代するつもりだった。最初の半時ほどは起きていられたはずだが、次に目を開けたとき、三層側の石段を明るい光が照らしていた。
ロアンがリュートを脇へ置き、レオンの肩を揺すった。
「朝だよ。魔物は来なかったし、四層からもキュウの鳴き声は聞こえなかった。見張りは僕に預けてくれたんだから、きちんと役目は果たしたよ」
身体が軽くなったわけではない。けれど、目を開いたまま夢を見ているような鈍さは薄れていた。レオンは寝床から起き上がり、夜通し石段へ座っていたロアンの肩に手を置いた。
「ありがとう。今夜は俺たちが働くから、ロアンは昼まで寝ててくれ。起きたらまた、あの曲を聞かせてほしい」
ロアンは疲れきった顔で笑い、昨夜レオンが使っていた毛布をひったくるように肩へ掛けて横になった。
◇
六日目から、槌の音の聞こえる場所にリュートの旋律が加わった。
ロアンは午前中に眠り、午後になると石段へ座って弾く。彼の演奏に精霊の気配が混じる日もあったが、誰かの疲れを消し去ることはできない。ただ、普段なら集中を失って何度も手を止めていた午後の作業で、ティルダは槌を振るう間隔を取り戻し、フレイは削りかけの穴を途中で見失うことが減った。
それでもレオンが安全な岩棚へ足を下ろすたび、演奏はいったん途切れた。ロアンが弦から指を離し、仲間たちの声の向こうへ耳を向けているからだ。
「キュウ、聞こえるか! 昨日より下まで来られたぞ。どこかにいるなら、一度だけ返事してくれ!」
呼び声が岩の間を巡り、石段で待つロアンにも届く。彼はすぐには弾き始めず、風の向きが変わっても耳を澄ませ続けた。レオンが手を振って合図すると、ようやく次の曲が始まった。
七日目の朝、レオンは野営地へ一日分余分に食事を出し、洞窟へ補給に戻った。キュウを探して下へ進む時間を削るのはつらかったが、橋の板を抱えて歩くより宝珠を持って往復する方が速い。
洞窟ではエルネが板材と縄を箱へ分け、ミラが水袋の口へ名前の書かれた木札を結んでいた。二人ともレオンの顔を見るなり仕事を中断したが、最初に尋ねられたのは必要な資材の数ではなかった。
「レオンさん、今日までに一度でも、キュウの返事は聞こえましたか。今朝もずっと、帰ってくるのを待っていたんです」
「まだ聞けてない。水のある岩棚までは下りられたが、姿も痕跡も見つからない。呼び続けてるし、まだ先へ進むつもりだ」
ミラは口を開きかけたが、代わりに水袋を一本持ち上げた。レオンが差し出した宝珠へそれを収める間、彼女はキュウについてもう尋ねなかった。目の下の青さは、七日前より濃くなっている。
リュネは祭壇から持ってきた手摺材を、白魔鋼の留め具と並べていた。細い紐を結んだ方だけ、風の精霊へ頼んで加護を宿したのだという。
「強い風を止める力じゃないの。でも、風を真正面から受けないで、少しでも横へ逃がせるようにお願いしたんだ。橋が揺れる向きだけでも変わればいいんだけど」
「十分助かる。持ち帰って試してみるが、無理な風の日は作業を止める。エイルの《風読み》の代わりにするつもりはないから安心してくれ」
レオンが資材をすべて宝珠へ入れるころ、ミラは最後に水袋をもう一本差し出した。持ってきた量で足りると言いかけたが、彼女がその袋を離さないので、レオンは何も言わず受け取った。
◇
持ち帰った加護付きの手摺材を最初の橋に取り付けると、フレイは石を詰めた袋を吊り、エイルに風が来るまで待つよう頼んだ。横風が石柱の隙間を抜け、橋を揺らす。橋そのものは動くものの、以前のように手摺が外側へ激しく引き込まれることはなくなり、石袋も揺り返しを短くして中央へ戻った。
「強い風のときまで渡せるって話じゃないけど、これなら手摺から身体が外へ飛び出す怖さは減るよ。次の橋にも、この留め具を使いたいな」
フレイが言うと、ティルダは大きく頷き、加護のない部材を外すために袖をまくった。二人の呼吸は合っていたが、仕事のあとに以前のような冗談は戻っていない。もっと下まで行ける道具が出来たとき、レオンもようやく少しだけ安心して、それからキュウの返事をまだ一度も聞いていないことを思い出した。
八日目、ロアンが自分から最初の橋へ近づいた。腰には安全索を結び、手摺を両手で握っている。レオンは無理をさせたくなかったが、ロアンは橋板へ数歩踏み出したところで一度足を止め、顔を強張らせたまま身体の向きを変えた。
「ここまでなら弾けそうだ。僕の曲を待ってるのは石段のみんなじゃなくて、もっと下で働いてる君たちだろう?」
「怖くなったら戻ってこい。橋の中央へ出る必要はないし、ここなら俺からも姿が見える。頼りにしてるぞ」
ロアンは手摺から片手を離すまで随分かかった。弦を指で弾いた最初の一音は少し震えていたが、次の音からは知っているロアンの演奏になった。彼は崖の下を一度も見ず、作業をしている仲間たちへ顔を向け続けた。
◇
九日目、三層の森から大きな枝の折れる音が連続して聞こえた。
ロアンが演奏を止めると、エイルは弓をつかみ、すぐ三層側へ上がるよう全員へ声を掛けた。《樹冠大猿》が再出現したらしい。七本の巨木の間を動く巨体は、以前戦ったときと同じように枝を掴み、こちらの退路を塞ごうとしていた。
戦いの最中、レオンは一度だけ石段の方へ視線を向けた。昇降台に使う《大腱》も、手摺に巻く《掌革》も、あの大猿から取れる。今必要な素材だと分かっていても、今日は素材のために戦っているわけではない。ここで誰かが怪我をすれば、キュウを迎えに行く者が減る。
「ティルダ、深追いするな! あいつを森の奥まで追う必要はない。こちらへ来たところをみんなで仕留めよう!」
エイルが射た矢で大猿の肩が揺れ、フレイの太矢が渡ろうとした蔓を断った。ロアンの低い旋律に煽られた大猿が強引に枝を蹴り、届くはずの足場を踏み外した。巨体が一段下へ沈んだところへ、ティルダの槌がその腕を打ち、ベラの火が回り込む先を塞いだ。レオンは《身体強化》で踏み込み、青魔鉄の剣を脇腹へ突き入れた。
大猿はなおも抵抗したが、最後はエイルの矢を首へ受け、巨木の下へ倒れた。レオンは息を切らしながら仲間の無事を確かめ、誰も負傷していないと分かって初めて剣を下ろした。
ティルダは死骸の横で、肩を大きく上下させていた。以前なら階層主を倒したときにはもっと騒いだだろう。今日は《大腱》を切らずに取り出す方法をフレイへ尋ね、返事を聞いてから解体を始めた。
新しい素材は加工が必要なので、レオンは宝珠へ収めて次の補給で洞窟の乾燥棚へ回すことにした。代わりに既に加工済みの材料を持ち込めば、作業を止めずに済む。成果を喜ぶより先に、ティルダは石段へ戻って工具を取り出した。
◇
十日目になると、入口から新しい橋の全体が見えなくなった。
最初の橋を渡り、岩棚を歩き、昇降台で一段下り、さらに次の橋へ移る。最初は途切れていた岩が、いまは手摺付きの道と木の台で連なっている。以前なら届かなかった場所で作業できるたび、レオンはこの道を造ろうと言ったミラの顔を思い出した。
だが、新しい岩棚へ降りたとき、ティルダはもう歓声を上げなくなっていた。工具袋を下ろしてキュウの名を呼び、返事がないと、次の杭を置ける割れ目を探し始める。フレイも姉が見つけた岩の割れ目へ尺を当てる。二人は口論しなくなったものの、その日は夕食まで一度も互いの顔を見て笑わなかった。
岩蟹は下へ進むほど頻繁に姿を現した。ある日、二匹が岩棚の壁際にいたが、一匹は横穴へ逃げ込んだ。ベラは追いかけようとしたティルダの腕へ手を掛け、捕まえた一匹で今夜の飯には十分だと言った。
その夜、岩蟹の皿から脚が消える速さは相変わらずだった。けれど、ティルダは身を取り出しかけたまま眠り込み、フレイが姉の指から殻を抜き取って皿へ戻した。ベラは二人の横へ寝具を引き寄せ、何も言わずに掛け直す。レオンは殻の山を見つめながら、キュウがいたころの食卓では誰も最後まで黙ってなどいられなかったことを思い出した。
十一日目、少し下の岩棚で見つけた水溜まりの周囲を、エイルとレオンは手分けして歩いた。濡れた石の上には見分けられる足跡がなく、狭い横穴もキュウの大きな身体が通れるほどではない。エイルは穴へ灯りを差し入れ、奥が行き止まりだと分かると、次の亀裂を調べに移った。
十二日目には、呼びかける声の方が先にかすれた。ティルダは槌で岩壁を叩き、返事を待つあいだだけ道具を膝へ置いた。ロアンも遠い橋の上で曲を止め、耳を澄ませている。空洞に残るのは風と水滴の音で、しばらくするとまた木槌の音が戻った。
十三日目、フレイが昇降台の留め具を外そうとして、指を滑らせて取り落とした。拾いに行こうとしたティルダも膝をつき、足の力が抜けたようにその場へ座り込む。レオンは次の岩棚まで今日中に着きたいと考えていたが、二人の青白い顔を見て、使いかけの工具をまとめるよう告げた。
「今日はもう石段へ戻ろう。二人とも十分働いた。明日も橋を架けるなら、今夜は手を休めてくれないと困る」
「まだ歩けるよ。あと一本杭を打てば、次の板まで届くんだから、そんなところで止めなくてもいいじゃないか」
ティルダは立ち上がろうとしたが、フレイが肩を貸すまで足が伸びなかった。エイルは何も言わず、残った金具を拾って荷袋へ入れた。レオンは二人の前を歩きながら、昨日まで自分が誰より先を急かしていたことを思い出していた。
その晩、ベラは熱い汁を全員へ配ったあと、自分の椀を持って最後に座った。食べ終えた者から眠り始め、まだ食事をしているのはレオンとベラだけになった。彼女はひと口飲んでから、いつものように翌日の食料を数えようとして、椀を持つ手を止めた。
「もう十三日だねえ。あの子、ずいぶん待たされてるよ。見つかったら、あたしを見ていつもの皿を持ってくるだろうか」
レオンは返事を探した。キュウなら腹を減らして真っ先にベラへ駆け寄る、と言いたかった。けれど、いま自分が知っているのは十三日間の沈黙だけだ。
「……俺は、あいつに怒られたいよ。置いて帰った俺を、思いきり噛んでくれりゃいい。もう一度、あいつと一緒に帰れるならな」
ベラはそれ以上尋ねず、椀の残りを飲み干した。レオンも少し冷めた汁を最後まで食べ、石段の寝床へ戻った。
◇
十四日目の夕方、新しい昇降台がそれまでより低い岩棚へ届いた。
レオンが先に下り、左右の案内索を岩へ固定してからティルダたちを迎えた。見上げると、いくつもの橋と木の台が石柱の陰へ重なっている。どれも自分たちが十数日かけて運び、削り、打ち直したものだった。
岩棚の先には、さらに下へ広い足場が見えていた。大きな石柱が何本も並び、遠い端は暗がりに隠れている。そこならキュウの大きな身体を休ませる場所があるかもしれない。レオンがそう考えた途端、また見つからなかったときのことも頭へ浮かび、しばらく声が出なくなった。
「次は、あの広い岩棚まで昇降台を下ろせると思う。ここに大きな亀裂があるから、主索を張る杭も打てそうだよ」
フレイが示した割れ目へティルダが指を入れ、岩の厚みを確かめた。レオンは縁から離れた位置に立ち、広い暗がりへ向けてキュウの名を呼んだ。
ティルダも続き、ベラも息を吸い込んで声を重ねる。離れた橋にいたロアンは演奏を止め、岩の奥へ耳を澄ませた。誰も次の仕事を始めずに待ったが、返ってきたのは石柱の間を通る風と、どこかで水が滴る音だけだった。
以前なら、レオンはもう一度、もう一度と声を張っただろう。今日は、ベラが膝へ手をつき、ティルダが槌を持ち上げられずにいる姿が見えた。皆を野営地まで帰せるだけの力を残さなければならない。だが、明日もここまで来たいし、さらに下の岩棚へ降りたい。
フレイが主索をほどき、杭を打つ位置へ印を付けた。ティルダは何も言わず、工具袋から青魔鉄の杭を一本出す。レオンもその隣へ歩み寄り、差し出された槌を受け取った。




