炉守りは二度目の林檎を数えます
雪が窪地の隅にだけ残るようになった朝、ミラは林檎の木の前で足を止めた。
冬のあいだ葉を落としていた枝に、小さな膨らみがいくつも並んでいる。去年、苗木だったころにも見た形だった。葉になる芽より丸く、先が少し白い。
ミラは短い赤毛を耳へ掛け、枝へ触れずに腰をかがめて下から覗いた。
「ベラさん。林檎に花が咲きそうです」
畑の端で冬越しした根菜を抜いていたベラが、土のついた手袋を膝で払って立ち上がった。赤褐色の髪は後ろでひとつに束ねられ、朝の冷気で頬が少し赤い。
「春なんだから、そこだけなら普通だよ。去年がおかしすぎたんだ。植えた年に花が咲いて実まで採れたんだからね」
「では、今年は普通かもしれませんか?」
「この木に限って、それを先に期待するのはどうかと思うけどね。日付だけ書いときな。何日で花が開くか、去年と比べられるだろ」
ミラは畑の脇へ置いた板と帳面を取りに行った。
冬のあいだ、畑は全部眠っていたわけではない。雪の下で残った根菜もあれば、寒さに負けた葉物もある。乾燥豆、酢漬け、保存肉、粉、塩、油は冬を越してなお残っていたが、生の葉を摘めるようになると、ベラは朝食のあとに必ず畑へ出た。
雪解けを待っていた畝も、もう半分ほど起こし直してある。バルトの馬房から出た敷き草と糞を寝かせた堆肥を混ぜ、炉灰は去年と同じく少量だけ。水は魔力泉を使う。
畑の端では、キュウが土の匂いを嗅いでいた。冬の前より少し大きくなった黄土色の身体で畝へ前脚を掛けかけ、ミラと目が合うと、そのまま何も植えていない場所へ移った。
「覚えていますね」
「きゅう」
「そこで掘るなら大丈夫です」
キュウが穴を掘り始めたところへ、馬房からバルトが顔を出した。
鹿毛の身体にはまだ冬毛が残っている。長い白い鬣の下をミラが櫛で梳くと、昨日も掌いっぱいの毛が取れた。春になってから、馬房の床も、ミラの服も、油断すると白と茶色の毛だらけになる。
「バルトさんも春ですね」
声を掛けると、バルトはミラではなく林檎の木を見た。
「まだ実はありませんよ」
鼻を鳴らされた。
「花もまだです」
もう一度、鼻を鳴らされる。
去年の林檎を何切れかもらってから、バルトはあの木を食べ物の出る場所として覚えたらしい。冬のあいだ葉一枚ない枝を何度見ても何も出てこなかったのに、諦めてはいなかった。
「バルトは、春を林檎で感じているか」
荷車の車輪を見ていたレオンが言った。
「バルトさんにとっては、大切な季節の変化なのかもしれません」
「俺には毛が抜け始める方が分かりやすい」
レオンは車軸へ油を差し、指で車輪を回した。南橋が直ってから、青魔鉄は一度銀貨二十枚の相場へ戻り、その後も同じくらいで売れている。冬のあいだ休ませていた荷車も、雪解けとともにまた使うことになる。
ロアンは洞窟の入口近くでリュートの弦を替えていた。長い栗色の髪を肩の後ろへ払い、切った古い弦を指へ巻きつける。
「花が咲くなら、僕としては今年の酒が近づいたという理解でいいのかな」
「最初から酒にする気ですか?」
「去年の一樽目はかなり良かっただろう? もちろん、そのまま食べる分を取ったあとでいいよ。僕も林檎は好きだからね」
「バルトさんと競争になりますね」
「勝てる気がしないなあ」
バルトが何の話か分かっているように、林檎の木へもう一度鼻を向けた。
◇
三日後、枝の膨らみは白い花になった。
去年より枝が増えたぶん、花の数も明らかに多い。若い木の上へ白いものがまとまって開き、窪地へ入る風が吹くたびに細い枝が揺れた。
ミラは帳面へ日付を書いた。
《雪解け後 林檎開花》
その下に、去年の記録を見ながら枝数と花のついた位置を書き足す。
レオンも一度見に来たが、花が咲いたこと自体には驚かなかった。
「春に花が咲くのは普通だ。問題はここからだな。去年みたいな速さで実になるか、それとも越冬したことで普通へ戻るか」
「普通へ戻ったら、少し残念ですか?」
「商人としてはな。暮らすだけなら、毎年ちゃんと実が採れる方が安心だ」
言いながら、レオンは花のついた枝へ細い布紐を結んだ。傷をつけないよう緩く巻き、枝ごとに色を変える。
「これで同じ枝を追える。ミラが見てるだけでも違いは分かるだろうが、俺にも分かる形にしといてくれ」
「はい。赤い紐は、この枝ですね」
「そうだ。花が落ちた日と、実が膨らんだ日も書く」
十日もしないうちに、その記録は忙しくなった。
白い花びらが散ったあと、小さな青い実が残った。そこまでは去年と同じだったが、その実が膨らむ速度は、越冬しても衰えていなかった。
朝に小指の先ほどだった実が、数日後には親指より大きい。さらに一週間もしないうちに掌へ収まるほどになり、陽の当たる側から薄く赤みが差した。
「去年より早くないかい?」
ベラは林檎を一つずつ持ち上げ、傷と虫食いを確かめていた。
「花が開いてから、まだ三週間経っていません」
ミラは帳面を開いた。
「去年は、ここまで赤くなるのにもっとかかりました」
「木が根付いた分まで元気になったのかね。魔力泉は同じ量しかやってないんだけど」
その日の夕食で、最初に赤くなった一個を切った。
果肉は去年と同じく硬く、噛むと甘い汁が出る。酸味はあるが、甘さの方がはっきり強い。
ベラが種の周りまで確かめ、頷いた。
「味も落ちてない。これなら採っていいね」
「では、明日の朝から数えます」
「数える前に、バルトをつないどけ」
レオンが言った。
翌朝、その理由はすぐ分かった。
ミラが収穫用の籠を持って馬房の前を通っただけで、バルトが柵から首を伸ばした。長い白い鬣が揺れ、籠へ鼻先を押しつけようとする。
「まだ空です」
バルトは籠の底まで確かめた。
「これから採りますから、待ってください」
耳が前へ向く。
「一個は取っておきます」
ようやく離れた。
キュウも後ろからついてきたが、木へ着く前に畑の端で虫を見つけ、そちらへ行った。
「キュウより分かりやすいですね」
「何がだ」
「林檎への気持ちです」
「バルトは食い物の名前を覚えるのだけは早い」
レオンが枝を下げ、ミラが赤い実を籠へ入れる。ベラはまだ青いものを残し、ロアンは採った林檎を布で拭きながら数えた。
「去年より多いね。木そのものが大きくなったから当然ではあるけど、一本の若木としては働きすぎじゃないかな」
「ロアンさんが、働きすぎを心配するんですね」
「僕は働かなさすぎる方だから、他人の働きすぎには敏感なんだよ」
ベラが林檎を一つ投げた。
「じゃあ、その敏感な人にはこっちを頼むよ」
ロアンは両手で受け取り、そのまま籠へ入れた。
「ほら、働いた」
「ありがとう。次はあっちの枝も頼むよ」
全部を採り切る必要はなかった。陽当たりの悪い枝には青い実が残っている。赤くなったものだけでも、去年の四十個強を明らかに超え、籠は一つでは足りなかった。
ベラはその日のうちに傷のあるものを分けた。形のいいものは食卓用、少し柔らかいものは焼き林檎や煮物へ回し、残りは酒用にする。
バルトには約束どおり一個を四つに切って渡した。
一切れ目を食べ終わる前から次へ鼻を伸ばす。
「バルトさん、一度に全部は駄目です」
ミラが手を引くと、バルトは真っ直ぐその手を追った。
「甘いものばかり欲しがるようになるって言っただろ」
「もう欲しがっています」
「だから増やすな」
「あと三切れあります」
「約束したなら、それはやれ。明日また一個やる約束はするな」
ミラが二切れ目を差し出すと、バルトはレオンの方を見ながら食べた。
「聞こえてる顔してるな」
そこへ、虫を追っていたキュウが戻ってきた。ミラの掌に残った林檎へ鼻先を寄せるので、端を小さく切って差し出す。
「キュウも食べますか?」
キュウは一口で飲み込み、少し考えるように首を傾げた。その直後、足元を横切った小さな虫を見つけて走っていく。
ロアンが笑った。
「林檎への情熱は、やっぱりバルトの圧勝だね」
バルトは三切れ目を待ちながら、キュウのことなど見てもいなかった。
◇
二度目の収穫から六日後、ミラは赤い布紐の枝で、見覚えのない膨らみを見つけた。
その枝には、まだ青い林檎が三つ残っている。
膨らみは葉の付け根にあり、丸く、先が少し白かった。
ミラは帳面を開き、最初の開花のときに描いた形と見比べた。葉芽とは違う。位置も、昨日まで何もなかった場所だった。
「ベラさん。ちょっと来てもらえますか?」
「今度は何だい?」
厨房から出てきたベラは、木匙を持ったまま枝を覗いた。
すぐには何も言わず、隣の枝も見る。
「……花芽に見えるね」
「私もそう思います。でも、この枝にはまだ実があります」
「あるね。それも、春に咲いた花からできたやつが」
ベラは木匙の先で青い実を指したが、触れはしなかった。
「レオンも呼びな。あたし達だけで決めるより、前の記録を一緒に見た方がいい」
レオンは帳面と枝を交互に見たあと、自分で昨日の頁まで遡った。
「昨日は書いてないな」
「ありませんでした。朝も夕方も見ました」
「なら印を付ける。開くまで採るな」
新しい布紐が結ばれた。
三日後、その膨らみは白い花になった。
青い林檎のすぐ横で、この春に一度咲いたものと同じ花が開いている。
ミラはしばらく、実と花を交互に見た。
「二度目ではなかったですね」
「何が?」
隣でロアンが聞いた。
「去年の収穫を一度目にすると、今採ったものが二度目です。でも、もう三度目が始まっています」
ロアンは枝へ顔を近づけた。
「僕には、酒がまた増えるように見えるよ」
「私は籠がまた足りなくなるように見えます」
ベラが腕を組んだ。
「どっちも正しい。あと樽もだね」
白い花は一輪だけでは終わらなかった。数日かけて別の枝にも新しい花芽がつき、先に残っていた青い実が赤くなるころ、その横で次の花が散り始めた。
木の上に、白い花、青い実、赤い実が同時にある。
それからは、林檎の木を見るたびに何かが進んでいた。
最初の収穫は籠二つで足りた。六日ほどして次の赤い実を採るころにはまた二つが埋まり、その次からは、一個ずつ数えるより《何籠採って、何籠を仕込みへ回したか》を帳面へ書く方が早くなった。春の終わりへ近づいても花芽は止まらず、採った枝の横で次の実が膨らんでいる。
朝に採った実をベラが焼き、昼には次の籠を洗う。柔らかくなったものを煮て、薄切りを乾かし、麦粉で包んでも、枝には次の赤みが増えていた。
最初のうちは、食卓へ林檎が出るたびにロアンが喜び、ミラも別の料理になるのを楽しみにしていた。
三回目の焼き林檎が出た夜、ベラは自分の皿を見て言った。
「うまいんだけどね」
ロアンも頷いた。
「うん。とてもおいしい。ただ、昨日もおいしかった」
「一昨日もです」
ミラが言うと、ベラが笑った。
「贅沢な悩みだよ。食べるのに困ってた頃のあたしに聞かせたら、羨ましがるね」
翌日は、夕食の鍋を覗き込んだロアンが、妙に慎重な顔をした。
「今日は林檎、入ってない?」
「入れてないよ。豆と塩漬け肉の煮込みだ。安心して食べな」
「安心って言葉を林檎のない日に使うとは思わなかったなあ」
ミラも木匙ですくって確かめた。入っているのは豆と肉と根菜だけで、甘い匂いはしない。
「本当に入っていません」
「二人して何を疑ってるんだい。あたしだって毎日林檎を食わせたいわけじゃないよ」
久しぶりに林檎の味がしない夕食を食べ終えたころ、ベラが厨房から皿を持って戻ってきた。
皿の上には、半分に割って焼いた林檎が四つ並んでいた。
ロアンが無言でベラを見る。
「食後は別だろ」
「ベラ、君は時々とても強い理屈を使うね」
「嫌ならあたしが食うよ」
「嫌とは言ってないよ。ここまで来たら、何日続くか見届けたい」
ミラが一つ取ると、焼けた果肉から甘い殺気が漂った。
「昨日より少し柔らかいですね」
「そこを評価するんだ」
馬房から、バルトが鼻を鳴らした。
ベラが笑う。
「ほら。一人だけ何も困ってないよ」
「バルトさんは、今日も喜んでいました」
「バルトに全部食わせるなよ。腹を壊したら、酒より高くつく」
林檎を食べる方では追いつかない。
そこで、残る実の多くを酒へ回した。
◇
林檎を酒にする作業で一番時間がかかったのは、発酵を待つことではなく、実を潰して果汁を絞る工程だった。
最初の仕込みでは、木桶へ入れた林檎を厚刃のナイフで割り、木の棒で潰した。果肉を布袋へ詰め、二人で端を捻って果汁を絞る。さらに板へ挟み、上から重石を載せる。
去年は一度だけだったので、それでも終わったが、今年は次の籠がすぐに来る。
ミラが布袋の端を握って捻ると、薄金色の汁が桶へ落ちた。腕に力を入れるたび、布の中で果肉が潰れる感触が伝わる。
「まだ出ます」
反対側を持っていたベラが肩を回した。
「出るね。でも、これをあと何袋やるんだい?」
横ではレオンが別の袋を板へ挟み、重石の位置をずらしている。
「今日の分だけで七つ。明日また採れる」
「聞かなきゃよかったよ」
ロアンは樽へ耳を当てていた。
「僕はこっちを見てる役だから、力仕事では役に立てないなあ」
「さっきまで棒で潰してただろ。手が空いたら、またこっちも手伝ってくれ」
「もちろん。これも必要な仕事だ。昨日仕込んだ方は、もう音が細かくなってる。最初の樽より始まりが早い」
ロアンは耳を離し、布を少しめくって匂いを確かめた。
「変な酸っぱさはない。林檎の香りも残ってる。こっちはこのままでいいと思う」
ベラが布袋から手を離す。
「なら、あんたはそっちを頼むよ。樽ごと駄目にするくらいなら、腕が痛い方がましだ」
「責任が急に重くなったね」
「酒を造って技能まで出たんだ。発酵の方は任せるよ」
「任されたよ。毎朝、樽の熱まで確かめる生活になるとは思わなかったけどね」
ロアンは笑いながら、次の樽へ移った。
仕込みが増えると、《発酵管理 Lv1》が何を助けているのかも、去年よりはっきりした。ロアンが最初に気づきやすいのは音だったが、それだけで樽を決めることはなくなっていた。
毎朝、まず布の膨らみと表面の泡を見て、樽の側面へ掌を当てる。それから匂いを嗅ぎ、耳を当て、必要なら木杯へ少量だけ取って甘さと酸味を確かめた。ミラが日付と仕込み量を書く横で、ロアンは前日との違いを一つずつ拾っていく。
「こっちは昨日より温かい。泡の音もほとんど間がなくなってるし、甘さも一気に減った。帰り火に近すぎたかもしれない」
その樽は、その日のうちに洞窟の奥の涼しい場所へ移した。翌朝になると側面の熱は下がり、泡も少し落ち着いていた。別の樽では、音はまだ細かく続いていても、甘い匂いの奥に嫌な酸っぱさが出たため、ベラと相談して中身を捨てた。
何度か仕込むうちに、ロアンは《音がこうなら何日目》と一つの兆候だけで決めず、温度、泡、匂い、味、日数をまとめて「この樽はいまどこまで進んでいるか」と見るようになった。ベラも色や表面を確かめ、二人の判断が揃ったものから口を閉じて涼しい場所へ移した。
何度か仕込みを重ねるうち、雪の名残は窪地から完全に消え、昼には上着を脱いで作業する日も増えた。春も終わりへ近づくころには、出来上がる酒の差が小さくなっていた。
色は薄い金色で、林檎の甘い香りが残っている。口へ入れたときは飲みやすいのに、喉を通ると熱が落ち、普通の林檎酒より明らかに強かった。
販売候補に回した五つ目の樽を開けた夜、レオンは木杯を置いた。
「これなら持っていける」
ロアンが自分の杯を見た。
「全部?」
「五樽だ。売る分はな」
「そこまで言わなくても分かってるよ。僕はただ、住人用が何樽残るかを確認したかっただけだ」
「一樽も残らないとは言ってない」
「よかった。商売には未来がある」
ベラが鼻で笑った。
「酒が残ることを未来って呼ぶのは、あんたくらいだよ」
レオンは杯をもう一度持ち上げ、明かりへ透かした。
「去年の一樽だけなら偶然で終わった。今回は何度仕込んでも、ロアンが見たものは同じ方向へ揃ってる。値が付くか試す」
「青魔鉄と一緒にですか?」
ミラが聞くと、レオンは頷いた。
「どうせベルクへ行く。橋が直ってから青魔鉄は一回銀貨二十枚で安定してる。前の《帰還》から七日以上空いてるし、五樽積んでも、まだ同じ量の鉱石を載せる余裕はある」
ベラが酒樽の列を見た。
「こっちは畑と木を見てるよ。仕込み途中の樽もあるし、キュウまで連れて街へ行く理由もない」
「きゅう」
名前を呼ばれたキュウが、厨房の入口から顔を出した。
「そういうことだ。俺とロアンで行く」
レオンが言うと、ミラは並んだ酒樽を見た。
「私も行っていいですか?」
レオンの手が止まった。
「ベルクへ?」
「はい。林檎を数えたのも、仕込みを記録したのも私です。売るところまで見てみたいです」
レオンはすぐに断らなかった。荷車、樽、ミラの順に見てから、確認するように言った。
「行きは四日だ。帰りは東門の外から《帰還》を使う。前に人と荷車を連れて戻れてるから、新しい試し方はしない。それでも街道では何があるか分からん」
「分かっています。着替えと寝具だけにします」
「なら来い。それ以上、荷物を増やすなよ」
ロアンが嬉しそうに笑った。
「いいね。ミラも一緒なら、ベルクで僕が酒を飲みすぎても止める人が二人になる」
「止められる前提なんですね」
「止められなければ、もっと嬉しい」
ロアンが期待するようにレオンを見る。
「そこで俺を見るな」
レオンが言い終える前に、ベラが木匙でロアンの肩を軽く叩いた。
「売り物を持ってく日に仕入れた酒で潰れたら、帰ってきたとき飯を抜くよ」
「三人目まで増えた。安心して旅に出られるなあ」
◇
ベルクへ向かう朝、荷車には五つの酒樽と青魔鉄の袋が積まれた。
酒樽だけなら荷台にはまだ余裕がある。青魔鉄を積み、道中の飼葉と旅糧、寝具を載せても、バルトが普段引いている範囲に収まった。
ただし、林檎酒は鉱石ほど乱暴に扱えない。
レオンは樽の間へ藁を詰め、縄を二重に回した。ミラも反対側から縄を引き、結び目が車輪側へ垂れないことを確かめる。
ベラは最後まで林檎の木の方を気にしていた。
「帰るころには、また採ることになるかもしれないよ。樽を売ってくるなら、次に仕込む入れ物も考えといておくれ」
「五樽全部売れたらな」
「売れなかったら持って帰ればいい。飲む人間はここにいる」
「僕もいるよ」
「最初から数えてる」
ロアンが満足そうに頷いた。
ミラはバルトの鼻先を撫でた。
「バルトさん、行きますよ。帰ったら林檎があります」
バルトの耳が前へ向いた。
「今から四日歩くんだぞ。帰りの餌で釣るな」
レオンが手綱を取ると、バルトはいつもより素直に歩き出した。
◇
南橋が直った街道は、冬前より通る荷車が増えていた。
川を渡るところで列ができ、橋の中央では向こうから来る荷車を待った。春の雨でぬかるんだ場所はあったが、大きく迂回する必要はない。
四日目の午後、ベルクの石壁が見えた。
ミラがこの街を外から見るのは、追い出された日の朝以来だった。
あのときは西門から荷車へ乗り、ラトス村の募集札を見ながら街を出た。今はバルトが引く荷車の横を歩き、後ろには酒樽が五つある。
門をくぐると、石畳の匂いも、人の声の重なり方も変わっていなかった。
東共同寮へ続く通りが見える角で、ミラは少しだけそちらを見た。
洗濯物を干す屋根が遠くに見えた。誰が干したものかまでは分からない。
「ミラ、こっちだよ」
ロアンの声で顔を戻す。
「酒商を探す前に、行商人組合へ寄るんだって。僕は酒場へ寄る案も出したけど却下された」
「順番が逆だ」
レオンは振り返らずに言った。
「売ったあとならいいんですか?」
「ミラまで聞くのか。売ったあと時間が余ればいい。飲みすぎない範囲でな」
「確認しただけです」
ロアンがミラへ小声で言った。
「君が来てくれて本当によかった」
「私も飲むとは言っていません」
ロアンは肩を落とした。
行商人組合で、レオンは果実酒を樽で扱う店を三軒聞いた。
選んだのは、大店でも小さな酒屋でもない。ベルクの酒場や宿へ樽で卸している、中ほどの規模の酒商だった。
店の表には葡萄酒と麦酒の樽が積まれ、裏の荷受け口には空樽が何段も並んでいる。バルトと荷車を入れても、隣へもう一台置ける広さがあった。
店主は荷台の酒樽を見ると、まずレオンへ視線を向けた。
「酒の売り込みか?」
「ああ。林檎酒だ。全部、同じやり方で仕上げた。値を見てほしい」
「産地は?」
「伏せる」
「造ったのは?」
レオンがロアンを顎で示した。
「僕だよ。正確には、潰すところはみんなでやった。発酵の状態を見るのは僕がやってる」
店主はロアンの肩に掛かったリュートを見た。
「吟遊詩人が酒を造るのか」
「飲む方が長かったけどね。今は毎朝、樽の温かさを触って確かめて、泡と匂いを確かめる。必要なら味見するし、音はその中の一つだよ」
「音も聞くのか?」
「耳が得意だからね。でも音だけじゃ決めない。進みすぎた樽は涼しい場所へ動かすし、匂いに嫌な酸っぱさが出たら仲間と相談して捨てる。前の仕込みと同じ辺りで止めるために、いくつかを組み合わせて対処する」
店主の顔から、少しだけ笑いが消えた。
「全部か?」
「大きくは外れてないよ。僕が一番好きなのは三番だけど、商品として別物ってほどじゃない」
「三番が好きな理由は?」
「少しだけ香りが強い。僕が飲むなら、という話だけどね。酒場へ出すなら一番と四番も同じ値でいいと思う」
店主は返事をせず、一番樽の栓を抜いた。
小さな杯へ注がれた酒は、薄い金色をしている。店主は匂いを嗅いで舌へ少量含み、杯を明かりへ透かした。
「甘い林檎を使ってるな」
「かなりね。蜂蜜も、ほかの甘味も足してないよ」
「この強さで?」
「僕も最初は驚いた。普通の林檎酒よりずっと強い。でも、林檎の香りが先に来るから飲みやすい」
店主は今度は三番樽を開け、同じように匂いを嗅いで少し飲んだ。ミラはその手元を見ていた。三番を飲んだあと、店主はすぐ次へ行かず、もう一度だけ三番を口へ含んだ。
「三番が一番好きみたいです」
店主がミラを見た。
「分かるか?」
「ほかは一度ずつでした。三番だけ二度飲みました」
「味の話じゃないのか」
「私は、三番と四番の違いはあまり分かりません」
ロアンが笑った。
「僕も最初からそこまで分かったわけじゃないよ。ミラは人の方をよく見てるんだ」
店主は残る二樽も確かめた。
樽を一通り確かめ終えると、店主は最初に使った杯を水でゆすぎ、台へ伏せた。
「悪くないどころじゃないな。林檎酒としては珍しい強さだし、それで香りが死んでない。どれも揃ってるなら、酒場へ回しやすい」
「いくらだ」
レオンが聞いた。
店主は樽を順に見た。
「五つで銀貨五十枚」
「六十五」
「無名の林檎酒に十三枚ずつ払えって?」
「味に満足してるのに、無名を値引きに使うな。全部飲んで、酒場へ回しやすいと言ったのはそっちだ」
「売れるかはまだ分からん」
「なら五十でも高い。売れると思ってるから五十を出した」
店主が鼻で笑った。
「商人同士で自分の値を下げる話をするなよ」
「俺は下げてない。そっちが上げる理由を確認してる」
ロアンは荷受け口に並ぶ空樽を眺め、ミラへ小さな声で言った。
「僕ら、今は黙ってた方がよさそうだね」
「はい。レオンさんが楽しそうです」
「そう見える?」
「右の眉があまり動いていません」
「僕には怖く見えるなあ」
店主はしばらくレオンと睨み合い、やがて指を二本立てた。
「六十。これ以上は出さん。ただし条件がある」
「聞く」
「次からも定期で持ってこい。まずは五樽ずつでいい。この味が続くなら、こっちは同じ値で買う。売れ行きを見て量の話はそのあとだ」
レオンはロアンを見た。
「できるか」
「林檎が同じなら、かなり近いところへ持っていけると思う。絶対同じ味だと言えと言われたら困るけど、今回くらいには揃えられるよ」
「それで十分だ」
レオンは店主へ向き直った。
「六十で売る。次からもその量で持ってくる。ただし、林檎の出来まで保証はしない」
「そこまで求めん。この味なら次も買う」
店主は帳面を引き寄せた。
店主が書いた買い取り額は、銀貨六十枚だった。
ミラはその数字が帳面へ残るところを見ていた。
青魔鉄をいつもの量だけ売れば銀貨二十枚になる。その三回分が、林檎酒五樽についた。
しかも青魔鉄も、この街へ一緒に持ってきている。
店主が代金を数えている横で、ロアンは空になった木杯を見た。
「僕の酒が銀貨六十枚か。なんだか急に、飲むとき緊張しそうだね」
「うちでは普通に飲んでただろ」
レオンが言う。
「値段を知る前と後では、同じ一杯でも味が変わるんだよ」
「それは発酵管理じゃなく、ロアンの性格だ」
店主が銀貨の山を押し出した。
「造り手なら、次も頼むぞ。約束した分は買う。もっと欲しくなったら、こっちから量の話をする」
ロアンは銀貨ではなく、店主の杯を見た。
「三番を残さなかった人に頼まれたなら、悪い気はしないね」
「そこまで見てたのか」
「僕は人が酒を飲むところも好きなんだ」
◇
青魔鉄は、同じ買い手へいつも通り銀貨二十枚で売れた。
酒と一緒に渡した樽の代わりも探したが、酒商の荷受け口に並んでいた空樽は取引先へ返すものだった。新しい樽をまとまった数で揃えるなら、樽職人へ先に頼んでおいた方がいいという。レオンは次の納品までに手配することにして、その日は食料と日用品だけを補充した。
夕食は、泊まった宿の一階で取った。
昼間より人の減った通りからも声が聞こえ、食堂の中では知らない客同士が大声で笑っている。ミラは豆と肉の煮込みを木匙ですくいながら、しばらく周囲の音を聞いていた。
「ベルクって、夜もこんなに人の声がしていましたっけ」
向かいで酒杯を持っていたレオンが顔を上げた。
「前からだ」
ロアンは一瞬だけ苦い顔をしたが、誰も気づかなかった。そして、頼んだ麦酒を一口飲んでから言った。
「静かなところに慣れたんじゃない? 僕らのところは、僕が弾かなければ火の音とキュウくらいしか聞こえないからね」
「バルトさんもいます」
「馬房から参加させるの?」
「鼻を鳴らします」
「じゃあ立派な打楽器だ」
レオンがパンをちぎった。
「何でも楽器にするな」
「ミラも最近は少し弾けるようになったし、僕としては演奏仲間を増やしたいんだよ」
「バルトさんは、林檎を見せた方がよく鳴くと思います」
「それ、演奏のたびに林檎が必要になるじゃないか。僕より出演料が高いかもしれない」
ミラは煮込みをもう一口食べた。
「ベラさんなら、もう少し塩を少なくすると思います」
レオンが木匙を止める。
「宿の飯まで点検し始めたのか」
「点検ではありません。食べたら思い出しました」
「帰ってベラに言うなよ。次から外で食うたび比べるぞ」
ロアンが杯を持ち上げた。
「僕はこの麦酒なら、うちの方が好きだな」
「ロアンは言うんだな」
「酒の話は別だよ」
商談の成功報酬だと言い張って頼んだ一杯を、ロアンは結局ずいぶん時間をかけて飲んだ。二杯目を頼もうとしたころには料理がほとんどなくなっており、レオンが「明日帰る」と言うと、少し考えてから諦めた。
「成功報酬としては控えめだね」
「帰ってから自分のを飲め」
「それもそうだ。帰る理由が一つ増えた」
ミラは硬めのパンを小さくちぎりながら、それを聞いていた。
翌朝、三人は東門の外へ出た。
バルトと荷車をレオンの近くへ寄せ、ミラとロアンも前に成功したときと同じくらいまで距離を詰める。以前、ベラとロアンを連れ帰ったときと同じ形だった。
「新しいことはしない。離れるな」
「はい」
「僕もいるよ」
「ロアンに言ってる」
橙色の光が足元へ広がった。
次にミラが見たのは、見慣れた窪地の土だった。
馬房の前でキュウが驚いたように頭を上げ、洞窟からベラが出てくる。
「お帰り。ずいぶん荷が軽くなったね」
「お酒は五樽とも売れました」
ミラが答えると、ベラの眉が上がった。
「五樽とも? 値は?」
「銀貨六十枚です。次も同じ品質で、同じ量を持ってきてほしいそうです。青魔鉄もいつもどおり銀貨二十枚でした」
ベラは一度、空になった荷台を見た。
「そりゃいい話だね。で、もっといい話と悪い話があるよ」
「どちらから聞きますか?」
「同じ話さ。あれを見な」
ベラが林檎の木を指した。
枝には、出発前にはまだ青かった実が赤くなっている。
その下に、収穫用の籠が二つ置いてあった。
バルトが荷車の前棒から外されるより先に、林檎の木へ首を向けた。
「バルトさん、分かるんですね」
「帰ってきた人間より先に木を見たよ、その馬」
ベラが笑った。
夕食のあと、レオンは卓へ帳面を広げた。
《青魔鉄 売却 銀貨二十》
その下へ、もう一行を書く。
《ロアンの林檎酒 五樽 銀貨六十》
ロアンが横から覗いた。
「名前まで僕になったんだ」
「店で造ったのは誰か聞かれた。しばらくはそれでいい。余計な場所の名前を出すより安全だ」
「では、僕が有名になったら困る?」
「酒だけ有名になれ」
「難しい注文だなあ」
ベラは酒樽を置いていた場所にできた空きを見た。
「その有名な酒を次に同じ量作るなら、樽を買わないと足りないよ。仕込み途中の分まで使ったら、麦酒を入れる場所もなくなる」
「次にベルクへ行くとき買う。同じ量なら荷車にもまだ余裕がある」
「搾る方も何とかしたいね。今日一日林檎を切ってたけど、あの布袋をまた十も二十も捻るのは嫌だよ」
「そっちは道具を考える。今ある板と重石で、少しでも手を減らせる形を試す」
話が続く横で、ミラは帳面に並んだ二つの数字を見比べた。青魔鉄の二十に対して、林檎酒は六十。青魔鉄は今まで通り売れているのに、林檎酒にはその三倍の値がついていた。
数字を確認してから、ミラは食器を片づけるために立った。
馬房の方で、バルトが柵を鼻で押す音がする。
「バルトさん、林檎は明日です」
返事のように鼻が鳴った。
ミラは木椀を置き、窪地へ出た。
日が落ちると、春の終わりでも窪地の空気は少し冷えた。林檎の木には赤くなった実がいくつもあり、枝にはベラが昼のうちに付けた収穫用の紐が揺れている。
その枝の一つで白いものが揺れたので、ミラは近づいた。赤い実の少し上、まだ青い実も残っている枝に、また新しい花が開いていた。
「……また咲いています」
馬房から、バルトがもう一度鼻を鳴らした。
洞窟暮らしも半年。今度は林檎が採れすぎて困るようになりました。
せっかくなので、ここから酒と商売に変えていきます。ちなみに作者は林檎のお酒が大好きです。
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