炉還りは返事を待ちます
翌朝、レオンが石戸の前で革帯を締め直していると、キュウが大きな鼻先を腰の辺りへ押しつけてきた。昨日、白い布を目がけて着地の練習を繰り返したせいか、今朝は翼を畳む動作まで得意そうだ。尻尾が石床を叩くたび、フレイの足元に並べた太矢がかたかた鳴った。
「キュウ、今日は崖の上を歩くんだぞ。飛ぶ練習の続きじゃないからな、エイルの言うことを聞いてくれよ」
レオンが首の鱗を撫でると、キュウは鼻を鳴らして胸を反らした。そばで見送りの支度をしていたミラも、若竜の顔へ両手を伸ばして嬉しそうに笑った。
「昨日の着地、ベラさんから聞きましたよ。とっても上手になったそうですね。今日も皆さんと一緒に帰ってきてくださいね」
「きゅう!」
キュウはミラへ頭を寄せ、撫で終わると自分から石戸へ向かった。翼を広げたままだと通れないので、入口の手前でいったん身体を捻って畳む。ミラが笑いながらその背を見送り、レオンも皆を促して扉を開いた。
第一層から第三層までは、これまでの探索で足場も魔物の出やすい場所も覚えていた。崩れた道では互いに手を貸し、木の根が張り出す第三層ではキュウが大きな背を屈めて通った。昼前に中央の巨木を越え、四層への石段を下り始める頃には、フレイは背負っていた重弩を一度降ろして弦の具合を確かめていた。
◇
第四層には白い光が満ちていた。巨大な石柱が空洞を上下に貫き、その周囲へ幾段もの岩棚が突き出している。先日、入口から眺めたときには向こう岸までの道筋など見えなかったが、今日はレオンの腰へ巻いた縄とフレイの重弩が、途切れた岩棚を渡るためにある。
入口の縁へ近づこうとしたキュウを、エイルが手のひらで制した。
「そっちの端には出るな。今は風が下から来てるが、石柱を回ると向きが変わる。お前も皆と同じ道を使え」
キュウは開きかけた翼を畳んだ。言われたとおりレオンの後ろへ戻ってきたので、ティルダが首の付け根を軽く叩いて褒めてやる。
最初の切れ目は、右手の壁沿いにある七、八歩ほどの空隙だった。向こうの岩壁には細い亀裂が走っており、フレイは先端に爪を仕込んだ太矢を重弩へつがえた。射出用の細紐が地面の石に絡まないようティルダが束を持ち、狙いが決まると息を詰めた。
弦の音が空洞へ跳ね返り、太矢が向こう側の亀裂へ吸い込まれた。フレイが細紐を引き、今度はティルダも加わって確かめたが、鏃は石粉を落としたきり動かなかった。
「昨日の試し撃ちより奥へ入ったよ、姉ちゃん。これならレオンが渡る間も抜けずに持ってくれそうだ」
「うん、最初の一本としては上出来だね。レオン、あんたが渡ったら、こっちの太縄を引き上げておくれよ」
レオンは命綱をエイルとティルダへ預け、壁の出っ張りへ右足を掛けた。補助の細紐を左手に握り、エイルに教わったとおり腹と足へ《身体強化》を通して身体を押し上げる。空洞へ張り出す岩の上で足を替えたときには、縄を握る腕より脚の力が頼もしかった。
「その角を左足で踏め。腕を引くのは次の一歩でいいから、岩から腹を離しすぎるなよ」
エイルの声に合わせて上体を移し、レオンは向こうの岩棚へ膝をついた。自分が作った道ではない。フレイが打った鏃と、ティルダが改良した爪、それに昨日教わった身体の使い方が、ここまで運んでくれたのだ。ようやく立ち上がると、対岸の双子が揃って手を振っていた。
「ちゃんと着いたぞ。今から太縄を引くから、そっちの細紐を送ってくれ」
主索を受け取り、岩の亀裂へ鉄環を固定して縄を二重に回す。続いて渡ってきたエイルが縄の擦れる箇所に革を挟むと、ほかの仲間も安全索を掛けて一人ずつ渡った。途中でキュウが翼を開いて近道をしようとしたものの、エイルに手を上げられると素直に歩みを止め、皆が渡ったあと、広い岩棚の中央へ向けてだけ短く飛んだ。
「きゅう!」
「見てたよ、ちゃんと真ん中へ降りたじゃないか。昨日あんなに転がってたのが嘘みたいだね!」
ティルダが笑うと、キュウは得意げに首を反らした。レオンもその姿を見て嬉しくなったが、足元の縄を片づけたエイルが次の岩棚を指したので、先頭へ戻った。
折れた石橋を伝って一段下へ移り、次の短い切れ目には太縄を張った。ロアンはリュートの革帯を締め直し、安全索を掛けて渡ったあと、石床へ両足をついてから大きく息を吐いた。
「僕にはこんな高さの崖は向いてないと思ってたけど、縄があると随分違うね。この調子で進めたら、今夜はいい冒険譚ができそうだよ」
「帰りの分もきちんと張っておくから、行きで使った足場を覚えておきなよ。リュートをぶつけて泣かれても困るしね」
フレイはそう言いながら、命綱を受け取る手は丁寧だった。ロアンも笑って礼を言い、岩壁へ残した金具を見上げた。皆の足元に一本ずつ道がつながっていくにつれ、レオンは四層の奥へ進めることが純粋に嬉しくなっていた。
◇
三つ目の高低差では、上の岩棚が人の背丈二人分ほど高い場所にあった。間の岩壁には足を掛けられる割れ目があるが、下を覗けば巨大な石柱の腹が暗がりへ消えている。最初の太矢は岩を弾いて落ちたものの、フレイが鏃を調べて射ち直すと、今度は上の亀裂に深く食い込んだ。
レオンが先に登り、エイルも続いて主索と安全索の固定を確かめた。上の岩棚は広く、奥は緩やかに石柱の陰へ続いている。ここなら全員が上がってから道を選べると考え、レオンは縁へ伏せて下の仲間を見た。
「次はティルダからだ。槌は背中へ回して、縄が岩角に擦れないよう気をつけて上がってくれ」
「姉ちゃん、今度は途中で槌を出さないでよ。私が後ろから見てるんだからね、ちゃんと足を使って」
「分かってるって。レオン、上に着いたらその鉄環、私にも触らせておくれよ。張り方が気になってたんだ」
ティルダは楽しそうに笑い、手足を使って登ってきた。次にベラが上がる途中、風が外套の裾を膨らませたので、エイルが一度止める。風が落ちてからベラが残りを登り切ると、フレイも上へ続いた。
上の岩棚へフレイが着くと、レオンはまだ下に残っているロアンとキュウへ身体を向けた。
エイルは岩棚の端から少し離れ、頬に触れる風の向きを確かめていた。石柱の間を通る空気が先ほどより横へ流れ、細かな砂が上の割れ目へ寄せられている。ただ、そのときは外套を強く引かれるほどではなかった。
「ロアン、腰の安全索はこっちで取る。皆が使った出っ張りへ足を掛けて、急がず上がってきてくれ」
「分かったよ。上から見てる分には大した高さじゃないのに、いざ登ろうと思うと別の崖みたいだね」
ロアンは笑ってみせ、岩壁の最初の窪みに足を置いた。レオンが索を手繰り、エイルが次の足場を声で教える。
そのとき、上の岩棚の奥で灰色の塊が動いた。
岩の縁に沿って二本の鋏が現れ、丸い背甲の下から節の太い脚が伸びてくる。岩蟹だった。石柱の陰から横歩きに出てきたそいつは、レオンたちに気づいたのか、鋏を開いて岩棚の端へ寄った。
上にいる仲間たちが一斉に岩蟹へ顔を向けた。ベラは口元をほころばせ、ティルダが槌へ手を伸ばす。だが、岩蟹へ近づくより早く、まだ岩壁の下にいたキュウがぴたりと首を持ち上げた。
「きゅうっ!」
レオンにはキュウの狙いがすぐに分かった。若竜は岩蟹から目を離さず、翼を身体の両側へ一気に開いた。
「キュウ、待て! そっちへ飛ぶんじゃない!」
レオンが呼びかけたときには、キュウは岩棚を蹴っていた。下から見ても十分に広い着地点へ向かい、翼を二度打って高度を上げる。脚を引き寄せ、石壁から少し離れたところで身体を斜めにする姿は、昨日の練習で何度も見た着地の動きに似ていた。
岩蟹は鋏を振って奥へ引っ込み始めたが、キュウはそれを追ってさらに翼を打った。ほとんど上の棚へ届きそうになったとき、エイルが横を向いて目を見開いた。
大きな石柱の向こうで、砂が突然跳ね上がった。
「風が来るぞ! ロアン、岩にしがみつけ!」
警告が終わるより早く、横殴りの風が石柱の間を抜けた。
ロアンの外套が帆のように膨らみ、壁に掛けていた右足が外れた。腰の安全索が張って身体が振り子のように外へ飛び、金具へ結んだ縄が岩角を擦って白い繊維を散らす。
同じ風がキュウの片翼を下から押し上げた。若竜の身体が傾き、上の岩棚へ伸ばしかけた前脚が空を掻く。キュウはすぐ翼を打ち直したものの、今度は反対側が風に押され、岩壁から大きく外へ流された。
ロアンが宙で叫んだ。レオンは縁へ腹ばいになり、振り戻されてきた右腕へ手を伸ばす。
「ロアン、手を伸ばせ! こっちで掴むから、もう一度だけ腕を上げてくれ!」
指が触れ、手首を握れた瞬間、重みでレオンの肩が岩棚の外へ引かれた。背と脚へ《身体強化》を流して踏ん張ると、エイルが腰を掴み、フレイとティルダもその後ろへ回った。四人で力を合わせて引き上げたロアンは、岩床へ転がるなり両腕を抱え込んで荒い息をした。
「ロアン、あたしの声が聞こえるかい。どこか打ったなら、すぐ教えておくれよ!」
ベラは膝をついて身体を調べようとしたが、ロアンの視線はレオンの肩越しに崖の外へ向いていた。
「僕は大丈夫だと思う。それよりキュウは、今の風でどこへ行ったんだい!」
レオンが振り返ると、キュウの黄土色の背がもう岩棚より下にあった。翼を広げ直して岩壁へ戻ろうとしているのに、風が身体を石柱の方へ押し流し、脚が何度も宙を掻いていた。
「キュウ! こっちだ、岩壁へ戻れ!」
「きゅう!」
短い返事が確かに届いた。キュウは一度だけ風を捉えたらしく、広げた翼の下で身体が浮き上がる。レオンも岩棚を走ってその姿を追ったが、次に翼を打ったときには大きな石柱が間へ入り、黄土色の背が岩の陰へ消えた。
「キュウ! 聞こえるか、俺たちはここにいるぞ!」
レオンは岩床へ腹をつけ、縁から下を覗いた。柱の向こうには細い岩棚が何段も見えるが、そのどれにもキュウはいない。名を呼ぶ声は石壁へ跳ね返り、地下の空洞へ流れていった。
ティルダも別の縁から身を乗り出しかけたため、フレイが革帯を掴んで引き戻した。
「姉ちゃん、さっきロアンが落ちかけたのを見ただろ。下を覗くなら、せめて腹をつけてくれないと困るよ!」
「分かってるよ、でもキュウの声がまだ聞こえるかもしれないじゃないか。あの子、こっちへ返事をしたんだよ!」
ティルダは伏せ直して喉いっぱいに名を呼んだ。ベラもロアンの肩へ手を置いたまま崖の外を見つめ、遠くに黄土色のものが動かないかと目を凝らしている。
「皆、いったん黙ってくれ。風が止む間に声が聞こえないか、下の方へ耳を澄ませたい」
エイルが手を上げると、さっきまで名を呼び続けていたティルダも口を閉じ、岩棚から叫び声が消えた。
ロアンの浅い呼吸と縄が岩角へ擦れる音だけが近くにあり、石柱の向こうから風が唸っていた。レオンはその音が弱くなるたびに耳を澄ませたが、翼が空気を打つ音も、石を引っ掻く爪の音も聞こえてこなかった。
「キュウ、どこかに降りられたなら返事をしてくれ。声のする方へ必ず迎えに行くから!」
返事はなく、呼びかけの終わりを石壁が何度も繰り返しているばかりだった。
◇
レオンは《空間収納宝珠》から予備の縄を取り出し、崖の下へ垂らす長さを確かめた。少し下に見える岩棚までなら届くかもしれない。腰へ結ぼうとすると、ベラが立ち上がって腕を掴んだ。
「何をするつもりだい。ロアンをやっと引き上げたところなのに、またこの風の中へ降りていく気なのかい?」
「すぐ下に棚がある。まずそこへ降りて石柱の裏を見れば、キュウが流された先を探せるかもしれない」
「そこから先はどうするんだい。次に風が吹いて、あんたまで落ちたら誰が引き上げてやれるっていうんだよ!」
エイルもレオンの手元へ伸びた縄を押さえた。
「今はやめろ。さっきの風がどこから曲がってきたのか、俺にも読めなかった。今度も同じ場所から吹くとは限らない」
「キュウが下で怪我をしていたら、夜になるまで待たせるわけにはいかないだろう。せめて見える場所までは行きたい」
「だから別の足場を探す。今まで張った縄が使える範囲なら探せるし、柱の裏へ回れる場所もある。まずはそっちからだ」
レオンは縄を握り締めたまま、エイルの顔を見た。エイルは視線を逸らさなかった。風を読む役を引き受けていた男が、今は下へ降ろせないとはっきり言っている。
ロアンはまだ岩壁へ背を預け、胸元の革帯を握っていた。ベラが身体を調べると、擦り傷はあるものの骨を痛めた様子はない。ただ、立ち上がろうとするたび膝が震え、すぐには歩けそうになかった。
フレイがロアンの安全索を確かめると、岩角に擦れた部分は繊維が何本も切れていた。彼女は傷んだ縄を外して予備と替え、両手で引いてからロアンに手渡した。
「こっちに替えたから、帰りはこれを使って。今の縄でまた体重を受けたら、次は持ちこたえないと思う」
「ありがとう、フレイ。情けないけど、まだ足が言うことを聞かないんだ。少しだけ待ってもらえると助かるよ」
「いいよ。歩けるようになったら、私が後ろから索を取るからね。ちゃんと下の足場も見ておくよ」
レオンは予備の縄を畳み、岩棚の端へ戻った。キュウが落ちていった方向へ何度も声を投げ、途切れるたびに耳を澄ませる。ほかの仲間も交代で呼んだが、返事はなかった。
ロアンが歩けるようになると、そこからは渡ってきた二つの岩棚へ戻り、見下ろせる場所を一つずつ探した。石柱の裏へ回れる所ではエイルが先に風を読み、ティルダが槌の柄で岩を叩いてから、皆で音が返るのを待った。
キュウは足の下で伝わる震えに気づくことがある。レオンも槌を借り、太い石柱の根元を三度叩いて間を置き、もう三度叩いた。どこかの岩棚で身を休めているなら、この音へ応じて鳴くかもしれないと思った。
しかし、届いたのは風の反響だけだった。岩を叩いては待ち、下を覗いては名前を呼び、また黙って耳を澄ませる。見える石の割れ目も棚の裏側も探したが、黄土色の身体を見つけることはできなかった。
空洞を満たしていた白い光が傾き、石柱の片側へ橙色の帯を落とし始めた。地下なのに、地上の夕暮れと同じように明るさが変わっていく。レオンは水を飲んでも喉が痛み、キュウの名を呼ぶ声が次第に掠れてきた。
ベラが差し出した水袋を受け取ると、冷たい水が傷んだ喉を通った。彼女は朝に詰めた食料の包みも出したが、誰も受け取らず、ベラ自身も袋を膝へ載せたまま崖の向こうを見ていた。
「キュウ、どこかで俺の声が聞こえるなら、もう一度だけ鳴いてくれ。場所が分かれば迎えに行けるんだ!」
レオンの叫びは、岩壁の間で何度も小さく跳ね返った。返事がないまま、橙色だった光は弱まり、下の棚の輪郭も徐々に見えなくなった。
レオンはもう一度予備の縄を取り出し、暗くなり始めた岩棚の縁で端を垂らして長さを測った。
「下に見えていた棚までは長さが足りるはずだ。そこへ降りてから明かりを使えば、もう少し先まで探せる」
エイルが立ち上がり、予備の縄を持つレオンと崖の縁との間へ割って入った。
「その棚へ降りても、次の足場が見えない。風が強まってから戻ろうとしたら、縄を伝って登る間ずっと身体を晒すことになる」
「だったら私が降りるよ。フレイはここに残ってくれればいいし、私は縄を握って自分の足で下まで行けると思う」
ティルダの声が横から飛んだ。腰の槌を背へ回そうとすると、フレイが両腕で姉を抱えるようにして止めた。
「そんなこと言わないでよ。姉ちゃんが降りていって戻ってこなかったら、私はどうしたらいいのさ!」
「キュウを置いて帰れるわけないじゃないか! あの子が下で鳴いてたら、私たちが聞いてやらなきゃ誰が助けに来るのよ!」
「私だって帰りたくないよ。でも、姉ちゃんが落ちたら、私はあんたを助けに降りるしかなくなるんだよ!」
ティルダが言い返しかけて口を閉じた。フレイは姉の革帯を掴んだまま離れず、指の関節が白くなっている。レオンは二人へ何も言えなかった。
ロアンは少し離れた岩壁へ背を預け、両手で膝を押さえていた。ベラがそばへ腰を下ろすと、ロアンは強く息を吸ってからレオンに顔を向けた。
「僕もキュウを探したい。けど、崖の縁を見るとまた身体が浮いたときのことを思い出して、足が動かなくなるんだ。今夜はもう登れないと思う」
ベラはロアンの背へ手を当てた。その手が震えていたことに、レオンは初めて気づいた。
「レオン、あたしは今ここで誰かを降ろすことには反対だよ。キュウを助けたい気持ちは同じだけど、ロアンみたいな思いをもう誰にもさせたくないんだ」
ベラの声は普段より低かった。レオンが返事を探していると、彼女は膝の上の水袋を握り締め、崖下へ顔を向けた。
「……あたしね、さっき岩蟹を見つけたとき、今晩も皆に食わせてやれるって嬉しくなっちまったんだよ。止めなきゃってすぐには思えなかった」
ベラは自分の手を見た。昼にロアンの身体を調べ、皆へ水を渡した手だった。
「あの子が飛び出すのを見てたんだよ。あたしがくだらないことを考えず、すぐ声を掛けていれば……」
レオンは何も返せなかった。自分だってキュウが岩蟹を見つけて喜んでいると気づきながら、止める声が届いたのは翼が開いてからだった。ベラを慰めようとすれば、同じ言葉を自分へ向けなければならない気がした。
エイルは長いこと石柱の間を見ていたが、やがてレオンへ向き直った。
「風を読んでいたのは俺だ。あの横風を捕まえられなかったのも俺だよ。だからこそ、今ここで次の風も読めるなんて言えない」
エイルは自分の足元の砂を拾い、手のひらから落としてみせた。細かな粒は真下へ落ちず、途中で横へ散っていった。
「この明るさで帰り道まで見えなくなったら、皆を無事に三層へ戻せなくなる。今は下りるな、レオン」
レオンは握っていた予備の縄を見た。数時間前、この縄があれば途切れた岩棚を渡れると思っていた。今も長さは足りているし、自分の腕と脚へ魔力を流せば、あそこまでは降りられるかもしれない。
けれど、その先にキュウがいるとは限らない。降りたあと風に煽られたら、エイルたちはまた誰かを引き上げなければならない。ロアンを助けたとき、自分の肩が崖の向こうへ引かれた感触が残っていた。
ティルダは唇を噛み、フレイの手を振りほどこうとはしなくなった。ベラはロアンの隣から離れず、ロアンは立ち上がれるだけの力が戻ったものの、まだ崖際へ近づこうとしない。
皆を連れてきたのはレオンだった。キュウが消えた場所を見つけるまで帰りたくないのも、誰にも負けないくらい自分だった。だが、これ以上待てば、帰る道まで失う。
「……今日は戻る。皆が歩けるうちに、三層まで引き返そう」
自分の声を聞いた途端、レオンは腹の奥が冷えた。まだどこかでキュウが助けを待っているかもしれないのに、自分は帰ると言ってしまった。
ティルダが顔を上げ、レオンの腰に下げた《空間収納宝珠》へ視線を落とした。
「レオン、本当に帰るのかい。明日まであの子を一人にするんだよ、それでも今は戻るのかい?」
「ここでまた誰かが落ちたら、明日はキュウを迎えに来ることもできなくなる。俺だって帰りたくない。だが、皆を連れて戻る」
返事のあとも、ティルダは暗くなり始めた崖を見つめていた。フレイが姉の隣で縄を巻き、エイルは帰路に残した固定金具へ目を向ける。ベラがロアンの立ち上がるのを手伝う間、レオンは握ったままだった予備の縄を巻き直した。
何度も途中で手を止めた。まだ探すことに使えたはずの縄を全部巻き終え、《空間収納宝珠》へ収めると、レオンは崖下へもう一度顔を向けた。
「キュウ、明日また来るからな。聞こえているなら、安全なところで待っていてくれ!」
それでも下から答える声はなく、風ばかりが石柱の間で鳴り続けていた。
◇
戻り道では、行きに渡した縄があることだけが救いだった。岩棚と石橋の残骸を一つずつ辿り、安全索を掛け替えながら出口を目指す。途中、ロアンは先ほど宙へ投げ出された高低差で足を止めた。降りるために右足を伸ばそうとしても、岩壁から身体が離れる気がして膝が曲がらない。
レオンは先に下へ降り、ロアンの命綱を取った。
「ロアン、下から見てる。右足の先に大きな出っ張りがあるから、そこを踏むまで俺が身体を支えるぞ」
「悪いね、レオン。足の置き場所は見えてるのに、動かすとまた風が来る気がして、どうにも情けないんだ」
「急ぐ必要はない。右足が届くまで待ってるから、岩に肩を寄せて、ゆっくり降りてこい」
ロアンは何度も息を吐き、やがて右足を岩の角へ掛けた。体重を預けられたと分かると、次の一歩は自分から探した。ベラが上から安全索を取り、ようやく両足が下の棚についたときには、ロアンもベラも汗で髪を額へ貼りつかせていた。
四層入口の石段へ辿り着いたころ、広大な空洞は青く薄暗くなっていた。レオンは最後尾で足を止め、さっきまで声を投げ続けた石柱の方へ身体を向けた。
「キュウ! 今夜はここで待てなくてすまない。また迎えに来るから、どうか返事をしてくれ!」
遠くの石柱に声が反響した。レオンは耳を澄ませて長く待ったが、返事はない。エイルが肩に手を掛けたので、ようやく石段を上がり始めた。
三層へ戻ると、巨木の根の間を抜ける通路はいつもと同じ匂いがした。なのに、足元から一匹分の大きな爪音が消えている。曲がり角で皆が寄っても、キュウの翼を避けて壁へ身を寄せる必要はなかった。ロアンが後ろの足音を気にして振り返ったときにも、黄土色の頭はついてこない。
夕食の時刻はもう過ぎていた。ベラは持ってきた包みからパンを分け、全員に食べさせようとしたが、誰も岩壁の陰で立ったまま食べる以上の元気がない。レオンは固いパンを口に入れても味が分からず、水で流し込んだ。
石戸に近づくと、帰り火の暖かさが隙間から流れてきた。普段ならここでキュウが先に扉へ鼻を押しつけ、ミラの声が聞こえると嬉しそうに鳴く。今日はレオンが誰より先に手を掛け、重い石戸を開いた。
◇
食堂から出てきたミラは、レオンたちの顔を見るなりいつもの笑顔になった。
「お帰りなさい、皆さん。今日はずいぶん遅かったですね。お腹が空いているでしょう、食堂には温かいご飯がありますよ」
その声が耳へ届いても、レオンはすぐに答えられなかった。ミラの視線はレオンからエイルへ、フレイ、ティルダ、ベラ、ロアンへと移り、最後に開いたままの石戸へ向かった。
若竜の大きな身体が通ってくるのを待つように、ミラは入口の脇へ一歩退いた。
「キュウは、まだ後ろにいるんですか。いつもなら一番に帰ってきて、私に頭をぶつけてくるのに……」
誰も石戸の向こうへ目を向けなかった。レオンは喉の痛みに唾を飲み込み、ミラの前へ進んだ。
「四層で、横から強い風が吹いた。ロアンは安全索で止められたが、キュウは飛んでいる途中で風に流されてしまった」
ミラがロアンを見ると、彼は壁へ片手をつきながら何とか立っていた。
「キュウが……落ちたんですか? でも、あの子は飛べますよね。レオンさん、最後に見えたとき、キュウはどうしていたんですか?」
「一度だけ、呼びかけに返事をした。翼も動かしていたから、そのときは飛んでいた。でも石柱の陰へ入ってからは、姿が見えなくなった」
ミラは石戸へ向き直り、その先の冷たい暗がりを見た。レオンには、彼女がまだキュウの足音を待っているように思えた。
「返事は、もう一度聞けなかったんですか。キュウは皆さんの声が分かったら、きっと鳴いてくれる子ですから」
「声も出したし、岩も叩いた。見える岩棚は全部探した。暗くなるまで待ったんだが、あれから一度も返事はなかった」
ミラは何度か口を動かしたものの、言葉にならなかった。それからロアンへ近づき、顔色を見て眉を寄せた。
「ロアンさんも、ひどい目に遭ったんですね。先に食堂へ入って座ってください。ベラさん、あとでちゃんと傷を見てあげてくださいね」
「ありがとよ、ミラ。あたしが最後まで確かめるから、ロアンは先に休ませてもらうよ」
ベラがロアンに肩を貸すと、ティルダも後に続きかけた。だが、ミラの隣を通り過ぎることができず、握っていた槌の柄を見下ろした。フレイが姉の腕へ触れ、そのまま二人で立ち尽くす。
ミラはティルダとフレイのそばを離れ、レオンの方へゆっくりと向き直った。
「レオンさん、キュウを探しに下へは行けなかったんですね。あの子は今も、暗いところにいるんでしょうか……」
「降りようとはした。でも風が読めなかったし、道も見えなくなってきた。皆を連れて帰るには、あそこで引き返すしかなかった」
レオンは、言葉の最後で声が詰まった。ミラは責めなかったが、そのことが余計に苦しかった。彼女はしばらく石戸の向こうを見たあと、炉の左奥へ歩いていった。
そこには、キュウの部屋がある。大きくなった身体に合わせて少しずつ広げた寝床の真ん中に、朝まで若竜が丸くなっていた毛布が残っていた。ミラが毎晩直してやる端は、尻尾に押された形のまま折れている。
ミラは部屋の入口へしゃがみ込んだ。毛布の上には、キュウの胸の重みで沈んだ跡がまだ残っていた。
その跡を撫でようと伸ばした手が、毛布へ触れる前に止まった。ミラは手を膝へ戻し、入口にしゃがんだまま、空いた寝床を見つめていた。




