吟遊詩人は森を揺らします
新しいリュートが出来上がってから、七日ほどが過ぎていた。ロアンがそれを背負って地下へ入るのは、今日が初めてになる。
石戸の前で革紐を掛け直し、楽器の胴を指で軽く叩いてみる。精霊樹の薄い板は、以前のリュートよりよく響いた。三層の大蜘蛛から取った糸で作った弦は、朝の冷え込みで少し硬くなっている。指先が覚えている張り具合とはわずかに違うので、一本ずつ音を確かめた。
「もう調整は終わったんじゃなかったの? さっきも自分の部屋で弾いてたよね」
隣で重弩の肩紐を直していたフレイが、ロアンの手元を覗き込む。
「出来上がった楽器を触るのが楽しいんだよ。フレイだって、さっきから弩の弦を見ているでしょう」
「私は切れてないか確かめてるの。好きで触ってるんじゃなくて、撃つときに困るからだよ」
「僕も似たようなものさ。新しい弦の具合を知っておけば、あとで困らないだろうしね」
言いながらもう一度弦を鳴らすと、フレイは呆れた顔をしたものの、重弩を抱え直しただけで追及はしなかった。彼女が新しい機構を組み上げたときも、必要がないのにレバーを何度も動かしていたことを、ロアンは覚えている。
石戸の前にはレオンとベラ、ティルダ、フレイ、エイル、キュウが揃っていた。レオンは青魔鉄の剣、ベラは《魔力増幅の短杖》、ティルダは槌を持ち、エイルは風の加護を得た弓を肩に掛けている。レオンの腰袋には《空間収納宝珠》も収まっていた。
若竜になったキュウは肩がずいぶん高く、畳んだ翼の先が背中から覗いている。腹を地面につけて待つ姿は以前と変わらないのに、立ち上がると首の位置がロアンの胸に近づいてきた。鼻先を寄せてきたので、ロアンは空いている方の手で額を撫でた。
最後にリュネが革袋を抱えて現れ、緑の糸で口を結んだ小瓶を取り出した。
「回復薬は緑の糸で結んでおいたよ。結び目も薬ごとに違うから、暗いところでも触れば分かるはず。深い傷には早めに使ってね。骨まで折れたら、その場ですぐ戦えるようになるわけじゃないんだから」
「そこまでやられたら、戦うのをやめて戻る。今の目標は三層主であって、怪我自慢じゃないからな」
レオンは小瓶を受け取り、自分とティルダ、ロアンの袋へ分けた。残りはエイルとフレイが持つ。ベラは自分の腰袋を叩いてみせた。
「あたしも持ってるよ。みんな、薬を惜しんで傷を広げるなんて馬鹿なことはしないでおくれ」
「分かってるって。昨日もフレイに同じこと言われたし、ちゃんと使うよ」
ティルダはそう答えながら槌を担ぎ直した。ミラは一行を見送りに出てきて、キュウの翼をひとしきり眺めたあと、本人へ念を押している。
「キュウ。今日は新しい翼を試す日じゃありませんからね。レオンさんのお話をよく聞いて動いてください」
キュウが勢いよく鳴くと、レオンがその頭を軽く叩いた。
「返事だけは昔からいいんだ。飛ぶときも周りを見ろよ、キュウ」
石戸へ手を掛けたレオンを、ロアンは呼び止めた。せっかく新しい楽器を持ってきたのだから、出発する前に一曲くらい聴いてほしかった。
「待って、いつもの曲を弾かせてよ。地下へ入るときは、やっぱりこれがないと落ち着かないんだ」
低い弦を鳴らし、皆が知っている勇ましい曲へ入る。初めてこの曲を弾いた頃は、足取りが軽くなったような気がするだけだった。今は二節目に入ると、指先へ返ってくる振動の奥に別の拍が混じる。音に合わせて、精霊が面白がって足を鳴らしているらしい。
その拍を追いかけたくなり、ロアンの右手が自然に速くなる。自分で作った曲なのに、まだ知らない続きがあるような気がした。
「これ、前より来るね。槌を振る前から、もう身体が前に出そうになるよ」
ティルダが肩から槌を下ろし、握りを確かめた。フレイも足踏みしてみせるが、エイルは弓弦に触れたまま首を傾げる。
「脚が軽くなったんじゃない。動こうとした時のためらいが薄い感じだな」
エイルがそう言って弓弦から手を離すと、レオンも石戸の取っ手から手を放し、ロアンを振り返った。
「この前みたいに止め時が分からなくなるのは困るぞ。今日は戦うんだ、遊びに夢中になるな」
「僕もあんなに歌い続けるつもりはないよ。今日は仲間の足を進めるための演奏だからね」
ロアンは弦を押さえ、音を急がせるのをやめた。精霊の拍はまだ跳ねたが、最後の一節を短く結ぶと、それに合わせておとなしくなる。誰かに従わせたというより、今はここまでなのだと通じたようで、ロアンは少し嬉しかった。
「それじゃ、今度こそ行こうか。みんなの前で弾くより、地下で弾く方が緊張するからね」
レオンが石戸を開けると、冷えた空気が足元を流れた。
◇
一層へ降りて間もなく、氷甲蜥蜴が三匹、通路の曲がり角から現れた。
以前なら相手の位置を見てから、誰がどの一匹を止めるか決めていた。今日は最初の一匹が顔を上げるより早く、エイルの矢が前脚へ刺さった。もう一匹へキュウが走り、低く翼を広げて身体を跳ね上げる。
「キュウ、右から入れ! そいつを壁へ寄せるんだ!」
レオンが声を掛けると、キュウは二歩ほどを飛び越えて二匹目の腹へ肩をぶつけた。足音のあとに短い羽音が重なり、ロアンの指が勝手にその間隔を拾った。
ベラの《炉縁火》が三匹目の進路を塞ぐ。ティルダが踏み込んで槌を落とし、氷の砕ける乾いた音が通路に広がった。ロアンはすでに戦歌を鳴らしていたが、曲を一回りさせる前に三匹とも動かなくなった。
「今の、ちょっと気持ちよかったね。槌が入るところまで、きれいに決まったよ」
ティルダが肩を回すと、フレイは撃たずに済んだ重弩を下ろした。
「楽になったんじゃなくて、気持ちよかったんだ。まあ、今のは私も撃つ暇がなかったけど」
「楽に勝てるのも気持ちいいって。使わなかった弩は、次で撃てばいいじゃん」
ロアンは笑いながら弦を止めた。戦闘の終わりにも、誰かが次の通路を見る音がする。エイルが靴底を返し、レオンが剣の血を払い、フレイはもう弩の機構を確かめていた。以前は一度ばらばらに止まっていた足音が、今日はそのまま次の歩調へつながっていく。
歩き始めてしばらくすると、ティルダが前を歩くフレイの肩へ身を寄せた。
「そういえば二層主の白魔鋼さ、工房の棚がまたいっぱいになってきたよね。そろそろ何か作ろうよ」
「使うところは決めてあるよ。重弩の引き金、鎧の可動部、宝珠の着脱枠。それと短杖の補強にも少し欲しい」
「だったら私の槌の金具も替えようよ。軽くなるし、錆びにくいなら手入れも楽だって」
「槌の頭まで白魔鋼にするのはやめてよ。力を受けるところは青魔鉄の方がいいし、柔らかいところが先に曲がっちゃう」
どちらが姉でどちらが妹だったか、声だけでも分かるようになった。ロアンは二人の話を聞きながら、背中のリュートに添えた手を滑らせた。白魔鋼そのものへの興味は薄い。杯にしたら酒の味が良くなるというなら、喜んで手を挙げるのだが。
「ねえ、その白魔鋼って、発酵に使えないかな。僕はそっちの方がありがたいんだけど」
ティルダが振り返り、槌を担いだまま目を丸くした。
「酒樽を金属で作るの? ずいぶん重くなりそうだし、木の香りも移らないんじゃない?」
「樽じゃなくて、その前だよ。今の圧搾機から落ちる果汁は桶で受けて、一本ずつ樽へ移してるでしょう。同じ日に仕込んでも、樽ごとに泡の立ち方や香りが少し違うんだ」
ベラは後ろから近づいて、ロアンが酒樽を覗いて回る姿を思い出したのか、笑いながら口を挟んだ。
「今くらいの樽数なら、あんたが一つずつ様子を見て回れるだろうけどね。増えたら、そうもいかないか」
「毎日何十本も覗き込んでたら、僕の楽しみが仕事に変わっちゃうよ。仕込みを増やすなら、先に果汁を揃えておきたいんだ」
ロアンが両手を広げてみせると、フレイが歩調を落とした。
「だったら搾った果汁を大きい容器へいったん集めて、混ぜてから樽に分けたら? 木桶より、白魔鋼を張った容器の方が洗いやすそう」
「それだよ。樽ごとの差が減れば、僕は香りや味の違いを見る方に時間を使えるし、酒の出来も揃えやすくなる」
「圧搾機の果汁が触る溝と受けにも薄板を張れると思う。仕込み槽は大きさを決めてからだけど、全部を白魔鋼で作る必要はないよ」
ティルダは楽しそうにフレイの肩を叩き、空いた手で金具を取り付ける形まで描き始めた。
「魔力を通す仕掛けも、あとから足せるじゃん。今は何に使うか決まってなくても、作っておけば次の工夫ができるよ」
「それで、今度はどこに置くんだい? 厨房の横にはもう圧搾機も洗い場もあるんだよ。夕飯を作る場所を空けといておくれ」
ベラのもっともな言い分に、ロアンも頷いた。仕込みが増えるのは嬉しいが、帰ってから食べる夕飯がなくなるのは困る。
「醸造所として区画を取るか。帰ったらミラに空けられる場所を確かめてもらおう」
それまで聞いていたレオンが、先頭を歩いたまま醸造所の話へ加わった。
「白魔鋼の必要量と槽の寸法を出してから決める。ロアンは今ある樽と、次の仕込みで欲しい樽の数を帳面にしてくれ」
「任せてよ。ちゃんと数えるから、その代わり今夜は新しい酒も一本開けよう。いい案が出たお祝いにさ」
「あんたはまだ一枚も白魔鋼を使ってないのに、もう飲む口実を作ってるんだね」
ベラの声を聞いて、ロアンはますます帰ってからが楽しみになった。洞窟へ戻れば、工房で双子に寸法を見てもらい、酒樽を数え、夕飯を食べながらまた相談ができる。帰る場所にそんな仕事が待っているのは、悪くない。
その先で冷気が急に濃くなり、爪が石を擦る重い音が通路の奥から届いた。ロアンが顔を上げると、レオンはもう剣へ手を掛けていた。
「いつもの大きいのが奥にいるよ。さっきよりずっと重たい音が聞こえる」
「予定どおり狩るぞ。前と同じ相手だからって、油断するなよ」
《氷殻大蜥蜴》は、以前と同じ場所で冷気を吐いていた。背中から肩へまとった氷は分厚く、身体の大きさも変わらない。
それでも、戦い始めてすぐ、ロアンには前との違いが分かった。ベラの炎が迷わず右肩の氷を溶かし、ティルダの槌はそこに生まれた亀裂へ入った。キュウは頭ではなく前脚へ低く飛びつき、巨体が傾いたところへレオンの剣が深く入る。
ロアンは短い戦歌で戦場を覆った。エイルの矢が放たれた瞬間、風に押されたように進路を変え、ベラの溶かした裂け目へ刺さる。弓弦の音が響いたのと、大蜥蜴が崩れたのは、ほとんど同時だった。
「今の曲がった矢、ちゃんと裂け目に入ったね。あんなところを狙って当てられるんだ」
「風に任せて大きく曲げたわけじゃない。外しすぎると戻らんが、今のくらいなら使える」
エイルは刺さった位置を確認し、少し得意そうに弓を下ろした。ベラも短杖を収めながら、大蜥蜴の肩を指さす。
「前もあそこを溶かすまでが長かったんだ。弱い場所も、あんたたちの動きも分かってる。次はもっと早くできるよ」
ロアンはリュートの弦を押さえた。自分の曲が役に立ったのは嬉しい。しかし、ベラが氷を溶かす場所を見つけたことまで、楽器のおかげだと思うつもりはなかった。今の一撃には、今日ここで鳴った音だけでなく、前に散々苦労した時間が積み重なっている。
「解体は帰りにする。宝珠へ入れて、先へ進むぞ」
レオンが《空間収納宝珠》を出すと、大蜥蜴の巨体が光の中へ消えた。
「便利だなあ。それだけ大きいと、酒樽もずいぶん運べそうだよね」
「酒の話は帰ってからにしろ。今は二層へ降りるのが先だ」
ロアンは肩をすくめて、仲間たちの後を追った。
◇
二層の骨兵は、以前ほど立ち止まらなければならない相手ではなくなっていた。正面の二体をレオンとキュウが受け、ティルダが横から関節を壊す。別の石室から出てきた一体には、フレイの太矢が胸甲の隙間へ突き立った。
ロアンは戦歌を切らさずに、靴音と金具の音を聞いていた。重いレオンの踏み込み、ティルダの短い足運び、キュウの爪が床を掻く音、フレイが重弩のレバーを戻す音。誰かが動いたあとには、別の身体の音がした。以前は互いの足音が重なっていたのに、今日はそれぞれ違う位置から聞こえた。
《吊魂の墓守》の石室へ着いても、レオンは長々と手順を説明しなかった。
「本体を倒したら灯を狙う。手前はエイル、奥はフレイ。ロアンは本体を崩すまで、いつもの曲を頼む」
「了解。今日はあの夜みたいな宴会にしないから、安心してよ」
「宴会は帰ってからにしろ。今度は俺も喉を守りたいからな」
レオンが石扉を開けると、四つの青い灯を背にした墓守が長斧を上げた。
最初の斧へキュウが肩からぶつかり、柄を外へ押す。ティルダの槌が膝へ入り、レオンの剣が盾の裏から脚を切った。ベラの火が背骨を舐める。ロアンの指は低い弦を刻んでいたが、次の一節に入る前に墓守の巨体が床へ崩れた。
青い灯が膨らみ、エイルの矢が手前の芯を砕く。間を置かず、フレイの重弩が奥の灯を消した。二人の弦の音には違う重さがあった。ロアンが二つを聞き分けている間に三つ目が消え、フレイのレバーが返った直後、四つ目の灯も砕けた。
前に倒したときは、最後の灯が消えるまでずいぶん掛かったと聞いている。今日は数を数える暇もなかった。墓守が起き上がらないのを見て、フレイは重弩を下ろした。
「ねえ、今の最速じゃない? 姉ちゃんたちが本体をすぐ倒したから、撃つ方も楽だったよ!」
「フレイの装填も早かったじゃん。次の灯へ向くところ、ちゃんと見えてたよ」
ティルダが妹の肩を叩くと、フレイは弩を見下ろし、口元を上げた。エイルは二人のやり取りを聞きながら、次の矢を矢筒へ戻している。
ロアンは最後の弦を止めた。勝つたびに一人ずつ上手くなったのではなく、誰かの動きに合わせて次の者が早く動けるようになっている。そのおかげで自分の曲まで短く済んだのが、少し可笑しかった。
「ロアン、三層へ行くぞ。今度は弾く暇が十分にあるかもしれん」
「それは楽しみだけど、僕の曲が長くなるほど苦戦してるってことでもあるんだよね」
開いた階段の向こうから、湿った森の匂いが上がってきた。
◇
三層へ降りると、ロアンの耳に入ってくる音が一気に増えた。
葉が高いところで擦れ合い、枝の先で何か小さなものが跳ねる。近くを流れる水音のほかに、遠くで雫が幹へ落ちる音まで聞こえた。石と骨の反響が続いた二層から来ると、森の空気を吸い込むだけで肩の力が抜ける。ロアンはこの階層が好きだった。
もっとも、好きだからといって気を抜ける場所でもない。先頭のエイルが足を止め、足元の落ち葉を靴先でよけた。
「ここから先だ。前に見つけた大きな折れ跡も、この辺りに集中している」
中央に一本、周囲に六本。ほかより二回りも太い巨木が間隔を空けて立っていた。枝は頭上の高いところで重なり、何本もの蔓が木から木へ渡っている。上の方は葉が厚く、どこに何がいても下からは見えそうになかった。
エイルが示した中央の木には、人の背丈より高いところに折れた枝の白い木肌が残っていた。ティルダが別の幹を叩き、擦り傷の並ぶ場所を見上げる。
「こっちも何度も掴んだみたいな跡があるよ。こんな高いところを移るなら、ずいぶん腕が長そうだね」
「大きいやつがいるとは思ってたけど、実際に動く音はまだ聞いてないよ。止まってたら僕にも分からない」
ロアンは目を閉じた。遠くの鳴き声、枝を流れる水、仲間が踏む落ち葉。耳を澄ませるほど、小さな音が次々に浮かび上がる。何もかも聞こうとしていると、肝心の大きな音を聞き逃しそうだった。
「少し回って探す。七本の木から離れすぎるなよ」
レオンの指示で半周したところで、キュウが鼻先を地面へ寄せた。エイルもしゃがみ、落ち葉の下から灰色の糸を一本つまみ上げる。
「この太さなら、大蜘蛛の糸だ。上を気にして進んだ方がいい」
言い終わる前に頭上の葉が揺れた。二体の大蜘蛛が低い枝から落ち、奥の幹からさらに一体が這い下りてくる。
「三体だ、前へ出すぎるな! キュウは左の一体を止めてくれ!」
レオンが剣を抜き、ロアンはリュートを胸へ回した。
ここで試したかった。仲間を前へ押すのではなく、敵の方の調子を崩す演奏だ。ロアンは低い音を選び、精霊のいる弦へ意識を向ける。
「この辺りにいる魔物の足を乱してくれ。僕らには当てないでほしいんだ」
声に出して頼んだものの、答えは聞こえない。代わりに、弦を払った指へ返る振動が強くなった。ロアンが歌を乗せると、音は太い幹へ当たって、葉の重なる頭上からも返ってきた。
一体目の大蜘蛛が前脚をつく位置を間違えたように身体を傾ける。二体目はキュウへ飛びかかりかけて幹へ肩をぶつけ、そこへティルダの槌が入った。エイルの矢が一体目を貫く。
面白いほど効いた。普段なら慎重に足を運ぶ大蜘蛛が、まるで酔ったみたいに勝手に躓く。三体目もベラの炎に阻まれて足を滑らせ、レオンの剣に腹を裂かれた。ロアンは愉快になり、歌へもうひと節足そうとした。
最初に頭上で太い枝が折れた音は、こちらの歌と蜘蛛の脚音に紛れていた。二本目の枝が裂ける音で顔を上げ、三本目でようやく、頭上にとんでもない重さのものがいると分かった。
「上から何か落ちてくる! みんな、木の下から離れて!」
エイルの声とほとんど同時に、葉の塊が樹冠を突き破った。折れ枝が二本、三本と落ち、そのあとから黒褐色の巨体が現れる。長い右腕が太い蔓を掴み、一度は落下を止めた。だが、次の枝へ伸びた左手が枝の手前で止まり、慌てて掴み直そうとした指先は木肌を掠めただけだった。
蔓が裂ける。巨体が地面へ落ち、落ち葉と土が足元まで飛んできた。
《樹冠大猿》
《第三層階層主》
《未討伐》
大猿が起き上がったとき、ロアンは自分が歌を止めていたことに気づいた。落ちる直前、枝を掴み損ねた左手が妙な所で止まった。蜘蛛の脚がもつれたときと似ている。あの歌が上まで届いたのだろうか。
人の倍ほどの高さがあり、肩から腕へかけての太さが異様だった。額から頬へ灰色の毛が伸び、右のこめかみには血が伝っている。あれほどの高さから落ちたのに、脚はまるで揺らがない。
「なんだよ、今ので起き上がるのか。あれだけ大きな音がしたのにさ!」
ティルダは槌を構えたが、大猿は彼女の言葉を待たずに踏み込んだ。
振り下ろされた右腕へティルダが槌の柄を横にして当てる。骨を打ったような鈍い衝撃音が、ロアンの胸にも響いた。ティルダの靴が落ち葉を削り、半歩ずつ後ろへ押される。
「っ、こいつ重い! でも、押し返すくらいならできるよ!」
ティルダが身体強化で踏みとどまり、槌を返した。大猿は二撃目を受けずに身を引き、左腕を横へ払う。爪が革上着を裂き、ティルダの肩から腕へ血が走った。
「姉ちゃん、腕から血が出てる! いったん下がって薬を使って!」
「浅いからまだ動けるって! 隙を見て薬も使うから、フレイは弩を構えてて!」
キュウが横から飛び込み、黄土色の身体を大猿の腹へぶつける。大猿は片腕で受け止め、腰を落としてそのまま振り払った。キュウの四脚が浮き、翼を広げて着地した先で落ち葉が跳ねる。
まずい、とロアンは思った。あの大きさでティルダを押し返し、キュウまで投げる。見た目以上に速く、地面を蹴るたび周囲の葉が動く。
リュートを弾こうとすると、右手の指が先に走った。胸の奥で心臓が激しく打っている。歌の拍子よりずっと速い。息を吸ったはずなのに喉が詰まり、最初の音を予定より短く切ってしまった。
それでも精霊は返事をした。さっきまで弦の奥で跳ねていた拍が、ロアンの短く弱い音へつられて間延びする。ティルダは次の一歩を踏み出しかけて足を戻し、眉を寄せてロアンを振り返った。フレイも重弩を構え直す。いつもなら槌の音が重なるところが空いたままで、ロアンの指まで頼りなくなった。
ロアンはもう一度歌おうとしたが、心臓ばかりが急ぐ。急いだところで大猿に追いつけるわけでもないのに、指までその速さで動こうとするのが腹立たしかった。
目を上げると、ティルダが傷ついた腕を庇いながら槌を構え、フレイは姉の背後から射線を探していた。エイルの弓には次の矢が番えられている。レオンがロアンと大猿の間へ入り、振り返らずに剣を握り直した。胸の奥ではまだ心臓が跳ねていたが、ロアンはようやく息を深く吸えた。
長く吐く息に合わせて右手を動かすと、弦の拍子と心臓の速さが別々になった。精霊もつられるように軽く弾み、今度は歌の後ろから押してくる。
大猿がキュウへ踏み出し、途中で首を振った。足元を確かめるように一歩止まり、顔を左右へ向ける。エイルの矢がその肩を狙って飛んだ。
大猿は音に反応し、太い幹の陰へ身を寄せる。ところが矢は、幹の縁を通るときに横風へ押されたように曲がり、大猿の肩へ深く刺さった。
「当たったよ! 今のは木を避けて肩まで届いてた!」
フレイの声が上がる。ロアンも笑いそうになったが、大猿は矢を見てからエイルの弓を見た。続いてこちらへ顔を向け、その目がリュートの胴へ止まる。
ロアンの喉がひやりとした。大猿は足元の太い折れ枝を拾い、長い腕を大きく引いた。
「ロアン、そこから離れろ! 今度はそっちを狙っているぞ!」
枝が回転しながら飛んできた。ロアンが身を投げると、頭上を風が抜け、後ろの木から樹皮が剥がれ落ちた。リュートを身体の下へ押し潰さないよう横向きに転がったが、肘から手首まで痺れて音が途切れる。
「いやあ、僕を狙ってきたよね、今の。演奏を聞いてくれるなら、もっと近くで弾いたのに!」
「音を止めたいんだろう。歌うなら動け、あいつは次には逃げる先まで狙ってくるぞ」
エイルは矢を番えながら横へ移り、大猿が次に顔を出しそうな枝の隙間を狙っていた。
「歩き回りながら歌えって? そんな注文をされる吟遊詩人、僕のほかにいるのかなあ」
「今日からお前がその一人だ。俺も上は見るが、自分の足元は頼んだぞ」
ロアンは立ち上がり、楽器を身体へ寄せて走った。弦を払う手が揺れるので、いきなり難しい旋律には戻せない。低い音を二つ繰り返し、足が次の場所へ収まったところで歌へつなぐ。
大猿は中央の巨木へ走ると、長い腕で蔓を掴んで樹上へ戻った。一本目の枝から二本目へ、枝から別の蔓へ。あれほど大きな身体を迷いなく運び、手を掛ける場所も外さない。
木々の間で鳴る音が地上とは変わった。枝が沈み、蔓が引かれ、また次の幹が鳴る。ロアンは音の移る方へ頭を動かしたが、大猿の身体が葉に隠れると見失った。
その隙にティルダは幹の陰へ下がり、緑糸の小瓶から薬を布へ含ませて傷に押し当てた。フレイに布を留めてもらって槌を握り直したが、左肩を動かしたときには顔をしかめていた。
「追えるか、エイル? 上から石を投げられたら厄介だ」
「動きは追える。でも樹上まで追いかける必要はない。あいつの足場で戦えば、こっちが不利になる」
エイルの矢が飛び、大猿は太い幹を盾にした。先ほどの曲がる矢も届かないほど、しっかりと身体を隠している。
「一発で覚えたんだね。あの大きさで、そこまで頭が回るのは困るなあ」
ロアンが呟くと、ベラが短杖を構えながら怒鳴った。
「感心してる場合じゃないよ! あいつ、木の上で何か探してるじゃないか!」
大猿が枝の又から石を掴み、ロアンたちへ投げつけた。一つ目はレオンの胸を狙い、《護風の宝珠》が風を弾けさせて脇へ逸らす。二つ目はティルダの槌が横へ弾き、硬い音を立てて地面へ落ちた。
その音を聞いた瞬間、ロアンの中で違う旋律が立ち上がった。
槌が石を打つ乾いた高音と、精霊の返す低い拍。森はよく響く。弦を少し変えれば、今の二つの音を受けて、ひどく面白い曲にできそうだった。枝が一本軋むたびに、まだ鳴らしていない続きまで聞こえる気がする。
右手が新しい音を探し、左手がついてきた。思いついたばかりの節を試すと、精霊が嬉しそうに応じる。ここには聴衆がいないはずなのに、楽器の中の誰かだけが大喜びしている。ロアンは思わず頬を緩め、次の小節を伸ばした。
まだ鳴らしていない次の音を追いかけるうちに、ロアンは自分が足を止めていることに気づかなかった。
「ロアン! 頭の上を見るんだ、次が飛んでくる!」
エイルの声で顔を上げると、大猿がもう石を構えていた。ロアンは慌てて身を引き、石が落ちる場所から転がり出た。弦を押さえていた指が外れ、耳障りな音が鳴る。
続きを聴きたかった。今の旋律は、二度と同じようには思いつかないかもしれない。それでも、大猿の投げた石はさっきまで自分が立っていた土を深くえぐっている。
ロアンは唇を噛み、指先を元の位置へ戻した。楽器へ宿った精霊が続きを待っているように弦を震わせたが、今はその音を追わなかった。ティルダが負傷した腕を押さえている。レオンはもう一度上へ剣を向け、フレイは枝の先を睨みつけていた。
ロアンは弾きたかった節を飲み込み、短い戦歌へ戻った。あの旋律の続きは、洞窟へ帰ったら弾こう。指が思わず新しい音を探すたび、弦を押さえ直した。
大猿はさらに上へ移ろうとしたが、フレイの重弩が樹上の太い蔓を追い始めた。細い枝はいくらもある。けれど、あの巨体を支えられる道は限られている。
「姉ちゃん、あいつが使ってるのは太い蔓と大きな枝だけだよ。細いところへは全然乗ってない!」
「そりゃあの重さだからね。そこを壊せば、逃げ道がなくなるってこと?」
「そう。中央の木へ戻るときに掴む蔓を切るよ。姉ちゃんは低いところを見てて!」
フレイの重弩が鳴り、大猿の伸ばした手の先で蔓が千切れた。大猿は別の枝へ身体を移したものの、そこにはベラの火が走った。木を燃やさず、ぶら下がった蔓の根元だけを焼き切る。
「森ごと焼くつもりはないよ! あいつが歩ける道だけ減らすんだ!」
蔓が落ち、大猿は唸って別の枝へ飛び移った。頭上で続いていた音の道筋が、少しずつ短くなる。
ロアンは木々の間を歩きながら、短い旋律を保った。余計な節を弾きたくなる指を抑え、精霊に声を掛ける。
「もう一度頼むよ。あいつの頭を少しだけ乱して、掴む枝を迷わせてほしいんだ」
弦の奥で拍が弾んだ。大猿の右手が枝の手前で止まり、何かを探すように目が泳いだ。
今度は落ちなかった。大猿は左手で枝へしがみつくと、自分の右手で頬を強く殴った。ぱしん、と森へ響く音がして、目の焦点が戻る。
「……そんな戻し方をするのか。せっかく乱したのに、ひどいなあ」
ロアンが驚いていると、大猿はさらにもう一度、自分の頬を殴りつけた。今度は頭まで横に振れ、次の枝へ移るときに足を一度滑らせる。
「効いてるな。混乱は戻してるが、自分で頭を揺らしすぎてるんだ」
エイルは弓を構えたまま、枝の上で足を滑らせた大猿を見据えていた。
「それなら、もう少し続けてみようかな。あいつが自分で転んでくれたら助かるしね」
「真下へ落ちてこられても困る。こっちの位置も考えて弾いてくれよ」
ロアンが次の木へ移った瞬間、大猿が枝を折った。やはりこちらへ向かって飛んでくる。ロアンは右へ走ったが、二本目の枝がその逃げ道へ投げられていた。あいつはもう、ロアンの逃げ方まで見ているのだ。レオンの胸元で先ほど石を逸らした宝珠が光る気配もない。
「ロアン、伏せろ! そっちへ行ったらまともに当たるぞ!」
レオンが横から飛び込んできた。肩をぶつけられ、ロアンは楽器を抱えたまま地面へ転がった。太枝の先端がレオンの背から肩へ掠め、革鎧が裂ける音がした。
すぐ近くで息を呑む声がする。起き上がったレオンの肩から血が滲み、左腕が一度落ちた。
「レオン、肩をやられたのか! 僕を庇って、あんな近くまで来たから……!」
「動ける。俺のことはベラに任せて、ロアンは演奏を続けろ!」
言われたとおり指を動かそうとしても、右手が震えていた。怖かったのは、枝が自分の顔へ迫った瞬間だけではない。血の滲んだ肩を見ていると、レオンが間に合わなかった場合より、間に合ったせいでレオンを失う場合の方が急に恐ろしくなった。
ベラがレオンを木陰へ引き寄せ、腰袋から緑の糸で結んだ小瓶を出す。
「ほら、肩を見せな! 浅いんなら薬を使って、早く戻った方がいいだろ!」
「分かってる。ロアンの方を見てくれ、あいつは動きながら歌ってるんだ」
「あんたまでしゃべって動くんじゃないよ! 傷が見えなくなるだろうが!」
ベラの声が届く。レオンは生きていて、ベラが傷を押さえている。前ではエイルが大猿へ矢を向け、ティルダもフレイも攻撃を続けるつもりで足場を探していた。
ロアンは大きく息を吸ったが、以前のように長い節を歌えなかった。肺が縮んだみたいに息が足りず、声が途中で途切れる。それなら、と短い言葉へ歌を分け、低い弦を繰り返す。曲の形は変わっても、仲間へ渡したい拍子は変わらなかった。
精霊がその短い音へ合わせてくる。弦の震えを指に感じながら、ロアンは木の陰を一つ移った。レオンに守られたのだから、せめて今は自分の役目を手放したくなかった。
上から大猿が枝を掴む音が響く。さっきまでの速さがなく、腕に刺さった矢を庇うように体重を移している。自分で二度も頭を殴ったせいか、次の枝を取る前に、ほんの一拍だけ間が空いた。
エイルはその間を逃さず、幹の縁を回る矢を放った。矢尻が大猿の左腕へ深く刺さる。大猿は右手だけで蔓を掴み、身体を揺らした。
「姉ちゃん、今なら落とせる! あいつが下りる枝を叩いて!」
フレイが叫ぶと、ティルダが巨木の根元へ走った。左肩の布にはまだ血が滲んでいるが、両手で槌を握れている。
「傷の方はどうなの、姉ちゃん! 力を入れてまた開いたら困るよ!」
「痛いけど動くんだって! 今こいつを落とせるなら、やらせてよ!」
大猿が下りるために掴んだ太い枝を、ティルダは根元から叩いた。一撃目で木が軋み、二撃目で裂けた。大猿は残った蔓へ手を伸ばすが、フレイの弩はすでにその先を向いていた。
太矢が蔓を切り、大猿が空いた手を慌てて伸ばした。その身体が傾いたところへ、レオンがキュウを呼ぶ声が響いた。
「行け、キュウ! 今度は枝に乗らず、横から身体を当てろ!」
レオンが叫んだ。ベラの手当てを受けたばかりなのに、もう立って剣を構えている。
キュウは地面を蹴り、翼を開いた。大猿が着地点の枝を踏みつけようとする。けれど、キュウはその枝へ乗らず、地面すれすれから身体を斜めに上げて大猿の胴へぶつかった。
右手が蔓を離れ、巨体が地面へ落ちる。すかさずティルダが右腕へ槌の柄を押し当て、身体強化で踏みとどまった。靴が土へ沈み、大猿の腕が少しずつ持ち上がる。
「今度は逃がさないからね! ロアン、もう一回頼むよ!」
ロアンは最後の一節へ入った。声はかすれていたが、指は震えを忘れていた。心臓は相変わらず速く打つ。それでも、音楽の拍子を急がせる必要はなかった。
「ほんの少しでいいんだ。あいつが迷う間を、僕らに分けてくれないか」
精霊が応えた。大猿は左腕を上げ、また自分の頬を殴ろうとする。だが、ティルダを払うべきか、自分の頭を叩くべきか、その腕が途中で止まった。
「十分だ! あとは俺たちで仕留めるぞ!」
レオンが踏み込み、青魔鉄の剣を脇から胸へ深く入れた。エイルの矢が首の横を貫き、キュウが肩へもう一度ぶつかる。巨体が傾いたところでティルダが槌を振り抜き、重い身体を地面へ倒した。
ロアンはすぐに歌を止められなかった。曲の終わりまで弾くべきか、まだ立ち上がる敵がいるのか、判断が追いつかない。弦を押さえたまま見ていると、大猿の指が一度だけ動き、レオンが剣を構え直した。けれど、巨体が再び起き上がることはなかった。
《第三層階層主の討伐を確認》
《地下探索領域 第三層踏破》
《最深到達階層――第三層》
文字が消えたあとも、ロアンはすぐには手を離さなかった。精霊の返す拍が静まり、弦を押さえていた指の腹がじんじんと痛み始める。息を吸うと喉がひりついた。臆病な心臓が、まだ大猿が目の前にいると思っているらしく、胸の中で急いでいた。
ロアンがまだ指を離せずにいる横で、最初に両手を突き上げたのはティルダだった。
「やった! 三層主を倒したよ、フレイ! 今の槌、いいところに入ったでしょう!」
「見てたよ、姉ちゃん! でも左肩を動かしすぎだから、帰ったらちゃんと休んでよね!」
言いながらフレイが姉の掌を叩き、乾いた音が森へ響いた。ティルダは笑って右手をエイルへ差し出し、エイルも弓を下ろして自分の掌を合わせる。ベラが加わると、ティルダは痛む肩を忘れてまた笑い、キュウまで大きな前脚を持ち上げた。
「キュウのその前脚は、僕が叩いたら手を痛めそうだよ。代わりに鼻を貸してくれる?」
ロアンが鼻先を軽く叩くと、キュウは嬉しそうに鳴いて翼を広げた。隣ではベラが、ティルダの怪我をもう一度確かめようとしている。エイルもフレイも、さっきまで緊張していた声で賑やかに話し始めていた。
レオンは剣を下ろす前に一度だけ周囲を見回した。森が静かなことを確かめると、仲間の輪へ加わり、ロアンの前へ右手を差し出す。
「よく弾いたな、ロアン。あいつに狙われても、何度でも弾き直してくれた。助かったぞ」
ロアンは手元のリュートを見下ろした。途中で音を乱したことも、見たことのない旋律に夢中になって足を止めたことも、レオンは知らないかもしれない。自分でも、今ここで弾き直せと言われたら、きっと同じようには弾けない。
「レオンも、よく僕のところまで走ってきたね。あの枝が当たると思って、正直もう駄目かと思ったよ」
「だったら次はもう少し逃げやすいところで弾け。担いで帰るのは御免だからな」
「それは困るな。僕のリュートまで一緒に担いでもらわないと、帰ってから続きが弾けないじゃないか」
レオンが笑い、差し出した掌をもう少し高く上げた。ロアンは楽器を背へ回し、痺れの残る右手で思いきりその掌を叩いた。
乾いた音が森へ跳ねた。胸の鼓動はまだ速く、折れた枝の音も、槌の響きも、仲間の足音も耳に残っている。そこへ最後の掌の音が重なったとき、ばらばらに鳴っていたものが、ロアンの中で一つの和音になった。
樹冠大猿さん。けっこういいキャラしてると思うんですが、炉縁者化の予定はございません。
四章もまだまだ続きます。
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