炉守りは冬を迎えます
レオンが「買ってきたものを全部試す」と言った翌朝、窪地には細い縄が何本も張られた。
畑と呼ぶにはまだ小さい。昨日植えた豆の横へ新しい畝を起こし、葉物、豆、根菜、大麦、香草を少しずつ分けて蒔く。種芋は端へ離し、根を湿らせた布で包んで運んできた林檎の苗だけは、日当たりのいい斜面寄りへ一本で植えた。
レオンによれば、ベルクでは葡萄の苗の方が手に入りやすく、林檎は食べる実としては珍しくないものの、酒にするほどまとまって育てる農家は少ないらしい。買った苗は一本でも実をつける種類だと店主に言われたが、最初の収穫までは早くても三年は見ておけ、と念を押されたという。
「三年ですか」
ミラが苗の細い幹を見上げると、レオンは隣で土を踏み固めた。
「普通ならな。昨日の豆を見たあとじゃ、何を普通と呼ぶか怪しいが」
「だから試すんだろ。全部同じ条件にしたら、何が効いたか分からなくなるよ」
ベラは新しい厨房から持ってきた灰を、小さな桶へ入れていた。
帰り火は薪も炭も使わない。それでも炉の灰受けには、毎日少しずつ灰が溜まる。理由は誰にも分からないが、捨てる場所に困るほどではなかったので、これまでは窪地の端へまとめていた。
「灰って畑に入れるものなんですか?」
「入れることはあるよ。ただし多けりゃいいってもんじゃない。土によっては悪くすることもあるから、最初は少しだけだ」
葉物だけは比較用に三列へ分けた。一列は魔力泉の水だけ。隣は土へ炉灰を薄く混ぜ、同じ魔力泉を使う。最後の一列にはまだ種を蒔かず、次に雨が降ったとき、集めた雨水と同じ種で比べることにした。
「日当たりまで揃えて差が出れば、水のせいだと考えやすい」
レオンが言うと、ロアンは畝を見比べた。
「ここまで真面目に野菜を育てる話をしておいて悪いんだけど、大麦は多めにしてくれないかい?」
「理由は聞かなくても分かるけど、一応言ってみな」
「麦酒になる。保存もできるし、冬に飲める。今回はかなり立派な理由だと思うよ」
「やっぱりそれか。まあ、余ったら試せるよう少し多めにしとこう」
ベラは呆れながらも、大麦の畝を少しだけ広くした。
畑仕事のあと、四人は食卓へ戻った。
レオンが帳面を開き、ベラの前へ置く。
「試用の七日間は、約束どおり一日銅貨八十で終わりだ。残ると決めたのは四日目だったが、そこは変えない。八日目から昨日までの三日分も、新しい条件で遡って払う」
「その三日も飯は作ってたからね。なかったことにされないなら、それでいいよ」
話し合って、食事と個室を含めて月銀貨十二枚。端数の日は日割り。厨房で使う食材や道具は給金とは別に共同費で持つことにした。
「休む日は?」
「毎日三食を一人で全部作れとは言わない。保存食で済ませる日も作るし、ミラも俺も簡単なものなら作れる。出かけるなら先に言ってくれればいい」
「それならいい。さすがに休みなしはきついからね」
「私は豆を煮るくらいならできます」
「その豆を浸けたまま恋の話をして忘れたのは誰だい?」
ミラは少し考えた。
「ベラさんと私です」
「こりゃ墓穴を掘っちまったね」
レオンは帳面へ最後の線を引いた。
「八日目から、この条件でいいな」
「ああ。じゃあ正式に、ここの料理人として働くよ」
「よろしくお願いします」
契約が変わっても、ベラがその日の昼に最初にしたのは、キュウの肉を人間の味付けより先に取り分けることだった。
◇
三日後、葉物の畝が最初に変わった。
魔力泉だけを使った場所では、小さな双葉が揃って土を割っていた。炉灰を混ぜた畝は、それよりさらに一回り大きい。
一週間ほど経つころには、最初の葉を何枚か摘んで食卓へ出せるまでになった。
「昨日まで葉っぱを買いに四日歩いてたんだよ」
ベラは摘みたての葉を水で洗い、指先で折った。しゃき、と乾いた音がする。
「これが続くなら、次からベルクで買う量は減らせるね。あとは冬までどこまで持つかだ」
「味はどうですか?」
ミラが聞くと、ベラは一枚を噛んだ。
「普通にうまい。変な甘さも苦さもない。採ったばかりだから、その分は街で買うよりいいね」
キュウが足元から鼻を伸ばした。
「これは食べますか?」
「きゅう」
ミラが小さな葉を差し出すと、キュウは一度だけ噛み、そのまま口から落とした。
「好きではないみたいです」
「肉と同じ勢いで畑まで食われたら困るから、そこは助かるよ」
次に雨が降った日、レオンは桶と空壺を窪地へ並べた。集めた雨水で、空けていた畝へ同じ葉物の種を蒔く。
陽当たりは隣とほとんど変わらない。
結果が分かったのは、その数日後だった。
雨水の畝にも芽は出た。ただし、魔力泉を使った方はもう葉が増え始めているのに、こちらはまだ双葉が開いたばかりだった。
ミラはしゃがみ込み、二つの畝の間へ指を置いた。
「日向に出しただけではなさそうですね」
「ああ。水で差が出てる。それに、灰を入れた方がもう一段速い」
レオンは帳面へ日付を書いた。
「ただし、全部に灰を入れるのはまだ早い。葉物以外でも同じか見る」
豆は十日ほどで支えへ巻きつき、根菜は三週間ほどで土の下が太り始めた。大麦も、普通の畑ならまだ背丈を比べる時期に、穂を出す準備へ入っていた。
それでも、昨日植えて今日収穫というほどではない。
ミラには、そのくらいの速さの方がかえって面白かった。
朝に見た葉が夕方には少し増えている。昨日は届かなかった豆の蔓が、翌朝には一本上の縄へ絡んでいる。土の下へ隠れている根菜は、葉の開き方を見てから掘る日を考える。
何日か見ているうちに、どの畝が水を多く欲しがるかも少しずつ分かってきた。
「そっちは昨日やっただろ」
水桶を持ったレオンに言われ、ミラは足を止めた。
「はい。でも、こちらだけ葉の端が少し下がっています」
レオンが近づき、しゃがんで葉を見る。
「確かに乾いてるな。土が浅いのか」
「石が多いところなので、下まで水が残らないのかもしれません」
「じゃあ水をやる前に石をどける。次も同じなら畝を少し深くする」
二人が土を掘り始めると、キュウも隣へ来た。
黄土色の身体は、林檎の苗を植えた日よりわずかに大きく見える。白い腹を土へ近づけ、前脚で掘ろうとしたところで、ミラが声を掛けた。
「キュウ、そこは掘らないでください。お豆の根があります」
「きゅう」
キュウは前脚を止めた。代わりに少し離れた何も植えていない場所へ移動し、そこで穴を掘り始める。
「分かってるのか?」
「たぶん、畑の中は駄目だと覚えています」
レオンが見ている前で、キュウは掘った土へ鼻を入れ、満足したように尻尾を振った。
それだけではなかった。ベラが肉を切っているときは、以前のように鼻先を台へ突っ込まず、一歩手前で待つようになった。ロアンが床へリュートを置いていると、その革紐にはじゃれつくが、止められれば離れる。ミラが畑から呼べば、気になる穴があっても一度は顔を上げる。
できる日と、できない日はまだある。それでも、一緒に暮らし始めたころより、止まるまでの時間は短くなっていた。
その夜、帰り火の前でミラが畑の記録を書いていると、橙色の炎の上へ文字が浮かんだ。
《キュウ――継続的な対人適応を確認》
《愛嬌 Lv1 → Lv2》
ミラは顔を上げた。
「キュウ。《愛嬌》が二になりました」
炉のそばで丸くなっていたキュウが片目だけ開ける。
「きゅう」
「おめでとうございます」
ロアンがリュートの弦を一つ鳴らした。
「言われてみると、さっきより少し可愛く見えるね」
「表示を見たからではないですか?」
「それを言われると自信がなくなるな」
ミラは帳面へ《愛嬌 Lv2》と書き足した。
キュウは何も気にしていないように、もう一度目を閉じた。
◇
ひと月ほど経つころには、窪地の景色が変わっていた。
最初は四本しかなかった畝が増え、葉物の緑、豆の支柱、大麦の列が、岩壁に囲まれた土の上へ広がっている。根菜を抜いたあとの畝へ次の種を蒔き、早く採れる葉物は二度目の収穫へ入った。
馬房から出るバルトの糞と汚れた敷き草、畑の枯れ葉や食べられない茎は、窪地の端へ積んでいた。時間が経って黒く崩れ始めたものを少量だけ土へ混ぜてみると、炉灰ほど成長を急がせる感じはない代わりに、葉や茎がしっかりした。
そこで畑は、魔力泉を基本に、炉灰は少量、よく崩れた肥料も少しずつ使う形へ落ち着いた。
林檎の苗にも、同じものを控えめに与えた。
豆のように一晩では変わらない。それでも十日ほどで新しい芽が増え、ひと月を過ぎるころには、買ってきたときより明らかに枝が伸びていた。
「三年って言われたんだよな?」
レオンが幹の横へ立てた棒と比べる。
「そう聞いた。少なくとも今年実がつくとは言われてない」
「店の人に見せたら怒られますかね」
「たぶん先に育て方を聞かれる」
ミラは枝の先へ触れず、少し離れて見た。
小さな膨らみがいくつもついている。
「これ、葉っぱの芽とは形が違います」
ベラも覗き込んだ。
「花じゃないかい?」
三日後、その膨らみは白い花になった。
四人とも、しばらく木の前から動かなかった。
ロアンが最初に口を開く。
「酒になるまで、思ったより近いかもしれない」
「まず実がなるか見な」
ベラが言ったが、顔は笑っていた。
◇
それからさらに二か月ほどが過ぎた。
収穫が増えると、今度は食べるより育つ方が速いという、少し贅沢な問題が出た。
葉物は食事へ出しても余り、豆は乾かして袋へ入れる量が増えた。根菜は傷のないものを選んで涼しい場所へ並べ、傷ついたものから先に使う。レオンがベルクから酢を買い足すと、ベラは根菜や葉を小さな壺へ漬けた。
「食べるものがないって言ってたの、そんな前じゃないんだけどね」
ベラは薄切りにした根菜を石台へ並べながら言った。
「今は置く場所の方を考えてる。贅沢な話だよ」
「畑を減らすか」
レオンが帳面から顔を上げる。
「冬前に減らす必要はないよ。採れるうちに採って、保存できる形にしておく。雪が積もってから葉っぱは生えてこないだろ」
「じゃあ次の葉物は一列減らす。豆と大麦を残す」
「それでいい。あと、酢は次も買ってきて。壺も足りない」
「書いた」
ベラの厨房では、帰り火から引いた炉口と石窯が朝から動いていた。
薪も炭も減らない代わりに、火を使う仕事そのものが増えた。鍋では豆を煮て、隣では酢漬け用の湯を沸かし、石窯では薄く切った野菜を乾かす。
赤褐色の髪を後ろへ束ね、古い火傷跡の残る腕をまくったベラは、強い火なら迷わず扱える。しかし、弱い火を一定に保つのは相変わらず得意ではない。
最初のころなら、火を弱めようとして消えかけたところへ一気に戻り、鍋ごと外していた。今は一つの炉口を強めたまま、隣だけを少し落とし、その間に石窯の熱を見ている。
「ミラ、右の鍋を一度外して。左はそのままでいい」
「はい。石窯はどうしますか?」
「あと少し。乾きすぎる前に一段上へ移す」
ミラが鍋を動かしたところで、ベラの腰の職業札が淡く光った。
「ベラさん、札が光っています」
「ん?」
ベラは一瞬だけ手を止め、職業札を外して表示を確かめた。
「《火力制御》が二になった。なるほどね。ちょっと待ちな。今なら右だけ、もう少し落とせるかもしれない」
ベラは自分の指先を見てから、右の炉口へ小さな炎を足した。
火はさっきより低いところで止まり、すぐには跳ね上がらなかった。
「前より弱いところで止まっています。できるようになったんでしょうか」
「前よりはね。でも、弱い火を一日中きれいに保てる気はしないよ。鍋を動かした方が楽なときは、これからもそうする」
「技能が上がってもですか?」
「上がったのはあたしで、別人になったわけじゃないからね。できる範囲が少し広がったなら、それで十分だよ」
ベラはそう言って、外した鍋をまた火へ戻した。
◇
冷たい風が窪地へ入るようになったころ、林檎の枝に赤いものが混じり始めた。
花が落ちたあとについた青い実は、何週間もかけて少しずつ膨らんだ。豆や葉物ほど急には変わらなかったので、ミラは毎朝見るのをやめずに済んだ。
最初の一個を採ったのは、ベラだった。
掌へ収まる赤い実を布で拭き、四つに切る。種の周りまで傷んでいないのを確かめてから、一切れずつ配った。
ミラが噛むと、硬い果肉がしゃり、と割れた。
すぐに甘い汁が舌へ広がる。
「甘いです」
「甘いね。ずいぶん甘い」
ベラは自分の一切れをもう一度噛み、眉を上げた。
「ベルクで買う林檎より、はっきり甘いよ。水っぽくもない」
レオンも黙って食べ、種の周りを見た。
「売るなら味は強みになる。ただ、一本しかない。まずはどれだけ採れるか数える」
「食べる前に数えるんだね」
ロアンが言う。
「お前は数える前に飲むからだ」
「まだ酒じゃないよ」
「だから今のうちに止めてる」
その年、若い林檎の木から採れた実は四十個を少し超えた。
普通なら苗を植えた年に実がつくこと自体がおかしい。そのうえ、どの実も小さすぎることはなく、傷んだものを除いても、食べるには十分な量が残った。
最初の何個かはそのまま食べた。
ベラが薄切りを石窯で焼き、少量の粉を使って包み焼きにもした。それでも全部を食べ切る前に柔らかくなる実が出始める。
ロアンが樽を見た。
「酒にしよう」
「言うと思ったよ」
ベラは即答した。
「でも今回は賛成。煮詰めてもいいけど、この甘さなら酒にした方が違いが分かりやすい」
「僕の欲望と保存の必要が、ついに同じ方向を向いた」
「威張るところじゃない」
林檎酒そのものは、ベルクにもある。
ただし、葡萄酒ほど一般的ではない。ロアンによれば、林檎酒を出す酒場でも、一樽を一年中置いている店は多くないという。
「作り方は知ってるんですか?」
ミラが聞くと、ロアンは首を横へ振った。
「飲み方ならかなり詳しい。造り方は、潰して果汁を取って、樽へ入れて待つくらいしか知らないよ」
「それを知ってるとは言わないね」
ベラは林檎を洗いながら言った。
「宿の厨房でも果実酒を仕込むことはあったけど、あたしは料理の方だった。腐らせない扱いなら分かるけど、何日待てばいいかまでは知らないよ」
「では、試しますか?」
「そうするしかないね。大きい樽で全部駄目にする前に、小さい方で失敗したほうがいいね」
四人は林檎を木桶の中で潰し、布へ包んだ果肉を少しずつ捻って果汁を絞った。道具らしい道具はないので時間はかかったが、桶の底には甘い匂いのする薄金色の汁が溜まっていく。
ベラは果汁を小壺へ三つに分けた。一つはそのまま、一つは一度煮立てて冷まし、もう一つには洗い方を軽くした皮つきの果肉を多めに混ぜる。
残りは、以前《帰還》の荷物を試したときにも使った空の小樽へ入れ、口へ清潔な布を掛けた。
ミラは壺へ日付と中身を書いた札を結んだ。
三日目、そのままの壺には細かな泡が出た。皮を多く入れた方は、それより勢いよく泡立っている。煮立てた果汁は、甘い匂いのままだった。
五日目には、小樽の布が内側からわずかに持ち上がった。
ベラが重石を載せようとすると、ロアンが止めた。
「完全には塞がない方がいい。中から押してる」
「虫を入れる気かい?」
「布は残す。でも重石まで載せたら、逃げる場所がなくなるだろ。昨日より泡も増えてる」
ロアンは樽へ耳を当てたあと、今度は両手で胴を包むように触れた。
「それに、少し温かい」
ミラも触ってみた。帰り火のそばの石ほどではないが、同じ場所に置いた空樽より、たしかにぬるい。
「昨日も温かかったですか?」
「昨日は触ってない。音ばかり聞いてた」
「じゃあ、今日から触りな。酒は耳だけでできないよ」
ベラは重石をやめ、布を二重にして縄で縛った。虫を入りにくくしながら、中から出るものは逃がす。
それから毎朝、ロアンが三つの壺と樽を確かめるようになった。
まず耳を当てて泡の間隔を聞く。次に樽の側面へ掌を置き、前の日より温かいか冷たいか確かめる。布の膨らみと表面の泡を見て、蓋を開けたら匂いを嗅ぎ、清潔な匙でごく少量だけ味を見る。
ベラは膜や濁り、嫌な臭いがないかを確かめる。ミラは日付と変化を書き、レオンは使った林檎の数と、捨てた量まで帳面へ付けた。
七日目の朝、帰り火に近い側へ置いていた小樽だけ、様子が違った。
「これ、昨日より温かい」
ロアンは掌を離さずに言った。
耳を当てると、眉を寄せる。
「泡も細かい。間がほとんどない。匂いも昨日より強いな」
少量を舌へ乗せ、しばらく考えた。
「甘さが急に減ってる。ほかの壺より進みすぎてる気がする」
「腐ってる匂いではないね」
ベラも確かめる。
「でも、このままここへ置く理由もない。どうする?」
ロアンは樽と帰り火の距離を見た。
「少し涼しい方へ動かしたい。音も温かさも、こいつだけ先へ行きすぎてる」
四人で小樽を洞窟の奥寄りへ移した。
翌朝、ロアンは真っ先にその樽へ触れた。
「昨日ほど熱くない」
耳を当て、匂いを嗅ぎ、匙を一度だけ口へ運ぶ。
「泡も少し落ち着いた。甘さの減り方も、昨日ほど急じゃない」
「なら、場所を変えた意味はありそうだね」
ベラが言った。
「一回で決めつけないで、次も同じなら覚えときな」
「分かった。樽は音だけじゃなく、置く場所にも機嫌があるらしい」
「酒に機嫌を持たせるな」
八日目、皮を多く入れた壺には青白い膜が浮いた。
ベラが一度匂いを嗅いで、すぐ顔をしかめる。
「これは駄目だね。酸っぱいだけじゃない」
ロアンも匂いを嗅ぎ、表面を見た。
「昨日から泡が減ってたのに、温かさは残ってた。匂いも少し嫌だった。さっきの樽とは違う止まり方だ」
「今なら違いが分かるのかい?」
「昨日までは、何が悪い違いなのか自信がなかった。これで一つ覚えた」
「なら次は、膜が出る前に言いな」
失敗した壺の中身は畑から離れた場所へ埋めた。
煮立てた果汁は十日経ってもほとんど変わらない。そのままの壺と、場所を動かした小樽だけが、甘い匂いの中へ少しずつ鋭さを混ぜていった。
十日目の朝、ロアンはいつもの順番で小樽を見た。
掌を当てる。耳をつける。布の膨らみを見る。匂いを嗅ぎ、ほんの少し味を見る。
「昨日より泡の間が長い。温かさも落ちてる。甘さはまだあるけど、最初みたいじゃない」
ミラは前の日の頁を開いた。
「昨日は、泡が一息の間に八回くらいと書いてあります」
「今日は四つか五つ。前なら音だけ聞いて終わってたけど、今は、温かさと匂いと甘さも同じ方向へ動いてるのが分かる」
「同じ方向ですか?」
「発酵が進むと、しばらくは温かくなって泡が増えて、甘さが減る。落ち着いてくると泡も熱も弱くなる。たぶん、そういう流れなんだと思う。まだ十日しか見てないから、別の果物なら違うかもしれないけど」
そこで、ロアンの職業札が淡く光った。
《発酵管理 Lv1》
ロアンは表示を見て、しばらく黙った。
「酒を飲んで生きてきたら、とうとう技能になった」
「違うよ」
ベラが即座に返した。
「十日以上、毎朝起きて、触って、嗅いで、味を見て、樽まで動かしたからだよ。飲んだ量を実績に混ぜるんじゃない」
「言われてみると、僕の人生でもかなり珍しい期間だね」
ロアンはもう一度、小樽へ掌を当てた。
「急に酒造りを全部覚えた感じはしない。でも、音と温度と匂いと味が、前より一つのものとして見える。次に違う仕込みをしたら、また確かめる必要はありそうだ」
レオンは帳面へ《発酵管理 Lv1》と書き足した。
「なら次から樽の状態はお前が見る。捨てるか迷ったらベラと決めろ」
ロアンが顔を上げる。
「僕が?」
「十日見続けて技能まで出た奴が、毎回俺を呼ぶ方が無駄だ」
「任されるのは嫌いじゃないよ。飲む量まで任せてもらえるなら、もっとやる気が出る」
「そこだけは任せん」
「惜しいな」
◇
二日後、泡はほとんど聞こえなくなった。
ロアンがもう一度匂いと味を確かめ、ベラも問題がないと判断したところで、最初の林檎酒を小さな木杯へ分けた。
色は薄い金色で、少しだけ濁っている。
ミラは舐めるくらいの量を口へ入れた。
最初に林檎の甘い香りが来た。実をかじったときほど甘くはなく、舌の横へ酸味が残る。飲み込んだあと、喉から胸へ少し熱が落ちた。
「林檎なのに、温かくなります」
「酒だからね」
ロアンは自分の杯を一口飲み、すぐにもう一度少量を含んだ。今度は飲み込まず、しばらく舌の上で転がす。
青緑の目が少し見開かれた。
「これ、林檎酒にしては強すぎる」
「失敗かい?」
「逆。普通の林檎酒はエールくらいだよ。これは葡萄酒と同じくらいある。甘いから最初は軽く感じるのに、飲み込んだあとでちゃんと来る」
ベラも一口飲み、鼻から息を抜いた。
「確かに強いね。林檎の匂いが残ってるから飲みやすいけど、調子に乗ったら立てなくなるやつだ」
レオンは杯の中を見たあと、短く言った。
「売れる」
ロアンが杯を抱え込むようにした。
「その言葉を待ってなかった」
「売るとは言ってない。まだ一樽目だ。次も同じものができるか分からん」
「今、とてもいいことを言ったね」
「同じ品質を作れると確認してから商品にする。それまでは記録を取る」
「最後までいい話ではなかった」
ミラは帳面へ《林檎酒 一回目》と書き、その下へ味と日数を記した。
「残りはどうしますか?」
レオンが答える前に、ロアンが身を乗り出す。
「住人用と書こう」
「まだ量を決めてない」
「では、《住人用――量は後で決める》で」
「勝手に帳面を増やすな」
ミラは少し考え、そのまま書いた。
《住人用――量は後で決める》
レオンが眉を寄せる。
「……書くのが早い」
「売らない分も残すんですよね?」
「……残す」
「では、間違っていません」
ロアンが満足そうに杯を上げた。
その後、ロアンは大麦でも酒を仕込んだ。こちらは林檎酒ほど珍しいものにはならなかったが、何度か試すうちに、洞窟の食卓で飲むには十分な麦酒になった。
林檎酒は少しずつ大事に飲み、麦酒は食事のときに小さな杯で飲む。
酒を飲まない日のロアンがなくなったわけではない。けれど、酒があるから買いに行く理由はかなり減った。
◇
秋が深まるにつれて、窪地へ陽が入る時間は短くなった。
葉物の伸びは鈍り、大麦の最後の列を刈るころには、朝の土が薄く白くなる日も増えた。
畑仕事が減る前に、できることは済ませた。
豆は乾かして袋へ入れ、根菜は傷のないものを選んで保管する。葉物の一部は乾燥させ、残りはレオンが買ってきた酢と塩で壺へ漬けた。
レオンは青魔鉄を一度に出しすぎないよう量を抑えながら、雪が来る前に何度かベルクへ往復した。
小麦粉、塩、油、酢、保存肉、バルト用の飼葉。石鹸や針糸など、冬の途中で切れると困るものも補充する。
最後の大きな買い物は、四人分の厚い寝具だった。
荷車から降ろされた包みを見て、ミラは自分の分まであるとは思わず、一つをベラの部屋へ運ぼうとした。
「それはお前のだ」
レオンに言われ、足を止める。
「私の分もですか? 今の寝具でも寒くありませんよ」
「寒くないのと、気持ちよく寝られるのは別だ。今までの毛布は下へ敷け」
ミラは厚い布越しに中身を押した。柔らかな詰め物がゆっくり戻る。
「ずいぶん厚いです」
「冬物だからな」
ロアンも自分の寝具を抱え、顔を埋めた。
「これは危険だね。朝、起きられなくなる」
「今も起きてないだろ」
ベラが言う。
「今までは寝具のせいにできなかった。これからは理由ができる」
「起こすとき一緒に引き剥がしてやるよ」
キュウが新しい寝具へ鼻を押しつけようとしたので、ミラが先に抱え直した。
「キュウのものではありませんよ」
「きゅう」
「キュウはお部屋に敷いてある布を使ってください。前より身体が大きくなったので、狭くなったら増やしましょう」
キュウは左角の欠けた頭を傾けたあと、寝具よりミラの手へ鼻を押しつけた。
◇
最初のまとまった雪が降った夜、窪地は音まで白くなったようだった。
入口から見える畑の畝は雪の下へ消え、林檎の若木にも白いものが積もっている。昼のうちに枝へ重く載った分だけ払ったが、夜になってまた細かな雪が降り始めていた。
行商も、しばらく休みになった。
南橋が直っていても、雪の街道を荷車で往復する理由はない。食料も日用品も足りている。
洞窟の中では、帰り火がいつもと変わらず燃えていた。
燃料を足す必要はなく、橙色の火の周りには柔らかな暖かさが溜まっている。夕食には乾燥野菜と豆の煮込み、酢漬けの根菜、保存肉、石窯で焼いたパンが並んだ。小さな壺には麦酒もある。
バルトは入口近くの馬房で飼葉を食べていた。鹿毛の身体には冬毛が増え、長い白い鬣だけが暗い馬房の中でも目立っている。
キュウは林檎の苗を植えたころより一回り大きくなった。
それでも丸い身体つきは変わらず、食事を終えると白い腹を見せるように帰り火の脇へ転がる。ベラに肉を待たされることにも慣れ、畑の縄を越えれば呼び戻されることも覚えた。身体が大きくなったぶん、尻尾が床を叩く音だけは以前より立派になっている。
食後、ロアンが壁際からリュートを取った。長い栗色の髪を革紐でゆるく束ね直し、膝へ小ぶりの胴を載せる。
「外へ行けない夜くらい、少し弾こうか。働く理由が一つ減ったんだから、遊ぶ理由を増やしてもいいだろう」
「元から働く理由を減らすのは得意だったじゃないか」
ベラは言ったが、片づけを急がなかった。
ロアンが一曲弾いたあと、ミラへリュートを渡す。
「同じところをやってみよう。最初の四つだけでいい」
ミラは胴を抱えた。
最初のころより、もう腕の中で転がらない。指を置く位置も、毎回ロアンへ聞かなくてよくなった。
四つの音を順に鳴らす。
三つ目で少し弦を引っかけたが、止まらず最後まで続けた。
「今日は昨日より止まらなかったね」
「はい。でも、まだ技能は出ていません」
ミラは職業札を見た。
《火起こし》《野草知識》《応急手当》。音楽に関わるものは、やはりない。
ロアンは札ではなく、ミラの指を見ていた。
「技能が出たかどうかは知らないけど、前より弾けてるよ。最初は一音出すたびに、リュートの方まで緊張してたからね」
「楽器も緊張するんですか?」
「たとえだよ」
「では、前より弾けているなら十分です」
ミラはもう一度、今度は同じ四音を少し速く鳴らした。
その途中で、ベラが立ち上がった。
「ちょっと待ちな。あんた達だけ音を出してると、聞いてる方が暇だね」
厨房へ入ったベラは、空の木箱を一つ抱えて戻ってきた。さらに使っていない鍋を二つ伏せ、木匙を両手に持つ。
「料理道具ですよ」
「今は空だよ。割らなきゃ問題ない」
ベラは箱の横を木匙で叩いた。
ぼん、と低い音がする。
続けて大きい鍋、小さい鍋を叩くと、かん、こん、と高さの違う音が返った。
ロアンが目を輝かせた。
「もう一回やって」
「なんであんたに命令されるんだい」
「今の三つ、使える。もう一回だけ」
ベラは同じ順番で叩いた。
ロアンはミラからリュートを受け取り、その拍子へ短い旋律を重ねた。
ぼん、かん、こん。
弦が追いかける。
ベラは二度目から少し順番を変え、ロアンも合わせて音を変える。
ミラは手を叩こうとして、一拍遅れた。
キュウが顔を上げる。
「きゅう」
ちょうど、ベラの箱と箱の間だった。
ロアンが弾きながら笑う。
「キュウ、その位置いいね。次もそこ」
「きゅう」
今度は少し早かった。
「惜しい」
「本人は参加してるつもりなんですかね」
「楽しそうなら、参加でいいんじゃないかい?」
ベラは木匙を回し、もう一度箱を叩いた。
レオンだけが少し離れたところで帳面を閉じた。
「ずいぶん騒がしくなったな」
「レオンも来なよ」
ロアンが言う。
「俺はいい」
「弾けとは言ってない。歌えばいいんだ」
「もっと嫌だ」
ベラの手が止まった。
「そこまで嫌がると、逆に聞きたくなるね」
「聞かない方がいい」
「声はいいんだから、一曲くらい歌えるだろう?」
ロアンが言うと、レオンの右眉の古傷がわずかに寄った。
「なぜ声がいいと歌えることになる」
「普通は、少しくらい期待するよ」
「期待するな」
ミラはレオンを見た。
「私も聞いてみたいです。レオンさんの歌は、まだ聞いたことがありません」
レオンはしばらく黙っていた。
ベラは木匙を構えたまま待ち、ロアンはリュートを抱えて笑っている。
「……ミラまで言うのか」
「はい。一度だけでいいので」
レオンは息を吐いた。
「一度だけだぞ」
「十分」
ロアンは低い音から始まる簡単な曲を選び、最初の音を鳴らした。
「ここ。最初はこの音」
レオンが息を吸う。
最初の一声が洞窟へ落ちた。
低く、深い声だった。
普段の短い返事より響きが長く、石壁へ当たって戻ると、胸の奥で鳴るような厚みがある。
ミラは思わず目を大きくした。
「すごくいい声です」
「ほら、言っただろ」
ロアンが嬉しそうに弦を鳴らし、次の音へ進んだ。
レオンも歌う。
二つ目の音が、少し外れた。
ロアンの指が一瞬迷った。
三つ目。
今度は、旋律が行くはずの場所から明らかに違う方向へ飛んだ。
ベラの木匙が止まる。
四つ目で、ロアンまで演奏を止めた。
「……レオン」
「何だ」
「待って。いま僕が間違えたのかと思った」
「違うのか?」
「違う。僕は合ってた」
ベラが口元を押さえた。
「声だけ聞いたら、ものすごく格好いいのにね」
「だから聞くなと言った」
「自分で分かってたんですか?」
ミラが聞くと、レオンは少し嫌そうな顔をした。
「昔から、歌うと途中で止められる」
「誰にですか?」
「親父にも、商隊の連中にも、酒場でもだ」
ロアンが額へ手を当てた。
「三か所で止められて、それでも原因を調べなかったのかい?」
「困らんからな」
「ものすごくレオンらしい答えだね」
ベラが耐えきれず、声を上げて笑った。
キュウは何が起きたのか分からないらしく、レオンとロアンを交互に見たあと、
「きゅう」
と鳴いた。
その声が、さっきレオンの外した音よりずっとロアンの弾いた音に近かった。
ロアンがリュートを抱えたまま俯いた。
「キュウの方が合ってる」
そこで、ミラはとうとう耐えられなくなった。
最初は口元を両手で押さえた。
けれど、肩が一度震えると、もう止まらなかった。
「ふ、ふふ……ごめんなさい、レオンさん。でも……」
「謝るなら笑うな」
その返事で、さらに駄目になった。
ミラの丸く大きな桃色の目が、頬に押し上げられて細く垂れた。いつも周囲を追いかけて動いている目は、もうほとんど開いていない。目尻へ溜まった涙が一粒こぼれると、そのまま頬を伝った。
息を吸おうとして顔を上げる。
短い赤毛が頬へ落ちた。
向かいでは、レオンが本気で困ったように眉を寄せている。その顔を見た途端、ミラの口元がまた大きく崩れた。
声を押さえることもできず、身体を折るように笑う。頬は赤く、鼻先まで少し色づき、次々に浮かぶ涙を拭っても間に合わない。肩が震えるたび赤い髪が揺れ、途中からは何を言おうとしても息だけが漏れた。
第一章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
「役立たず」と言われて一人で街を出たミラは、冬を迎える頃には、帰り火のそばで息ができなくなるほど笑っていました。
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第二章では、この洞窟でできたものが少しずつ外の世界へ出ていきます。
現在、第四章終了分まで執筆済みです。
第二章からは、毎日12:10と21:10の1日2話投稿で進めます。




