吟遊詩人は強い酒を急ぎません
翌朝、ロアンが食堂へ出ると、昨日まで大卓の端を占領していた蒸留器は、もう厨房手前の石床へ移されていた。低い作業台には銅の釜と蓋が据えられ、曲がった管の先には冷却器がつながっている。その脇ではティルダとフレイが朝食もまだなのにしゃがみ込み、管へ定規を当てたり、留め具の角度を直したりしていた。
ティルダは袖のない短衣の上から革前掛けを着け、赤銅色の髪を高く結んで、王都で買った葉形の髪留めを差している。フレイも生成りの短衣の袖を肘までまくり、片側へ細く編んだ髪が作業の邪魔にならないよう後ろへ払っていた。二人とも昨夜のうちに一度は組み上げたはずなのに、朝になったらまた触りたくなったらしい。
「朝ごはんの前から始めたのか。僕が寝坊したわけじゃないよね?」
ロアンが声をかけると、冷却器の下へ潜り込んでいたフレイが身体を起こした。
「寝坊じゃないよ。姉ちゃんが起きてすぐ箱を開けたから、私も付き合ってるだけだからね」
「付き合ってるって言うけど、フレイだってさっきから定規を離してないじゃん」
「姉ちゃんが適当に据えるから測ってるの。酒を入れてから傾いてたら困るでしょう」
二人の言い分を聞きながら、ベラは厨房で朝食の鍋をかき混ぜていた。ときどき蒸留器へ視線を向けるものの、火を使わないうちは好きにさせるつもりらしく、口元には薄い笑いが残っている。
「朝飯を食べ終わるまでは組み直すだけにしな。火まで入れたら、その蒸留器ごと外へ出すよ」
「分かってるって。今日は最初に水を通して、それで問題がなければすぐ林檎酒を入れるんでしょう?」
ティルダはそう答えながら、もう管の先へ受け器を据えていた。ロアンも昨夜から蒸留の本を何度も読み返し、林檎酒を蒸留すればずっと強い酒が取れることは理解している。それでも、文字で読んだ仕組みから本当に酒が出てくるところは、一度も見たことがない。
朝食のパンをちぎりながら蒸留器へ顔を向けると、ベラがとうとう声を立てて笑った。
「ロアンまで同じ顔してるじゃないか。三人とも、せめて朝飯くらいはちゃんと噛んで食べな」
「昨日まで箱に入ってた道具から、今日は強い酒が出てくるんだよ。気にするなって方が無理でしょう」
ティルダが大きく頷き、フレイまで否定しなかったので、ベラはそれ以上急かさず、三人の皿へ残っていたパンを指差した。
◇
食器を片づけると、四人はすぐに蒸留器の周りへ集まった。
最初に釜へ入れたのは水で、ベラが《分炉》の火を絞り、ロアンが本を読みながら継ぎ目を確かめ、双子が管と冷却器の高さを直していく。一度目は蓋の右側からわずかに蒸気が漏れたので、フレイが冷却器の下へ薄い石を噛ませた。二度目には冷却水が早くぬるくなったため、ティルダが工房から端材を持ち出し、温まった水を逃がす細い樋を取り付けた。
水の試験に半日を使うつもりだった者は、最初から誰もいなかった。管の先から透明な水滴が安定して落ちるようになると、フレイが留め具をもう一度締め、ティルダは受け器の水をさっさと捨てた。
「これならもういいでしょう。次は林檎酒を入れて、本当に酒が出るところまでやろうよ」
「急ぐのはいいけど、釜が冷めるまでは待ちな。熱いまま酒を入れてこぼしたら、笑い話じゃ済まないよ」
ベラに言われ、ティルダは釜へ伸ばしかけた手を止めた。フレイも同じことを考えていたらしく、二人は顔を見合わせると、今度は少しでも早く冷める場所を探すように釜の周りをうろうろし始めた。
「二人とも、その辺を回っても銅の釜は早く冷えないよ。今のうちに受け器と杯を用意しておこう」
「それなら私、杯を持ってくるよ。最初に飲めるところが出たら、すぐ味を知りたいからね」
「姉ちゃん、受け器に溜まる前から飲む気なの? それなら私も匙を持ってくるけどさ」
フレイまで厨房へ向かったので、ロアンは本を閉じながら笑った。ベラは呆れた顔をしていたが、止めるどころか小さな木匙を三本出し、作業台の端へ並べている。
「杯を並べて待つより、その方があんたたちらしいよ。ただし火の前で押し合ったら、味見はそこで終わりだからね」
「押し合わないよ。ちゃんと順番にするから、ベラも一口だけ味見してよね」
「私は火を見てるんだよ。あんたたちが落ち着いてからなら、一口くらいは付き合うさ」
釜が冷えるのを待ってから水を抜き、ようやく林檎酒を注いだ。ロアンは蓋を閉める前に元の酒を一口だけ含み、甘い林檎の香りと酸味を舌へ残してから杯を伏せた。
ティルダとフレイも防火上着へ着替え、髪と袖をまとめている。さっきまで匙を持って騒いでいた二人も、火のそばへ入れば工房で働く時と同じ手順を守った。
ベラが《分炉》へ火を入れると、あとは待つしかなかった。
釜の中で酒が温まり、冷却器へ水が流れても、管の先にはなかなか変化が現れない。ティルダは立ったまま出口を見つめていたが、しばらくすると椅子を持ってきて座り、それでも数十息ごとに腰を浮かせて管の先を覗き込んだ。
「まだ落ちてこないね。水より時間がかかってる気がするけど、火はこのくらいでいいんだろ?」
「本には急に火を強くするなって書いてあるよ。僕だって早く見たいけど、ここで焦がしたらもっと嫌だな」
「その二人が同じことを言ってるなら大丈夫そうだね。姉ちゃん、もう少し座って待ちなよ」
フレイはそう言いながら、自分も冷却器の水へ手を入れる回数がさっきより増えていた。ベラだけがいつも通りに火を保っていたが、三人が揃って管の先ばかり気にしているのがおかしいらしく、何度か笑いを噛み殺している。
やがて、管の中から水試験とは違う軽い音がした。
ロアンが本から顔を上げるより早く、ティルダが椅子から立ち上がった。フレイも冷却器から手を抜き、三人がほとんど同時に受け器へ身を寄せる。
透明な雫が管の先へ膨らみ、そのまま受け器へ落ちた。少し間を置いて二滴目が続くと、ティルダはフレイの腕を掴み、ロアンまで肩を寄せたので、三人の頭が受け器の上へ集まった。
「三人とも近すぎるよ。せっかく髪をまとめたのに、酒より先に眉毛を焼く気かい?」
ベラに言われて半歩だけ下がったものの、誰も管の先から目を離さない。受け器へ落ちた液体は水のように透明なのに、顔を近づけると、元の林檎酒より鋭い酒気が鼻の奥まで届いた。
「匂いがもう全然違うね。これ、本当にさっきまで飲んでた林檎酒から出てきたんだよね?」
「そうみたいだね。でも最初に出た分は本の通り別へ取るから、飲むのはその次からだよ」
ロアンが最初の受け器を外すと、ティルダは露骨に残念そうな顔をした。それでも文句は言わず、次の器へ酒が落ち始めるのを待っている。フレイは冷却水の流量を調整しながら、姉の手にいつの間にか木匙が握られているのを見つけた。
「姉ちゃん、その匙はいつ持ったの? まだ受け器の底も濡れたくらいしか溜まってないよ」
「数滴あれば舐められるでしょう。杯一杯になるまで待つ理由なんてないじゃん」
「それなら私の匙にも入れてよ。姉ちゃんだけ先に飲むのは絶対ずるいからね」
「ちょっと待って。匂いを見分けてる僕が最後になるのは、おかしくない?」
三本の匙が受け器の周りへ集まったので、ベラはとうとう声を立てて笑った。
「さっき押し合わないって約束したばかりだろ。順番に一匙ずつにして、火の前で取り合うんじゃないよ」
ベラが受け器を持ち上げ、最初にティルダの匙へほんの数滴を落とした。ティルダは待ちきれないまま匙を舐め、次の瞬間には目を大きく見開いて、口を押さえながら息を吐いた。
「これ、すごく強いよ! 舌が熱くなるのに、あとからちゃんと林檎の匂いが戻ってくる!」
その反応を見たロアンとフレイが同時に匙を差し出し、ベラは二人の顔を見比べてから、今度はフレイの順番にした。
「次はフレイで、そのあとがロアンだよ。大人が三人で匙を奪い合うところなんて、初めて見たよ」
「姉ちゃんがあんな顔するから仕方ないよ。私だってどれくらい強いのか気になるもん」
フレイは姉より慎重に舌へ乗せたが、飲み込んだ途端に眉が上がった。
「ほんとに強いね。喉まで一気に熱くなるのに、林檎の香りは思ったより残ってるよ」
「二人とも感想を聞かせるだけ聞かせて、僕を待たせるのはひどくない?」
「ロアンは本を読んでた分だけ待てるでしょう。はい、今度こそロアンの番だからね」
ベラが三本目の匙へ酒を落とすと、ロアンは匂いを嗅いでから舌へ乗せ、喉へ流した瞬間に思わず息を吐いた。元の林檎酒とは比べものにならない熱さが先に来るのに、鼻へ抜ける香りには確かに林檎が残っている。
「これは面白いね。強さだけなら別の酒みたいなのに、飲んだあとには元の林檎酒がちゃんと分かるよ」
「でしょ? もう一匙だけ飲んだら、もっとちゃんと分かると思うんだけどな」
「姉ちゃん、それは味を確かめたいんじゃなくて、ただもう一回飲みたいだけでしょう」
フレイに言われても、ティルダは否定しなかった。ベラは笑いながら受け器を元の位置へ戻し、今度は自分の匙へ一滴だけ落として舐めた。
「なるほどね。こりゃ強いけど、林檎はちゃんと残ってる。あんたたちが騒ぐのも少し分かったよ」
ベラまで驚いた顔をしたので、ティルダは自分が褒められたように嬉しそうだった。
最初の数滴を舐めたあとは、さすがに四人とも作業へ戻った。ベラが火を保ち、フレイが冷却水を調整し、ティルダが器具と記録を受け持ち、ロアンが酒の匂いを嗅ぎながら受け器を替えていく。それでも、瓶へ透明な酒が少しずつ溜まるたび、ティルダは何度も横目で量を確かめていた。
昼前になって最初の釜を終えると、取れた蒸留酒は元の林檎酒よりずっと少なかった。ティルダは量の少なさに一度だけ眉を寄せたものの、小瓶を持ち上げるとすぐ機嫌を直した。
「これだけ減って、あれだけ強くなるなら納得だよ。次はちゃんと杯で飲んでみたいな」
「次は王都で買った酒と比べようよ。同じくらい強くても、向こうの方が飲みやすかったでしょう」
ロアンが棚から王都の蒸留酒を出すと、双子はまた作業台へ寄ってきた。今度は三人とも杯を使い、自分たちの林檎蒸留酒と王都の酒を少しずつ飲み比べる。
王都の酒には木と焦げたような香りが混じり、強さはあるのに、自分たちの酒ほど舌や喉へ尖って当たらない。ティルダは二つの杯を何度も嗅ぎ比べ、フレイは蒸留の本を引き寄せた。
「王都の酒は木の匂いがあるね。林檎の酒とは違うけど、飲んだ時の角が丸くなってる感じがするよ」
「本に樽で寝かせるって書いてあるよ。木から香りが移るし、内側を焼くこともあるみたい」
その一言で、ティルダの関心が杯から本へ移った。
「それなら、この林檎の酒も小樽へ入れてみようよ。普通の樽と、内側を焼いた樽で比べたいな」
「二つじゃ足りないよ。林檎の枝で肉を燻した時、煙の匂いが違ったでしょう。林檎の枝を使った樽も一つ作ろう」
フレイの提案を聞いたティルダは、すぐに工房の方へ顔を向けた。ついさっきまで杯へもう一口欲しがっていたのに、今度は樽を焼く方が気になって仕方ないらしい。
ベラは四人分の杯を片づけながら、工房へ向かおうとする双子を呼び止めた。
「樽を焼くのはいいけど、先に残りも蒸留しな。今できた分まで全部試飲したら、樽へ入れる酒がなくなるよ」
「それは困るから、残りはちゃんと取っておくよ。三種類作るなら、同じくらいずつ入れたいしね」
ティルダは名残惜しそうに杯の底を覗いたが、それ以上は飲まず、フレイと一緒に次の林檎酒を釜へ移した。
◇
昼食を挟んでからも、蒸留は何度か繰り返した。
最初の一回ほど全員で管の先へ顔を寄せることはなくなり、四人の手順も次第に揃っていった。それでも、透明な酒が瓶へ増えるたびに誰かが覗き込み、ときどきティルダが一回くらい味を見てもいいだろうと持ちかけては、フレイとロアンに笑われた。
最後の釜を終えて器具を洗うと、四人は溜めた蒸留酒を持って工房へ移った。
試し仕込みに使える小樽を三つ選び、一つはそのまま、二つ目は内側を軽く焼き、三つ目は乾かしてあった林檎の剪定枝へ火を移して、その煙を樽の内側へ薄く回す。ティルダが防火上着と厚い革前掛けを着け、フレイが樽を少しずつ回しながら、内側の板へ焼き色が均等に広がるよう向きを変えた。
「姉ちゃん、そこだけ焼き色が濃くなってるよ。もう少し回して、同じくらいに揃えよう」
「これ、焼き加減でも味が変わるなら、次はもっと何種類か試したくなるね」
「今日の酒で五種類も作ったら、一樽あたりが少なすぎるよ。まず三つで違いが出るか飲んでみよう」
「それもそうだね。飲み比べる前になくしたら、さすがに私でも悲しいからね」
ベラが《分炉》の火を細く保ち、ロアンは少し離れた場所で三つの木札へ名前を書いた。工房には焼けた木の匂いが広がり、三つ目の樽へ林檎枝の煙を回すと、燻製肉を作った時にも嗅いだ甘い匂いが混じった。
樽が冷めるまでの間、四人はいったん食堂へ戻った。ティルダは何度も工房の方を振り返ったが、熱い樽へ酒を入れるわけにはいかないので、ベラに渡された水を飲み、遅くなった昼食の残りをつまんで待った。
夕方になって三つの小樽へほぼ同じ量ずつ蒸留酒を分け、フレイが作った木札を取り付けた。
《林檎蒸留酒 試作一号 普通樽》
《林檎蒸留酒 試作二号 焼き樽》
《林檎蒸留酒 試作三号 林檎枝燻し》
三号だけ文字が窮屈になり、ティルダが最後の方を無理に詰めたので、フレイは何も言わず少し長い札を作り直した。ティルダも今度は素直に書き直し、三つの小樽を洞窟奥の涼しい場所へ運んで並べる。
「これ、いつ開ける? 明日じゃ意味ないのは分かるけど、何日くらいなら違いが出るかな」
「本にも酒によって違うって書いてあるから、今ここで日を決めなくてもいいよ。しばらく寝かせて、三つとも同じ日に開けよう」
「毎日ちょっとずつ舐めれば、変わっていく途中も分かるんじゃない? 匙ならそんなに減らないでしょう」
「姉ちゃん、それを始めたら毎日一匙で終わるわけないよ。三つ一緒に開ける方が絶対面白いって」
フレイに言われ、ティルダは三つの樽を順番に眺めた。昼までは管から落ちた数滴を待ちきれずに匙で舐めていたのに、今度はすぐ飲めない酒を自分から三つも作ってしまった。
「じゃあ我慢するよ。三つ一緒に開けた時、どれが一番うまいかちゃんと飲み比べたいからね」
「僕もその方が楽しみだな。今日みたいに匙を取り合わなくて済むくらい、今度は杯に入れて飲みたいよ」
食堂からベラが夕食を呼ぶ声が届くと、三人は返事をして戻り始めた。ティルダだけは一度振り返り、三号の札が少し曲がっているのを直してから二人を追いかけた。
食堂へ戻ると、ベラはもう夕食の皿を並べていて、今夜の林檎酒は一杯までだからねと、席につく前から三人へ釘を刺した。
新しいもの、好きなもののを前にして、はしゃいでしまうのは仕方ありません。
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