商会員は住む場所を決めます
二日後の朝、エルネはベルク西門の外で、小さな革鞄を足元に置いて待っていた。
荷物はそれだけだった。着替えが二組と、帳面、筆記具。それに古びた木箱へ私物を少し詰めたらしい。商会の寮や地方支店を渡り歩いてきたせいで、住み替えのたびに持ち物を増やさない癖がついていた。
レオンはバルトの手綱を引き、二輪荷車を門から出してきた。荷台にはベルクで買った塩や油、砥石、麻糸、燕麦と、空になった酒樽が載っている。
「待たせたか」
「いや。おらが早かっただけだ。支店の鍵返してきたら、急にやることなくなってな。三十年近く朝から何かしら仕事してたから、待つだけってのが落ち着かねえ」
エルネはそう言って、レオンの荷車を見た。
「で、昨日言ってた『歩かねえ帰り方』ってのは?」
「町から離れてから見せる。人に見られたくない」
「他言するなって話だったな。分かってる。商会にいた頃だって、客の仕入れ値や借り入れまで外で喋るほど口は軽くねえよ」
西街道をしばらく進み、往来が疎らになったところでレオンは脇の林道へ入った。途中で二度振り返り、同じ者がついてきていないことを確かめる。エルネは何も聞かず、荷車の横を歩いた。
木立に囲まれ、街道から姿が見えなくなったところでレオンが足を止めた。
「《帰還》って技能だ。俺が帰る場所へ、近くにいる人間と動物、荷をまとめて運べる。人間を連れた例もある。嫌なら四日歩く」
エルネは一度レオンを見て、それからバルトと荷車を見た。
「四日分を一瞬で?」
「ああ」
「それ、商会が知ったら輸送の仕事が半分ひっくり返るぞ」
「だから喋るな」
「分かってるって。……いや、分かったつもりだったけど、今ので重さが変わったな」
エルネは革鞄を拾い、肩へ掛けた。
「使ってくれ。あれこれ言うより、一回見た方が早え」
レオンは頷き、エルネへ十歩より離れないよう言った。バルト、荷車、その積み荷、エルネを順に確かめる。
足元へ橙色の光が広がった。
エルネは光が自分の靴を包むのを見下ろした。何か言おうとしたところで、湿った林の匂いが途切れた。
◇
次に鼻へ入ったのは、土と草、それからどこかに煙が混じった匂いだった。
エルネは目を上げた。
林は消えていた。
背後には低い斜面。前には岩壁に囲まれた窪地があり、その奥に洞窟の入口が開いている。バルトも荷車も、さっきと同じ姿勢のままそこにいた。
「……おい」
「着いた」
「それは見りゃ分かる。いや、分からねえな。さっきまでベルクの西にいたべ?」
「ああ」
「四日だぞ」
「歩けばな」
エルネはしばらく林の代わりに現れた岩壁を見ていたが、やがて両手で自分の上着を叩いた。革鞄もある。靴もある。
「荷まで全部ある……。こんなの使って、よく今まで普通の顔して行商やってたな」
「使えるのは七日に一度だ。何でもこれで済むわけじゃない」
「それでも十分おかしいべ」
洞窟の入口から、小柄な少女が出てきた。赤い髪を顎のあたりで揃え、エルネとレオンを見比べる。その後ろから、黄土色の丸い身体がぬっと顔を出した。
二本の角。その片方は先が欠けている。
エルネの口が止まった。
「レオンさん、お帰りなさい。それと……お客様ですか?」
「ああ。エルネだ。ベルクの商会で長く働いてた。帳面や在庫の仕事を頼めないか話してる。今日は、ここで暮らせそうか見てもらうだけだ」
少女はエルネへ向き直った。
「ミラです。まだ決める前なら、お客様ですね。いらっしゃいませ」
「お、おう。エルネだ。よろしくな」
返事をしながらも、エルネの目は少女の横へ戻る。
「……で、それは?」
「キュウです」
「名前じゃなくてだな」
「地竜だ」
レオンが荷車の綱を外しながら答えた。
エルネはもう一度キュウを見た。キュウも見返した。やがて幼竜の方が先に荷車へ鼻を向け、燕麦袋ではなく、その横の油包みを嗅ぎ始める。
「食うなよ」
レオンに言われ、キュウは一度だけ鼻を鳴らした。
「……地竜が言うこと聞いてるぞ」
「キュウはだいたい聞いてくれます。食べ物の前だと少し難しくなりますけど」
「だいたいで済ませていい相手なのかねえ」
口ではそう言いながら、エルネはもう少し近くへ寄っていた。
◇
午前のうちに、レオンは洞窟の中を一通り見せた。
主洞には大卓と帰り火。奥には厨房、冷蔵室と冷凍室、酒樽を置く場所、工房、馬房、居住区が続く。外へ出れば畑と果樹があり、岩壁の一角には地下へ下りる階段がある。
エルネは最初の半刻こそ何度も足を止めたが、そのうち驚くより先に質問するようになった。
「この林檎、買ってきた苗から採ってんのか?」
「元から一本あった。今は増やしてる途中だ」
「酒の原料代、ほとんど掛かってねえじゃねえか。樽と道具と人の手間は掛かるけど、それでベルク二十枚、王都二十五枚?」
「ああ」
「青魔鉄も洞窟から?」
「採れる。今は普通の金属が二層から回るから、日用品に青魔鉄を使う量は減った。そして、階段の下がダンジョンだ」
「……ダンジョン?」
「今のところ二層まで確認してる。一層は氷系の魔物が多い。二層はアンデッドだ」
「大蜥蜴の肉も?」
「一層の主の氷殻大蜥蜴だ。七日くらいで同じ場所に戻る」
エルネが止まった。
「待て。今、七日って言ったか?」
「言った」
「倒しても、また出る?」
「今のところ何度も確認してる」
「……おら、昨日まで利益率の高い商売を見てるつもりだったんだけどな」
エルネは額を撫でた。
「ここ、原料を買って売る商売じゃねえんだな。土地から出る物を、ここの連中の手で値打ちある物へ変えてる。そりゃ銭は残る。ただし、手間までただだと思ったら駄目だぞ。昨日も言ったけど、自前でやるってのは人の時間を使うってことだからな」
「そこは分かってる」
「ならいい。若ぇ時に『材料代が掛からないから儲かる』って言って、職人を三人潰しかけた店があってな――」
話が始まった。
レオンは口を挟まず、冷蔵室の戸を開けた。エルネは昔の店の話をしながら中を覗き、途中で話を止めて肉の札を読み、また続きを話した。
その店が最後にどうなったかまで聞く前に、厨房からベラの声が飛んできた。
「昼にするよ。客を連れ回すのはいいけど、腹減らしたまま帳面見せたって頭に入らないからね」
「そりゃそうだ。飯の前に数字を見ると、腹の減った分まで赤字に見える」
エルネが真顔で言い、ベラが一瞬だけ手を止めた。
「それ、今まで何人に言ったんだい」
「今思いついた」
「なら忘れな。あんまり役に立たないよ」
◇
昼の大皿には、厚く切った氷殻大蜥蜴の肉が載っていた。
表面には強い焼き色がつき、切り口からは透明な脂が滲んでいる。横には根菜と葉物を軽く煮たものが添えられ、肉の汁を吸って艶が出ていた。
エルネは一口食べ、しばらく噛んだ。
もう一口切った。
「……これ、王都でも相当高く取れるだろ」
「取れるらしいね。料理屋に持ってったら、燻製の方もかなりいい値が付いたよ」
ベラは自分の皿へ肉を取りながら言った。
「でも毎日食べるわけじゃないよ。脂がききすぎてて太りそうだからね。飽きたなんて言うやつも出てきかねない。まあ、今日は客がいるからね」
エルネは口の中の肉を飲み込み、皿の端に残った脂をパンで拭った。
「これの内臓なんか、塩煮込みにしたら旨そうだべ」
ベラの眉が少し上がった。
「内臓は置いてきたよ。今度とってくるかい?」
「内臓は旨めぇっていって喜んで食う奴いるぞ。こういう脂のある肉は内臓も面白そうだべ」
「……あんた、分かってるね」
「田舎じゃ肉一頭取ったら、食えるとこ残す方が怒られるべ」
エルネが笑うと、ベラも口元を緩めた。
向かいではロアンが小さな杯へ林檎酒を注いでいた。
「エルネも飲む?」
「昼からか?」
「今日は見学なんだろう。仕事なら勧めないけど、見学なら味見くらい…いいんじゃない」
「もっともらしいこと言うなあ。まあ、一杯だけな」
杯を受け取り、香りを嗅いでから口へ含む。
「こりゃ売れるわ」
「もう売れてるよ」
「分かってる。昨日売ってるとこ見たべ」
ロアンは笑った。
「じゃあ、何が気に入った?」
「林檎の匂いが残ってるのに、甘ったるくねえところだな。若い頃、南の支店で似たような果実酒を飲んだことあるけど、あれは砂糖入れすぎて翌朝まで口が甘かった」
「南の支店って、どの辺?」
レオンの手が止まったが、エルネはそれに気づかなかった。
「王都から南へ八日くらいだ。あの頃は橋がまだ古くてな。春の増水で荷車が一台落ちた年があって――」
ロアンは杯を持ったまま少し身を乗り出し、続きを促した。
橋の話から、果実酒を作っていた宿の主人、その主人が飼っていた片耳の犬、そこで覚えた干し肉の作り方まで話が延びる。ロアンは途中で「その犬は酒を舐めたの?」と聞き、さらに話を枝分かれさせた。
ベラは食べ終えた皿を重ねながら、レオンへ小声で言った。
「聞き上手が二人いると、あれは止まらないね」
「一人でも止まらん」
「なら諦めな」
◇
午後、エルネは帳面を見せてもらった。
レオンの売買帳だけではない。ロアンの酒の記録、ミラがつけている生活用品の控え、工房で材料の残りを書いた木札。形式はばらばらだったが、どれも何も書いていないわけではない。
「なるほどなあ」
大卓の上へ並べ、エルネは一冊ずつ開いた。
「昨日言った通りだ。帳面がないじゃねぇ。みんな、自分の仕事のことはちゃんと残してる。問題は、最後に全部レオンへ集まることだな」
ミラが向かい側へ座っていた。
「レオンさんが出かける前に、私たちが必要なものを言っています」
「それで回ってるなら、今までのやり方が間違いってわけじゃねえよ。ただ、酒が二樽出せるって話と、塩が一袋要るって話と、砥石が減ったって話を、一人で全部やるのは大変だべ」
エルネはミラの薄い帳面をめくった。
包帯布、石鹸、燕麦、種、針、油。品名の横に、急ぐものと次でもよいものが分けてある。
「これは見やすいな」
「忘れるので、書いておいた方がいいんです」
「忘れるから書く。それでいいんだ。おらも若ぇ頃、倉庫で頭に入ってるから大丈夫って言って、油瓶を十二本……」
エルネはそこで昔の失敗を話し始めた。
油瓶の数を覚えたつもりで帳面へ書かず、翌朝になって一本足りないことに気づいた。盗まれたと思って倉庫中を探したら、前日に自分で別棚へ移していたという、本人以外にはあまり教訓の強くない話だった。
それでもミラは途中で席を立たず、最後まで聞いた。
「そのとき、一緒に探していた人には謝ったんですか?」
「謝ったよ。半日付き合わせたからな。昼飯もおらが奢った」
「よかったです」
エルネは少し目を細めた。
「ミラはいい娘だなあ。こういう話は若ぇうちに聞いとくと、あとで一回くらい助かるぞ」
「はい。油瓶を動かしたら、動かしたことも書きます」
「そこまで覚えてくれたら話した甲斐がある」
レオンは帳面へ目を落としたまま何も言わなかった。
◇
工房では、ティルダとフレイが古金属の板を切り分けていた。
ティルダは袖のない作業着の上へ革前掛けをつけ、赤銅色の髪を高い位置でまとめている。フレイは肩までの髪を編み込み、煤の付いた頬を手の甲で拭ったところだった。
エルネが入口へ立つと、二人とも作業を止めた。
「この人?」
「さっき言ってた商会のおじさんだ」
レオンが答える。
「おじさんは余計だべ。エルネでいい」
「エルネ」
ティルダは素直に呼び直し、近くまで来た。
それから、エルネの腹、肩、顔を順に見た。
「……なんか可愛いね」
「何が?」
「エルネが」
「おらが?」
思わず聞き返すと、フレイまで姉の横へ並んだ。二人ともエルネよりずっと低い位置から見上げている。
「分かる。人間にしてはちょっと小ぶりで、丸い感じする」
「おめらよりは高いべ」
「それはそうだけど、レオンみたいにずっと首上げてなくていいし。肩とかお腹とか、ちょっとドワーフっぽい」
ティルダが言い、フレイはエルネの額を見た。
「でも、おでこはつるっとしてるね。髭もないし」
「そこは人間だべ」
「だから可愛いんじゃん」
ティルダは納得したように頷いた。
からかわれている様子ではなかった。本当に何か気に入ったらしい。
エルネは咳払いを一つした。
「まあ、おらも若ぇ頃はもう少し細かったんだけどな。地方支店にいると、取引先で飯出されること多くて――」
「姉ちゃん、昔話始まった」
「聞こう。細かった頃ちょっと気になる」
二人が近くの箱へ腰掛けた。
エルネは少しだけ背筋を伸ばした。
その話は、結局、若い頃の体形よりも、ある支店長が毎晩揚げ物を食わせたせいで三か月で上着の腹が閉まらなくなった話の方が長かった。
◇
夕食のあと、ロアンがまた酒を出した。
「一杯だけって昼に言ったべ」
「夜になったから、昼の一杯はもう数えなくていいんじゃないかな」
「おめえ、そうやって借金増やした口だな?」
「鋭いね」
「顔に書いてある」
エルネは呆れながらも杯を受け取った。
帰り火のそばでは、ミラがキュウの背を撫でている。ベラは厨房で明日の朝食の仕込みをし、双子は工房から持ってきた小さな金具を卓の端で見比べていた。
誰かが何かをしていて、誰かがそれに口を挟む。話題が一つ終わる前に別の話が始まり、それでも食卓から人がいなくならない。
エルネは杯を空にした。
「お客さん用の寝床はこっちです」
食後、ミラが主洞の端に用意した寝具へ案内した。
「個室じゃなくてすみません。住むと決めた人には部屋ができるんですけど、まだエルネさんはお客様なので」
「何言ってるか分かんねぇが十分だよ。商会の倉庫で寝た頃に比べりゃ、屋根が落ちてこねえだけ上等だ」
「洞窟なので、屋根というより岩です」
「……そうだな。落ちてきたらもっと困るな」
ミラは少し考えてから、毛布の端を整えた。
「寒かったら言ってください。夜は外より暖かいですけど、入口に近いと風が入ります」
「ありがとな」
明かりが減り、皆がそれぞれの場所へ戻ったあとも、洞窟はすぐには静かにならなかった。
厨房から水の流れる音がする。少し離れた工房では、双子が何か一つだけ片づけ忘れたらしく、短く話す声がした。ロアンの部屋から弦が二度鳴り、ベラに「もう寝な」と言われて止まった。馬房ではバルトが脚を動かし、どこか近くでキュウが低く鼻を鳴らした。
エルネは毛布の中で目を閉じた。
妻を亡くしてから、地方支店の寮でも借りた部屋でも、仕事を終えて灯りを消せば一人だった。隣室に誰かがいることはあっても、同じ家の音として聞いたことは長くない。
今夜は、誰かがまだ起きている。
しばらくして、工房の声も消えた。
エルネは寝返りを一度だけ打ち、そのまま眠った。
◇
翌朝、目を覚ましたときには、ベラがもう厨房に立っていた。
「起きたなら顔洗ってきな。朝飯はもうすぐだよ」
「早えな」
「あんたに言われたくないね。まだ日も上がりきってないよ」
歳のせいか、最近は朝が早くなってきたエルネだった。水場で顔を洗い、戻る途中で大卓に置かれた木札へ目を止めた。
昨日、ティルダたちが使った鉄板の残りが書いてある。その横には、ロアンが使った樽の数と、ベラが必要だと言った塩の残量。書いた人間が違うため、単位も置き方も揃っていない。
エルネはしばらく眺め、近くにあった白紙の木札を一枚取った。
「レオン。この塩、次に買う時は燻製用と普段の料理用で分けて数えた方がいいぞ。減り方が違う。あと冷蔵箱の石は、店ごとに交換した日だけ一枚へまとめとけ。四日離れてるんだから、切れてから思い出すと客が困る」
朝食の椅子を引いていたレオンが振り返った。
「昨日まで見学だったんじゃないのか」
「見てたら気づいたんだ。知ってて黙って、あとで困ったら気分悪いべ」
「働くとはまだ言ってないな」
「だから助言だ。給金は取らねえ」
エルネは木札へ二、三行だけ書き、そこで筆を置いた。
「それに、今のやり方が駄目ってほどじゃねえ。分けりゃ後で楽になるってだけだ。おらが昔いた店で、塩を全部一緒に数えて――」
「朝飯にしよう」
レオンが言った。
「まだ二言しか話してねえぞ」
「飯のあとにしろ」
「それならいい」
エルネは素直に座った。
昨日の昼より簡単な朝食だった。パンと豆の煮込み、それに少しの燻製肉。エルネはそれを食べながら、向かいのミラがキュウへ燻製肉を取られないよう皿を少し遠ざけるのを見た。
食べ終わるころ、レオンが言った。
「昨日話した条件は変わらない。月銀貨二十五枚。食事と個室はこっちで出す。帳面、在庫、注文、仕入れの整理を中心に頼む。外へ出る必要があるときは相談する。戦う仕事はさせない」
「二十五枚か」
「少ないなら断れ」
「逆だ。食って寝る場所つきなら、王都の帳場より悪くねえ。それに商売は昨日見た通りだ。潰れる心配より、儲かる心配した方がいいくらいだべ」
エルネは卓の上の空いた皿を見た。
「おら、昨日から色々考えたんだ」
ロアンが杯を取ろうとしていた手を止めた。まだ中身は水だった。
「王都へ戻りゃ、まだ仕事はある。三十年近く商会にいたんだ。今さら食うに困るわけでもねえ。でもな、そろそろ商人としてどう終わるかは考えてた」
エルネは自分の手を見た。指先には長年のインク染みが薄く残っている。
「若ぇ頃は、言われたところへ行って、言われた仕事をやって、それで覚えた。失敗もしたし、助けてもらった。だったら最後は、おらが知ってることを若ぇ奴らへ渡しながら働くのも悪くねえと思ってな。おらが先にした失敗まで、おめらが同じように踏む必要はねえべ」
誰も急かさなかった。
エルネは一度鼻をすすり、別に泣いてはいないという顔で続けた。
「それにまあ、飯は旨えし、酒も旨え。話をちゃんと聞いてくれる奴もいる」
ミラが少し笑った。
「エルネさんのお話、知らないことが多くて面白いです」
「ほら。いい娘だべ」
「僕も聞いてるよ」
ロアンが言う。
「おめえは余計なとこ聞いて話を長くするんだよ」
「長いのは僕のせいだったのか」
「昨日は三割くらいおめえのせいだな」
工房へ行く前のティルダとフレイが、卓の端で顔を見合わせた。
「あと、エルネ可愛いしね」
「それもあるね」
エルネの頬が緩んだ。
「……まあ、それも悪くねえな」
ベラが鍋を洗いながら笑った。
「そこ、ずいぶん効いてるじゃないか」
「若い娘っこに可愛いって言われて嫌な男がいるか?」
「開き直ったね」
エルネは咳払いをした。
「とにかくだ。仕事はやる。ここなら、おらの知ってることもまだ使い道がありそうだ」
レオンは頷いた。
「仕事は頼む。それで、住む方は?」
エルネは答える前に主洞を見回した。
帰り火。厨房。工房へ向かう双子。酒の杯をまだ片づけないロアン。キュウの前へ水を置くミラ。鍋を拭いているベラ。
昨夜、自分が眠るまで消えなかった音を思い出した。
「住むよ」
今度は長くならなかった。
「おら、ここにいる。本店には辞める返事を出さなきゃならねえし、ベルクに荷も少し残ってるけど、それは別に片づけりゃいい」
「次にベルクへ出るときに済ませる」
「頼む」
◇
ミラが帰り火の前へ座った。
「エルネさんが、ここに住みたいそうです」
橙色の炎が少し高くなり、ミラの前へ白い文字が浮かぶ。
エルネにも、胸元のあたりへ同じような文字が見えた。
《この場所への帰属を申請しますか?》
《はい》
《いいえ》
「ぶったまげたなぁ。昨日の《帰還》も大概だったけど、今度は文字まで出るのか」
「ここに住む人は、帰り火へ帰属を選ぶんです。嫌なら《いいえ》でも大丈夫です」
「そこまで決めてから座ってんだ。《はい》だよ」
エルネが選ぶ。
表示が切り替わった。
《エルネ――帰属選択を確認》
《炉守りの受容を確認》
ミラにも別の表示が出たらしい。彼女はエルネを見た。
「私も、エルネさんにいてほしいです。レオンさんが出かけている間も、分からないことを聞ける人が増えると安心します。それに、昨日のお話の続きもまだありますよね」
「あるある。油瓶の次にな、樽を一本数え間違えた話が――」
「先に登録しろ」
レオンが言った。
「こっからがいいとこなのになぁ」
ミラが笑い、《受容します》へ触れた。
《第八炉縁者――エルネを登録します》
帰り火が一度、大きく揺れた。
続いて、居住区の奥から低い石擦れの音が響く。
エルネは反射的に立ち上がった。
「今度は何だ?」
「たぶん、エルネさんのお部屋です」
「また『たぶん』か。ここじゃ壁が動くのまでその調子なのか?」
皆で奥へ行く。
昨日まで岩壁だった場所に、一人が通れる新しい入口が開いていた。中には寝台代わりの石の張り出しと、荷を置ける窪みがある。壁際にも低い石の張り出しが一つあった。
エルネは入口で止まった。
「……おらの部屋か」
「はい。エルネさんのお部屋です」
ミラが答えた。
エルネは壁際の張り出しへ手を置いた。板を一枚渡せば帳面くらいは広げられそうだ。冷たい石を、掌で何度か撫でる。
「個室つきとは聞いてたけどな。誰かの空き部屋か、板で仕切るくらいだと思ってたぞ。住むって決めたら壁が部屋になるなんて、ほんとぶったまげたわ」
「外では話せないことが多い」
レオンが答える。
「それ、便利な言葉だなあ」
エルネは笑った。
革鞄を石の寝台へ置き、もう一度部屋を見回す。
「おらが初めて一人部屋もらったのは、二十七の頃でな。あの時の支店は――」
「長いか?」
「まだ始めてもねえべ」
「答えになってる」
エルネは不満そうにレオンを見たが、ミラはもう石台の横へ立っていた。
「私は聞きます」
少し離れたところで、ロアンまで壁へ背を預けた。
「僕も。二十七の頃なら、昨日の話より少し新しいね」
エルネは二人を見て、口元を緩めた。
「じゃあな、あれは王都の東支店へ移った年で――」
レオンは何も言わず、自分の部屋へ戻った。
エルネはその背中を見送ってから、ミラとロアンへ向き直った。帳面の仕事なら、これから減らしてやれる。
昔話を聞く時間は仕事ではない。なら、たぶん勘定に入れなくていい。
話の長いおじさん、楽しそうに聞くだけで好かれます。本当です。
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