炉還りは崖を渡る準備をします
ロアンと掌を打ち合わせたあとも、仲間たちの笑い声はなかなか収まらなかった。ティルダは大猿に傷つけられた肩をフレイに見せながら、最後の一撃がどれほどきれいに決まったかを身振りで再現している。ベラが傷の具合を確かめようとすると、今度はその手まで掴んで喜んだものだから、フレイが慌てて姉を引き戻した。
「姉ちゃん、槌を振る真似までしなくていいって。さっきから傷に手が当たってるよ」
「だって、あそこでキュウがぶつからなかったら、私の槌も届かなかったんだよ。あれは気持ちよかったなあ!」
キュウは自分の名を聞いて、大きな胸を張った。尾が枯れ葉を払ってロアンの足元まで飛ばし、本人は褒められたのが嬉しいのか、もう一度鼻を鳴らしている。レオンはその頭を撫でてから、大猿の巨体へ向き直った。
「話の続きは帰ってから聞く。まずはこいつを持ち帰ろう。何が採れるか、双子に見てもらいたいしな」
「大きな腱があるといいね。今の重弩にも使えるかもしれないし、木を渡る腕の力は相当なものだったよ」
フレイの目が大猿の前腕へ向く。さっきまで相手の動きを警戒していたのに、もう工房での使い道を考えているらしい。レオンが《空間収納宝珠》へ魔力を流すと、大猿の身体は淡い光に包まれ、巨体が横たわっていた場所に深い足跡だけを残して消えた。
その奥で太い根が軋み、中央の巨木の根元がゆっくり左右へ開いた。土の下から石で囲われた窪みが現れ、中には木箱が一つ納められている。
「宝箱まで木の下に隠すのか。掘り返さなくて済むなら助かるけど、ずいぶん凝った仕掛けだね」
ティルダが近づこうとすると、エイルが周囲の枝を確かめ、フレイが箱の脇へしゃがみ込んだ。床との継ぎ目を指でなぞったフレイは、木箱を軽く押してから顔を上げる。
「箱は持ち上がるし、底から何かが繋がってる様子もないよ。開けてもよさそうだね」
レオンが蓋を開けると、掌ほどの深緑の結晶が布に包まれていた。中には木の年輪を細かく重ねたような筋が走り、光に透かしても向こう側は見えない。指先を触れさせ、《素材鑑定》を使う。
《樹心晶》
《樹木系加工補助素材》
《高魔力親和》
《用途詳細――判定不能》
「木材の加工に使うらしい。魔力と馴染みやすいことまでは分かったが、詳しい使い道はリュネに聞いてみよう」
「精霊樹の木材と相性がよかったら面白いね。帰ったら工房にも持ってきて、もう少し見せてよ」
フレイは木箱の中を覗き込み、結晶の模様を目で追っている。レオンは布ごと箱へ戻し、《空間収納宝珠》へ収めた。そのとき、巨木の反対側に開いた石段から、乾いた風が吹き上がってきた。
新しい階層が待っている。三層主を倒せた喜びがまだ身体に残っているのに、その先に道があると分かると、レオンはもう下を覗いてみたくなった。帰ったら酒を飲んで祝うつもりだったが、それまでに一つくらい、新しい景色を見ておきたい。
「四層の入口を見てから帰ろう。奥へ踏み込むのは次にするとして、どんな場所かくらいは確かめたい」
エイルが弓を持ち直し、レオンより先に階段へ足を掛けた。ほかの者も続き、キュウは翼を畳んで石段を下りていった。
◇
十数段も進まないうちに頭上の岩が途切れ、レオンは思わず足を止めた。石段が突き出しているのは、巨大な空洞の途中に張り出した岩棚だった。
油灯を掲げても底は見えない。暗闇の中から何本もの石柱が立ち上がり、太いものは塔のような幅で、途中に岩棚をいくつも抱えていた。柱の上端さえ闇へ消え、向かいへ伸びた石橋は途中で折れている。右手には人ひとりが通れるほどの足場が岩壁に沿って斜め下へ続き、左手は張り出した岩に遮られて先が見通せなかった。
下から風が吹き上がり、外套の裾を持ち上げた。レオンが油灯を岩陰へ寄せると、今度は横から冷たい流れが入り、炎が反対へ傾く。
「なんだ、これは。洞窟の下に、こんな大きな場所が空いていたのか……」
自分の声が石柱へ当たって遠くで返り、レオンはもう一度空洞を見渡した。地下へ潜るほど道は狭くなるものだと思っていたが、ここでは逆に、自分たちの立っている岩棚の方が頼りなかった。遠くの柱まで行けたら何が見えるのだろう。折れた橋の先はどこへ続いていたのだろう。そんなことを考えているうちに、知らず口元が緩んだ。
「これは面倒だね。入口だけじゃ、どこから渡るか決められないよ。あの橋も途中でなくなってるし」
フレイがそう言うと、隣のティルダは空洞より先に妹の顔を見た。困ったと言いながら、フレイは腰袋から炭の短棒と薄い木片を取り出している。面倒なものを見つけたときほど手が早くなるのは、いつものことだった。
「姉ちゃん、そこの柱、入口から見ると一つに重なってるけど、奥にも別の柱があるよね。場所を覚えておきたいんだ」
「私には二本に見えるよ。手前の下にも棚があるね。あそこなら何か掛けられそうだけど、ここから届くかなあ」
フレイが木片へ柱を点で描き、ティルダは槌の柄で足元の岩を二度叩いた。硬い音が乾いた空洞へ広がる。フレイは細い亀裂へ指先を差し込み、岩を握ったまましばらく考え込んだ。
「杭を使うなら、割れ目に噛ませる方がよさそう。向こうの岩にも同じような亀裂があるといいけど」
「この岩なら、ただ真っ直ぐ打ち込むだけじゃ難しそうだね。槌で試す前に、使う金具の形を考えたいな」
エイルは岩棚の縁から距離を取って膝をつき、頬へ当たる風の向きを確かめていた。片手を上げると、袖がいったん上へ膨らんだあと、石柱の方へ引かれる。
「下から上へ抜ける風がある。柱の間では横にも流れてるな。足を踏み外すより前に、風に身体を持っていかれそうだ」
キュウがその風を鼻先で追い、翼を半分ほど開いた。風を受ける膜がぴんと張り、本人は嬉しそうに首を伸ばす。レオンが翼の前へ手を差し出すと、キュウは不満そうに一度鳴いた。
「今日は飛ばないぞ、キュウ。ここは広そうに見えても、降りる場所を外せば戻れなくなる」
若竜は翼を畳んだが、空洞への興味までは畳めないらしい。石柱の間を通る風に向かって何度も鼻先を動かし、足元の岩へ爪を掛け直している。
「向こうの棚までなら今まで飛んだ距離より長いし、風が変わるところもある。キュウには狙った場所へ降りる練習をさせよう」
エイルの言葉に、キュウが勢いよく顔を上げた。飛ぶなと言われていたことなど忘れたように、レオンの横へ頭を寄せてくる。自分も次の探索に加われると分かったらしい。
「そこまで楽しみにしてるなら、なおさら練習だな。上手く降りられたら、みんなにも見てもらおう」
レオンが額を撫でると、キュウは大きな尾を振った。石床へ当たった尾の先が砂を跳ね上げ、フレイの持つ木片にかかりそうになったところで、ようやく動きを止める。
そのとき右の壁際で、灰色の岩が不自然に横へずれた。節の太い脚が八本、石のような背甲の下から伸び、身体の前で大きな鋏が二つ開いた。
岩蟹だと分かったときには、エイルがもう矢を番えていた。ティルダは槌を下ろし、フレイは木片を腰袋へ押し込んで重弩を構える。ベラは短杖へ伸ばしかけた手を引っ込め、岩蟹の鋏が向く先を見ていた。
誰も口を開かなかったが、誰一人として獲物を逃がすつもりはないらしい。岩蟹が鋏を振り上げ、壁に沿って横歩きに逃げようとした瞬間、エイルの矢が脚の付け根へ突き立った。
片側が沈んだところへキュウが低い体勢で走り、鋏の外から背甲へ前脚を掛ける。岩蟹が残った鋏を振り回すと、ティルダの槌がその関節を石床へ押さえつけた。レオンは開いた脚の隙間へ踏み込み、青魔鉄の剣を殻の継ぎ目へ入れる。
岩蟹が一度大きく震え、脚から力が抜けた。レオンが《空間収納宝珠》へ収めると、キュウは蟹の消えた場所へ鼻先を寄せ、しばらく石床の匂いを嗅ぎ回っていた。
道はまだ続いている。レオンには一歩でも先を見たい気持ちがあったが、岩棚の細い足場を覗くと、無事に帰るための手掛かりが何一つ足りないことも分かった。三層主を倒したあとの疲れが残る仲間を連れて、ここで勝手な賭けをするつもりはなかった。
「今日は戻ろう。先へ進むのは、道具を揃えてからだ。あそこを渡れるようになったら、面白そうな場所がいくらでもある」
「そうだな。足場を読むだけでも集中がいる。次は明るいうちに来て、柱の間の風も読んでおきたい」
エイルの返事を聞き、フレイは木片へ入口の位置を刻んだ。歩き出したレオンのあとへキュウもついてきたが、階段へ入る前に振り返り、暗い空洞へ向かって小さく鳴いた。
◇
洞窟へ戻る頃には、窪地へ差す冬の日が傾いていた。石戸をくぐると、炉の近くで作業していたミラが顔を上げる。いつもはレオンの姿を見てからキュウを探すのに、今日は若竜の大きな身体が真っ先に扉を抜けてきた。
「皆さん、お帰りなさい。キュウもお疲れさまです。今日はいつもより帰りが遅かったですね」
「三層主を倒してきた。四層の入口まで見たけど、あの先にはとんでもなく大きな空洞があるぞ」
ミラは両手を作業台へついたまま一瞬動かなくなり、それからレオンとキュウの顔を交互に見た。
「三層を越えたんですか! 皆さん、すごいです。四層まで行って、それで全員帰ってきたんですね!」
「そりゃ帰ってくるさ。今夜はお祝いにできるものを持ってきたし、ミラにも味見してもらいたいんだ」
ベラの声に、ミラはようやく作業台から離れ、キュウの頭へ両腕を回した。若竜は甘えるように鼻を押しつけ、ミラがよろめくと嬉しそうに尻尾を振っている。レオンは二人を見て笑い、宝珠から今日の獲物を出す場所を空けてもらった。
「先に岩蟹を出しておくれ。あれだけ大きけりゃ、今夜はみんなで腹いっぱい食べられるよ」
ベラが籠を引いてくると、通りかかったエルネが灰色の甲羅を見て足を止めた。
「こりゃ見事な岩蟹だべ。仕事を片づけてすぐ食堂へ行くからよ、でっけえ鋏は残しといてくれな」
「その調子なら、エルネも今日は仕事が早そうだな。俺も夕飯が楽しみになってきたぞ」
「岩蟹のある日に帳面を抱えて残業なんぞ、商会にいた頃から御免だったべ」
エルネは帳面を胸へ抱え直したまま名残惜しそうに蟹を見ていたが、ベラに急かされると早足で倉庫へ消えた。ベラは甲羅を叩き、剣が入った継ぎ目を確かめる。
「胴が潰れてなくて助かったよ。キュウ、そっちはあたしの仕事場だから、尾を棚へぶつけるんじゃないよ」
キュウは返事をするように鳴き、ベラの後ろについて厨房へ入ろうとした。扉のところで大きな翼が引っかかり、畳み直してからやっと中へ入る。レオンはその後ろ姿を見送り、ミラに頼んで解体用の作業台を空けた。
一層で収納した《氷殻大蜥蜴》を出し、前に採ったことのある素材を手際よく分ける。続けて《樹冠大猿》を出すと、ティルダとフレイはたちまち作業台の横へ集まった。
レオンは《解体》で刃を入れやすい位置を確かめながら、《素材鑑定》で使える部位を調べる。
《大腱――高弾性加工素材》
《掌革――高摩擦加工素材》
《背毛皮――耐衝撃加工素材》
《肉――食用可/食味低》
「弩の弦には太すぎるけど、巻き上げる方なら使えるかもしれないよ。姉ちゃん、こっちを持ってて」
フレイが切り出した大腱を引き、ティルダが反対側を握る。伸びた素材が二人の手元で強く戻り、フレイは楽しそうにもう一度引き直した。ティルダは掌革を指で折り、槌の柄へ巻いたときの具合を考えている。
「この革もいいね。雨に濡れても滑りにくいなら、槌だけじゃなく工房の工具にも使いたいな」
姉妹に素材の始末を任せ、レオンは最後に木箱を出した。呼ばれてきたリュネが水晶玉を結晶へ近づけ、《魔道具鑑定》を使うと、球の奥へ緑の光が集まる。何度か向きを変えたあと、リュネは結晶ではなく、工房の方を見た。
「加工した木が元から持っていた魔力の性質を、残しやすくするみたい。精霊樹みたいな木なら、特に相性がよさそうだよ」
「それならロアンのリュートやエイルの弓にも使える? 同じ木をもっと扱いやすくできたら面白いんだけど」
「使えると思うけど、今の道具が急に悪くなるわけじゃないでしょう。どれくらい混ぜるといいか、確かめるまでは置いておこう」
フレイは残念そうに結晶を見たが、次に作るものの話をするうちにもう機嫌を直していた。ミラが倉庫の帳面へ《樹心晶》の名を記し、木箱を大切に運んでいく。厨房からは、湯の沸く音に混じって、何かを叩き割る威勢のいい音が聞こえてきた。
◇
岩蟹が食卓へ運ばれてきたとき、真っ先に立ち上がったのはエルネだった。大皿には塩茹でした太い脚が山になり、別の皿には鋏と胴が殻ごと蒸されている。熱い汁と甘い香りが食堂中へ広がると、それまで酒の話をしていたロアンまで口を閉じた。
ベラが大皿を置くのを待ちきれず、ティルダが脚を一本取り、フレイも反対側から鋏へ手を伸ばした。二人の指がぶつかったが、いつものような言い合いにはならない。互いに別の獲物を選ぶと、さっそく殻を割り始めた。
レオンも太い脚を手に取り、割れ目から白い身を引き出した。口に運べば、よく締まった身から濃い甘みが広がり、噛むたびに旨い汁が染み出してくる。久しぶりに食べる岩蟹は期待どおりの味で、次の脚に手を伸ばす頃には、ほかの者が何をしているかなど気にならなくなっていた。
卓には殻を割る音と、身を引き抜くときの湿った音ばかりが続いた。
エルネは商会での昔話を始めることもなく、鋏の付け根から身をほじくり出している。ロアンは自分の杯へ酒を注いだものの、ひと口飲むとすぐに蟹へ戻り、リュートを弾くとき以上に熱心な顔で殻の隙間を覗いていた。
ミラとリュネも、細い匙で鋏の奥を探っている。ティルダは大きな身を引き出すたびに満足そうに笑うが、妹へ見せびらかすこともなく、そのまま口へ運んでしまう。フレイは姉が食べ終えた殻まで確かめ、まだ身が残っていれば黙って拾い上げていた。
レオンはふと、四層で岩蟹を見つけたときも、誰一人口を開かなかったことを思い出した。昼間は武器を握っていた連中が、今は同じような真剣さで蟹の脚を握っている。
ベラも呆れたように笑っていたが、自分の皿へ身を取り分けると、それ以上は何も言わなくなった。
その静かな食卓の下で、キュウだけが落ち着かずにいた。
ベラの膝へ鼻先を押しつけ、木皿を前脚で引き寄せる。ベラが熱を確かめてから大きな身を盛ると、キュウは待ち構えていたように口へ放り込み、二度ほど顎を動かしただけで飲み込んでしまった。
空になった皿が、ベラの足元へ押し戻された。
ベラは蟹を食べる手を止め、キュウの顔と空の皿を見比べた。それから別の脚を割り、大きな身をもう一つ取り出してやる。
今度こそゆっくり味わうつもりだったのか、キュウは前脚で皿を押さえ、口の中で何度も噛んでいた。だが、食べ終わるとまた皿を押し出し、ベラの手元をじっと見つめ始めた。
ベラは自分の蟹を食べたいらしく、しばらくその視線を無視していた。するとキュウは皿をくわえ、彼女の膝へそっと載せた。
「キュウ、あんたも本当に気に入ったんだね。でも、あたしの分くらい落ち着いて食べさせておくれよ」
キュウは大きく鳴いたが、皿を引っ込めるつもりはないらしい。ベラがとうとう根負けして脚をもう一本割ると、尻尾が嬉しそうに床を叩いた。
その音にティルダが顔を上げたものの、笑いながらまた自分の蟹へ戻っていった。フレイもキュウの皿をちらりと見てから、まだ残っている鋏の身を取り出す方へ夢中になった。
やがて、大皿の上に積み上がっていた脚がなくなり、卓の端には割った殻が山になった。エルネは最後の汁を匙ですくい、ロアンは指についた身まで惜しそうに舐めている。
「いやあ、みんな本当に静かだったね。僕も酒に何を合わせようか考える暇がなかったよ」
ロアンがようやく口を開くと、エルネも満足そうに腹をさすった。
「こんだけ旨いもんが目の前にあったら、しゃべってる場合でねえべ。いやあ、よくぞ持って帰ってきてくれたなあ」
「まったくだ。狩ってるときも誰も口を開かなかったが、食うときまでそうなるとは思わなかったぞ」
レオンの言葉に、皆が顔を見合わせて笑い出した。ティルダは殻だらけになった卓を眺め、今さら思い出したように杯を持ち上げる。
「三層主も倒したし、こんなご馳走まで食べられたんだから、今日はいい日だったよね!」
「それなら、今からお祝いの酒を開けようよ。蟹を食べ終わっちゃったのが、ちょっと惜しいけどさ」
ロアンが立ち上がると、キュウもつられて首を伸ばした。誰かが厨房へ向かえば、また蟹が出てくると思っているらしい。
ミラが笑ってキュウの大きな頭を膝へ引き寄せ、耳の後ろを撫でてやった。
「キュウ、もう十分いただいたでしょう。今日はたくさん頑張ったんですから、明日の練習に備えて一緒に休みましょうね」
キュウはミラの膝へ鼻を寄せたまま、まだ大皿のあった場所を見つめていた。ベラが空の皿を片づけ始めると、名残惜しそうに鼻を鳴らした。
◇
翌朝、レオンが食堂へ入ると、フレイはもう大きな紙を卓へ広げていた。昨日の木片を横へ置き、四層入口から見えた石柱と折れた橋を描き直している。紙の半分以上は白いままだったが、その空白へ炭筆を運ぶ手は楽しそうだった。
「ここまでは昨日見た形のまま。向こうの柱は重なって見えたから、奥は次に行ってから描くよ」
フレイが折れた橋のところへ指を置くと、ティルダが横から覗き込んだ。
「ここが届かないんだよね。跳べるほど近くないし、渡るものを作るなら何を掛ければいいかな」
「まず向こうの岩へ細い紐を渡したいんだ。あとはレオンに先に渡ってもらって、太い縄を引いて固定すればいい」
レオンは紙の切れ目を見た。昨日の岩棚へ立ったときに感じた高さが、描かれた線からは分からない。だが、その先へ線を伸ばすために、フレイが本当に何かを作ろうとしているのは分かった。
「向こうまで届くのは重弩の矢か。岩の割れ目に刺さって、引いても抜けないものが要るな」
「うん。普通の鏃だと石に当たって跳ねるか、浅く刺さって抜ける。そこを姉ちゃんと工夫してみたい」
「引っかけるところを作ればいいよ。先を細くして、奥へ入ったところで開く形にできそうじゃない?」
ティルダが空中で金具の形を描くと、フレイは炭筆をくるりと回し、図面の余白に新しい鏃を描き加えた。細い先端の後ろには、左右へ開く爪がついている。ティルダはその付け根を指で示し、爪をどう動かすかフレイと相談し始めた。
エイルは昨日の風向きを書き込んだ矢印を指で押さえた。
「キュウを先に飛ばすのはやめた方がいい。柱の間で風が変わるし、昨日見た棚は狭い。最初は俺たちが渡って足場を確かめよう」
卓の下にいたキュウが自分の名前に反応して顔を上げ、翼を開きかけた。レオンが頭へ手を置くと、キュウは翼を収めてこちらを見上げる。
「お前は狙ったところへ降りる練習だ。昨日みたいに勢いで飛ぼうとする前に、できることを増やしておこう」
キュウは短く鳴き、もう練習を始められると思ったのか、椅子の間から身体を押し出した。卓の脚を避けるために翼をすぼめ、尻尾が椅子を引っかけたところで慌てて立ち止まる。フレイがその様子を見て笑い、紙を端へ寄せた。
「先に外へ出してあげた方がいいんじゃない? この子、早く飛びたくて朝から落ち着かないみたいだよ」
「昨日の蟹を探してるだけかもしれないぞ。ベラの厨房を覗いてから、こっちに来たからな」
レオンが言うと、キュウはまるで抗議するように翼を揺らした。エイルは笑いをこらえながら、紙の余白へ着地点を示す四角を描いた。
「布で目印を作ろう。最初は広く、慣れたら狭くする。降りたあとにその場で向きを変えられるかも試したい」
フレイは必要な寸法を書き留め、紙を丸めた。昨日の四層で感じた風の話は、まだいくらでもできそうだったが、それより先に工房へ行きたくて仕方がないらしい。
「姉ちゃん、材料を見に行こう。一本作って撃てば、何が足りないかは分かるからさ」
「そうだね。どうせ試すなら今日のうちに改良までやりたいし、炉を先に温めておこうよ」
二人が椅子を引いて立ち上がる。レオンはエイルへ向き直り、腰の革帯を指で叩いた。
「俺にも岩の登り方を教えてくれ。縄で身体を吊るだけじゃなく、自分の手足でも進めるようになりたい」
「なら、窪地の岩場でやろう。腕ばかり使う癖を直せば、今の身体強化でもずいぶん違うはずだ」
昨日は見上げるしかなかった向こう側の岩棚へ、本当に行く方法を考えている。レオンは食堂を出るとき、もう一度フレイの紙を見た。空白の方が広い図面なのに、なぜだか昨日よりずっと頼もしく見えた。
◇
昼過ぎ、工房から最初の試作矢が持ち出された。普通の太矢より細長い鏃の途中に四枚の張り出しがつき、軸の後ろには、太い縄よりはるかに細い丈夫な紐が結ばれている。
フレイは窪地の岩壁へ重弩を向け、割れ目をしばらく見上げていた。ティルダが隣で槌を握ると、フレイは一度だけ弓床の角度を直した。
「最初の一本、撃ってみるよ。姉ちゃん、近づくのは紐を引いてからにしてね」
弦が鳴り、太矢が岩の割れ目へ突き立つ。ティルダが拳を上げかけたが、フレイはすぐに紐を握って引いた。手応えが一度強くなり、次の瞬間、鏃が石の粉を連れて飛び出してきた。
「あっ、抜けた! 奥まで刺さったと思ったのに、張り出しが先に引っかかったんだね」
ティルダが雪の上から矢を拾うと、四枚の張り出しの一つが潰れていた。フレイはそれを受け取り、さっきの割れ目と見比べる。見当違いの場所へ飛んだわけではない。狙いは当たったのに、固定できなかったことが悔しいらしく、唇をきつく結んでいる。
「岩の奥はもっと狭いんだ。張り出しが手前で当たってる。これじゃレオンの体重を掛けられないよ」
「先をもう少し細くしよう。張り出しは後ろへずらして、奥で噛むようにしたらどうかな」
「それなら入ると思うけど、軽くしすぎると風で流される。後ろの重さは残したいんだよね」
フレイは指で潰れた金具を押し、悔しそうに顔をしかめた。ティルダは矢を自分の手へ引き取り、壊れたところを指先で弾く。
「失敗したのが地上でよかったじゃん。今なら何本だって直せるし、もう一度撃って確かめようよ」
「姉ちゃんは簡単に言うよね。でも次は抜けないやつにするから、工房で一緒に削ってくれる?」
ティルダが笑って頷くと、フレイは壊れた矢を握りしめたまま工房へ駆け戻った。工房からは槌と金具を探す音がすぐに聞こえ始めた。
レオンは岩壁の別の場所へ移った。エイルが低い斜面の下で安全用の縄を結び、足元の出っ張りを指さしている。
「最初は右足を掛けてみろ。腕だけで上がると楽に思えるが、次の場所まで握力がもたないぞ」
レオンが《身体強化》を腕へ流すと、確かに自分の身体が驚くほど軽く持ち上がった。そのまま手で次の岩を掴もうとしたが、エイルが縄を張って止める。
「今、左足が浮いてるだろう。右足で押せる場所にいるのに、両腕で身体を吊る必要はない」
「分かった、腕が先に楽を覚えたんだな。右足で押すから、縄はまだそのまま取っていてくれ」
腕へ集めていた魔力を右脚へ移す。靴底で岩を押した途端、上半身が思ったより速く持ち上がり、慌てて壁へ胸を寄せた。腹と背中にも魔力を回して姿勢を保つと、今度は脚の力で身体を運べる。
「さっきは腕が楽でも、身体の重さを全部ぶら下げてたんだな。脚を使うと次の手が自由になる」
「そういうことだ。今度は左の岩へ足を移して、腹の力を抜かずに上がってみろ」
レオンは二段続けて登り、上の平たい岩へ手を掛けた。途中で靴底が滑りかけたものの、エイルが教えたとおり脚の位置を直すと持ち直せた。振り返れば、さっきまで目の高さにあった岩が下にある。身体強化を使い始めてから、自分の腕や脚が何をしているか、ここまで意識したことはなかった。
「岩壁を登るとは思ってなかったよ。《身体強化》のコツをもっと早く教わっておけば、荷運びにも使えたかもしれんな」
「道があるなら道を歩け。岩にぶら下がって荷を運ぶ商人なんて、俺だって見たくないからな」
エイルが笑うと、レオンも肩を揺らした。楽だからではなく、自分の身体が思ったとおりに動くのが面白い。もう一度登ってみたくなり、レオンは縄を外さずに岩の下へ回った。
少し離れた平たい岩では、キュウが白い布を目がけて何度も飛んでいた。エイルが最初に置いた布は身体より広く、前脚を着ける場所を見つけやすい。それでも一度目は勢いがつきすぎ、前脚が布の外へ飛び出した。
着地のまま走ってしまったキュウは振り返り、悔しそうに布を前脚で踏んだ。レオンが思わず笑うと、今度は高く胸を張って翼を開く。二度目は布の上に降りたものの、後ろ脚が滑って、鼻先を雪へ突っ込みそうになった。
「キュウ、目標は布の上で止まることだぞ。降りたあとまで走ってったら、向こうの岩棚じゃ困るからな」
レオンの言葉に、キュウは四本の脚を踏み直した。布をじっと見つめ、今度は最初の跳躍を低く抑える。直前で翼を強く打つと、四本の脚がきれいに白い四角へ収まり、身体がその場で止まった。
「きゅう!」
若竜は歓声を上げるように鳴き、翼を高く広げた。ティルダが工房から顔を出して手を叩き、フレイまで削りかけの鏃を持ったまま駆け寄ってくる。
「見たよ、キュウ! さっきよりずっと上手いじゃん。四本とも布の中に入ってたね!」
「こいつ、ちゃんと止まれたな。次は翼を畳んで、そこから向きを変えてみろ。落ちないためには着地したあとも大事だ」
エイルが言うと、キュウは得意になった顔で翼を畳み、白い布から足を出さないよう身体を回した。大きな尾が一度だけ布の外へ掃き出され、本人は慌てて尻尾を上へ持ち上げる。フレイが声を上げて笑い、ティルダは金具を握った手で膝を叩いた。
「尻尾まで入れなくていいから、そんな変な格好しなくても大丈夫だよ。キュウ、もう一回やってみせて!」
キュウは待っていたように布の外へ出て、元の岩からもう一度飛び直した。今度は周りが見ているのが嬉しいらしく、跳ぶ前から尾が落ち着かない。
夕方が近づいた頃、工房から二本目の試作矢が運ばれてきた。鏃は一回り細くなり、張り出しの位置も後ろへ移っている。フレイは同じ岩壁の別の割れ目を狙い、ティルダが隣で紐の束を支えた。
「もう一回撃つよ。これが抜けなかったら、四層で試せる一本がようやくできるんだ」
発射音が窪地へ響き、矢が岩の割れ目の奥へ入り込む。細紐が雪の上へ弧を描いた。フレイが両手で引くと、しっかりした手応えが返る。さらに身体を後ろへ倒して体重を掛けても、鏃の周囲から石の粉が落ちるだけで矢は動かなかった。
「姉ちゃん、抜けないよ! 見て、こんなに引っ張ってもびくともしないんだ!」
ティルダが隣でしゃがみ込み、岩の亀裂を覗いた。嬉しくて仕方がないくせに、職人らしく張り出しの噛み方も確かめたいらしい。フレイが腕を緩めると、今度は姉が紐を強く引き、金具の具合を見て頷いた。
「やったね、フレイ! 奥まできっちり入ってる。まだ直せるところはあるけど、今日はこの一本で十分だよ」
レオンも紐を受け取り、片足を踏ん張って引いてみた。腕に強い張力が返り、先ほどまで練習していた岩登りの感覚が蘇る。あの空洞でも、まず一本が向こうに届けば、自分の身体を使って渡り、仲間のために縄を張れるかもしれない。
「よし、これなら向こうへ最初の一本を渡せるな。明日はあの途切れた道の先へ、実際に足を掛けてみよう」
フレイは紐を握ったまま笑い、ティルダは早く次の金具を作りたいと言い始めた。キュウまで仲間の声に合わせて鳴き、エイルが手を広げると、得意になってもう一度白い布へ飛んでみせる。
レオンは岩壁へ残った一本の矢を見上げた。夕方の光を受けた細紐が、雪の上まで真っ直ぐ延びている。第四層で最初に見えた途切れた道が、その先へ続く確かな道に思えた。




