炉守りは次の冒険を支度します
レオンたちの灯りが階段の下へ消えてからも、冷たい空気だけは主洞まで流れてきていた。
ミラが入口を見ている間に、背後ではもう木を削る音が始まっている。
「ミラ。そこ見てても早く帰ってこないよ」
フレイは昨日とは違う濃い緑の短衣の袖を肘まで折り、図面と木材を見比べて墨を引いていた。その隣では、防火上着を重ねたティルダが普通鉄を切り分けている。作業台の向こうに並ぶと、赤銅色の髪とよく似た顔立ちは双子そのものなのに、片方の指先は木粉で白く、片方の前腕は煤で黒い。二人とも手は忙しい。
「少し見送っていただけです」
「レオンが降りてから三回目だけどね」
「数えてたの?」
ティルダが笑う。
「数えなくても分かるって。ミラ、誰が一番心配?」
「三人ともです。キュウは初めて地下で戦うかもしれませんし、ロアンさんは剣を使う人ではありません。レオンさんは、危ないと分かっているところほど確かめに行きます」
ティルダが普通鉄を押さえたまま、にやりとした。
「最後だけずいぶん具体的だな」
「前からそういう人ですから」
「そこまで分かってるなら、待てって言われた理由も分かってるでしょ」
ベラが玉葱を切りながら言う。
「はい。だから待っています」
ミラは角材を一本運び、フレイの横へ置いた。フレイは長さを確かめてから、図面の端を指す。
「ここの受け、一本増やした方がよくない? 横梁を太くするなら、荷重が片側へ寄るよ」
「じゃあ金具も一枚増やすか」
ティルダがすぐ答える。
「それなら反対側も同じにしないと見た目が変だよ」
「そこまでやるなら、回し棒の受けも――」
「お二人とも、増やすものを一度まとめた方がいいと思います」
ミラが言うと、よく似た二つの顔が同時にこちらを向いた。
「……そうだな」
「レオンが戻る前に材料表だけ作ろう。勝手に切るのはそのあと」
二人は納得したらしく、今度は同じ紙へ別々の方向から書き込み始めた。姉を止めるというより、フレイ自身も気になったところを増やしている。
ベラが包丁の腹で刻んだ玉葱を寄せた。
「帰ってきたら、その紙ごと見せな。こっちは昼を作っとく。心配して腹を空かせても誰も早く帰ってこないよ」
「はい」
ミラが答えたところで、白い文字が浮かんだ。
《新規技能《戦歌》を取得しますか?》
《はい》
《いいえ》
ミラの手が止まった。
「新しい技能の表示です。《戦歌》を取得するか、と出ています」
「ミラが?」
「いいえ。私ではありません。歌なので…たぶんロアンさんです。《帰還》のときも、遠くにいたレオンさんの表示がこちらにも出ました」
「戦歌って、戦う歌?」
ティルダが眉を寄せる。
「名前だけなら、そう読めます」
「じゃあ下で戦ってるってことじゃないかい」
ベラの声から笑いが消えた。
ミラは階段を見る。レオンに言われた待ち時間は、まだ過ぎていない。
「帰り火。ロアンさんたちは無事ですか?」
《回答できません》
「何と戦っていますか?」
《回答できません》
その間に《はい》が強く光った。
《新規技能《戦歌》を取得しました》
「今取得しました」
「技能そのものが新しくできることもあるの?」
「あります。《帰還》もそうでした。私の《炉守り》も、前にはない職業でした」
ティルダは槌を置かずに、帰り火へ目だけを向けた。
「世界にないものを、ここの火作ってくれるのか? 変な家だな」
「考えるのは後だよ」
ベラが手を拭いた。
「今は下で戦いになったらしい。ミラ、追いかける顔するんじゃない。待てって言われたんだろ」
「はい」
「なら待つ。戻ってきたときに、飯と仲間がいる方が嬉しいもんだよ」
ミラは階段から目を戻した。
「フレイさん、次は何を運びますか?」
「お? ミラが張り切った。その角材を二本。姉ちゃん、金具を当てるなら私も寸法測るの手伝う」
「じゃあ先に仮留めだけする」
「うん。穴はまだ開けない」
槌と鉋の音がまた重なった。
◇
昼を少し回ったころ、階段の奥から足音がした。
先頭のレオンは外套の襟を高くし、頬と耳を赤くしていた。ロアンも肩をすぼめ、長い栗色の髪の先が湿っている。最後のキュウは自分の脚で歩いていたが、鱗へ触れたミラの掌に、石のような冷たさが返ってきた。
ミラはまずキュウの肩と歩き方を確かめ、レオンから「一度ぶつけたが大きな怪我はない」と聞いてようやく息を吐いた。
その横では、ティルダが荷袋の口へ顔を近づけ、ベラは血の付いた布包みを見ている。食える肉が二種類、暖かい毛皮、冷たさを保つ苔、小さい氷魔石、それに水場の魚まで見つけたとレオンが短く話したところで、ベラの視線が素材ではなく彼の手へ止まった。
布に包んだ小氷魔石を持つ指だけでなく、手全体が赤く冷えていた。
「続きは風呂のあと。三人とも冷え切ってるじゃないか。肉は逃げないし、魔石もそこへ置いときな」
ロアンは即座に頷く。
「今日は順番待ちなしで三人で入ろう。キュウも一緒」
レオンはキュウを見た。キュウはもう浴室へ鼻を向けている。
「……今日はいい。身体を洗ってから入れ。キュウ、先に飛び込むなよ」
「きゅう!」
「その返事は信用できないね」
ベラが言った。
三人が浴室へ入ると、女性陣は持ち帰られた荷を整理した。白い毛の大きな兎、灰青色の蜥蜴の素材、布に包まれた小さな魔石、湿った白い苔。その横では、別の小布に包まれた青白い苔が、弱いながらまだ光っていた。
ティルダが兎の毛へ指を沈めた。
「これ暖かい。手袋にしたいな」
「血が付いた手で顔触らないでよ」
フレイは白い苔へ指を近づけ、それから隣の青白い光も覗き込んだ。
「白い方は冷たい。箱に敷いたら肉を置く間くらい保ちそう。青い方は、もう光が弱くなってるね」
「試すなら生肉とは分けな。何が付いてるか分からないから」
ベラが言ったところで、浴室から大きな水音がした。
「きゅう!」
「だから飛び込むなって言っただろ!」
レオンの声にロアンの笑いが重なる。
「お、ちゃんと泳ぐね。キュウ、尻尾は振り回さないで!」
「笑ってないで押さえろ! 湯船の中で振るな」
しばらくして水音が静かになると、また話し声が聞こえてきた。
「キュウ、途中からちゃんとレオンを見るようになったの、よかったと思うよ」
「最初は追いすぎた。二回目から戻れた。初めてなら十分だ」
「きゅ」
「今褒められたの分かった?」
「きゅう」
「分かってる顔だな」
レオンの声に笑いが混じった。
「下も思ってたより広かった。水もあるし、食えるものもいる。キュウ、腹いっぱい食えるぞ」
「太らせないようにしないとね。ところで、レオンが金の話しをしないって…なんか変だね」
「売れるものもあったぞ」
「やっぱレオンだ!」
浴室からまた笑い声がする。
「楽しそうですね」
ミラが言うと、ティルダも頷いた。
「レオンって、ああいう声で笑うんだね」
◇
風呂から上がった三人は、温かい煮出し茶を飲んで食卓へ戻った。
キュウの肩には腫れも熱もない。ミラが大丈夫そうだと伝えると、キュウは炉の近くへ腹をつけて目を細めた。
レオンは素材を並べ直した。
「肉は食える。毛皮は保温材になる。肉は食用可、皮は耐冷に向く。小さい氷魔石も獲れた」
フレイは魔石を布越しに触る。
「圧搾機が終わったら、霜苔だけ、魔石だけ、両方で冷え方を比べたい」
「圧搾機が終わってからね」
ティルダが先に言ったので、フレイが目を丸くした。
「姉ちゃんが止めた」
「今日はあたしの方が一回勝ってるからな」
ベラは肉の筋と脂を確かめた。
「兎は今日食べよう。蜥蜴も少し焼いてみる。残りは今日のうちに塩漬けと燻製に回すよ。他は?」
「水場に魚がいた。網がなくて捕ってない」
「次は絶対網を持って行こう」
ロアンの言葉に、ベラも頷く。
「小さいなら揚げても出汁でも使える。捕ってからの話だけどね」
「すっげー! 大冒険じゃん!」
ティルダが身を乗り出した。
レオンは、奥ほど床の水が凍り、広い空洞に人よりずっと大きな蜥蜴がいたことを説明した。背と肩へ青白い氷が何層も重なり、白い息の周りだけ霜が濃かったという。
「北方で稀に出る《氷殻大蜥蜴》に似てる。実物は初めてだが、普通の剣を弾くくらい殻が硬いって話は聞いた」
ティルダの目がレオンの剣へ向く。
「今の剣じゃ刃の方が負けるかもね。青魔鉄で一本作りたい。氷を割る厚みは残して、足場が悪くても振れる重さにする」
フレイは氷甲蜥蜴の皮へ目を落とした。
「防具は?」
ティルダは皮を広げ、首を振った。
「この量じゃ胸当て一枚にも足りない。霜毛兎は暖かいけど、刃や爪を止める皮じゃない。今回は剣が先。ただ、今の当て金で仕上げるのは嫌。ちゃんとした金床と鞴が欲しい」
「網も」
ロアンが付け足す。
「忘れてない。魚は大蜥蜴が終わって余裕があれば試す」
「それならいいよ。僕の中では大事だからね」
レオンは少し考えてから頷いた。
「次のベルク行きでまとめる。網、金床、鞴、普通鉄。青魔鉄は在庫から剣一本分だけ使う。ミラ、それでいいか」
「はい。レオンさんが地下へ持っていく剣なら、必要だと思います」
話が切れたところで、レオンがベラを見た。
「氷をまとってるなら、火が効く可能性は高い」
ベラの包丁が止まった。
「だから次はあたしにも来いって?」
「そう言う前に聞こうと思ってた。火が欲しいだけなら、ベラが嫌がるのは知ってる」
「その聞き方も面倒だね」
「どう聞けばいいんだ」
「知らないよ。そこまであたしに考えさせるな」
ベラは肉を一枚切り分けてから続けた。
「前の討伐隊じゃ、前衛が敵を集めて退いたところへ、あたしがまとめて火を撃つ。それが仕事だった。ちゃんと守ってくれたし、悪い連中でもなかったよ。でも飯を作れば『料理人に任せろ』、野営で料理を作れば『お前に払ってるのは火を撃つ金だ』。必要だったのは、広く強く焼ける《爆炎術師》だったんだろうね」
「だから戦うのが嫌なんですか?」
「嫌いじゃない。勝てたら嬉しいよ。ただ、ここでも『氷だからベラの火』だけなら、昔と何が違うんだろうとは思う」
レオンは少し間を置いた。
「なら今は頼まない。俺も、あれがどう冷えてるのかまでは分かってない」
「そこであっさり引くのも腹が立つんだよ」
「理不尽だな」
「感情なんてそんなもんだよ」
ミラは別のことが気になった。
「レオンさん。氷はどこが一番厚かったんですか?」
「背中と肩だ。横腹にもあった。鼻から白い息を吐いて、顔の周りは霜が濃かった」
ベラの目が少し変わる。
「身体の中から冷やしてるのかね。外へ氷を貼ってるだけなら表面を溶かせばいい。でも中から冷やし続けてるなら、火を一回ぶつけても、また凍るかもしれない」
「分からん。今日は戦ってない」
「……現物を見ないと駄目だね」
ベラはそれだけ言って、また肉へ包丁を入れた。
◇
大蜥蜴を急いで倒す理由はなかった。
階段から魔物が上がってくる様子はなく、大蜥蜴も冷えた空洞から追ってこなかった。次の一週間あまりは、地下より先に地上の仕事を進めた。
圧搾機は二日後に完成した。
太い木枠の中央へ木ねじを通し、長い柄を回すと押し板がゆっくり下がる。粗く砕いた林檎を入れ、ロアンとベラが柄を回すと、淡い金色の果汁が溝から桶へ流れ始めた。
「今まで僕らが腕でやってた仕事を、木に押しつけてるんだね。いい機械だなあ」
「そう考えるとありがたいね。へとへとにならなくて済むのは本当に助かるよ」
以前なら午前いっぱいかかっていた量が、昼前には搾り終わった。作業後もベラは肩を揉まず、そのまま厨房へ戻れる。
「これなら仕込みのあとに夕飯を作れる。前は最後の方、包丁持つのも嫌になるくらい腕が重かったからね」
果汁はロアンが樽へ移した。酒が早くできるわけではない。それでも、仕込みへ入る前に人間の腕を使い切らなくてよくなった。
その後、ベルクへ買い出しに出ていたレオンが戻ると、荷車には目の細かい小型の漁網、中古の金床、新しい鞴、普通鉄が積まれていた。
「網、本当に買ってきたんだ」
ロアンが手を伸ばすと、ベラは荷を下ろしながらそちらも見ずに言った。
「使ったら洗って干す。それだけ覚えときな」
「もう覚えたよ。魚より先に網を駄目にしたら、次を買ってもらえるか分からないからね」
ロアンは絡ませないよう両手で畳み直した。ティルダは網をほとんど見ず、金床の表面を叩いて音を確かめた。
「中古だけど悪くない。これなら剣いける」
新しい鞴が付くと、鍛冶場の火は以前より安定した。
ティルダは残してあった高品位の青魔鉄を選び、何度も熱しては金床の上で伸ばした。刃の厚みや重心についてレオンを何度も呼びつける。
「地下は足場が悪い。重くしすぎるな」
「分かってる。氷を叩く厚みは残すけど、斧みたいにはしない」
何日かかけて仕上がった剣は、以前の鉄剣よりわずかに幅があり、青灰色の刃へ薄い光沢があった。レオンが外で振り、止め、切り返すのをティルダは腕を組んで見る。
「どう?」
「重さはいい。氷へ通るかは当ててみないと分からん」
「それでいいよ。相手に当ててもいないのに、絶対勝てるなんて無責任なことは言えない」
◇
次に地下へ入る日の相談は、その夜の食卓で始まった。
卓の端には網が畳まれ、壁には青魔鉄の剣が立て掛けてある。圧搾機で搾った林檎果汁は、すでに樽の中で仕込みに入っていた。
レオンは前回の道を簡単な図にした。
「青魔鉄の剣が通らない、冷気が予想より強い、誰かが怪我した。まずいと思ったら戻る。勝たなきゃ帰れないわけじゃない」
「僕の《戦歌》も、まだ『戦いやすかった』くらいだからね。急に強くなったと思わないでよ」
ティルダが身を乗り出す。
「やっぱりあの《戦歌》、ロアンだったんだ。どうやったの?」
「最初は歌う気なんかなかったよ。声だけじゃ二人へ届かなくて、弦を鳴らして拍をつけてたら、いつの間にか歌になった。僕もまだよく分からない」
「前より合わせやすかったのは確かだ」
レオンは図へ目を戻した。
「俺が前、キュウは俺を見ながら動く。ロアンは後ろで音を合わせる。そこまでは同じだ」
鍋を見ていたベラが火を弱め、振り返った。
「レオン。氷は肩と背中が一番厚かったんだね」
「ああ」
「腹側は?」
「背中ほどじゃない。横腹は薄かった」
ベラはしばらく黙り、卓の上に描かれた大蜥蜴の印を見ていた。
「強い火を遠くから撃つだけなら、たぶん行かない。でも、氷が何層もあるなら表だけ溶かしても意味がないかもしれない。剣で割ったあと、どこから冷えが戻るのか近くで見たい」
レオンは口を挟まず、続きを待った。
「料理だって、火を強くすれば何でも早く仕上がるわけじゃない。外だけ焦げて、中が冷たいままってこともある。その蜥蜴が同じだとは言わないよ。でも、冷え方なんて関係なく火だけ撃つなら、あたしじゃなくてもいい」
ベラは大蜥蜴の印を指で二度叩いた。
「どこから冷えて、どこへ火を入れればいいのか。それを任せてくれるなら、あたしが行った方がいい」
ミラには、鍋の中身と人より大きな蜥蜴の冷え方を、同じ火加減の話にしてよいのかはよく分からなかった。
けれどベラは、冗談を言っている顔ではない。
その横で、ロアンが椅子の背へ身体を預けた。
「じゃあ僕は今回も後ろで歌ってるよ。前へ出ない分、たぶん一番安全だろうしね」
ベラがちらりとロアンを見た。
「…あんたが一番心配なんだよ」
声は小さかった。
ロアンには届かなかったらしく、彼は卓の端に置いたリュートの弦を指で確かめている。
けれど、すぐ近くにいたミラには聞こえた。
ベラは何も言わなかったように鍋へ視線を戻し、それからもう一度、大蜥蜴の印を見た。
「次は、あたしも行くよ」
レオンが頷く。
「昔みたいに火を撃つだけの役じゃないぞ」
「だから行くんだよ。現物で必要なら火を使う。分からなきゃ帰る。それでいいだろ」
「ああ。それなら頼む」
ベラは鍋の蓋を開けた。
「じゃあ明日は、腹いっぱい食べてから行こう。あたしの分も多めに作る」
「ベラさんも食べる側なんですね」
「戦うために食べるんだよ」
湯気と一緒に、霜毛兎と香草の匂いが食卓へ広がった。
壁際には青魔鉄の剣が立ち、卓の端には魚を捕る網が畳まれていた。圧搾機の向こうでは、搾り終えた林檎の果汁が樽の中で静かに仕込みを待っていた。
一度潜れば、次に必要な物が分かる。
そして帰ってくれば、それを作れる仲間がいる。
探索して、持ち帰って、暮らしを良くして、また潜る。この循環を気に入っていただけたら、評価をいただけると嬉しいです。




