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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
雪下の冒険

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炉守りは精霊と音を作ります

 朝食の最後に、キュウが三皿目の肉を食べきった。


 皿といっても、キュウ用の浅い木鉢である。一層で獲った蜥蜴肉を大きめに切って火を通したものが、ついさっきまで山になっていた。


 ミラが自分のパンをちぎる間に、一皿目が消えた。スープを飲んでいる間に二皿目もなくなり、三皿目を置いたベラが厨房へ戻るより先に、もう木鉢の底が見えている。


 ミラがもう一皿欲しいのかと尋ねると、キュウは「きゅう」と喉を鳴らし、尻尾で床を二度叩いた。



 ベラは鍋の蓋を戻しながら、キュウの腹を横から見た。


「今日はそこまで。昼の分まで朝に食べたら、あとで腹が苦しくなるよ。ここ半月くらい、前よりずっと食べてるんだから、足りてないってことはないはずさ」


「やっぱり増えてますよね。前は二皿目を半分くらい残す日もありました」


「探索から戻るたびに肉を持ってくるようになったから、よく食べるようになっただけかと思ってたんだけどね。身体もまた大きくなってるよ」


 ミラは椅子から下り、キュウの横へしゃがんだ。


 キュウが大きくなっていること自体は、もう誰も珍しがらなくなっていた。


 この冬に入ってからも脚は太くなり、背負える荷物も増えている。それでも、ここ数日の変化は少し違った。


 毎朝顔を合わせているミラにも分かるくらい、肩の位置がまた高くなっている。丸みの強かった胴は少し長くなり、前脚の付け根には以前よりはっきりと固い筋肉が浮いていた。

 その肩の後ろに、昨日まではなかった膨らみが二つあった。


「ここ、昨日より膨らんでいます。触ってもいいですか、キュウ?」


 指で触れると、キュウは嫌がるより先に身体をくねらせた。痒いところへ手が届いた時のように、後ろ脚が床を掻く。


 キュウは「きゅ、きゅう」と鳴きながら、ミラの指先へ肩を寄せた。


「痒いんでしょうか。痛がるどころか喜んでいますね」


 レオンも食卓の向こうから左右の膨らみを見比べた。


「腫れてる感じでもないな。左右同じだ」


「昨日の夜は、ここまで出ていませんでした」


「なら今日は地下へ連れていかない。まず様子を見よう」


 キュウは自分だけ外されたことが分かったのか、レオンへ顔を向けた。だが、また肉が出る気配がないと悟ると、帰り火の近くへ移動して腹を床につけた。


 ミラが食器を片づけ始めても、キュウはいつものように眠らなかった。


 しばらくすると背中を石壁へ擦りつけ、今度は反対側を擦る。落ち着かないまま主洞を二周し、とうとう入口の方へ歩いていった。


「キュウ、外へ行くなら私も一緒に行きますよ」


 ミラも外套を羽織って追いかけると、窪地には昨夜の雪が薄く残っていた。精霊樹の常緑の葉にも白い粉が乗り、朝日を受けたところから雫になって落ちている。


 キュウは雪の上へ出ると、前脚を伸ばして大きく身体を反らした。


 肩の後ろの膨らみが動き、鱗の間から折り畳まれていた薄い膜が覗いた。キュウがもう一度身体を震わせると、それは左右へゆっくり広がった。


「キュウの背中から翼が出てきました!」


 ミラは思わず一歩近づき、すぐ足を止めた。キュウ自身が驚いている。首だけを無理に後ろへ回し、自分の背中から出たものへ鼻先を届かせようとしていた。


 翼は身体に比べればまだ小さい。広げても、左右を合わせてキュウの胴の長さを少し越えるくらいだった。それでも薄い膜の間には細い骨が通り、朝の光を透かすと淡い黄褐色に見えた。背後では、騒ぎを聞きつけて主洞から出てくる足音が増えていた。


「翼って言ったか? キュウに生えたのか?」


 ティルダが作業用の革前掛けのまま飛び出してきて、その後ろからフレイ、リュネ、エイルも続く。


「翼です。さっきまで畳まれていたみたいで、急に広がりました」


 リュネはキュウのそばへ行く前に、少し離れたところでしゃがんだ。


「自分で動かせてるね。右も左も同じように開いてるし、痛そうな感じもないよ」


「最近、やたら食ってたのはこれか?」


 ティルダが言うと、ベラも入口から顔を出した。


「だったら、あれだけ食べさせた甲斐はあったね。肉が翼になったと思えば、鍋三つ分でも足りないんじゃないか」


 キュウは全員に囲まれ、少し得意そうに胸を張った。


 その瞬間、ミラの視界へ白い文字が浮かんだ。


《第一炉縁者の生育段階変化を確認しました》


《現行職業《幼竜》との一致が低下しました》


《新規職業《若竜》を定義します》


《職業変更候補――キュウ》


《《幼竜》から《若竜》へ変更しますか?》


 ミラは文字を読み終えてから、キュウの前へ回った。


「キュウ。帰り火が、今のキュウには《若竜》という職業の方が合うと言っています。《幼竜》から変えていいですか?」


 キュウは「きゅう!」と勢いよく鳴いて翼を振った。雪が舞い上がり、真正面にいたミラの外套へ白い粒が貼りついた。


《受容意思を確認しました》


《職業を変更します》


《幼竜》

《 ↓ 》

《若竜》


「キュウ、職業が《若竜》に変わりましたよ!」


「おめでとう、キュウ! 立派になったね」


 フレイが近づいて頭を撫でると、キュウは鼻先を彼女の腕へ押しつけた。ティルダも反対側から翼の付け根を覗き、リュネは膜を傷つけないよう指先だけで縁へ触れる。


 キュウはみんなの手を抜け出し、翼を大きく広げながら雪の残る窪地の端へ駆け出した。


「キュウ、待ってください! まだ飛び方も分かりませんよ!」


 ミラが追うより先に、黄土色の身体が雪を蹴った。広げた翼が三度、四度と空気を叩くと、キュウの四本の足が雪から離れた。


「キュウが飛んだ! 今、ほんとに飛んだよ!」


 フレイが叫び、ティルダも雪の上へ駆け出した。


 キュウはそのまま人の背丈ほどまで上がり、五歩ほど前へ進んだ。


 ところが右の翼の動きが遅れると、キュウの身体はあっという間に傾き、雪の上へ腹から落ちた。


 ミラは駆け寄ったが、キュウは自分で頭を上げた。鼻先に雪をつけたまま一度くしゃみをし、また立ち上がる。


「キュウ、腹から落ちましたけど、痛くありませんか?」


 キュウは「きゅう」と鳴いて鼻先の雪を払うと、翼をもう一度広げた。


「次は低く飛んでください。飛べることはもう分かりましたから」


 注意を聞いたのかどうかは分からない。ただ二度目は助走を短くし、地面すれすれを進んだ。


 今度のキュウは落ちずに窪地を半周し、着地の直前に脚をばたつかせながらも、四本の足で雪へ降りた。


 キュウはすぐ三度目へ行こうとしたが、その前に頭を大きく振った。


 乾いた音が一つして、雪の上へ黄土色の角が落ちる。


「あっ、キュウの角が落ちました! 痛くないですか?」


 ミラが拾い上げると、掌より少し長く、先端が欠けていた。


「これ、キュウの左の角です。最初に会った時から先が欠けていた方ですね」


 頭を見ると、角があった場所には短く新しい先端が覗いていた。血は出ていない。


 ティルダがミラの手から角を受け取り、断面へ親指を当てる。


「捨てるなよ。中まで詰まってるし、変な割れ方もしてない。削ったり穴を開けたりはできそうだ」


「これで何か作れますか? キュウの角ですから、取っておきたいです」


「そこは加工してからだよ。珍しい素材だから、使い道を考えてみるよ」


 キュウは自分の古い角より、新しい翼の方が気になるらしい。また窪地の端へ走っていった。


 その途中で急に足を止め、工房のある方向へ頭を向けた。


 少し遅れて、洞窟の奥から重い物が床へ倒れる音が響いた。


「昨日、壁へ立てておいた丸太かもしれない。誰も中にいないのに、キュウは音がする前に向いたよね」


 キュウは前脚を踏み直し、まだ工房の方へ鼻先を向けていた。


 ミラはキュウの足元を見た。雪の下の土へ四本の脚が触れている。


「音がする前に、地面の震えで分かったんでしょうか」


「あり得るな。地下でも、こいつが俺たちより先に足を止めることはあった。飛んでる時にも分かるかは別だろうけど、地面にいる時は覚えておいた方がいい」


 帰り火から新しい表示は出ず、キュウには職業札もなかった。翼で飛べるようになったことも、地面の震えを拾ったらしいことも、技能としてどんな名前とLvになったのか、今のミラには確かめようがなかった。


 ただ、若竜になったキュウは全員に囲まれても少しも嫌がらず、フレイへ鼻先を押しつけ、ティルダの腕へ頭を擦りつけている。身体が大きくなっても、持ち前の愛嬌はむしろ前より強くなったように見えた。


「大きくなっても、そこは変わりませんね」


「前より甘えてない? こっちの腕まで押し返されそうだよ」


 フレイが笑う横で、キュウは新しい翼を大きく広げた。


     ◇


 その日の午後、リュネが工房で乾かしていた精霊樹の枝を三本、主洞へ持ち込んだ。どれも最初の頃の剪定で出た枝で、切る時に精霊へ確かめてあったものだ。


 太い一本はフレイが両手で抱え、残り二本はミラとリュネが一本ずつ運んだ。フレイは三本を工房の床へ並べた。


「机には短いよ。何を作るつもりなの?」


「机じゃなくて、祭壇にしたいの。前から作ってみたかったんだけど、精霊樹が増えて、使っていい枝も十分に取れるようになったでしょう。大きくなくていい。ここで精霊と話して、加護を付けたい物や設備に付与したいの。全部を祭壇の上へ載せるわけじゃないから」


「祭壇って、神殿にあるのと同じもの?」


「形は似てても、使い方は違うよ。精霊を呼んで、ここなら落ち着いて話せるって場所を作りたいの。今の《精霊付与》でも小さい物ならできるけど、長く残る加護を安定させるには、私だけで頑張るより周りを整えた方がいいと思う」


「精霊樹そのものが、精霊と物を繋ぐのに向いてる。これで祭壇を作って、魔力の流れがいい場所へ供えれば、今よりちゃんとお願いできるはず」


 レオンは工房の入口へ肩を預け、祭壇の話を聞いていた。


「場所も関係するのか。どこへ据えるつもりだ?」


「かなり変わるよ。呼べる精霊の強さも、お願いできることも、私の《精霊付与》のレベルだけで決まるわけじゃないの。森でも水辺でも違うし、魔力が薄いところだと、来てくれても長く留まれない」


「この洞窟って、なんかよさそうですね?」


「すごくいい。魔力泉があって、精霊樹が根づいて、洞窟の中も精霊が留まりやすい。外で同じ形の祭壇を作っても、たぶんここほどはできないと思う。私も、こんな場所は初めて」


 エルネが帳面を抱えて工房へ入ってきて、床に並ぶ精霊樹の枝を眺めた。


「形だけ真似して持ってっても駄目ってことか。なら、こいつを売り物にする話より先に、ここで何ができるか試した方がいいな。おら、値段つけるにしても何が起きるか分からねえ物は帳面に書けねえべ」


「売り物にする話は、まだ誰もしてませんよ」


 ミラが言うと、エルネは帳面の空いている頁を指で押さえた。


「んだなあ。商会に長くいるとな、新しい物を見ると先に売り先を考える癖がつくんだ。今日は黙って見てる」


 その日の夕食前には、キュウの右の角も自然に外れた。ティルダは二本を布へ包み、工房の棚へ並べた。


 祭壇作りには二日かかった。フレイは枝を割って反りの少ない部分を選び、四本の脚と厚い天板を組む。ティルダは刃物で角を落とし、硬い節は薄く削った。金具は使わず、同じ精霊樹から作った木栓を打ち込んだ。


 ミラは削り屑を集め、細いものまで袋へ残した。リュネが「それも精霊が寄るかもしれない」と言ったからである。


 置き場所を決める方が、作るより時間がかかった。


 魔力泉のすぐ横では水の気配が強すぎるらしく、リュネは首を振った。主洞の中央は人が通るたびに祭壇の前を横切るので、そこも避けた。


 最後に落ち着いたのは、主洞の水場から少し離れた石壁の窪みだった。帰り火の光は届くが熱は強くなく、魔力泉から流れる細い水路にも近い。そこへ祭壇を据えた途端、リュネが目を丸くした。


「もう集まってる。精霊を呼ぶ前なのに!」


「もう精霊が来たんですか? すぐ来るものなんですね」


「うん。呼ぶ前から何人か……というか、何体って言えばいいのかな。とにかく集まってる」


 ミラには何も見えない。ただ、祭壇の上へ置いた浅い水皿の表面が、風もないのに細かく揺れていた。


「みんな同じ精霊なんですか? 私には見えませんけど」


「全然。ここ、前から変なのが多いんだよ。酒樽の近くからなかなか離れない子もいるし、厨房で肉を焼くと寄ってくる子もいる。魔力の性質だけなら似てても、好きなものがぜんぜん違うの」


 ベラも料理の手を止めて、厨房から顔を出した。


「食いしん坊までいるのかい。キュウと場所を取り合わなきゃいいけどね」


「たぶん大丈夫。精霊は皿から肉を取らないから」


「そこは助かるね。キュウも肉にはうるさいから」


 リュネは水皿へ指を近づけた。表面の波が、指を追うように片側へ寄る。


「森にいた頃も、風が好きとか水辺が好きとかは分かった。でも、ここは酒が好きとか、料理の匂いが好きとか、そういう子が目立つんだよね。居心地がいいと、好みまで出す余裕があるのかもしれない」


 ミラは祭壇の脚がぐらつかないことをもう一度確かめた。


「では、この祭壇で何を作りましょう」


 リュネが食堂へ声を掛けると、ベラやエイル、ロアンも工房へ集まってきた。


     ◇


「鍋に加護をつけたら、焦げなくなる?」


「できるかもしれないけど、最初から大きい鍋は怖いよ。私もこの祭壇を使うのは初めてだし、精霊が何をしてくれるかまで全部決められるわけじゃないから」


「なら鍋は後でいい。焦げない鍋より、焦がさない腕の方が先だね」


 ベラはそう言って、試作用に持ってきた小さな鉄匙を引っ込めた。


 ティルダは自分の槌を持ち上げたが、フレイに視線を向け、少し考えて戻した。


「毎日使う物の方が違いは分かりやすい。でも、失敗して使えなくなると困るよね」


「それなら、効果を確かめやすい物がいいと思う。使う人が元から上手なら、道具が変わった分だけ見分けやすいし」


 フレイの言葉に何人かがエイルへ目を向けると、彼は壁へ立て掛けていた弓を手に取った。


「俺の弓か。使い慣れた物だけに気になるが、壊さずに済むなら試したい」


「《弓術 Lv5》で《風読み Lv4》なんでしょう。弓の違いを見るなら、たぶん一番分かるよ」


「兄さんの弓なら、風の精霊が興味を持つと思う。まず加護が定着しそうか精霊に委ねてみる。難しそうなら途中で止めるから、試してみない?」


 エイルは弦と上弭を順に見た。長く使った弓らしく、握りには手の跡が馴染んでいる。その間にロアンも工房の棚へ目を向けた。


「風の精霊が加護を与えてくれるならありがたい」


 リュネは弓をそっと受け取り、祭壇へ目を向けた。


「僕もお願いしていいかな。ちょうど今、作ってみたい物がある」


 工房の棚には、三層の大蜘蛛から取った灰色の糸束が残っていた。その隣には、精霊樹が育ち始めた頃に剪定し、工房で乾かしていた枝がある。


 ティルダが棚へしまったキュウの抜け角も、二本とも布の上へ置かれていた。


 リュネが灰色の糸を一本取り、指先の間へ張った。しばらく触れてから、ロアンへ返す。


「この糸、魔力を通しやすいよ。普通の弦より、精霊の魔力を音へ乗せるのにも向いてると思う」


 ロアンは作業台へ寄せた三つの素材を、一本ずつ指で示した。


「精霊樹は響きがいい。蜘蛛の糸は今の弦より硬くて、魔力も通る。そこへキュウの角まで増えた。これで新しいリュートを作るなら、普通に同じ物を作るより、精霊にも参加してもらった方が面白そうだ」


「面白そうだから、というだけで決めるのか?」


「僕の楽器だよ。最後はそこが大事でしょう。それに、戦う時にも使う。精霊の加護が乗せられるなら、試す価値はあると思う」


 ロアンは以前のように途中で水へ手を伸ばさなかった。昼のスープも残していない。ミラはそれに頷いてから、祭壇の方へ視線を戻した。


「では、まずエイルさんの弓。その次にロアンさんの楽器ですね」


 リュネは嬉しそうに両手を祭壇へ置き、出来上がったばかりの天板を撫でた。


「うん。二つとも、同じ加護にはならないと思う」


     ◇


 翌朝、エイルの弓を祭壇へ載せると、リュネが弓の上下へ精霊樹の薄片を一枚ずつ添えた。物そのものを作り替えるためではなく、精霊が触れやすい場所を作るためだという。


 祭壇の水皿が揺れ、主洞の中なのにミラの赤い髪が頬へ流れた。弱い風が祭壇の周りだけを一周し、エイルが目を細めた。


「風が寄ってきた。弓に触れるのが分かる」


「うん。来てくれた。兄さんが矢を飛ばす時に、少しだけ一緒に押してほしいって頼んでみる。曲げたい時は、兄さんが狙った流れへ沿ってほしいって」


「勝手に的を選ばないなら、それでいい」


 リュネが頷いて目を閉じると、しばらくして誰も触れていない弓弦が小さく鳴った。


 その日の午後、一行は窪地の外れへ的を立てた。


 雪の少ない場所を選び、厚い丸太を束ねて背後にも土盛りを置く。ミラたちは射線から大きく外れた岩の後ろへ下がった。


 エイルの一射目は普段どおり的の中心へ入ったが、矢尻は見えなくなるほど深く刺さっていた。


「前より深いよ。矢尻が見えなくなってる」


 フレイが丸太の後ろへ回り、突き出していないことを確かめてから矢を抜こうとした。両手で引いても動かない。


「姉ちゃん、手伝って。これじゃ矢が抜けないよ」


「それ、試射のたびに二人で抜くの?」


 二人がかりでようやく矢を抜くと、エイルは命中を喜ぶより先に、矢羽根と弦の状態を確かめた。


「引きの重さはほとんど変わってない。放した後に風が押してる。なら次は横を試す」


 二枚の板を、的へ向かう途中で少しずらして立てた。真っ直ぐ射てば手前の板に当たり、右へ外せば奥の的も外れる位置である。


「兄さん、無理に曲げないでね。どこまでできるか分からないんだから」


「分かってる。最初は指一本分くらいだ」


 エイルの放った矢は手前の板の右を抜け、そこから少しだけ左へ寄って的の外縁へ刺さった。一拍遅れて、フレイが声を上げた。


「今、曲がったよね! 板の先で左へ寄ったよ!」


「曲がりました。板を抜けた時より、的に刺さった位置が左です」


 ミラが雪の上へ立てられた二本の目印を見比べている間に、エイルは次の矢を番えた。


「なんだか風の流れが分かった。今度は中心へ寄せる」


 エイルが放った矢は、弦の音を残して同じように板を避け、今度は一射目よりはっきり弧を描いた。それでも急に向きを変えたわけではない。横から吹く風へ長く押されたように進路をずらし、的の中心から拳一つ外れたところへ突き立つ。


「さっきより、ずっと曲がりましたね!」


 ミラの隣で、ティルダとフレイの声まで重なった。


 レオンも腕を組んだまま、的とエイルを見比べる。


「曲げられる距離には限界がありそうだな」


「ああ。最初から外しすぎたら戻せない。風が矢を飛ばしてくれるんじゃなくて、俺の軌道を後から押してくる感じだ」


 エイルは弓の握りを確かめながら、試射を始めてから初めて笑った。


「かなりいい。これなら森でも枝を避けられる」


 リュネは兄の笑顔を見上げて、嬉しそうに手を叩いた。


     ◇


 新しいリュートは、それから三日かかった。工房で数週間乾かしていた精霊樹の枝から、フレイが胴と棹を削り出した。木目を読んで薄く削り、曲げるところだけ湯気へ当てる。ティルダはキュウの抜け角を細く切り、低い熱で乾かしながら、弦を受ける駒と糸巻きの部品へ加工した。


 灰色の蜘蛛糸は一本のままでは細すぎた。何本かを揃えて撚り、太さを変えて弦にする。


 ロアンは作業台の横へ椅子を持ち込み、削るたびに木を指で弾いた。


「そこ、もう少し残して。薄くすると高い音は出るけど、低い方が軽くなりそう」


「さっきはこっちを削れって言ったじゃん」


「削ったから分かったんだよ。音は作る前に全部決められない」


 フレイは文句を言いながらも削る手を止め、別の場所へ鉋を移した。


 初日に張った一番細い弦は、強く締めすぎて駒を跳ねさせた。


 角の部品が床を転がり、キュウが追いかける。


「キュウ、それは食べ物じゃありません」


 ミラが先に拾うと、キュウは鼻を鳴らして新しい翼を畳んだ。


 二日目になると音が揃い始め、昼食ではロアンがパンをもう一切れ取った。ベラが何も言わず籠を近くへ押した。以前なら途中で休んでいた午後も、今日は日が傾くまで椅子を離れない。


 ミラは薬棚の札を書き替えながら、その様子を何度か目で追った。


 ロアン自身は体調の話をしなかった。ベラも聞かなかった。ただ夕食になれば普通に席へ来て、酒より先にスープを飲んだ。


 三日目の朝、フレイはリュネから木笛を借り、指穴の間隔を細い炭筆で板へ写していた。昼には、精霊樹の端材へ同じ数の穴が開き始めている。


「もう形になったんだ。朝は、まだ棒だったよね」


「この木に空気を通した時の音を試したくて作ってみた。見本にした笛より少し太いから、同じ音にはならないけど」


 出来上がったのは、リュネの木笛より少し短く、穴の縁もまだ粗い笛だった。リュネが吹くと、元の笛より低い音が出た。


「低いね。でもちゃんと鳴る。兄さんなら合わせられるかも」


「エイルも吹くんですか? 笛まで上手なんですね」


「私より上手いよ。前は疲れてたから聞いてるだけだったけど、今度は吹いてもらう」


 その横では、ティルダが細い金属板を長さ違いに五枚吊るし、小さな槌で順に叩いていた。フレイも木箱へ三本だけ弦を張った試作品を作っている。


「楽器って、作り始めると増えるんですね」


 ミラが言うと、ロアンは新しいリュートの棹を撫でながら笑った。


「音が出る物を全部楽器って呼ぶなら、工房は前からかなり楽器だらけだよ。槌も鋸も、毎日違う音を出してる」


「それなら、ティルダさんたちはずっと演奏していたことになりますね」


「本人たちがそう思ってないなら、たぶん違うかな」


 夕方、最後の弦を張ると、ロアンが一音ずつ確かめた。


 古いリュートより輪郭のはっきりした音が出た。高い音は石壁へ当たっても優しく残り、低い音は主洞の奥まで響く。


「これだけでも、前のより遠くへ響くね」


 ロアンはしばらく弾き続けたあと、楽器を胸へ抱えたまま祭壇へ向かった。


「これで楽器はできた。あとは精霊にお願いしようか」


     ◇


 新しいリュートを祭壇へ置くと、今までで一番強く水皿が揺れた。


 リュネが目を閉じたまま、少し困った顔をした。


「多い。音に興味がある子、かなりいる」


「そんなに来てるなら、楽器に合う子を選べる?」


「私が選ぶというより、何をお願いするか伝えて、それに応じたい子が残る感じ。ロアン、どういう楽器にしたい?」


 ロアンはすぐには答えず、一度だけ弦を鳴らした。


「音を聴いた人が動きやすくなったり、聞いてる人の気分が少し変わったり。僕の音を聞いた相手へ、音以外のものも届けられたら面白い。ただ、勝手に誰かの気持ちを作り替えるのは嫌だな」


「それなら、そのまま伝える。演奏に乗せて、聞く人へ働きかける。でも、その人にないものを無理に作るんじゃなくて、今ある気分や身体の調子を後押しするくらい」


 ロアンがもう一度弦を鳴らすと、その音に合わせるように水皿の中央で小さな波が跳ねた。次の音でも水面は跳ね、三つ目の音でリュネが驚いたように目を開けた。


「この子、妙に乗りがいい。音を鳴らすたびに寄ってくる」


「何の精霊なんですか? 私にはさっぱり分かりません」


「分からない。風が強いわけでも、木の感じが強いわけでもない。音を鳴らすたびに喜んでる。たぶん、楽しいこと自体が好きなんだと思う」


「楽しいことが好きな精霊なんですね。ロアンさんと似ています」


「いるみたい。私も初めて会ったけど」


 ロアンは青緑の目を細め、新しいリュートを見た。


「僕には合いそうだな。これから一緒に弾くのが楽しみだ」


「私もそう思う。でも、最初は弱くお願いするからね。この子、放っておくと張り切りそう」


 リュネが祭壇へ両手を添えると、主洞の空気が温かくなったような気がした。実際の温度は分からないが、ミラは胸の奥が軽くなり、何か始めたくて足が動きそうになった。


 リュートの胴へ淡い光が染み込み、弦の下まで広がってから消えた。


「もう終わったんでしょうか? 光は消えましたけど」


「うん。たぶん。ロアン、何か弾いてみて」


 ロアンは祭壇の前へ椅子を引いて音階から短い旋律へ移ったが、ミラには何の変化も感じられなかった。


「静かな曲だと、何も変わりませんね」


「曲が静かだからかな。別のを弾いてみよう」


 ロアンは弾き方を変え、軽い曲を始めた。去年の雪の日に食事のあとで何度か聞いた曲を速くしたもので、ミラも知っていた。


 二小節目でミラの足先が拍を取り始め、三小節目にはベラが木匙を持ったまま厨房から出てきた。


「何だい、その曲。今日はずいぶん景気がいいね」


「加護を試してるんだ。何か変わった?」


「変わったっていうか……鍋を洗ってるのが急に惜しくなった」


 ベラは自分で言ってから木匙を見た。ロアンも弾く手を止めた。


 その瞬間、さっきまであった身体の軽さが少し引いた。


 リュネが祭壇から新しいリュートへ顔を近づける。


「やっぱり魔力が出てた。ロアンの演奏に合わせて、この子が自分の魔力へ何か乗せてる。さっきの曲だと……高揚、かな。元気にする方へ押してた」


「僕の《戦歌》とは違う? 今は技能を使ってないけど」


「違うと思う。《戦歌》はロアンがやってるでしょう。こっちは精霊が、ロアンの音を受けて魔法を使ってる。今分かるのは、さっきの曲で高揚する魔法が出たことまでだよ」


「じゃあ、まずそれがどのくらい効くか見てみよう。僕も、この子がどこまで乗ってくるのか知りたい」


 ロアンは頷き、もう一度軽い曲を始めた。今度は長く続けた。


     ◇


 最初に参加したのはベラだった。厨房へ戻りかけた足を止め、壁際に立て掛けてあった枠太鼓を取る。椅子へ座ったまま革の中央を木匙の柄で軽く叩くと、低い音がロアンのリュートへ重なった。


「木匙で太鼓を叩くんですね。さっきと音が違います」


「手が塞がるより楽だからね。傷をつけるほど強くはやらないよ」


 ベラは一度だけ縁も叩き、音の違いを聞いてから拍を刻み始めた。


 ティルダとフレイは一度工房へ走り、さっきまで試していた変な楽器を本当に持ってきた。ティルダの木枠には五枚の金属板が揺れ、叩くたび違う音が出る。フレイの小箱は三本しか弦がないのに、一本だけ妙に低く響いた。


「その二つ、もう完成したんですか? 朝は作りかけでしたよね」


「完成してないよ。でも音は出るし、今日はこれで混ざる!」


「私のは弦の位置を変えればもっと揃う。今日は揃ってなくても困らないでしょ」


 楽器が増えるほど、ミラの身体へ伝わる高揚も強くなった。ミラも自分のリュートを持ちたくなったところで、ロアンと目が合った。


「ミラ、古い方を持ってきて。もう一年近く弾いてるんだから、今日は聞く側だけじゃなくていいでしょう」


「難しい曲は無理ですよ。音を外さないくらいで、ロアンさんみたいには弾けません」


「同じところを何度か押さえてくれれば十分。僕が上を弾くから、ミラは拍を外さないで」


 壁際の革袋から、使い慣れた小ぶりのリュートを出した。


 最初に教わった頃は、丸い胴が腕の中で落ち着かなかった。今は膝へ乗せれば自然に位置が決まる。左手で覚えている形を押さえ、右手で弦を払った。最初の一音は勢い余って強く鳴ったが、二度目にはロアンが刻む拍へ重なった。


 ロアンが目だけで頷き、旋律を一段高くした。


 ミラは同じ形を繰り返した。難しいことはしていない。それでも、自分の音が消えずに皆の中へ残っているのが分かる。


 リュネも木笛を持ってきて一曲合わせたところで、フレイが短い試作笛をエイルへ差し出した。


「はい。穴の位置はリュネのを写したけど、少し太いから音は低い。吹ける?」


 エイルは笛を受け取り、指穴を一つずつ塞いだ。


「まず音を確かめてみよう。指穴が違っても合わせられるはずだ」


 リュネは嬉しそうに自分の木笛を膝へ載せ、兄の横へ椅子を寄せた。


「前は私だけ吹いたから、今日は兄さんもね。『また今度』って言ったでしょう」


「ああ。今日は俺も吹いてみたい気分だ」


 エイルが試作笛へ息を入れると、低い音がまっすぐに伸びてリュネの音へ近づいた。次の音で息の強さを合わせ、指穴の間隔が違うのに、三度目にはもうリュネの旋律へ入ってきた。


 兄妹の笛は音の高さが少し違った。リュネが上を走ると、エイルが低い方で支え、曲が折り返すところでは何も言わずに役目が入れ替わる。


 ロアンは兄妹の笛が自然に重なったのを聞くと、弦を弾きながら声を上げて笑った。


「リュネが言ってた通りだ。エイルの方が上手いね」


「だから言ったでしょう。兄さん、森で歩いてる時も暇だと吹いてたんだよ」


「お前も吹いてただろ。森にいた頃はずっと一緒だった」


「私は好きで吹くの。兄さんは暇だと練習するから上手くなるの」


 エイルは否定せず、そのまま次の音へ入った。


 食堂の端で杯を片手に拍を取っていたエルネが、やがて杯を置いて立ち上がった。


「この拍、うちの村の冬祭り思い出すな。おらが若い頃は、酒樽開けると朝までこれやってたんだ」


「どんな踊りですか? 私も真似してみたいです」


 ミラが聞くと、エルネは両腕を肩の高さまで上げた。


「難しくねえよ。右へ二つ行って、手ぇ返して、左へ二つ。あとは輪になってりゃ何となく合う」


 エルネは説明するそばから右へ二歩踏み出し、手首を返して今度は左へ二歩進んだ。


 足はゆっくりなのに、腕の動きだけ妙に細かい。何を表している踊りなのか、ミラにはまったく分からなかった。


「エルネさん、上手ですね。手の返し方が難しそうです」


「そりゃ子どもの頃からやってるからな。ほら、おめらも立て。座ったままじゃ祭りにならねえべ」


 ティルダが最初に立ち、金属板の枠を持ったまま輪へ入った。フレイも三弦の箱を抱えて続く。


 ミラもリュートを抱えて立ち上がり、エルネの後へついて右へ二歩動いたが、両手が塞がっているので身体の向きだけで踊りを真似た。


 キュウが輪の中へ入り、尻尾を床へ打ちつけた。新しい翼まで半分開き、拍が強くなるたび羽ばたく。


 楽器と足音が増えるほど食堂は賑やかになり、新しいリュートへ宿った精霊まで喜んでいるらしい。祭壇の水皿が曲の拍に合わせて小さく跳ねていた。


 食卓の端から眺めていたレオンも、いつの間にか腕を組むのをやめ、片足で拍を取り始めていた。


「レオンも歌う? さっきから足で拍を取ってるじゃないか」


 以前ならすぐ断っていたはずのレオンが、今夜は杯を置いた。


「俺が歌えばまた音を外すぞ。それでもいいなら混ざる」


「知ってる。低いところから入って。今日は誰も途中で止めないよ」


「なら勝手に合わせろ。俺は遠慮なく歌うぞ」


 レオンが息を吸うと、低く深い声がリュートや笛より下から洞窟全体を支えるように響いた。


 二つ目の音で声が外れ、三つ目に入る頃にはエイルとリュネの笛とは別の旋律になっていた。


 それでも曲は止まらず、ロアンは一瞬だけ眉を上げたあと、レオンの声の隙間を縫うように弦を動かした。兄妹の笛は正しい旋律を保ち、ベラの太鼓が拍を刻み続ける。


 レオンの声だけが、低く、力強く、どこにも着地しないまま石壁を巡った。


 ミラは弾きながら笑った。一年前なら四つ目の音で全員が止まっていた。


 今夜は止める方が難しく、エルネの踊りの輪へベラまで加わった。枠太鼓を片手に抱えたまま右へ二歩、左へ二歩と進む。ティルダの金属板が一枚だけ拍から遅れ、フレイの低い弦が時々別の音を出す。それでも、誰もやめなかった。


 ロアンが曲を速くすると、ミラの身体へ流れ込んでくる高揚もまた一段強くなった。


 疲れているはずなのに足が前へ出る。次の音を鳴らしたくなる。隣の誰かが笑うと、こちらまで声が出る。


 むしろ、普段なら「明日でいい」と思うところが、全部「今やろう」に寄っている。


 ミラはもう一度、指が覚えている形を押さえて弦を払うと、今度は拍に乗った音がきれいに重なった。


     ◇


 翌朝の食堂は妙に静かだった。酒にひどく酔った者はいないのに、皆疲れ切っている。


 空いた酒瓶の数も、普通の祝いの日より少ないくらいだった。それなのに、エルネは膝を擦りながら椅子へ座り、ベラは昨夜酷使した右の掌を揉みながら、壁へ戻した枠太鼓を見てため息をついている。


 ティルダの金属板は食卓の下へ置かれ、フレイの三弦箱はなぜか入口近くにあった。


 レオンは水を飲んでから、喉を一度押さえた。


「……昨日、何だったんだ。何であんなに歌ったんだ?」


「昨夜のことなら、私も全部覚えていますよ。楽しかったですね」


 ミラが言うと、レオンは暗い灰色の目を向けた。


「覚えてるから聞いてるんだ。止め時が分からなかった」


 向かいではエイルが試作笛を布で拭いていた。リュネは朝食より先に新しいリュートを祭壇へ置き、しばらく目を閉じている。


 ロアンはその横で水を飲んでいた。体調を崩した時のような顔色ではない。ただ、少し眠そうだった。


「分かった。たぶん、この子が楽しすぎたんだと思う」


「精霊が? あいつまで宴会を楽しんでたのか?」


「うん。昨日あれだけ長く鳴ったから、この子がどう魔力を乗せてたのか、今は前より分かる。最初はロアンの曲に合わせて、高揚する魔法を弱く乗せてた。でも、みんなが楽器を増やして、踊り始めて、歌まで入ったら、この子もどんどん魔力を出してたみたい」


「おらが二十年ぶりにあの踊りを最後までやったのも、それか?」


「踊りたくないのに踊らされたわけじゃないと思う。昨日、嫌だった?」


「いや。むしろ途中から、まだ終わるなって思ってたな」


「たぶん、それを押されたんだよ。元からある気分を強くする感じ。この子は、ロアンの演奏に合わせて、味方を落ち着かせたり集中しやすくしたりする方にも、相手の集中や調子を崩す方にも魔力を乗せられるって。何でも好きに変えられるわけじゃないけど、出し方は練習しないと危ないね」


 ロアンは新しいリュートを膝へ移し、精霊樹の胴を抱え直した。


「僕だけじゃなく、この子の加減も覚えないといけないわけだ」


「そう。昨日はたぶん、ロアンより精霊の方が宴会を続けたがってた」


「それは困るなあ。僕より宴会好きが楽器の中にいるとは思わなかった」


 本当は困っていなそうなロアンが、確かめるように弦を一本だけ鳴らした。


 短い音が石壁へ当たって普通に消えるまで、食堂にいた全員の手が一瞬止まっていた。誰も踊り出さず、レオンが水杯を置いた。


「今日はそれで終わりにしろ。俺の喉がもたない」


 ロアンが素直に両手を弦から離したとき、誰も見ていない祭壇の水皿が楽しそうに揺れていた。


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