炉守りは豆の芽を見つけます
リュートの細い余韻が岩壁から消えるころ、ミラは楽器をロアンへ返し、帰り火の前へ座り直した。
食卓では、ベラがまだロアンへ借金が消えたわけじゃないと念を押している。ロアンはそれを聞きながら、洞窟の壁を見回していた。
ミラは炉の前へ膝をついた。
「ベラさんとロアンさんが、ここに住みたいそうです」
橙色の炎が一度だけ高くなり、ミラの認識へ文字が浮かぶ。
《帰属希望者を確認しました》
《ベラ》
《ロアン》
《本人へ帰属確認を提示します》
続いて、ミラの視界にも新しい文字が浮かんだ。
《この場所への帰属を申請しますか?》
《はい》
《いいえ》
ベラが目を瞬き、胸元の職業札へ手をやった。
「……なんか出たよ」
ミラが頷く。
「私にも見えています」
ベラは迷わず《はい》へ指を触れた。
「今朝決めたよ。あたしはここで料理をするし、外へ出ても戻ってくる」
ミラの側でも、《はい》が選ばれる。
《ベラ――帰属選択を確認》
《炉守りの受容を確認》
ミラも頷き、《受容します》へ触れた。
「私も、ベラさんにいてほしいです」
《第四炉縁者――ベラを登録します》
帰り火が、ふっと明るくなった。
次の瞬間、洞窟の奥で岩が擦れる音がした。
「今の何だい?」
「たぶん、お部屋です」
「たぶんで壁が動くのかい?」
ベラが先に立ち、ミラたちもあとを追った。
レオンの部屋より少し奥、これまで平らな岩壁しかなかった場所に、人ひとりが通れる開口が二つできていた。一つは小さな石室で、壁際に寝台代わりの張り出しと、荷物を置けそうな窪みがある。
もう一つは、それよりずっと広かった。
腰ほどの高さの石台が二面に伸び、片側には水路から分かれた細い流れと排水の溝がある。奥には炉口が二つ並び、その横には丸い口を持つ石窯が壁へ埋め込まれていた。煙道は天井へ抜け、火から外した鍋を置ける平たい石台まである。
棚も鍋も包丁もない。けれど、昨日までベラが狭いと言っていた場所は、ほとんどそのまま別の形になっていた。
ベラは入口で立ち止まった。
「……これ、厨房じゃないか」
「はい。たぶん、みんなで使う厨房です」
ベラは石台へ掌を置き、次に石窯の中を覗いた。赤褐色の髪が肩から落ち、古い火傷跡の残る腕が石窯の口へ入る。
「奥行きもある。鍋を外す場所もあるし、水もここまで来てる。昨日、あたしが欲しいって言ったところまで作ったのかい?」
「帰り火は、必要なものを見ているみたいです」
「見てるなら、棚も欲しいって伝えておくれ」
「棚板までは作ってくれないと思います。キュウのお部屋も、最初は石の張り出しだけでした」
「そこから先は自分でやれってことか。まあ、そのくらいがちょうどいいね」
言いながらも、ベラは入口へ戻ろうとはしなかった。昨日まで使っていた鉄鍋を一つ抱えてくると、二つ並ぶ炉口の片方へ置き、火から外したときの石台へ移してみる。鍋底は安定し、柄も壁へ当たらない。
今度は水路から流れ込む水を両手ですくい、洗い場の石へ広げてみた。水は浅い窪みを通り、端の排水溝へ素直に抜けていく。ベラは指先で残った雫を寄せ、汚れた水が石台へ溜まらないことを確かめた。
「排水まである。ここなら肉を切ったあとも洗いやすいね。石窯は……」
奥へ腕を入れ、手のひらを返す。
「平たいパンなら何枚か一度に焼ける。高さもあるから、鍋ごと入れる料理も試せそうだ」
ミラはベラが置いた鍋を見た。
「もう使い方が決まっているんですね」
「場所ができたら、まず自分の手が届くか確かめるだろ。棚はこの壁へ二段。包丁は水のすぐ横じゃなく、もう少し乾くところがいい」
「棚は自分で付けるんですか?」
「そこまで炉にやってもらったら、あたしの仕事がなくなるよ」
ベラは石窯から顔を出し、今度は口元を隠さず笑った。
「これならパンも焼ける。鍋を二つ使っても邪魔にならない。明日の朝から試すよ」
「ベラだけずいぶん豪華だね。僕も住むと言ったんだけど」
ロアンが入口から覗き込んだ。
「厨房はあたしの部屋じゃないよ。あんたも食うんだろ」
「もちろん食べる」
「なら一部はあんたの設備だよ。洗い物のところだけね」
「急に僕の持ち分が狭くなった」
ミラは笑いながら、帰り火へ戻った。
ロアンが炉の前へ戻ると、その職業札にも同じ確認が出たらしい。さっきまでより少しだけ真面目な顔になり、一度、ミラの手にあるリュートを見た。
「僕も《はい》でいい。仕事が決まったわけじゃないし、借金もあるけど、それと住みたい場所は別だろう。僕はここへ戻ってきたい」
ロアンが選ぶと、帰り火の文字が切り替わった。
《ロアン――帰属選択を確認》
《炉守りの受容を確認》
ミラはもう一度《受容します》へ触れた。
「私も、ロアンさんにいてほしいです」
《第五炉縁者――ロアンを登録します》
また岩が動き、今度は新しい石室が一つだけ現れた。ロアンは自分の部屋を見てから、ベラの厨房を振り返った。
「本当に僕は部屋だけなんだね」
ベラが先に寝台の張り出しを叩いた。
「雨風が入らなくて、酒場の床じゃない。あんたには立派すぎるよ」
「僕の新居祝いにしては厳しいね」
「借金を返したら優しくしてやるよ」
◇
翌朝、ベラは新しい厨房で石窯の口を覗き込みながら、朝食より先に火の入り方を確かめていた。
「先に食ってからにしろ。腹を減らしたまま新しい窯をいじると、火より先に判断が雑になる」
レオンに言われて、ベラはようやく石台から離れた。
「料理人に新しい窯を渡して、朝まで待てたんだ。十分我慢した方だよ」
「そこは認める。だから朝飯まで食えば、あとは好きに試していい」
「最初からそう言えばいいんだよ」
四人で朝食を済ませたあと、レオンは食卓の水気を布で拭き、自分の職業札を外した。
「これから同じ場所で暮らすなら、危ないときや仕事で互いの技能を当てにすることもある。全部さらす必要はないし、見せたくないものまで見せなくていい。ただ、職名と普段使う技能くらいは知っておいた方が判断しやすい」
レオンは札を卓へ置いた。
「まず俺から見せる。嫌なら二人は断っていい」
「そこまで言われて、あたしだけ隠す方が気まずいね。あとで見せるよ」
ベラが答え、ロアンも肩をすくめた。
「僕も構わない。隠したところで《吟遊詩人》なのは楽器を見れば分かるしね」
ミラも自分の札を外した。
レオンの《旅商人》には《素材鑑定》《剣術》《騎乗》《野営》《解体》《商談》《危険察知》が並ぶ。《帰還》は、やはりどこにも表示されない。
ミラの札は《無役》のままで、《火起こし》《野草知識》《応急手当》が見える。《欠け見》は表示されなかった。
「ベルクからここへ来たときの《帰還》が、札にないのかい?」
ベラがレオンの札を覗いた。
「ない。俺も理由は分からん」
「私の《欠け見》も同じです。帰り火が作った技能は、普通の職業札には出ないことがあるみたいです」
「普通じゃない技能を普通の顔で使ってるんだね、君たち」
ロアンが笑って、自分の札を卓へ置いた。
《職名――吟遊詩人》
《弦奏 Lv4》
《歌唱 Lv3》
《聴音 Lv5》
《話術 Lv3》
《作曲 Lv2》
ベラが真っ先に《聴音》を指した。
「五。鍋の音が分かったのはこれか」
「たぶんね。鍋を聞こうとして育てた技能ではないけど、違う音が混じると気になるんだ」
「歌より耳の方が上なんだね」
「それを言うと少し傷つくな。歌も悪くないよ」
「昨日はリュートしか弾かなかったじゃないか」
「歌うと食後の静かな気分が壊れると思って遠慮したんだよ」
「そういうことにしとくよ」
ベラも札を置いた。
《職名――爆炎術師》
《爆炎 Lv4》
《火力増幅 Lv3》
《耐熱 Lv3》
《調理 Lv4》
《火力制御 Lv1》
ロアンは一覧を見て、しばらく黙った。
「本当に、強くする方へ偏ってるね」
「見れば分かることを言わなくていいよ」
「でも《調理》も四だ。職名が何でも、やってきたことはちゃんと残るんだね」
ベラはそこで少しだけ表情を緩めた。
「そっちは嫌いじゃないよ」
ロアンが今度はミラの札へ目を向ける。
「昨日、三回は音を出したのに、音楽の技能はまだないんだね」
「三回で付いたら、ロアンさんの《弦奏 Lv4》が少し悲しくなりませんか?」
「その考え方はとても優しい。僕は安心して君に教えられるよ」
◇
その日のうちに、レオンは二人へ洞窟の秘密を見せた。
魔力泉の水がただの井戸水ではないこと。帰り火は炉縁者が増えると生活に必要な空間を作ること。そして、窪地の奥にある青黒い鉱脈から、ベルクで高く売れる青魔鉄が採れること。
ベラは鉱脈を見上げ、昨日まで知らされなかった理由を一度で理解したようだった。
「これが、場所を言えなかった理由かい」
「これだけじゃない。魔力泉も帰り火も知られたくない」
レオンは鉱脈から欠けた石を拾った。
「前にベルクで売ったのも、ここから掘った」
ロアンが青い部分を覗き込む。
「僕、酒場で青魔鉄が品薄だって話を聞いたことがあるよ。まさか、その一部を君が持ち込んでたとは思わなかった」
「南橋が止まって相場が上がってた。橋が直れば普通に戻る」
「普通でも安くはないんだろう?」
「この品質ならな」
ベラは鉱脈より、少し離れた魔力泉の方を見た。
「秘密にするよ。厨房まで兵隊に覗かれるのは御免だ」
「僕も黙っておく。秘密の洞窟という言葉は吟遊詩人にはかなり魅力的だけど、歌にしたら住む場所を失うからね」
「理由はそれでいい。外では黙っててくれ」
そのあと、話は食料へ戻った。
ベラが新しい厨房へ移した袋を数えると、保存の利くものはまだあるが、生の野菜はほとんどない。
「葉物と根菜、それに卵。乳も《帰還》で持ち帰れるなら少し試したい。あと、食べるだけじゃなくて、種と苗も欲しいね」
「畑をやるのか?」
「場所は外にいくらでもあるだろ。毎回ベルクから葉っぱを運ぶより、自分で育てられるならその方がいい」
レオンは少し考えたあと、青魔鉄の鉱脈へ目を戻した。
「ベルクへ行くなら、野菜だけ積んで四日歩くのは割に合わん。青魔鉄も持っていく。前と同じくらいの二袋なら、普通の相場でも売れる」
「また掘るんですか?」
「今日やる。ただ、ベルクへ出るのは《帰還》が戻ってからだ」
「あと何日ですか?」
「三日くらいだな。帰りに使えるかだけじゃない。街道で何かあったとき、逃げ道が使えない状態で出る気はない」
その日の午後までかけて、レオンとミラは高品位の鉱石を二袋ぶん揃え、レオンが《素材鑑定》で混じりの多い石を外した。青魔鉄は前回と同じ銀貨十一枚でレオンが買い取り、生鮮食料や種苗は共同生活の買い物として別に帳面へ付けた。
ベラはその間に買い物の希望を書き出した。ロアンが横から酒を加えようとして木炭を取り上げられると、「酒も飲料だと思うんだけど」と抗議したが、ベラは「水がある。これは食料と作付けの帳面だよ」と取り合わなかった。
ベラの試用給金についても、七日目までは約束どおり一日銅貨八十枚。八日目以降は、レオンがベルクから戻るまで同じ日額を仮の条件とし、戻った日に正式な条件を決めて差額を精算すると帳面へ残した。ベラも、それなら構わないと了承した。
買い物の紙を覗いていたロアンが、荷車の脇へ腰を下ろした。
「僕もベルクまで行こうか。どうせ道は知ってるし、街でレオンが店へ入ってる間、バルトと荷を見ていられる。借金が減るほど立派な仕事じゃなくても、寝床をもらった翌日に一日中リュートを弾いてるよりは感じがいいだろう?」
レオンは一度ロアンを見た。
「往路は四日か五日だぞ。途中で嫌になっても酒場はない」
「旅そのものは嫌いじゃないよ。僕は今まで、その旅先で酒場を見つけるのが得意だっただけだ」
「なら来てくれ。荷を見てくれる人間が一人いると、買い付けは早く済む。給金扱いにする仕事ではないが、道中の飯と宿はこっちで持つ」
「それなら十分。ベラへの借金は減らないけど、増えもしない」
「それをまず続けな」
ベラが言った。
それから三日、レオンは街道へ出なかった。
荷車へ積む物を揃え、旅糧を数え、ベラが書いた買い物の紙を帳面へ写す。その間も毎朝《帰還》を確かめたが、二日目までは、そこへ意識を向けても閉じた感覚が残っていた。
三日目の朝、それが消えた。
レオンは少しの間だけ感覚を確かめてから、荷車の縄を締め直した。
「戻った。明日の朝に出る」
「使えるんですね」
「ああ。使わずに済むならそれでいい。だが、使えない状態で街道へ出る理由もない」
翌朝、レオンとロアンは二袋の青魔鉄を荷車へ積み、バルトを連れてベルクへ向かった。
南橋が直っていればベルクまで四日、まだなら五日かかる。
帰りは、ベルクから《帰還》を試す。
「東門の外まで行ってから使う」
出発前、レオンが言った。
「前に帰った場所より、洞窟から少し遠くなる。届けばベルクの東側までは範囲内だ」
「届かなかったら?」
ミラが聞くと、レオンは荷車の縄を締め直した。
「西へ戻って、前に通った場所から試す。それでも駄目なら普通に帰る。食い物はその分も持ってるから、そこは心配しなくていい」
「では、気をつけて行ってきてください」
「ああ。行ってくる」
ロアンも荷車へ乗る前にリュートの革紐を肩へ掛け直した。
「ミラ、帰ったら続きをやろう。僕がいない間に勝手に上手くならないでくれよ」
「リュートがないので、たぶん大丈夫です」
「安心した」
「何に安心してるんだい。さっさと行きな」
ベラに追われるように、二人と一頭は窪地を出ていった。
◇
レオンたちがいない三日間、洞窟は少し静かになった。
ベラは新しい厨房へ鍋や包丁を運び、ミラと一緒に石窯へ入れる薪の長さを揃えた。キュウは人が減ったぶんベラの近くにいる時間が増え、バルトの馬房が空いているのだけは、ミラには少し落ち着かなかった。
四日目の朝、ベラは夕食用の乾燥豆を鉢へ入れ、魔力泉の水を張った。洞窟の中は冷えるので、今日は少し早く戻したいと言って、鉢を入口近くの陽が当たる石台へ置く。
「夕方までには上げるよ。長く浸けすぎると皮が割れるからね」
「共同寮を出る日に、私も同じことを言いました」
「誰に?」
「寮長さんに。追い出される話をしている途中で、豆のことを思い出して」
ベラが手を止めた。
「……あんた、追い出される日に豆の心配してたのかい?」
「夕食に使う予定でしたから」
「座りな。ちょっと最初から聞きたい」
そこから、話が長くなった。
ミラは東共同寮で半年暮らしていたこと、朝の集合に遅れ、配膳を遅らせ、洗濯物を取り違え、薪を決められた数だけ運べなかったことを話した。
「芋を同じ大きさに切ってたら、昼の鐘が鳴ったこともあります」
「それは料理人としては分からなくもないけど、三十二人分を待たせたら怒られるね」
「はい。そこは言い訳がありません」
「虫食いの薪を見つけて止まったのは?」
「倉庫へ入れたら、ほかの薪にも虫が移ると思いました」
「そっちは先に誰か呼びなよ」
「今ならそう思います」
ベラは呆れながらも笑っていた。笑うと、薄いそばかすの散った頬が上がり、濃い琥珀色の目が少し細くなる。
「で、職名が《無役》で、共同寮も出されて、ラトスへ行く途中で道を間違えて、この洞窟へ落ちた?」
「はい。落ちなかったら、ここは見つけていませんでした」
「運がいいのか悪いのか分からないね」
「私は、今は良かったと思っています」
ミラがそう言うと、ベラは少しだけ目を細めた。
「そう言えるなら、まあいいか」
今度はミラが聞いた。
「ベラさんは、ロアンさんとは長いんですか?」
「長いってほどじゃないよ。ベルクへ来る前の街で知り合ったんだ。あいつが『ベルクに料理人の働き口がある。店の人間とは長い付き合いだから話もできる』って言うからね」
「本当にあったんですか?」
「あったにはあったよ。そいつは三年前に店を辞めて、北の街で食堂を開いてたけどね」
ミラは少し考えた。
「ロアンさんは、それを知らなかったんですか?」
「本人は『僕も昨日知った』って言ってたよ。嘘じゃないのが余計に腹立つだろ」
「はい。少しだけ」
「道中の宿代も飯代もあたし持ち。着いたら仕事の話は外れてる。本人は酒場で飲む。気づいたら借金まで増えてる。普通ならそこで縁を切るところだよ」
「でも、切らなかったんですね」
「放っとくと本当にどこかで野垂れ死にしそうだったからね。それに、あいつは腹が立つところばっかりじゃない。歌は上手いし、人の話を聞くのも上手い。落ち込んでる客がいると、頼まれてもないのに明るい曲へ変えたりする」
「優しいんですね」
「優しいっていうか、放っとけないんだろうね。自分の明日のことは放っとくくせに」
二人で笑った。
そこでベラが、ふとミラの顔を見た。
「そういえば、あんたとレオンはどうなんだい?」
「どう、というのは?」
「付き合ってるのかい?」
「街道には一緒に行ったことがあります」
「道の話じゃないよ」
ベラが吹き出した。
「男と女として、だよ。好きだとか、そういうの」
ミラは水路の方へ目をやった。
レオンの部屋も、バルトの馬房も今は静かだった。
「レオンさんは大事な人です。でも、それがベラさんの言う好きなのかは、よく分かりません」
「じゃあ、結婚する気は?」
「考えたことがありませんでした」
「一緒に暮らして、帰ってくるのを待って、飯も一緒に食ってるのに?」
「それは、ベラさんとロアンさんともしています」
「そこへあたし達を足すんじゃないよ」
ベラは腹を抱えて笑った。
「でもまあ、今すぐ答えがなくてもいいさ。気づいたときに考えればいい」
「ベラさんはどうなんですか?」
笑っていたベラの顔が止まった。
「何が?」
「好きな人です。私だけ聞かれるのは、少し不公平だと思います」
「反撃を覚えたね、あんた」
「ロアンさんに、音楽は必要だから始めなくてもいいと言われました。質問も、必要だからするものではないと思います」
「妙なところで応用するんじゃないよ」
ベラは頬杖をついた。
「今はいないね。前に何人か声を掛けられたことはあるけど、職業を見て火術師の仕事を手伝えとか、護衛に入れとか、そんなのが多かった。あたしは料理がしたかったから続かなかったよ」
「どんな人ならいいんですか?」
「作ったものをうまそうに食べる人は好きだね。あと、酒で仕事を潰さない人」
「キュウは、かなり条件に合っています」
「男の話だよ」
「でも、たくさん食べる男の子です」
「そこだけなら満点だね」
また二人で笑った。
「レオンさんは、ベラさんの料理をたくさん食べます」
「人の話を勝手につなげるんじゃないよ。あいつは雇い主」
「ロアンさんは?」
「もっとない」
「顔はきれいだと思います」
「顔と歌だけならね。付き合ったあと毎朝起こして、酒代を取り上げて、借金の返済日を覚えさせるところまで想像してみな。恋が三日で仕事になるよ」
「それは大変そうです」
「だろ?」
ベラは勝ち誇ったように言った。
そこから、どんな人が格好いいと思うか、背が高い方がいいのか、料理を残さない方がいいのか、歌が上手い男と静かな男ならどちらが疲れないか、と話はどうでもいい方へ伸びていった。
ミラは、こういう話を誰かとしたことがなかった。
共同寮では三十二人もいたのに、朝から仕事の割り振りがあり、遅れれば誰かの負担になる。誰が誰を好きだという噂を耳にすることはあっても、自分のこととして聞かれたことはない。
だからベラが笑いながら否定したり、少しだけ同意したりするたび、答えを考えるのが妙に楽しかった。
先に豆のことを思い出したのは、ベラだった。
「……あ」
「どうしました?」
「豆」
二人で厨房へ戻ると、朝に魔力泉の水へ浸した豆は、皮が破れるどころではなかった。いくつもの豆から、白い根が伸びている。
ベラは鉢を持ち上げ、帰り火の明かりへ近づけて何度も中を覗いた。
「待ちな。これ、いつ入れた?」
「朝食のあとです。ベラさんが、私とレオンさんが付き合っているのかと聞くより、かなり前です」
「時間の測り方が最悪だね。そうじゃなくて、まだ半日も経ってないだろ」
「はい」
「豆はこんな早く芽を出さないよ」
ベラは一本だけ指先でつまみ、白い根を見た。
「でも、昨日までの豆は芽が出ませんでした」
「夜に洞窟の中で浸して、朝には火へ掛けてたからね。今日は日向へ出した。でも、温かいところへ置いただけで数時間で根が出るわけもない」
ベラは鉢の水を指先ですくった。
「この水と日向が重なったせいか、それとも水だけでこうなるのか。どっちにしても、土へ入れたら分かることが増えそうだね」
ミラは根の出た豆を見た。
「植えてみますか?」
「やろう。ただし灰も何も入れないよ。この水と普通の土だけで見たい。いろいろ混ぜたら、何が効いたか分からなくなる」
二人は窪地の陽が当たる場所を選び、柔らかい土を小さく掘った。
発芽した豆をいくつか並べ、土を戻し、魔力泉の水だけをかける。目印に細い枝を一本立てた。
昼を少し過ぎたころ、最初の芽が土を押し上げた。
「出ました」
「朝、水に入れた豆だよね?」
「はい」
「分かってるけど、聞きたくなっちまったよ」
一刻ほどして見に行くと、芽は指の長さほどになっていた。さらに時間が経つと茎が伸びて葉が開き、ベラは厨房と畑を何度も往復して、そのたびに腰へ手を当てた。
「また伸びてる」
「さっきは、この枝の半分くらいでした」
「今は越えてるよ。見てる間に育ってるって言ったら大げさだけど、飯を一つ作って戻るたびに違う」
夕方には、朝に乾燥豆だったとは思えないほど青い茎が立ち、何枚もの葉を広げていた。
まだ実は付いていなかったが、それでも異常だと分かるには十分だった。
「明日、レオンに見せよう」
「驚きますかね?」
「これ見て驚かなかったら、あいつの眉毛を引っ張ってでも驚かせるよ」
◇
翌日の午前、ミラは窪地で豆を見ていた。
一晩でさらに伸びた茎は、そろそろ何かへ絡ませた方がよさそうな高さになっている。ベラは朝から支えに使える枝を探していた。
キュウが葉へ鼻を近づけたので、ミラが身体を入れる。
「これはまだ食べないでください」
「きゅう」
「ベラさんが怖いので、やめた方がいいですよ」
「聞こえてるよ」
洞窟の入口からベラの声がした。
その直後、帰り火が強く揺れた。
ミラが振り返る。
橙色の光が窪地の一角へ広がり、空気の向こうに輪郭が浮かんだ。最初に鹿毛のバルト、その後ろに二輪荷車、長身のレオンと栗色の長髪を結んだロアンが現れる。
荷車には布を掛けた籠や壺、種袋、それに根を湿った布で包んだ苗木が積まれていた。
「お帰りなさい」
「ただいま」
レオンはまずバルトの様子を確かめ、次に荷車へ手を掛けた。
「南橋は直ってた。青魔鉄は二袋で銀貨二十枚。前の二十八枚は、やっぱり品薄の値段だ。買い物も帳面の範囲に収めた。ロアンが荷を見てくれたから、店を回るのも早く済んだよ」
ロアンが荷車の横から続ける。
「それから、東門の外まで回って《帰還》した。少なくともベルクの東側までは届くみたいだよ。僕も荷車も苗木も、今のところ欠けてない」
「よかったです。苗木もちゃんと着いていますね」
「葉物は傷みやすいから先に下ろすぞ。種と苗はそのあとだ」
レオンが布をめくろうとすると、ミラは袖を引いた。
「レオンさん。それより、先に見てほしいものがあります」
「生ものより先か?」
「たぶん、その生ものに関係があります」
ベラも腕を組んで頷いた。
「いいから来な。昨日から、あたし達も自分の目を疑ってるんだよ」
レオンとロアンを、窪地の陽当たりへ連れていく。
青い豆の茎を見て、ロアンが首を傾げた。
「こんなの、出る前からあったっけ?」
「昨日植えました」
ミラが答えると、レオンの視線が豆からミラへ移った。
「昨日?」
「昨日の昼過ぎです。朝に水へ浸したら数時間で芽が出たので、植えてみました」
ベラが根元を指した。
「水は魔力泉だけ。肥料も入れてない。それで夕方には葉が開いて、一晩でこれだよ」
レオンはしゃがみ込み、茎と土を確かめたあと、荷車へ視線を移した。荷台には野菜の種、種芋、香草の種、根を包んだ苗木が積まれている。
レオンがもう一度豆へ目を戻したところで、ロアンが先に笑った。
「ずいぶんいい日に、種を買ってきたね」
レオンは少し黙ったあと、立ち上がった。
「……買ってきたもの、全部試すぞ」
ベラとロアンには部屋ができ、畑には妙に元気な芽が出ました。
人も作物も増えてきた洞窟は、まだまだ変わっていきます。
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