炉守りは道を作ります
その夜、ミラは毛布を肩まで引き上げても眠れなかった。帰り火の暖気はいつもと変わらず、主洞の奥では誰かが寝返りを打つ気配もするのに、キュウの部屋から聞こえてくるはずの、若竜が寝床を踏み直す音がなかった。
キュウは身体が大きくなってから、毛布の上で丸くなるのが難しくなった。眠る前に何度も前脚で布を引き寄せ、尻尾の置き場所が気に入らないと鼻を鳴らす。先日など、寝床からはみ出した翼をミラが畳んでやろうとして、かえって目を覚まさせてしまった。機嫌を直してもらうのに、首の下を随分長く撫でる羽目になった。
今夜は寝床を直してやることさえできず、ミラは隣の部屋へ向かうたびに聞こえていた爪音を、何度も頭の中で思い返した。
四層のどこかでキュウが怪我をしていたら、傷を舐めることしかできないだろう。喉が渇いていたら、水を見つけられるだろうか。洞窟で暮らし始めた頃から、食べるものは誰かが用意していた。若竜になって狩りも上達したけれど、一人きりで夜を過ごしたことはない。
何より、寂しがっているのではないかという考えが、ミラを眠らせなかった。
見送ったとき、キュウは新しい翼を得意そうに開いていた。ミラも、練習を重ねたのだからきっと大丈夫だと喜んで送り出した。あのとき止めていればよかったのかもしれない。もっと飛ぶ練習につき合っていれば、風に煽られたときの怖さを教えられたかもしれない。
思いつくのは今からどうにもならないことばかりだった。最後にもう一度頭を撫でればよかったという考えまで浮かんで、ミラは顔を毛布へ押しつけた。キュウは褒められると、嬉しそうに胸を張る子だった。朝のあの姿を思い出すたびに、ミラは布の下で唇を噛んだ。
喉が渇き、水を飲みに起きたときには、炉の火が静かに揺れていた。ミラはその前で足を止め、何か尋ねようとして口を開いた。キュウがどこにいるか、帰り火なら分かるのではないか。だが、帰り火は洞窟の外を見通せるわけではないし、炉縁者の居場所をいつでも教えてくれるとも聞いていない。
それでも火の前から離れ難く、ミラはしばらく両手をかざしていた。自分の手だけが暖かくなるのが嫌で、ようやく水を飲んで寝床へ戻る途中、もう一度キュウの部屋の前に立った。入口の向こうには入れず、夜が明ける頃になって浅い眠りに落ちた。
◇
食堂には朝から全員が集まっていたが、いつものような賑やかさはなかった。ベラが並べた粥と焼いたパンは湯気を立てているのに、手をつけない椀がいくつもある。フレイは折り畳んだ図面を膝へ載せ、ティルダは匙を握っては置くことを繰り返していた。
ロアンは両手で椀を包み、髪の間から覗く顔色も悪い。エイルは妹のリュネと小声で話していたが、ミラが席につくと口を閉じた。エルネも帳面を開かず、焼いたパンを半分に折ったまま食べていない。
ベラは空いた場所に何度も目を向け、そのたびに粥をよそう手を止めていた。昨夜、彼女は岩蟹を見つけたときに今晩のご馳走を考えてしまったと告白している。ミラはあの話を聞いてから、ベラに何と声を掛ければいいのか分からなかった。いつもなら料理の匂いだけで真っ先に来るキュウがいないのに、粥は皆の分だけきちんと並んでいる。
レオンはほとんど朝食を終え、フレイの図面を食卓の端へ広げていた。四層の岩棚と石柱が炭筆で描かれ、キュウの姿が消えた場所には濃い印がついている。ミラがその印に目を留めていると、レオンが顔を上げた。
「今日、もう一度四層へ行く。昨日は暗くなって戻ったが、今朝から探せば下へ進む時間もある」
ベラが鍋へ戻しかけた匙を止め、握り締めた柄から指を離して持ち直した。
「レオン、あたしだって今すぐ探しに行きたいよ。でも、また誰かを縄で下ろすつもりなら賛成できない。ロアンが落ちかけたばかりじゃないか」
「昨日の縄はそのまま残してある。予備を増やして固定を二重にする。最初は俺が下りるから、上で索を取ってくれ」
「縄を増やせば済む話じゃない。あそこは石柱の裏で風が向きを変えるし、砂が舞うまで横風を拾えなかった。次は必ず読めるとは言えん」
エイルの声は落ち着いていたが、パンを置いた手は卓の縁を握り締めていた。レオンは彼を見て、図面へ指を戻す。
「風が弱いときだけ下りる。あの横風がずっと吹いているわけじゃないし、何もしないで待つよりは――」
「弱いと思っていたときに、キュウとロアンが吹き飛ばされたんだ。俺は同じ場所へ、同じ判断で仲間を送りたくない」
レオンは口を閉じた。図面の端が指の下で折れ、ミラは皺になった紙を直したかったが、手を出せなかった。
「キュウを置いて戻ると言ったのは俺だ。暗くなれば全員を帰せなくなると思った。でも、今は朝だ。あいつが下で待っているかもしれないのに、また何もできないのか」
ティルダが椅子を引いて立ち上がると、石床を擦った脚の音が食堂に響いた。
「だったら私が下りるよ。身体強化なら使えるし、レオン一人を行かせるくらいなら、私も縄を取って一緒に下りる」
「姉ちゃん、それだけは嫌だ。昨日も同じことを言ってたけど、私は姉ちゃんまで見えなくなるのを上から待てないよ」
フレイが姉の手首をつかんだ。ティルダは一度振り払おうとし、すぐに動きを止めたが、二人とも相手を見なかった。
「私が行っても危ない人数が増えるだけだよ。でも、姉ちゃんだけならいいなんて、そんなの分かってるふりもできない」
ティルダは椅子へ戻ったものの、握った匙を卓へ落とし、乾いた音に自分で驚いたような顔をした。
レオンがロアンへ視線を向けると、ロアンは椀を包んだ手を離さずに答えた。
「キュウを探しに行きたいよ。僕もあの子の声を聞きたい。でも、今また崖の縁へ立ったら、昨日みたいに足が動かなくなると思う」
ロアンは弦を押さえるときのように指を伸ばしかけ、椀の縁を握り直した。
「向こうへ着いてから動けなくなったら、みんなの足を引っ張る。それを分かっていて平気なふりはできないんだ」
ベラはロアンの椀を手前へ引き寄せ、表面が固まり始めた粥を匙で崩した。
「あんたは昨日、死ぬところだったんだよ。今すぐ行けないからって、誰も責めやしない。せめてこの粥ぐらい食べておくれ」
ロアンは頷いたが、匙は持たなかった。ベラが何か言いかけたとき、エイルがレオンへ顔を向けた。
「俺も捜索には行く。けれど、今日すぐ崖を下りる案には反対だ。あの風を読み切れなかったことは忘れていないし、今度は大丈夫だと約束できない」
「じゃあどうするんだ! 昨日と同じところで名前を呼んで、返事がないまま暗くなるのを待って、また帰ってくるのか!」
レオンの声が食堂の天井へ響いた。フレイの膝から図面の端が滑り落ち、エルネが拾おうとして手を止める。レオンは息を荒くしたまま、エイルを睨んでいた。
エイルは立ち上がらなかった。レオンから目を逸らさず、握り締めた拳を膝へ押しつけている。あれほど強く拳を握っているのに、声を荒らげるレオンへ返したのは、危険だから止めるという言葉だけだった。
ミラは二人の顔を見比べ、膝の上で手を握り合わせた。誰も帰ってきたくなかったのだ。ベラも、ティルダもフレイも、ここにいる皆がキュウを探したかった。それなのに、誰か一人が命を賭ける方法しか話に出てこない。
ミラは食卓の図面を見下ろした。大きな石柱の脇に平らな岩が幾つも描かれている。それぞれの岩棚は横にも下にも離れていて、昨日レオンが説明してくれたとおり、岩の間には安全に移動できない空間があった。
「ちょっと待ってください。私、四層の崖を見ていないから、思いつきかもしれません。でも、ここには人が立てる岩棚があるんですよね。洞窟で床や階段を増やしたときみたいに、岩棚から岩棚へ歩ける道を造れませんか」
フレイが図面へ顔を近づけ、隣り合う二つの岩棚を指でなぞった。ティルダも、まだ握っていた匙を置いて身を乗り出す。
「この二つなら短い橋を掛けられるよ。向こうへ縄を渡せれば、板を並べて手すりも付けられる。ぶら下がって渡るより、ずっと足場が広い」
「こっちは高さが違うね。上の岩棚から、人が立てる台を吊って下ろすのはどう? 石柱に沿わせれば、宙で大きく回らないよう工夫もできるよ」
フレイは橋の形を図面へ描き、ティルダはその先から下へ線を引いた。線がキュウの消えた印に近づくと、フレイの手が止まった。
「ここから先は、まだ岩棚がどう続いてるのか分からない。現地で確かめないと図面には描けないけど、そこへ着くまでの道なら造れそうだよ、姉ちゃん」
レオンが二人の手元を見つめていた。ミラには、彼が何を考えているのか分からなかったが、机の端を握り締めていた手がゆっくり離れるのは見えた。
「本当に造れるのかい? あたしはあの場所をちゃんと見てないけど、キュウが落ちたほど深い崖なんだろう」
ベラが二人へ問いかけると、フレイは図面の上に載せた指を上げた。
「全部を今日造るなんて無理だよ。橋を掛ける場所を選んで、岩へ杭を打って、人が乗る前に荷物で試す。時間はかかるけど、次の岩棚へ渡れる道は残せる」
「風が強ければ橋だって使わせない。ただ、毎回崖にしがみついて渡るよりは、俺も仲間を守れる。風が落ち着くまで待つ場所も増える」
エイルが図面へ手を伸ばした。レオンはその手と、これまでに描かれた橋の線を交互に見ていた。
「俺は昨日も今朝も、自分が下りれば済むと思ってた。今すぐ崖へ行きたい気持ちは変わらない。だが、俺が落ちたらキュウを探す奴まで減るんだな」
レオンが顔を上げ、ティルダとフレイへ向き直る。
「二人の力を貸してくれ。材料を集めて現地まで運ぶのは俺がやる。俺一人じゃキュウまで届かないから、一緒に歩いて下りられる道を造ってほしい」
深く頭を下げたレオンを見て、ティルダは拳を握り直した。フレイは途中まで描いた橋の線を、炭筆でもう一度なぞった。
「頼まれなくたって造るよ! ただ、じっとしてるのは嫌だから、必要な物は早く工房へ持ってきておくれよ」
「姉ちゃん、先に寸法を決めてからだよ。現地へ持っていって使えなかったら、その時間が一番もったいないんだから」
ティルダは妹へ何か言いかけたが、図面をつかんで自分の膝へ引き寄せた。フレイも引っ張り返し、二人はしばらく無言で紙を押さえていた。
「おらは洞窟に残って荷を揃えるべ。何日もかかるんなら、板も金具も食い物も、切らさないようにする。必要な数は遠慮なく言ってくれよ」
エルネが帳面を開いた。リュネも身を乗り出し、薬の材料は今あるものから使うと申し出る。
レオンはもう一度、図面に描かれた途切れた岩棚を見た。
「キュウを迎えに行こう。最初の橋を造ったら、そこから下を探す。次の岩棚が見えたら、またそこへ行ける道を考える」
ミラは嬉しかった。少なくとも、レオンが一人で崖を下りるという話ではなくなった。けれど、その喜びに続いて、橋を一本造るのにどれほど時間がかかるのだろうという不安が押し寄せた。
ミラ自身にも、何かしていられればよかった。橋を造ることはできなくても、洞窟で待っている間に手を動かしたかった。
「私も、水袋と寝具を用意します。食事の器も必要ですし、救急用品ならリュネさんと一緒に揃えられます。必要なものを私にも教えてください」
「三層と四層の間に広い石段があったよね。あそこなら風が直接入りにくい。工事が何日もかかるなら、毎晩洞窟まで戻らずに泊まれると思う」
エイルも頷き、図面の隅に描かれた石段を指で押さえてから口を開いた。
「俺が入口の風と見張りを受け持つ。寝る場所を分ければ、石段に野営地を作れる。洞窟との補給はレオンが往復するのが早いだろう」
「俺が《空間収納宝珠》で運ぶ。戻るときは一人で来るから、他の連中は工事と捜索を続けてくれ」
ロアンが黙って図面を見ていたが、レオンは彼に現地へ行くよう求めなかった。
レオンが椅子を引くと、ベラが鍋を卓へ下ろした。底が石の天板へ当たり、思いのほか大きな音が響く。
「話が決まったんなら、まず食べな! あんたたち、朝から匙も動かしてないじゃないか。腹を空かせたまま鉄を叩いて、崖を歩くつもりなのかい!」
ティルダは椅子へ戻るなり冷めた粥を大きくすくって口へ押し込んだ。フレイも図面を卓の端へ押しやり、姉に負けじと匙を動かし始める。二人とも喉を通すのがつらそうだったが、水で流し込んではまた粥をかき込んだ。
ミラも椀を両手で持ち上げ、一気に飲もうとして咳き込んだ。味もほとんど分からなかったが、周りの匙がせわしなく動くのを聞きながら息を整え、最後まで飲み干した。ティルダはもう椀を空にし、フレイも図面を抱え直している。
ロアンだけは皆が立っても座ったままだった。ミラが食器を片づけようとすると、彼がレオンへ声を掛ける。
「僕は、まだ四層へ行けないと思う。キュウが心配なのにあの崖を思い出すと足がすくむ。そんな自分が嫌だけど、今行けるとは言えないんだ」
「分かってる。今は洞窟に残ってくれ。無理に連れていって、また危険な目に遭わせたくない」
「ありがとう。でも、何もしないで待ってるのも嫌なんだ。洞窟で運べる荷があるなら、僕にも手伝わせてよ」
「あんたの腕はリュートだけのためにあるんじゃないだろ。まず食べて、それから重いもんを運びな。途中で倒れられちゃ困るよ」
ベラの言い方はいつもの調子に似ていたが、誰も笑わなかった。ロアンは椀へ目を落として、残った粥をゆっくりではなく、頑張って飲み込んだ。
◇
朝食が終わると、洞窟に槌の音が戻った。ミラが工房へ道具用の木箱を抱えて入ったとき、ティルダはすでに青魔鉄を炉へ入れており、フレイは白魔鋼の細い留め具の図を作業台へ広げていた。二人のそばには《樹冠大猿》から取った《大腱》《掌革》《背毛皮》も並んでいる。
フレイは太い《大腱》の端を引き、《掌革》を巻いた木の取っ手へ重しを掛けてみせた。橋の固定具へ急な力が掛かったとき、《大腱》の伸びで衝撃を受け、手や足が滑る場所には厚い革を使うつもりらしい。
「姉ちゃん、岩へ打つ杭はこの先端に揃えて。斜めに入ったら、上から引っ張ったとき抜けるかもしれないから」
「分かってるよ。そんなに細かく言わなくても、これまで何本も杭を作ってきたじゃないか」
ティルダは金床から杭を持ち上げ、すぐ次の鉄を火床へ戻そうとした。フレイがその杭の先を見て、姉の火箸を止める。
「この一本、先が曲がってる。岩へ入れるなら打ち直して。人を乗せる橋に使うんだから、ここだけは見過ごせないよ」
「それは分かってるって言ってるだろ! でも、キュウは今もあそこで待ってるんだよ。こんなところで一日中、同じ杭を叩いてる場合なのかい!」
ティルダが杭を作業台へ叩きつけた。ミラの抱えていた木箱がびくりと揺れ、フレイは曲がった杭を見たまま口を引き結んだ。
「私だって早く連れ戻したいよ。だけど、この杭で姉ちゃんが落ちたら、キュウは誰が迎えに行くのさ!」
ティルダは金床へ振り下ろしかけた槌を止め、握り締めたまま腕を下ろした。フレイは手を伸ばさず、姉が杭を拾うのを待っていた。やがてティルダは火箸で曲がった先端をつかみ直し、火床へ差し込む。さっきより深く赤くなるまで待ち、二人で図面の寸法へ合わせて打ち直した。
ミラは木箱を作業台へ置いたが、何と言えばいいのか分からなかった。ティルダもフレイもキュウに会いたいのだ。さっきの怒鳴り声がまだ耳に残っていたのに、二人の手は途切れることなく、同じ杭を挟んで動き始めていた。
工房を出たところでは、レオンが縄を一束ずつ《空間収納宝珠》へ入れていた。足元には既にまとめられた板材があり、エイルはその端を持ち上げて割れ目を見ている。
「その板は長さが足りない。こっちを使えば一本で渡せるから、継ぎ目を作らずに済むはずだ」
「なら、それを先に詰める。ほかに運べる物はないか。今日中に橋一つぶんくらい用意できれば、明日の朝には渡れるかもしれない」
「まだ岩へ固定する金具も完成していない。運ぶより先に、現地で何を打てるか俺が確かめる。昨日の風も忘れるなよ」
レオンは板の束をつかんだまま、しばらくエイルを見ていた。やがて板を下ろし、エイルが指した割れ目へ顔を近づける。ミラが通り過ぎるとき、二人はもう風の話をしていなかったが、レオンの肩は強く張ったままだった。
ロアンが反対側から縄を運んできて、レオンの脇へ束を下ろした。いつもなら軽口の一つも添えるところだろうが、今日は水を飲んでから、すぐ次の荷を取りに引き返した。
◇
厨房へ入ると、石窯から次々とパンが運び出されていた。調理台には肉と豆の煮込みを入れた鍋が三つ、焼いた肉を積んだ皿が二つ並び、包み終えたパンの籠は入り口近くの棚まで占領している。
ベラは大きな鉢へ小麦粉を足し、指についた生地をこすり落とした。ミラが運んできた水袋を壁際へ置くと、彼女は新しい粉の袋を開いた。
「ベラさん、こんなにたくさん作ってくださったんですね。皆さんが何日か泊まっても、食べきれないくらいありそうです」
「何日かかるか分からないだろ。余るくらい持たせて、向こうでは飯の心配をしなくて済むようにするんだよ。レオンの宝珠なら冷めもしないからね」
ベラは粉を鉢へ移してまた捏ね始めた。ミラは鍋を一つ持ち上げて作業台を空けようとしたが、次に置く場所がなく、元の位置へ戻すしかなかった。
「でも、ベラさん。この調子で食材を使い切ってしまったら、洞窟に残るみんなの食事が足りなくなりませんか?」
木鉢が石の作業台へ打ちつけられ、鈍い音が響いた。
「そんなこと、あんたに言われなくたって分かってるよ! あたしが何年飯を作ってきたと思ってるんだい。持たせられるだけ持たせてやりたいんだよ!」
ミラは水袋の口を握ったまま動けなかった。ベラが大声を出すことは珍しくないが、自分へ向けられた怒りはいつもと違い、胸の奥が熱くなった。
「すみません、でも……洞窟にいるロアンさんやエルネさんも、何日もご飯を食べますから……」
「あたしはそんなことまで忘れるほど馬鹿になったのかい! キュウが下で腹を空かせてるかもしれないのに、あたしに何も作るなって言いたいのかい!」
ベラが言い終えた途端、鉢の中の生地が指に絡んだまま、彼女の手が止まった。ミラは何も作るななどと言っていない。そんなことはベラ自身が一番よく分かっているだろうに、彼女は謝らず、生地を力いっぱい捏ね直した。
ミラは頬が熱くなって、言い返したくなった。自分だってキュウが心配で眠れなかったし、お腹が空いているなら何でも食べさせてやりたかった。ベラの気持ちを知らないわけではない。それでも、今の言い方はあんまりだと思った。
膨らみかけた言葉を飲み込み、ミラは調理台の端へ水袋を並べ直した。ベラはその様子を見ていたが、口を開かなかった。
ふと、棚の下に小さな木皿が一枚残っているのが見えた。キュウがいつも使っていた皿だった。前の晩にあれほど岩蟹を欲しがったあの子が、今朝は食堂へ来なかった。
ベラも皿に気づいたらしく、伸ばしかけた手を途中で引っ込めた。
「あの子、腹を空かせてるだろうねえ。見つけたときに、すぐ食わせてやれるようにしたいんだよ……」
声は低くなったが、ベラは顔を上げず、次の包みへ焼いた肉を詰めていった。ミラはさっき怒鳴られたことを忘れられず、胸に残る熱さを持て余していた。
それでも、煮込みの鍋を一つ包むあいだなら手伝えた。ミラが布を広げると、ベラは黙って鍋の持ち手を持ち上げ、布の中央へ載せた。
ミラは結び目をきつく締めてから、包みを持って厨房を出た。
◇
物置の前には、エルネが荷札を置いていた。長い縄、板材、食器、救急用品を別々の箱へ分け、持ち出す数を帳面の数字と合わせている。ミラが厨房から運んできた包みを下ろすと、エルネは鍋の数を数え、目を丸くした。
「ベラのやつ、随分と張り切ってるべ。レオンの宝珠に入れるならいいが、洞窟の分まで使っちまってねえか、あとでおらが帳面を見るよ」
ミラは思わず顔を上げたが、厨房であったことを説明する気になれなかった。代わりに、野営地へ持っていく椀と水袋の数を尋ねると、エルネは帳面を寄せてくれた。
「明日からは、レオンだけが洞窟と野営地を行き来するんだべ。ほかの連中は石段に泊まる。ロアンはここに残るから、そっちの食器は洞窟に置いとこうな」
ミラは荷札へ名前を書き、現地で使う椀を箱へ戻した。エルネが大きな水袋を運ぼうとして腰を伸ばすと、ロアンが横から受け取る。
「それ、僕が持っていくよ。四層へはまだ行けないけど、ここの荷物ぐらいなら運ばせてもらえるだろう?」
「助かるべ。あんまり無理すんなよ。レオンが戻ってくるたび、こっちもまた忙しくなるんだからな」
ロアンは笑いかけたが、結局何も言わず、水袋を抱えて主洞を横切っていった。昨日の崖から帰ったとき、あの人は足を震わせていた。ミラはその背中を追いかけたい気持ちになったが、ロアンへかける言葉も思いつかなかった。
荷札を書き終えると、エルネが翌日必要な道具の数を読み上げた。ミラは木札へ書き写して箱の口に結んだ。外ではレオンが運んだ板をエイルと並べ直しているらしく、木と木の当たる音が何度も続いていた。
◇
昼が近づいたころ、ミラは祭壇の前にリュネが座っているのを見つけた。水皿の縁へ両手を添え、目を閉じている。工房の槌が響くたび、皿の水にも細かな波が走った。
ミラが足を止めると、リュネは目を開けずに話した。
「精霊にキュウを探してもらえるかは分からないし、こんなお願いを聞いてくれるのかも知らないの。でも、もし声が届くなら、あの子を守ってほしいの」
リュネは指を離さず、もう一度水皿へ顔を近づけた。
「怪我をしていたら痛みを和らげてあげて。水を見つけられたら、ちゃんと飲めるようにしてあげて。私たちが迎えに行くまで、どうか一人で頑張れるように」
水面に波が広がったが、工房の槌が鳴ったためなのか、精霊が応えたのかは分からない。ミラには何の声も聞こえず、リュネも返事を確かめようとはしなかった。
「リュネさん、私も一緒にお願いしていいでしょうか。キュウがあまり寂しくならないように、そういうお願いでもいいですか」
「もちろんだよ。ミラがそう思っていることも、きっと伝わるといいね」
ミラは祭壇の前へ膝をつき、キュウの名前を呼んだ。怖いことがあったら無理をしなくていいから待っていてほしい、と声に出した。キュウがその言葉を理解できるかどうかも分からない。ただ、もし聞こえるなら、一人ではないと知ってほしかった。
リュネが一緒に目を閉じているあいだ、ミラは厨房でベラに言い返せなかった言葉を思い出した。ベラも、自分も、キュウのために何かしたかったのだ。そう分かっていても、あの怒鳴り声に傷ついたことまで消えるわけではなかった。
立ち上がると膝が痛み、思ったより長くそこへ座っていたことに気づいた。ミラは水袋を持ち直して、物置へ向かった。
現地へ持っていく毛布を人数分揃え、野営用の袋へ順に入れる。毛布は厚いから、木箱の底へ入れるより一番上に置いた方が取り出しやすい。最後の一枚を畳んだところで、ミラの手が止まった。
ミラは最後の毛布へ手を置いたまま、キュウの分を数えていなかったことに気づき、棚の奥から大きめの毛布をもう一枚引き出した。見つけたキュウが怪我をしていたら、岩棚で寝かせなければならないかもしれない。大きくなった身体を一枚で包むのは難しくても、冷えた石の上へそのまま寝かせたくはなかった。
キュウが帰ってきたら、まず首の下を撫でてやろう。身体が冷えていたらこの毛布で包んで、ベラが作った温かいものを食べさせたい。そう考えながら布の端を重ねたが、折り目がうまく揃わず、ミラは何度も畳み直した。
工房からは槌の音が続いている。昼になっても止まず、廊下ではロアンが縄を引きずらないよう抱え直す足音がした。厨房から聞こえた鍋の蓋の音は、しばらくしてまた重なった。
ミラは余分な毛布を救急用品の袋へ添え、レオンが持ち出す荷の一番上へ載せた。




