↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
帰り火の洞窟 ~役立たずと追放された少女、拾った洞窟を仲間たちの帰る場所にします~  作者: Rastarock
帰り火の洞窟

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
18/84

炉守りは冬を迎えます

 レオンが「買ってきたものを全部試す」と言った翌朝、窪地には細い縄が何本も張られた。


 畑と呼ぶにはまだ小さい。昨日植えた豆の横へ新しい畝を起こし、葉物、豆、根菜、大麦、香草を少しずつ分けて蒔く。種芋は端へ離し、根を湿らせた布で包んで運んできた林檎の苗だけは、日当たりのいい斜面寄りへ一本で植えた。


 レオンによれば、ベルクでは葡萄の苗の方が手に入りやすく、林檎は食べる実としては珍しくないものの、酒にするほどまとまって育てる農家は少ないらしい。買った苗は一本でも実をつける種類だと店主に言われたが、最初の収穫までは早くても三年は見ておけ、と念を押されたという。


「三年ですか」


 ミラが苗の細い幹を見上げると、レオンは隣で土を踏み固めた。


「普通ならな。昨日の豆を見たあとじゃ、何を普通と呼ぶか怪しいが」


「だから試すんだろ。全部同じ条件にしたら、何が効いたか分からなくなるよ」


 ベラは新しい厨房から持ってきた灰を、小さな桶へ入れていた。


 帰り火は薪も炭も使わない。それでも炉の灰受けには、毎日少しずつ灰が溜まる。理由は誰にも分からないが、捨てる場所に困るほどではなかったので、これまでは窪地の端へまとめていた。


「灰って畑に入れるものなんですか?」


「入れることはあるよ。ただし多けりゃいいってもんじゃない。土によっては悪くすることもあるから、最初は少しだけだ」


 葉物だけは比較用に三列へ分けた。一列は魔力泉の水だけ。隣は土へ炉灰を薄く混ぜ、同じ魔力泉を使う。最後の一列にはまだ種を蒔かず、次に雨が降ったとき、集めた雨水と同じ種で比べることにした。


「日当たりまで揃えて差が出れば、水のせいだと考えやすい」


 レオンが言うと、ロアンは畝を見比べた。


「ここまで真面目に野菜を育てる話をしておいて悪いんだけど、大麦は多めにしてくれないかい?」


「理由は聞かなくても分かるけど、一応言ってみな」


「麦酒になる。保存もできるし、冬に飲める。今回はかなり立派な理由だと思うよ」


「やっぱりそれか。まあ、余ったら試せるよう少し多めにしとこう」


 ベラは呆れながらも、大麦の畝を少しだけ広くした。


 畑仕事のあと、四人は食卓へ戻った。


 レオンが帳面を開き、ベラの前へ置く。


「試用の七日間は、約束どおり一日銅貨八十で終わりだ。残ると決めたのは四日目だったが、そこは変えない。八日目から昨日までの三日分も、新しい条件で遡って払う」


「その三日も飯は作ってたからね。なかったことにされないなら、それでいいよ」


 話し合って、食事と個室を含めて月銀貨十二枚。端数の日は日割り。厨房で使う食材や道具は給金とは別に共同費で持つことにした。


「休む日は?」


「毎日三食を一人で全部作れとは言わない。保存食で済ませる日も作るし、ミラも俺も簡単なものなら作れる。出かけるなら先に言ってくれればいい」


「それならいい。さすがに休みなしはきついからね」


「私は豆を煮るくらいならできます」


「その豆を浸けたまま恋の話をして忘れたのは誰だい?」


 ミラは少し考えた。


「ベラさんと私です」


「こりゃ墓穴を掘っちまったね」


 レオンは帳面へ最後の線を引いた。


「八日目から、この条件でいいな」


「ああ。じゃあ正式に、ここの料理人として働くよ」


「よろしくお願いします」


 契約が変わっても、ベラがその日の昼に最初にしたのは、キュウの肉を人間の味付けより先に取り分けることだった。


     ◇


 三日後、葉物の畝が最初に変わった。


 魔力泉だけを使った場所では、小さな双葉が揃って土を割っていた。炉灰を混ぜた畝は、それよりさらに一回り大きい。


 一週間ほど経つころには、最初の葉を何枚か摘んで食卓へ出せるまでになった。


「昨日まで葉っぱを買いに四日歩いてたんだよ」


 ベラは摘みたての葉を水で洗い、指先で折った。しゃき、と乾いた音がする。


「これが続くなら、次からベルクで買う量は減らせるね。あとは冬までどこまで持つかだ」


「味はどうですか?」


 ミラが聞くと、ベラは一枚を噛んだ。


「普通にうまい。変な甘さも苦さもない。採ったばかりだから、その分は街で買うよりいいね」


 キュウが足元から鼻を伸ばした。


「これは食べますか?」


「きゅう」


 ミラが小さな葉を差し出すと、キュウは一度だけ噛み、そのまま口から落とした。


「好きではないみたいです」


「肉と同じ勢いで畑まで食われたら困るから、そこは助かるよ」


 次に雨が降った日、レオンは桶と空壺を窪地へ並べた。集めた雨水で、空けていた畝へ同じ葉物の種を蒔く。


 陽当たりは隣とほとんど変わらない。


 結果が分かったのは、その数日後だった。


 雨水の畝にも芽は出た。ただし、魔力泉を使った方はもう葉が増え始めているのに、こちらはまだ双葉が開いたばかりだった。


 ミラはしゃがみ込み、二つの畝の間へ指を置いた。


「日向に出しただけではなさそうですね」


「ああ。水で差が出てる。それに、灰を入れた方がもう一段速い」


 レオンは帳面へ日付を書いた。


「ただし、全部に灰を入れるのはまだ早い。葉物以外でも同じか見る」


 豆は十日ほどで支えへ巻きつき、根菜は三週間ほどで土の下が太り始めた。大麦も、普通の畑ならまだ背丈を比べる時期に、穂を出す準備へ入っていた。


 それでも、昨日植えて今日収穫というほどではない。


 ミラには、そのくらいの速さの方がかえって面白かった。


 朝に見た葉が夕方には少し増えている。昨日は届かなかった豆の蔓が、翌朝には一本上の縄へ絡んでいる。土の下へ隠れている根菜は、葉の開き方を見てから掘る日を考える。


 何日か見ているうちに、どの畝が水を多く欲しがるかも少しずつ分かってきた。


「そっちは昨日やっただろ」


 水桶を持ったレオンに言われ、ミラは足を止めた。


「はい。でも、こちらだけ葉の端が少し下がっています」


 レオンが近づき、しゃがんで葉を見る。


「確かに乾いてるな。土が浅いのか」


「石が多いところなので、下まで水が残らないのかもしれません」


「じゃあ水をやる前に石をどける。次も同じなら畝を少し深くする」


 二人が土を掘り始めると、キュウも隣へ来た。


 黄土色の身体は、林檎の苗を植えた日よりわずかに大きく見える。白い腹を土へ近づけ、前脚で掘ろうとしたところで、ミラが声を掛けた。


「キュウ、そこは掘らないでください。お豆の根があります」


「きゅう」


 キュウは前脚を止めた。代わりに少し離れた何も植えていない場所へ移動し、そこで穴を掘り始める。


「分かってるのか?」


「たぶん、畑の中は駄目だと覚えています」


 レオンが見ている前で、キュウは掘った土へ鼻を入れ、満足したように尻尾を振った。


 それだけではなかった。ベラが肉を切っているときは、以前のように鼻先を台へ突っ込まず、一歩手前で待つようになった。ロアンが床へリュートを置いていると、その革紐にはじゃれつくが、止められれば離れる。ミラが畑から呼べば、気になる穴があっても一度は顔を上げる。


 できる日と、できない日はまだある。それでも、一緒に暮らし始めたころより、止まるまでの時間は短くなっていた。


 その夜、帰り火の前でミラが畑の記録を書いていると、橙色の炎の上へ文字が浮かんだ。


《キュウ――継続的な対人適応を確認》


《愛嬌 Lv1 → Lv2》


 ミラは顔を上げた。


「キュウ。《愛嬌》が二になりました」


 炉のそばで丸くなっていたキュウが片目だけ開ける。


「きゅう」


「おめでとうございます」


 ロアンがリュートの弦を一つ鳴らした。


「言われてみると、さっきより少し可愛く見えるね」


「表示を見たからではないですか?」


「それを言われると自信がなくなるな」


 ミラは帳面へ《愛嬌 Lv2》と書き足した。


 キュウは何も気にしていないように、もう一度目を閉じた。


     ◇


 ひと月ほど経つころには、窪地の景色が変わっていた。


 最初は四本しかなかった畝が増え、葉物の緑、豆の支柱、大麦の列が、岩壁に囲まれた土の上へ広がっている。根菜を抜いたあとの畝へ次の種を蒔き、早く採れる葉物は二度目の収穫へ入った。


 馬房から出るバルトの糞と汚れた敷き草、畑の枯れ葉や食べられない茎は、窪地の端へ積んでいた。時間が経って黒く崩れ始めたものを少量だけ土へ混ぜてみると、炉灰ほど成長を急がせる感じはない代わりに、葉や茎がしっかりした。


 そこで畑は、魔力泉を基本に、炉灰は少量、よく崩れた肥料も少しずつ使う形へ落ち着いた。


 林檎の苗にも、同じものを控えめに与えた。


 豆のように一晩では変わらない。それでも十日ほどで新しい芽が増え、ひと月を過ぎるころには、買ってきたときより明らかに枝が伸びていた。


「三年って言われたんだよな?」


 レオンが幹の横へ立てた棒と比べる。


「そう聞いた。少なくとも今年実がつくとは言われてない」


「店の人に見せたら怒られますかね」


「たぶん先に育て方を聞かれる」


 ミラは枝の先へ触れず、少し離れて見た。


 小さな膨らみがいくつもついている。


「これ、葉っぱの芽とは形が違います」


 ベラも覗き込んだ。


「花じゃないかい?」


 三日後、その膨らみは白い花になった。


 四人とも、しばらく木の前から動かなかった。


 ロアンが最初に口を開く。


「酒になるまで、思ったより近いかもしれない」


「まず実がなるか見な」


 ベラが言ったが、顔は笑っていた。


     ◇


 それからさらに二か月ほどが過ぎた。


 収穫が増えると、今度は食べるより育つ方が速いという、少し贅沢な問題が出た。


 葉物は食事へ出しても余り、豆は乾かして袋へ入れる量が増えた。根菜は傷のないものを選んで涼しい場所へ並べ、傷ついたものから先に使う。レオンがベルクから酢を買い足すと、ベラは根菜や葉を小さな壺へ漬けた。


「食べるものがないって言ってたの、そんな前じゃないんだけどね」


 ベラは薄切りにした根菜を石台へ並べながら言った。


「今は置く場所の方を考えてる。贅沢な話だよ」


「畑を減らすか」


 レオンが帳面から顔を上げる。


「冬前に減らす必要はないよ。採れるうちに採って、保存できる形にしておく。雪が積もってから葉っぱは生えてこないだろ」


「じゃあ次の葉物は一列減らす。豆と大麦を残す」


「それでいい。あと、酢は次も買ってきて。壺も足りない」


「書いた」


 ベラの厨房では、帰り火から引いた炉口と石窯が朝から動いていた。


 薪も炭も減らない代わりに、火を使う仕事そのものが増えた。鍋では豆を煮て、隣では酢漬け用の湯を沸かし、石窯では薄く切った野菜を乾かす。


 赤褐色の髪を後ろへ束ね、古い火傷跡の残る腕をまくったベラは、強い火なら迷わず扱える。しかし、弱い火を一定に保つのは相変わらず得意ではない。


 最初のころなら、火を弱めようとして消えかけたところへ一気に戻り、鍋ごと外していた。今は一つの炉口を強めたまま、隣だけを少し落とし、その間に石窯の熱を見ている。


「ミラ、右の鍋を一度外して。左はそのままでいい」


「はい。石窯はどうしますか?」


「あと少し。乾きすぎる前に一段上へ移す」


 ミラが鍋を動かしたところで、ベラの腰の職業札が淡く光った。


「ベラさん、札が光っています」


「ん?」


 ベラは一瞬だけ手を止め、職業札を外して表示を確かめた。


「《火力制御》が二になった。なるほどね。ちょっと待ちな。今なら右だけ、もう少し落とせるかもしれない」


 ベラは自分の指先を見てから、右の炉口へ小さな炎を足した。


 火はさっきより低いところで止まり、すぐには跳ね上がらなかった。


「前より弱いところで止まっています。できるようになったんでしょうか」


「前よりはね。でも、弱い火を一日中きれいに保てる気はしないよ。鍋を動かした方が楽なときは、これからもそうする」


「技能が上がってもですか?」


「上がったのはあたしで、別人になったわけじゃないからね。できる範囲が少し広がったなら、それで十分だよ」


 ベラはそう言って、外した鍋をまた火へ戻した。


     ◇


 冷たい風が窪地へ入るようになったころ、林檎の枝に赤いものが混じり始めた。


 花が落ちたあとについた青い実は、何週間もかけて少しずつ膨らんだ。豆や葉物ほど急には変わらなかったので、ミラは毎朝見るのをやめずに済んだ。


 最初の一個を採ったのは、ベラだった。


 掌へ収まる赤い実を布で拭き、四つに切る。種の周りまで傷んでいないのを確かめてから、一切れずつ配った。


 ミラが噛むと、硬い果肉がしゃり、と割れた。


 すぐに甘い汁が舌へ広がる。


「甘いです」


「甘いね。ずいぶん甘い」


 ベラは自分の一切れをもう一度噛み、眉を上げた。


「ベルクで買う林檎より、はっきり甘いよ。水っぽくもない」


 レオンも黙って食べ、種の周りを見た。


「売るなら味は強みになる。ただ、一本しかない。まずはどれだけ採れるか数える」


「食べる前に数えるんだね」


 ロアンが言う。


「お前は数える前に飲むからだ」


「まだ酒じゃないよ」


「だから今のうちに止めてる」


 その年、若い林檎の木から採れた実は四十個を少し超えた。


 普通なら苗を植えた年に実がつくこと自体がおかしい。そのうえ、どの実も小さすぎることはなく、傷んだものを除いても、食べるには十分な量が残った。


 最初の何個かはそのまま食べた。


 ベラが薄切りを石窯で焼き、少量の粉を使って包み焼きにもした。それでも全部を食べ切る前に柔らかくなる実が出始める。


 ロアンが樽を見た。


「酒にしよう」


「言うと思ったよ」


 ベラは即答した。


「でも今回は賛成。煮詰めてもいいけど、この甘さなら酒にした方が違いが分かりやすい」


「僕の欲望と保存の必要が、ついに同じ方向を向いた」


「威張るところじゃない」


 林檎酒そのものは、ベルクにもある。


 ただし、葡萄酒ほど一般的ではない。ロアンによれば、林檎酒を出す酒場でも、一樽を一年中置いている店は多くないという。


「作り方は知ってるんですか?」


 ミラが聞くと、ロアンは首を横へ振った。


「飲み方ならかなり詳しい。造り方は、潰して果汁を取って、樽へ入れて待つくらいしか知らないよ」


「それを知ってるとは言わないね」


 ベラは林檎を洗いながら言った。


「宿の厨房でも果実酒を仕込むことはあったけど、あたしは料理の方だった。腐らせない扱いなら分かるけど、何日待てばいいかまでは知らないよ」


「では、試しますか?」


「そうするしかないね。大きい樽で全部駄目にする前に、小さい方で失敗したほうがいいね」


 四人は林檎を木桶の中で潰し、布へ包んだ果肉を少しずつ捻って果汁を絞った。道具らしい道具はないので時間はかかったが、桶の底には甘い匂いのする薄金色の汁が溜まっていく。


 ベラは果汁を小壺へ三つに分けた。一つはそのまま、一つは一度煮立てて冷まし、もう一つには洗い方を軽くした皮つきの果肉を多めに混ぜる。


 残りは、以前《帰還》の荷物を試したときにも使った空の小樽へ入れ、口へ清潔な布を掛けた。


 ミラは壺へ日付と中身を書いた札を結んだ。


 三日目、そのままの壺には細かな泡が出た。皮を多く入れた方は、それより勢いよく泡立っている。煮立てた果汁は、甘い匂いのままだった。


 五日目には、小樽の布が内側からわずかに持ち上がった。


 ベラが重石を載せようとすると、ロアンが止めた。


「完全には塞がない方がいい。中から押してる」


「虫を入れる気かい?」


「布は残す。でも重石まで載せたら、逃げる場所がなくなるだろ。昨日より泡も増えてる」


 ロアンは樽へ耳を当てたあと、今度は両手で胴を包むように触れた。


「それに、少し温かい」


 ミラも触ってみた。帰り火のそばの石ほどではないが、同じ場所に置いた空樽より、たしかにぬるい。


「昨日も温かかったですか?」


「昨日は触ってない。音ばかり聞いてた」


「じゃあ、今日から触りな。酒は耳だけでできないよ」


 ベラは重石をやめ、布を二重にして縄で縛った。虫を入りにくくしながら、中から出るものは逃がす。


 それから毎朝、ロアンが三つの壺と樽を確かめるようになった。


 まず耳を当てて泡の間隔を聞く。次に樽の側面へ掌を置き、前の日より温かいか冷たいか確かめる。布の膨らみと表面の泡を見て、蓋を開けたら匂いを嗅ぎ、清潔な匙でごく少量だけ味を見る。


 ベラは膜や濁り、嫌な臭いがないかを確かめる。ミラは日付と変化を書き、レオンは使った林檎の数と、捨てた量まで帳面へ付けた。


 七日目の朝、帰り火に近い側へ置いていた小樽だけ、様子が違った。


「これ、昨日より温かい」


 ロアンは掌を離さずに言った。


 耳を当てると、眉を寄せる。


「泡も細かい。間がほとんどない。匂いも昨日より強いな」


 少量を舌へ乗せ、しばらく考えた。


「甘さが急に減ってる。ほかの壺より進みすぎてる気がする」


「腐ってる匂いではないね」


 ベラも確かめる。


「でも、このままここへ置く理由もない。どうする?」


 ロアンは樽と帰り火の距離を見た。


「少し涼しい方へ動かしたい。音も温かさも、こいつだけ先へ行きすぎてる」


 四人で小樽を洞窟の奥寄りへ移した。


 翌朝、ロアンは真っ先にその樽へ触れた。


「昨日ほど熱くない」


 耳を当て、匂いを嗅ぎ、匙を一度だけ口へ運ぶ。


「泡も少し落ち着いた。甘さの減り方も、昨日ほど急じゃない」


「なら、場所を変えた意味はありそうだね」


 ベラが言った。


「一回で決めつけないで、次も同じなら覚えときな」


「分かった。樽は音だけじゃなく、置く場所にも機嫌があるらしい」


「酒に機嫌を持たせるな」


 八日目、皮を多く入れた壺には青白い膜が浮いた。


 ベラが一度匂いを嗅いで、すぐ顔をしかめる。


「これは駄目だね。酸っぱいだけじゃない」


 ロアンも匂いを嗅ぎ、表面を見た。


「昨日から泡が減ってたのに、温かさは残ってた。匂いも少し嫌だった。さっきの樽とは違う止まり方だ」


「今なら違いが分かるのかい?」


「昨日までは、何が悪い違いなのか自信がなかった。これで一つ覚えた」


「なら次は、膜が出る前に言いな」


 失敗した壺の中身は畑から離れた場所へ埋めた。


 煮立てた果汁は十日経ってもほとんど変わらない。そのままの壺と、場所を動かした小樽だけが、甘い匂いの中へ少しずつ鋭さを混ぜていった。


 十日目の朝、ロアンはいつもの順番で小樽を見た。


 掌を当てる。耳をつける。布の膨らみを見る。匂いを嗅ぎ、ほんの少し味を見る。


「昨日より泡の間が長い。温かさも落ちてる。甘さはまだあるけど、最初みたいじゃない」


 ミラは前の日の頁を開いた。


「昨日は、泡が一息の間に八回くらいと書いてあります」


「今日は四つか五つ。前なら音だけ聞いて終わってたけど、今は、温かさと匂いと甘さも同じ方向へ動いてるのが分かる」


「同じ方向ですか?」


「発酵が進むと、しばらくは温かくなって泡が増えて、甘さが減る。落ち着いてくると泡も熱も弱くなる。たぶん、そういう流れなんだと思う。まだ十日しか見てないから、別の果物なら違うかもしれないけど」


 そこで、ロアンの職業札が淡く光った。


《発酵管理 Lv1》


 ロアンは表示を見て、しばらく黙った。


「酒を飲んで生きてきたら、とうとう技能になった」


「違うよ」


 ベラが即座に返した。


「十日以上、毎朝起きて、触って、嗅いで、味を見て、樽まで動かしたからだよ。飲んだ量を実績に混ぜるんじゃない」


「言われてみると、僕の人生でもかなり珍しい期間だね」


 ロアンはもう一度、小樽へ掌を当てた。


「急に酒造りを全部覚えた感じはしない。でも、音と温度と匂いと味が、前より一つのものとして見える。次に違う仕込みをしたら、また確かめる必要はありそうだ」


 レオンは帳面へ《発酵管理 Lv1》と書き足した。


「なら次から樽の状態はお前が見る。捨てるか迷ったらベラと決めろ」


 ロアンが顔を上げる。


「僕が?」


「十日見続けて技能まで出た奴が、毎回俺を呼ぶ方が無駄だ」


「任されるのは嫌いじゃないよ。飲む量まで任せてもらえるなら、もっとやる気が出る」


「そこだけは任せん」


「惜しいな」


     ◇


 二日後、泡はほとんど聞こえなくなった。


 ロアンがもう一度匂いと味を確かめ、ベラも問題がないと判断したところで、最初の林檎酒を小さな木杯へ分けた。


 色は薄い金色で、少しだけ濁っている。


 ミラは舐めるくらいの量を口へ入れた。


 最初に林檎の甘い香りが来た。実をかじったときほど甘くはなく、舌の横へ酸味が残る。飲み込んだあと、喉から胸へ少し熱が落ちた。


「林檎なのに、温かくなります」


「酒だからね」


 ロアンは自分の杯を一口飲み、すぐにもう一度少量を含んだ。今度は飲み込まず、しばらく舌の上で転がす。


 青緑の目が少し見開かれた。


「これ、林檎酒にしては強すぎる」


「失敗かい?」


「逆。普通の林檎酒はエールくらいだよ。これは葡萄酒と同じくらいある。甘いから最初は軽く感じるのに、飲み込んだあとでちゃんと来る」


 ベラも一口飲み、鼻から息を抜いた。


「確かに強いね。林檎の匂いが残ってるから飲みやすいけど、調子に乗ったら立てなくなるやつだ」


 レオンは杯の中を見たあと、短く言った。


「売れる」


 ロアンが杯を抱え込むようにした。


「その言葉を待ってなかった」


「売るとは言ってない。まだ一樽目だ。次も同じものができるか分からん」


「今、とてもいいことを言ったね」


「同じ品質を作れると確認してから商品にする。それまでは記録を取る」


「最後までいい話ではなかった」


 ミラは帳面へ《林檎酒 一回目》と書き、その下へ味と日数を記した。


「残りはどうしますか?」


 レオンが答える前に、ロアンが身を乗り出す。


「住人用と書こう」


「まだ量を決めてない」


「では、《住人用――量は後で決める》で」


「勝手に帳面を増やすな」


 ミラは少し考え、そのまま書いた。


《住人用――量は後で決める》


 レオンが眉を寄せる。


「……書くのが早い」


「売らない分も残すんですよね?」


「……残す」


「では、間違っていません」


 ロアンが満足そうに杯を上げた。


 その後、ロアンは大麦でも酒を仕込んだ。こちらは林檎酒ほど珍しいものにはならなかったが、何度か試すうちに、洞窟の食卓で飲むには十分な麦酒になった。


 林檎酒は少しずつ大事に飲み、麦酒は食事のときに小さな杯で飲む。


 酒を飲まない日のロアンがなくなったわけではない。けれど、酒があるから買いに行く理由はかなり減った。


     ◇


 秋が深まるにつれて、窪地へ陽が入る時間は短くなった。


 葉物の伸びは鈍り、大麦の最後の列を刈るころには、朝の土が薄く白くなる日も増えた。


 畑仕事が減る前に、できることは済ませた。


 豆は乾かして袋へ入れ、根菜は傷のないものを選んで保管する。葉物の一部は乾燥させ、残りはレオンが買ってきた酢と塩で壺へ漬けた。


 レオンは青魔鉄を一度に出しすぎないよう量を抑えながら、雪が来る前に何度かベルクへ往復した。


 小麦粉、塩、油、酢、保存肉、バルト用の飼葉。石鹸や針糸など、冬の途中で切れると困るものも補充する。


 最後の大きな買い物は、四人分の厚い寝具だった。


 荷車から降ろされた包みを見て、ミラは自分の分まであるとは思わず、一つをベラの部屋へ運ぼうとした。


「それはお前のだ」


 レオンに言われ、足を止める。


「私の分もですか? 今の寝具でも寒くありませんよ」


「寒くないのと、気持ちよく寝られるのは別だ。今までの毛布は下へ敷け」


 ミラは厚い布越しに中身を押した。柔らかな詰め物がゆっくり戻る。


「ずいぶん厚いです」


「冬物だからな」


 ロアンも自分の寝具を抱え、顔を埋めた。


「これは危険だね。朝、起きられなくなる」


「今も起きてないだろ」


 ベラが言う。


「今までは寝具のせいにできなかった。これからは理由ができる」


「起こすとき一緒に引き剥がしてやるよ」


 キュウが新しい寝具へ鼻を押しつけようとしたので、ミラが先に抱え直した。


「キュウのものではありませんよ」


「きゅう」


「キュウはお部屋に敷いてある布を使ってください。前より身体が大きくなったので、狭くなったら増やしましょう」


 キュウは左角の欠けた頭を傾けたあと、寝具よりミラの手へ鼻を押しつけた。


     ◇


 最初のまとまった雪が降った夜、窪地は音まで白くなったようだった。


 入口から見える畑の畝は雪の下へ消え、林檎の若木にも白いものが積もっている。昼のうちに枝へ重く載った分だけ払ったが、夜になってまた細かな雪が降り始めていた。


 行商も、しばらく休みになった。


 南橋が直っていても、雪の街道を荷車で往復する理由はない。食料も日用品も足りている。


 洞窟の中では、帰り火がいつもと変わらず燃えていた。


 燃料を足す必要はなく、橙色の火の周りには柔らかな暖かさが溜まっている。夕食には乾燥野菜と豆の煮込み、酢漬けの根菜、保存肉、石窯で焼いたパンが並んだ。小さな壺には麦酒もある。


 バルトは入口近くの馬房で飼葉を食べていた。鹿毛の身体には冬毛が増え、長い白い鬣だけが暗い馬房の中でも目立っている。


 キュウは林檎の苗を植えたころより一回り大きくなった。


 それでも丸い身体つきは変わらず、食事を終えると白い腹を見せるように帰り火の脇へ転がる。ベラに肉を待たされることにも慣れ、畑の縄を越えれば呼び戻されることも覚えた。身体が大きくなったぶん、尻尾が床を叩く音だけは以前より立派になっている。


 食後、ロアンが壁際からリュートを取った。長い栗色の髪を革紐でゆるく束ね直し、膝へ小ぶりの胴を載せる。


「外へ行けない夜くらい、少し弾こうか。働く理由が一つ減ったんだから、遊ぶ理由を増やしてもいいだろう」


「元から働く理由を減らすのは得意だったじゃないか」


 ベラは言ったが、片づけを急がなかった。


 ロアンが一曲弾いたあと、ミラへリュートを渡す。


「同じところをやってみよう。最初の四つだけでいい」


 ミラは胴を抱えた。


 最初のころより、もう腕の中で転がらない。指を置く位置も、毎回ロアンへ聞かなくてよくなった。


 四つの音を順に鳴らす。


 三つ目で少し弦を引っかけたが、止まらず最後まで続けた。


「今日は昨日より止まらなかったね」


「はい。でも、まだ技能は出ていません」


 ミラは職業札を見た。


 《火起こし》《野草知識》《応急手当》。音楽に関わるものは、やはりない。


 ロアンは札ではなく、ミラの指を見ていた。


「技能が出たかどうかは知らないけど、前より弾けてるよ。最初は一音出すたびに、リュートの方まで緊張してたからね」


「楽器も緊張するんですか?」


「たとえだよ」


「では、前より弾けているなら十分です」


 ミラはもう一度、今度は同じ四音を少し速く鳴らした。


 その途中で、ベラが立ち上がった。


「ちょっと待ちな。あんた達だけ音を出してると、聞いてる方が暇だね」


 厨房へ入ったベラは、空の木箱を一つ抱えて戻ってきた。さらに使っていない鍋を二つ伏せ、木匙を両手に持つ。


「料理道具ですよ」


「今は空だよ。割らなきゃ問題ない」


 ベラは箱の横を木匙で叩いた。


 ぼん、と低い音がする。


 続けて大きい鍋、小さい鍋を叩くと、かん、こん、と高さの違う音が返った。


 ロアンが目を輝かせた。


「もう一回やって」


「なんであんたに命令されるんだい」


「今の三つ、使える。もう一回だけ」


 ベラは同じ順番で叩いた。


 ロアンはミラからリュートを受け取り、その拍子へ短い旋律を重ねた。


 ぼん、かん、こん。


 弦が追いかける。


 ベラは二度目から少し順番を変え、ロアンも合わせて音を変える。


 ミラは手を叩こうとして、一拍遅れた。


 キュウが顔を上げる。


「きゅう」


 ちょうど、ベラの箱と箱の間だった。


 ロアンが弾きながら笑う。


「キュウ、その位置いいね。次もそこ」


「きゅう」


 今度は少し早かった。


「惜しい」


「本人は参加してるつもりなんですかね」


「楽しそうなら、参加でいいんじゃないかい?」


 ベラは木匙を回し、もう一度箱を叩いた。


 レオンだけが少し離れたところで帳面を閉じた。


「ずいぶん騒がしくなったな」


「レオンも来なよ」


 ロアンが言う。


「俺はいい」


「弾けとは言ってない。歌えばいいんだ」


「もっと嫌だ」


 ベラの手が止まった。


「そこまで嫌がると、逆に聞きたくなるね」


「聞かない方がいい」


「声はいいんだから、一曲くらい歌えるだろう?」


 ロアンが言うと、レオンの右眉の古傷がわずかに寄った。


「なぜ声がいいと歌えることになる」


「普通は、少しくらい期待するよ」


「期待するな」


 ミラはレオンを見た。


「私も聞いてみたいです。レオンさんの歌は、まだ聞いたことがありません」


 レオンはしばらく黙っていた。


 ベラは木匙を構えたまま待ち、ロアンはリュートを抱えて笑っている。


「……ミラまで言うのか」


「はい。一度だけでいいので」


 レオンは息を吐いた。


「一度だけだぞ」


「十分」


 ロアンは低い音から始まる簡単な曲を選び、最初の音を鳴らした。


「ここ。最初はこの音」


 レオンが息を吸う。


 最初の一声が洞窟へ落ちた。


 低く、深い声だった。


 普段の短い返事より響きが長く、石壁へ当たって戻ると、胸の奥で鳴るような厚みがある。


 ミラは思わず目を大きくした。


「すごくいい声です」


「ほら、言っただろ」


 ロアンが嬉しそうに弦を鳴らし、次の音へ進んだ。


 レオンも歌う。


 二つ目の音が、少し外れた。


 ロアンの指が一瞬迷った。


 三つ目。


 今度は、旋律が行くはずの場所から明らかに違う方向へ飛んだ。


 ベラの木匙が止まる。


 四つ目で、ロアンまで演奏を止めた。


「……レオン」


「何だ」


「待って。いま僕が間違えたのかと思った」


「違うのか?」


「違う。僕は合ってた」


 ベラが口元を押さえた。


「声だけ聞いたら、ものすごく格好いいのにね」


「だから聞くなと言った」


「自分で分かってたんですか?」


 ミラが聞くと、レオンは少し嫌そうな顔をした。


「昔から、歌うと途中で止められる」


「誰にですか?」


「親父にも、商隊の連中にも、酒場でもだ」


 ロアンが額へ手を当てた。


「三か所で止められて、それでも原因を調べなかったのかい?」


「困らんからな」


「ものすごくレオンらしい答えだね」


 ベラが耐えきれず、声を上げて笑った。


 キュウは何が起きたのか分からないらしく、レオンとロアンを交互に見たあと、


「きゅう」


 と鳴いた。


 その声が、さっきレオンの外した音よりずっとロアンの弾いた音に近かった。


 ロアンがリュートを抱えたまま俯いた。


「キュウの方が合ってる」


 そこで、ミラはとうとう耐えられなくなった。


 最初は口元を両手で押さえた。


 けれど、肩が一度震えると、もう止まらなかった。


「ふ、ふふ……ごめんなさい、レオンさん。でも……」


「謝るなら笑うな」


 その返事で、さらに駄目になった。


 ミラの丸く大きな桃色の目が、頬に押し上げられて細く垂れた。いつも周囲を追いかけて動いている目は、もうほとんど開いていない。目尻へ溜まった涙が一粒こぼれると、そのまま頬を伝った。


 息を吸おうとして顔を上げる。


 短い赤毛が頬へ落ちた。


 向かいでは、レオンが本気で困ったように眉を寄せている。その顔を見た途端、ミラの口元がまた大きく崩れた。


 声を押さえることもできず、身体を折るように笑う。頬は赤く、鼻先まで少し色づき、次々に浮かぶ涙を拭っても間に合わない。肩が震えるたび赤い髪が揺れ、途中からは何を言おうとしても息だけが漏れた。


 帰り火の橙色が揺れる中で、ミラは目も口元もくしゃくしゃに崩し、頬を涙で濡らしたまま、息が続かなくなるほど笑っていた。挿絵(By みてみん)

挿絵(By みてみん)

第一章を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

「役立たず」と言われて一人で街を出たミラは、冬を迎える頃には、帰り火のそばで息ができなくなるほど笑っていました。

ここまで読んで「続きも読みたい」と思っていただけたら、ぜひブックマークを。

第一章を楽しんでいただけたら、評価で応援していただけると、とても励みになります。

第二章では、この洞窟でできたものが少しずつ外の世界へ出ていきます。


現在、第四章終了分まで執筆済みです。

第二章からは、毎日12:10と21:10の1日2話投稿で進めます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。