炉守りは双子の職人を見つけます
前回ベルクで林檎酒を売ってから、二十日ほどが過ぎた。
窪地の雪はとうに消え、朝から日差しが強かった。林檎の木には赤い実、まだ青い実、その隣には白い花まで残っていて、ベラが畑へ出るたびに収穫用の籠が一つ増えている。
その朝、荷車にはまた五つの酒樽が並んでいた。
樽の間には藁を詰め、反対側へいつもの青魔鉄の袋を積む。林檎酒だけなら前回と同じ荷だが、この五樽を揃えるために、空いていた酒樽はほとんど使い切っていた。麦酒の一部まで小さな壺へ移し、仕込み途中の酒には残った容器を回している。
レオンが最後の縄を締め、荷台を一周してから結び目を引いた。
「ミラ、今回も来るか?」
ミラはバルトの水桶を積もうとしていた手を止めた。春物へ替えた薄い旅着の袖を肘までまくっていたが、それでも朝から少し汗ばんでいる。
「はい。行きます」
「なら着替えは前と同じくらいにしろ。帰りに樽を買うかもしれん。十本欲しいが、一度に全部積めるとは限らない」
「分かりました。上着を一枚減らします」
「夜はまだ冷える。減らすなら昼の着替えだ」
ミラは寝具の横へ置いていた袋を開き、少し考えてから薄手の替えを一枚抜いた。
洞窟の入口近くでは、ロアンが二つ並べた仕込み樽を見ていた。
長い栗色の髪は暑さのため高い位置でゆるく束ねてある。まず樽の側面へ掌を当て、一つ目と二つ目を順に触る。それから耳を当てて泡の細かな音を聞き、布を少しめくって泡の立ち方を見た。最後に口元へ顔を寄せ、匂いを確かめる。
「こっちは昨日より少し温かい。匂いも早いな」
ロアンは一つの樽だけ、帰り火から半歩ほど遠い場所へずらした。腰を落として持ち上げるほどではないが、中身の入った樽は重く、押し終えるころには額へ髪が張りついていた。
ベラが畑から戻り、採ったばかりの林檎を籠ごと地面へ置いた。赤褐色の髪は首の後ろでひとまとめにされ、頬には土を払った跡が一本残っている。
「それ、今日か明日には落ち着きそうかい?」
「たぶん。昼にも温度の様子を見て、夕方にもう一度味を見る。こっちは甘さの減り方が昨日より早かったから、今日ベルクへ行くのはやめとくよ」
「今日は残るんだね。助かるよ。仕込み途中の樽は、あたしじゃ見切れないから」
「僕だって仕事には責任を持つよ。酒の仕事なら」
「酒の仕事なら、なおさら安心だね」
ロアンは布を戻しながら笑った。
「いいなあ、ベルク。僕も行きたいんだけどね。次の二樽を外して酸っぱくする方が、今はもったいない」
「帰ったらベルクの様子も聞けるさ。樽は任されるよ」
「うん。僕も土産話を楽しみにしてる」
ベラは籠から傷のある林檎を一つ取り出した。赤くなったところを親指で押し、今日のうちに煮る方へ分ける。
「留守はあたしとロアンでやっておく。キュウもいるし、林檎はどうせ今日も増えるよ。帰りに樽を忘れないでおくれ」
「十くらい必要になるかもしれん」
レオンが言うと、ベラは一瞬黙って林檎の木を見た。
「……十でも足りなくなる気がしてきたね」
「そこまで増えたら、樽より先に搾る方が死ぬ」
「もう腕は死にかけてるよ。昨日なんか布袋を捻ったあと、包丁を握る手までだるかった」
ロアンが自分の掌を見せた。
「僕は発酵を見る係だから、まだ指は元気だよ」
「なら、樽を見終わったら一袋頼むよ」
「了解。留守のあいだに指も危険かもしれないね」
ベラが林檎を一つ投げた。ロアンは両手で受け取り、傷のない側を見てから、そのまま服で磨いた。
「いってらっしゃい、ミラ。道中気をつけて」
少し離れた木陰では、キュウが前脚の上へ顎を載せて荷造りを眺めていた。籠から林檎の匂いがするたび鼻先だけが動くが、ベラが一度「これは仕込み用」と言ってからは近づいてこない。
ミラはそれを見て少し笑い、バルトの頬を撫でた。
「バルトさん、またベルクです。帰ったら林檎がありますよ」
バルトの耳が前を向いた。
「それ、もう出発の掛け声になってるな」
レオンが手綱を持つ。
「効きますから」
バルトは言葉が終わる前に歩き出した。
◇
四日の道中は、前回より暑かった。
南橋へ着くころには、昼の日差しが街道の白い土を照り返し、バルトの首筋にも汗がにじんでいた。道端の草は春先より高くなり、虫の音まで増えている。
レオンは橋を渡った先の木陰で荷車を止めた。
「ここで休む。バルトに水をやって、俺たちも食う。今すぐ出ると、この先しばらく日陰がない」
ミラが水桶を下ろしている間に、レオンはバルトの腹帯を少し緩めた。バルトは桶へ鼻を入れ、長く水を飲む。
ミラも木陰へ座り、朝にベラが持たせた布包みを二つ膝へ並べた。片方へ手を掛けたところで、街道側へ顔を向けて座ったレオンが、自分のパンをちぎって半分を差し出した。
「先にこっちを食え」
「食事なら、この包みだと思ったのですが」
「それはバルト用の林檎だ。人間の飯はもう一つの方だろ」
ミラは開きかけた包みを覗いた。細く切った林檎が布へ包んである。
「本当ですね。でも、バルトさんはもう待っています」
「朝から歩いてるのはミラも同じだ。一口食ってからにしろ」
渡されたパンを受け取る。
隣ではバルトが水を飲み終え、今度はミラの膝にある布包みを見ていた。
「やっぱり分かっていますね。水の次は林檎だと思っています」
「その順番だけは、下手な人間よりよく覚えてるな」
林檎を一切れ差し出すと、バルトはすぐに食べた。
レオンは塩漬け肉をパンへ挟みながら言った。
「今日は二切れまでだ。俺じゃなくて、バルトに聞かせとけ。甘やかすと際限がなくなる」
「まだ一切れ目ですから、もう一切れは残っています。半分にすれば夕方にも食べられますね」
「回数を増やす工夫じゃない。量を増やさなきゃ好きに分けろ」
ミラは二切れ目を半分に割り、その半分だけバルトへ渡した。
「では、残りは夕方にします。バルトさん、これは決定です」
バルトは残った布包みを見ていたが、ミラは膝の後ろへ隠した。
しばらく二人で食べた。
橋を渡る荷車の車輪が、板の上で規則正しく鳴っている。ロアンがいないので歌はなく、ベラの声も聞こえない。キュウが道端の虫を追いかけることもない。
ミラはパンを食べ終えてから、木の葉の隙間を見上げた。
「二人だと静かですね。ロアンさんの歌もありませんし、レオンさんも必要なこと以外はあまり話しません」
「必要なことは話してるだろ。困るなら、もう少し何か喋るが」
「困ってはいません。ただ、いつもより静かだなと思っただけです。こういうのも嫌いではないです」
レオンは少しだけミラを見てから、水筒の栓を閉めた。
「なら、もう少しこのまま休むぞ。今出るとバルトがきつい。俺は車輪だけ見てくるから、座ってろ」
ミラはもう一度木の根へ腰を下ろした。
バルトは木陰で目を細めている。レオンは荷車の下へ片膝をつき、車軸へ手を当てた。袖から出た腕には旅の埃が薄くつき、指で車軸の端をなぞるたび黒い油が増えていく。
少し離れた街道を荷車が一台通り、その音が小さくなった。
やはり静かだったが、ミラは今度はそれを口にしなかった。
◇
四日目の午後、ベルクへ着いた。
前回より日差しが強く、西門をくぐっただけで石壁から熱が返ってくる。荷車の上の樽も温まっていたため、レオンは寄り道をせず酒商の店へ向かった。
荷受け口へ入る前から、中で男の大きな声が聞こえた。
「だから、次が入ったら二樽はこっちに回してくれって言っただろ」
「まだ来てない物を売れるか。来ても同じ酒か確かめてからだ」
「前のは二日でなくなったんだぞ。客に次はいつだって毎晩聞かれてる」
レオンが荷車を止めると、店の奥から前回の店主が顔を出した。
ミラたちを見るなり、その後ろの樽へ視線を移す。
「やっと来たか。前の客が朝から二度も催促に来てる」
さっき声を上げていた男も振り返った。腰に前掛けを巻いた、四十くらいの男だった。
「それか? 前に来た吟遊詩人が造ってる林檎酒ってのは。二樽は先に押さえるって、店主にはもう言ってあるからな」
「勝手に決めるな。まず味を見る」
店主が手で追い払うと、前掛けの男は荷車を名残惜しそうに見た。
「造ってる吟遊詩人、名前は何ていうんだ?」
レオンは縄を解きながら答えた。
「ロアンだ」
「ロアンか。じゃあ、ロアンの林檎酒だな。次から客にそう言う」
「名前だけにしろ。どこで造ってるか聞かれても、知らないで通せ」
「実際知らんよ。場所も銘柄も分からん酒を毎晩説明するこっちの身にもなれ。造り手の名前くらい要るんだ」
男はそう言って笑い、「二樽忘れるなよ」と店主へ念を押して表へ戻った。
ミラは男の背中を見送った。
「前は帳面の中だけだったのに、外でもロアンさんの名前になりましたね」
「そうだな。売り物として名前がつき始めた。帰ったら本人にも伝える」
「ベラさんが『調子に乗らせるな』と言うと思います」
「それもそうだな」
店主は一番樽の栓を抜き、小さな杯へ注いだ。
一口飲み、少し待ってからもう一口。次に三番樽も開け、同じように確かめる。
「前と同じところに揃ってる。甘さの残り方も酒の強さも外してないな。ロアンが来てなくても、ちゃんとしている。問題ない」
店主は杯を置いた。
「五つで銀貨百枚出す」
レオンの手が止まった。
「前は六十だった。しかも次も同じ値で買うって話だったはずだ」
「ああ。だから、前の約束だけなら俺は六十で買える。けど今回は俺から上げる」
店主は帳台へ肘をついた。
「前の五樽は三日も持たなかった。宿と酒場へ回した分は、その日のうちに追加が来た。ベルクに屋敷を持つ貴族の使いが宿で飲んで、その日のうちに一本持って帰った。次は十でも欲しいと言ってる」
「それだけなら、六十のまま買った方があんたは儲かる」
「一回だけならな」
店主は指で卓を二度叩いた。
「六十で買い続けて、隣の酒商が一樽二十出すって話を聞いたら、お前は次からそっちへ持っていくだろ。俺はこの酒を今後も先に回してほしい。五樽百でもこっちは利益が出るし、買い手もいる。だったら今のうちに値を上げて、こっちがちゃんと買う店だと分からせた方が安い」
レオンは少し黙った。
「つまり、一樽二十で次も買う。その代わり、先にここへ持ってこいってことか」
「他へ売るなとは言わん。まず俺に話を通せ。十持ってこられるなら二百払う」
「今の設備じゃ十は無理だ。簡単に増やせる量じゃない」
「簡単じゃないから金を出すんだ。道具を増やすなり人を増やすなりしてくれ。こっちは買う」
ミラは店主の顔を見た。
前回は値段を決めるまで何度も樽とレオンを見比べていたが、今日は迷いがない。むしろ、レオンが次を別の店へ持っていくことの方を気にしているように見えた。
「十樽は約束しない」
レオンが言った。
「次も五樽なら持ってこられる。増やすには、道具か人出がいる。一樽二十なら、その条件で持ってくる」
「それでいい。増やせるなら先に俺へ言え」
店主はもう一度一番樽から酒を取り、前回より少し大きな杯へ移した。
「それと、ロアンに言っとけ。宿の主人が本人の歌まで聞きたがってたぞ」
「どうして歌まで聞きたがるんですか?」
ミラが聞くと、店主が笑った。
「造り手の名前が分かれば、顔まで見たくなるもんだ。どんな酒飲みが造ってるんだって話になる」
「それなら、だいたい想像どおりだと思います。ロアンさんは本当にお酒が好きですから」
「そこだけなら、酒を飲めば誰でも想像できそうだな」
レオンが代金の確認を始める横で、ミラは荷台から樽が下ろされていくのを見ていた。
五つで銀貨百枚になった。前回の六十枚でも驚いた数字が、今度はさらに四十枚増えている。それでも店主は、もっと欲しいと言った。
最後の樽が運ばれると、荷台が急に広くなった。
レオンは空いた荷台を見てから店主へ言った。
「樽職人を紹介してくれ。十本欲しい。あと、果実を大量に搾る道具を作れる職人がいれば、そっちも」
「樽は西の職人街にハウルって樽屋がある。俺の名前を出せば話は早い。搾る道具は……」
店主が少し考えた。
「ハウルに聞け。あいつなら木工と仕掛けに強い職人を知ってる。ただ、赤銅頭の双子を勧められても、俺は責任持たんぞ」
「問題があるのか」
「腕だけならいい。腕だけならな」
店主はそこで話を切り、銀貨の袋をレオンへ押し出した。
◇
青魔鉄も、いつもの買い手へ銀貨二十枚で売れた。
荷車がほとんど空になると、レオンはバルトを共同厩へ預け、ミラと二人で西の職人街へ向かった。
道の途中で、レオンが露店の前で止まった。
大きな甕から薄い色の飲み物を柄杓ですくい、木杯へ注いでいる。水へ少量の酢と蜂蜜を混ぜた飲み物で、暑い日の職人や荷運び人が次々に買っていた。
「暑いな。あれ飲んでから行くか」
「はい。少し喉が乾いていました」
レオンは二杯買い、一つをミラへ渡した。
冷たくはなかったが、酢の酸味と蜂蜜の甘さが喉へ残り、歩き続けた身体には気持ちよかった。ミラは木杯の縁を嗅いでから、もう一口飲んだ。
「これ、ベラさんの酢でも作れそうですね。帰ったら一度やってみたいです」
「まず自分たちで飲む分にしろ。最近、うまくいくとすぐ樽へ詰めて売る話になる」
「まだ売るとは言っていません。それに、樽へ入れるならレオンさんの方が面白いかもしれません」
レオンが無言でミラを見た。
「大きい樽なら入りそうです。背が高いので、少し長いものが必要ですが」
「俺を商品にする話なら、今すぐやめろ」
「商品ではありません。樽に入るかどうかの話です」
「もっとやめろ」
ミラは木杯を返し、少し笑った。
職人街へ近づくほど、槌や鋸の音が増えた。
通りは城壁の西側へ寄っており、石造りの工房と木造の作業場が交互に並ぶ。革、木屑、炭、熱した鉄の匂いが混じり、店先には車輪、桶、扉、農具、鍋、金具が所狭しと置かれている。通りの端では職人が水を頭からかぶり、隣の工房から笑い声が飛んだ。
樽職人ハウルの店は、積み上げた樽ですぐ分かった。
五十くらいの男が、樽の箍を木槌で叩いていた。酒商の名を出すと、手を止めて話を聞く。
「酒に使う標準樽を十か。新樽なら八日、五つなら三日で出せる」
ハウルが口にした値に、レオンは一度頷いた。
「その値なら頼める。まず五つを三日で頼む。残り五つも作っておいてくれ。次に来たとき受け取る。もう一つ聞きたい。林檎を潰して果汁を取ってるんだが、今は布袋を人の手で捻って、板と重石で押してる。量を倍にしたい」
ハウルは木槌の柄で顎を掻いた。
「俺は樽屋だ。枠くらいなら作れるが、圧を掛ける仕掛けまでなら工匠に頼んだ方がいい」
「そういうのを作れる職人に心当たりはあるか」
ハウルは通りの向こうを見た。
「いるにはいるが……赤銅頭の双子だ。ティルダは金物、フレイは木と仕掛け。二人でやらせりゃ、こういう道具は早い」
「酒商にも似たことを言われた。問題付きか?」
「頼んだもんが、そのまま出来てきたら運がいい。腕はいいんだよ。そこは保証する。行けば分かる。今頃たぶん、どこかの客に怒られてる」
ハウルは通りの奥を指した。
◇
その言葉は、半分ほど当たっていた。
教えられた工房へ近づく前から、怒鳴り声が聞こえた。
「だから! 俺が頼んだのは右の車輪だけだ!」
職人街の石畳は、初夏の午後の日差しをまともに受けて白く光っていた。道の両側では炉の熱まで加わり、空気が揺れて見える。
その真ん中で、一台の荷車を挟んで男が怒鳴っていた。
向かいに立っているのは、人間の女より頭一つ以上は低い、二人のドワーフの女だった。
最初に目に入ったのは、二人とも赤銅色の髪をしていることだった。顔立ちもよく似ている。けれど、近づくほど違いの方が目についた。
一人は髪を高い位置で太く束ね、片耳に真鍮の輪を下げていた。肩と腕を出した短い上衣は腹まで届かず、日に焼けた肌とへそがそのまま見えている。低い背に対して肩や腰、腿には厚みがあり、露出した前腕には細かな火傷痕がいくつもあった。
暑さのせいで額から首筋まで汗をかいている。腹にも薄く汗が光っていたが、本人は気にする様子もなく、片手に短柄の槌を持ったまま客へ身を乗り出していた。
「右だけ締め直したって、軸受けが減ってんだからまたガタつくって! 見つけたのに戻せるわけないだろ!」
琥珀色の目が、日差しの中でもはっきり明るい。
もう一人は同じ赤銅色の髪を肩ほどまで下ろし、片側を何本か細く編んでいた。編み髪には青い布紐が通され、片耳には小さな銀色の飾りが三つ並んでいる。
薄い生成りの上衣に青い刺繍の入った短いベスト、作業の邪魔にならないよう裾を留めた膝丈のスカート。腰には工具袋がある。こちらも頬とこめかみに汗が浮き、細い髪が何本か肌へ貼りついていた。
二人とも暑さにへばっている様子はなかった。日に焼けた頬は熱で少し赤く、動くたびに汗が腕や首筋で日差しを返す。工房の陰より、強い光の下の方が似合う二人だとミラは思った。
スカートの方は客へ言い返しながらも荷車の下へ半分しゃがみ込み、指で車軸の付け根を示していた。
「それに、ここの横木ももう捩れてたよ。右だけ直したら荷重が左へ逃げるから、反対側も合わせないと意味ないって。見れば分かるでしょ?」
「分からんし、分かる必要もない! 俺は今日の昼までに右の車輪を直せって頼んだんだ。銀貨二枚で済むって話だっただろ!」
「でも五枚分は良くなってる!」
槌を持った方が即座に言った。
「そこが問題だって言ってるんだ!」
客の声が通りへ響いた。
工房の奥から、灰色の髭を短く刈った男が出てきた。
「ティルダ、槌を置け。フレイも荷車から離れろ」
ティルダと呼ばれた方が口を開きかけたが、工房主は手を上げて止めた。
「客の言ってることが正しい。軸受けが減ってたのも、横木が捩れてたのも俺も見た。だからって勝手に材料を使っていい話にはならん」
「でも親方、あれをそのまま――」
「フレイ。分かってる」
工房主は怒鳴らなかった。
「腕が悪いとは言ってない。何度も言ってるが、客の荷車は二人の荷車じゃない。直す範囲を増やすなら先に聞け。材料を追加するなら値段を言え。昼までと言われたなら、頼まれたところを先に終わらせろ」
フレイは唇を結び、ティルダも槌の柄を握ったまま、納得していない顔で荷車を見た。
工房主は客へ頭を下げた。
「銀貨二枚でいい。追加した材と手間はこっちで持つ。昼を過ぎた分も悪かった。今から車輪を付け直せば、一刻はかからん」
「最初からそうしてくれ」
客はまだ不満そうだったが、少し声を落とした。
「腕が悪いなんて言ってないんだ。前に直してもらった金具は今もびくともしない。だから持ってきたんだよ。だが、明日の市場に使う荷車を勝手にばらされたら困る」
「その通りだ」
工房主はもう一度頭を下げた。
客が通りの向かいの日陰へ移ると、工房主は双子へ向き直った。
「これで今月三度目だ。棚のときも荷車止めのときも、『追加する前に聞け』と言った。俺ももう庇えん。今月いっぱいで次を探してくれ」
「三度って、前の棚は依頼主が最後に喜んでたじゃん」
ティルダが言った。
「喜んだあとで、追加料金は払えんと言われただろ」
「だって棚板二枚増やした方が使いやすかったし」
「それを先に聞けと言ってる」
ティルダは何か言おうとして、工房主の顔を見ると槌を肩へ乗せた。
「……分かった」
声は不満そうだった。
フレイはまだ荷車の横木を見ている。
「親方。でも、左の接合も――」
「今は見るな」
「見えてるのに?」
「見るな」
フレイは本当に困ったような顔をした。
ミラは少し離れたところで、そのやり取りを見ていた。
客へ反抗したいようには見えなかった。ティルダは直した車軸の方ばかり見ている。フレイは叱られている最中にも、横木の接合から目を離せていない。
隣でレオンが小さく息を吐いた。
「ハウルの言ってた意味は分かったな。腕の話じゃなく、頼まれたところで止まれない方が問題らしい」
「はい。頼んだものより良くなる代わりに、銀貨も時間も増えます。客の人が怒る理由も分かります」
「そこまで分かれば十分だ」
そこでティルダが二人に気づいた。
「何、あんたらも修理? 荷車なら外にある?」
さっきまで怒られていたとは思えない速さで、ティルダがこちらへ歩いてくる。汗の浮いた顔にはもう笑みが戻っていた。
「修理を頼みに来たわけじゃない。それと、うちの荷車には勝手に触るな」
レオンが言うと、ティルダは足を止めた。
「まだ見てもないって。まあ、気になるところがあったら教えるくらいはするけど」
「教えるところまでにしろ。槌は出すな」
ティルダは大きく笑った。
「用心深いね、あんた。さっきの見てたなら仕方ないけど」
フレイも近づいてきた。
灰青色の目がレオンを一度見て、それからミラの顔へ移る。次に短い赤毛へ視線が上がった。
「その髪かわいいね。でも暑くない? 横だけ取って上げたら絶対似合うよ。長さもちょうどいいし、赤なら青い紐が合うと思う」
「少し暑いです。でも、今ここで結ぶんですか?」
「すぐ終わるよ。ちょうど紐も余ってる」
「髪より先に仕事の話だ」
レオンが割って入った。
フレイはレオンを見上げた。
「分かった分かった。二人で商売してるの?」
「今日は二人です。レオンさんが旅商人で、私は一緒に暮らしている仲間です」
「へえ。ずいぶん息合ってそうだね」
ミラはレオンを見てから答えた。
「一緒に出かけることは増えました」
「そっか。じゃあ仕事の話しよ。髪はそのあとね」
「あとでやるのは決まってるのか」
レオンが言ったが、フレイはもう聞いていなかった。
工房主がこちらへ来た。
「客か? 騒がしくて悪かった」
「圧搾機を作れる職人を探してる。ハウルにここを聞いた。林檎を酒にするための果汁を搾りたい」
ティルダの目がすぐに変わった。
「酒にするの? どれくらいの量?」
「今は標準の酒樽で五つ揃えるのが限界だ。次は十にしたい」
ティルダが槌を肩から下ろした。
フレイも、さっきまで持っていた青い布紐を腰袋へ戻す。
「今の搾り方を教えて。そこが分からないと、どこを道具に任せればいいか決められない」
レオンがミラを見た。
「ミラ、実際にやってる手順を説明してくれ」
ミラは、窪地でやっている作業を思い出した。
「林檎を厚刃のナイフで割って、木桶の中で棒を使って潰します。潰した果肉を布袋へ入れて、二人で端を捻ります。それでも残るので、板で挟んで上から重石を載せています。多い日は布袋が七つくらいになります」
「それを何日もやるなら腕が先に駄目になるね。上から毎回同じように押せる仕掛けにした方がいい」
「かなり痛くなります。ベラさんと交代しても、次の日にまた林檎が採れます」
ティルダがフレイを見た。
「フレイ、人の腕で捻るところから外そう。上からねじで押せば、重石みたいに毎回ばらつかない」
「ねじは木で切ろう。力を受けるところだけ金具にして、枠が開かないよう横梁を入れる。邪魔なら楔で外せるようにすればいいよ」
「それなら運ぶときもばらせるな。押す板は厚くして、回す腕は二人で持てるくらい長くしよう」
二人は工房の入口脇へしゃがみ込んだ。
フレイが腰袋から炭筆を出し、石畳へ線を引く。
「ここに果肉を入れる籠。底と側面に穴を開けて、下に汁受け。溝をこっちへ切れば桶に落ちる」
ティルダが横から線を一本足した。
「押す板はこのくらい厚くして、上の腕は長め。二人で回せるよう穴を四つにして――」
「姉ちゃん、その腕の長さだと置く場所によっては壁に当たるよ」
ティルダは炭筆の先を止めた。
「じゃあ外せるようにする。回すときだけ差して、終わったら抜けばいい」
「それなら狭くても置ける。枠も分けた方が運びやすいね」
二人とも同時にレオンを見た。
「置く場所の広さ、どれくらい?」
レオンは一瞬黙った。
「そこはまだ言えん。場所を知らなくても運べる形にしてくれ」
「じゃあ分解式で決まりだね」
フレイが線を引き直す。
ティルダはその横へ太い線を重ねた。
「ここは鉄で締めたい。全部鉄にすると重いから、力が掛かるところだけ金具にすればいい」
「それなら――」
「待て。二人とも、もう作る前提で話してるが、俺はまだ頼むと決めてない」
二人が同時に顔を上げた。
「作れるよ。今のやり方より楽になるし、たぶん倍以上は早くなる」
ティルダが言った。
「作れることは分かった。まだ分からないのは値段と日数だ」
ティルダとフレイが顔を見合わせた。さっきまで途切れず出ていた言葉が、そこで初めて止まる。
「材料を何にするかで変わるけど、ねじは硬い木を使いたいな。そこを安い材にすると、すぐ削れるから」
「そういう説明の前に予算を聞け。さっき客と揉めたばかりだろ」
工房主が後ろから言った。
フレイが振り返る。
「今から聞こうと思ってたよ。大体の形ができたから」
「形を決める前に聞けと言ってるんだ」
ティルダが笑った。
「でも親方、もう大体できたじゃん」
「そういうところだ」
工房主は額を押さえた。
レオンは石畳の図を見下ろした。
「完成したら、今の倍は搾れるか」
「人の腕で布を捻ってるなら、圧搾だけ見れば倍以上になると思う。ただ、そのうち林檎を潰す方が追いつかなくなるよ」
ティルダが言った。
フレイは石畳へもう二本線を足した。
「潰す方も変えるなら、刃か歯を付けた二本のローラーで――」
「そこはまだ頼んでない。まず圧搾機を使ってから次を考える」
フレイの口が止まった。ティルダも隣から図を見た。
「……でも、あとで絶対そこが詰まるよ。使ったあとでいいから、潰す方も見せて」
「見せるとは言ってない」
ティルダが本気で残念そうな声を出した。
「そこまで秘密にする?」
ミラは、ティルダが客に怒られていたときの顔を思い出した。あのときも今と同じで、自分が責められていることより、直していない部分の方が気になっていた。
フレイも同じだ。親方に今月いっぱいと言われたばかりなのに、石畳の線を消さず、ねじの横へ小さな印を足している。
「レオンさん。お二人とも、さっき怒られていたときと同じ顔をしています。今も、頼んでいないところまで直したいみたいです」
ティルダが首を傾げた。
「さっきって、客と揉めてたとき? だって見つけたら気になるだろ」
フレイも自分の描いた線を見下ろした。
「見えてるのに放っておく方が気持ち悪いよね。あとで詰まるって分かってるなら、なおさら」
「私は、気になるものと気にならないものがあります。たぶん、それが普通だと思います」
ティルダが吹き出した。
「面白いな、あんた。こっちを普通じゃないって顔で見ながら、本人は真顔だし」
「ティルダさんに言われると、少し不思議です」
一瞬、工房の前が静かになった。
それからティルダが腹を抱えて笑い出した。
「いいね、ミラ! それ好き!」
「名前、まだ名乗っていませんよね」
「さっきそっちの人が呼んでたよ。聞こえた名前を使っただけ」
フレイも笑いながら、炭筆を耳へ挟んだ。
「じゃあ私たちもちゃんと名乗るね。私はフレイ、こっちが姉ちゃんのティルダ。双子だから顔だけだと分かりにくいって言われるけど、服を見ればすぐ分かるよ。あと、だいたい臍出してるのが姉ちゃん」
「フレイ、服は毎日変えるだろ。それで見分けろって難しくしてないか?」
「毎日ちゃんと見れば分かるんだからいいの。服を選ぶ方も楽しいし」
レオンが石畳の図へ視線を戻した。
「明日、もう一度来る。そのときまでに、材料と値段と日数を出せるか」
「出せる。……たぶん。親方にも一回見てもらえば大丈夫」
ティルダが工房主の顔を見て、途中で言い直した。
「俺も一緒に見るよ。こいつらだけに出させると、値段より先に改良案が増えるからな」
「それなら助かる。明日の午前に来る」
レオンが工房主へ頷いた。
フレイは話が終わったと判断したらしく、すぐミラの髪へ視線を戻した。
「じゃあ明日、仕事の話が終わったら髪を結んでいい? 青い紐と白い紐、両方持ってくる」
「見てから決めます。今日は旅着なので、明日もたぶん同じ服です」
「服も見たいけど、それはまた今度だね」
「フレイ、今度の前に今日の荷車を終わらせろ」
工房主が呼ぶと、フレイは炭筆を腰袋へ戻した。
「分かったよ。ちゃんと仕事する」
返事だけは素直だった。
◇
職人街を離れるころには日が少し傾いていたが、石畳にはまだ熱が残り、工房から聞こえる槌の音も止まっていなかった。
レオンとミラは並んで歩いた。
「さっきの二人、どう思った」
ミラは少し考えた。
「腕はすごいと思います。私たちが何日もかけて困っていたことを、話を聞いただけですぐ形にしました。でも、頼んでいないところも作りそうですし、止めても気になるところから目を離せないと思います」
「俺も同じ見立てだ。そこが一番面倒だな」
レオンは前を見たまま歩いた。
「ただ、圧搾機を作れる腕はある。明日はまず、値段と日数と、頼んだ範囲でどこまで止まれるかを詰める」
「お二人とも、今月いっぱいで次の仕事を探すことになったんですよね」
「ああ」
ミラは先ほどの工房を振り返った。
遠くなった通りの向こうで、赤銅色の頭が二つ、まだ荷車の周りを動いている。客へ返すための車輪を取りつけているらしい。
「明日、圧搾機の話がまとまったら、二人がどんな条件なら仕事を続けられるのかくらいは聞いてみる。腕があっても、今の工房で同じことを繰り返すなら、こっちも仕事を頼む相手として困るからな」
「雇うかもしれない、ということですか?」
「まだそこまで決めてない。まずは仕事を一つ頼める相手かどうかだ。その先は、本人たちの話を聞いてから考える」
ミラは頷いた。
「でも、いい人そうな気がします」
職人街の奥で槌の音がひときわ大きく鳴り、少し遅れてティルダらしい笑い声が聞こえた。
ミラはもう一度だけ振り返り、レオンと並んで宿の方へ歩いた。
腕はいい。でも頼まれていないところまで直してしまう。
そんな双子を、ミラは少し他人とは思えなかったようです。
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