炉守りは冬に森を増やします
朝食の皿を片づけながら、ミラはロアンの前で手を止めた。ベラが焼いた黒パンは、割った時にはまだ湯気が上がっていたのに、皿の上で半分だけ冷えている。
昨夜も煮込みを残していたうえ、その前は干し肉を一切れベラへ返し、林檎酒も一杯でやめている。いつもなら食べ終わるのが遅くても、酒とつまみだけは最後まで手放さない人だった。
「ロアンさん、今日もパンを半分残してしまうんですか?」
ロアンは水の入った木杯を持ったまま、皿へ目を落とした。
「よく覚えてるね。パンの半分まで数えられると、さすがに誤魔化しにくいな」
「昨日はお肉を残して、その前はお酒も一杯だけでした」
「食べられないほどじゃないんだ。ただ、ここ一週間くらい、朝になると少し気持ち悪くてね。酒を減らしても変わらないから、酒のせいでもなさそうだ」
向かいに座っていたベラが匙を止め、ロアンの皿へ険しい目を向けた。
「一週間も黙ってたのかい。今夜は脂を減らす。ひどくなる前にリュネにも話しな」
「そこまで大事にするほどじゃないよ。昼にはだいたい戻るし、パンも昼に食べる」
ロアンが残ったパンを布へ包む様子はいつも通りで、顔色も声も変わらなかったが、席を立った時に一度だけ、みぞおちの辺りへ手を当てた。
ミラは空いた皿を重ね、ロアンが食堂を出ていくまでパンの包みに目を留めていた。
あとでリュネにも聞いてみようと思ったところで、洞窟の入口からレオンの声がした。
「ミラ、昨日の枝を出すぞ。リュネもいるか?」
「はい、リュネさんなら薬草をまとめているところです」
薬草を束ねていたリュネが、すぐ立ち上がった。
◇
窪地には薄く霜が降り、歩くたびに靴底で白い粒が砕けた。
畑は収穫を終えて土を休ませ、林檎も葉を落としている。夏から秋にあれほど忙しかった枝が、今は何も増やさない季節だった。木立を抜ける風には遮る葉がほとんどなく、ミラは外套の襟を顎へ引き寄せてから、レオンの手にある灰色の枝へ目を戻した。
レオンが《空間収納宝珠》から、二層の宝箱に入っていた灰色の枝を取り出した。
枝は肘から指先ほどの長さしかなく、葉も芽も見当たらなかった。乾ききって見えるのに、樹皮は親指で押しても崩れなかった。
リュネは両手で枝を包み、樹皮の内側に何かを探すように指を動かしてから、しばらく黙った。
「枯れてないよ。見た目は乾いた枝だけど、精霊たちはまだここにいる。死んでるというより、ずっと眠ってたみたい」
フレイは横から枝先を覗き込み、二股になったところへ指を寄せた。
「これ、生きてるの? 葉も芽もないし、昨日見た時は本当に枯れ枝にしか見えなかったよ」
「土と水があれば起きるって。魔力の多いところが好きで、普通の木より精霊が集まりやすい種類みたい」
レオンは昨日の《素材鑑定》を思い出すように枝先へ目を向けた。
「名前まで分かるか? 俺の鑑定じゃ樹種不明で止まった。持ち帰ったはいいが、呼び方もないままだ」
「人間が昔どう呼んでたかまでは分からない。でも、精霊たちが伝えてくる感じなら、私は精霊樹って呼ぶかな。木そのものより、精霊が集まることを先に教えてくるから」
ミラは、まだ枝にしか見えないそれを見直した。
「これが本当に木になるなら、植える場所も先に考えた方がよさそうです。窪地の中は畑と作業場が増えていますし、大きくなってから動かすのは無理ですよね」
大木になれば日を遮るし、旧道から見える場所へ植えるのも避けたかった。
「林へ続く坂の向こうなら、ここから近くて旧道から見えません」
レオンも坂の向こうへ顔を向け、林道と畑との距離を目で追った。
「水も運べる。根が広がっても畑には届きにくいな」
ティルダが鉄鍬を持ってきて、凍り始めた表土を割った。刃先の下から黒い土が現れると、ミラは膝をつき、指でほぐした土を枝の根元へ寄せた。水を吸った土の冷たさが手袋越しに伝わったが、魔力泉の水を一桶注いでも枝は灰色のままだった。
二桶目を汲んで戻ると、フレイがしゃがみ込んでいた。
「ミラ、ちょっと来て。ここ、さっきと違う」
二股になった枝先に、爪の先ほどの緑がついていた。
「水を汲みに行く前にはありませんでした。こんな短い間で芽が出たんですか」
「私も最初に見た時は何もなかったよ。枝の先まで灰色だったから、間違いない」
リュネはまだ小さな芽へ指を近づけ、幾度か頷きかけてから首を傾けた。
「まだ水が欲しいって言ってる。起きたばかりで、今は吸えるだけ吸いたいみたい」
「一桶で芽が出たのに、まだあげて大丈夫なんですか? 普通の木なら水をやりすぎるのも怖いです」
「私もそこは気になったけど、精霊は止めるどころか足りないって言ってる。今日は様子を見ながら、もう一桶ずつにしよう」
三桶目を注いだ夕方には芽が三つに増え、ミラは指で数え直してから水桶を片づけた。
夕食の前にもう一度見に行くと、最初の芽は指の腹ほどの葉を開いていた。
ミラは枝の横へ細い棒を立て、朝の高さへ麻紐を結んだ。
「ミラ、こんなところに棒を立てて、何をしてるんだい?」
ベラが夕食用の根菜を入れた籠を抱えて立っている。
「朝からどれくらい伸びたか、明日分かるようにします」
「一晩でそこまで伸びる前提なんだね」
「今日だけで芽が三つ増えたんですから、明日もきっと変わります」
「じゃあ、朝には紐を追い越してるかもしれないねえ」
翌朝、葉は麻紐より拳一つ上まで伸びていて、ミラが結び目へ指を当てると、新しい葉の先が手袋をくすぐった。
◇
三日後、あれほど頼りなかった灰色の枝が、ミラの背丈を越えるほど伸びていた。
冬なのに濃い緑の葉をつけ、幹も両手では足りないほど太くなっている。水桶を持って坂を上がると、昨日まではなかった葉陰が霜の上へ落ちていた。ミラは桶を下ろす前に幹へ近づき、まだ新しい樹皮へ掌を当てた。指の腹に柔らかい凹凸が引っ掛かり、見上げると葉の裏側まで緑が透けて見えた。
ミラは霜の残る土を踏みしめて根元へ近づき、二桶目の水を幹の周りへ注いだ。
「昨日も四桶あげたのに、朝には土の表面が乾いていました。林檎の苗でも、こんな飲み方はしません」
「それでも、まだ欲しいって。それと水だけじゃなくて、今度は灰の方を気にしてるみたい」
リュネは幹へ掌を当てたまま、洞窟の入口側へ顔を向けた。
「炉の灰ですか? 畑には入れていますけど、量を間違えると根を傷めます」
「畑に混ぜてるのを精霊も見てたみたい。少し欲しいって言ってる。でも、どれだけならいいかまでは伝わってこない」
炉灰は畑にも使うが、多すぎれば植物を傷める。ミラは小匙で量り、根元から離した土へ一杯だけ撒いた。
水で流し込むと、風もないのに精霊樹の葉が幾枚も重なって揺れた。
リュネは幹に触れたまま、葉が鳴るたびに楽しそうに目を細めた。
「気に入ったみたい。もう少し欲しいって言ってるけど、一気に増やさなくていいと思う」
「では、もう一杯だけにします。喜んでいるからといって、こちらまで勢いに合わせるのは怖いです」
「うん。その方がいいよ。精霊は好き嫌いならすぐ言うのに、匙何杯って聞くと急に曖昧になるから、量を決めるのはミラの方が向いてる」
翌朝には幹がさらに太くなり、ミラが昨日巻いた麻紐が樹皮へ食い込みかけていた。
ミラは前日に結んだ麻紐を一段上へ移し、新しい位置に小さな結び目を作った。三日続けると、棒の上には間隔の違う印が三つ並んだ。最初の二日につけた印の間隔は広く、三日目に結んだところだけが狭くなっている。
「最初の二日より間隔が狭くなっています。伸び続けてはいますけど、同じ速さではないんですね」
「水の量だけじゃなくて、土に根が馴染んできたのかもしれない。精霊はずっと元気だって言ってるし、苦しそうな感じはないよ」
「元気なのは安心ですけど、三日で私より大きくなると、元気すぎる気もします」
リュネはミラの顔を見て声を立てて笑い、幹へ当てていた掌を離した。
その日の午後、ミラは王都で買った植物の本を開いた。
挿し木の頁には、若枝を斜めに切り、葉を減らして土へ挿す方法が図入りで載っている。
「本には若い枝から増やせるとあります。精霊樹でも同じことをして大丈夫か、聞いてもらえますか?」
リュネが精霊樹へ尋ねると、枝の先を追っていた視線をミラへ戻し、すぐ頷いた。
「大丈夫だって。むしろ切っていい枝まで教えてくれるから、嫌がってはいないよ。試すなら、その枝からがよさそう」
フレイが細い鋸で若枝を一本落とすと、切り口から透明な樹液が滲み、ミラは陶器の小皿を差し出して受けた。
「この樹液も使えそう。ちょっと小皿へ採っておいていいかな?」
リュネは小皿へ垂れた透明な樹液へ顔を近づけ、濡れた表面を確かめた。
「薬そのものじゃないけど、他の薬材の魔力を繋ぐのに向いてるかもしれない。少し取っておきたい」
「樹液も採って大丈夫なんですか? 枝を切ったばかりですし、弱らせるなら今日はやめます」
「ここから出る分は採っていいって。幹を傷つけて無理に出すのは嫌みたいだけど、切り口から出る分なら大丈夫そう」
最初の一本が根づいたのを見てから、ミラは数日かけて挿し木を増やした。
親木を傷めたくなかったので、ミラは最初から若枝を多く切りすぎるつもりはなかった。それでも精霊樹が「ここなら大丈夫」とリュネへ伝えるたびに一本増え、気づけば十数本の若枝が、親木の周囲へ間隔を空けて並んでいた。
普通の木なら、全部が根づくとは思っていなかった。
ところが数日後には、どの枝にも新しい葉が出ていた。細いものまで土をしっかり掴み、軽く触れた程度ではもう揺れない。
「一本くらい駄目になると思ってたんですけど」
ミラが端から根元を見て回ると、リュネもしゃがんで一番細い株へ触れた。
「私も。精霊たちは、みんな元気だって言ってる。ここの水と土、かなり好きみたい」
「それは嬉しいです。でも、このまま全部大きくなったら、少し狭いですね」
挿した時には十分に見えた間隔も、葉が広がり始めると急に近く感じる。親木の外側には、もともと生えていた普通の若木も何本か残っていた。
その日の午後、ティルダが斧を担いでやってきた。
「精霊樹を切るんじゃなくて、こっちを空ければいいんでしょ?」
「はい。せっかく全部根づいたので、この子たちは残したいです。日が入りにくくなりそうな木だけお願いします」
「じゃあ三本くらいだね。それ以上は、もっと大きくなってから考えよう」
ティルダは周囲を一度見回してから、枝の重なっている若木へ斧を入れた。
三本目が倒れると、冬の薄い日差しが親木の根元まで届いた。ティルダが額の汗を手の甲で拭って斧を肩へ戻すと、精霊樹の枝が風を受けていっせいに揺れ、切り開いた地面へ細かな葉影を落とした。
ミラは枝の下から畑と洞窟の入口を振り返り、以前の景色を思い出した。少し前まで、ここから見る坂は冬枯れの木ばかりで、吹き下ろす風の音にも変わりがなかった。今は自分たちが植えた緑が、その風に応えている。冷たい空気を頬に受けているのに、肩から力が抜けるのが惜しくて、ミラはしばらく葉擦れを聞いていた。
「ここを通る時、前は風の音しか聞こえませんでした。今日は葉っぱの音がします。私たちが植えた木の音なんですね」
「そうだよ。ミラ、ほら、あっちの枝も風が当たると揺れる。まだ細いのに、ちゃんと木になってる」
リュネが一番小さな挿し木を指さし、ティルダも斧を下ろして並んだ。ミラは誰かに見せたくなり、日向に残る二人の足跡を確かめてから、もう一度緑の枝を見上げた。
切った木も捨てず、枝葉は砕いて堆肥に回し、真っ直ぐな部分は工房へ運ぶことになった。
◇
精霊樹の世話が忙しくなる一方、地下へ降りる組も冬の間ずっと探索を続けていた。
一週間ほどすると、第一層の氷殻大蜥蜴が再び現れた。
その日の夕方、探索組は《空間収納宝珠》に収めた氷殻大蜥蜴を丸ごと持ち帰った。洞窟へ戻ってから解体し、ベラが使う肉と内臓を選び分け、残りもすぐ冷蔵室へ運ばれた。
その翌朝、レオンたちが二層へ降りていったあと、ミラは食堂に残って朝の片づけをしていた。
帳面を閉じたエルネが冷蔵室から戻ってきて、食堂の卓へ小さな皿を載せた。暗い赤色の薄切りが三枚、互いに重ならないよう並んでいる。
「ミラさん。前に、氷殻大蜥蜴の内臓は妙に美味しそうだという話をしたのを覚えていますか。昨日また持ち帰りましたし、少しだけ試してみようと思いまして」
「覚えていますけど……それ、昨日のレバーですよね。焼く前に、ですか?」
「まだ焼いていません。このまま味を見ようと思いまして」
エルネは言い切ったあとで、食堂の入口へ一度だけ目を向けた。廊下に誰もいないのを確かめてから、皿をほんの少しミラの方へ寄せる。
「商売をしていた頃、内臓を生で食べる土地があるとは何度か聞きました。牛や鹿の話でしたし、私自身は食べたことがありません。ただ、昨日の氷殻大蜥蜴は討伐後すぐ《空間収納宝珠》へ入れて、戻ってから解体し、そのまま冷蔵室へ入っています。匂いも色も見ましたが、傷んでいる様子はありませんでした」
「ところで普段と話し方が違いますね。……ベラさんには聞きました?」
エルネは皿の端を指先で押したまま、ミラの返事を待つように顔を上げた。
「聞いていません。聞けば、おそらく『火を通せ』で終わりますから」
「それ、駄目なことをしている人の言い方ですよ」
「私も口にしてから、かなりそう聞こえると思いました。ですから味を見るだけです。三枚ありますが、一枚で変だと思えばそこでやめます」
「三枚ある時点で、一人で終わらせるつもりじゃなかったんじゃないですか?」
「そこは……ミラさんなら少しくらい興味を持つかもしれないと」
エルネは後半になるほど声を落とし、ミラの手元の皿へ視線を移した。
ミラも気になって皿から目を離せず、焼いた内臓とは違う切り身の滑らかな表面と、嫌な匂いのないことを確かめた。
「エルネさん一人で食べて、あとでお腹が痛くなったら困ります。私も一枚だけ食べます」
「それは安全確認になっていませんよ。二人とも駄目になる可能性が増えるだけです」
「でも、二人とも平気なら少し安心できます」
「二人ともお腹を壊した場合は、どうするつもりですか?」
「ベラさんに、二人並んで怒られますね」
「それは想像したくありませんね。……ですが、ここまで話しておいて片づけるのも惜しい」
「私も、もう味が気になってしまっているんです」
エルネは一度咳払いし、ミラも皿から目を離さなかった。二人とも口ではあれこれ言っているのに、皿を片づけようとはしなかった。
先に一枚取ったエルネに続き、ミラも薄切りを摘まむ。ほとんど同時に口へ入れると、しばらくは噛む音だけが卓の上に残った。
エルネは慎重に二度、三度と噛み、やがて眉間の力を抜いた。
「……美味しいですね。もっと鉄っぽい味が強いと思っていましたが、これはかなり甘みがあります」
「焼いた時より柔らかいです。舌に残る感じはありますけど、嫌な感じじゃないですね」
「困りました。美味しくなければ、一度試して終わりにできたんですが」
「私も同じことを思いました。次に持ち帰った時、たぶん思い出します」
「そう言われると、私だけの責任ではなくなった気がして少し安心します」
「エルネさん、それで安心するのは違うと思いますよ」
二人とも笑いかけて、残った一枚へ同時に視線を戻した。
そこへ廊下から足音が近づき、ミラが皿から顔を上げる前に食堂の扉が開いた。
「二人で何してるの? さっきから声、小さいよ」
入ってきたのはリュネで、三人分の皿が並んだ卓へまっすぐ近づいてきた。
エルネの肩がわずかに跳ね、ミラも皿を隠しかけたものの、自分でも不自然だと思って手を止めた。
「氷殻大蜥蜴のレバーを食べていました。生で」
ミラがどう答えるか迷っているうちに、エルネが観念したように先に白状した。
リュネは皿を覗き込んだあと、二人の顔を順番に見た。
「ところでエルネ、普段と話し方違うね? 生で? 焼いてないのに、二人とももう食べたの?」
「はい。昨日倒したばかりで、討伐後すぐ収納し、戻って解体してから冷やしてあります。もちろん安全だと言い切れるわけではないので、少量だけですが」
「それは聞いたけど、二人とも食べてみておいしかったの?」
エルネの長い説明を、リュネはそこだけ拾った。
「……美味しかったです。少なくとも、二人とも今のところは」
「ミラも、もう一度食べたいくらいおいしかったの?」
「はい。私は焼いたものより好きかもしれません」
「じゃあ、その残ってる一枚、私も食べたい。二人だけ味を知ってるのはずるい」
「リュネさん、今の説明の前半も聞いていましたよね。生ですよ」
「聞いてたよ。でも二人とも食べて、おいしかったんでしょう? それに昨日の肉も美味しかったし、内臓だけ急に肉じゃなくなるわけじゃないよ」
その理屈でいいのか、ミラには分からなかった。
エルネは最後の一枚を見つめ、もう一度リュネの顔を確かめてから皿を寄せた。
「では、本当に一枚だけです。変な味や匂いがしたら、我慢せずすぐ出してください。私たちが平気だったからといって、同じとは限りません」
「分かった。そういうところはちゃんとする」
リュネは薄切りを口へ入れ、急いで飲み込まずに何度か噛んだ。やがて目を丸くし、皿に残った赤い汁まで確かめるように眺めた。
「これ、おいしい。焼いた肉より柔らかいのに、味は濃いんだね。もう少しないの?」
エルネの口元は、リュネがもう一切れを欲しがった途端、隠しきれないほど緩んだ。
「レバーはまだあります。心臓も少し残しています。地方によっては『ハツ』というらしいです。実はそちらも気になっていたんです」
「ハツも生で食べるの? それなら比べたい」
「リュネさん、完全に参加する側ですね」
「ミラも食べるでしょう? 一人で食べさせるのは心配なんじゃないの?」
「……それを言われると、食べない理由がなくなりますね」
「三人なら味の違いも分かります。誰か一人の思い込みではない、と言えますし」
エルネは自分の皿にも切り身を足しながら、もっともらしい理屈を付け加えた。
「エルネさん、さっきから食べる理由を増やしてませんか?」
「増やしています。自分でも分かっています」
それでもエルネは冷蔵室へ戻り、今度は心臓を持ってきた。薄く切り分ける時、自分の皿よりミラとリュネの皿へ置いた二切れの方が、ほんの少しだけ大きかった。
ハツはレバーより弾力があり、噛むたびに肉の味が濃くなる。
「私はこっちの方が好き。ちゃんと噛んでる感じがするし、脂っぽくない」
「私はレバーの方ですね。これは酒にも合いそうです。薄く切って、少し塩をつけてもいいかもしれない」
「エルネさん、もう次の食べ方まで考えていますよ」
「美味しいものを見つけたら、何と合わせるか考えるのは普通でしょう。……ベラさんには言いにくいですが」
「そこだけ急に声を小さくしないでください」
また足音がして、今度はロアンが食堂へ入ってきた。
三人が一つの皿を囲み、エルネが包丁まで出しているのを見て、入口で足を止める。
「ずいぶん静かな食事会だね。何をそんなに隠すように食べてるの?」
「氷殻大蜥蜴のハツです。生で食べてみたら、思っていたよりずっと美味しくて」
ミラが答えると、ロアンは皿と三人の顔を見比べた。
「……なるほど。先に一つ聞くけど、ベラは知ってる?」
三人とも答えず、ミラにはエルネの皿の上の赤い汁まで目立つように思えた。
「その沈黙でだいたい分かったよ。僕は焼いた肉なら喜んで食べるけど、今日は遠慮しておく。わざわざベラに怒られる側になるほど、内臓に思い入れはないからね」
「本当においしいよ。ハツの方が私は好き」
「君、野菜はあんなに嫌がるのに、生の内臓はためらわないんだね。肉好きなのは知ってたけど、そこまで徹底してるとは思わなかったよ」
「だって、これは野菜じゃないから。野菜は苦いけど、これはおいしい」
「肉か野菜かだけで決めるのは、ずいぶん大ざっぱだなあ」
ロアンは少し離れた席へ座り、それからは三人の皿へ目を向けなかった。
内臓の試食をこっそり終えたつもりだったが、秘密はその日の夕方にはあっさり露見した。ベラは冷蔵室の肉を取り出そうとして、レバーと心臓の包みが予定より軽いことに気づいたらしい。
「生で食べたって!? 三人とも、私に黙って魔物の内臓を切ったのかい!」
ベラの大きな声が厨房から食堂まで響き、戸口にいたミラは思わず肩をすくめた。ミラとリュネとエルネは卓の前へ並び、エルネが代表するように一歩だけ前へ出た。
「昨日倒したものはすぐ《空間収納宝珠》へ入れて、戻って解体してから冷やしています。匂いと色も見ましたし、量も少しだけです。内臓を生で食べる土地があることも知っていましたし、まったく何も考えずにやったわけでは――」
「そういう話じゃないよ。魔物の内臓なんて、何を持ってるか分からないんだ。匂いがよくても腹を壊すものはあるし、食べてすぐ平気だったからって明日も平気とは限らないだろ。どうして三人揃って私には黙ってたのさ」
「聞けば、火を通せと言われると思ったからです。そこは私の判断が悪かったです」
エルネがまっすぐ頭を下げたので、ミラも隣で素直に頭を下げた。ベラの前にはまだ夕食の仕込み途中の肉が載っていて、叱っている最中にも包丁を置く場所を探すように手が動いていた。
「ベラさん、ごめんなさい。ひとりで食べさせたくなかったのもありますけど、私も味を知りたくなりました」
「私は二人がおいしいって言ったから。レバーもハツも食べたけど、ハツの方が好きだったよ」
「待ちな、心臓まで切ったのかい。レバーと両方? ……いや、今聞くのはそこじゃないね」
ベラは一度言葉を切ったものの、しばらくしてから腕を組み直した。
「それで、どんな味だったんだい。焼いたのと同じだったら、わざわざ生で食べることもなかっただろうに」
「私は焼いたレバーより柔らかく感じました。妙な苦さがなくて、甘みがありました」
「ハツは噛むと味が濃くなるの。焼いたのとは歯触りが全然違ったよ」
「それは、塩をつけたらうまそうだねえ。……ちょっと待った、今のは味を聞いただけだよ。食べていいと言ったわけじゃないからね」
ミラには、ベラの視線が三人よりも、卓に残った赤い汁のついた皿へ向いているのが分かった。料理を作っている時、新しい食材を前にしたベラはいつもああいう目をする。
「ベラさんも、気になりますか? まだ全部使ったわけではないと思います」
「そりゃ気になるよ。知らない食べ方でそんなに美味いって言われて、料理人が気にならないわけないだろ。でも、あんたたちの腹を預かってる身でもあるんだ。食べたいからって安全になるわけじゃない」
そう言ってベラは包丁を握り直したが、すぐ厨房へ戻ろうとはせず、三人の顔をもう一度見回した。
「今日は誰も、腹が痛くなったり、気持ち悪くなったりしてないんだね。変だと思ったら明日でもすぐ言うこと。それから、次に試すなら先に私を呼びな。食材の状態ぐらい一緒に見られるし、何より私も知らない味を一人残らず先に食われたら腹が立つよ」
リュネはベラの言葉を聞くと、叱られていたことも忘れたように顔を上げた。
「じゃあベラも、一緒に食べてみたいってことだよね。次は私、塩を持ってくるよ」
「話を最後まで聞きな。次も食べるかはその時に決めるし、火を通す分まで使い切ったら夕飯が減るんだからね」
ベラはまだ怖い顔をしていたが、冷蔵室へ戻る前にエルネへ包丁の切り方を尋ねた。薄さを指で示すエルネに、ベラはもっと薄く切れそうだと言い、話はいつの間にかレバーと心臓の歯触りの違いへ移っていった。
少し離れた席で水を飲んでいたロアンが、杯の陰で笑った。
「ベラはその場にいなかったよね。僕が来た時は三人で何やら内緒の食事会をしていたよ」
「ロアン、あんたはどうして一緒にいたのに止めなかったのさ。しかも話を聞いていたなら、私に教えるくらいできただろ」
「その時にはもう食べ終わってたんだ。自由を愛する僕としては、それをベラに告げ口するわけにもいかない」
ベラは水杯とロアンの顔を見比べたあと、呆れたように鼻を鳴らした。それから彼の前の食べ残しを片づけず、夕食の皿へ何を盛るか尋ねていた。
次に氷殻大蜥蜴が戻った時、エルネは冷蔵室から包みを持ち出す前にベラへ声を掛けた。夕食用の分を切り分けたベラは、残りを何度も眺め、それでも四枚の小皿を食堂へ並べた。
「私はまだ安全だと保証したわけじゃないよ。それでも、どんな味をそんなに美味そうに話してたのか、今日は自分でも知りたいんだ」
ベラは心臓の薄切りを一枚取り、火傷痕の残る指で皿の縁を押さえながら口へ運んだ。急いで飲み込まずにじっくり噛んでいるとエルネが何か言いかけたので、ベラは片手で制した。
「……なるほどね。噛み切る時の感触が、火を入れた時と全然違う。塩が合うっていうのも分かるよ」
「ほら、ベラだっておいしいって思ったでしょう。私がハツを好きなの、分かってくれた?」
「分かったよ。悔しいけど、これはうまいね。ただ、食べたからには私も同じだけ気をつけるし、三人とも体調を隠すんじゃないよ」
リュネが塩の小壺を取り出し、ミラも四枚目の皿へ手を伸ばした。エルネはずっと気になっていたらしく、ベラへ何を添えればよいかと聞き始める。ベラは少し考えてから、料理として出すなら焼いたものと食べ比べても面白いと返した。
それ以来、氷殻大蜥蜴が戻ると、エルネは内臓の包みをベラへ渡し、リュネは塩の小壺を食卓へ運ぶようになった。ベラが小皿を四枚出す日もあれば、火を通した料理だけにする日もあり、ミラたちはそのたびに味の違いを言い合った。匂いにつられたキュウまで足元へ座り込み、自分の皿が運ばれるとエルネの膝を鼻先で押して次を催促した。
◇
そんな新しい食卓の楽しみが増える一方で、探索組は白魔鋼の鎧板や見慣れない蔓、赤い実、銀色の筋が入った樹皮まで次々に持ち帰った。最初は泥のついた袋をそのまま卓へ載せようとしてベラに止められ、それからは入口脇の作業板へ並べる決まりになった。
「食べるところへ未知の根っこを置くんじゃないよ。毒だったらどうするの」
「袋は洗ってあるぞ。泥がついたまま持ってきたわけじゃない」
「何で洗えば安全かも分からないんだろ」
レオンは反論せず、食卓へ載せかけた袋を入口脇の作業板へ移した。次からは最初からそこへ持ってくるようになった。
「二層主、また白魔鋼の装備だったよ」
ティルダは卓へ腰を下ろす前に、夕食の匂いよりも白魔鋼の報告を優先した。
「今度は前ほど壊さず倒せたから、取れる量も多い。あれなら加工の試し打ちに使える」
エルネは白魔鋼の話が出ると、帳面に挟んだ鉛筆を止めて顔を上げた。
「使う分は構わねえ。ただ、外でどれほど珍しい物か分からないうちは、売る話は別にしてくれろ」
「売るより先に使いたいって。白魔鋼、青魔鉄とは全然違うんだよ。軽いし魔力がよく通る。力を受ける場所より、魔道具とか仕掛けの方が面白そう」
ティルダはそう言ってから、ようやく椅子へ座った。
レオンは皆の話が途切れたところで、三層から持ち帰った革袋の口を広げた。
「森の道はだいぶ分かった。ただ、階層主らしいやつだけ出てこない。こっちが歩ける範囲はかなり増えたのに、向こうから姿を見せる気がない」
「そこまで入っても見つからないんですか? 何も残していないなら探しようがない気もしますけど」
「いや、痕跡はある。大きな木が集まってる辺りで、高い枝が何本も折れてる。木の上を何かが移る音も聞いた」
エイルは採った場所を教えるため、太い蔓を卓上へ延ばして端を押さえた。
「足跡も途中で木へ消える。こっちを見てる気配はあるし、遠くで枝が揺れることもある。でも、近づくと降りてこない。少なくとも、何も考えず逃げ回ってる相手じゃない」
「それなら、こちらを見ながら襲ってくる時を選んでいるのかもしれませんね。追えば出てくる相手より厄介そうです」
「殴られるために出てくるほど素直じゃないらしい。こっちも焦って木の上まで追う気はない」
その横で、ロアンは赤い実を一つ摘まみ、匂いを嗅いだだけで戻した。
ロアンは皆が材料の取り分を相談するあいだに匙を置き、その夜も煮込みを少し残した。
◇
その翌日には、薬草の扱いに詳しいリュネも三層の探索へ一度だけ同行した。ミラは地下へは降りず、朝に包帯と水筒を薬袋へ詰めて送り出し、夕方には石扉が開く音を聞いて厨房から廊下へ出た。
リュネは泥のついた靴のまま戻ってきたが、疲れ切った顔をしているのに目だけは妙に明るかった。
「ミラ、三層すごかった。薬に使えそうなものが多すぎる。葉も根も実も、魔物から取れるものまであるし、精霊も外の森よりずっと多かった。あれを全部試そうとしたら、棚がいくつあっても足りないよ」
「それだけ見つかったのは嬉しいですけど、まず怪我がなくてよかったです。靴が泥だらけなので、途中で何かあったのかと思いました」
「怪我はないよ。みんなが守ってくれたし、泥は湿った場所を歩いたせい。それより、次から採ってきてほしいものを決めたい。全部持ってきたら、本当に置く場所がなくなるから」
レオンは背負ってきた革袋を水場の横へ下ろし、泥のついた口を開けて中身を見せた。
「本人を連れて行った意味はあった。採る場所と部位まで指定された。次からは俺たちだけで持ち帰れる」
その日から、ミラはリュネの薬作りを手伝った。
ミラは葉を洗い、根を刻み、実を乾かし、名前のない素材には採れた場所と形を書いた木札を下げた。
最初の二日は水場の横だけで足りたが、三日目には乾燥棚が一段増えた。フレイに細い木枠を作ってもらい、風が抜けるよう壁から手の幅ほど離して立てる。
ベラは厨房の布と薬用の布を別の籠へ分け、同じ水場でも仕事の道具が混ざらないようにした。
「間違えて薬草を拭いた布で鍋まで拭いたら、夕飯が薬になるからね。効き目があっても、私はそんな料理は出したくないよ」
「私も困ります。食事のたびに薬の味がしたら、どれが本当に必要な薬か分からなくなります」
「でも、効き目がある夕飯なら少しくらい試してみたくない?」
リュネが言うと、ミラは洗った根を布の上へ並べながら首を振った。
「味が悪い薬は、料理にしない方がいいです。ベラさんがせっかく美味しく作ったものまで苦くなります」
ベラはミラの返事に声を立てて笑い、濡れた布を別の籠へ移した。
「その白い根は日陰干しですよね。共同寮でも似た匂いの根を扱ったことがありますけど、同じ草ではないので札は分けておきます」
「うん、それでお願い。日に当てると成分が飛ぶみたいだから、乾燥棚の下段がいい。見た目が似てるものほど、最初から別にしておいた方があとで困らない」
精霊樹の樹液を混ぜると、別々の薬材に含まれた魔力が安定した。
傷を塞ぐ葉、毒を抜く根、痺れを和らげる実はそれぞれ働きが違い、樹液を混ぜれば何でも治るというわけではなかった。違う材料が、それぞれの役目を保ったまま働くための基材になった。
もちろん、リュネが新しい素材を試し始めた日から、使える薬ばかりが出来たわけではない。
赤い実を濃く煮出した瓶は舌が痺れるほど苦く、火を強くしすぎた白根は効き目が落ちた。リュネは失敗した瓶にも日付と分量を書き、ミラは乾燥棚の位置を変えた。
数日後には、探索へ持たせられる回復薬ができた。
最初の一瓶をレオンへ渡す前に、リュネは瓶の口へ緑の糸を結んだ。解毒用の瓶には青い糸を、麻痺を和らげるものには黄色い糸を結んだ。暗い地下でも触れば違いが分かるよう、結び目の数も変えた。
「地下だと、瓶の札を読んでる時間がない時もあるから。色だけじゃ暗い場所で見えにくいし、結び目まで変えておけば手探りでも分かると思う」
「それなら私も棚から取る時に間違えません。急いで渡す時ほど、似た瓶が並んでいると怖いです」
「ミラは地下へ持っていかないのに、そこまで気にするんだね」
「持っていく人に渡すのは私ですから。棚で取り違えたら、地下に着く前から間違っています」
「なるほど。探索中だけじゃなくて、ここで扱う時にも役に立つなら、この分け方で揃えよう」
さらに解毒用、麻痺を和らげるものと、小瓶の種類が増えていく。
探索から戻ったティルダが腕へ浅い切り傷を作った日は、新しい回復薬を試した。
「傷は浅いし、出血も少ない。新しい回復薬の量を見るには、ちょうどいいかも」
リュネの声を聞いたティルダは、手当てを受ける腕を差し出したまま一歩下がった。
「最初に『ちょうどいい』だけ言うのやめてよ。怪我した人間を待ってたみたいに聞こえるじゃん」
「待ってないよ。もう何回も試した薬だし、今日はこのくらいの傷ならどれだけ使えば足りるか確かめたいだけ」
「だったら最初からそこまで言って。薬師の頭の中だけで話を終わらせないでよ」
傷を洗い、薄い緑色の薬を布へ含ませて当てる。
しばらくしてティルダが薬を当てた腕を曲げると、さっきまで庇っていた動きが滑らかになった。
「痛みがかなり引いてる。前に薬を塗った時よりずっと早いよ」
リュネは傷口の縁を確かめると、薬を使った時刻と量を帳面へ書き込んだ。
「出血も止まってる。これなら持たせられる」
ミラが片づけようとしたところで胸元の職業札が温かくなり、いつもと違う感触に手が止まった。
ミラが職業札を取り出すと、技能欄には見慣れた文字の後に新しい数字が光っていた。
《野草知識 Lv2からLv3へ上昇しました》
「《野草知識》が上がりました。最初は言われた通りに洗っていただけなのに、いつの間にかLv3です」
ミラが札を見せると、リュネも何か思い出したように自分の腰へ手を伸ばした。表示を読んだところで、青緑の目が大きくなる。
「私も上がってる。《調薬》がLv4になった。今日の傷だけじゃなくて、この一か月ずっと同じ材料を試してたからかな」
リュネは自分の職業札を抜いてから、表示が見えるようミラの方へ傾けた。
《調薬 Lv3からLv4へ上昇しました》
「同じ日に上がると、少し嬉しいですね。やっていたことは違いますけど、ずっと同じ棚を使っていましたし」
「違うことをやってたからいいんだよ。ミラ、最近は私が言う前に乾かし方を分けるし、似た根も勝手に混ぜないでしょう。私だけで全部やってたら、調合する前の整理で時間を使ってたと思う」
「混ざると困るので分けていただけです。でも、リュネさんがすぐ使えるなら、その方が私も分かりやすいです」
「そういうところが助かってる。次に三層から新しいものが来ても、今みたいに一緒に分ければ試せそう」
リュネは笑い、新しい回復薬の瓶を棚へ並べた。
◇
ひと月も経つ頃には、精霊樹は小さな林になっていた。
最初の一本は太い幹から常緑の枝を広げ、挿し木は十二本まで増えた。日当たりの悪い二本はまだ腰ほどの高さだが、魔力泉の水を多く受けたものはミラの頭を越えている。
朝、ミラは水桶を両手に提げ、いつもの坂を上がった。雪の残る斜面では靴の下で土が固く鳴るのに、精霊樹の根元へ入ると踏み心地が柔らかくなり、葉についた雫が頭上からぱらぱら落ちてきた。枝が伸びる前には遠くまで見通せた道が、今は何本もの緑の幹の間を曲がっている。
坂から冷たい風が吹き上がり、ミラは反射的に外套の襟へ手をやったが、すぐ頭上で葉が鳴り、幹の間を抜けてきた風が頬の髪を揺らした。前から吹いている風と変わらないはずなのに、自分たちが植えた枝がこんな音を立てると思うだけで、胸の内側までくすぐったくなる。
水桶を置いて振り返ると、リュネが籠を抱えて坂を上がってきた。ミラは手袋を外し、朝露のついた葉へ指を伸ばした。
「リュネさん、ここに立ってみてください。前は向こうの畑が見えていたのに、今は木の間から少し見えるだけなんです」
「本当だ。木を育てたら、歩く道まで変わっちゃったね。それに、風の音がこっちと向こうで違うよ」
リュネは籠を足元へ下ろしてつま先で土を踏み、頭の上へ伸びた枝に触れた。ミラもその横で背筋を伸ばし、葉の重なりを見上げた。寒さで鼻先は赤くなっていたが、朝の水やりを終わらせて帰るのが惜しかった。
「私たちが植えた木です。あんなに小さな枝だったのに、今は私の頭より高いんですよ」
「うん、これからもっと伸びるね。薬の材料も嬉しいけど、ここを歩けるのが楽しいな」
しばらく二人で枝の下を歩いてから、ミラは親木の根元へ戻って水を注いだ。枝を切っても数日すれば新しい芽が出るが、最初の数日のように一晩で目に見えて伸びることは減り、水も以前ほど欲しがらなくなっていた。
「これなら、使う分では困りませんね」
ミラが剪定した若枝を束ねると、リュネが頷いた。
「うん。樹液も、採っていい場所を精霊が教えてくれる。今の人数なら使う方が追いつかないくらい」
工房へ運ぶため床へ置いた枝束から、フレイが木目の揃った一本を持ち上げた。
ミラは一番細い枝を二本だけ別に抜き、背中へ隠した。
「ミラ、背中に何を隠してるの? 見えてるんだけど」
ティルダにはすぐ見つかり、ミラは枝を隠したままでは済まなくなった。
「まだ何もしていませんよ。枝を二本持っているだけです」
「何もしてない人は枝を背中に隠さないでしょ」
ミラは少し考えてから、キュウの頭へ枝を二本立てた。枝を差すと、キュウの角の両脇から常緑の葉が生えたように突き出した。
キュウは不思議そうな声で鳴くと、頭の上で何が起きたのか気にして首を傾げた。
「キュウ、冬でもこんなに緑なんですよ。似合いますね」
「ねえ、姉ちゃん! その角と葉っぱ、めっちゃ可愛くない?」
フレイはキュウの頭を指さして笑い、ティルダの袖を引っ張った。
キュウは何が起きたか分からないまま首を振り、枝を一本落とした。もう一本はしばらく角に引っ掛かったままだった。
ミラは拾った枝を何事もなかったように束へ戻した。
「木目もいい。ロアンの楽器に使えそう」
ちょうど探索組が戻り、エイルが灰色の糸束を革袋から取り出した。
「これも見てくれ。三層の大蜘蛛から取れた。細いが、引いてもほとんど伸びない」
フレイは灰色の糸を一本つまみ、指へ巻きつけて強く引いた。
「この糸、すごく強いよ。これならリュートの弦にできるかもしれない」
ロアンが椅子に座ったまま糸を受け取り、指先で弾いた。
ロアンが指先で糸を弾くと、小さいが高く澄んだ音が食堂に響いた。
「今の弦より硬いね。張り方を変えれば、遠くまで音が出るかも」
フレイは精霊樹の枝と糸を卓へ並べ、長さを測るように両方へ手を伸ばした。
ロアンはフレイの話を聞いて笑ったものの、途中で喉を押さえて水杯へ手を伸ばした。
ここ数日は朝食を残す量が減ってきたものの、まだ普段通りとはいかなかった。リュートを弾き始めても途中で休む日があり、ミラは水を飲み終えるまで側で待った。
「ロアンさん、今日は朝より気持ち悪さが引いていますか?」
「朝よりはいいよ。前より軽くなってる気はする。もう少ししたら普通に戻るんじゃないかな」
ベラはロアンの声を聞きつけ、鍋の蓋を手にしたまま厨房から顔を出した。
「戻ってから言いな。今夜も酒は一杯まで」
「まだ一杯は許してくれるんだね。そこは助かったよ」
「ゼロにしたら、どうせ酒樽のところで勝手に味見するだろ」
「信用されてるんだか、されてないんだか分からないね」
ロアンが水を飲む横で、ミラは精霊樹の枝を抱え直した。
ミラは枝束を工房用の棚へ運び、薬棚の前で足を止めた。緑、青、黄の糸が結ばれた小瓶が、以前は空いていた一段を埋めている。
その向こうの食堂では、壁の《最深到達階層――第二層》がまだ同じ文字を示していた。三層へ何度入っても、階層主だけは姿を見せない。
石扉の脇には、明日の探索で持ち出す空の採取袋がもう三つ並んでいた。
◇
洞窟から遠く離れた王都では、その月に珍しい地震があった。
職業台帳を扱う中央庁舎の古い棟では棚が倒れ、記録筒が床を転がった。けが人は出なかったが、数日経っても壁の細い亀裂には白い補修材が詰められたままだった。
若い書記官は棚から拾い直した記録票を机へ三枚並べ、管理官を呼んだ。
三枚とも職名欄には読める文字がなく、識別番号だけが別々に刻まれていた。
「三件とも、まだ照合できていません」
年嵩の管理官は三枚を一度見比べ、最も古い日付の票を持ち上げた。
「三件とも別の識別情報なんだな。同じものの重複じゃないのか?」
「はい。登録済みの職にはありません。発現したことだけは中央台帳に残っていますが、公的鑑札の記録と結びついていないので、取得者も場所も不明です」
「一件なら記録異常を疑えた。二件目で鑑札網も登録簿も再点検した。それで三件目か」
書記官は管理官の声を聞きながら、まだ補修跡の残る壁へ目を向けた。
「こんなことが続くなんて、魔王の策謀かもしれません」
「滅多なことを言うな。そう判断できる根拠があるのか?」
「ありません。ただ、未登録職が立て続けに三つ出て、その時期に地震まで」
「なら同じ紙に書くな。地震は地震、未登録職は未登録職だ。憶測まで上へ回せば、余計な騒ぎになる」
「承知しました。三件とも照合を続けます」
「三件とも照合は続けろ。どこかの神殿か組合で鑑札されれば、身元と結びつく」
管理官は三枚の記録票を重ねず、机の上へ横に並べた。
書記官は職名の読めない三枚を、凶兆のように見つめていた。




