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帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
三つ火の酒

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23/85

旅商人は冷たい地下を探検します

 朝食が並ぶころになっても、ついさっき開いた階段からは冷たい空気が流れ続けていた。


 食卓から入口そのものは見えない。それでもレオンは、豆の煮込みを口へ運ぶたびに主洞の奥へ目をやった。昨夜まで岩壁だった場所の向こうに、誰も知らない空間がある。そこには水があり、少なくとも何かが動いている。


「で、食べ終わったら降りるんでしょ?」


 ティルダはパンで煮汁を拭いながら、小柄な身体を卓へ乗り出していた。腰の革帯にはもう槌が下がり、椅子へきちんと座り直す気配がない。


「降りる。ただし今日は偵察だ。奥まで行けそうでも、戻れる道と中に何がいるかを見たら一度帰る」


「私も行く。あの階段、絶対なんか面白いのあるって」


「圧搾機はどうする」


 ティルダの口が止まった。


 圧搾機の材料表がまとまってから、次のベルク行きまで数日待った。必要な木材と普通鉄は昨日の買い出しでようやく揃い、作業場所の壁際へ積んである。今日から本組みに入る予定だった。


 フレイは姉を見ず、図面を膝へ広げたまま言った。


「私も地下は見たい。でも二人とも行ったら、こっちは一日止まるよ。木枠を組んでから金具の位置を合わせる予定だったし、今見に行ったら私たち何しに来たのって」


「じゃあ今日は圧搾機か」


「うん。地下はあとで見せてもらう。その代わり、変な形の石とか金属があったら持って帰って」


「それはあたしも頼む」


 レオンはそこで話を切った。


「地下は逃げない。今日は俺とロアン、それにキュウで行く。ティルダとフレイは予定通り圧搾機を進めてくれ」


 足元で伏せていたキュウが、自分の名を聞いて勢いよく顔を上げた。


「きゅう!」


 黄土色の身体は、ミラが洞窟へ来たばかりのころより明らかに大きくなっていた。まだ幼竜らしい丸みは残っているが、首から肩へかけて少し厚みが出て、長い尻尾も以前より力強く床を叩く。白い腹と、二本の角のうち左だけ欠けているところは変わらない。


「本人はずいぶん行く気だね」


 ロアンは椅子の背に立て掛けた小ぶりのリュートへ手を伸ばした。革紐で緩く束ねた栗色の髪はまだ寝癖が少し残り、青緑色の目にも朝の眠気があるのに、旅支度だけは早い。


「それも持っていくのか」


「持っていくよ。旅してる間はだいたい背負ってたし、置いていく方が落ち着かない。地下で演奏会を開くつもりはないから安心して」


「戦いになっても楽器までは守れんぞ」


「僕より先に守ってくれとは言わないさ。昨日、入口で一番警戒してたのもキュウだよ。僕としては、水音よりあの擦れる音の正体が気になる。かなり遠かったのに聞こえたからね」


「だから連れていく。キュウは戦えるかどうかだけじゃなく、知らない場所でどう動くかも覚えた方がいい。無理そうなら途中で戻す」


 レオンが言うと、ミラは食卓の下へ身を屈めてキュウの顔を覗いた。


「怖かったら、ちゃんとレオンさんに教えてくださいね。あと、勝手に先へ行かないでください」


「きゅ」


「返事はいいな。あとはその通りに動ければ十分だ」


 ベラが鍋の底に残っていた煮込みをレオンの椀へ足した。


「キュウに言うなら、あんたも無茶しないでおくれ。何がいるか分からないところへ行くんだから、腹だけは満たしていきな。怪我して帰ってきて、あたしに叱られるのも嫌だろ」


「それは避けたい」


「なら、面倒を増やさないで帰ってきな」


 レオンは黙って食べた。


 食後、三人は階段の前で荷物を確かめた。レオンは剣と短刀、革手袋、火口箱、縄、小さな油灯。ロアンはリュートのほかに水袋と布袋を背負い、腰には護身用の短剣を差している。キュウには何も持たせない。


「袋、それだけで足りる?」


 ティルダが積んである木材の横から尋ねた。


「初回から拾う気で入らない。持ち帰れるものがあれば、この二つへ入る分だけだ。荷物を増やして、逃げるときに邪魔になる方が困る」


「じゃあ、すごいものが山ほどあっても置いてくるの?」


「場所が分かれば次に取りに行ける。命は置いてきたら取りに行けない」


「それはそうだね」


 ティルダは未練の残った目で階段を見たあと、槌を腰から外して作業台へ置いた。フレイはもう図面へ戻っている。


「戻るころまでに木枠くらいは立てるよ。私は柱を合わせる。姉ちゃんは金具を仮に当てて、穴を開けるのは木の厚みを測ってからね」


「分かった。じゃあ先に受け金だけ揃えとく」


「それなら同時に進められる」


 レオンは双子からミラへ目を移した。


「俺たちが戻らなくても、すぐ追ってくるな。昼を大きく回るまでは待っていい。それを過ぎたらベラと相談して、入口側からできることを先に考えろ」


「分かりました。帰ってくる前提で待っています」


 ミラはいつもの調子で言った。


 レオンは一拍だけ置き、「そのつもりだ」と返して階段へ足を掛けた。


     ◇


 石段は、上から見た印象より長かった。


 二十段も降りると、主洞から漏れる明かりは背後の細い四角になった。油灯を前へ出してみると、左右の壁は自然に崩れた岩肌ではなく、人が通れる幅へ揃えて削ったように見える。


「これ、誰かが作ったんだよね」


 後ろからロアンが声を潜めた。


「少なくとも、水が勝手にこんな階段を作るとは思えん」


「もっとこう、古代の王が隠した地下宮殿かもしれない、とかないの?」


「そうなら床が抜けるかもしれないな。足元に気を付けろ」


「夢の代わりに危険を足すの、レオンらしいなあ」


 階段の途中でキュウが鼻先を壁へ寄せた。匂いを拾うように何度か鼻を動かしたあと、レオンの横へ戻ってくる。嫌がってはいないが、いつものように勝手に先へ走る気もないらしい。


 下へ行くほど空気は冷えた。湿り気があり、油灯を持つ指先から少しずつ熱が奪われる。


 やがて階段が終わった。


 その先は石造りの部屋ではなく、天井の高い天然洞だった。油灯を掲げても上まで光が届かない。ただし完全な闇でもない。岩壁の割れ目や足元に、青白い小さな光が点々と浮かんでいる。


「苔かな。火もないのに光ってる」


 ロアンが近づこうとしたので、レオンが先に手を出して止めた。


「触る前に確かめろ」


 短刀の先で近くのものを少量だけ削ぎ、革手袋の上へ載せて《素材鑑定》を使う。


《青灯苔》

《発光素材として利用可》

《採取後――発光は徐々に低下》


「長持ちはしないらしいが、道の目印には使えそうだ。毒がないとは出てないから、素手では触るな」


「便利なのに肝心なところは教えてくれないんだね、その鑑定」


「素材として分かることしか出ない。食えるかどうかまで出るものもあるが、何でも答えるわけじゃない」


 少量を布で包んで袋へ入れた。


 奥へ進むと、昨日ロアンが聞いた水音が次第にはっきりしてきた。分かれ道でロアンが目を閉じ、右、正面、左の順に顔を向ける。


「近い水は右だね。正面にも水はあるけど、かなり先で落ちてる。左は小さい爪みたいな音が何匹か。走って、止まって、また動いてる」


「なら右を先に見る。帰り道の近くに水場があるか知っておけば、あとで使える」


「危ない方を後回しにする僕と、言い方は違うけど行き先は同じなんだな」


「ロアンはそれでいい。俺は逃げ道と水場を先に把握したい」


 右の横穴はすぐに広がり、浅い地下水の池へ出た。透明な水が白い砂の上をゆっくり流れ、灯りが近づくと、その底で親指ほどの白い魚が数匹走った。目は小さく、皮膚は薄く透けている。


 ロアンはしゃがみ込み、しばらく魚の動きを追った。


「これ、食べられるかな。せっかく水の中まで肉が泳いでるのに、網を持ってこなかったのが急に惜しくなってきた」


「今日は捕る道具がない。場所を覚えておけ。次に持ってくればいい」


「次に来る理由が食べ物というのはいいね。しばらく魚は食べてないよ」


 水際には、青灯苔とは違う淡い白色の苔が広がっていた。近づくだけで、指先の空気がわずかに冷える。


 レオンが一片だけ採って鑑定する。


《霜苔》

《保冷素材として利用可》

《吸水時――保冷時間延長》


「これは魚を運ぶときに使えるかもしれん。濡らして袋へ敷けば、少なくとも何もしないよりは冷やせる」


「魚が獲れたら使えそうだね」


「売るにしても食うにしても、腐らせたら損しかしないからな」


 霜苔も少量だけ湿らせ、別の布へ包んだ。


 水場を離れて元の洞へ戻ったところで、キュウが足を止めた。鼻先が左へ向き、喉の奥から低い音が漏れる。


「来るぞ」


 レオンが剣へ手を掛けた直後、岩陰から灰白色の塊が飛び出した。


 兎だった。ただしベルク周辺で見る野兎より二回りは大きく、短い耳から背中まで霜を吹いたような白い毛に覆われている。


 真っ先に狙われたキュウは横へ跳んだ。そこまではよかった。避けた勢いのまま追おうとして、急に方向を変えた兎へつられ、肩から岩壁へぶつかる。


「追うな、戻れ!」


 キュウはレオンの声で踏みとどまった。


 兎が二度目の跳躍へ入る。レオンは剣の腹を横から当て、軌道を逸らした。石床へ落ちたところへキュウが飛びつくが、最初に噛んだのは胴だった。


「首へ行け。前脚に近づくな!」


 一度口を離したキュウは、暴れる後脚を避けて頭側へ回り、今度は首元へ噛みついた。後脚が脇腹を打ったものの、地竜の鱗には傷が入らない。


 数呼吸すると兎の力が抜けた。


「もういい。離せ」


 それでもキュウは一瞬だけ噛んだまま止まった。レオンが首の後ろへ手を置き、「終わった」ともう一度言うと、ようやく口を開く。


 鼻先へ白い毛をつけたまま獲物を見下ろす姿には、得意そうなところと戸惑っているところが半分ずつあった。


「最初に追いすぎた。相手が逃げたら俺を見る。噛んだあとも、動かなくなったら離せ。今の二回目は悪くなかった」


「きゅう」


「一回で全部できなくていい。次もやれ」


 首を軽く叩くと、キュウの尻尾が一度だけ床を掃いた。


 倒れた魔物へ《素材鑑定》を使う。


《霜毛兎》

《毛皮――高保温素材》

《肉――食用可》

《後脚腱――加工素材》


「毛皮は防具より冬物向きだな。肉も食える」


 それを聞いたロアンがすぐ隣へ来た。


「灯りがあって、水があって、魚がいて、今度は肉と暖かい毛皮まである。今のところ、ずいぶん気前のいい地下だね」


「今のところはな。気前のいい場所ほど、持って帰る方法と危険を先に意識した方がいい」


「その言い方をすると、他にも嫌なものが出そうなんだけど」


「言わなくても出るときは出る」


 霜毛兎は丸ごと持ち帰ることにした。レオンが最低限の血抜きだけ済ませて脚を縛る間、キュウはすぐ横に座った。さっきまで獲物へ鼻を寄せたがっていたのに、一度「待て」と言うと今度は動かなかった。


「覚えるの早いね」


 ロアンが感心すると、レオンは縄を締め直した。


「覚えるのは早い。ただ、次も同じようにできるかが肝心だ。戦い方は一回で身につくもんじゃない」


「お? なんだかレオンって先生向きじゃない?」


「教えなくて済むなら、その方が楽だがな」


     ◇


 さらに奥へ進むにつれ、青灯苔は減り、代わりに岩肌へ薄い霜が張るようになった。床を流れる細い水も、ときどき白く凍っている。


 レオンは帰り道を見失わないよう、分かれ目へ炭で印を残した。ロアンも曲がり角ごとに足を止め、《聴音》で先を探る。


「正面に三つ……いや、四つ。さっきの兎より重い。爪が石を擦ってる。距離は走ればすぐだと思う」


「向こうが動いてるなら、こっちに気づいてる可能性もあるな。キュウ、今度は俺より前へ出るな。ロアンは後ろで左右の音を聴け」


「左右は任せて。数が変わったらすぐ言う」


 油灯を岩陰へ置き、レオンは剣を抜いた。


 細い通路の先で爪音が重なり、四匹の蜥蜴が姿を現した。大きいものでも鼻先から尾まで人の背丈の半分ほどだが、青灰色の鱗には薄い氷が板のように張りついている。口を開くたび、白い息が漏れた。


 一匹が頭を下げる。


「散れ!」


 冷気が床を走った。レオンは横へ飛び、キュウも少し遅れて避ける。濡れていた石床へ白い膜が一気に広がった。


「凍ったところへ乗るな。端を使え!」


 一匹目が飛び込んでくる。レオンの剣は鱗を切ったが、表面の氷に滑らされて浅い。横から二匹目が来ると、キュウが身体ごとぶつかって岩壁へ押しつけた。ただ、勢いを殺しきれず自分まで肩を当てている。


「下がれ、足元!」


 キュウが一歩遅れて下がった直後、その前を冷気が横切った。前脚が氷へ触れて滑り、レオンは首の皮を掴んで引き戻す。


「レオン、右からもう一匹!」


 ロアンの声に振り向くと、三匹目が口を開いていた。剣を横へ払って飛び込みを牽制し、そのまま冷気の筋から外れる。


 四匹なら倒せる。問題は数ではなく、キュウの動きと足場を見ながら、別方向から来る相手を同時に捌かなければならないことだった。


 背後で、鋭く弦が鳴った。


「右、今!」


 ロアンの声に合わせてレオンが踏み込み、三匹目の鼻先をかわした。続けて、もう一度だけ短い音が飛ぶ。


「キュウ、待って……今!」


 一拍遅らせて飛び出したキュウが、横から来た蜥蜴へ身体ごとぶつかった。さっきまでなら勢いのまま追ったところで、今度はロアンの次の声を待つように踏みとどまる。


 ロアンは敵を見ながら、今度は二度、間を空けて弦を鳴らした。戦いの中で声だけを通すより、短く鋭い音を挟んだ方が、レオンにもキュウにも合図が届きやすいらしい。三度目から、その掛け声に自然と高さがついた。


 歌おうとしているようには見えなかった。敵の動きに合わせて言葉を伸ばし、レオンが踏み込むところで強く、キュウを待たせたいところでは短く切る。いつの間にかそれが、同じ節を繰り返す歌になっていた。


 最初の数拍を聞いたところで、レオンは考えるのをやめた。


 次の強い音で右へ出る。蜥蜴の頭をかわして氷の薄い脇腹へ剣を入れ、その次の拍で身体を引く。空いたところへキュウが入り、崩れた一匹の横腹へ体当たりした。


 剣が速くなったわけではない。腕が軽くなった感覚も、身体へ力が湧く感覚もない。それでも、誰が次に動くのかを読むための間は、さっきより取りやすい。


 キュウも歌の切れ目を拾っているらしい。レオンが一歩退くと前へ入り、尻尾を振り抜いて蜥蜴の頭を横から叩いた。今度は勢いのまま追わず、レオンを一度見る。


「それでいい!」


「きゅう!」


「僕の方も褒めてくれていいんだけど!」


「今は続けろ!」


「それは褒めてる扱いにする!」


 最後の一匹が倒れるまで、それほど時間はかからなかった。


 レオンはすぐに周囲へ目を配り、追加の爪音がないことをロアンにも確認させてから剣を下げた。歌が止まると、洞窟には三人の荒い息と遠くの水音だけが残った。


 ロアンはリュートを抱え直し、息を整えながら笑った。


「今の僕、かなり役に立ってたよね。後ろで音を聞いてただけとは言わせないよ」


「役に立った。俺とキュウが動く間を取りやすかった。身体が強くなった感じはしなかったが、さっきより戦いやすかった」


 ロアンは満足そうに頷くと、急に右手を上げた。


「レオン、手を出して」


「手を?」


「王都の騎士たちは、いい戦いをしたあとにこうやって掌を打ち合わせて称え合うって聞いたことがあるんだ。僕も一度やってみたかった」


「そんな習慣があるのか」


「今以外いつやるの。僕ら三人で、初めてちゃんと一緒に勝ったんだよ」


 そこまで言われると断る理由も薄い。レオンが掌を出すと、ロアンは嬉しそうに自分の手を打ち合わせた。乾いた音が一つ、洞窟へ響く。


「キュウも。今日はちゃんと一人分働いたんだから」


「きゅう?」


 ロアンが腰を落として掌を向けると、キュウは少し考えてから前脚を持ち上げ、勢いよく叩きつけた。


「痛っ。地竜は称え合う前に加減を覚えようか」


「きゅう!」


 キュウの尻尾が得意げに床を叩いた。ロアンは赤くなった掌を振りながら笑い、それから急に動きを止めた。


「……待って」


 ロアンの青緑色の目が、何もない空中の一点で止まった。口元の笑いも消える。


「文字が出た。『新規技能《戦歌》を取得しますか?』。はいといいえもある」


「戦歌?」


「僕も聞いたことない。戦場で歌った人間くらい昔からいるだろうけど、技能としては知らないな」


 レオンも記憶を探った。軍の太鼓や角笛、兵を奮い立たせる号令なら聞いたことがある。しかし、吟遊詩人の歌そのものが戦闘技能になったという話は、一度もなかった。


「今の歌が元なら、決めるのはロアンだ。俺が取るものじゃない」


「なら取るよ。僕が剣を二本持つより、ずっと役に立ちそうだからね」


 ロアンが宙へ指を伸ばした。


「はい」


 少しして、また文字を読む。


「『新規技能《戦歌 Lv1》を取得しました』。……本当に聞いたことのない技能が増えた」


「何ができるか分かるか?」


「そこまでは何も出てない。今のところ、急に力が強くなった感じもしないし、歌が上手くなった感じもしない。でも、さっき何を合わせてたのかは、もう一回やれば少し掴めそうな気はする」


「なら次の戦闘で確かめろ。ただし、敵に気づかれる前から歌うな」


「斥候だった前半と後半が喧嘩してるんだよなあ。静かに探して、見つかったら派手に歌う。ずいぶん忙しい吟遊詩人になった」


 レオンは倒れた蜥蜴の一匹へ《素材鑑定》を使った。


《氷甲蜥蜴》

《皮――耐冷素材として利用可》

《肉――食用可》

《小氷魔石――胸部》

《尾骨――加工素材》


「こいつも食える。胸に小氷魔石がある」


 短刀で胸側の鱗を外し、肉の奥から指先ほどの青白い石を取り出す。革手袋越しでもはっきり冷たかった。


 ロアンが肩越しに覗いた。


「売れるもの?」


「小さいが値はつく。氷系は火ほど数が出ない。ただ、売る前にティルダとフレイへ見せる。こういうものを使える職人を連れてきたばかりだからな」


「地下で拾って、地上で何か作る。急にこの家、忙しくなってきたね」


「ロアンの仕事も増えたぞ」


「酒樽に戦歌に、ずいぶん担当が増えたなあ」


「今のは助かった。次も頼む」


「それなら働く理由になるね」


 四匹すべてを丸ごと運ぶ余裕はない。一匹はできるだけ傷を増やさず持ち帰り、残りから小氷魔石、尾骨、状態のいい皮と肉を一部だけ取った。ロアンは惜しそうに残った肉を見たが、レオンが「今日は偵察に来た」と言うと、自分の布袋へ素材を詰め直した。


     ◇


 さらに奥へ進むと、今度は魔物の気配が減った。


 楽になったと考えるには静かすぎた。水滴の音はあるのに、霜毛兎の足音も氷甲蜥蜴の爪音も聞こえない。キュウも尻尾を下げ、さっきから鼻を鳴らしている。


 岩壁に大きな擦れ跡が見つかった。人の肩より高い位置から床近くまで、硬いものを引きずったような白い筋が何本も続いている。足元には砕けた骨があり、霜毛兎らしい白い毛が張りついていた。


 ロアンがしばらく耳を澄ませ、声を低くした。


「昨日聞いたの、たぶんこれだ。今も奥で同じ擦れる音がする。距離は、もうそんなに遠くない」


 ここまでで、偵察の目的はほとんど果たしている。戻れる道、水場、食える魔物、採れる素材、小氷魔石。これ以上荷物を増やす必要はない。


 ただ、家の真下に残したままにするには、擦れ跡の主がどれほどのものかだけは知っておきたかった。姿さえ見れば、次に必要な人数や装備の見当をつけられる。


「見えるところまで行く。戦うのはなしだ。ロアンは音が近づいたらすぐ言え。キュウは俺の後ろから出るな」


「分かった。今度は歌わないよ。相手にこっちを教えるために来たわけじゃないからね」


「きゅ……」


 キュウの返事は、さっきより小さかった。


 通路の先へ進むほど冷気が強くなった。息を吸うと鼻の奥が痛み、油灯の火も細く揺れる。床を流れていた水はほとんど凍っていた。


 広い空洞へ出る手前で、レオンは壁際へ身体を寄せた。ロアンとキュウを手で止め、油灯を低く掲げる。


 最初は、奥に青白い岩の塊があるように見えた。


 その塊が呼吸に合わせて持ち上がり、太い尾が氷の床を擦った。昨日から聞いていた音が、今度は腹へ響くほど近い。


 四本の脚に、人間より大きな胴。背から肩へは何層もの氷の殻が重なっている。頭がゆっくり上がると、鼻先から白い息が流れ、その周囲だけ霜が濃くなった。


 レオンは、北方の鉱山町で昔一度だけ聞いた話を思い出した。


「……氷殻大蜥蜴だと思う」


 ロアンが耳元で囁く。


「知ってるの?」


「実物は初めてだ。北の雪山で出たって話を一度聞いた。冒険者が三人怪我して、一人は指を何本か失った」


「その情報だけで、今日は十分だね」


「同感だ」


 大蜥蜴の目がこちらを向いた。


 キュウの喉が低く鳴り、前脚が半歩だけ出る。レオンは剣を抜かず、その首の後ろへ手を置いた。


「今日はやらない。キュウも俺も、あれが何をするか知らん」


 キュウは大蜥蜴から目を離さなかったが、踏み出した足を戻した。


 相手との距離はまだある。大蜥蜴も首をこちらへ向けただけで、立ち上がろうとはしない。尾がもう一度氷を擦った。


「下がるぞ。背を向けるな」


 三人でゆっくり後退する。


 空洞の境目を越えても、大蜥蜴は追ってこなかった。しかし、レオンはそれを安全とは数えなかった。追えないのではなく、あの冷えた場所から出てまで追う必要がないだけかもしれない。


「追ってこないね」


「次に近づく距離の目安にはなる。ただし、縄張りから出ないと決めつけるな。今日は何も試してない」


 ロアンが長く息を吐いた。


「怖いものを見つけたあとまで、ずいぶん細かく数えるんだな」


「怖いから数えるんだ。今日は終わりだ。帰るぞ」


     ◇


 帰り道では、来たときより荷物が肩へ食い込んだ。霜毛兎一頭、氷甲蜥蜴一頭に近い量の素材、小氷魔石、二種類の苔。ロアンも途中から荷物の重さについては何も言わなくなった。


 地下水の横を通ると、白い魚がまた岩陰へ逃げた。


「次は網を忘れないで。地下まで来て魚を見送るだけなの、思ったより悔しい」


「俺も残念だ。今日はもう余裕がない」


「僕の荷物も増える?」


「網はロアンの袋、俺は解体道具を増やす。それなら持てる」


「それなら食卓のみんなの分まで狙えるね」


 青灯苔の淡い光を背に、階段まで戻る。上へ近づくにつれて空気が少しずつ暖かくなり、冷えていた頬の感覚が戻ってきた。


 半分ほど上ったところで、レオンの耳にも地下にはなかった音が届いた。


 カン、と金属を叩く音が一度響き、少し間を置いて、もう一度続く。


 ロアンが足を止めずに笑った。


「まだやってる。僕らが下で凍りそうになってる間、上ではずっと圧搾機か」


「人が増えたから仕事を分けられる。全員で同じ穴へ入るより、その方がいい」


「戻ったら、僕の新技能より先に圧搾機の自慢を聞かされそうだな」


「ロアンも自慢する気だろ」


「少しはね」


 最後の数段を上がると、主洞の明かりが目に入った。


 最初に気づいたのはミラだった。布巾を持ったままこちらへ来て、レオンより先にキュウの身体を見回す。


「お帰りなさい。三人とも、怪我はありませんか?」


「大きいのはない。キュウが一回、肩から壁にぶつかった。歩き方は変わってないが、あとで見てやってくれ」


「きゅう」


「自分でも報告するんですね。では、あとで触りますから嫌がらないでくださいね」


 キュウはなぜか少し胸を張った。


 槌音が止まり、鍛冶場の方からティルダが顔を出した。頬の片側は煤で黒く、露出した前腕にも細かな鉄粉が張りついている。片手には小槌を握ったままだ。


「戻った! どうだった、何がいた?」


 二歩出たところで自分の手に気づき、「あ、これ持ったままだった」と鍛冶場へ引き返す。


 その後ろからフレイも姿を見せた。姉とよく似た顔のこちら側には煤ではなく木粉が付き、指先まで白っぽい。


「私たちも進んだよ。聞く前に、まず荷物を外へ出そう」


 ベラも厨房から出てきたが、歓迎より先に血の付いた袋を見た。


「無事なら、まずそれを新しい床へ引きずらないでおくれ。何を持ってきたかは外で広げればいい。掃除するのは結局こっちなんだからね」


「そうする。食える肉が二種類ある。暖かい毛皮、冷たさを保つ苔、小さい氷魔石。それと、水場に魚がいた」


「魚?」


 ベラの反応だけが一段早かった。


「今日は網がないから捕ってない。小さいやつだ。料理になるかは次に持って帰ってから見てくれ」


「分かった。肉も解体する前に一回見せな。食えるって鑑定が出ても、部位によって使い方は違うからね」


 ティルダは今度こそ槌を置いて戻り、布に包んだ小氷魔石へ目を向けた。


「それ、見せて。氷の魔石なんだろ?」


「素手で長く持つな。胸から出てきた。どれくらい冷えるかも、何に使えるかもまだ分からん」


「分からないなら確かめればいい。フレイ、これ箱に入れて――」


 ティルダは一歩だけ魔石へ寄り、そこで背後の木枠を振り返った。


「……いや、先にこっち終わらせる。魔石は逃げない」


 フレイが少し意外そうに姉を見る。


 朝には買ってきた木材が積まれていただけの場所に、太い木枠が立っていた。左右の柱を横梁がつなぎ、中央には削りかけの木ねじが置かれている。金具はまだ一部しか付いておらず、完成には遠い。それでも、もう林檎を押し潰す機械の形は見え始めていた。


「こっちも進んだよ。木が思ったより素直だったから、横幅は図面のままでいけそう」


 フレイが木枠の継ぎ目を指した。


「姉ちゃんが割れ止めの金具を一つ増やしたけど、そこは必要だと思う。勝手に付ける前に私には言った。レオンには今から説明する」


「二人で決めたなら、あとで材料と理由を聞く。まず肉と魔石を片づける」


「そのあと、でかい蜥蜴の話もしよう」


 ロアンが横から付け足すと、ミラの手が止まり、ティルダも魔石から顔を上げた。


「でかい蜥蜴?」


「ロアンは一番面白いところから言うな」


「だって、そこまで黙ってたら僕の役割がないでしょ」


「《聴音》と歌で十分働いた」


「ほら。そういう大事な話もある」


 レオンは溜息をつき、素材の入った袋を持ち直した。


 鍛冶場では火が赤く揺れ、作業台の端に置かれた金具からまだ薄く熱が上がっている。レオンの手の中では、布に包んだ小氷魔石が、ひやりと冷気を出していた。

光る苔、白い魚、冷たい魔石。そして奥には大きな蜥蜴。

初めての探索なので、今日は欲張らずに帰りました。

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