旅商人は炉に質問します
最後にちゃんと食べたのはいつかと聞かれ、ミラは昨日から口にしたものを指折り数えた。
「昨日の朝です。豆を煮て、この子と分けました。昼は洞窟と窪地を見ていて食べていません。夜の煮込みと残っていた黒パンは、レオンさんに食べてもらいました」
「つまり、丸一日近くまともに食ってないのか」
「煮込みは味見しました」
「味見は食事に数えない。上の荷に俺の食料がある。取ってくるから、お前はここで座ってろ」
レオンは石台へ右手をつき、左肩を庇いながら立ち上がった。顔色は昨日よりましになっているものの、外套の下では傷を巻いた布がまだ肩を厚くしている。
「私が行った方がよくないですか。レオンさんは怪我をしています」
「縄を登ったことは?」
「ありません」
「なら俺が行く。今のお前が途中で動けなくなったら、片腕で引き上げることになる。その方が危ない」
ミラは反論しかけたが、少し前に立ち上がっただけで視界が暗くなったことを思い出した。
「では、無理だと思ったら戻ってきてください」
「そこはそうする。昨日みたいに倒れてから考える気はない」
レオンは革鎧までは着けず、外套を羽織って剣と短剣を腰へ戻した。洞窟の外へ出ると幼竜も後を追おうとしたので、ミラはその前へ回る。
「あなたは残ってください。脚もまだ治っていませんし、親が近くにいるかもしれないそうです」
幼竜は斜面とミラを見比べ、低く鼻を鳴らした。
「不満なのは分かります。でも今日は駄目です」
しばらく動かなかったものの、やがて幼竜は洞窟の入口まで戻り、そこへ腹をつけた。ミラは見送る代わりに、その横へ座った。
◇
窪地の上へ出たレオンは、縄を結んだ木の根元へ腰を下ろし、肩の痛みが引くまで呼吸を整えた。毒はかなり抜けている。それでも左肩には熱が残り、縄を握った右手を離したあとも傷の奥が脈に合わせて鈍く疼いた。
荷を取りに戻るだけなら歩けるが、成体地竜の可能性を残したまま無警戒で往復する気にはなれない。昨日倒した岩針蜥蜴の死骸を避け、まず窪地の縁に沿って足元を調べた。
昨夜までの雨で土は荒れ、小さな足跡の大半は形を失っている。灌木の根元には太い爪で引っかいたような古い傷が一つあったが、地竜のものか別の魔物のものかまでは決められない。さらに先では窪地の縁が広く崩れ、大雨より前の痕跡はほとんど流されていた。
新しい大きな足跡も、糞も、木へ巨体を擦りつけた跡もない。少なくとも昨夜から今朝にかけて、この近くを成体地竜が歩き回った形跡は見つからなかった。
「いない証拠にはならんか」
元気なら範囲を広げるところだが、今の身体で成体を見つけても逃げ切れる保証がない。レオンはそこで探索を切り上げ、旧銀山道へ戻った。
バルトは繋いだ場所の近くで草を食んでいた。レオンが近づくと耳をこちらへ向けたので、まず脚と蹄を一通り確かめる。傷も腫れもない。水袋から水を飲ませたあと、手綱を取って少し移動させ、大きな岩壁を背にできる場所へ繋ぎ直した。
「悪いな。もう少しここで待ってろ」
バルトは返事の代わりに鼻を鳴らした。
昨日のようにただ繋いでおくよりはましにしておく。バルトの繋留縄が届かない外側で、左右の灌木の間へ細い荷紐を張り、乾いた枝を三本吊るした。何かが紐へ触れれば枝同士がぶつかって音を立てる。さらに、折れていた灌木を外向きに寄せて、近づきやすい場所を少し狭めた。
防壁と呼べるほどのものではない。角狼でも本気で踏み越えれば止められないが、バルトが騒ぐ前に一度音が鳴れば、それだけでも違う。
「何か来たら鳴け。俺もできるだけ早く戻る」
そこまで整えてから荷を開いた。ラトス村へ運ぶ予定の塩や油、金属製品には手を触れず、自分用に積んでいた塩漬け肉、乾燥野菜、平焼きパン、固いチーズを七日分ほど取り分ける。小さな鉄鍋、香辛料、水袋、それに鉱床探しで使う検魔針も別の袋へまとめた。
一度に肩へ掛けるのは無理なので、荷袋を縄で先に窪地へ下ろし、自分は右腕と両脚を使ってゆっくり降りた。
◇
食料袋が岩床へ置かれた途端、幼竜が真っ先に鼻を寄せた。
「お前のためだけに持ってきたんじゃないぞ」
「でも、この子も食べると思います」
ミラがそう言うと、レオンは幼竜と食料袋を見比べてから、追い払うのを諦めたらしい。
「分かった。そいつの分も作る。お前は座ってろ。今は手伝うより、食って倒れなくなる方が先だ」
「何もしないのは少し落ち着きません」
「じゃあ、座ったままでできることだけにしろ」
ミラは炉のそばの石へ座り、乾かしていた水玉草と白苦草の葉が重なっていないかだけ確かめることにした。レオンは持ち帰った鉄鍋を炉へ掛け、塩漬け肉を小さく切って鍋底で炒める。脂が出ると乾燥させた蕪と人参を加え、持ち帰った水袋から水を注いだ。
肉と野菜の匂いが洞窟へ広がると、幼竜はさっきより露骨に鍋の近くへ寄ってきた。
「昨日は私の煮込みも、かなり急いで食べていました」
「痩せ方を見れば分かる。ただ、肉だけ食わせるなよ。腹を壊したら俺は地竜の薬なんか知らん」
「昨日は玉葱も豆も食べました。野菜だけ残すほど器用ではなかったです」
「なら助かる」
レオンは固いチーズを鍋へ少し削り入れ、黒胡椒と乾燥香草を振った。煮立ったところで木椀へ取り分け、平焼きパンを添えてミラへ渡す。
「熱いから急ぐな。空腹のあとに詰め込むと吐くことがある。最初はゆっくり食え」
「はい。昨日、レオンさんにも少しずつ食べてもらいました」
「自分が食べるときもちゃんとしろ」
ミラは少し考えてから、まず一匙だけ口へ運んだ。塩漬け肉の脂と塩気が蕪へ移り、乾燥していた人参にも汁が戻っている。昨日までの豆と黒パンより味が濃く、身体の内側へ熱が落ちていくのが分かった。
「おいしいです。塩漬け肉の味が野菜にも移っています」
「それならよかった。旅の飯なんて、鍋一つで作れて腹に入ればだいたい合格だ」
「薬草を入れなくても、ちゃんと身体が温まりますね」
「昨日は治療だったからな。今日は飯だ」
ミラは納得してもう一匙食べた。一杯目の半ばを過ぎる頃には、木匙を動かす速さが自然に上がっていたが、レオンに見られていることへ気づき、少しだけゆっくりに戻した。
幼竜には汁を少なめにして平たい皿へ取り分けた。レオンが皿を置くと最初は警戒して鼻先を引いたものの、ミラが食べ続けているのを見て近づく。肉を先に食べ、あとから野菜も口へ入れた。
「昨日よりは俺を嫌ってなさそうだな」
「昨日はレオンさんも剣を抜いていましたから」
「あれは俺も悪かった。地竜だと分かった直後だったから、先に身体が動いた」
レオンが素直に認めたので、ミラは幼竜の方を見た。
「聞こえましたか。昨日のことはお互い様だそうです」
幼竜は皿から顔も上げなかった。ミラが一杯目を食べ終えるのを待ち、レオンは二杯目に肉を少し多めに入れた。
「ありがとうございます」
「治療代だ。昨日、最後の食料まで俺に使ったんだから、そこは遠慮するな」
「私が勝手に使ったんですけど」
「俺が食ったことには変わらん。借りを返す相手が勝手だったかどうかは関係ない」
ミラは二杯目を受け取り、今度は最初からゆっくり食べた。レオンも自分の椀へ煮込みをよそい、パンを汁へ浸して食べ始める。
「レオンさんは、旅商人なんですよね。冒険者の証も持っていました」
「ああ。町や村を回って荷を売るし、必要なら護衛も討伐もする。鉱床を探す仕事もある。一つだけで食えるほど腕がいいわけじゃないから、旅先で金になることをいろいろ覚えた」
「帰る家はベルクですか?」
「家は決めてない。ベルクには借りてる倉庫がある。荷と商売道具を置いて、街に戻った日は奥へ寝台を出して寝ることもある。宿代が浮くし、荷から離れずに済む」
「便利そうですが、それは家ではないと思います」
「俺も家だとは言ってない。決まった家はない。寝られて、荷が無事なら今までは足りてた」
レオンはパンをちぎって汁へ沈めた。ミラはそれ以上聞かず、椀に残った蕪を木匙で半分に割る。幼竜は食べ終えた皿を舐めていた。
食事が終わる頃には、レオンの顔色も少し戻っていた。空になった椀を置くと、彼の視線が炉へ向く。
「さて。昨日から、あれが気になってる」
「帰り火ですか?」
「ああ。薪も炭もないのに飯が作れて、質問にも答えるんだろ。動けるうちに分かるところだけ確かめたい」
レオンは炉の縁へ落ちていた細い枝を一本拾い、金色の火へ先端を差し入れた。枝は普通の焚き火と同じように焦げ、やがて赤い炎を上げる。錆びた火掻き棒で灰を寄せても、その下から薪は出てこなかった。
「火そのものは普通に物を燃やす。灰の下に燃料が隠れてるわけでもないな」
次に道具袋から、銀色の細い針を取り出す。
「それは何ですか?」
「検魔針。魔力を帯びた物や場所へ近づけると反応する。鉱床を探すときにも使う」
針を帰り火へ近づけると、根元から先まで青い光が走った。距離を離せば弱まり、また近づけると強くなる。
「魔力はある。ただし、検魔針で分かるのはそれだけだ。どういう術式で燃えてるかまでは出ない」
レオンは針を革袋へ戻し、炉の正面へ座り直した。
「俺の声が聞こえるか」
帰り火は変わらなかった。ミラにも文字は見えない。
「何も出ません」
「じゃあ、お前から聞いてみてくれ。俺の質問に答えられるか」
ミラは火へ向き直った。
「帰り火。レオンさんの質問に答えることはできますか?」
《回答できません》
「回答できないそうです」
言ってから、ミラは少し考えた。
「でも、レオンさんの声を聞いていないのか、聞いているけれど答えられないのかまでは分かりません」
「その区別は残しておけ。分からないところを想像で埋めると、次に確かめるとき邪魔になる」
ミラは頷いた。共同寮でも、見つけた違いの理由まで自分で決めてしまうと困ることがあった。今は分からないものを、分からないままにしておけばいいらしい。
「では、分かることを聞きます」
レオンが炉を指した。
「まず燃料。薪が必要か」
「帰り火は、燃え続けるために薪が必要ですか?」
《不要です》
「必要ないそうです」
「いつまで燃える?」
「この火は、いつまで燃え続けますか?」
《回答できません》
「誰が作った?」
「帰り火を作った人は誰ですか?」
《回答できません》
三つ目の返答を聞くと、レオンは顎へ手をやった。
「燃料がいらないことだけは分かった。継続時間も作った奴も不明。今はそれでいい。答えが出ない質問を言い換えて何度も投げても、情報が増えるとは限らん」
「はい。最初に聞いたときも、何でも答えられるとは言いませんでした」
「その言い方は信用できるな」
「私もそう思いました」
レオンは帰り火の石組みと、天井へ煙が抜けていく穴を見比べた。
「この炉のこと、ベルクやラトスで誰かに話したか?」
「まだ誰にも会っていません。レオンさんが最初です」
「なら、しばらく他では話さない方がいい。正体の分からない魔法の品があると知れたら、見物に来る奴、買いたがる奴、盗ろうとする奴、仕組みを確かめるために分解したがる奴まで出る。誰のものなのか、動かせるのか、壊したらどうなるのかも分からないうちは、人を呼ぶ理由がない」
ミラは石組みを見た。今はここで料理をし、濡れた服を乾かし、夜を明るくしてくれている。
「持っていけるかどうかも、まだ分からないんですね」
「ああ。分からないなら、先に知られない方が楽だ。調べる順番をこっちで決められる」
「分かりました。自分からは話しません」
レオンはそれでいいと頷き、今度は洞窟の入口へ視線を向けた。
「地竜の方も少し見てきた。新しい大きな足跡や糞はなかったし、木へ身体を擦った跡も見つからない。少なくとも昨夜から今朝にかけて、この近くを成体が歩いた形跡はなかった」
「では、親はいないんでしょうか」
「そこまでは言えない。雨で古い痕跡はかなり消えてるし、今日見たのも近くだけだ。俺の肩が戻るまでは、お前も一人で斜面を登るな。昨日も登れなかったんだろ」
「はい。今日は登りません」
「今日だけじゃない。明日も、俺が止めたら登るな。肩が戻らないうちに救助まで増やされたら困る」
「分かりました」
幼竜は自分の話だと分かっているのかいないのか、炉の横で丸くなり、右前脚を腹の下へ入れていた。
レオンは洞窟の奥へ目を向ける。水場があることは知っているが、それ以外はまだほとんど見ていない。
「明日、もう少し身体が戻ったら、この洞窟をちゃんと見せろ。水場も、奥も、炉以外に何が残ってるかも確認したい」
「水場と、乾いた横穴なら案内できます。横穴には私の荷物も置いてあります」
「それでいい。今日はもう増やすな。お前も俺も、やることを増やすとろくなことにならん日だ」
ミラは空になった木椀を重ね、洗うために立ち上がりかけた。レオンと目が合う。
「……これは今やらない方がいいですか?」
「少し休んでからでいい。水場は逃げない」
ミラは椀を膝へ戻した。
「では、少し休んでから洗います。水は逃げませんから」
「その判断を、飯を抜く前にも使ってくれ」
「次はそうします」
空になった木椀二つと幼竜の皿が炉の前へ並び、鉄鍋の縁からはまだ細い湯気が上がっていた。
「味見は食事じゃない」
この洞窟では、どうやらそこから教える必要があるようです。二人と一匹の生活を気に入っていただけたら、評価をいただけると励みになります。




