炉還りは笛の音を聞きます
昼食の片づけが終わるころ、レオンは食堂の奥へ向かった。さっきまで岩壁だった場所には二つの入口が並び、その先でエイルとリュネが、自分たちの旅袋を床へ広げている。
帰り火が用意した部屋は、壁際の石の寝台と、荷を置ける窪みが一つずつあるだけだった。棚も机も椅子もない。リュネは薬草袋を兄の荷から抜き出し、自分の窪みへ移すたびに何度も中を覗き込んでいた。
「兄さんの袋から毎回探さなくていいだけで、思ってたより嬉しい。薬草と着替えが同じ袋に入ってると、急いでる時に本当に面倒だったんだよ」
「お前が途中で拾った草まで俺の袋へ突っ込むからだ。自分の場所ができたなら、今度から採った本人が最後まで管理してくれ」
「それなら兄さんも、弓の手入れ道具と干し肉を同じ袋へ入れないでよ。油の匂いが移った干し肉、私はもう食べたくないからね」
言いながらも、リュネは楽しそうだった。エイルも弓を壁際へ立て掛けたあと、倒れない位置を二度確かめ、弦を張る道具と矢尻の小袋を別々の場所へ置き直している。
ミラが余っている毛布を二枚抱えてくると、リュネは受け取るより先に石の寝台へ一枚広げた。旅の途中なら朝になれば畳んで荷へ戻すものを、そのまま残してよいという事実の方が気に入ったらしい。
「棚や机は、使いながら決めればいいと思います。ティルダさんとフレイさんにお願いすれば作れますし、王都で買ってきてもいいです」
「じゃあ私は、薬瓶を並べられる棚がほしい。兄さんはたぶん、弓をすぐ取れる場所に掛けたがると思う」
「俺の部屋の話まで決めるな。だが、入口の近くに弓を置けるなら助かるのは確かだ」
レオンは二人の部屋を見比べた。まだ石と荷物しかないのに、すでに使い方が違う。住人が増えるたび、帰り火は同じ形の部屋を作り、そのあとの違いは住む者が勝手に増やしていく。
リュネが最後に、小さな革袋だけ手元へ残した。中で硬いものが触れ合い、澄んだ音が二度鳴る。
「荷物はこれで分けられたし、次は黒い宝珠と短杖を見ようよ。昨日からずっと気になってたのに、証拠扱いで触れなかったんでしょう?」
「休むより先にそっちへ行くのか。まあ、お前が鑑定できるなら俺も正体は知りたい」
「兄さんだって気になってるじゃない。だったら同罪だから、先に食堂へ戻った方が負けね」
勝ち負けの意味は分からなかったが、エイルは反論せずに旅袋を閉じた。二人が並んで通路へ戻ってくるのを見て、レオンも食堂へ引き返した。
◇
長卓の中央には、黒い宝珠と細身の短杖が置かれていた。ベルクの冒険者組合が付けた記録札はそのまま残してある。護衛魔術師が使っていた短杖も、奴隷商が落とした革鞄から出てきた黒い宝珠も、証拠として必要な確認を終えたため、今朝になって一行へ返された。
エルネは紙と墨を用意し、ティルダとフレイは工房から椅子を持ってきている。ロアンもリュートを壁へ立て掛け、ベラは厨房から手を拭きながら顔を出した。ミラの隣ではキュウが卓へ鼻先を近づけ、黒い宝珠を嗅ごうとしている。
「今日は名前と基本的な使い方まで書くぞ。値段を決めたり売り先を探したりするのは、何なのか分かってからで十分だべ」
「まずはどんな機能があるか、話はそれからだ」
レオンが言うと、リュネは革袋から透明な水晶玉を取り出した。片手に収まるほどの大きさで、表面には細かな擦り傷がいくつも走っている。
「この水晶に魔力を流して、見たい魔道具へ意識を向けるの。何でも全部分かるわけじゃなくて、名前と大まかな働き、それから使い方の筋道くらい。作った人の考えや、壊れるまでの回数までは読めないよ」
「そこまで分かれば十分だ。まず黒い方から頼む」
リュネが水晶玉を宝珠の上へ翳すと、透明だった中心へ細い光が集まり始めた。彼女はすぐには口を開かず、水晶を少しずつ傾けて、見える文字を追うように目を動かす。
「名前は《空間収納宝珠》。触れて魔力を流して、入れたい物を意識すると、中にある別の空間へ移せる。取り出す時は、出したい物と置く場所を意識すればいいみたい」
レオンの指が卓の上で止まった。旅商人だった頃、何度も欲しいと思った品だった。荷車の車軸が折れれば積み荷は動かせず、山道では重量のせいで諦める商品もある。最下級品でさえ金貨数十枚と聞き、値段を知った日に諦めた。
「容量はどのくらいだ。荷車一台分くらいなら、それでも十分すごいが」
「待って。そこは少し見えにくいから、もう一度読んでみるね」
リュネは水晶へ魔力を足し、今度は目を閉じずに黒い宝珠と見比べた。
「正確な数字は出ない。でも荷車一台や二台でいっぱいになる大きさじゃないよ。水晶の反応がかなり余ってるから、少なくとも今の私たちが普段運んでる量よりずっと多い」
ティルダがすぐに工房の方を振り返り、積んである鉱石の量を思い浮かべるように目を細めた。
「鉱石を重さで置いてこなくていいなら、それだけで大助かりだよ。青魔鉄も、採れるだけ採って持ち帰れるってことでしょう?」
「酒樽もだべ。荷車の本数を先に決めなくていいなら、王都へ持っていく量そのものを変えられるぞ」
「料理も入るのかい。肉や煮込みを入れて、中で腐るなら食料庫代わりにはならないけどね」
ベラが聞くと、リュネは水晶を覗き込み、すぐに首を縦へ動かした。
「そこも出てる。中では時間の進み方がすごく遅いみたい。完全に止まるわけじゃないけど、熱い物は冷めにくいし、冷たい物は温まりにくい。食べ物も普通に置くよりかなり長く持つと思う」
今度はベラが考え込み、厨房の方へ目を向けた。
「それ、探索より先に厨房で欲しいくらい便利じゃないか。遠出した連中へ、温かい煮込みを鍋ごと持たせられるかもしれないんだろ?」
「それなら森で泊まる時の食事も変わるな。火を焚けない場所でも、洞窟で作った物をそのまま出せる」
エイルが口を挟むと、リュネが兄へ顔を向けた。
「兄さん、もう自分が持っていく前提で考えてるでしょう。さっきまで人の宝珠だったんだよ」
「使う人間を決める前に、使い道を考えているだけだ。お前こそ鑑定しながら楽しそうにしすぎだろ」
「だって、見るたびに便利なことが増えるんだもの。こういう魔道具を鑑定するの、薬草よりずっと結果が派手で面白いよ」
その言い方にロアンが笑い、椅子の背へ腕を掛けながらリュネの水晶を覗き込んだ。
「君が来て半日で、洞窟に新しい娯楽が増えた気がするよ。拾った物の正体が分かるたび、みんなで騒げる」
「娯楽じゃなくて仕事です。たぶん仕事だけど、面白い仕事なら私は歓迎するよ」
リュネはそう言って、今度は宝珠の取り出し方をもう一度読み始めた。
フレイが倉庫の方へ顔を向け、試験に使えそうな荷物を指しながら立ち上がった。
「実際に入れてみようよ。空樽と金属材、それから工具箱なら、壊れて困る物もないし重さも違うから試しやすい」
「上限まで詰める必要はない。何種類か入れて、狙った物だけ取り出せるかもやってみよう」
レオンが立つと、全員が倉庫へ移った。空樽を三つ、金具の詰まった木箱、薪の束、工房へ運ぶ予定だった金属材を並べる。全部合わせれば、二人で運ぶのも面倒な量になる。
レオンは宝珠へ魔力を流し、最初の空樽を意識した。樽は音も風も残さずに消え、そのまま木箱、薪、金属材まで順番に入れていく。黒い宝珠は少しも重くならず、表面の光にも変化はなかった。
「これだけ入れて、まだ余ってるのが分かる。水晶の反応がほとんど変わってないよ」
リュネの声が弾む。ティルダは空になった床を見て、工房へ運ぶ時に何人必要だったかを指折り数えていた。
「じゃあ、真ん中に入れた木箱だけ出してみてはどうだ? 順番どおりにしか出せないなら、奥へ入れた物を探すのが大変だろう」
エイルの指摘に、レオンは木箱だけを意識して宝珠へ魔力を流した。指定した場所へ、金具の入った箱だけが現れる。
「それなら荷物の順番まで考えなくていいな。必要な物を意識すれば出せるなら、探索の途中でも使える」
「兄さん、そういうところだけ本当に細かいよね。でも今のは聞いてくれて助かった。私、容量が大きいって分かったところで満足しかけてた」
「お前は面白い物を見つけると、先に次へ行くからな。俺は後ろから落とした物を拾う役だ」
「だから兄さんも一緒にいると便利なんだよ。私だけだと三日くらいで水晶をどこかへ置き忘れると思う」
兄妹の会話を聞きながら、レオンは残りの荷を宝珠から戻した。
最後にベラが、蓋をした小さな鉄杯を厨房から持ってきた。布越しでも熱が伝わり、湯気が蓋の隙間から細く漏れている。
「熱い湯を入れておくよ。夕飯の時に出して、まだ熱かったら時間の遅さも実物で分かる」
「いい試験だ。食べ物を一皿犠牲にするより、そっちの方が分かりやすい」
鉄杯まで収納すると、黒い宝珠は卓の上へ戻された。エルネの紙には、すでに使い道が何行も増えている。
探索での鉱石や魔物素材の回収、交易時の積載量、保存食と温かい料理、工具や予備装備。たった一つの宝珠から、これまで荷車の大きさで諦めていたことが次々に消えていく。
レオンは黒い球を見た。奴隷商が落とした革鞄から出てきた時には、値段の分からない戦利品でしかなかった。それが今は、洞窟の暮らしと商売と探索をまとめて変えられる道具になっている。
「外では見せすぎない方がいいべ。これ一つで金貨が何枚動くか分からねえし、持ってると知られたら荷物より宝珠を狙われる」
「そこは同意する。普段の荷車は残すし、街中で何でも出し入れする使い方はしない」
レオンが答えると、エルネは満足そうに紙へ一行書き足した。
「便利な物ほど、持ってること自体が商売の情報になる。使い方まで含めて財産だべ」
黒い宝珠だけで十分すぎる収穫だったが、卓にはもう一つ残っている。
「次は短杖を見よう。こっちは黒い宝珠より読みやすそうだから、たぶん早いよ」
リュネが水晶を翳すと、今度は淡い光がすぐにまとまった。
「《魔力増幅の短杖》。杖そのものから魔法を出す道具じゃなくて、持った人が自分の魔法技能を使った時、その出力を押し上げる。今の状態なら三割くらい強くなるみたい」
「じゃあ、あの魔術師が撃った《雷槍》は杖の魔法じゃなかったんだね。本人の魔法をこれで強くしてたわけか」
ティルダが納得した顔で杖を見直し、さっきまで単なる細い棒にしか見えなかった柄へ目を細めた。
「火でも同じなら、あたしが一番早く試せるね。大きな《爆炎》は出さないよ。厨房の炉口で《分炉》を小さく出してみる」
ベラが短杖を持って炉口の前へ移り、いつもの調子で魔力を流した。橙色の火が立ち上がり、普段なら鍋底に収まる程度の炎が、同じつもりで出したのに一回り高く伸びた。ベラはすぐに魔力を絞り、火を小さく戻す。
「三割って数字より分かりやすいね。いつもの加減で出したら、火の方が勝手に一段強くなる感じだ。慣れるまでは小さい魔法で感覚を覚えた方がいい」
「鑑定の表示とも合ってる。魔法の種類を変えるんじゃなくて、流した力を押し上げる道具だね」
リュネは水晶と炎を交互に見ながら、嬉しそうに頷いた。
「遠征で持つならベラが第一候補だな。火力が要る時だけ借りる形なら、洞窟へ置いておいてもいい」
「それでいいよ。今夜は杖より包丁の方が忙しいし、昼に冷蔵室を見た新入りが、さっきから厨房の方ばかり見てるからね」
ベラの視線を追うと、リュネは本当に厨房を見ていた。
「だって、住むって決めた日の夕飯でしょう。あれだけお肉がある場所で、普通の夕飯だったら少しだけ悲しいよ」
「安心しな。人数も馬も増えたし、無事に帰ってきた連中もいる。今日はちゃんと祝いにするから、腹だけ空けておきな」
リュネの顔が、水晶を覗いていた時よりさらに明るくなった。
レオンはそこで、ようやく戦利品の鑑定が終わった気がした。黒い宝珠も短杖も、値段だけなら相当な物なのだろう。だが、洞窟では値札より先に、誰がどう使うかが決まっていく。そこへ今日から、拾った魔道具の正体を読める人間まで加わった。
戦利品が二つ増えただけではない。戦利品の価値を、自分たちで見つけられる仲間が増えた。
◇
日が斜面の向こうへ落ちるころ、厨房には昼より濃い匂いが満ちていた。
ベラが氷殻大蜥蜴の肉を厚く切り、ミラがチーズを削る。その隣ではリュネが燻製肉を薄く切っていたが、三枚切るたびに一枚を眺めるので、ベラがとうとう包丁を止めた。
「眺めても味は変わらないよ。それを口へ入れる前に、全部切って皿へ載せな」
「まだ食べてないでしょう。匂いを確かめてただけだから、今のところ私は無実だよ」
「今のところ、って自分で言ったね。あと五分もすれば有罪になる顔をしてるから急ぎな」
リュネは笑いながら切った肉を皿へ移した。少し離れたところでエイルが薪をまとめていたが、妹の方を見もしない。
「兄さん、そこは私を庇うところじゃないの?」
「何度も同じことを見てきたから、今回だけ無実だとは思えない。食べるなら焼けてからにしろ」
「兄妹で証言を合わせてくれないなら、私は自力で信用を取り戻すしかないね」
「まず燻製肉を一枚も減らさず運んでから言いな」
ベラに追われ、リュネは皿を両手で持って石窯の方へ向かった。
最初に焼いたのは、大ぶりのピザだった。油を薄く塗った生地へ乾燥香草を散らし、削ったチーズを惜しげなく重ね、その上へ燻製肉を並べていく。
石窯へ入れると、チーズの表面がすぐに泡立った。肉の脂が透明な滴になって落ち、縁の生地が膨らむにつれて、焼けた小麦と燻製の匂いが食堂まで流れていく。
ロアンが匂いに引かれて入口へ顔を出し、石窯と食堂の方を交互に見ながら鼻を鳴らした。
「この匂いだけで林檎酒を一杯飲めそうだけど、料理が出るまで待った方が人として正しいかな」
「皿を運ぶなら一杯目を早くしてやるよ。匂いだけ吸ってるなら、夕飯が終わるまで水にしな」
「ベラの料理は報酬の設計が分かりやすくて助かるね。働いた分だけ、すぐ酒に変わる」
ロアンは素直に皿を持ち、ティルダとフレイが並べた長卓へ運んでいった。
一枚目のピザが中央へ置かれると、リュネは誰より早く手を伸ばした。切り分けた一切れを持ち上げた途端、熱いチーズが長く糸を引き、皿から離れない。
「待って、これどこまで伸びるの。切ったのに全然離れてくれないんだけど」
「皿の近くで小刀を入れてください。上へ持ち上げるほど、もっと伸びてしまいます」
ミラに教えられ、リュネはようやくチーズを切った。熱さを確かめずに一口かじり、すぐに息を吸い込む。
「熱いけど、おいしい。燻製の塩気とチーズが一緒になると、肉だけで食べるよりずっと濃くなる。兄さんも早く取って」
「お前が火傷しかけた直後に、急いで食えと言われても説得力がない。少し冷ましてから食う」
「兄さんはそう言ってる間に、一番おいしいところを逃すんだよ。熱いのも含めて今が一番なのに」
エイルは呆れた顔をしながらも一切れ取った。
レオンはそのやり取りを見て、昼までの二人とはずいぶん違うと思った。エイルは昨日まで、妹が視界から外れるたびに周囲を確かめていた。今夜はリュネが厨房と食堂を行き来しても、そのたびに目で追うことはない。
二皿目には、厚く切った氷殻大蜥蜴の肉へチーズを挟み、衣をつけて揚げたものが出た。刃を入れると薄い衣が割れ、肉汁と脂が流れ出す。中のチーズは熱で柔らかくなり、切れ目からゆっくり伸びた。半分だけ掛けられた白いクリームソースには、王都で買った香辛料が少量混ぜられている。
レオンが一口食べると、衣の軽い歯触りのあとへ脂の強い肉が来た。そこへ塩気のあるチーズと乳の濃さが重なり、最後に香辛料が鼻へ抜ける。
「これは酒が要る。水だけで最後まで食うには、味が強すぎる」
「ようやくその話になったね。僕は一皿目から、酒を出す口実をずっと待ってたよ」
ロアンが林檎酒の瓶を持ち上げ、エルネも人数分の杯を並べた。
「新しく増えた二人と二頭、それから無事に帰ってきた全員に乾杯しよう。戦利品まで当たりだったんだから、今日は遠慮はいらないべ」
杯が一斉に上がり、レオンも林檎酒を口へ運んだ。酸味が口に残っていた脂をきれいに切り、もう一度揚げ物を食べると、焦げた衣とチーズの塩気がさっきよりはっきり分かる。
エイルも林檎酒を飲んだ。最初の一口を飲む前に入口の方へ一度だけ視線を向けたが、そこには誰もいない。窪地からは、馬が鼻を鳴らす音がときどき聞こえてくるだけだった。
レオンが杯を置いたところで、ベラが向かいの皿を見て眉を上げた。
「リュネ、その皿だけ妙に片づいてると思ったら、野菜が全部端へ避難してるじゃないか」
リュネの皿では、根菜の酢漬けと葉物の和え物だけが、きれいに一か所へ集められていた。
「避難じゃなくて、食べる順番を後ろへ回してるだけです。肉と卵と乳製品を先に食べたいのは、昔からなんです」
「薬師なのに、身体に必要なものを好き嫌いするのかい」
「必要かどうかと、好きかどうかは別の話でしょう。苦い薬は必要なら飲むけど、ご飯まで苦行にする理由はないと思う」
ティルダが吹き出し、フレイも笑いながら自分の皿を見た。
「森で暮らしてたって聞いたから、木の実も野菜も好きなのかと思ってた。ずっと肉の棚ばかり見てた理由が、やっと分かったよ」
「森に住んでたら葉っぱが好きになるなら、兄さんはとっくに木になってるよ。あれだけ森の中へ入ってたんだから」
「俺を植物にする前に、その根菜を食え。昔から、嫌いな物だけ最後まで残して冷たくする癖があるだろ」
「兄さんは人の皿を覚えすぎなんだよ。そういうことばかり忘れないの、本当に面倒くさい」
「忘れてほしいなら、毎回同じ残し方をするな。記憶に残るだけの回数を繰り返してるのはお前だ」
兄妹の言い合いを聞きながら、ベラは根菜の皿をリュネの方へ少し寄せた。
「全部食えとは言わないよ。嫌いなら嫌いでいい。ただ、薬師なら自分で折り合いくらいつけな。肉のあとに二つ食べれば、次の揚げ物は好きに取っていい」
「それなら公平です。二つ食べたら、私の勝ちってことにします」
「何に勝ったのかは知らないけど、それで野菜が減るなら好きにしな」
リュネは根菜を二つ続けて食べ、飲み込むとすぐ揚げ物へ手を伸ばした。エイルはそれを見て笑い、今度は入口を確認しなかった。
食事が半ばを過ぎたころ、エルネが王都で試しに買った蒸留酒を持ってきた。小さな杯へ注ぐだけで鋭い香りが立ち、ティルダが最初に飲むと、喉元へ手を当てた。
「これ、酒っていうより火を飲んでるみたいだよね。でも嫌じゃない。身体の中だけ急に暖かくなる」
「香りを先に嗅いで、少しずつ飲んだ方が面白いよ。勢いで飲むと、たぶん味より喉が焼ける」
フレイは姉より慎重に口へ含み、ロアンも香りを確かめてから杯を傾けた。エルネがエイルへ瓶を向ける。
「一口くらい試してみるか。今夜は街道も見張りもねえし、合わなきゃ林檎酒へ戻せばいい」
「それなら少しだけもらう。匂いだけで、林檎酒とは別物なのは分かる」
エイルは小杯を受け取り、舌へ乗せる程度に飲んだ。飲み込んだあと、喉から胸へ落ちる熱を確かめるように息を吐く。
「これは見張りの前に飲むものじゃないな。でも、今夜みたいな日なら悪くない」
「そういう日のために酒はあるんだよ。毎日これを飲んでたら、おらの帳面より先に身体の方が赤字になるべ」
エルネの言葉に、ロアンが笑って杯を置いた。その時、レオンは午後に収納した鉄杯を思い出した。
黒い宝珠へ魔力を流して取り出すと、蓋の隙間からまだ湯気が立っている。布を巻かずに持つには熱いままだった。
「午後から入れてたのに、ほとんど冷めてない。これなら料理だけじゃなく、薬の温度管理にも使えるかもしれないね」
リュネがすぐに立ち上がり、鉄杯へ顔を近づける。
「お前は鑑定が終わっても、まだ使い道を増やすのか」
「分かったことから次を考えるのが楽しいんだから仕方ないでしょう。宝珠が便利なら、便利な分だけ試したいことが増えるよ」
エイルの呆れた声にも、もう緊張はなかった。レオンは鉄杯を厨房へ戻しながら、昼に正体が分かった戦利品が、夕飯の途中でもまだ新しい価値を見せていることが楽しくなった。そのたびにリュネが別の使い道を拾い、周囲が自分の仕事へ結びつけて考えている。
黒い宝珠も短杖も、もう戦利品というより洞窟の道具になり始めていた。
◇
大皿の底が見え始めたころ、ベラもようやく厨房から離れて席へ着いた。ロアンは林檎酒を飲み切ると、壁際へ置いてあったリュートを膝へ載せ、一本ずつ弦を鳴らして二本目だけ少し締め直す。
「腹いっぱいのまま寝るにはまだ早いし、今日は人数も増えた。エルフの紳士と淑女が嫌じゃなければ、一曲くらい鳴らそうか」
リュネがすぐに顔を上げ、今まで酒を持っていた手を卓へ置いて身を乗り出した。
「私も木笛を持ってるよ。旅の途中でも吹いてたから、合わせられる曲があるなら一緒にやってみたい」
「それはぜひ聞きたい。エルフの笛を近くで聞く機会なんて、吟遊詩人でもそう多くないからね」
リュネは椅子から立ち、自分の部屋へ走っていった。戻ってきた手には、掌二つほどの長さの細い木笛が握られている。長く使った木肌には艶があり、指穴の周りだけ色が少し薄くなっていた。
エイルが見覚えのある木笛へ目を向けると、それまで杯の縁に隠れていた口元が緩んだ。
「それ、まだ使ってたのか。途中で失くしたと思ってた」
「兄さんが荷物の底へ布で巻いて入れてくれたから残ったんでしょう。自分で包んだ物まで忘れないでよ」
「包んだのは覚えてる。お前が一度も吹かなかったから、持ってることを忘れてただけだ」
「今日は吹くよ。ここで最初に吹いた曲くらい、自分で覚えておきたいからね」
ロアンが椅子を少し寄せ、リュネの指が届く位置と笛の長さを確かめるように眺めた。
「まず一人で短く吹いてみて。音の幅が分かれば、僕は後から合わせる」
リュネが笛を唇へ当てると、澄んだ音が食堂の石壁へ伸びた。森の鳥ほど高くはなく、リュートより軽い。最初の旋律を吹き終えると、ロアンが同じ流れを低い弦でなぞった。
「途中で少し速くなるよ。私が先に行くから、追いかけてもらえる?」
「その方が面白いね。僕が合わせるから、止まらず好きに吹いてみて」
二度目は笛が長く続き、ロアンの弦が下へ入った。旋律の形を掴むにつれて音が厚くなり、ティルダも壁際の枠太鼓を引き寄せて、最初は遠慮がちに、曲が速くなると指の位置を変えながら拍を重ねた。
途中でリュネがわざと一拍だけ早く入ると、ロアンがすぐ追いついた。ティルダも笑いながら叩く位置を変え、曲は最初の予定より少し速くなっていく。
「今のはずるいよ。先に速くなるって言ってたけど、一拍飛ばすとは聞いてない」
「追えるって言ったから試したの。ちゃんと追ってきたから、次はもっと変えても大丈夫そうだね」
「初対面の伴奏相手を試す人だったんだ。君、思ってたよりずっと性格が悪くて安心したよ」
「褒められたことにしておく。兄さんにも昔から同じこと言われてるから、たぶん直らないし」
食堂に笑いが広がり、キュウはミラの足元で耳を動かした。フレイは卓を指先で叩いて拍を取り、ベラは杯を持ったまま、曲が速くなるたび肩を揺らしている。
「兄さんもちょっとくらい吹く? 私より上手いって自分で言ってた時期があったでしょう」
「言ってない。お前が勝手に張り合ってきただけだ。それに今日は、お前が吹きたいんだろ」
「そうだけど、兄さんの方が息は長いじゃない。昔は最後まで音を切らさなかったし」
「だったら次に取っておけ。ここで暮らすなら、笛を吹く夜は今日だけじゃない」
リュネはその答えに満足したらしく、笛を膝へ一度下ろした。
「それなら、今日は私が吹く。次は兄さんにも絶対やってもらうから、忘れないでね」
「お前が忘れなければ、そのうちやる」
「私は忘れるかもしれないから、兄さんが覚えておいてよ」
「結局、俺が覚えることになるのか。まあ、そのくらいなら覚えておく」
エイルは笑って杯へ口をつけ、次にリュネが選んだ曲を待った。
今度の曲は、さっきよりずっとゆっくりしていた。ロアンもすぐには弦を重ねず、最初の流れを二度聞いてから低い音を添える。ティルダは太鼓から手を離し、杯を両手で包みながら聞いていた。
笛の音は細いのに、洞窟の奥までよく届いた。帰り火が揺れ、厨房にはまだ焼けたチーズと燻製肉の匂いが残っている。窪地の方では三頭の馬がときどき蹄を動かし、食堂では誰も急いで次の仕事へ立とうとしない。
レオンは杯を持ったまま、向かいのエイルを見た。昨日までの男なら、妹が笑っていても、その向こうの出口を見ていた。森の中では枝が鳴るたびに弓へ手をかけ、ベルクへ着いてからも人の出入りを数えていた。洞窟へ来てからでさえ、入口とリュネの位置を無意識に確かめていた。
けれど今、エイルはそのどちらも見ていなかった。弓は自分の部屋に置かれたままで、手元にあるのは飲みかけの林檎酒だけだった。視線の先では、リュネが目を閉じて笛を吹いている。
昼には肉の棚を見て喜び、夕飯では野菜を皿の端へ追いやり、鑑定では黒い宝珠の使い道を次々に増やし、今はロアンの伴奏を勝手に引っ張っている。エイルは、そのどれも止めなくてよかった。守るために先回りする必要も、次に逃げる場所を探す必要もない。
曲の途中で、エイルの頬を一筋だけ涙が落ちた。本人はすぐには気づかなかったらしく、二滴目が落ちてから指先で頬へ触れ、濡れた指を見て困ったように笑う。
レオンは声をかけずに杯を置いた。しばらくして、エイルの方から笛へ視線を向けたまま口を開く。
「……あいつが、腹いっぱい食べて笛を吹いてる。これが守りたかったものなんだな」
レオンは返事の代わりに杯を傾けた。リュネは二人の会話に気づかず、最後まで笛を吹き切る。音が消えても誰もすぐには立ち上がらず、ロアンが弦へ置いた指を離すと、外では馬が一頭だけ鼻を鳴らした。
レオンが後になって知ったところでは、その曲はエルフが家族の幸せを森へ感謝するためのものだった。
三章はここで終了です。
申し訳ありませんが、四章は一日一回の更新に戻します。




