旅商人は王都を持ち帰ります
王都を出る朝、レオンは宿の厩でバルトの腹帯を締め直した。
ベルクから六日かけて引いてきた荷車には、もう酒樽も燻製肉も武具もない。代わりに、本を詰めた箱、小型の銅製蒸留器、工具、材料、香辛料、種、土産が積まれ、外側には油布を巻いたロアンの枠太鼓が括りつけてある。
「蒸留器の箱、もう少し前へ寄せて。今のままだと右だけ重いよ」
荷台のティルダが木箱を押した。赤銅色の髪には、昨日買った葉の形の真鍮の髪留めがついている。
「その位置なら大丈夫。工具箱は下へ入れておいて」
「僕の太鼓、その括り方で革が擦れたりしないかな?」
「紐は縁に掛けてある。心配なら自分でも一度確かめろ」
ロアンは荷台の外へ回り、油布の上から紐を引いた。
「帰ったら、店で試した時とは違う叩き方もしてみたいな」
「その前に王都から離れる。門前で荷車ごと消えたら、さすがに目立ちすぎる」
「そこまで派手な見世物になる気は、僕にだってないよ」
レオンは車輪の留め具まで確かめ、宿を出た。
◇
王都の門を出ても、《帰還》は使わなかった。
朝の街道には荷車と旅人が多く、城壁が小さくなっても人目はなかなか切れない。一刻ほど進んでから、レオンは荷車が入れる古い脇道へ入り、林の中でバルトに水を飲ませた。
街道を通る荷車を二台やり過ごし、さらにしばらく待つ。こちらへ曲がってくる者はいない。ベルクで見た灰色の頭巾も、王都では一度も見なかった。
「ここで試す。二人とも荷車から十歩以内にいてくれ」
ティルダが荷台から下り、ロアンも横へ立った。
「王都からでも、本当に洞窟まで《帰還》が届くのかな?」
「分からん。これまでで一番遠い場所だから、俺にも断言はできない」
「もし届かなかったら、ここから普通にベルクへ戻ることになる?」
「街道へ戻る。旅糧はあるし、途中でもう一度試せる距離まで戻ればいい」
「それなら、ここで一度やってみる方が早そうだね」
レオンはバルト、荷車と積み荷、二人の位置を確かめた。どれも今まで《帰還》に巻き込めた距離の内側にあり、七日の待機も終わっている。
「全員このまま動くな。荷車も含めて一度で帰るぞ」
《帰還》を使うと、橙色の光が足元から広がった。バルト、二つの車輪、荷台、外側の太鼓、ロアンとティルダまでを包み、林の土と草の匂いが途切れる。
◇
「きゅう!」
次に聞こえたのはキュウの声で、足元はもう見慣れた窪地の土になっていた。バルトが鼻を鳴らし、荷車も傾いていない。
「二人とも無事だな。気分が悪いとか、どこか痛むところはないか?」
「僕は平気だよ。太鼓もちゃんと荷台についてきてる」
「私も何ともない。……ほんとに王都から一度で帰れたんだ」
洞窟から飛び出してきたキュウは、三人へ向かう途中で鼻先を上げ、そのまま荷台の後ろへ曲がった。布で巻いた長い包みへ鼻を押しつける。
「もう自分の土産だって匂いで分かったの?」
「たぶん骨の匂いだ。紐まで一緒に食わせるなよ」
レオンが言い終わる前に、洞窟からベラの声が飛んだ。
「キュウ、包みごと噛んだら中身まで渡さないからね!」
ベラが出てきて、その後ろからミラとフレイも続いた。
旅埃をつけたティルダと工房から出てきたフレイが並ぶと、同じ赤銅色の髪とよく似た顔立ちが改めて目についた。けれどティルダの髪には王都の真鍮葉が光り、フレイは細編みに緑の布紐を通している。片方の腕には街道の埃、もう片方の指には工房の黒い油が残っていた。
「お帰りなさい。バルトさんも、ずいぶん長い旅をお疲れさまでした」
ミラは三人を見たあと、すぐバルトへ近づいた。
「ただいま。王都からでも《帰還》で戻れた。荷も全部無事だ」
ミラの丸い桃色の目が少し大きくなり、荷車へもう一度視線が戻った。
「では、これまで試した中で一番遠いところから帰れたんですね」
「そうなる。細かい確認はあとでやるから、まずバルトを休ませよう」
「はい。お水を飲ませてから、買ってきた燕麦と乾燥林檎にします」
ミラがバルトを馬房へ連れていく横で、フレイは姉の髪へ目を止めた。
「姉ちゃん、その髪留めどうしたの? 王都で買ってきたの?」
「そう。作れそうだったけど、今日はこれが欲しいと思って買った」
フレイは姉の頭の横へ顔を寄せた。留め金へ目が行ったのは一瞬だけで、先に笑う。
「似合ってる。今日は留め金より、姉ちゃんがつけてるところを先に見せて」
「ロアンにも位置を直してもらったんだ。思ったよりちゃんと留まるよ」
「あとで外した時に、今度は裏側も見せて。今はそのままでいいから」
ティルダは少し得意そうに髪留めへ触れ、すぐ荷台へ向き直った。
「フレイの分もあるから、そっちの細い包みを先に持って」
「私のまであるの? 姉ちゃんが選んだなら、ちょっと怖いんだけど」
「失礼だな。開ける前から失敗扱いするのは早すぎるだろ」
その間にベラが牛骨の包みを開いた。腕ほどもある骨が出ると、キュウはその場で抱え込み、ばき、と大きな音を立てる。
「キュウの土産だけ、説明する前にもう成功が確定したね」
「僕らも選ぶのが簡単だったけど、やっぱり気に入ってもらえたね」
◇
荷を下ろすと、王都から持ち帰った物が洞窟のあちこちへ移っていった。
本は食堂、工具と材料は工房、小型の蒸留器もひとまず工房へ置く。香辛料の包みと蒸留酒の瓶を受け取ったベラは、三種類を順番に嗅いだあと、甘い樹皮だけもう一度鼻先へ戻した。
「これ、肉より先に焼いた林檎へ少し使ってみたくなる匂いだね」
「店では果物にも合うって言ってた。買ってきた量は全部少しずつ違うよ」
「それなら、最初から使い切る心配はしなくてよさそうだね」
ミラには栽培図譜と二つの種袋を渡した。花の絵がある袋の説明を読んだミラは、もう一つの香草の袋と何度か見比べた。
「こちらの花は、本当に食べるものではないんですね」
「うん。仕事に使うものばかりだと、土産まで仕事みたいになるからね」
ミラは紫色の小花の絵をじっと見ていたが、すぐには何も言わず、栽培図譜の上へ二つの袋を重ねた。
フレイへ渡した折り畳み定規は、包みを解いた途端に三度ほど開閉された。
「継ぎ目で目盛りがずれないようになってる。金具も薄いのに横へ逃げない」
「機構図の本も買ってきた。フレイは留め具の頁が気になるって予想してる」
「そりゃ留め具は見るよ。ただ、他にも面白い頁が多そう」
フレイは本を受け取りかけ、指先の黒い油を見て手を止めた。
「先に手を洗ってくる。この指で触って、本へ油を付けるのは嫌だから」
「フレイが本を前にして止まれるのは珍しいな」
「待つのは手を洗う間だけ。姉ちゃんも勝手に先へ進まないでね」
フレイは定規を腰袋へ入れたまま手洗い場へ向かい、ティルダも機構図集を抱えてついていった。
◇
荷を片づけても、まだ昼を少し過ぎたところだった。
三人は簡単に食べ、順番に風呂へ入った。レオンが湯へ肩まで沈むと、長く荷車に揺られて張っていた腰がようやく楽になる。
夕方、食堂の大卓へ全員が集まると、レオンは帳面を開き、売上と支出の合計だけを読み上げてから残った銀貨を卓へ出した。
百七十枚を超える銀貨が重なり、その横には本、種袋、折り畳み定規、香辛料の包みが並んでいた。
「売った物より、帰ってきた物の方がずっと種類が多いですね」
ミラは重なった銀貨より先に、その周りへ増えた品々を見ていた。
ベラは帳面を自分の方へ引き寄せ、燻製肉の行で指を止めた。
「三包みで九十六枚も出してくれたのかい。高く売れたのは分かったけど、向こうの料理人は何て言ってた?」
「値段より先に、倒してからどう冷やしたかと燻し方を聞かれた。切って脂まで喜んで買ってる」
ベラは自分の手首の古い火傷痕を親指で一度こすった。
「そこまで確かめた人が買ったなら、次も売るためだけに味を変える必要はないね。今まで通り作るよ」
フレイが気にしたのも、姉の短剣が五十枚で売れたことではなかった。
「それで姉ちゃん、胸当ての方は何か直せって言われた? 向こうの職人なら気づいたところがあるでしょ」
「直せとは言われなかった。ヴォルフっておじさんが内側の枠まで外して、押さえ板を替えられるところまで値段に入れた」
フレイはティルダが持ち帰った紙を自分の方へ引き、洗ったばかりの指で線の少し上をなぞった。
「そこまで外して確かめたなら、次も同じに作る。見えにくい場所だからって雑にはできないね」
ティルダはそこで職業札を紙の横へ置き、指先で新しい技能欄を示した。
《武具設計 Lv1》
「その話をしてた時に出たんだ。街で持つ物と魔物相手の物を分けて考えてたら、急にこれが増えた」
フレイは札と姉の顔を交互に見たあと、紙を自分の方へ引き寄せた。
「それなら、姉ちゃんが覚えてるうちに続き描こう。王都で見た柄も忘れる前に」
「飯の前だから一枚だけ。そこから増えたら、レオンに本ごと取り上げられそうだし」
二人は夕食前だということも忘れたように、もう同じ紙へ顔を寄せていた。
その横で、ロアンも自分の職業札を卓へ出した。
《酒質鑑定 Lv1》
「僕の方は、王都の酒と僕らの酒を飲み比べてた時に増えたよ」
ベラは札へ目を落とす前に、まずロアンの顔を見た。
「それ、酒を飲む技能が増えたって言ったら怒るところかい?」
「ちゃんと味と香りを比べた結果なんだから、そこは仕事として扱ってほしいな」
「なら次から、樽を開けるたびに仕事だって顔して飲みすぎるんじゃないよ」
ロアンは笑ったあと、少しだけ声を落とした。
「前に王都へ出た一本を覚えてた人がいたんだ。同じ作りなら、また欲しいって」
ベラはそこで初めて、卓へ置かれた《酒質鑑定》の札を覗き込んだ。
「じゃあ、毎回ぴったり同じにできなくても、何をした樽かは残した方がよさそうだね」
「僕もそう思う。味を決めるためじゃなくて、あとで僕ら自身が思い出せるようにね」
ミラは双子の紙とロアンの札、それからベラの手元を順に見た。
「王都でも、みんながここでした仕事をちゃんと見てもらえたんですね」
誰もすぐには答えず、ベラが先に立ち上がって厨房から大皿を運んできた。
「そういう話なら、続きは食べながらにしな。せっかく帰ってきた日に肉を冷ます気かい」
さっきまで銀貨が積まれていた卓の中央へ、一層の大蜥蜴の肉が置かれた。
◇
肉は燻製ではなく、塩と馴染みの香草だけで焼いてあった。表面を強く焼き、中は固くなりすぎないところで火を止めている。
ロアンが香辛料の包みへ目をやると、ベラは先に釘を刺した。
「今日は新しい味を試す日じゃないよ。王都帰りなんだから、まずいつもの飯を食べな」
「それなら僕は文句ないよ。こっちの肉、ずっと食べたかったからね」
レオンも杯を受け取り、肉を一切れ食べた。表面は香ばしく、中には肉汁が残っている。
「やっぱり、この焼き方が旨いな。帰ってきたという実感が湧く」
「燻製は遠くへ持っていく料理だからね。ここで食べる分まで同じにする必要はないよ」
ロアンが三つ火の印の樽から林檎酒を注いだ。食卓の下ではキュウが牛骨を抱え、床へ当ててはごつんと音を立てている。
「キュウ、その勢いで食卓の脚まで一緒に噛んだら取り上げるよ」
「きゅう」
ベラは返事だけ聞くと、もう足元を見ずに次の肉を取り分けた。
馬房から戻ったミラが席へつき、ティルダが髪留めへ触れる。それを見たフレイが眉を上げた。
「姉ちゃん、そのまま髪留めをつけて寝たら曲がるから、外してからにしてね」
「分かってるよ。フレイも外した時なら裏を見てもいいけど、勝手に別の形へしないでよ」
「そこまで信用ないの? 姉ちゃんが気に入ってる物を勝手に変えたりしないよ」
「フレイは変えないけど、気づいたら直すところを三つ増やすから言ってる」
二人が言い合う横で、ロアンは壁際の枠太鼓へ目をやった。
「手も洗ったし、食後に少しだけ叩いてみてもいいかな」
「油がついてないなら構わないよ。食器を片づけてからにしな」
◇
夕食が終わっても、誰もすぐには部屋へ戻らなかった。
フレイが機構図集へ手を伸ばし、ティルダも武具図譜を引き寄せる。二人はほとんど同時に表紙を開いた。
「姉ちゃん、これ。さっき話してた胸当ての枠と似てるところがあるよ」
「こっちの留め具も使えそう。工房で定規を当てたら比べられるな」
二人は一度だけ工房の方を見たが、ティルダの手が槌の置き場へ向かう前に、フレイが本を閉じた。
「今始めたら、絶対に一個では終わらないから今日はここまでにしよう」
「それは私も否定できない。続きは本を閉じられるうちに止めるか」
ベラは厨房から二人を見ていたが、何も言わず皿を拭き続けた。
ロアンは片づけを終えて手を洗うと、枠太鼓を膝へ載せた。革の中央を指で叩くと、とん、と低い音が食堂へ広がり、キュウが骨を噛むのをやめて顔を上げた。
「思っていたより、ずっと低い音が出るんですね」
「真ん中はこうなるんだ。縁へ寄せると、もっと乾いた音に変わるよ」
ロアンが今度は縁を軽く叩く。ぱん、と短い音が返ると、ティルダの指が卓の上で勝手に同じ拍を取った。
「姉ちゃん、その拍も工房に持ってく?」
「今は太鼓を聞いてるだけだって。槌まで持ち出したりしないよ」
レオンも魔物図鑑へ手を伸ばしたが、向かいで双子が閉じた本を積み直しているのを見て、表紙へ掛けた指を止めた。
「一頁だけなら、今からでも読めると思ったんだがな」
「その顔、さっき本を閉じた二人とだいたい同じだよ」
「俺もあいつらに似てきたか…」
そう返したものの、レオンは結局図鑑を開かなかった。
ロアンが太鼓を壁へ戻すころには、卓の上に閉じた本が何冊も重なっていた。ミラの栽培図譜の上には二つの種袋が残り、紫色の花の絵だけが表紙の端から覗いていた。
一緒にいる時間が長くなると、いろいろな習慣が伝染しますよねw
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画像は二章で一番好きな場面。ティルダとフレイの登場シーンと、
二章終了時点での洞窟内平面図です。




