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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
帰り火に集うもの

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炉還りは追いつく場所を選びます

# 第三章 第11話 炉還りは追いつく場所を選びます


 旧採石場を離れてから、エイルはほとんど地面だけを見て歩いていた。古い石運びの道には荷車の轍も馬蹄の跡もいくつも重なっているが、奴隷商の幌馬車だけは、右車輪の欠けが一定の間隔で乾いた土を削っている。


 レオンには、エイルが何を見て足を速め、何を見て立ち止まるのか半分も分からなかった。道が固くなって轍が薄れれば脇の草へ目を移し、折れた茎の向きからまた道へ戻る。低い枝に泥が付いていれば指先で触れ、馬糞を見つければ表面の乾き具合まで確かめてから先へ進んだ。


「この跡だけで、まだ半日くらい離れているかまで分かるの?」


 ティルダが背負い紐を引き直しながら尋ねると、エイルは数歩先の轍まで見てから首を振った。


「そこまで正確には読めない。ただ、昨日この道を通ったのは間違いないし、二頭立てでも荷のある馬車なら街道で無理な速度は出せない」


「こちらは歩きだから、休まず詰めれば少しずつ距離を縮められる、ということか」


 レオンが確認すると、エイルの返事はすぐに返ってきた。


「それでいい。余計に止まらなければ、今日のうちにもかなり近づけると思う」


 雲の切れ間に残る日はすでに西へ傾き、冬の近いこの時期なら、山の端へ触れてから暗くなるまで長くはない。


 こちらは旧採石場で二十二人を相手にした直後だった。レオンの右肩には剣を受けたかすかな痛みが残り、ティルダの前腕当てには新しい傷が走っている。ロアンは水を飲む回数が増え、ベラも歩調こそ変えないものの、休憩を挟むたびに全員の水袋と顔色を気にしていた。


 エイルだけは、自分の疲労を追跡の計算へ入れていないように見える。それでも足取り自体は乱れておらず、跡を見失いそうになるたび速度を落として確かめ直すあたりに、焦りで技術まで捨ててはいないことは分かった。


 日が山の向こうへ触れる前、轍は古い石運びの道から南東街道へ合流した。街道へ出ても右車輪の小さな削れ跡は残っており、エイルはそれを見つけると迷わず南東へ顔を向ける。


「この先で合ってる。街道へ出てからも、同じ欠け跡が続いてる」


 エイルはそのまま歩き出そうとしたが、レオンは肩の留め具を外して荷を地面へ下ろした。


「今日はここで野営する。街道から少し戻って、火を隠せる場所で休むぞ」


 エイルの背が止まり、少し遅れてこちらを振り返る。


「まだ跡は見えるし、完全に暗くなるまでなら進める。夜になっても俺なら追跡は続けられる」


「エイル一人ならな。でも明日、追いついた先で六人前後の護衛と戦うことになるなら、採石場で一度戦った四人を夜道へ引っ張る方が悪手だ」


 レオンは右肩を回し、痛みが増えないところで止めた。


「相手が話し合いでリュネを返すとは考えない。こっちは疲れを残したまま追いつくより、今夜食って寝て、万全な方が勝算は上がる」


 エイルの視線はまた街道の先へ戻り、追うべき方向を確かめるように細くなる。


「一晩止まれば、その分だけ離される。もし向こうが夜も走っていたら、朝には届かなくなるかもしれない」


「馬車も夜通しは走り続けられない。馬を潰せば、その先の移動手段を失うのは向こうも同じだし、護衛だって眠らず歩けるわけじゃない」


 エイルは何も言わなかったが、その顔には明らかな焦りが見て取れた。レオンはそのまま、街道の先にある低い丘を指した。


「それに、朝になったら街道をそのまま追う必要もない。ここから先に大きく東へ回る区間があるだろう。森を突っ切って一つか二つ先の曲がりへ出れば、止まった分は取り返せる」


「尾根を越える近道はある。ただし、馬車道より足場が悪いから、全員が同じ速度で抜けられるかは見てみないと分からない」


「なら夜に足場の悪い森へ入る理由はもっとない。明るくなってから五人で抜ける方がいい」


 風が街道脇の枯れ草を鳴らし、その音が途切れたところで、エイルはようやく弓を肩へ掛け直した。


「分かった。夜明け前から準備だけ済ませて、跡が見える明るさになったらすぐ出たい」


「それなら異論はない。寝られなくても身体は横にして、明日の体力を残してくれ」


 エイルの口元がほんの少し歪み、笑ったというより、言い返すのを諦めた顔になった。


「横になるくらいならできる。眠れるかどうかは…分からない」


     ◇


 街道から少し離れた林の切れ目に、低い土手と木立で風を避けられる窪みがあった。荷を下ろすと、ティルダが寝床になりそうな場所から尖った石をどけ、ロアンは外套の端を地面へ押し当てて湿り具合を確かめる。


 ベラは周囲に枯れ葉が溜まっていない場所を選び、片手を地面へ向けた。


「今夜は目立たない大きさで使うよ。火を高くすると街道から見えるかもしれないから、温める分だけにする」


 《分炉》で生まれた橙色の火は、普段の炊事よりずっと低く抑えられた。鍋には水と干し肉、それに旧採石場から持ち出した根菜を刻んで入れ、ベラが塩と乾燥香草を加えると、冷え始めた林の空気に湯気の匂いが広がっていく。


「今日はこれで我慢しな。腹いっぱい食べるより、温かいものを入れて早く横になった方が、明日の朝は身体が動くからね」


「採石場のあとで温かい汁が飲めるなら十分だよ。僕は乾いたパンだけでも覚悟してた」


 ロアンが両手を火へ向けながら答えると、ティルダも木椀を受け取り、湯気へ鼻を近づけた。


「さっきまで石の穴で殴り合ってたのに、この匂いを嗅ぐと急に遠くまで来た気がする。変な感じだね」


「そういう日ほど食べるんだよ。明日も殴るつもりなら、なおさら空っぽじゃ困るだろ」


 ベラは最後にエイルへ椀を渡し、エイルは礼を言って火の周りに加わったものの、食べている間も何度か街道の方へ顔を向けている。食事を終えた瞬間に立ち上がりそうな張りつめ方だった。


 ロアンも同じものを感じたのか、匙で根菜をすくったところで声を掛けた。


「エイルは、この辺りの森でも迷わないんだね。ベルクの近くには長く住んでたの?」


 エイルはすぐには答えず、椀の中の汁を一口飲んでから顔を上げた。


「ここへ来たのはそんなに前じゃない。俺たちの里はもっと北東で、国境に近い森の中にある」


「この辺りより、もっと深い森で暮らしていたってこと?」


 ティルダが匙を止めると、エイルは林の暗がりへ目をやった。


「比べものにならないくらい深い。人の街道は森の外を通るし、里から一日歩いても木が途切れない場所がある。俺には、あそこが普通だった」


 過去形になった最後の言葉を聞き、レオンは木椀を膝へ置いた。


「里を出たのは、前に言っていた身体の不調が理由なのか」


 エイルの視線がこちらへ向き、最初に会ったとき、森に長くいると具合が悪くなることを本人は「呪い」と呼んでいたが、それ以上の事情までは聞いていなかった。


「そうだ。子供の頃からではなかったが、いつからか森の中に長くいると、呼吸が苦しくなったり、身体が重くなったりするようになった。日によって出方も違うから、薬師にも精霊に詳しい者にも見てもらったが、原因は分からなかった」


 エイルは火の向こうへ視線を落とし、薪の要らない炎の縁を見つめたまま続ける。


「森を離れてしばらくすると軽くなる。それで里では、森に拒まれた呪いじゃないかと言う者もいたし、俺もほかに説明を持っていなかった」


 ベラは鍋の位置を少しずらしてから、エイルの顔を見る。


「森を嫌いになったわけじゃないんだね。さっきから話を聞いてても、嫌な場所の言い方には聞こえないよ」


「嫌いになる理由はない。森で生まれて、そこで弓を覚えたし、外より中の方が俺は何倍も役に立てる。それなのに身体だけが長くいられなくなった」


 誰もすぐには言葉を挟まず、火の外では風が枝を揺らし、乾いた葉が何枚か窪みの端を転がっていく。


「治る当てがあって里を出たわけじゃない。ただ、森に長くいられないなら、外で暮らせる場所を探すしかなかった。俺一人で出るつもりだったんだ」


「そこでリュネを置いていこうとしたの?」


 ロアンが静かに尋ねると、エイルは眉間へ少し皺を寄せた。


「置いてきたというより、残るように言った。俺は里を出るから、お前はここで暮らせ、と話した。その時は何も言わなかった」


 エイルは残っていた汁を一口飲み、木椀の縁を親指でなぞった。


「三日目の朝、起きたら少し離れた木の下に座っていた。俺が寝ている間に追いついたらしく、荷物までちゃんと持っていた」


 ロアンの口元がわずかに緩み、火の明かりの中で目元まで柔らかくなった。


「かなり準備して追ってきたんだね。帰れと言えば素直に戻る感じでもなさそうだ」


「何度も言ったし、次の村では里の方角へ戻る荷車まで探した。それでも、あいつは帰らなかった」


 ティルダは少し身を乗り出し、続きを聞き逃すまいと木椀を膝へ置いた。


「そこまでして残ったなら、理由もちゃんと言ったんでしょ。何て言われたの?」


「『兄さん一人だと、自分が倒れるまで歩くから嫌です』だそうだ。あいつは昔から、俺が止めろと言ったことだけは妙に聞かない」


 その言い方には腹を立てている響きがなく、ロアンが小さく笑うと、ティルダもつられて口元を緩めた。


「妹ってそういうものなのかな。僕にはいないから分からないけど、少なくともリュネは兄さんを信用してるだけじゃないんだね」


「当たっているから文句が言えない。自分の不調を無視することと、獲物を追うと周りが見えなくなることは昔から何度も言われた」


 今度はエイル自身もほんの少しだけ笑い、火の周りの空気が一度ゆるんだ。レオンはその間に水を飲み、話が途切れないうちに続きを促した。


「それから二人で南西へ下って、森と開けた土地の境を選びながら移ってきたのか」


「そうだ。森の奥へ長く入ると俺の身体がもたないが、平野ばかりでは狩りも採集も難しい。だから森の縁を渡り歩いて、俺が狩った肉や毛皮を売り、リュネが薬草を集めて薬にしていた」


 ベラは空になりかけた鍋を火からずらし、残った汁が煮詰まりすぎない位置へ置いた。


「村へ売りに行く時は、やっぱりリュネが値段を決めてたのかい。エイルが交渉してる姿はあまり想像できないね」


「俺がやると早く終わらせたくて、相手の言い値で売ることが多い。リュネには、それも何度も怒られた」


 ロアンが喉を鳴らして笑い、レオンも思わず口元を緩めた。


「狩りでは凄腕なのに、交渉はからっきしか。商売が任せられる相手が一緒にいたのは助かったな」


「俺もそう思ってる。だから余計に、いなくなって困ってる」


 返ってきた言葉から笑いは消え、エイルの指が木椀の縁で止まると、視線もまた街道の方向へ向かった。


「ベルクの近くへ来たのも、森と平地が近くて村が多かったからだ。獲物も薬草も見つけやすく、しばらくはここで暮らせると思っていた」


 その先は誰も急かさなかったが、エイルは自分から話を続けた。


「リュネが攫われた日は、小川の近くで薬草を採っていた。街道から離れていて、前にも何度か使った場所だったから、俺は少し離れたところで鹿を追っていた」


 《分炉》の火が少し低くなり、ベラが指先で出力を足す。橙色の明かりが戻る中、エイルは表情を変えずに言葉だけを続けた。


「最初の一矢が浅くて、すぐ仕留めきれなかった。少し追えば狩れると思って獲物の方へ行き、戻る途中で人の声を聞いた時には、リュネはもう囲まれていた」


「囲んでいたのは、灰色頭巾の連中だったのか」


 レオンが尋ねると、エイルは小さく頷いてから、その時の様子を順に話し始めた。


「一人がリュネの腕を縛っていた。俺が撃って近づいたが、土を操る奴に足場を崩され、その間に馬車へ乗せられた。森を抜けるまでは追えたが、連中が乾いた石地へ入ったところで車輪跡も足跡も薄くなり、そこで見失った」


 エイルは空になった椀を地面へ置いたあと、しばらくそのまま手を離さなかった。


「俺が鹿を追って離れなければ、あいつは捕まっていない。普段なら何度やっても問題のない距離だったが、あの日だけは違った」


 ベラは口を開きかけたものの、何も言わずに閉じたので、レオンも慰める言葉を探さなかった。エイルが離れたのは事実であり、その判断が普段なら不自然でなかったことも事実だった。事実を消すことはできないので、続けるべき言葉はこの先のことだ。


「だから今は、離れたことを悔やむより、追いつくために全力を尽くす。明日はこちが勝つ」


 レオンが言うと、エイルはようやく木椀から手を離して顔を上げた。


「それでいい。俺一人で追えば早いと思っていたが、採石場も今日の追跡も、五人で動いた方が先へ進めてる」


 しばらくして、エイルは木椀を取り直し、底に残っていた汁まで飲み干した。


「見張りの時間までは横になるし、勝手に街道へ戻ったりもしない」


 ベラは空いた椀を受け取ると、音を立てないよう鍋の中へ重ねて片づけ始めた。


「見張りは頼むけど、一人で全部やるのは禁止だよ。森の音はエイルが一番分かるんだから、その時間だけちゃんと働いて、終わったら休みな」


「それなら任せてくれ。人や獣が近づけば、眠っている四人を起こす前に分かる」


 ロアンは焚き火のそばへリュートを置いたまま、今夜は曲を弾かなかった。弦を一本ずつ軽く鳴らして張りだけ確かめ、布を掛けてから寝床へ置く。


 ティルダは外套を丸めて枕にしながら、木々の隙間から見える夜空へ目を向けた。


「明日は本当に追いつけるかな。ここまで来ると、近いって思うほど落ち着かなくなるね」


 エイルは街道のある方角へ一度だけ顔を向け、それから横になる場所へ戻った。


「追いつける場所まで先に行く。そのために今夜止まったんだから、明日はそれを無駄にしない」


     ◇


 翌朝、低く抑えていた《分炉》を消した頃には、東の空がようやく白み始めていた。寝具を畳み、水と食料を分け直して街道へ戻ると、右車輪の欠けが残した削れ跡は昨日と変わらず南東へ続いている。


 エイルはしばらく轍を追ったあと、街道脇の乾いた泥へしゃがみ込み、馬蹄の縁を指でなぞった。


「昨日より馬の歩幅が狭くなってるし、ここで一度止めて水を飲ませた跡もある。向こうの馬もかなり疲れてきてる」


「ということは、こっちが寝ている間に距離を大きく広げられたわけじゃないんだな」


 少し先の柔らかな土には、人の足跡もいくつか残っていた。エイルはその中の一つで手を止め、細い靴底の輪郭と、踵の外側だけがわずかに崩れた跡を何度も確かめる。


 さっきまで一定だった呼吸がそこで一度だけ止まり、エイルは指先を土へ置いたまま顔を上げた。


「これはリュネの靴だ。右の踵だけ革を足して直したから、この減り方は見間違えない」


 レオンにはほかの足跡との違いさえほとんど分からなかったが、その数歩分が馬車の脇へ続き、また轍の近くで消えていることは見て取れた。


「少なくとも、ここでは自分の足で歩いてる。昨日の昼に採石場から出されたあとも、歩けない怪我はしていないようだ」


 ベラもしゃがみ、泥の表面と周囲の草を見比べる。


「血が落ちた跡も見えないね。何もされてないとまでは言えないけど、ここで大怪我した様子はなさそうだよ」


 エイルはもう一度足跡を見てから立ち上がった。肩の高さが昨日より少し下がったのを、レオンは横から見ていた。四人を見回し、装備と荷の位置を確かめる。


「森を突っ切るぞ。ここからは足場が悪い。急ぐが、誰か一人だけ先へ出る形にはしない。エイルも跡を読む必要がない区間で飛ばしすぎるな」


「分かってる。昨日みたいに、自分だけ速ければいい追い方はしない」


     ◇


 森へ入って半刻もしないうちに、エイルは一度だけ先へ出すぎた。倒木を越え、斜面を駆け上がる足は軽く、踏み込む瞬間だけ脚へ魔力を通しているのか、レオンたちが灌木を避けている間に銀金色の髪が木々の向こうへ遠ざかっていく。


 ただし、見えなくなる前にエイル自身が止まり、後ろの距離を確かめて斜面を少し戻ってきた。


「悪い。ここの足場なら一気に上がれると思って、五人で動いてるのを忘れかけた」


「戻ってきたならいい。こっちは防具も荷もあるから、登れる場所と同じ速度では走れない」


 レオンが答えると、ティルダは斜面の上に露出した岩を見てから、自分の短い脚へ視線を落とした。


「歩幅はエイルに負けるけど、岩が多い方が私は登りやすいよ。手を掛けられるなら、この斜面はそんなに遅れない」


「なら岩場はティルダの得意な経路を選ぼう。エイルは一番速い道じゃなく、全員が使える道を選んでくれ」


 それから先、エイルはレオンから大きく離れなかった。《身体強化》も速さだけへ使わず、ぬかるんだ斜面を越える時や倒木を飛び越える時、枝を避けて身体を捻る時だけ必要な場所へ魔力を寄せている。


 レオンたちはその動きを真似るのではなく、自分たちの装備と足に合う速度で後を追った。最も速い一人へ全員を合わせるより、五人が止まらず進める線を選ぶ方が結果として距離を稼げる。


 一つ目の尾根を越え、風が右手から抜ける斜面へ出たところで、ロアンが急に片手を上げた。


「少し止まって。右前の下から、同じ間隔で車輪が石を踏む音が聞こえる」


 全員が足を止めると、ロアンは耳を澄ませ、風向きを確かめるように顔を横へ向けた。


「たぶん街道だ。ここから見えなくても、音はそれほど遠くないところを通ってる」


 エイルが斜面を上がり、今度はレオンもすぐ後ろへついた。木々の切れ間まで出ると、かなり下方に南東街道が見え、二頭立ての幌馬車が一台、その脇を徒歩の男たちが進んでいる。


「見つけた。牢番が話していた二頭立てで、見える護衛の数もだいたい合ってる」


 レオンが数える間に、馬車は街道脇の水場で速度を落とした。御者を含めて見える男は七人ほどで、そのうち一人が後ろの幌を開ける。


 中から降ろされた女は、長い髪が朝の光を拾い、両手を前で拘束されていた。遠目でも、人間より長い耳だけははっきり分かる。


 隣でエイルの呼吸が止まり、弓を持つ手がわずかに上がった。


「間違いない。あそこにいるのがリュネだ」


 レオンが横を見るより早く、エイルの身体が斜面の下へ向いて前傾する。


「見えているなら、なおさら今は動くな。生きて歩けてるんだから、ここで飛び込んで人質にされる方がまずい」


 エイルの足は止まったが、視線は水場から外れない。


「この距離でも一人なら射てる。縄を持ってる男を先に落とせば、リュネが動けるかもしれない」


「一人を射ったあと、残りがリュネを盾にする。こっちは斜面を下りるまで時間が掛かるし、その間に馬車を出されたらまた追うことになる」


 下ではリュネが水を飲まされ、縄を持つ男のそばで数歩だけ歩いている。殴られている様子は見えず、ほどなく幌の中へ戻された。


 エイルは弓へ掛けていた指をゆっくり離し、矢をつがえないまま腕を下ろした。


「分かった。今ここで射るのはやめるから、どこで止めるかを決めてくれ」


「決めるのは俺だけじゃない。エイルがやりやすい地形の中から、馬車が逃げにくくて、こっちが先に位置を取れる場所を選ぶ」


 レオンは街道の先へ目を向け、このまま東へ進めば、道は岩の張り出した斜面へ入り、その向こうに馬車同士がすれ違えない狭い区間があると、昨夜エイルから聞いていたことを思い出した。


「一度で決めるなら、追いついた場所じゃなく、向こうが逃げにくい場所で待つ。俺たちはこの時のために昨夜立ち止まったんだろう?」


 エイルはもう一度だけ馬車を見てから、街道より先の森へ顔を向けた。


「それなら狭路へ案内する。北側が岩壁で南が急斜面だから、馬車は道から外れにくいし、上から射線も取れる」


     ◇


 五人は街道と並行する森をさらに進み、幌馬車より前へ出たことを確かめてから、エイルの案内で狭路へ降りた。北側には低い岩壁が続き、南側は木の生えた急斜面になっていて、馬車が道外へ逃げる余地はほとんどない。


 少し先で街道が曲がっているため、こちらの姿も直前まで見えにくい。レオンは道幅を歩いて確かめ、馬車が止まった時に護衛が広がれる範囲を目で測った。


「ここなら正面へ出れば馬車は止まる。後ろを塞げば、無理に方向を変える余地もない」


「北の岩棚からなら馬車の横まで射線が通る。リュネの位置が見えるまでは、確実に護衛だと分かる相手だけを狙う」


 エイルはすでに岩棚へ上がる割れ目を探している。ベラは南側の斜面と道の端を見比べ、乾いた藪から距離のある石地を指した。


「火を使うなら後ろ側の石が出てるところだけにするよ。藪へ移ったら消すのに手間が掛かるし、煙で馬を暴れさせたくないからね」


「それで頼む。馬は狙わないし、御者も手綱を捨てるなら殺す必要はない。逃げ道だけ潰して、戦う意思のある護衛を止める」


 ティルダは街道の幅を自分の歩幅で測り、馬車が通る位置を想像しながら槌を持ち直した。


「馬車の横は一人なら抜けられそうだけど、二人並ぶのは無理だね。前へ出てくる相手を私とレオンで止めればいい?」


「それでいく。俺とティルダが前、ベラは後ろを逃がさない。ロアンは中央から全体を見て声を出してくれ」


 ロアンは岩壁へ耳を向け、手を一度叩いて返ってくる音を確かめた。


「ここは音が戻るから、車輪はかなり手前から拾えそうだよ。歌うなら全員へ届くし、合図も通しやすい」


「ならエイルは上からリュネを見て、位置が分かるまでは無理に数を減らそうとするな。人質へ近い相手を撃つ時ほど、外した後まで考えてくれ」


「分かってる。リュネを取り返すために来たんだから、俺の矢で危険を増やすつもりはない」


 エイルが岩壁の割れ目へ足を掛け、ティルダとベラもそれぞれの位置へ動く。ロアンは道の中央より少し後ろでリュートを抱え、レオンは最後に四人の顔と立ち位置を見比べた。


 しばらくして、岩壁の返す音を拾ったロアンが指を立てた。


「来るよ。まだ遠いけど、二頭分の蹄と車輪の音が曲がりの向こうから近づいてる」


 全員が動きを止め、エイルは岩棚の上で弓を構えた。ベラは片手を道の後方へ向け、ティルダは槌の柄を両手で握りしめる。


 レオンも剣を抜き、曲がり角の向こうから近づく蹄の音を聞きながら、街道の中央へ立った。


「ここで止めて、リュネを取り返すぞ」


 誰も言葉では返さず、それぞれが決めた位置を崩さないまま、二頭立ての馬車が姿を見せるのを待った。


ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

今回は、追跡の途中で少しだけエイルの過去に触れました。

次回、いよいよリュネ救出へ。

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