鍛冶師は麦の歌を連れていきます
王都へ行く話が食卓に載ってから、ティルダは三日続けてレオンに同じことを聞いた。
「まだ行かないの?」
「《帰還》が戻るまで待つ」
「歩いて行くんだから、今使えなくてもいいじゃん」
「行く途中で何があるか分からん。魔物や盗賊に襲われてもすぐに帰れる方が安全だ」
最初の日にそこまで言われていたのに、翌朝になるとまた聞きたくなる。ティルダには、行ける場所があるのに待っているというのがどうにも苦手だった。
ただ、待つ間にすることがないわけではない。むしろ、王都へ持っていく物を選び始めると楽しくなった。
作業台の端には、普通の鋼で作った短剣と青魔鉄の短剣が一本ずつ並んでいた。どちらも同じくらいの長さで、柄の太さもほぼ揃えてある。素材の違いを見てもらうなら形まで変えない方がいいとフレイが言い、ティルダもそれには賛成した。
「こっちは売ってもいい。青魔鉄の方は、値段を聞いて安かったら持って帰る」
ティルダが言うと、レオンは刃を抜かずに柄と鞘だけを確かめた。
「最初から売ると決める必要はない。王都でいくら付くか聞くのが目的だ。普通鋼と青魔鉄で差がどれくらい出るかも聞こう」
「じゃあ、これも持っていこうよ」
ティルダは壁際から胸当てを持ってきた。
一層の大蜥蜴から取った外皮を厚いところと薄いところに分け、胸の正面は硬い部分を残し、脇は削って曲がるようにしてある。縁は革紐で包み、留め具には二層から回収した鉄を鋳直して使った。表面には小さな三つ火の印が押されている。
自分たちが地下へ入るときに使う物と同じ作りだが、これは販売見本として新しく仕上げたものだった。ティルダ自身も、残った外皮で作った簡素な前腕当てを道中の試用に着けていくつもりだった。
「これは持っていく。腕当ても一組だ。軽いわりに刃を止めるし、寒い場所でも硬くなりにくい。武器だけより、防具も一緒に見せた方がティルダの仕事の幅は分かる」
「私の仕事っていうか、皮の切り分けと縫う方はフレイもやってるけどね」
「だから帰ってきたら値段も一緒に聞かせて」
フレイは胸当てを作業台へ伏せ、縁へ肘を掛けるようにして裏側を覗いた。ティルダも隣へ寄る。赤銅色の髪とよく似た横顔が並ぶと双子だとすぐ分かるが、フレイの指先には白い糸屑、ティルダの前腕には落としきれない煤が残っていた。
「ここ、糸の端が少し浮いてる。王都まで擦れるなら、今止めた方がいい」
「じゃあ、その間に私は刃元をもう一回点検! 運んでから気づくより今の方が楽だし」
「うん。終わったら左右も見比べよう」
見えない場所だからと、二人とも手を止めなかった。気になった場所は違っても、結局同じ胸当ての周りから離れなくなる。
食堂側では、ベラとロアンが持っていく食べ物を分けていた。
林檎酒は小ぶりの樽を二つ。樽には三つ火の焼き印が入り、燻製肉の包みも同じ印を押した木札で括っていた。肉は大蜥蜴のうち脂と筋の少ない部位を使い、塩と香草を当ててから林檎の剪定枝で長く燻したものだった。旅の途中で傷まないよう、普段食卓へ出す分よりしっかり水分を抜いている。
小瓶が三本だけ別に置かれていたので、ティルダは一本を光へ透かした。
「これ、酒じゃないよね?」
「酢だよ。酒にする分とは別に少しだけ壺へ分けて、ロアンと様子を見ながら酸味を調整したんだ。料理と漬け物には使えるようになったけど、まだ売り物にするほど量はないから、今回は味を見てもらうだけ」
ティルダは栓へ親指を掛けかけ、瓶口を覆う蝋を見て手を止めた。
「これ、フレイがやった?」
「うん。荷車で揺れても漏れないようにした。開けるなら王都で見てもらう時」
「じゃあ今はやめとく。せっかく綺麗に塞いだの、またやり直すのもったいないし」
ティルダは瓶を戻した。ロアンが横から鼻を近づけたが、蝋越しではさすがに匂いまでは分からなかった。
「酸っぱくなりすぎてないのは昨日確かめたよ。王都で料理する人が、これを何に使いたがるか聞けたら面白いね」
「肉か漬け物か、そこも聞いてきて。作る量を増やすなら、使い道を参考にしたいね」
ベラはそう言って、三本を布で一本ずつ包んだ。
冷蔵箱は持っていかなかった。ティルダは一度だけ「王都ならもっと高く貸せるんじゃない?」と言ったが、レオンは首を振った。
「ベルクでまだ試してる途中だ。石が何日持つか、店で壊れやすいところがどこか、まだ全部分からない。王都まで運ぶと、他のものを置いていく必要がある」
フレイも反対せず、「私は箱の経過を見たいし」と言った。
七日目の夕方、レオンが《帰還》を使える感触が戻ったと確認した。翌朝には出ると決まり、荷車の縄と車軸を最後に見直した。
夜になっても工房の火は落ちなかった。
ティルダは最後の刃へ油を引き、同じ場所を二度布で拭いたところでようやく手を止めた。眠い時の自分が細かい傷を見落とすのは知っている。王都へ持っていく見本でそれをやる方が嫌だった。
「今日はここまで」
誰に言うでもなく呟いて炉蓋を閉じる。寝床へ入ってからも、王都の鍛冶屋にどんな炉があるのか、どんな槌が並んでいるのかを考えていたら、しばらく眠れなかった。
翌朝、荷車を外へ出すと、ミラたちも入口まで見送りに来た。キュウは積み荷の燻製肉へ鼻を寄せ、ベラに額を押し戻されている。
「これは王都へ持っていく分だよ。帰ってきたら、あんたの分も焼いてやるから」
「きゅう」
キュウは一度だけ鼻を鳴らし、今度はティルダの腰の短槌を嗅いだ。
フレイは荷台へ積んだ胸当ての留め紐を最後に引き、緩みがないことを確かめてから姉の方を見た。よく似た顔なのに、今日はフレイの髪には細い青布が編み込まれ、ティルダの太い一束には同じ青布が結ばれていた。
「姉ちゃん、値段だけじゃなくて裏も見てきて。留め具とか、鞘の内側とか、見えるところだけ綺麗な物は参考にならないから」
「分かってる。フレイが気にしそうなところも見てくる」
「うん。私は冷蔵箱の方、次にベルクへ行くまで見られない分を整理しとく」
「帰ったら比べよう。王都の作りと、こっちで直したいところ」
同じものを見ても拾う場所が少し違う。その違いごと持ち帰れば、工房ではまた話が増えるはずだった。
「気をつけて行ってきてください。帰ってきたら、王都のお話を聞かせてくださいね」
ミラがそう言うと、ロアンがリュートの袋を背負い直した。
「話だけで済むかな。ティルダ、帰ってきたら紙三枚じゃ足りないくらい喋りそうだ」
「見たもの全部話すよ。フレイが聞きたいところ、たぶん私と違うし」
「その前に忘れないようにな。行くぞ」
ティルダは笑って荷台へ上がり、洞窟の入口が木々の向こうへ隠れるまで手を振った。
◇
四日かけてベルク近くまで来ると、レオンは西門へまっすぐ向かわなかった。
城壁が遠くに見えるところから外周の道へ回り、荷車の多い場所でしばらく流れに混じる。前に灰色の頭巾につけられたことがある以上、毎回同じ方角から現れて同じ門を使う必要はない、とレオンは出発前から言っていた。
「見られてる?」
ティルダが聞くと、レオンは前を向いたまま答えた。
「分からん。分からないから同じことを繰り返さない」
「いたら私が見つけるよ。灰色の頭巾でしょ?」
「探すな。探してる顔をすれば、こっちが気づいてると教えるだけだ」
「じゃあ普通にしてる。荷車でも見てるよ」
「灰色頭巾より先に壊れた車軸を見つけそうだな」
「それならいつものことでしょ」
言いながらティルダは、通り過ぎた荷車の車軸を二度振り返った。灰色頭巾より、そちらの方が目に入るのだから仕方がない。
町へ入って最初に寄ったのは、冷蔵箱を置いてある肉屋だった。
フレイがいないのでティルダが箱の扉を開ける。内蓋も留め金も壊れていない。試験札には、最初の小氷魔石が弱った日と、店主が予備へ替えた日が書き足されていた。
「替えたあとは問題ない。前より開け方もみんな慣れたぞ。上にある肉を取るのに下まで開けなくなったしな」
店主はそう言い、箱の中から昨日の夕方に残った肉を取り出した。
「じゃあ、もう売れる?」
ティルダがレオンを見る。
「まだだ。二つ目の石がどれくらい持つかも大切だ。王都の用事を終えて、次にベルクへ来たときにもう一度見に来よう」
「慎重だなあ」
「値段を決めてから毎回赤字になると、ティルダが使う金具が減るぞ」
店主は笑いながら、三つ火の印についた脂を布で拭いた。
「次に来るまで、俺はそのまま借りてるぞ。使えなくなったら困るからな」
冷蔵箱はそこで置いたままにした。
酒屋では王都の商人から受け取った木札を見せ、王都行きの隊商について聞いた。翌朝、東門から十二台の荷車が出るという。商人組合で参加料を払い、荷とバルトの登録だけ済ませると、レオンはその日のうちに宿を取った。
宿へ荷を置くと、通りの向こうから金属を打つ音が聞こえた。
ティルダの足がそちらへ向いた。ベルクの職人街なら道は知っている。夕方でも、近い店なら一軒くらいは覗けそうだった。
「一軒だけ、入口から見てくる」
レオンは荷紐をほどきながら窓の外を見た。
「飯までには戻れ。武器を出して話を聞くのは今度だ」
「見るだけなら武器いらないしね」
ティルダは返事を待つ間も惜しいように宿を出た。
本当に一軒だけのつもりだった。ところが店先の刃物を眺め、戸口から見える炉床の高さに気づき、その横の火箸まで見ているうちに、店主から「もう閉めるぞ」と声を掛けられた。
戻った頃には、宿の食堂でロアンがもうパンを半分食べていた。
「入口から見るだけって、けっこう長いんだね」
「中には入ってないよ。炉の置き方が違ったから見てただけ」
言いながら椅子へ座ると、自分の指に細かな震えが残っているのに気づいた。夕食のあと、ティルダは裏庭で短槌の柄だけを磨き、手の震えが消えたところで部屋へ戻った。
ロアンは長い髪を革紐からほどきながら、湯のない宿を見回した。
「それにしても風呂がないのはつらいな。洞窟の風呂、もう恋しいよ」
「まだ四日しか離れてないぞ」
「四日も、だよ」
◇
翌朝、王都行きの隊商はベルク東門を出た。
荷車は十二台。染料、革、乾燥豆、鉄製品、王都へ戻す商会の荷が連なり、レオンたちの二輪荷車は後ろから三台目に入った。
護衛は六人いる。
護衛頭のマルクは四十に近い男で、日に焼けた顔の左頬に古い切り傷があった。出発前に隊商の全員を集めると、腰の剣に手を置きながら言った。
「止まれと言ったら止まる。荷を捨てろと言ったら捨てる。勝手に敵を追うな。俺たちは魔物を全部殺すためじゃなく、人と荷を王都へ届けるために雇われてる。腕に覚えがある奴ほど、そこを忘れるな」
ティルダは腰の短槌へ手を掛けかけ、途中で離した。
「腕に覚えがある奴ほど、だって」
自分で呟いて、今度は短槌の柄から手を離す。
「私も数に入ってる気がする」
「入ってると思うよ」
ロアンは笑ったが、ティルダも否定はしなかった。逃げる敵より、まず人と荷が王都に無事に着く。その順番だけは頭へ入れた。
東門を出ると、街道の両側には麦畑が広がっていた。刈り取りを終えた畑では短い茎の間へ鳥が降り、まだ残っている畑では農夫が腰を曲げて鎌を動かしている。乾いた土が車輪の後ろへ薄く舞い、昼を過ぎると風まで熱くなった。
ティルダは最初の半日だけで、前を走る荷車の車輪を三種類観察した。それぞれ、少しずつ違いがあったのが面白かった。
人間の御者と並ぶと頭一つ以上低いぶん、歩いている時は荷台より車軸の方が目に入りやすい。鉄輪の継ぎ目が違う。油を入れる穴の位置も違う。二台目の荷車は荷台の横木まで補強してあり、重い染料樽を運ぶためだと分かった。
休憩で列が止まるたび、日に焼けた太い前腕を膝へ乗せたまま、車輪の下側を覗き込む。触らなくても、見えるものだけでしばらく退屈しなかった。
「王都へ着く前から楽しそうだね」
ロアンが言った。
「だって六日ずっと荷車が前にあるんだよ。暇にならないじゃん」
「僕は六日ずっと歌える人がいる方がありがたいな」
そう言って、ロアンは昼すぎにはもう別の荷車へ移っていた。染料商の御者と話が合ったらしく、夕方にはその男が知っている旅歌を一つ教わっている。
レオンは止めなかった。ただし、隊列から外れるな、夜営の鐘までには戻れ、とだけ言った。
ティルダは、前の荷車へ移っていくロアンを見送った。
「ロアン、知らない人のところでもすぐ歌えるんだね」
「あいつは、ああいう場所へ入るのが上手い」
レオンはそれだけ言って手綱を持ち直した。
夕方になる頃には、前の御者だけでなく、その隣の商人まで覚えた節を口ずさんでいた。ティルダには、頼まれていないことをやるのに誰も困っていないのが少し不思議だった。
◇
二日目の午後、ロアンが急に歌うのをやめた。
少し前まで染料商の荷車から聞こえていた弦の音が切れ、ロアンがこちらへ戻ってくる。長い栗色の髪は革紐から少しほどけ、汗で首へ張りついていたが、青緑色の目は街道ではなく右手の雑木林へ向いていた。
「レオン。右の林、何か走ってる」
レオンの表情が変わった。
「数は?」
「待って。車輪の音が多いから……八、いや九。こっちへ寄ってくる。前に四、真ん中に三、後ろへ二頭回りそう」
レオンが護衛頭を呼んだ。
「マルク! 右の林に九。こっちへ来る!」
「見えたのか?」
「こいつが聞いた」
マルクはロアンを一度だけ見たが、確認のために人を林へ出したりはしなかった。
「隊列止めろ! 荷車を左へ寄せろ! 護衛は右!」
御者たちが一斉に手綱を引いた。
バルトもレオンの声に従って荷車を街道左へ寄せる。前の荷車との隙間が狭まり、壁のようになった。
ティルダは腰の短槌を引き抜いた。
「勝手に追うなよ」
レオンが言う。
「分かってるって。向こうから来る分だけ叩く」
林の枝が揺れた。
灰褐色の毛皮と、前へ湾曲した角が飛び出す。角狼だった。
前方で弓弦が鳴り、一頭の肩へ矢が刺さった。群れが左右へ散る。そのうち二頭が、荷車の後ろ側へ回り込んできた。
ロアンがリュートを前へ回した。
「合わせるよ!」
低い拍が始まる。
地下で何度も聞いた《戦歌》だった。以前より、誰へ拍を渡しているのか分かりやすい。レオンが踏み込む直前に弦が締まり、ティルダが槌を返すところで音が空く。
一頭目へレオンが出た。青魔鉄の剣が角の脇から首へ入り、深く追いすぎずに戻る。
二頭目がティルダに迫った。
人間より低い位置へあるティルダには、角より先に前脚の運びが目に映った。厚い腰と腿で地面を踏み、短槌を身体の近くへ引きつける。
前なら、動く相手へ槌を当てるだけで金床との違いに腹が立った。今は二層で骨の関節や鎧の留め具を何度も叩き、動く相手へ短く当てる感覚を覚えている。
大きく振り上げない。
前脚が地面へ着く瞬間だけを見る。
横から槌頭を入れると、角狼の脚が折れて身体が傾いた。倒れた頭を追いかけるように一歩だけ詰め、顎の付け根へ短く落とす。
骨へ響く感触が柄から掌へ返った。
「右後ろ!」
ロアンの声が飛ぶ。
三頭目が荷車の隙間へ入ってきたが、ティルダが向き直るより早く、バルトの後脚が跳ねた。角狼は肩を蹴られて横へ転がり、そこへ護衛の一人が剣を入れる。
前方でもマルクたちが残りを押し返していた。
二頭が林へ逃げる。
マルクは追わせなかった。
「そのまま! 林へ入るな! 先に怪我人と馬が先だ!」
戦いは長く続かなかった。
ティルダは槌頭についた毛を草で拭き、倒れた角狼の脚を見た。狙った場所から少しだけ外れている。
「あと指二本ぶん内側だったな」
「もう次の一打のこと考えてるの?」
ロアンが息を整えながら笑った。
「次に同じのが来たら、もっと短く振れるじゃん」
「鍛冶屋って聞いてたんだがな」
マルクがこちらへ来て、ティルダの槌とレオンの青魔鉄剣を順に見た。
「鍛冶屋だよ。槌で叩く場所が、たまに鉄じゃないだけ」
「それを普通、護衛もできる鍛冶屋って言うんだ」
マルクは次にロアンを見た。
「そっちは吟遊詩人か? さっきの耳も歌も、普通の荷運びには見えなかったが」
「本職は吟遊詩人です。酒造りもやりますけど、今日は王都まで商品の説明役ですね」
「鍛冶屋に吟遊詩人、それにその剣士か。何の一行なんだ、お前ら」
「行商だ。売る物を作った奴も連れてきただけだ」
レオンが答えると、マルクはしばらく黙ったあと笑った。
「王都じゃ、その説明で通るといいな」
ティルダは自分の腕に巻いた大蜥蜴皮の腕当てを見た。角狼の爪が一度かすっていたが、表面に浅い筋が残っただけだった。
売り物の胸当てを持ってきてよかった、とそのとき初めて思った。
◇
四日目の夕方、隊商はカラン村で足を止めた。
村の麦刈りがちょうど終わった日だったらしく、街道沿いの広場には長机が並び、焼いた羊肉と豆、黒パン、薄い麦酒が次々に運ばれていた。隊商が泊まる宿の主人から「旅人も銅貨を出せば混ざっていい」と聞いた頃には、ロアンはもう広場の中央にいた。
ティルダは羊肉の串と木杯を一つずつ買った。
村の麦酒は洞窟でロアンが仕込むものより薄く、冷えてもいない。それでも刈り上げた畑から吹く乾いた風の中で飲むと、喉にはちょうどよかった。
「こういう日は、薄い方が飲みやすいんだな」
誰に聞かせるでもなく呟き、一口残した杯を持ったまま村の道具を見て回る。
刈り終えた鎌が壁へ何十本も掛けられ、柄の直し方も刃の減り方もばらばらだった。農具の修理場らしい小屋には、継ぎ当てだらけの手押し車がある。触ってみたいところはいくらでもあったが、今日は誰にも頼まれていない。
だから本当に見るだけにした。杯が空になる頃には、鎌の刃の減り方だけで三種類は覚えていた。
広場へ戻ると、ロアンは老人の吹く笛の近くで耳を澄ませていた。
一度目は聞くだけだった。
二度目になると、リュートを取り出した。
三度目には、もう村人の歌へ伴奏を付けていた。
「早くない?」
ティルダが羊肉を噛みながら言うと、近くにいたレオンは木杯を持ったまま肩をすくめた。
「ロアンにとってはあれが本職だ」
麦刈りの動きに合わせるためなのか、歌は同じ拍を何度も繰り返した。子どもも老人も、自分が出しやすい高さで勝手に声を重ねている。ロアンはそこへ余計な飾りを入れず、ばらばらの声が歌いやすいところだけ弦で支えた。
歌の最後には、今日働いた分だけ酒を飲み、明日の畑は明日考えようという内容の短いくだりがあった。
そこだけ隊商の護衛まで妙に早く覚えた。
マルクが木杯を上げると、隣の商人も同じところを歌い、村人が笑う。ロアンまで弦を鳴らしながら笑っていた。
「すごいな。覚えるの早すぎない?」
「働いたあとに必要なことだからな!」
誰かが答えた。
村の年寄りがロアンの前へ酒を置き、もう一度弾けと言う。ロアンは嬉しそうに杯を受け取ったが、二杯目からは銅貨を払えと言われ、素直に財布を出した。
ティルダは腹を抱えて笑った。
隣にフレイがいないのが少し惜しかった。あの子なら羊肉より先に、広場の飾り布の縫い方を見に行っただろう。
そう思ってから、帰ったら話せばいいか、とすぐに思い直した。
その夜、ティルダは踊りの輪へ一度だけ引っ張り込まれた。足運びなど知らなかったので、前の村娘と同じように踏んだつもりが二度ぶつかり、三度目には笑われながら手を引かれた。
格好よくはなかったが楽しかった。宿へ戻るころには足が少し痛かった。
◇
翌朝、ロアンは自分たちの荷車ではなく、染料商の荷車へ乗っていた。
「昨日の歌をもう一回って言われたんだよ。ちゃんと夕方には戻るから」
「分かった。王都へ着いたら酒の説明を頼む。それまでは歌ってこい」
レオンに言われ、ロアンは手を振った。
前の荷車から、昨日覚えた麦刈り歌の節が聞こえてくる。歌詞を全部覚えている者はいなかったが、祭りの最後に皆で繰り返した部分だけは何人も声を合わせられた。
ティルダは荷台の胸当てがずれていないか縄を確かめ、それから街道の先を見た。
六日目の昼前、前方の地面がゆっくり高くなった。
坂を上りきる少し前から、荷車の御者たちが前を指し始める。ティルダも荷台の横木へ片手を掛けて立った。前の御者の肩越しでは見えず、荷台の端へ少し寄ってようやく視界が開く。
丘の向こうに、灰白色の城壁が現れた。
最初は山の斜面かと思った。
横へ長すぎたそれが、セルディア王国の王都だった。
近づくにつれ、その上に等間隔の塔があるのが分かる。さらに中央には、ベルクの城門よりはるかに大きな門楼が見えた。壁の向こうからは何本もの煙が上がり、街道そのものが人と荷車で太くなっていく。
ティルダは口を開いたまま、何も言えなかった。
炉ならどう組むか。門の鉄はどれだけ要るか。あの扉を支える軸はどんな太さか。
いつもなら先に出てくるはずの疑問が、しばらく一つも形にならなかった。
三台ほど前で鳴っていたロアンのリュートも、いつの間にか止まっていた。
誰かが歌の続きを促す声もなかった。
十二台の荷車は速度を落とさないまま、王都の城壁へ向かって進んでいった。
王都へ行けるのに、《帰還》が戻るまで待つレオン。
三日続けて「まだ行かないの?」と聞くティルダ。
ようやく王都へ向かいます。
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